友人たちの論文集

庵浪人作品集
第8話 雲に隠された小島

 長くここに住まわせてもらっているいまでは、目を閉じて想いを馳せなくても、インドネシアは現代と神話が奇妙に共存しているように感じられます。

 ビジネスマンと観光客を満載して南下するガルーダジェットの雲の下には、ボルネオの広大なジャングルが広がり、吹矢を手にしたダヤク族が貴方を見上げているでしょう。

 折りにふれて本を漁ったり、人から聞いたり、噂の類も大切に、あったこと、あり得る事などを混ぜ合わせて書いてみました。お気に召しますかどうか。

 ご承知のように、ローニン二世号はまだ製図板の中にしか存在せず、カマダ君はカローラに乗って輸出に大忙し、シロットは盗品故売でブタ箱にいると聞きました。
 しかし私はいつかきっと、カステール村のゴンザレス氏に逢うことが叶うと信じています。

 お国は今中秋の明月とか、兎が餅をついていると昔は教えられたものでしたが、、、。


庵 浪郎 (いおりなみお)
Jakarta Sep. 1990.

Those islands..., you couldn't see them in a lifetime, not in two lives, some are great countries and some are three coconuts and ocean is full of them.   
They are like stars in the sky, there's thousands of them.
Tidemark by .M.Thomlinson
 インドネシアの東に広がるバンダ海、マルクの故郷 香料諸島、、、
 遥かな昔、誰もみたことも無い木の実を、誰かが西洋に運んだ。得も云われぬこの香りに人々は狂った。
 当てにならない勇気を支えに、幸運だけを頼りにした一握りの男達が信じられない苦難の末この海に乗り入れ、目指す宝をその眼で見た。
 16世紀、向こう見ずな勇者とならず者のイベリア人が270人、5隻のキャラック帆船で波涛の彼方にあるとゆうスパイスアイランドを目指した。
 そして三年半、亡者のような姿でリスボンに帰り着いた時には、生き残り18人とバハル(一トン)の香りも飛んだナツメグとチェンケ の実だった。
−フェルナド マジェラン隊−
                          
 スパイスアイランド、ストロボの閃光にも似て、一瞬華やかに輝き、そして消えた。
 今日までバンダの海は誰にも顧みられることもなく、静かな深い眠りについている、、、。


そのI
 四十五フィートケッチ[1] 「ローニン二世」はもう二日と半日もエクアトール・カーム(赤道無風帯)の中、陽傘のかかった太陽に照らされて沈黙している。平べったい海、鳥も飛ばず、時も止まってしまった。
 「まいったなあ、フネのうえ、座るところも立つところもないわな。デッキはフライパン、キャビンは40度の蒸し風呂、油を焚いて[2] 少し風でも入れようか」
 「別に約束があるわけじゃあないし、そのうちスコールでも湧いてくりゃあ周りに風も立ってくるでしょう。泣かない泣かない」
 そう云いながら無駄とわかっていても雨雲を探している。オーニングの下で寝転んでいても、ねっとりとした汗が首筋から背中から伝って落ちる。汗とは呼べず体液が絞りだされるように。
 「こんな状況の時に反乱が起こるそうだ。ドレークが海に放り出された日もこんな日が続いたってゆうし、人間は無為には耐えられないとみえる。小人閑居して不善をなすか」
 「スパイスクリッパーもウオリイフォーテイ [3]を越えてジャワ海に入りホッとしたら赤道ドルドラム[4] 、にっちもさっちも行かず漂っていてマカッサル海賊に囲まれりゃあ、それに壊血病とくりゃあ、胡椒と金が同じ値段だったのもわかりますよね」
 「いずれにしても,スパイスクリッパーのガルシャ船長も,この海道をアンボン、テルナテを目指したんだ。彼らがみたうねり、彼らが見た島影は当時と変わっちゃあいないし、いま我々はそこにいる。いい気分だと思ってこの糞暑さを忘れることだ」
 私は自分に言い聞かせるように呟いた。
 潮目がひと筋、まっすぐ遥か彼方までのびていた。

 11・40 14時の方角はるかに黒い雲を視認。
 照らされてふやけた脳では最初島影かと見誤ったが、こんな海の真ん中に島などあるはずもない。笑い合ったのは初歩的誤認の嘲笑より、いずれ訪れるであろうスコール驟雨の冷たい心地良い感触を想像しての事だ。唇まで半開きにして待ち望む間抜け面で、半円球の水平線にむかって背伸びをした。
 「待ってました、ボス、だいぶでかい奴でっせ。びくつくわけじゃあないけど、ワンポンリーフ {5]で突っ込みます。振り廻されても腕の見せ所もない無風よりはまし、シャワーも浴びられるし。シロット、ジブ [6]替えろ」
 カマダは途端に元気になり雑然としたデッキを片付けたり、テンダー [7]の増し締め、雨雲のくる準備に余念がない。
 黒いヴェールは確かに大きく、茶筒を立てたように周りの大気と際立った境を作って、それが単に水蒸気を含んだ気体なのだが、ある種の存在を感じさせる。

 台風にジェーンとかキテイとか名付けて人格を与えるのと同じだ。意志があるかのように、雷光を不気味に煌めかせ移動しているのを畏敬を込めて見つめた。
 風は神の息吹だという。都会暮らしでは流行らないが、沖であう風には時として俗界を離れたなにかを感じる時がある。神は見えず匂わず触れられず、親もなければ子も成さず、遠く近く、あまねく天地をしろしめす、広大無辺なる偉大な存在とイスラム人は畏怖した。きっと風に神を感じたのだろう。

 それは二時間もしないで眼前に迫って最初のひと吹きがメインセイルに裏風を送り、シートブロック [8]をきしませて過ぎた。二日の無風の後ろには、釣り合いをとるような気流が動くものだ。見上げるとマストトップの風見もやっと仕事が出来て回転しはじめる。海面が小波立ち、水平線が上下に揺れはじめた。空気が重くなる。
 見えず触われない、選べないこの力との対面が近ずく。
 ローニンははっきりと境が出来た雲の縁からスコールの中に侵入する間もなく、ブーム[9] が激しく反りバウが波をしゃくりあげてどっとばかりの洗礼がきた。

 クラブの仲間に「インドネシアの天気予報なら俺でも当たる。本日は暑くところにより強い俄雨、風は東西南北、時により上下から」
 熱帯の気象は水道の蛇口を捻るようにして雨が降り、そして止む。もう慣れっこだ。
 辺りは一気に暗くなり、風は回りわたし私はメインシート[10] を手繰ってギャロウ[11] に固定した。
 船はスタンション[12]を波に洗われながらも全幅の信頼があるキールバラスト[13] の力で復帰するが、キャビンの中に放置してあった道具類が大きな音とともに床に落下した。
音の主が使いかけのワープロでないのを祈りながら一瞥をくれ、バルクヘッドに一度身体を叩きつけられ、雨、いや滝のように落下する水塊、射られた矢のように顔面に当たる雨滴を予想して、身構えるようにデッキに出た。
 霧というのかガスと呼ぶのか巻き込むようにしながら流れて、もうバウ [14]は見えない程になっている。一度頬に当たる雫を感じたようだったが、思いの外の気温低下で腕のうぶ毛が逆立ち、オレンジ色のウインドブレーカーを羽織りながら空を見上げ、そして周りを見た。漫画に描くような風の神が雲を巻きマストを握って揺らすような、四方から魔の手で掴まれるような不気味さを感じて思わず振り向いてしまった。
 バウワッチに立つシロットの黄色のオイルコートが亡霊のように表れては消える。
 「来ないねえボス、黒い簾に入ったら、もうこうしちゃいられない程なのに。フネはきりきり舞い、ジャイブ [15]を防ぐのがせいいっぱいなのにスコールさんやけにのんびり構えとる」
 どんよりとした不健康なガスに閉ざされマスト上半分も見えない。

 そして驟雨は落ちてこなかった。


[1] (原註) 二本マストの航洋型ヨット
[2] (原註) エンジンで走ること
[3] (原註) インド洋南緯40度線付近の荒海
[4] (原註) 赤道無風帯
[5] (原註) 一段縮帆
[6] (原註) 前三角帆
[7] (原註) 足船
[8] (原註) 滑車
[9] (原註) 横桁
[10] (原註) 操帆綱
[11] (原註) 保持材
[12] (原註) 支柱
[13] (原註) 船底重量物
[14] (原註) 舳先
[15] (原註) 風下転回


そのU

 「ボス、ちょっとこれ、これ見てください。何ですかこりゃあ」
 ラットの前にあるデプスとノットインジケーター[16] のデジタルが狂ったように踊っていた。意味のない数字が次々にでてくる。

 電気と船の相性は悪い。精密機器になる程信頼性がない。塩水は近代文明を拒否するといってもいい。いるかに乗った少女に会うには、ラジオもテレビも捨てて裸になるのだなと冗談抜きで言ったので、最初はこの異常を気にはしなかった。
 念の為キャビンに入り配電盤を覗くと、アンメーター[17] の針も激しく振れている。
 異常を確かめるまでもなくコクピット[18} から声、「コンパスもです!」
 チャート[19]テーブルのコンパスボウルもひどく傾いて止まっているではないか。
 位置が出ない。

 チャートには三日前までのログが引かれている。
 カームになってからは怠けて書いていなかった。鉛筆の線は 5゚28´S 127゚48´E バンダ海のど真ん中をこのまま東へ、夢にまで見たバンダネイラの島々、朽ちかけたオランダのフォートレス、ベルギウムに針を合わせてあるのだ。そこまでの470マイルは平穏なトロピカルシーが続くのだ。
 サテナビ[20]オン、プロッターブラウン管の乱れた波形は腐った分泌物のような不気味な模様を描きだしていて、異界に踏み込んでしまった誤りをあざ笑う声が聞こえたようで思わずスイッチを切ってしまった。

 ブラックアウト?
 コンパスが偏差値以上に振れる事はある。鉄鉱石を含んだ山が海底にあれば狭い範囲での異常はあるが電磁界まで、、。そんな馬鹿な。
 予期せぬ未経験で完全に混乱した。とにかく異変には違いない。グラブレイル[21]を掴み身体を保持して落ち着けと声をだしていた。天井を通して器具の触れ合う音、キャビンの湿気か汗かナイロンブレーカーが肌にまとわりつき、名状し難い薄気味悪さが支配した。
 ギィッとヘッド[22]の戸が開いて、中から誰かの腕が出てくるような錯覚に捉われてどきっとした。
 馬鹿げている、クルー達はデッキだし誰がいるというのだ。ドアは船のヒール[23]で開いたのに。
 鉛筆を握り正確な時刻を記入するのが船乗りの基本。セイコーダイバーは何回見直してもその動きを止めていてた。信じられない状況が起こっているのはもう否定できない。
 私は手をのばしてボトルをとりバーボンをすすった。

 いまは海のど真ん中。リーショア[24[はない。じっとおとなしくして状況の変化を待てばいい。スコール雲がその理由なら二時間もすれば終わる。それから考えよう。
 まずは落ち着け。頭は熱くなって回転していたが身体は冷えていってスムースな行動が出来ない。眼ばかり落ち着かないで五感が鋭くなっているのがわかった。
 ローニンはその身体を幽界に踏み入れたように輪郭を失い、見えるものは目の前の舵輪と、おぼろげなカマダの姿だった。ガスは黒く低く重く巻きながら視界を閉ざし、うねるように移動している。予想した風の音も波の叫びも聞くことは出来ず、ただ無音。
 無音に支配されるように、誰も声を発しない。存在すら疑う、時だけが過ぎてゆく。

 いつもとまったく番組が違うのだ。一陣の突風のあとは心地良い戦争になるはずだった。ずぶ濡れになってシートを手繰りながら、口に入る甘い雨水を含みながら海の男を感じられる程度の労働、身体中にシャボンを塗りたくっての天然シャワーも入っているはずだったが、黒い霧が沸き立つようにして新手の塊が船を包み込みながら動いているのに風も白波も雨もなく陰欝さが増している。
 はち切れるように風と戦い、波を切り裂く動的な激しさが起こらない。白いセールは敗け戦の軍旗のようにしおれ、時々あらぬ方向の気紛れなブロウでいたずらに船を揺らしている。風には色も姿もないが、今日のは灰色の老婆の痩せた腕で弄ぶ風だ。

 プリオクの港をでる前の夜、やめろと止めた、腰を傷めた船頭ムインの話しを、お伽噺と笑ったのを思い出していた。
 「ある月夜の晩、凪だし、わし等はすることもなく消えかかった星空を眺めていたと思ってくだせえ。音が聞こえてきたんでさ。歌が。音の方に眼を凝らすと、灯かりがあり、舟がやってくるんでさあ。ゆっくりと。
 歌声がだんだん近づいてきて、はっきりと舟も人も見えはじめて、わし等は息も出来ないはめになったんでさ。
 すれ違って行くのは、絵でしかみたことのない尻が高いポルトギス船だったんで。テイアン(マスト)は三本ラヤール(セイル)はなかったのまではっきりと。デッキではその連中が踊り狂ってました。
 どれほどの時間か、たまげて見詰めているうちに船は後ろを見せゆっくり遠ざかっていきやした。灯かりがずっと見えてましたから。それだけの話しでっすが、わし等は確かに見たんでさ、幽霊船ってわけじゃないけど、トアンは答えられますかい。着ているもんも絵で知ってる昔の服が灯かりに照らされていて、、、」

 海の上では何があるか我々は何にもわかっちゃいないから止めなさいという事なのだが、バンダの海は科学から最も離れた海、まだそんな馬鹿げた噺は掃いて捨てる程ある。
ハルマヘラには、行かれないまたの世界があるという。
 モウリは悪さもしないし助けもしないが、はっきりと人間と同じ、違う裏返しの世界に住んでいるという。
 セラム島のアフルウもいる。神隠しとか空中遊泳とかマルベニ材木部のK氏はその体験をよく話してくれた。

 耳を澄ますとハルに波があたる音が聞こえる。ピチャ、ピチャ、ピチャ。
 波と船が折り合っていない。私はまるくなってデッキに飛び出るとカマダも気付いていて海面を凝視していた。
 「汐が動いています」
 マルボロの吸い殻を投げると漂いながら早い速度でスターンに流れ去った。
 「カマ、海じゃあ何が起こっても不思議じゃあない。スコールニューフェイスか。慌てて何をするっていうのだ、取り敢えずやる事だけは済ませておこうや」
 状況が最悪なのは言わなくても三人とも分かっている。
 パワーもなく汐に流されるのは流木と変わらない。こんなに風位の変わる薄気味悪い風はパワーとは云えないのは言わなくても分かっているし、何かしなければいられない焦燥があった。
 カマダはラットの横にあるエンジンスタートボタンにとりついたが、「掛かりません!」
 と悲痛な声をあげた。汐に流されそれに視界もほとんどゼロ、船を押す風もなく機走不能なら全身麻痺の病人と同じだ。
 エンジンルームをあけたがいじる必要はない。セルスターターが回らない。
 「マグネットがみんないかれている。原因はわからん。このガスのせいではないだろうが簾に入ってからこうなった。モーターもコンパスもマグネットだ。なぜだ」
 理由のない不安は恐怖に変わりやすい。私は現実外の言い知れない怖れを表さないのに必死だった。
 「ヤンマーアウト[25] は手動だ、電気は要らない!」と叫んだ。
 シロットとふたりでヤンマーを運びだし、トランサムに取り付けるのももどかしく始動ロープを引く。
 数回して運よく場違いな爆発音をあげてくれたが、ローニンの巨体を生き返らせるには余りにも非力だが無いよりはましだ。機械の音が響くだけでも自信になる。いまはまるで幽界に踏み込んだような非現実な世界にいるのだから。

 周囲に何の対象物もないから速度感もないが、心なしか頬に当たる風があるようだ。
 「4ノット位で流されてます、ブレンセック畜生」
 陰欝なガスの垂れ篭めるなか、全員が見えない何かに眼を凝らした。
 時間は黒い霧が巻くように違った時を刻むのか、方向感覚も、時間の観念もわずかの間に奪われて、不条理の手にもてあそばれている。

 どのくらいたっただろうか、突然、霧の中から霧よりも濃いなにかがポートサイドを動いたように感じた。  
 次の瞬間、黒い何かは迫るようにガスの切れ目から表れて消えた。

 「まさか!」
 シロットも見た。ラットを思いきり切ったが舵が利くわけはない。カマダも見た。アウトが狂ったように吠えた。
 我々はただガスの向こうにあるもの、確かにあるもの、見えない何かを凝視した。
 霧の合間から、まさかが再び表れて消えた。
 岬か、干しだし岩か?なんで?なんでここにリーフがあるのだ。なんでここにリーショアがあるのだ!
 私は次に起こるであろう恐怖で茫然となった。
 ローニン二世号は全身不随の身体を4ノットの汐に持って行かれ、海底に潜む暗礁に激突する。立っていられない恐怖だったがライフジャケットを放り投げながら、 「シロッ、ゾデアック(ゴムボート)、 エマージェンシイ (ダルーラット)!」 
 声が震えていないのが慰めだった。
 シロットがボンベを繋ぐと白いゴムが生きものが起きるように形を整えた。

 霧はヴェールを巻き上げるようにして、今はっきりと岩場の姿を見せている。
 我々三人はハリヤードをしっかり握って、次に起こる衝撃に備えるほかなす術はなかった。
 岩と貧相な潅木を凝視している間も、それ以上の悲劇は起こらなかったのがむしろ不思議だった。汐の流れに合わせた長すぎる時間がじんわりと過ぎていった。

 「アンカーを目一杯だせ!底に食らいつかせろ」
 カマダとシロットは動いていれば恐さも薄らぐように働いた。
 ローニンは視界が開けたてきた水面に、ちょうど糸が切れた風船のように漂い、私も同じような凋んだ風船になっていた。
 風船は五十尋の浅い底を掴んだらしく動きを止め、増し錨を投げ終わって、みんな腰が抜けたように言葉もなく座り込んでいた。
 無くてはいられずバーボンツウショット喉に流し込んだ。
 船も人も騙されたように浮いている。それまでまったく意識になかった四囲の様子が、かすれたヴィデオが回りはじめるように網膜に映りはじめた。
 数百米、いまわしい岬を軸にして、とぼけたような砂浜が、日傘になった遅い午後の弱い陽の下にたたずんでいた。

 「入江か?島なのか?」
 恐る恐るゆっくり四囲を眺め、自分たちがおかれた現実を把握しようと必死だった。景色を見るのにこんなに努力したことはなかったことだ。
 不吉な雲はまだ背景から去ってはおらず、入江を取り巻くようにして立ち上がっている。大きいドーナッツのように彼方に山裾が望まれ、頂上は雲に隠されて時折雷光がきらめいて走る。
 砂浜に人影もなく家も見えないとカマダが言っているが、浜の椰子の木は明らかに植林されたものだ。静寂程不気味なことはない。海鳥が舞うか魚が跳ねれば。
 どんよりとした重い大気にかすかだが硫黄の臭いがあるようだ。あの山は火山なのかもしれない。
 「いったい此処はどこなのだ?」
 「今夜は長い夜になる、陽が落ちる前たらふく喰っておこう、二時間ワッチ、何事もなく朝になるのを祈るのみだ」
 ブラックアウトになった液晶インジケーターと傾いたコンパスは意識して見ないようにした。
 冷蔵庫も開けられないので、食い残しの飯と缶詰、ドックフードのような味がした。
 誰も眠る者はいなかった。話もしなかった。
 山合いで光る雷光にはもう慣れたが、夜半浜の方角に灯のようなものが移動したとシロットが言った。大きくなったり小さくなったり、消えてまたついたと言って起こされた。
 気持ちのいいものではなかったがそれ以上の事はなく、ゆっくり、ゆっくり時間が過ぎていった。


[16] (原註) 水深速度計
[17] (原註) 電流計
[18](原註) 後部操舵室
[19](原註) 海図
[20](原註) 衛星航法装置
[21](原註) 取っ手
[22](原註) トイレット
[23](原註) 傾き
[24](原註) 風下障害物
[25](原註) ヤンマー小型発動機 


そのV

 冴えない朝でもそれはぼんやりした太陽が昇って明けたが白っぽい感じがあった。
 海面はそれまでの青い海とは違い、白く濁ったミオが幅広い帯になって、軽石も浮いていた。
 「人です。三人。ボートがでます」
 ツアイス[26] を覗いていたカマダは自分が人間以外の生物のように、ヒトを強調して大声をあげて続けた。
 辺境で危険なのは毒蛇でもなければ猛獣でもない。寄生虫とある種のウイルス、それに突然会う人間だ。
 「えぇっ、女らしい」
 ひとりの男がふたりの女に漕がせて近ずいてくる。
 ボートはこの国の腕木付きカヌーではなくクラッチの付いたオールを持っていた。
 眉をひそめ眼を細めて眺める間にもボートは何の迷いもないように、我々の心の準備を無視するようにリズミックに油凪の水面を漕いでくる。
 昨日から経験則を破られ通しの対応を強いられていたし、睡眠不足もあって、どうすればいいのか判断が出来ない。予期しない出来事が起こる予感が支配して硬直し、物理的な距離だけが縮まってゆくのをただ眺めるだけだった。

 驚いたことには舳先に花が飾られ、もっと驚いたことに女は腰布を纏っているだけだった。
 争いや脅しに花や女はそぐわない。今朝の光景は最も望ましいが、何か違和感がある。忽然と沸いてきた感じで、造られたもの、非現実感がぬぐえない。
 若いカマダが事実を素直に受け入れて舫いをとるのを眺めた。幻影ではなかった。

 男は存外正確なインドネシア語で、
 「満月の汐は滅法速いから乗せられたようですな。Sukurlah berselamat datang, (無事でなによりです。運のいいお方だ)」
 そのようだな、と応じてチェンケ煙草を差し出すと男はとって吹かした。
 縮れ毛に小さい頭蓋骨、焦茶色の肌に皺が多いので歳はしかとは解らないが中年以上にはなってはいまい。腕も手も華奢で労働のタイプではない。白いシャツを着ているところを見れば一応我々を客としているようでもある。
 やけに落ち着いていて初めて会う礼儀も心得ているが、挨拶だけではないだろう。ここの背景と、男の態度がまったくそぐわない予想外の出会いで混乱するのは昨日の黒い雲と同じだ。水深を計るようにまだ見えない出方を推し量って顔も強ばった。

 「このところグヌンアピが怒っていて、風向きではこんな靄の日が多くて」
 男は首をまわして自分の来た渚から右手遥かな火山の頂を眺めていた。
 横顔はどうみてもコーカソイド系だ。ポルトギスか。
 漕ぎ手はスターンパルピット[27] に横座りしている。ひとりは黒い直毛で露わな胸が隠れ、カマダが手渡すチョコレートをはにかんで受け取っている。
 戦意はない。かけらもない。

 「十日もして月が欠けたら汐も納まるでしょう。ウントン岬では難破する船が多いというのに、神のご加護あれ」
 男は十字を切った。間違いなくポルトギスだ。
 「船乗りは相身互い身といいます、欲しい物があれば申してください。もっともここにはそう何でもあるわけはありませんが」
 「Untung juga, masih punya makanan, air dan obat pelorpun ada 幸い食糧も水も、火薬もある。Tetapi,,namanya apaya pulau ini だが、、、島の名は何というのかね」
 私は慎重に、手のうちを見せないよう、武器を持っていることも仄めかせて言った。
 磁気障害はまだ言うべきでないし、電気もない村では質問しても意味はない。
 「村はカスティール、土地ではプラウ・ニカと呼ばれていますが、噴火で島が繋がってから何と呼ばれているやら。なにせルチプラ諸島からは大層北に逸れていますし、人も来ませんからね」
 また出直します。あなた方は当分出帆出来ないだろうから、もっと岸に寄せればよろしい、などと言う。極く自然な後ろ姿を見送りながら、緊張と不安があの四つの乳房で解消したわけではないと言聞かせたが、確たる証しのないまま平和が訪れたのかもしれなかった。

 ジャカルタを出航するひと月程前、街の北にあるトゥグのポルトガル村に伝統的といわれる演奏を聴きに行った。
 トゥグはその昔オランダが、帰りたくない、帰れないポルトガル人達を幽閉してから三百年も独自のコミュニテイを作って生き延びてきた村で、鄙びた教会を囲むようにしてひっそりと暮らしていた。
 その日は教会の高窓から由緒ありげな幟旗を垂らし、楽団がマンドリン風のカチャピをかき鳴らし、古老とひどく肥えた老婦人が、彼らだけに解る言葉で稚拙な歌を唄った。
下手さ加減が、茫漠とした歴史を感じさせて余りあったのを思い出していた。
 「カマダ君よ、奴の喋り方顔つきも正しくポルトガル人の血だな。今日からの事は記録しておく方がいい。男が言ったようにこの島がルチプラ諸島の一部なら、マジェラン時代の1512年にマラッカ海峡経由でモルッカを目指したアントニオ・デラウ船団、三隻で120人といわれているが、その中の一隻フランシスコ・セサーロが難破した。
 遭難地はアンボンの西のヌサテール島と記録されるが、一説にはこのルチプラの何処かとも云われているのだ。この村がそのセサーロの末裔とすれば、、、」
 「四百年も前の話しでしょう、ロビンソンクルーソー以上ですね。それより参ったな、あのトップレス嬢には。ボスは感じなかったですか」
 「俺もまだ男だ、とびきりだったな。シロット、お前はどうだ」
 ペイドクルー[28] のシロットはドグハウス横で、これ以上小さくなれないように膝を抱えてしゃがみ込みレモンを齧っていた。
 「トアン、まだ俺の忠告を聞かないのですか。あの女共はクンティラナック=魔物です。JANGAN(ゼッタイ) TUNTU TIDAK (近寄ってはなりません)。誘きだしです。
 俺がラッサ岬を交わすとき頼んだのに。プウトリ・オップに生け贄を捧げないからこういう事に。出来れば船を降りたい位です」
 「お前の化物は背中に穴のあいた別嬪だろ。この際クンティラナックでもいいから喰われたいよ」
 カマダはボートの去った砂浜を眺めながら屈託がない。

 浜を眺めて笑ってばかりもいられない雰囲気がある。
 太陽は黄色く精気なく中天にぶるさがっているように、視界は何となくぼやけてスッキリしない。普通どこの島に寄っても物見高い村人が我先に舟を漕ぎだして、あれ呉れこれが欲しいと賑やかなのだが、それがここにはない。
 浜は静まりかえり生活の息吹が感じられない。そう考えればあの訪問にも作為が感じられないか。この天気のようにすっきりしない。何かが違う。陰気なのだ。
 そんな気分で何回も入江の周囲を見渡した。スターンに置いていった黄色の花は萎れはじめ、コンパススタンドは相変わらずあらぬ方角で固定したままだった。

 キャビンに降りて男が教えたプロウ・ニカを海図の中に探した。
 我々は東南スラウエシ・バウバウ沖でビノンコ島をかわしてから殆ど南緯五度を忠実に東航した。シロットの言うラッサ岬もその線上にあった。
 バンダ海の五十万分の一のチャートにニカの名前は見当らなかった。ルチプラの回りに散在するリーフ群のほかには。
 「わからん、ニカはあるのかもしれんし、他の名前かもしれん。ジャワのプロウスリブ(千の島)でも、海図にあるウビやニルワナなど海中に没していまはない。エダムの横には海図にない島がふたつもあった。クラパ(椰子)島はハラパン(希望)に、ハントウ(幽霊)島はJALが観光投資する時プウトリ(姫)と相応しい名前にしてしまった。
 第一海図そのものが植民時代オランダが作図したものだ。本船航路ならいざ知らず、鳥も通わぬこんな辺境では島のひとつふたつ書き忘れたところで誰も文句はいわんだろう。
 しかし村まである島が忘れられるものかどうか。イスタナドウユン(竜宮城)かもな」
 冗談めかしてカマダに声をかけながら、汗が引くような薄気味悪さがまとわりついて離れず、キャビンの温度が上がり、引いたはずの汗が粘度を増して吹き出してきた。
 シロットは生け贄とかお祈りとかぶつぶつ言いながらフォクスルから出てこない。
 冷蔵庫も電気の事を考えれば開けられない。そこらにある袋とまた缶詰で腹はくちくなるが、頭の角にわだかまる疑問でどうしてもビンに手がゆくが、毒薬を飲むような味しかしない。

 「ボス、また来ますよ。今度は何の御用ですかね。ミスプロウニカもご一緒だといい、眼の保養になる」
 デッキから声がかかった。
 「申し遅れました。わたしは村長のゴンザレス、今晩フェスタを開くことにしました。
 船乗りには新しい果物、野菜も必要でしょう。どうか招待を受けてください」
 Terima kasih banyak (有難う}と言いながらも、ゴンザレスの皮膚のうちに隠されているかもしれない何かを知ろうとした。
 「あんたが村長で、郵便局はないだろうが、警官や駐屯兵はいるのかね。いるなら敬意を表さねばならんし。我々はただの観光航海で、珍しい貝殻でもあれば嬉しいだけ。密輸品も奴隷買いでもない証拠にジャカルタ・サバンダル[29] 発行のスラットジャラン[30] もある。アンボンの市長も待ってるしね」と嘘も交えて存在を強調した。

 私は相手の戦力を知りたかった。知ったとしても逃げることもかなわぬローニンだが、平和も時として事件になる。退屈した、ワッペンをつけたユニフォーム姿の男性集団は、自分達の慰みだけで事件を作る。そんな手合いの玩具にされてはかなわない。兵士の無謀を訴えても絶海の孤島では援助も救助も、正当性すら暴力には勝てない。
 「陸からも海からも用事があってこの島に来る人はおらんです。三つ月に一回たまにチナの船が、それも潮のいい日だけでね。駐屯兵でも来てくれれば歓迎ですが、残念ながら村は全部ゴンザレス、先祖がちょうどトアンのように流れついてからずっとゴンザレス。島から出ていった男も私をいれても数えるだけ、帰ってきたのは私ひとり」ミスタゴンザレスは詩人のように呟いた。
 私は持ってきたボトルから試しに少し注いで顎をしゃくった。彼は飲んで咽せた。毒を警戒していない。
 「満月です。ゆっくり楽しんでください」
 漕ぎ手は朝と同じく乳房で方向を定めるようにして帰っていった。


[26] (原註) 双眼鏡
[27] (原註) 船尾安全柱
[28] (原註) 雇い船員
[29] (原註) 水上署
[30] (原註) 通行許可書


そのW

 行かないというシロットに救命発煙筒を手渡し、異変があったら撃てるだけ撃てと命じた。
 「トアン、ウオウオニを忘れたのですか? あのウオウオニ島でのことを。トアンだって逃げ帰ったじゃあないですか。あそこより悪いのが分からないんですか」
 ケンダリで案内に立った男の噺を面白半分に聞いて、鞄持ちのシロットと三人、カヌーを借りて沖に浮かぶウオウオニに渡ったことがあったのを言っているのだ。

 その円錐形の島には飛魚漁の漁師も通い船も近づかないのは、島民ぜんぶがイルム使いだと言われていたからだ。
 イルムウとは黒魔術。それが狐の化かしっこのように、船乗りに札びらを切ったり真珠を渡したりした次の日起きてみれば木の葉と小石だったとか、どこかに懐かしいユーモアが感じられたからだ。
 浜に付くまでずっとそんな噺を聞かされた。
 「そして気が付くと、自分達の舟は丘の遥か上の崖っぷちにあるんです。嘘だと思うなら舟はまだそこにありますよ」
 浜風がわたる椰子林を抜けて小高い茂みを三つも越えると、
 裏返しにされて土に刺さったジュコン型帆走カヌーの残骸があった。物好きとかいたずらでは出来ない渚からの距離と重さだった。何がどうなったのかよくわからなかったとだけ男は言うのだ。大亀に乗せられて連れて行かれた子供、波に攫われて半年たって帰ってきた子供もいた。
 半信半疑は、夜の浜辺で野宿して真実になった。
 月も無い真の闇の中で波の音だけがあった。アラックの呑みすぎでない重く湿った空気が忍び寄ってくるのを、潮風のせいだと考えるようにしていた時、閃光が海中から輝いて 走った。「来たあ!」と叫んで二人はカヌーの陰に縮じこまった。光は海中を走り廻った。突き抜けて再び没した。
 頭痛がした。腕が上がらないような気がして、確かめた。
 長い夜が過ぎていった。次に起るかもしれない事を真剣に考え通した。実に不快な夜の大気、実に長い夜だった。
 ポケットには小石も葉っぱもなく、防水布に包んだ財布と煙草も安泰だったが、夜明けを待ってほうほうの態で島をあとにしたが、あの光の正体と息苦しい雰囲気、投げ出されていた舟の原因はわからなかった。

 魂を奪われればそんなもの役立たずと、まだシロットの声がしたが、カマダはシート切りのボウナイフをガムテープで腿に固定し、私は足に偽の包帯を巻いて杖を武器にし、ハンドライトも持ってゾディアックで岸に向かった。
 砂浜には人の歩いた跡がなく、流木が散乱していた。

 「村は丘にあります。魚は少ないし漁はやらないのです」
 ゴンザレスと少年に従い坂を登る。
 騒ぎまわる子供も鶏にも会わなかった。
 「あの向こうが火山に続く荒地で、セタンが住むといわれています」
 聞きもしないのにそう説明した。下草にはところどころ黒い溶岩土が表れていて、悪魔がいるかどうかはともかく、ある時期に島の環境が激変したのがわかる。
 しばらく歩き、椰子林とバナナ畑を抜けると、我々は一方が展開した人が住めそうな丘に立っていた。そこはこの国の風習とかかけ離れたものだった。
 崖の斜面にある洞窟、人工の洞穴にもみえる。家はその穴蔵を利用して階段状に数棟の窓が髑髏の眼のようにあいていた。

 「村の定めで、男女は分かれて住んでいます。此処は女村でして、男村はあの岡の向こう側にあります」
 「なんで?」の質問は無意味だろう。そうして暮らしてきたのだから。
 女村の外れ、男村への境辺りに平屋のグレジャが、壁に白いホーリークロスを飾って立てられていた。屋根は錆びていたがトタン屋根、トタンも彼の白シャツも銭が無ければ買えない。彼の華奢な手で何が稼げるのだろう。誰が運んできたのだろう。
 前庭に竹の椅子が四脚並んでいるのは我々の人数をとうに知っているのだろうか。
 疑心暗鬼はまだ重くしこりで残っていた。
 がらんとした教会のなかは薄暗く、祈ったり、懺悔したりする長椅子で住民の数を推し量ろうとしたが列が少なすぎる。正面に目を凝らすと、それは明らかに帆船時代のシップのバウスプリットに飾られる前艢像が、剥げてあばただが紛れもない、豊満な女性が薄物をなびかせて舞いあがる姿を刻んでいた。 
 「先祖がその船から運び込んだと聞いています。男が六人女が二人だったと伝えられていますが」

 陽が落ちて辺りに薄暮が忍びよる頃、少女に先導されて男村の方から長老らしい火箸のように痩せた老人二人があらわれた。そのうしろに黒装束の一団が続くが、弓矢でなく鳴り物だったので肩の力が抜けた。
 「村おさです。歳をとって記憶も定かでないのをお許しください」
 医務室に飾る骸骨模型よりそれらしい手と握手したが、私にはほとんど興味を示さず、針金を折るように体積の無い体を椅子に沈めた。この痩せ方はまともじゃあない。案の定、座るや否やすごく咳き込みゴンザレスの頭ほどの痰を吐き出した。オピユム(阿片)かな、とおもった。
 松明に火がはいり、広場のまわりの闇は一層濃くなった。
 楽士はカチャピを抱えている。五絃でトゥグ村のそれと酷似していた。長い航海の末此処に辿り着いたポルトガル、ラスカルのチェンブレギターのなれの果てか。
 誰から始めるでもなく音曲が流れ、その中の一人がひどい痘痕面だったので見ないようにした。世界から天然痘は終息したと聞いたが、この島は統計にも入っていないのか。

 「バンロっていう椰子酒です」
 木の皮の椀に桃色の液体が満たされた。
 映画の世界では毒は酒に盛られるが彼から口をつけたので付き合う。濁り酒の味だった。
 「Berapa orang penduduknya? (村には何人くらい住んでるのかね」
 ゴンザレスは聞こえないのか返事をしなかった。もう一度聞いた。
 「Tak begitu banyak (大した人数じゃあありま せん)」 
 返事にはなっていない。
 「暮らしむきは?村人全部集まってるようには見えないが」
 「山に行っている男達たちもいますんで」
 現世の会話を遮るようにリズムが変わり、足に鈴を付けた少女が拍子をとりながら登場した。踊るロンドは提灯スカートのポルトガル風。私はタイムスリップした妙な気分になり、硫黄の微かな臭いが鼻孔を掠めた感じもしてバンロをあおった。
 予想外の世界が広がり、奇妙な時が始まっていた。
 タンバリンとレバーナの打音が加わり、松明の跳ねる音。
 ふわりと、唄い手が火のなかから表れ、幻想の世界に引き込まれる。
 ああ、ポルトガル ファドのリズムだ。

Jo pronta foela estrella, bosoter noenka da un tenti?
Foela e strella noenka reposta;
Mienja corsan noenka contenti,
花や星たちに、あの人を見なかったかと尋ねても、
 彼らは決して答えてはくれない、
 わたしの心が晴れることもない'

 さざ波に似た弦をかき鳴らし、長い髪が篝火にゆれる。
 「いかがですかな。お気に召しましたか」
 「すばらしい!」
 「私等も船乗りの血なのです。心だけは海にあるのです」

 ゴンザレスは遠い遠い、まだ見ぬ母の地を思ってか、篝火に移る横顔は憂いに満ちていて、私は肩を抱きたい衝動を押さえた。
 旋律が変わると唄い手も変わった。静寂に浮かび上がったのはムステイーサ混血だ。
 腰にサロンをキリリと締め、肩から長い紫のスレンダン肩掛けをなびかせるようにし、竹笛が非痛とも言える高音の矢を夜空に射かけるように響かせると、腰を落し腕をかざして、ゆったりとポーズをとった。
Dimana bulan dimana bintang,
dimana tempatlah matahari,
Dimana pulang dimana tinggal,
dimana tempat saya yang cari,
Ibarat burung ibarat bulung ingin kuterbang,
Buatlah melihat buatlah melihat si jantunghati,
 どこに月、どこに星、どこにお日さまは、
 何処に帰る、どこに住む、それは私が決める、
 鳥のように、鳥のように飛んでみたい、
 そしたら見れる、私のあの人を、

 パントン 四行詩を海原のうねりのように唄いあげ、一緒に胸が熱くなった。ほかの事は忘れた。
 中腰を崩さずするすると私に近ずいた歌姫は、スレンダンを私の肩に投げ掛けて、見つめた大きな瞳が炎に照らされて光った。
 「番いの証しでしょう」
 とゴンザレス。
 バンロの酔いか未知の妖気か、生暖かい夜が更けていった。


そのX

 月が昇って視界を青く照らし、少女が持つランプのあとについて石段を登り、案内された戸をあける。
 少女はドアを閉めて横のストウルに座った。甘酸っぱい匂いがしていた。ランプの灯心をだすと,薄暗がりにあのムスチーサが長い煙管をまわしながら火にあぶっていた。
 「ンガ、わたしはオピウムはやらない」
 女は盆の道具を収めてからベッドをまわって、両手で私の耳を挟んだ。ややあってくちずけとなる。
 どちらかの腕でわたしの首を巻き、どちらかの手が下を這った。形のいい乳房をもてあそぶ。ため息を洩らし、するりとサロンを脱いだ。
 窓から淡い月明かりが射し、ランプがかもしだす女の影が冥界の動きのように壁を動いた。よく立っていられるほど胴がくびれ、張りつめて丸い腰と胸をつないでいた。
 かんざしを抜くと長い髪がはらりと解けて、わたしの顔にかかるようにして乗ってきた。腰を落すと、まだ儀式もしないのに深い淵に沈むように導かれ、私は細い胴を軽く支えた。数合、女は唇を求めながら呻き、私は果てた。
 小麦色の肌はランプの燭でうっすらと輝き、わたしは想像の人魚の妖麗さを想った。
 歌姫はしばらくそうしていてから、立って少女の手を取り彼女と同じ姿にした。
 二匹の人魚の黒い影が壁に踊り、少女は恥じらいもせず為すがままの小鹿のような肢体を浮かびあがらせた。
 眠ったふりをしていると、川の字に横にはべり、私の手を導いて少女のそれに触れさせた。私の体は眠ってはいなかった。口に含まれる感触、少女は促されるまま向きを変えて私の前に小さい尻を突き出すと一気に硬くなって、ゆっくり行為にはいった。

 ムスチーサのあこや貝の襞に取り込まれたかどうか定かではない、思考のない時が過ぎたのか、部屋は朝らしい光に変わっていて、女の始祖が果たせなかったチェンケの実の香りが部屋に立ち篭めていて、ふたりの女はいなかった。眠りか夢から醒めるあいだ、起こった事を考えようとした。先に感触が残っており脳より先に目覚めていた。
 けしの実の栽培か、島の収支はきっとあの禁断の実なのだろうか。
 煙草に手を伸ばすと、監視されているように戸がきしみ、盆を持った白い肌の女が入ってきた。あわててサロンで下半身を隠す。
 ニーッとほほ笑み、飲めという。アーモンドのような木の実が四つ、口に含むと渋い味がして、椀の茶色の液体は生姜湯のようだった。飲む間、色白はベッドの隅で見ている。
 「おいしい、 (Rasanya agak enak) 」と言ってみてから椀を返した。
 色白娘は二回目の微笑を投げ掛けて椀をテーブルに置くと、胸を張るような仕草で近寄ってきた。腕を伸ばして胸の突起に触れた。触れずにはいられない衝動が電流のように下腹部に走ったから。手を絡めても何の抵抗もなしに、足を伸ばしてベッドに起き上がっている私に対座して緑色の瞳でじっと私を見据えている。
 そのままのけぞるように倒れこみ私はピンクの乳首に舌を這わせた。
 朝の微光とチェンケの香りは、欲情的な動物質な匂いで後退し、そこは脈動している。
 真珠貝のような美しさだった。
 骨のない軟体動物は脚で私の腰を固定し、ゆっくりと吸引する。ゆっくりゆっくりと、眉をしかめ、いやいやをするような美しい欲情を観察した。
 時が過ぎた。両腕を首にまわし、小さく「イカ」と言った。

 白い骨のクロスの首飾りを外して私の首にかけた。
 マルボロに火をつけ、天井に煙を吐き出した。家やもりが四匹、壁に張り付いて恋を語っていた。そうして少し眠ったようだ。
 気がついて、その必要もないのに大急ぎでズボンをはき、シャツに腕を通しながらドアをあけた。
 石段を駈けおりながら正気に戻ると、そこに黒い長い服を着たゴンザレスが立っていた。
 「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか」
 彼の采配で段取りされていたのに、それをおくびにも表さなかった。
 「客人、ひとつお願いがありまして。今日は日曜日でミサがありますもので、、。幾日此処におられても、それはお気の済むままですが、今日一日は、どうか船で安息して下さい。此処は忘れてください」
 「わかった。それが望みならそうする。船で別れの土産でも整理するとしよう」
 「必ず聞き届けてください。お願いします」
 「わたしの仲間は?」
 「いま呼んでまいりましょう」

 「ボスゆうべは、ホント参りましたよ。端から六回ですよ。こんなんなら潮目も電気もこのままでも。太陽が黄色に見えるでしょう」
 「ああ、真っ黄色さ」
 ゾディアックを操りながら、「しかし、なんだな。接待にしちゃ度が過ぎてると思わんか。俺は昔聞いた事があるが、この島は男日照りと違うか。住民が少なく近親婚を避ける為に、ハルマヘラのバチャン島のような乱交パーテイも元を正せばそれなんだ。
 俺たちは久しぶりの種付け馬ってとこじゃないのかとな」
 「なんでもいいじゃあないですか」
 「相手はもっと切実だよ。近親婚が進むと男が少なくなってくるという。子供さえ授かれば、それが余計に血を濃くして行く。抵抗力も減って、限界を越えると急速に減少につながる。絶海の孤島での婿探し。君ならどうするね」

 船に帰り、Tシャツ、紙、ペン、ナイフとスプーン、ゴンザレスが薬と言っていたのを思い出し、あらかた全部を段ボールにいれた。シロットは他人のような眼をしてその作業を見ていた。
 「マリアって、並みじゃあないんですよ。抜群。青い眼してて。お先に失礼してウンガロのスカーフのプレゼント」
 「やめとけ。あしたでも渡せる。逃げやしない。此処じゃあ一日も一年も同じ。それに今日は来てくれるなと言われている。わけは知らんが、約束は守りたい」
 けだるい気分でスイッチを入れてみたが結果は同じ。イアホーンからはひどい雑音で鼓膜が破れそうだった。
 クオターバースに横になり、そのまま眠ってしまった。

 カマダの大声で眼が醒めた。
 「えらいこっちゃ、ボス、見ちゃったんですよ。ひどい!全くひどい」
 「うるさいぞ、何を見たっていうんだ」
 「すみません、ボス、俺、手漕ぎで浜へ行ったんです」
 「何?断りもなしにか」
 「ええ、その時はただ、、軽い気持ちで。ミサならマリアに会えると思って。土産を渡したらすぐ帰る積もりで」
 「それで?」
 「浜から坂を登って右手の崖、セタンが住むなんて言ってた、下の方に椰子の木三本縛った橋があって、そこを渡ってくる男達を見ちゃったんです」
 「何人?」
 「五、六人かもっと多かったか、もうたまげちゃって」
 「要点を言え!」
 「男達、腐っているんです。俺、下からじいっと見据えられ、腰が抜けそうになって、あわててに逃げ帰ってきたんです。腐ってるんです、顔なんか、もう眼も鼻も」
 「誰かに会ったか?」
 「会わなかったと思います。まだ教会の途中でしたから。だけど男達には、、」
 「まずいな、ゴンザレスが今日は来てくれるなと言ったのはそれだ。山から帰ってくる彼らに会わせたくなかったからだ。腐っていても、いや、いるから余計にミサには出たいだろうから。我々は隠したい村の恥部を見てしまった。こじれるかもな」
 私は抜けるような肌をした今朝のイカを思い出した。

 白い肌は紫外線に曝されれば雀斑だらけになるのに、彼女は透き通るように病的な皮膚だった。私はカマダに言うべきかどうか迷ったが、確信はないが事実は事実だ。
 「なあカマよ、楽あれば苦ありという。我々が昨夜からした事は、とんでもない夜だったらしい。取り返しはもうつかないようだ。俺もお前も。そうなったら、いい夢でも見たと諦めよう」
 「脅かしっこ無しですよ、ボス。続けて下さい」
 「そうなんだ、この島はレプラかそれに近い疫病の島なのだと思う。もしレプラなら頻度での発熱、倦怠感。指とかが白蝋化して感覚麻痺、そうして、、」
 「止めて下さいよ、脅かすのは」
 「紫外線に弱いウイルスだから空気伝染はない。接触感染。接触の意味が昨夜のような事をいうのか、膿に直接触れることかは知らないが、君の話を聞けば女共も百パーセント保菌者だ。発病は男性が圧倒的に多いそうだ」
 「冗談じゃあない」
 「そう、冗談じゃない。潜伏期間を措いて、俺もお前も癩病隔離患者、海の上でもう隔離されてるが」
 アル中毒や大酒飲みはマラリアに罹らないという。ウイスキイがその病気に効くといった話はついぞ聞かないが、私はグラスにふたつ注ぎ、目の高さに上げてからカマダにひとつ、一気にあおった。カマダはそれこそ薬を飲むようにして。

 考えが固まりつつあった。
 痩せこけた老人が咳込んだ時、俺は哀れんで見たが、ゴンザレスの刺すような視線を感じた。ムスティーサの阿片の盆ははいつもの習慣で、本来素性のわからない客人にしてはならない接待だったのだろう。
 疫病対策で、外領から役人が来ればガンジャの秘密は守れない。一層のこと北スマトラ・アチェ州みたいに人口が多く、それが長い社会習慣で定着していれば、公には厳禁でも裏ではまかり通る。口を真っ赤に染めて噛むキンマには覚醒作用があるが、田舎では常用されているし、ついこの間までは伝統的結婚式の結納品だった。隠す必要になったのは世の中が変わったからで、カスティールの責めではないのかもしれない。粉が無ければ売るものなぞない島は労働力もなく村は滅びる。月いちのチナの船はその為に寄るのだろう。

 ゴンザレス村長は袋小路にいる。今朝の事が彼の耳に入ったら、粉の秘守に賭けてくるだろうか。
 喋らないと約束してもはじまらない。我々が生きている限り彼は日夜官憲に怯えることになろう。癩病はともかく、ガンジャじゃあ怠け政府でも黙ってはいまい。
 この事をカマダに話した。
 「アンカーは立て錨にしていつでも揚げられるようにしておけ。四馬力は尻に付けて浜に異常があったら始動させろ。ゾディアックは引き上げて消火器、発煙弾、武器になりそうなものをデッキに出しておけ、シロットもだ!」
 私はキャビンに降りて、数年前オージーと古カメラで交換したレミントンショットガンの油紙を破った。一度も使ったことはないがチョッキを着て弾をひと掴み入れた。

 太陽が丘の上に落ちかかり、雷の音、硫黄の匂い。
 ボートが滑りだしてきて、黒い点がみるみる間合いを詰めて来る。速さからして戦闘体制で花など飾らないのはもう確かだ。
 私はデッキに立ちレミントンを横に持ちボートから見えるようにした。飛び道具を使うなら俺も使うだけだ。
 漕ぎ手は乙女ではなくその男達だった。
 一人の鼻はなく、ひしゃげた唇の上に穴がふたつ空いていた。右の男の右目は垂れ下って口の辺りにそれらしいものがぶらさがっていた。村長の横の舵手の手は袋を被せて腕で舵柄を押さえていた。
 わが友ゴンザレスは赤い布で頭を縛っていた。赤布はアフルウのシンボル、お伽話しだとその時は笑ったが、モルッカ近辺の部族は戦いには赤色を身につける。
 レミントンが細かく震えたのは俺が震えているからだ。

 「用があるなら言えゴンザレス、遠慮なく乗り移れ」
 二十米で漂う小舟に怒鳴った。
 「お願いしておいたのに、、、。これで終わりでしょう。此処が神に見離された島だという事が、トアン、もうお分りですね。兵隊が寄り付かない事も。トアンもうお分かりですね」
 「あぁ」
 私は次の言葉を待った。
 赤い布とあまり変わらない皮膚、胸が興奮で波立っている。
 長い、といっても三十秒くらい見詰め合っていたが、たったそれだけの沈黙を維持していられず、立っているのが苦痛になった。眼が同じ位置になった。
 「昔はそれでも、いい暮らしだったといいます。火山が爆発して村が半分になった頃から子供が育たなくなり、挙げ句、疫病です。病いの男や歩けない者は谷の向こうに住んで、臭い硫黄の風呂に入るか、あれを吸っているのです」
 「ひどい話だ」
 「疫病に犯されたら、オピンを吸えば、少しの間天国に行けます。ルチパラの役人に薬を頼めば、いまの生活は破滅です。チナの船も来なくなるでしょう。それでどうして生きてゆけというのです?」
 ゴンザレスの眼は光を失い、ほとんど泣きだしそうな表情で、私は答えを探したが気休めでしかなかった。銃を立てかけ旨くもないマルボロに火をつけて、しばらくそれを見ていた。何をどうしろと言っても気休めにしか過ぎない。手を差し伸べる事も出来ない。
 谷の向こう側を姥捨て山にして隔離するより外にはないだろうが、俺がそんな知ったようなことを言ってなんになる。ゴンザレスも先刻承知でも出来るわけはない。神は谷のこちら側にいるのだから、親族縁者を地獄に捨てるより破滅を選ぶだろう。
 私の考えが当たったからこの後の彼の言葉は言ってもらいたくない。

 「トアンが島を離れなければそれが一番いいのだが、お国に帰るでしょう」
 「帰れれば帰る。帰さない積もりか」
 「長老は、、、年寄りは、、殺してこいと言った」 
 そして囁くように続けた。
 「昨日なら、、。しかし、夕べはまだ客人だったし、ゴンザレスひとりではね」
 懐ろから道具を取出し、ごろりとコックピットに転がした。先祖が使ったような旧式の回転短銃で、弾がでるかも定かでない代物だった。

 アフルウなら銃は要らない、ブラックマジックがある。
 現代風なら集団催眠だ。魂を奪われいいなりになって。
 ばかばかしいが、その時は真剣にそう思い彼の眼を直視しなかった。魂をぬすまれて敵わない。
 「俺もあんたの言うことはわかる。俺でも生かしちゃ帰さないだろう。だが、俺は粉も葉っぱも実もみちゃあいない。本当はニカの島が何処にあるかさえわからない。機械は全部壊れてしまったからだ。残念ながらそう望んでも、医者もおまわりも呼ぶ事はできない。カスチールの村の場所がわからなければ、俺の話を真面目に聞いてくれる者なぞいない。法螺吹きや気狂い扱いされるのは、ごめんだ。
 よしんば粉を注進に及んで、おまわりや兵隊共に十日も監禁尋問され、とどのつまり共犯で豚箱入りはまっぴらだ。此処の野郎のやり方は知ってるだろう。犯人は誰でもいいのだから。それとも銭だ。かかわり合いは御免こうむる」
 会話の間は大きく空いた。繋がらない。

 「年寄り達の納得は得られない。あんたの耳でも持って帰らなくては。だが戦えない。はっきり言えば勝ち目がないし、したくもない。あんたの理屈を信じられるのは、喋ってもあんたに得はないのは言う通りだ。ガイジンだし。
 立場が分かれた以上こっちにもあんたにも都合もあろうが年寄り達の準備は始まっている。あした、あんた方は我々に追われて逃げまわるわけだ」
 ゴンザレスは冷たく言い放った。

 「来た路は向かい潮、月が欠けねば走れないのを知っているからな」
 「あんた方の船は大きい。小回りはきかないが教えてやろう。それに賭けてみればこっちの手間も省ける。運が良くても二度とこの島には来たくなくなるだろうから」
 「言ってる意味がわからん。立場が変わったなら弓でも吹き矢でも使ったらいいだろう」
 せいぜい強気を通した。
 謝る立場でもお願いする立場でもないから。
 「火山地獄を通れば、満潮の一時間かそこら、もし通れればあんた達は外洋に出られるかもしれない。あんた方も運を試してみな。おととい普通なら死んでたところだったのだから煙に巻かれれば年寄りは喜ぶだろう。そこの水は沸いている。沸いた熱湯だから霧も靄もでない。が、風が変われば生きてはいられない。山から毒の風で島は守れるわけだ」
 「あしたの満潮は?」
 手の平を立てて二時の太陽を指した。
 「フレアーを見たらお芝居のはじまり。二発目が上がったら、沈めるも殺すも勝手にしてくれ。船は動かん」
 「年寄りには銃を奪われた、とでも言っておく。船を沈める為夜動きがあるかもしれんし、毒矢を使うのも止められないが、村にはもうその力はない」

 ゴンザレスは敵か味方かわからないような不自然さでそれだけ言うと挨拶もなくボートに乗り移った。
 ひどく疲れているようで、投げ遣りにも見えた。
 「忘れ物だ」
 カマダとシロットが段ボール箱を目ったれ男に渡した。
 「薬も入れた。ストック全部だ」
 ボートが離れしな、ゴンザレスは顔をまわし、
 「種がついたら丈夫に育てる、義理だ」
 眼があい、なぜか胸がつまった。

 追い詰められると、神様が頻繁にあらわれる。
 私はそのひとりに感謝してから仕事にかかった。神様の手も借りたいからだ。
 ローニンを新造する時、希望したボルボは輸入出来ず、中古のパーキンスを乗せた。
 時代もののエンジンにはエアスタートのコネクターがあって、勿論使うことはなかったがディーゼルはピストン圧縮さえあればマグネットなしにかかるはず。やってみよう、やらなければ後がない。指程の毒の吹き矢は音もしないしきっと避けられない。四方から射かけられたら銃など鉄パイプでしかない。

 嫌がるシロットを見張りに立たせたが、夜が明けるまで賊が来たのかどうか、それどころではない労働が待っていた。
 それでも数回シロットから声がし、覚悟をしてデッキまわりを見たが、暗い海面が月光を反射しているだけだった。
 「カマ、スキューバのエアボンベを繋げられるか」
 「コネクタがあれば、だけどインチねじだから無理かも。しかしやるっかないですよね」夜の闇が作業を妨害した。狭い機関室でふたり一緒の作業は出来ない。体中の汗とほかの水分も、とうの昔に無くなった頃一応ホースが繋がった。
 「行くぞ!」
 ホースはボンベの圧力に耐えられず、一瞬で弾き飛ばされ腕をしたたかに強打された。
 「コネクタがプラスチックじゃあ保たない。ネジ山を切ろう」
 「これが駄目だともうエアがない。なんとかクランクが廻れば、一回でも廻ればかかる」ウインチにバイスを抱かせて、気の遠くなる作業が始まった。
 満月の輝きも、吹き矢も硫黄の臭いも、イカもマリアも阿片すらもそこにはなかった。
 最初の失敗で圧の強さも予測出来た。コネクタさえそれに耐えてくれれば、単純な理屈だ。カマがレバーを握る。
 私はボンベのバルブにスパナを噛ませる。よし!
 クランクは重そうに廻った。音が出た。
 船が激しく振動した。
 ボンベのエアが吹き出すのも忘れて二人ともへたり込んでしまった。
 夜はとっくに明けていた。待つまでもなく時間がきた。
 ローニンはこれからの道行きを怖れたかのように細かく震えている。
 シロットがデッキに立ってフレアピストルを構えた。
 ポン!曳光が弧を描いて湾の上に上がった。

 しばらくするとレンズを通すまでもなく砂浜を蹴って渚に浮かべる数隻のカヌーが映った。集めればまだ人手はありそうだ。最初の舟はもう崩れ波を越えている。
 ローニンは大きく傾きながら頭を雲の立ち上がる方に向けて波を分けた。人が見ればお姫様の行列だろうが、間違えば次の大きな間違いが待っている。もう止まることもやり直しもきかない。
 ローニンの5ノットならカヌーの動きは考えなくて良い。
 海水は白濁し軽石がハルに当たる。
 スタボー左手にはジャングルが硫黄に犯され枯れ木になって連なり、ポートサイドは直立した岩山がそそり立って、がれ場から噴煙を吐いていた。正に地獄の道行きだった。水路は狭まってきて、もう後ろに迫るカヌーなど考える余裕はないし追ってくるはずもない。
 このまま走って本当に抜けられるのだろうか。罠にはまったのではないか。
 ペラに軽石を巻き込んだら? 
 「やばくてもスターボに寄せてください!」
 私は黙ってラットを握っていたが、暑さの汗でない汗で手の平がぬるぬるした。小便がでたくなった。
 崖の際がひときわ沸き立っている。斜面はぶすぶすと燃えたぎっている。海面からも水蒸気が吹き上がっている。
 中腹から上は雲か噴煙で覆われている。
 我々は水中眼鏡をかけ鼻と口をタオルで覆った。風が変わったら、皆なキャビンに入り、残りのエアを放出して、お祈りでもしようか。シロットが咳をしだした。ドーンという響きで身体を縮める。石が、大きいのは崖を転がり落ち、小さいのがぱらぱらと降ってきた。
 もう誰もものを言う元気はなかった。数個がゴムボートを直撃しプラスチックが溶けたが手当てをする事も出来ない有様だった。勇気が挫けるのを見せるように萎れて、それを廃品にした。
 それがニカの最後の贈り物になった。

 振り向く余裕がでた。
 灰色の巨大な茶筒は、あの日と同じに島を隠して空に立ち上がっていた。雲の峰の積乱雲の頭が崩れ、オレンジ色に太陽を反射させていて、生きた怪物に見えた。
 セールを揚げられる風がでたが、スピンを揚げる体力も気力もなかった。
 三時間か、コンパスがぐるりと半回転して納まるところに納まった。状況は好転している。

 あの日で止まったセイコーも刻みはじめたのを凝視し、日付(デート)の上では無いはずの数日は幻影なのかまた混乱した。
 日没前風はSE12米、死者は蘇りローニンはややヒールした得意の姿でジブタックのシバする音が聞けるようになって、私はとっておきの氷水と、とっておきのバーボンをグラスにデッキにでた。
 水平線はもう暮れる夕日に染まっていて、島影も妖しい黒雲も視界にはなかった。

 「黒雲に乾杯!」
 喉が焼け付き不覚にも咽せた。やり直しだ。
 しみ込むような冷水をひと息に飲んでから、
 「ゴンザレスに乾杯!」
 バーボンより水のほうが旨いのを、この時はじめて知った。
 「レプラかどうか医者じゃあないからわからんし」
 私は言った。
 「象皮病とか蝋燭病とかいろいろあるだろ、熱帯特有の原虫かウイルスかもしれんし遺伝かもしれんし、栄養障害とか近親婚とか」
 サテナヴの最初の信号音がピーッと聞こえると、表示はまだ'N'でもはっきり我々の世界に帰り着いた安堵で満たされた。まともな世界が呼んでいた。

 それから四百マイル程走って、私たちはどうにかマルクの州都アンボンの深い湾の奥に投錨できた。
 シロットが船を下りたいというのを十万で慰留した。
 カマダは医者に行くとか言って出掛けた。

 私はホテル「マニセ」でこれを書いている。
 ペンを置いて両手をしげしげと見る。幸い白蝋化してはいないし感覚も鋭敏だ。
 あの数日は実際にあったのかさえ緑濃い芝生と赤く咲き溢れる花を眺めると疑問に思えてならない。
 それともカームの幻想か夢幽だったのか。
 頚に手をやるとイカが呉れた白い鮫の骨の十字架に触れた。
 立って窓から見やると、椰子の梢、錆びた貨物船の横にローニンの優美な姿が紺青の海に際立っていた。

 遥かサラホトの峰に雲が湧いていた。
 午後ひと雨くるだろう。


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