ジャカトラ通り 西祥郎作

この分は著者自身のホームページに掲載されていたものを読みやすいように著者の許可を得てまとめて転載したものである。
日付は初出の日を意味する。

「ジャカトラ通り(1)」(2018年05月14日)

1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路は、バタヴィア城市南側のプチナンから南東におよそ2キロ離れた場所に設けられたジャカトラ要塞(Fort Jacarta Buiten Batavia)とメステル・コルネリスを結ぶ形で作られた。ただし北端はアンチョル海岸まで伸ばされている。
1660年ごろのバタヴィア城市とその周辺地域の地図を見ると、要塞(fort)の区分に属する大型防衛陣地で城市の外に出城として設けられたものには、次のようなものが見られる。

東方 アンチョル要塞 (Fort Ansjol) 1656年完成
バタヴィア城市東側城壁から東へ3.4キロ。現在のブンヤミンスエブ通り(Jl Benyamin Sueb)がアンチョル川を越えてロダンラヤ通り(Jl Lodan Raya)に合流する地点

南東 ジャカトラ要塞 (Fort Iacatara Buiten Batavia)
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で2キロ。現在のパゲランジャヤカルタ通り(Jl Pangeran Jayakarta)とグヌンサハリラヤ通り(Jl Gunung Sahari Raya)の合流点

南方東側 ノルドウエイク要塞 (Fort Nortwyck) 1658年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で4キロ。現在の国鉄ジュアンダ駅の東側にある、ヴェテラン通り(Jl Veteran)に面した建物の位置

南方 レイスウエイク要塞 (Fort Ryswyck) 1656年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で3.5キロ。現在のハルモニ交差点西側にあるイスタナハルモニ(Istana Harmoni)アパートメントのすぐ北側

西方 フェイフック要塞 (Fort Vijfhoek) 1657年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で2キロ。位置は現在のトゥバグスアンケ通り(Jl Pangeran Tubagus Angke)の北にある運河(旧名Bacherachtsgracht)とクルクッ川(Kali Krukut)の合流地点と説明されているのだが、地図を見ると現在のクルクッ川よりずっと西にあって合流する水路などない場所になっている。川の位置が変わった可能性を考慮して、地図の方を参照した。

更に西方 アンケ要塞 (Fort Ancke) 1657年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で4.4キロ。アンケ川(Kali Angke)とアンケ水路(Saluran Angke)の分岐地点

それらの要塞はすべてバタヴィア城市と道路や運河で繋がっていて、要塞への増援や要塞からの撤退の便が確保されている。加えて砦(bastion)に区分される小規模防衛拠点があちこちに無数に配置されていた。初期のバタヴィア城市の防衛ライン構想はそのようなものだったらしい。[ 続く ]

「ジャカトラ通り(2)」(2018年05月15日)

1628年1629年のマタラム王国軍バタヴィア進攻の際に攻撃の矢面に立たされたホランディア要塞はそのバスティオンに区分されている。ホランディア砦が作られたのは1627年だ。
1628年1629年のマタラム王国軍バタヴィア進攻の状況については、拙作「バタヴィア港」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html >の中で述べた。バタヴィア城市設立以来はじめての存亡の危機を迎えたそのとき、上に述べた要塞はまだ存在していなかった。設けられたのはそれから二十数年経過した時期であり、つまりはそのころ再び防衛態勢を強化する状況にバタヴィアは直面していたということにちがいない。それは一体何だったのだろうか?
スルタン国「バンテン」の生い立ちは、拙作「バタヴィア港」で触れた。VOCがバンテンの属領であるジャヤカルタを奪ってジャワ島における足場固めを行い、同時にそこを基地にして東は日本から西は喜望峰までの地域を自己の商圏として通商活動に邁進している間、バンテン王国はVOCの威勢に押されながらもコショウを中心とするスパイス取引の市場としての機能を維持していた。
当時の経済競争が力ずくであったことは、数ある歴史の書物の中にあからさまに描かれている。バタヴィア側はバンテンの通商を、海上封鎖する方法で妨害した。バンテンから商品購入をする者はバタヴィアに来い、という態度だ。
バンテン側がそのような妨害や圧力を跳ね返すには、力で対抗せざるを得ない。国力の充実による軍備拡張と有能な国家指導者の出現なくしては、そのような力は雲の上の月でしかなく、得られなければ行き着くところは枯渇と崩壊であり、外敵の跳梁と蹂躙が結末となる。

1651年に期待されていた指導者がバンテンに出現した。第6代目のスルタン位に就いたスルタン・アグン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)の時代を歴史家は、バンテン王国の黄金時代だったと評価している。
スルタン・アグン・ティルタヤサは軍制改革を行ってヨーロッパ級の軍船団を持ち、多数のヨーロッパ人を雇い入れて軍隊を強化した。ランプンの王国はバンテンがイスラム化した初期の時代から服属させていたが、スルタン・アグン・ティルタヤサは強化した軍事力で西カリマンタンのタンジュンプラ(Tanjungpura)王国を攻めて1661年に征服している。バタヴィアがその脅威に手をこまねいていたはずがない。防衛力強化に急遽着手したのは当然だろう。
軍事力が強化されたバンテンが宿敵バタヴィアに対して攻勢に出たことも理の当然だったにちがいない。その時代に宣戦布告などは無用のことがらであり、力がすべてを決めていたのだから、劣勢を覆そうとしてバンテンの武装兵やゲリラグループがバタヴィア側を襲撃することは頻繁に起こっていたようだ。
VOCがジャヤカルタを奪ったころ、ジャヤカルタの周辺沿岸部から内陸部にかけて、つまり西ジャワ地方はすべてバンテン王国の領地になっていたのである。それがバンテンの直領かジャヤカルタ領かの違いがあったとしてもだ。ジャヤカルタの王族貴族がジャティヌガラに逃れたのは、そこがジャヤカルタにもっとも近い拠点のひとつだったことに加えて、バンテン側の王族でそこに関りを持つ階層も存在していたからだ。[ 続く ]

「ジャカトラ通り(3)」(2018年05月16日)

ジャティヌガラがメステルコルネリスの名前でバタヴィア領としての位置付けを深めるようになれば、優先度の高い攻撃対象に置かれることは間違いがあるまい。メステルコルネリス要塞が完成したのは1734年だが、要塞になる前はそこにメステル守備軍の住居や施設が置かれていたらしく、その土地の地名がBukit Duriになっているのは、バンテン王国からのゲリラ部隊の襲撃に対する防御として、地区一帯を鉄条網で覆ったことに由来しているとの話だった。
スルタン・アグン・ティルタヤサは1683年まで王位にあったが、1680年を過ぎたころから長男のパゲラン・ダマル(Pangeran Damar)を筆頭に29人の王子王女を持ったかれを悲運が襲い、この英傑の晩年を暗いものにしてしまった。父子の意見の相違からパゲラン・ダマルが父スルタンを王位から追放しようとしてVOCと手を結んだのである。
VOCがバンテンを骨抜きにしようとして、その王宮に見えない糸を深くからみこませていたのは言うまでもあるまい。VOCはランプンの支配権を代償にして、パゲラン・ダマルに軍事支援を与えた。後にスルタン・ハジ(Sultan Haji)の呼び名で定着しているため、ここからパゲラン・ダマルをスルタン・ハジと呼ぶことにする。

スルタン・アグン・ティルタヤサとその味方に着いた王子たちに対して、スルタン・ハジとVOCの連合軍が軍事行動を開始する。王宮から逃れたスルタン・アグン・ティルタヤサの側は新たな宮殿を設けてそこをティルタヤサと名付けた。一方、従来のスロソワン王宮でスルタン・ハジが即位する。
両者の間で戦争状態は継続し、1682年12月28日にティルタヤサ王宮はスルタン・ハジとVOC連合軍によって陥落した。スルタン・アグン・ティルタヤサと王子たちは西ジャワ内陸部に逃れて徹底抗戦を図ったものの、スルタン・アグン・ティルタヤサは1983年3月14日に捕らえられてバタヴィアに送られ、幽閉された。

父スルタンを支援して戦ってきたパゲラン・プルバヤ(Pangeran Purbaya)とシェッ・ユスフ(Syekh Yusuf)の軍勢を掃討して叛乱首謀者を捕らえるために、スルタン・ハジとVOCはその任務をバリ人のウントゥン・スロパティ(Untung Suropati)中尉麾下のバリ人部隊およびヨハネス・モーリッツ・ファン・ハッペル(Johannes Maurits van Happel)中尉率いるヨーロッパ人部隊に与えた。
この部隊は1683年12月14日にシェッ・ユスフの支配下にある地区を制圧してシェッ・ユスフを捕らえた。状況がますます不利になって来たパゲラン・プルバヤはついに降伏を決意する。パゲラン・プルバヤは条件を出した。グデ(Gede)山に潜んでいる自分を迎えに来てバタヴィアへ護送するのは、プリブミ将校に率いられたプリブミ部隊でなければならない。[ 続く ]

「ジャカトラ通り(4)」(2018年05月17日)

ウントゥン・スロパティの部隊にヨハン・ライシュ(Johan Ruisj)大尉から、パゲラン・プルバヤを捕らえてバタヴィアに護送する任務が命じられた。ところがバタヴィアへ向かう途上で、バリ人部隊はウィレム・クフラー(Willem Kuffeler)麾下の部隊に行く手を阻まれたのである。
捕虜の引き渡しを要求されたウントゥンは、相手がヨーロッパ人だったために仕方なく従ったところ、パゲラン・プルバヤの取り扱いがあまりにも非人道的であるのを目にしたウントゥンがクフラーに怒りを燃え上がらせた。ウントゥンの部隊はパゲラン・プルバヤを保護しようとしてクフラー部隊に挑みかかる。そして1684年1月28日にチカロン(Cikalong)川でクフラー部隊を壊滅させた。こうしてウントゥン部隊は、反乱軍としてVOC軍のお尋ね者になってしまうのである。
このウントゥン・スロパティの物語はこれから佳境に入るのだが、この先は別の機会に譲ることにしよう。

スルタン・ハジを掌中に握ったVOCがバンテン王国を属国の位置に落とし込むのに、もはや苦労はなかった。1684年にバンテンの通商権をVOCが一手に代行する条約が結ばれている。加えて、スルタン即位の承認もVOCが与えることが慣習化したのである。
オランダ人に鼻先を引きずり回されてもおとなしくしていたそんなバンテン王国にも1808年に最期が訪れた。ナポレオン・ボナパルトに服属したオランダ本国から、ダンデルス(Herman Willem Daendels)が第37代総督としてジャワ島に赴任してきたのである。
ナポレオンが最大の敵と認めていたイギリスのジャワ島占領を阻止することがダンデルスに与えられた究極の使命だった。ダンデルスはジャワ島の軍事体制を大改造するために大車輪の動きを始めた。
そのひとつがジャワ島西端にあってスンダ海峡に面したアニェル(Anyer)からジャワ島東端バニュワギに近いジャワ海沿岸にあるシトゥボンドのパナルカン(Panarukan)に至る1千キロ超の軍用道路建設である。わずか一年間で完成させたその突貫工事で、駆りだされた原住民の間に多数の死者が出たことから、インドネシアの国史に悪逆非道の烙印がダンデルスの名に冠させる結果を招くことになった。ところが、その大郵便道路(De Groote Postweg)と名付けられた幹線道路はいまだにジャワ島の経済大動脈として機能しており、われわれはそこに歴史の皮肉を感じ取ることになるのである。[ 続く ]

「ジャカトラ通り(5)」(2018年05月18日)

大郵便道路はアニェルからバンテンの王都を通過してバタヴィアへ向かう。ダンデルスはそれを機会と見て、バンテン王国の首都をアニェルに移し、ウジュンクロン(Ujung Kulon)に港を建設するようバンテンのスルタンに命じた。バンテンの都を明け渡させることがかれの本意だったようだ。
スルタンは王都の移転を拒んだ。そうなれば、あとは力ずくで本意を実現させるだけだ。ダンデルス総督は、バンテンの王都を攻略してスロソワン宮殿(Istana Surosowan)を破壊せよと軍に命じた。
その通りのことが実行されて、スルタン一族は捕らえられてバンテンに建てられているスピルウエイク(Speelwijk)要塞に幽閉され、後になってバタヴィアへ流罪にされて監視下の一生を送ることになった。1808年11月22日、ダンデルスはバンテン王国領がオランダ東インド政府の直轄領となったことを発表した。
そのスピルウエイク要塞はスルタン・ハジを掌中に握ったVOCが、軍事上の要としてバンテンの王都の外に建設したものだ。工事は1682年に着手されて1686年に完成している。
但し、バンテンのスルタン側がダンデルスの仕打ちを諾々と受け入れたわけでもない。ただ一時的に暴力に屈しているだけであって、スルタンの廃位を承服したわけではないからだ。最終的にそれを承服させたのは、ジャワ島がイギリスに占領統治されていた時期に統治権をふるったラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)だった。バンテン王国は1813年にその歴史を閉じた。

ジャカトラ要塞が建てられたとき、バタヴィア城市の壁の外側を囲んでいる濠の岸にできた道の東南角からジャカトラ要塞までの道路が整備されて、ジャカトラ通り(Jacatraweg)と名付けられた。今のジャヤカルタ王子通り(Jl Pangeran Jayakarta)だ。
最初はプチナンの住民たちが東南方向へ向かうための踏み分け道だったのだろうが、チリウン川の流れに沿ったその道の便の良さが幸いしたにちがいない。もともとこの道路と濠岸の道の延長線が交差する地点の東南角に掘立小屋がひとつあった。スンダクラパ時代にこの地を訪れたポルトガル人が設けたもので、立ち寄るポルトガル船の船員たちがカソリックの教会として使っていた。
初期のバタヴィアでは、街の建設と種々の仕事に必要な労働力をポルトガル人がアジア各地に作ったメスティーソで満たそうと考えて、かれらをバタヴィアに連れてきた。ところが、華人の勤勉さと仕事の質の高さに気付いたバタヴィア上層部は、その方針をころりと変えて華人を重用するように変わってしまったのである。[ 続く ]

「ジャカトラ通り(6)」(2018年05月21日)

華人がオランダ人のお気に入りになったことは、華人社会を統率するカピテンチナの初代を務めたソウ・ベンコン(Souw Beng Kong)がバタヴィア上層部から優遇されていたことや、ハヤムルッ(Jl Hayam Wuruk)とガジャマダ(Jl Gajah Mada)のニ路にはさまれたモーレンフリート(Molenvliet)運河の建設を第二代カピテンチナのポア・ビンアム(Phoa Bing Am)に請け負わせたことなどの点に見ることができる。モーレンフリートは1648年に完成した。

だが、自分はヨーロッパ人だと思っているポルトガル系メスティーソは大勢が既にバタヴィア住民になっており、かれらの宗教生活がいつまでも掘立小屋をベースにしているのではみっともない、という感情がオランダ人の胸にも湧いたにちがいない。
ピーテル・ファン・ホールン(Pieter van Hoorn)の肝いりで1693年に掘立小屋の建て直しが開始されて、1695年に完成した。このピーテル・ファン・ホールンは明との交易を望んだVOCが交易使節として明の宮廷に派遣した人物であり、初期のバタヴィアでかれは要人のひとりだったということだ。
かれは第二代総督ヘラール・レインスト(Gerard Reynst)の孫娘を妻にし、息子のひとりヨーン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)は第17代総督になっている。
オランダ人は建て直された教会をPortugeesche Buitenkerk(城外ポルトガル教会)と呼んだが、現在はGereja Portugisという名称よりも、むしろGereja Sionという名前で通っている。このグレジャシオンは今日でもまだ教会として使われており、三百年を超える長年月の間、同じ目的のために使われ続けてきたジャカルタで数少ない建物のひとつになっている。 

全長2.4キロほどのこのジャカトラ通りのちょうど中間地点あたりにバタヴィア初の華人墓地が作られた。南からマンガブサール13通りが突き当たってくるエリアで、道路の北側だ。この墓地にプチナンを統括する統領として指名された初代カピテンチナのソウ・ベンコン(Souw Beng Kong)も葬られた。と言うよりも、ソウ・ベンコンを葬るために墓地が作られたという方が当たっているようだ。
ソウ・ベンコンが没したのは1644年であり、かれはバタヴィア城市南城壁外のプチナンの秩序と治安の確立に大きく貢献したことから、バタヴィア上層部からジャカトラ通り中ほどに広大な邸宅を与えられており、その家で没したかれを葬るために急遽広大な庭の一部に墓を設けたという説がある。その後1650年ごろから、ソウ・ベンコンの墓所周辺に華人社会の有力者たちの墓が作られて華人墓地になっていったそうだ。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(7)」(2018年05月22日)

ところがもうひとつの説によれば、ソウ・ベンコンの邸宅はバタヴィア城市内のテイヘルスフラフツ(Tijgersgracht 今のJl Pos Kota)にあり、かれはそこで没したとのことで、遺族はかれの個人所有になるヤシ農園(広さ2万平米)にかれの墓を設けたという話になっている。その墓の周囲においおい華人社会有力者の墓が増えて行ったストーリーは同じだ。
ソウ・ベンコンの墓は今現在もジャヤカルタ通りの中間地点北側に存在しており、1644年にそこに豪壮な邸宅が存在したのか、それとも広大なヤシ農園だったのかははっきりしない。
ただ上の二説の蓋然性を検討してみるなら、VOC上層部との密接なコンタクトを必要とするカピテンチナであれば城市内に居住するほうが自然であるようにわたしには思われる。だとするなら、1640年代のジャヤカルタ通りは人家のまばらな、広大なヤシ農園のある、まだまだ市街地化からはほど遠い状況だったように思われる。
この通りの周辺に豪壮な邸宅が並び、ヒーレンウエフ(heerenweg 貴顕通り)と呼ばれるようになるのはもっと後の時代だったのではないだろうか。その年代がいつごろだったかはさておいて、1733年から始まるバタヴィア城市内の病死禍が華麗な住宅地となったジャカトラ通りをも襲ったことは想像に余りある。豪壮な館の主たちは一族郎党を引き連れてもっと南東のグヌンサハリ通りや南西のモーレンフリート沿いに移って行った。
ジャヤカルタ通りが現在われわれの目に映っている「半ばスラム化した街区」と化していくのは、はたしてそれが発端だったのだろうか?

ジャヤカルタ通り北端からグレジャシオンに沿って下ると、すぐ南側に自動車のショールームがあって、道路は東南向きに角度を変える。ヒーレンウエフと呼ばれた時代には、そのショールームのある付近にも、ヒーレンの名前にふさわしい豪壮な邸宅が建っていた。
グレジャシオンから一軒おいた、通り北端から三番目の邸宅に、当時権勢を誇ったバタヴィアの名士で巨大な財産を誇る一家が大勢の奴隷や使用人にかしずかれて住んでいた。父親はドイツ人で、その名をピーテル・エルベルフェルト(Pieter Elberfelt)と言い、かれは自分の姓をよくエルフェルト(Ervelt)と縮めて書いた。
その家には欧亜混血の息子がおり、子供の母親はシャム人で、その子はセイロンで生まれた。生まれたのは多分1660年代半ばごろだったようだ。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(8)」(2018年05月23日)

その時代、VOC駐在員にとって結婚はたいへん困難であり、アジア人女性をニャイにする習慣は既に行われていたが、ニャイを連れて旅したり転勤することなどもってのほかであったことから、その欧亜混血の息子の生母がバタヴィアの邸宅で一緒に暮らしたかどうかは可能性が薄いように思われる。
たとえそうであっても、幼い子供を世話する女性が必要とされたのは間違いがなく、バタヴィアではジャワ人女性が母親代わりを務めた可能性が高い。母はジャワ人だったというインドネシア人歴史家の説があるのだが、公的機関が出している情報はシャム人女性で統一されているので、それに従っておくことにする。

もともとピーテル・エルフェルトはドイツで皮加工職人をしており、VOCに雇用されてアジアに派遣された。いつからバタヴィアに住むようになったのかについては詳しい資料が見つからないが、VOCの職務から離れたかれはバタヴィアで最高参事会(Collage van Heemraad en Schepenen)副議長を務めたことがあるようだ。有能で裕福な人物がジャカトラ通り北部に邸宅を構えたのは、そのあたりの格式に則したものだったにちがいない。
息子の欧亜混血者は父親と同じ名前を与えられた。そのピーテル・エルベルフェルト(Pieter Erbelveld)ジュニアが没した父に替わってその家の主になったのがいつのことなのか、それもよくわからない。ともかくかれは、ヨーロッパ人であることを証明するエルベルフェルトの姓と、父が築いた財産そして社会的名声を相続した。かれは良家の娘を妻にしている。良家の娘という表現はヨーロッパ系の家庭を意味するのが普通だ。
そうやって歩み始めた平穏な暮らしから、かれは突然奈落の底へ突き落されることになる。
父から受け継いだポンドッバンブ(Pondok Bambu)の数百ヘクタールの土地を1708年にバタヴィア政庁に没収されたのである。公証人による土地譲渡証書が作られていないため公認されたものでないと判断される、というのがその理由だったが、第17代総督ヨーン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)がその土地を手に入れたいために起こしたことだと言われている。それに追い打ちをかけて、無許可の土地を勝手に使用していたのだから、稲束3千3百本を罰金として納めよとの命令が加えられた。
その仕打ちに強い抗議を表明したピーテルに対してバタヴィア上層部側は、その不遜さに嫌悪の情を抱いた。世の中は鏡である。自分が相手に対して抱く感情は、相手の心理に潜入して相手の感情を同じものに変えて行くのだ。
オランダ人に対する深い憎しみがピーテルの内面に沈潜した。プリブミ社会はピーテルに同情した。プリブミ社会で人気が高まるピーテルにオランダ人社会の嫌悪感が強まっていく。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(9)」(2018年05月24日)

エルベルフェルトの綴りは数種あって、ウィキペディアではErberveld、インドネシアの諸文献ではErbelveld、あるいは古い文献の中にEberfeldも見られ、また碑文博物館に設置されている布告の銘板にはElberveldと書かれており、何を真とすればよいのかわからない。
真は本人が主張する綴りのはずであり、バタヴィア上層部が作らせた碑文博物館の銘板がそれと一致させて書かれたかどうかは、かれらがピーテルをどのように扱ったかを見る限り、最低限のリスペクトすら与えた印象が持てないことから、確信を抱くことができないのである。
かれはヨーロッパ人社会との交流を嫌うようになり、プリブミ社会とのつながりを深めて行った。ジャワ島のプリブミ社会がイスラムという文化面の絆を核の一つにしていることから、本当にプリブミ社会に没入するのであればそれを避けて通ることはできない。
もともとアジア人である生母と養母から植え付けられたアジア式行動習慣や感覚に従って、かれはプリブミたちと親しい関係を築いてきた。かれが父親から受け継いだヨーロッパ人としての自分の一部は、バタヴィアのオランダ人が示した汚さ・残酷さが醜い物に変えてしまった。醜悪な部分を振り捨てるならば、できた空白にアジア的なものが滔々と流れ込んで行くはずだ。アジアにいるかぎり、その現象は容易に起こりうるのである。プリブミ社会に全身を浸すことを選んだピーテルの「わたしはムスリムだ。」という宣言は、かれの周囲にいたプリブミたちに喝采で迎えられた。

VOCのオランダ人上層部は最初からプリブミを劣等視し、純血オランダ人(あるいはヨーロッパ系白人)がプリブミ女性に産ませた子供をも劣等視した。その観念は何百年にもわたって維持され、プリブミの母から生まれたオランダ人高官の息子は、可能な限り出生の事情を濁した上、オランダ本国で高等教育を受けて、あたかも純血オランダ人のように東インドにやってきて統治体制内の高官職に就くのを常識としたのだった。
ヨーロッパ人社会から離れているピーテルをバタヴィア市政上層部がどのような目で見ていたのかは想像に余りあるだろう。わたしには、ピーテル・エルベルフェルト事件の本質がそこにあるような気がしてならない。
プリブミ社会にのめり込んで行くピーテルに、世の中の注目が集まる。そしてピーテルの攻撃的な性格が、プリブミ不平分子をマグネットのように吸い寄せる結果になった。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(10)」(2018年05月25日)

バンテンにしろマタラムにしろ、王族貴族の中に不平分子は事欠かない。折々のメインストリームから排除されたひとびとが、今の支配者に取って代わることを念願するのは自然なことだ。だがジャワ島内の王宮はいずこも、バタヴィアのVOCが後ろ盾になっている。
今の支配者を倒すためには、もう一段上に上がってバタヴィアVOCを同時に潰滅させなければ、目論見は成功しない。もう一段上の立場で全方面の闘争を統括する人間が必要になってくる。それぞれが自己中心的に行動するプリブミをまとめるにふさわしいその人間がピーテルだとかれらは見たのである。
ジャワ島にいるすべてのヨーロッパ人を皆殺しにしてバタヴィアVOCを壊滅させ、その傀儡としてバックアップされているプリブミ王朝も全廃させる。ピーテルを首魁とするプリブミの王道楽土を作ることが、かれらの目標に置かれた。

ピーテルをビンハミッビンアブドゥルシェイクアルイスラム(Bin Hamid bin Abdul Syeikh al Islam)なる称号のジャワ島の統領として担ぎ、バンテン・マタラム・チレボンなどの諸王国のスルタンに反主流派のリーダーがとって替わるというこの構想の肉付けを行ったラデン・アテン・カルタドリヤ(Raden Ateng Kartadriya)がピーテルの懐刀として一斉蜂起の準備を進めた。
一説ではスナン・カリジャガの血を引く中部ジャワ出身のカルタドリヤだが、別の説によればバンテンスルタン国の王族だとなっている。ともあれかれは各地の不平分子と連絡を取るとともに、バタヴィアVOC軍の一部をなしているプリブミ部隊をも一斉蜂起に巻き込むべく動いた。かれが集めた戦力と同志のマジャ・プラガ、ライジャガ、アンサ・ティストラ、ハジ・アバス、ワンサ・スタたちの軍勢を合計すると1万7千人になる。ピーテルは自分の金を1万7千人に軍資金として分配させたが、それで金蔵が寂しくなるようなかれの財力ではなかった。

蜂起計画は既に出来上がっていた。大晦日の夜が過ぎて元旦の夜明けを期に、バタヴィア城市に討ち入って、オランダ人や他のヨーロッパ人を皆殺しにするのである。大晦日の夜には、オランダ人たちはパーティで底抜けに愉しみ、酒を飲んで酔っ払い、明け方になって床に就く。そこが付け目だ。城市の大門とカスティルの門も明け方には内側から開かれる手はずが整えられている。
ところがこの緻密に練り上げられた蜂起が失敗してしまった。事前に情報が洩れて、蜂起の直前に首謀者たちが全員逮捕されてしまうのである。情報がどのようにして洩れたのかについては、いくつかの説がある。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(11)」(2018年05月28日)

何十年か昔には、このようなストーリーが語られていた。ピーテルにはミーダ(Meede)というヨーロッパ人の妻との間にできた娘がいて、この娘はバタヴィア防衛軍の士官と恋仲になっていたが、ピーテルはヨーロッパ人を嫌うあまりその仲を祝福しようとしない。ミーダが自分の将来を思い煩って眠れない夜を過ごしているとき、庭の暗がりの中で何人もの人影が家の裏手へ向かっているのに気付いた。ミーダは父親に知らせようと急いで父親の寝室へ行ったが、ベッドはもぬけの殻。父親を捜して邸内を周っているとき、裏庭に面した奥の部屋で押し殺したような人の声がした。ミーダは足音をしのばせてその方へ向かう。その部屋では父親が十数人のプリブミたちと歓談していた。中へ入るに入れず、部屋の外で中の会話を聞いていたミーダの顔色が変わった。「オランダ人を皆殺しにする」などという言葉が聞こえたからだ。父親とプリブミの友人たちが何を計画しているのかを知ったミーダは、翌朝が待ちきれなかった。いつものように朝食を済ませてから、何事もなかったかのようにミーダは友人宅へ遊びに行くふりをして馬車を用意させ、家を出てから恋人のもとへ急いだ。ミーダから叛乱蜂起計画を聞いた恋人は、急いでバタヴィア防衛軍司令官に面会を申し込む。軍司令官は急遽、総督にその情報を報告した。そして1722年1月1日未明の逮捕劇がジャカトラウエフの豪邸で繰り広げられることになる。
ところが今そのストーリーをインターネットで探しても、見つけ出すのは一苦労になっている。現在有力なのは、密告者がピーテルの邸宅で使われていた奴隷男だったということで、これは華人ムラユ文学者ティオ・イェ・スイ(Tio Ie Soei)氏が1924年に発表した「ピーテル・エルベルフェルト〜ブタウィの一実話」と題する小説に描かれた内容と一致している。ティオ・イェ・スイ氏の著作は昔から語り継がれてきた数バージョンのひとつを自己の見解から小説にまとめあげたものであり、史実を踏まえながら創作されたものであるのは明らかだ。ティオ・イェ・スイ作のストーリーでは、ピーテルが奴隷女に産ませた娘サリナが父親の叛乱計画を知って苦悩する。サリナは母親と同様に奴隷の身分だが、ピーテルはサリナを愛して小さいころから大切に育ててきたありさまが小説に描かれている。サリナは自分の出生の秘密を知っており、いささか酷薄なピーテルに対しても父親への愛情を豊かに持っている。ただし、両親もサリナも他人にその秘密を隠そうと努めてきた。サリナという名前からして創作の匂いが芬々としてくるではないか。[ 続く ]


ジャカトラ通り(12)」(2018年05月30日)

ところが、このストーリーにはピーテルの妻もその妻が産んだであろう子供も出てこない。ピーテルがヨーロッパ人社会を憎んでムスリムとしてプリブミ社会に深入りすれば、ヨーロッパ人の妻と子供は居場所を失ってしまうにちがいない。そんな状況の中でかれらがピーテルの家で一緒に暮らすはずがないのは明らかだ。
ピーテルが蜂起計画を二年間かけて練り上げてきたという話に従うなら、二年あるいはもっと以前にヨーロッパ人の妻と妻の産んだ子供はピーテルに絶望してその家から去って行ったにちがいないと思われる。
オランダ人が奴隷女に産ませた子供でも、トアンが認知してヨーロッパ人としての一生を歩ませた例は無数に存在しているにもかかわらず、サリナをわが子として愛しんだピーテルがどうして娘を認知して奴隷身分から引き上げてやらなかったのかという疑問の答えを探すなら、やはりその辺りに答えが潜んでいるようにわたしには思えるのである。

さて物語は、1722年1月1日の夜明けを期して蜂起が実行に移されるという、その三日前の情景からスタートする。ラデン・カルタドリヤが手下を伴ってピーテルの家を訪れたとき、かれらの間で話されている内容をサリナがふと耳にして驚く。そのときサリナは、同じ奴隷の若者アリも隠れてその話に聞き耳を立てていることを知る。
アリはサリナを恋しており、かつてピーテルにサリナと結婚したいと願い出た時こっぴどく叱りつけられ、トアンに憎しみを抱いていた。ピーテルはサリナを奴隷男の妻にする気がなかったからだ。
だがアリはピーテルとサリナが親子の関係であることを知らず、他の奴隷には酷薄なトアンがサリナだけには異常に優しいことを疑い、嫉妬を抱いていた。
サリナはアリを憎からず思ってはいたが、アリがサリナを駆落ちに誘ったときに拒否し、自分がトアンを説得するまで辛抱してくれと頼んだ。それをアリは誤解し、恋敵のトアンに復讐するべく奴隷身分のまま主人の下から出奔する。
アリはバタヴィア防衛軍にトアンの叛乱蜂起計画を売り、バタヴィア防衛軍は1月1日未明に蜂起のためにピーテルの家に集まって来ていた反乱部隊指揮者たち18人をピーテルと共に一網打尽にするのである。

VOCの記録を読む限り、そのようなストーリーが浮かび上がってくるのだが、本当にそこまで煮詰められた蜂起計画があったのかどうかについて、疑う声がある。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(13)」(2018年05月31日)


文明からほど遠いアジア人との混血男で、しかも自らをプリブミとして生活していながら、父親が築いた財力で世の中に大きな顔を見せ、VOCに反抗している人間に対して、虫酸の走るオランダ人高官がいたことを誰も否定はできないだろう。そしてさらに大金持ちの混血プリブミ男からあれこれ簒奪しようとする陰謀が沸き起こってバタヴィア市政上層部を巻き込んでいけば、結末がどうなるかということは想像がつくに違いない。
このピーテル・エルベルフェルト事件を分析したオランダ人歴史家の中に何人も、文献の中に不一致がたくさん見つかっていてこの事件は不審な点が多いと表明しているひとたちがいる。

2008年のジャカルタ国際文学フェスティバルで第二位を受賞したデニー・プラボウォ(Deny Prabowo)氏の作品"Pieter Akan Mati Hari Ini" (今日ピーテルが死ぬ)では、この事件が仕組まれた冤罪だったのではないだろうかという視点からストーリーが語られている。
また1981年にジャカルタの全国ネットテレビがティオ氏の小説を元にテレビドラマを制作したあと、人類学者クンチョロニンラ(Koentjaraningrat)博士が当時の最高参事会副議長だったレイカート・ヒーレ(Reijkert Heere)の報告書をもとに内容が史実に異なる点を批判したことについてプラムディア・アナンタ・トゥル氏は、ティオ氏の作品に創造された人物が登場したかもしれないにせよ、数百年も昔の出来事について、ひとびとの記憶が途絶えていた時期もあり、この事件の内容が本当は何であったのかということは歴史的に確定したことがない、とコメントしている。
デニー・プラボウォ氏はそのレイカート・ヒーレこそが1718年から1725年まで第20代VOC総督を務めたヘンドリック・スワルデクロン (Hendrick Zwaardecroon)を後ろ盾に使ってピーテルを破滅させた首謀者ではないかという見方を示している。

1722年4月8日、最高参事会がピーテルとその一味の罪状と処刑を定めた。裁判所に委ねられなかったのはなぜなのだろうか?[ 続く ]


「ジャカトラ通り(14)」(2018年06月04日)

判決。市民ピーテル・エルベルフェルト、バタヴィア生まれ、父白人、母黒人、年齢58あるいは59歳。カルタドリヤ別名ラディン、カルタスラ出身ジャワ人。・・・・・・・

われわれ裁判官一同は汝らを死刑執行人に引き渡し、次の方法で処刑される。各々は十字架に縛り付けて右腕を斬り落とし、腕・脚・胸は焼けた金テコではさんで肉をバラバラにする。胴体は下から上に切り裂き、心臓を顔に投げつける。その後、首をはね、柱の上でさらし者にする。バラバラにされた身体は城市外に放置して野鳥の餌食とする。
死刑判決を受けた者は19人で、そのうちの3人は女性だったそうだ。ティオ・イェ・スイ氏の小説では、サリナの母がそのひとりで、かの女は絞首刑になったと記されている。サリナは逮捕されなかったが、一月後に貧民地区の小屋で世を去った。判決文にある残虐な処刑法が19人全員に適用されたのか、それともピーテルとカルタドリヤに対して行えば十分だったのか、その辺りの情報は手に入らない。

さまざまな記事を読むと、その処刑方法の中に、死刑囚の身体を4頭の馬に括り付け、馬を四方向に突っ走らせて身体を四つに引きちぎることが行われたと書かれているものに出くわすのだが、それが判決文の方法に追加されて行われたのか、判決文の方法を採らない者に適用されたのか、詳しい話は見つからない。
右腕がなくなっているのだから四頭の馬につなぐのは難しいだろうし、胴体が既に切り裂かれていれば、それを更に四分割することを処刑人が喜んで行ったとも思えない。その時代、処刑人はショーの花形だったのだから、奇妙な式次第を渡されて事務的に事を行ったとは考えにくいのである。
処刑が行われたのは1722年4月22日で、犯罪者の処刑は普通バタヴィア政庁舎前広場(今のジャカルタ歴史博物館前広場)で行われるにも関わらず、ピーテルとその一党の処刑はその後プチャクリッ(Pecah Kulit)と呼ばれるようになったジャカトラ通り南側の空き地で行われた。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(15)」(2018年06月05日)

プチャクリッという地名は、国鉄ジャヤカルタ駅の西側でチリウン川に至るまでの地区を指し、そこはピーテルの家から東におよそ4百メートル離れた場所だ。プチャクリッは日本語で「皮革を割る」意味であり、ピーテル一党の処刑方法がその名前の由来になったのか、それともピーテルの父親がその辺りで行っていたと思われる皮革加工事業に引っ掛けて名付けられたのか、はっきりしたことはわからない。
1970年代半ばごろ、わたしが初めてその言葉を耳にしたとき、たいへん異様な印象を受けたことを覚えている。後になってピーテル・エルベルフェルト事件に関わっていたことを知り、それを地名にしたひとびとの精神構造に首を傾げたものだ。

判決の後、ピーテルの邸宅は素早く処理が行われて、縁者がその資産を利用することができないように手が打たれた。邸宅庭園は取り壊されて塀に囲まれた空き地に変えられ、高さ2メートルのレンガ塀がその表門をぴっちりと塞いだ。
レンガ塀の正面には、「罰せられし反逆者ピーテル・エルベルフェルトの汚らわしき記憶のゆえに、この場所で建築し、作業し、レンガを積み、植樹することを今後永遠に禁止する。1722年4月14日バタヴィア」というバタヴィア政庁の布告をオランダ語とジャワ語で刻んだ銘板がはめこまれていた。
人間の頭蓋骨を串刺しにしてレンガ塀の上に埋め込まれた槍の穂先は、いつからあったのだろうか?4月14日からそれが既にあったのなら、その頭蓋骨はピーテルのものでない。
処刑が終わってから置かれたものなら、最初は本物のさらし首だったにちがいない。皮や肉がこそぎ落ちて頭蓋骨だけになるまで、どのくらいの年月が経過したのだろうか?もちろんわたしは、最初から模造品の頭蓋骨を付けて恥の壁が作られた可能性を否定するものではないが、その時代の人間の残虐さを思うなら、模造品などという面倒くさいことを考える人間がどれほどいたかというポイントから悲観的にならざるを得ないのである。
今ある串刺しにされた人間の頭蓋骨はギプスで作られたものだから、怖れるには及ばないが、最初からそうだったのかどうかについては何とも言えない。[ 続く ]


「ジャカトラ通り(終)」(2018年06月06日)

その恥の壁は日本軍が占領するまで、ピーテルの屋敷の表を塞いでいた。そして日本軍はその奇妙な記念碑を問答無用で破壊した。曰く因縁が何であれ、オランダ人が残したものはすべてぶち壊すのが方針だったのかもしれない。
1985年にその壁のレプリカは串刺しの頭蓋骨付きで碑文博物館に再現されたので、いつでも見に行くことができる。

今のジャヤカルタ通りR.W.06にラデン・アテン・カルタドリヤの墓所が設けられている。縁起譚によれば、ばらばらにされた遺体はプリブミたちが集めてどこかの一角に埋めたそうだ。
ピーテルの遺体だけは判決通りに野鳥に啄ませようとして、役人の目が厳しく光っていたのかもしれない。だからピーテルには、カルタドリヤのようなことが起こらなかったらしい。
ピーテル邸の表を塞いだ恥の壁をピーテルの墓と称している記事があれこれ見つかるのだが、頭蓋骨(あるいは本人のさらし首)を上に飾った碑を墓と呼ぶ感覚はわれわれにピンと来ないものだ。

カルタドリヤの墓所には、土の付着した大きな石が数個、白い布に包まれて置かれているだけだ。ここへ参詣に来るひとたちも決して少なくないという話だった。
[ 完 ]

作成 2019/09/08

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