友人たちの論文集

庵浪人作品集
第7話 ブアの反乱

第九章 そして誰もいなくなった
 そして誰もいなくなった。メスが急に何倍にも広くなり風が吹き抜けた。

 淋しくも怖くも感ぜず、しかしなにをしていいかも解らなかった。
 マセが、野良犬が尻尾を振るようにして近寄った。
 「ダエントンポもレオも、サトウも死んではいない」 
 「生きている?」
 「怪我までは解らないスが、死んではいないす」 
 「おまえなんで解る?」
 「ムザカル反乱のときゃ、わたし働いたもんで。カラエンラオに拾われて、此処でこうしてトアンに拾われた。わたしゃあコーディネーターって役割、安心しなさって、トアンと同じこっち側の人間ですけん」
 マセはにやりとしてから、
 「人食いの噂にゃあ参りましたが、殺るほうは得意でして、ずっとトアンの番犬やってました。カラエンのお指図で」
 「二時間ほど待ちなせえ、段取りだと夕方六時マグリブの祈りを合図に、どっちが勝とうがP3は破壊されると聞いた。その時お望みならサトウを貰う」
 下から見上げているせいか、マセの身体が倍の多きさに見えた。
 「車を盗られた」
 「足は車だけじゃあない、あっしに任せなせえ」

 乾期の終わりを告げてこの日空は雲に覆われた。
 そして雨がきた。
 じきに雲と地面の間は水が溢れるようにして豪雨が視界を閉ざし、話も聞こえない降りになった。
 「神の雨だ。ブア川は水嵩が増す。トアンクボの仕事で橋は落ち、パロポの兵隊は命令されても来れない。あっしに任せなせえ、トアン」
 私はレッペとマルチヌスに、「私が帰るまでメスを頼む。残った荷物を全部ひと部屋に入れて鎖のダブルロックで施錠し鍵は捨ててしまえ。トアンは必ず戻る」
 二万渡して言った。
 待った。暗くなった部屋で。

 セイコーダイバーが6時18分を指した時、続けさまに凄まじい轟音とともに火柱が宿舎を揺すった。雨の簾のなかに椰子の林がシルエットになって浮かび、消えた。
 「きつい旅になる。こっちへ」
 マセの腰には彼の足より僅かに短いパラン大刀が向きを変えた時ドアの柱にごつんとあたった。
 「トアン、得物は?」
 昔帰国の土産にと造らせた黒檀の木刀が壁に掛けてあったのを咄嗟に外した。
 我々は小走りに道を横切り、小宮山の眠る原っぱを突っ切りマセのあとを追う。
 土饅頭にはもう幾筋もの雨の道が川に向かって流れていた。
 レッペが手を貸すとそれがカヌー以外の何物でもない頼りないプラフ小舟が草の陰から表れ、流れに抗してロープがピンと張った。左右に太い竹の浮き子が取り付けられていた。
 「腕木に掴まり身体を水に沈めて舟といっしょに流されていって下せえ。撃たれても水は弾避けになる」
 なま暖かい水に浸かったが、もう何処までが水面なのか解らぬ降りになっていた。カヌーは流れに斜めになりながら下りはじめた。
 マセが何処にいるのか見えないが、川は左に曲がりそして右に折れた。
 岸の土手がだんだん高くなってきて河幅は30b位取水口のずっと上だろうか。

 また大きな爆発音がして左手の空がぼんやり明るくなった。
 大きく曲がって流れは澱み、舟はほとんど横を向いた。
 土手が大きく抉れ、橋桁が川に斜めに刺さっていた。マセが竿を押した。
 ジープが原型に近い形のまま、これも斜めに半分水没し、タイアの焼ける焦げた臭いが鼻をついた。マセの竿先にヌーッと人体らしい物体が浮き上がった。
 魂に捧げる祷りの言葉を諳じていなかった。マセは物体を無造作に突き動かした。
 カーン!と撃たれて、ずぶりと水に潜った。
 不思議と当たる気も死ぬ気もしなかった。
 「シアパ イニ(誰だ)!」 ビームライトが水面を舐めてカヌーの鼻を捉える。
 「マセだ」 でかい声だった。その方がいいと思いもう一度潜った。
 土手を滑り降りてきた数人が舟を引き寄せ、私はどうしたらいいのかマセと小声で呼んだが返事はなく、身体が冷えたのか小便がしたくなり、そのまました。
 暖かいものが股を伝わった。
 「シニ (こっちだ)」とか「アワス (気をつけろ)」とか人数が増えたなかに、佐藤が二本の竹棒で挟むように結わえられて運ばれてきた。
 「佐藤!」
 ビニールシートに全身を包まれたサトウは、ちょうどカヌーの幅いっぱいに収められた。左をやられている、と誰かの声がした。
 「センパイ」
 土手の上からトンポがP3の炎を背にして、表情はわからないが両脚を開いて、「すっく」といった表現で呼んだ。
 「パロポだけでなく、マリリニッケルも立った。同志シャリフデインの働きで守備隊も同調した。ハサヌッデイン空港も発電所制圧も時間の問題だ」
 「戻れない道を往くわけだ」 
 聞こえるような声は出なかった。

 一瞬に輝き、栄光のなかで死んでゆく多くの革命家の物語が浮かび、決めたのならそれまでの生命を燃焼できるのはむしろ幸せだ。
 「マカッサル、ブギスの道はひとつ」
 答えが返ってきた。
 「死ぬなよ」
 「アルハンブリラア、ノルデインもレオも傷ひとつ負っていない。サトウは跳ね弾が腿から腹に入った。盲貫通なら良かったのに残念だ。処置はソンダ先生がしたが早いがよい。行け!」
 ダエントンポは正確な挙手の礼をした。
 「ジェネラルは?」
 「ーーー」
 私は手を挙げて応えた。濡れ鼠で。
 「マンガッサラ、 ウーラーッ!」 
 歓声と連射が続けさまに沸き上がった。
 倦怠と無能のP3の連中のどこにこんな力の結集があったのだろう。
 マセはもうサトウの場所を作り、短いマストにロープを捲いていた。
 「マセ、これからどうする?」
 「異な事を、マカッサルに帰るんでしょ。サトウをステラマリスにお連れする」
 「行けるのか、こんなプラフで」
 「行けんでどうする。車がくるまで、つい昨日まで、みんなこ奴で行った」
 「サトウ、最後の我慢だ。頭をあげていろ」
 佐藤はどこにいるのか、わかってはいまい。
 譫言のようにP3が燃えていると繰り返し、何度もしゃくりあげていた。彼にとっては青春の証しが消えようとしているのだ。

 パロポ最後の叫びが、この時起こった。
 ボイラーにオシタニのではない火が入ったらしく、凄まじい爆発と蒸気が豪雨を押さえて天に立ちあがった。
 佐藤を下に、重なるようにカヌーに伏せた。
 トタンやら破片が飛んできて川に飛沫があがった。
 泥だらけの上体を起こして見回しながら、こんな夢を見たことがなかったかと真剣に考えた。

 マングロープの茂みの横に水門があり、マセが開けようとするが、水嵩が増したせいで下にも閂があるらしくびくともしない。
 マセの眼くばせを待つまでもなく、息を吸い込み柱を伝って潜った。届かない。
 届いたが腕の力では外れない。場所の目星をつけて水中で海老のようにまげて足で蹴った。どっと水流が起こり身体ごと流され、背骨がきしみ、したたか水を呑まされて咽せた。
 「乗んなせえ、夜は鰐が多い。足の怪我はサトウだけでたくさん」マセが笑った。
 エンパン(養魚場)なのか平らな水面があった。タコの林が遮るように囲っている。どこをどう通るのかマングロープの茂みには細い水路が通じているらしく迷わず進む。
 魚かそれかは知らないが時々ばしゃっと水音がしたり、顔を掠めて何かが飛び去る。いちど枝で顔をいやという程叩かれた時は、猛獣に噛まれたと生きた心地もしなかった。
 視界が開け、汐の匂いもした。
 「満潮で仕事が早い」
 とマセ。

 ぼろ布のような三角帆を張る頃には雨は嘘のように上がり、速い雲間に半分の月さえ顔を出した。小舟はぐいっと風下の浮き子を沈め、風に乗った。
 飛沫がひっきりなしに細い舟に躍り込み、水を掻い出すだけで佐藤に声もかけてやれない。背中と腕が痛くもう駄目だ。
 風が変わりセイルは反転して舳先が風上に切り上がり、片方の浮き子が宙に持ち上がるほど傾き、せっかくの水汲みも徒労に終わった。
 月が隠れ、それまで黒く見えていた海岸も消えた。
 「よし、マセ、俺が代わる」
 帆綱を少し出し速度が増すと、舵柄が浮き上がるので足を使って押さえた。塩水には鰐はいないだろう。
 「コッ、ボスもバジャッラウト(海賊)の流れで?」
 「お前よりソルトだ。(海人)オランラウトだ」塩気があると言ったがマセには通じなかった。そんな余裕すら出てきた。
 マセが手をかざして方角を出す。なにを頼りに位置をだすのか、ついて行くよりしょうがない。
 「そうさ、俺は知っているんだ。街じゃあ君のサリーが待っているぞ。濡れて死んだ奴はいないんだ。がんばれ」
 塩水か汗かを拭いてやり、ひっきりなしに話し掛けるが額は火のように熱く、呼吸も短い。

 二億数千万の金と三年半の労働の報酬がこれか。怪我人と、字も書けない坊主頭と割り箸みたいな舟で濡れ鼠。
 人間が馬鹿か利口かは知らないが、人間一寸先は闇という事は絶対なる事実だ。
 「雨とおち、露と消えにしわが身かな、浪花のことは夢のまた夢」  秀吉

 今日のことを予期できなかったから、明日のことも解らない。解る事は佐藤のあしたを作ってやる事だけだ。くたばったら明日を想うことすら出来ない。
 まだ若いのに。出来る事なら代わってやりたい。
 また激しく雨が落ちてきて帆がジャイブ(反転)して波に突っ込み舵は利かない。ヨット用語ではブローチングと言う。マセも浮き子にぶら下がったり奮闘している。余程腕力がなければ波に抗して身体を保持出来ないのに。
 もうこれ以上濡れないからいいが、寒くて歯の根があわず、その昔油壷で乗ったクルーザーと女どもを思い出そうと努めた。大きくヒールしてブローチングしたっけなあ。いったいあれは何時のことで、本当にあった事だったのか。
 真追手に風がシフトし我々は重労働から解放され、重しとなって舟の後に陣取り風の速さで走ったから舟の上に風はなく震えは止まったが、今度は小舟が重労働を強いられ竹の横桁やマストがミリミリ音を出し、泣いているように聞こえた。いまチョッパーな横風が来れば一巻の終わりで為す術はない。
 人生では祈るよりほか手立てがない状況があるが、今夜はまさにそれだった。
 しかし私にはどの神に祈ったら叶えてくれるのか知らない。
 そんな男の気紛れな願いは神様でもことわるだろう。

 緊張しているから眠くも怖くもないし泣けも祈りも出来なかったが、そのお方のお力で距離は想像以上に稼いでいる。うしろに飛ぶ波頭でスピード位はわかる。
 穴ぼこ道をよたよた走る陸の乗り物とどっちだ。
 うっすらと夜が明けはじめる。パロポの空も、マカッサルの空にも、将軍にもトンポにも平等に。ステイムラン中尉の夜は明けない。岩佐も千葉も久保にも。
 陽の光は味方だ。低い位置からまだ濡れた大気を通して光線が帯状に見える。
 気持ちも落ち着く。 

 「マセ、アラニャブットウール(方向はいいな)?」 
 「ヤア、ブナール」
 海面よりもう一段濃い黒い岬を迂回すると、そこには絵のような入江が抱き込むように広がり、平和と風を交換したように風は止まり、砂浜まで一時間以上かかった。
 岸にはこれと同じプラフが三隻繋がれ、我々を認めた男がニッパ椰子の部落に消えるのが見えた。
 マセは部落にはいったまま出て来なかった。鶏が鳴いた。
 無人ではないだろうが人影ひとり子供も表れなかった。
 疲れと焦りが時間を変えてしまうが、セイコーはきっちり四十八分経過を教える。それにしても静かだ。
 波の音ひとつしない。

 また鶏が鳴いた。
 なにかの喚声があがった。マセを囲むようにして男たちがあらわれて真っすぐこちらに来る。あまりいい状況ではないと分かる。そこの空気に張りがある。
 「困った事になりました」
 マセらしくない。
 「カネならある」 
 「金で済めば、たぶん駄目でしょう。 どうします?」
 「どうしますって、何を?」
 「実は、馬車は貸すっていうのですが、村長が通さないって言い張るのです」
 村長だけでなく、男たちも通さない顔だった。小柄だが赤黒い痩せた身体に短く腰巻きを巻いていて、上目ずかいで無表情に私を見詰める眼に独特の迫力があった。もう何か決めている。こういう顔は札びらは紙屑と同じだ。
 「おかしいじゃあないか、馬車は貸す、だが通さない。なにか欲しいものでもあったら言え」
 「いや、それが村長は、オランジュパン日本人だと知ると顔色が変わり、絶対駄目だと。昔の大戦の時、日本兵が此処へ来たと思って下さい。米や鶏を徴発したと思って下さい。その時いざこざが起こって、村長の親父とあとひとり殺されたと思って下さい」
 「………」
 「それから此処へ来た日本人はトアンが初めてで、村長はバラスレンダム(仇を打つ)と息巻いています。それでなくては村長のシリッは消えません」
 「またシリッか。やりきれん」
 老田の二の舞だ。 
 男には暮らしにくい土地だ。
 「馬車は用意する。死人を乗せて何処へでも行きたい処へ行けと言われました」
 「出来るわけないだろう」
 マセのうしろの刺すような視線を避け下を向いて答えた。
 「もっと南に行けばシンジャイに出ますが、軍の駐屯所があるし、なにせ遠い」

 ニッパ椰子の小屋から男達が湧いて出てきて、真ん中にサロンを肩から垂らし、頭に竹の細い皮で鉢巻きをした四十がらみの男がいた。村長なのは一目で分かった。
 「ブギスのやり方で、一対一で、と言われています」
 あまりの出来事に何の恐怖心も闘志も湧かない。
 ブギスの神が生け贄を運ばせたのか、馬鹿馬鹿しい、まるで戦国時代だ。江戸時代までもいっていない。
 「マセは手伝う事は出来ません。しきたりです。村の男達も同じです。シリッですから。やりたくなくても、向こうはもうその気です」
 男は両膝をつき、両腕を耳の脇まであげてお祈りのような仕草を繰り返している。マセは腰の大刀の紐をほどき、渡してよいものか私を見詰めた。
 わたしは後ろ手でカヌーの中を探した。木刀に触れた。
 どうせ逃げられない。もう一度向こうを見て、いっそ飛び込もうかとも思ったが相手の出方も分からず、その勇気はとても無かった。
 儀式だけで済めばと思った途端に胴震えがして止まらない。謝る事も考えたが、袋叩きにされるのは、いくら私の知らない日本兵の身代わりとはいえ情けない。

 先方はそんな選択にはお構いなしに、声に出してなにか言いながら、サロンを左腕に巻きつけ、パランを一振りすると皮の鞘が飛んで中身が表れた。
 マセのやつと同じで錆びてはいるが、牛でも人でも使い勝手は同じだ。
 どうしようもないので私は立ち上がり、左手で素振りをくれた。重くはないが身体が細かく震えて止まらない。
 村人がサッと左右に別れたので私は諦めた。
 息を吐いて太陽の位置を確かめた。幸いそれは海から照っていた。
 村長は太り気味の骨太で、重心が低い。頭、鼻、肩、造作がいかつい。この手の男の力は滅法強い。組み合ったら十秒は持たないが動作はたしか鈍い。
 まだ二十米は離れていたが、男はがに股で足場を固めて腰を落とした。これが遊びなら汐招き蟹とそっくりだった。
 わたしの視界は白っぽく変わって周囲が見えなくなってきた。

 二十五年ももっと前、毎日稽古させられた記憶は泳ぎと同じで忘れない。脳の指令なしに動けることだけ祈った。
 震えようと震えまいと、私は右手を添えて高青眼に構えをとりながら足の親指の感じを確かめた。幸いカヌーの中で靴は脱いでいた。
 男は野豚でも追うようににじり寄りながら五米まで近寄った。尻が引けているから前後の動きは俺の方が速いが、地面が砂だから動いた方が不利になろう。男の片手剣は間合いを大きく変えられるが二の刃は苦しい。いくら力持ちでも返す刀の重さは倍増する。私が見切る以上に彼が強力なら、それで終わりだ。振らせようと思った。振ってくれた。まだ離れているのにブンブン振ってくる。
 少しでも堅い足場を探しながら眼を細め、彼の顎の下に視線を定め半歩左に封じた時最初の打撃が木刀の先を掠めた。威嚇にしても手が痺れるように強力だったが、それで私は彼の手の内が飲み込めた。
 持直しながら左八双に間合いを詰める。横殴りの打ち込みだったがまだ距離がある。はじめて村長の眼を見る。
 右に踏み込み誘って振りおろす。
 フユッと喉を鳴らして切り返してくる刹那、斜めに寄せて小手を切り上げた。
 僅かに手の甲に切っ先が届いた。
 パランは左に流れ、返す刀でその左を叩いた。今度は物打ち二寸で鈍い音がした。県大会ベストフォーの得意技があっけなく決まった。
 彼は飛び下がったが波打ち際でバランスを崩し、肘が体から大きく離れた。小股二歩を詰め、私は腰を沈めながら右腕にしたたかの打撃を見舞った。
 どっと汗が吹き出し木刀を持つ指の感触も失せていたが彼の刀は波に洗われていた。
 彼は恐怖の形相で腰を屈め、左手でクリス短刀を探すが柄が右を向いていて抜けない。
 勝負はもうついた。
 「ラチュン!(毒)」
 マセが叫ばなくても知っている。クリスに毒を塗り込めるのは。私は迷わず的の大きい水月を狙い、身体ごと突きを入れた。外れるはずはない。
 片腕が利かなければ身体は動かないものだ。
 私だってせいいっぱいの興奮で足が流れそのまま倒れ込んで転倒してしまった。
 男たちが一斉に駆け出してくるが、もう私にはなにも出来ない。
 木刀が波に洗われ足に当たったが取る気も、取る気力もなかった。
 村長は苦痛で平家蟹のような面相だったが気絶はしていない。急所が外れたのだろうが、もうどうでもいい。村人に救け起こされて私を睨み付けた。気の強い人だ。
 私はベストのポケットから赤いスイスナイフを取出し、少し惜しいと思ったがニッと作り笑いをし、痺れる手で差し出した。何か言おうとしたが喉の唾が一滴も残っていなかった。眼に塩水の滴が入り沁みた。

 小さい馬は痩せていたが馬車にはいろいろ積んであった。椰子の実、干し魚、バナナ、葉っぱに包んだ飯、荷台に厚く草が重ねられていた。括ってあった二羽の鶏は放してやった。イスラム帽で正装したらしい数人が軽く会釈してから、
 「スラマット ジャラン (道中ご無事で)。恨みは消えたと村長の言葉。 ピソ ナイフは二人の タンダ ブラニ (勇気の印)。帰る時また此処を通ってくれ。待っているから」
 いい気なものだと思ったが、どうしても受け取らない濡れてしまった七枚程を握らせた。
 ひどく長い時間と思っていたが、平家蟹に会ってからでも二時間はたっていなかった。
 マセはにやにやしてしきりに首を振っている。
 「サムライとは知ってましたが、あれほどとはね」
 そう言いながら、腰のパランを器用に使って椰子の実を削ぎ、穴を開けて差し出した。普段は青臭い味で好きではなかった果汁を一気に呑み干し、もう一個催促した。
 堅い実が、まるで自分の頭蓋骨を持っているような気分だったが、ハイネッケンでもこれ程の味ではなかっただろう。
 佐藤の口にも近づけたがマセは諦めた。果汁は頬を伝ってこぼれるだけだったから。
 痩せた馬に鞭をくれても速さは馬が決めていて変わらない。マセの古いシャツがどこぞの国旗のようにはためき、彼の裸の脇腹の傷が馬車が揺れるたびに伸び縮みした。
 わたしのシャツはごわごわで、気持ちも同じようになっていった。

 「マセ、俺たちは何処へ行くのだ。此処はどの辺りだ?」
 「行く先はステラマリス病院、此処はワジョの西シデンプンの村まであと少し」
 眠くもない、腹も空かない。佐藤の頭を保持していてもひっきりなしに汗をかき呼吸も荒く言葉もない。
 馬車は竹林を進んだり崖の断崖の細道を辿ったり、松も生えているから高台なのかいくつもの岡を越えた。ひなびた集落が道に添って数軒並び、マセはそのなかの縁台に座るイスラム帽と土地の言葉で話し、また鞭をくれた。

 橋のない小川を渡り小高い山裾をまわると、いやな臭いが鼻をついた。屍臭だ。
 これは死体を焼く臭いだ。
 マセはこわばった私の表情を一瞥して、
 「皮を鞣す工場」
 とひと言。
 「カラエン親父もお待ちです」
 皮工場は「元」の字がつく。写真でしか見た事のない現実がそこにあった。
 汚れたランニングシャツと弾帯を着たパルチザンが、本人より高価なオートマチックを二の腕で支えて、吸いかけ煙草を放り二本指でマセに挨拶したが、マセは無視して関門を通過する。
 明らかな野戦基地とすれば、昨夜の決起との関連は?今朝の立ち回りより極度に緊張した。生命への緊張ではない立場の緊張といったらいいか。
 まさか国軍相手では大関と序の口だ。無謀を通り越してトンポと同じく先のない自爆行為でしかない。権力に反逆者のレッテルが貼られるだけなのに。
 馬車が侵入するにつれ広場には、私が見た事もない新品の兵器を組み立てたりしている男たちの姿が増えて、これはベトコン規模の野戦基地だろうか。

 「よう、来たな」
 「バパカラエン!」
 「前から言っていたろう、オープンフェスタには出るなって」咆哮にも似た大声で笑った。
 ラジャデインはTシャツに南部の作業ズボンとワークシューズ、シャツにはビキニ娘とサマーバケイションインハワイと染めた、およそゲリラの統領に相応しくない出で立ちだったが、突き出た太鼓腹はホルスターの止め金いっぱいで地位を示していた。一段高いテラスにあがって中を覗くと、私の見知っている顔、髭のタカラアの郡長、バンタエン、ブルクンバの長老が壁を背にして居並んでいた。
 佐藤が若い者に担がれて裏に消えるのを見送りながら、
 「ピクニックにしては派手だなあ。汚れるだけ汚れて。ラグビーでもして来たのかマルワでも逃げだすなあ」

 笑う度に横腹の銃身が揺れた。
 「パロポのクンバン アピ(花火大会)のニュースはその日のうちに届いたよ。マセと海に向かったのもついでに知ったから待っていた。そこまで汚れている情報には欠けていたが」
 「SSBはレオが目の前で破壊したのに、何でそれを?」
 「だから文明人は困る。コミュニケーションは電波だけではないぞ、伝書鳩とか狼煙とかあるだろう。儂のは「人の口には戸はたてられない」をリファインした、云うなればエージェントだな」
 このままでは、これから幾人もの死者が出る決断にも、戦うのが愉しいのか、至極上機嫌で続けた。
 「昔は度胸だけだったが、近ごろは道具がなければ相手にされない。コレクションに時間がかかったがストアが開ける程ストックした。海の向こうにも親友もいるのでな。
 こういったプロフィットがないゲームにゃあ、ジャパンは頼りにならない。カミカゼスピリットが懐かしくなるよ。君のジャパンはなぜかころりと女性王国にかわったが、此処におられる同志諸君も儂のように世に出たら独立戦争、それから15年毎に血を見てきた。男の子が授かったらこれでよしと戦場にいったものだ。自分の意志の半分は残る。君の国で謂う生まれ変わりだ。インドネシアイスラムにもローダ・ドニアって輪廻の考えがある。だからマカッサル人は女好きなのかしらな。戦う以外は寝ている」
 まわりの空気がざわめくような小波がたった。

 「なにか喰うか」
 若者が奥に消えて、私も親爺の指した部屋に移った。
 廊下から見える部屋にはレシーバーを耳にした二人の男がダイアルを操作していた。これは本格派だ。
 若い者が皿にナシ・ウドウック田舎飯を山盛りにしたのをがっついて手掴みで口に運んだ。部屋には茣蓙しか敷いてなかったが、英語でない船積みマークが黒く書かれた木箱が天井まで積み重ねてあった。

 私はそれに凭れて坐った。親爺は持ってこさせた藤椅子に久しぶりで付けた腰の物で座り悪そうに坐り喋りはじめた。
 「動物に喧嘩はつきものだ。高等になると縄張りも出来てくる。よけいに喧嘩が多くなる。進歩した人間社会は投票と議会政治で事を運ぶが、それは決め方の極く一部だし、決めたからと申しても、多数と強者の言い分が通って少数は泣き寝入りだ。投票政治も共通のコンセンサスで成り立つ。アメリカの大統領は日本人には決められない。こんな簡単な事がアキヤマのいるスラウエシなのだよ。
 スラウエシの事をジャワが決めようとするのがそもそもの間違いだ。我々は古い人間かもしれないが、諦めて暮らすよりは決着をつけるほうを選ぶ。勝ち敗けは考えない。
 敗ければ投票で敗けたのと同じ、やり方が此処流の違いだけで、また時期が来れば同じ方法でやるだけだ。
 弓矢の時代はずっとブギスとマカッサルが噛みあい、オランダに大砲で噛み殺され、君の国は喧嘩する前にいなくなって、毛色が同じだから嗅ぎあっていたのがリパブリックインドネシアだったが、狐だとわかった。

 生命はさっき申したようにあまり重要な要素じゃあない。反対しないでくれよ。あんたの国が投票するようになったのもついこの間の事だろ。
 利害が異なり、欲の皮が厚くなると、話し合いは時間の浪費だし、我慢とか話せば分かるといった消極論よりも前進、戦えの積極論が、そんな場面ではアッピールするものだ。この国も言葉の魔術が横行している。「指導された民主主義」。それだと今の政府が指導し、それに異を唱えれば反対分子になる。インドネシアの資源は総てジャワ以外の外領にある。そして最大種族は何もないジャワ人だから、一人一票の決まりじゃあ公平は期しがたい。儂もジャカルタ・ヒルトンで女の尻ばかり追っていたわけじゃあない。そうエド時代の仇討ち、そうなんたっけ、クラノスケだって煙幕に女を使ったろ。この不公平をスマトラアチェやパダン、マルクアンボンの有志と話し合った。独立の時だって地方に多くの国が出来た事も話し合った。
 インドネシアはひとつのアッピールは、スカルノが少しでもインドネシアの名前で白人から権益を奪いたい一心で言った事だ。幸い成功して、インドネシア領は旧オランダ東インドで独立したが、そこには政治的な区割りで種族文化の考慮のひとつもない。地方自治を復活させる共同体国家が一億五千万の住民が一万数千の島々に住む世界最大の列島国家のあるべき姿、ジャワの小島の連中の言いなりにはなりにくいいということさ。インドネシアはまだビハインドだ。いま基本体制を造らなければきっと後悔する。
 ジャワに権力と富みが集中してからでは余計に多くの時間と犠牲が出る。国を思う気持ちも時と采配でどうにも変わるのだ。鉄砲持ってる千人より素手の一万人が勝つのだよ。
殺しきれんからね。勝ちたければアトムしかないだろう。
 再出発は40日、一万人がヤスクニか。隠しても世界の情報もはいるしね。ユナイテッドステーツオブヌサンタラ」
 記憶はその辺までで、そのままのピクニック姿で佐藤の容体も聞かず、飯の礼も言わず昨夜の闇に戻るように眠ってしまったらしい。

 がばりと跳ね起きると忘れていた体の右側、中尉の拳骨と中尉に飛ばされ、ポーチから転がった、水門で回転した場所の記憶が蘇り呻いた。
 そっと態勢を立直し時計をみたが夜光は死んでいた。
 ジッポも濡れていたし、第一眼が開かなかったので、もっと重大なダメージがあるのかと一瞬どきりとしたが、眼は塩水が乾いてくっついただけだった。
 ランプの灯りを数人の頭が囲み、壁に十数人が眠っていた。
 ラジャデインがどこからとも表れて、いやいやをするように眉を寄せて言った。
 「足は二本あるから一本捨てればいいが腹のほうがな。
 どうせ海につかったのだから、気絶しても塩水治療をすればよかったのだが、マセも文明人じゃあ無理としたのだろう。傷は壊疽になりかかっている。暑い国だからこれからは時間との戦いになる。うまく行くとは限らんが止めても無駄だし、道中のことはマセに任せた。

 昨日点に火が付いて導火線のように線で走る。いまはまだそんなところでそのうち面になるが、儂等の線はまだチャンバの峠までだ。それから街まで多少の段取りがあってな。ゲリラなら夜が似合いだ。いま出発すれば儂のキャデラックだと峠は昼間下ることになり、ワルダルモノの旦那にもなりかねない。トアンサトウの手当てもいれて、お出ましは朝にせい。街ではまた眠れないかもしれないからな」
 消毒剤だと言ってボトルを投げて寄越した。カナデイアンだったが喉に沁みて飲みくだせなかったが、イスラム教徒の真ん中で恥もなくアルコールの世話になった。ワルダルモノの事まで知っている人に意見は出来ない。ゆっくりもう一度横になった。今度は眼が冴えて眠れないが、起き上がる気力もなくボトルに手をのばした。

 親爺のキャデラックは、塗装が剥げて元の色が何色か不明のトヨタピックアップらしく、ヘッドライトは片方だけで左は盲人の眼のように穴だけだった。ドアは他の用途に供されたのかふたつともない熱帯仕様、タイアはとうにコードが露出し、白いオイルのあがった煙を吐き出し寒いのか震えていた。
 大丈夫ですかと聞くわけにも行かないが、馬車があったらそっちをとりたい。
 「マセが保険だ。離れるんじゃない。運は平等だがガイジンには有利と聞いている、とでも思っていろ」
 マットを敷いた荷台に佐藤が横たえられ、上体をキャビンの背に起こしてやや持ち直したようだ。
 「さあ行くぞテインギ、根性持てよ、甘ったれるなよ、少しばかりの傷で」
 「すみませんボス、迷惑かけちゃって。僕は眠っていたのですか」
 「ばか、死んでいたんだ。それが生き返ったんだから二度とは死なない。ずうずうしい奴だ」
 ラジャデインは会話がわかるからこの荒っぽい励ましを笑って聞いていた。
 「二時間おきに必ず薬草を替えろ。いまはただジャムウ薬草が喋っているだけだ」

第九章 終


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