友人たちの論文集

庵浪人作品集
第7話 ブアの反乱

第三章 ルウの国パロポ
 呆れる程長い峠からの下り坂をくねくねと辿れば分水嶺の反対側に出る。そこがルウの国パロポだ。

 わたしが最初に入った頃、谷にかかる橋は、車の轍の幅に二本ずつの椰子の丸太を縛って渡し、その上に板切れを横にわたしただけのもので、ひとたびタイアが外れれば板はもんどりうって谷底に落下し、車は宙吊りになる始末だった。自分が失敗しなくても前のバスなどがそうなれば、数十人の乗客や村人が、押したり引いたりして移動させるのを待たなければならない。橋の近くの村が労賃稼ぎにわざとそんな橋にしているという話も聞いた。
 いくつものそんな橋を渡る時は谷底から冷たい風が吹き上げてきたり、なかなかの避暑気分になれるが、昨日の夜明けからの連続した山越えのがたがた道で、歴戦の私でも願い下げと考えはじめているのだから、小宮山がくたばるのは致し方ないだろう。むしろその方が谷底などを見られるより衛生上いいかもしれない。
 
一度何かエンジンがおかしくなって止まったが、やっとこさパロポの町に着いた頃は陽は沈み、理由はわからないがブア川の手前の小屋が焔をあげて燃えていた。
 いまだに何だったのだろうと考えている。マセも無言、私も黙ってそこを通過したが、戦国時代の焼き討ちのようなひどく不吉じみたものが感じられた。いつも野次馬根性まるだしのサトーも何も聞かず黙っていた。

 メス(宿舎)は寝静まってしんと静まりかえっていて、アシスタントエンジニアの佐藤と数人のボーイと小声で挨拶し、小宮山を担ぐようにしてプラントサイトに帰着した。

 ブア小学校運動場に隣接してコの字形にタスと呼ばれる日本人技術者チームの宿舎がある。広い前庭の道に面した門に赤白の共和国国旗と白地に赤丸の、遠い北の国の旗が掲げられ、その道を村の十字路を越えて直線でプロジェクト正門に至る。建設現場を通り過ぎればボニ湾のスワンプ海岸に出る。

 小宮山マネージャーの体力が回復したか、まだでも、してもらわねば困る。
 口に合うものが無くても食わねばならない。立場上こんなものが喰えるかとは言えない。
 現場にいるタスと初対面しながら紹介した方が印象があると考えたが、小宮山は部屋でリストを見ながらにしたいと言った。皇太子への御進講のようだ。
 「それではナンバーワンからはじめてください」
 「一番は貴方と私だ。事務引継ぎが終るとわたしは失業することになっている」
 「そういうおっしゃりかたは止めて下さい。わが社は人材を生かす会社だし、契約書を拝見しなければ何とも申せませんが、本当に失業なさるなら、僕のパパに頼んであげてもいい。南部の大株主だから」
 「ありがとう、その時はね。次にゆこう。チーフエンジニアの岩佐銀三郎、彼も私と同じ契約社員で子飼いじゃあない。歳のせいでもないが頑ななところがある。彼との論争は益がない。二年になるが言葉もからっきし、君の会社の生え抜きの佐藤君のほうがよほど使える」
 「ひいき無しにですか。岩佐さんは地方国立でも土木あがりだし、佐藤君は高卒でしょ。それに序列もあるし」
 「五日もしないうちにわかるよ、使えない事が。免状も文明国の経験も此処での価値はない。意欲と工夫に価値がある。泣き言を並べても柱一本おっ立てられない」
 「あのう、初めっからちょっと言いにくいのですが、海外部の噂というか、評判と言ったらいいのか、帰国した者の報告なども総合して、秋山さんはワンマン、独断専行型で何人からか苦情も本部長の耳に入っているのですよ。此処も一応組織ですから」
 「決断が、こんな環境では大切なんだよ。たとえ間違いとあとで分かったとしてもだ。衆議を尊重していたら生命にかかわる事も起こり得る。君もマネージャーではなくリーダーになって欲しい」
 「ナンバー3がその佐藤だ。ノッポだからここの言葉でテインギと呼んでいる。ナンバー4が君と旅をしたチビのペンデサトウだ」 
 「あだ名でよぶのは良くありません」
 「じゃあ、佐藤信雄係長、あなたの靴の中にさそり蠍がいるみたいです。小宮山英彦課長にご報告しますか、と言うようにしよう。ペンデ、いや佐藤、名前は忘れた小さいほうだ。彼の鉄筋の仕事は終っている。技術も抜群でローカルへの移転も出来た。勝れた語学力と順応性は学歴ではないな」
 「業務が終っているなら帰国させれば。少しでも経費削減が部長のお気持ちですから」
 「表向きは確かにそうなる。しかしローカルの管理に彼は欠かせないし通訳も兼ねている。現在通訳は空席で、それが岩佐氏の標榜する契約違反の種のひとつだし、正式の日・イ通訳となると高いし此処にまで来る奇特な人はいまい。佐藤を改めて通訳で再契約するには一度帰国させねばならない。書類の体裁を作るだけで莫大な経費がかかり、部長の意に反するので君の言う独断専行人事に落ち着いた。佐藤は此処が好きだし、マラリア以外ただの一度も欠勤しない」
 「きっと貴方のファンなのでしょうが、書類上の不備を突かれたら誰が責任をとるのです?」
 「もちろん、チーフのわたしだ。いや今日からは君がとるのだが」
 「僕なら帰国させます」
 「お好きなように。彼がいなくていちばん困るのはナンバーワンの男だ。悪いけれど新任チーフはまだ唖で聾。サッカーでいくらフォワードやバックスが強力でも連携するスイーパーがいなければ点はとれない。もっとも君にボールゲームの喩えではわからんか」
 パロポで二人のサトウとの三年以上に及ぶ生活、仕事とはいうものの、現場との考え方の違いで起こる実務外の問題の如何に多かった事か。それに日本人技術者にしてからが頭数と同じだけ考え方の違いがある。二十社にも及ぶ異なった企業から派遣された専門家が、それぞれの会社と本人の思惑が重なりながら水の中に浮く油のような生活を強いられれば正常な神経も損なわれ易い。僅かなショックでも激しい反応をしめす。自分に責任がないなら、人間の生身の反応を心理学的に分析する興味も湧くが、目的があって集まった仕事だからそんな悠長なことはいっていられない。
 「ナンバー5からはメーカー派遣の人達、ボイラーの押谷君、クリタ水処理の山下君、彼は可哀相にフラストレーションで口数も少ない要注意だ」
 「医者に診せたのですか」
 「ソンダ先生の診断は熱いと寒いかのふたつだけ、あとは祈祷師の世話になる。赤痢ティフスは病気のなかには入らない。コレラになって初めてやや緊張して、食器を煮沸しようと考える。いつも考えるだけで実行しない怠け者だが。精神科?聞いた事はある、シンガポ−ルにあると。そこまで残念ながら2500キロ、知床半島から琉球の距離があるから、行き着くまでにこっちが精神病になる」
 「貴方のおっしゃりかたはいつも冗談混じり。特に派遣員の健康管理にはもっと真剣に対処しなければ。他企業の人もおるし、万一の事が起こったら南部の名前もあるし。応急医薬品などどうなっているのです?」
 「ある。あるにはあるがとても君のストックには及ばない。抗生物質とアカチンが少々、下痢止めにクレオソ−ト、ストマイもあるが此処の蝋燭病には効き目がないそうだ。が必要になったら言ってくれ。腹痛がうどん粉で治った男もいた。病いは気からかもな」
 「こればかりは貴方でも絶対に反対です。すぐ報告させて頂きます」
 「小宮山君、データ好きなら確率でゆけよ。三年間病気でくたばったタスがいたかね。俺達は物見湯山じゃあなく仕事で来たのだ。健康でなければ仕事は出来ないし判断も狂う。しかしいいかい、それを見極めるのは本人じゃあなくて君なんだ。朝から夜まであっちが痛いこっちがおかしいと言っている野口みたいな男もいるが、それは薬じゃあ治らないんだ。君の親身の指導力なのだ。事業保険の事も考えて日本送還かジャカルタかシンガポールに移送するか、占いか放っておくか、それは患者じゃあなくて君が決めるのだ。説明には飽きた、まだ患者が残っている、先にゆこう」

 ブア川は設計段階では敷地の東側を流れていた。取水口もそれに合わせて設計、船積みされた。クリタ工業の山下君が頬を紅潮させてやってきた。
 マカッサルの港でバルブ類が盗難にあい、その補充に四ヵ月かかった。やっと配管工事が完了する頃豪雨がきて、洪水が引いたら川の流れは反対の西側に変わっていた。
 村の損害は山羊と牛が逃げ遅れて二、三匹溺死しただけだったが、クリタの損害はプラント配管そっくり逆になり彼の努力は文字通り水泡に帰した。本社がそれを信じないわけではないのだろうが、写真とか詳細報告を送る頃からああなってしまった。毎日貯水層のある炎天に立って時間の来るのを待っている。
 「NO.7と NO.8がグリいう。据え付けは終わったが接着剤調合に必要なボイラーに火が入らない。これは現場で押谷君の説明のほうがいい。接着剤保管には冷蔵設備の追加がある。なにせこの暑さだ。が予算にないとかでウイリー中尉と交渉しても埒があかない。稼働したら毎日セスナで日本から運ぶ積もりらしい。
 9から14までが主機のスライサー、ホットプレス、カッテイングなど最新鋭機。だが福島製作所がリストアップした不足部品が来ない限り音は出ない。三ヵ月前から今週届くと言っている。此処での一週間はどうも単位が違うようだ。15がソウミールの千葉、此処では一番長くひとりで仕事をしている。目立ての腕がいいのでインドネシア側が離さない。開所式に関係なく当分お金を稼げるのはこの賃挽きだけ、一年以上試運転といっているが稼ぎは連中が山分けしている。いや先方サイドの事で我々は関知しない。

 さて、次に控えるのがシートパイルの老田と久保。作業も人物も多分あんたの嫌いな事が大好きな連中だ。工場基礎はとっくに終わったが、当時労務者二人がパイルの下敷きで事故死している。帰国させたいが軍が追加工事で桟橋を造るとかで足止めされている。来た以上あれこれ言わんが本社人事を疑うよ。ふたり共モンモン彫ってる」
 「モンモンて何の略です?」
 「モンモンとはくりから紋々のことさ。それでわからなきゃ英語ではタトウというのじゃないかな。なかなか見事な彫り物だが、この国じゃあ御法度の事くらい部長も確かめなかったのかな」
 見られてはならないもののようにリストをめくり、彼は続けた。
 「18番は池貝の内山ですね」
 「ゼネレーターの内山なら半年も前に引渡しを終えて帰国している。あんたの持っているリストはそれ以前のものなのかね。あんたも経理課じゃなく、れっきとした海外部のエリート、本社はそんないい加減な管理しかしていないのか。もっとも機械を売ってしまえばその後の技術サービスはむしろ付足しで儲けにならない。熱も醒めるわな。金さえ入ればあとはいくらでも言い訳はつく。此処の政府と似たり寄ったりだ」
 エリート小宮山は顔も赤らめず、恐れ入りもせず、名誉も誇りも傷つけられず、
 「そういう事のないよう本社は僕を派遣したのです。期日通りに完工するよう今後は徹底的に管理します。これ程ひどいとは正直思わなかった」
 「自惚れるな、お若いの。君はただ日本人の最低限の健康と安全だけを考えればいいのだ。それ以外、小宮山君、我々には出来ない」

 彼はただ真面目なだけなのだ。彼の頭脳はいままでの学校の勉強と試験方法に慣れ、それに成功して親兄弟、親戚縁者からいつも褒められるいい環境に育っただけなのだ。
 裏切りも絶望も、失恋さえもしていないだろう。判断の基準がその狭い幸せの範囲にあるだけなのだ。一足す一は二でそれ以外にあるわけはないのだ。
 しかしこの世の中、それは1.8だったり2.2になったりする。

 「小宮山君、此処のスケジュールはあちらが決める。我々はただ御質問にお答えする立場なのだ。百歩譲って我々が主導しても、此処ではネジ一本調達出来ない。
 そこへ最新鋭オートメ機械が国軍のオッファだった。専門家なら最初の時点で適合を考えたはずだが、オートメのほうが値段が10倍だ。儲けも10倍なら黙る価値がある。ソフト面では限られた伝達方法、電話電報はなく、唯一のSSB無線は監視つき日本語禁止。荷物を発送してもジャカルタからマカッサルに定期航路はない。
 やっと港に着いても税関とコーディネーター(調整局)が待っている。泥棒も待っている。コーディネーターは仕事を円滑にするのが役目だと思っているのだが。君は英語が堪能らしいからトーストとミルクのある街の税関折衝から仕事に入るべきだったかもしれん。
 そうすればチーフの岩佐が、税関に押さえられている日本食を食えないのは契約違反と、帰国したら私と南部を訴える決意を翻すことが出来るかもしれん。
 君が頼りの本社もこれ以上ネジ一本出したくない。既にオーバーエステイメイトだから。まあ、根性据えてかからんと水の山下になるのがオチだろうが」
 予備知識が強烈だったからか、本来の性格なのか、ただ腹が下っていたからか、小宮山は若者らしいきびきびしたところがない。戦争なら一番先にお陀仏だろう。
 なにをするにも時間がかかるからテンポがあわず、廊下を行ったり来たりするはめになる。どうしても実行すると息まいた朝礼も体操も、彼が音頭をとらない限り率先する者はいない。早くそうなってくれるのが待ちどうしい。
 がらんとしただだっ広い工場事務所で岩佐氏は几帳面に書き物をしている。

 小宮山の赴任、今朝はふたりの打ち合せで十時四十八分出社と記録する。裁判資料はもうノート三冊にはなろう。
 「岩佐さん、小宮山さんが来ても日本食も製図機も税関からは出ないよ。貴方がワイロを払うというなら別だが。
 契約違反と言っている風呂は小宮山課長歓迎の意味で特別でかいのを造る。南部の金ではなく私のカネで。期待していて呉れたまえ」岩佐氏は恨めし気に私を睨んだ。
 どうしても反りの合わない人はいるもので、岩佐氏は苦手だ。最初から工期よりも自身の契約を優先する白人みたいな男だった。
 だからといって見切りを付けて帰国するわけでもない、帰国してもこんなにおいしい実入りはない。それは私が保障するし本人が一番知っている。
 それより事務所ではその薄汚れた登山帽は脱いで欲しいな、今度のチーフマネはきちんとした人だから。
 真新しいNAMBUマークのヘルメットを小宮山の七三の頭に載せてやりながら、「人の管理より、先ず君が環境に慣れるのが肝心だ。暑さも含めて。体調が悪ければ絶対無理は禁物、熱帯を甘くみない事です。気負い過ぎるのが最も毒です」
 「解っていますが、それが出来るような状態でないのも解ってきました。ビジネスに甘えは禁物とパパが申します。今週中に服務規定を作りますから協力して下さい。それと、口はばったいかもしれませんが、秋山さんも南部のユニフォームでお願いします。統制の意味からも」
 「私はユニフォームを着ると昔から蕁麻疹がでるんだ。気持ちは南部だから許して欲しい」

 私はこの数年、此処でいろんな人を迎え、そして送りだしてきた。瞬く間に順応する男、どうにも馴染めず障害を起こす者。年令も学歴もまったく参考にはならなかった。
 本社の対応にも問題がある。技術枠にはめこむだけに汲々としていては会社も本人も無駄な苦労をしがちだ。講習会とか適性選考をするとか、現地事情を事前に少しでも把握していればおおいに変わるだろう。外国というからビルが林立していると思っていたり、熱帯と聞いて虎やライオンがいると信じて来た技術者もいた。
 南部が一部上場を目指し、海外事業に飛躍を求めるなら、私にユニフォームを着せるより前にやって貰いたい事がある。それが証拠にその後帰国した彼らと会っても、その時の事を話題にしたがらないのをみても解る。パロポクラブを作る話も実現していない。
 海外には巨大な市場があり、まだ各社とも手探りなのだ。
 談合を重ねる狭い日本から雄飛するにも一騎当千の人材だ。
 もし小宮山がやれたら、十年にして南部は海外事業のナンブになれるだろう。

 奥の部屋はそれぞれ施主である国軍から三羽烏の技術中尉と、インシニョール技師と尊敬されるから、ペンより重いものは持ちたがらない大学出の技術者達と無線室。
 中尉はウイリーが土木、トンポが電気でステイムランが建築と総括。社長のスダルト少佐はお忙しくて五日に一度昼飯をとりに来ればいいほうで、大学出のモジャイニ、ノルデインはこの国では現場に出てはいけない規則でもあるのか、総てがデスクの上で解決出来る頭脳なのか、実際の仕事は下のレオ、フセイン、タジュデインなどが、ふたりのサトウにリードされてこなしている。
 最近色気づいたレイナとリタが紅茶を入れる。小宮山君は若いから売りだ。
 「新任のミスタコミヤマを紹介しよう、英語でやって呉れ給え」
 「コミヤマさん日本のどこですか」
 トンポが忘れかけた日本語で尋ねた。
 「パードン?」 小宮山が聞き返した。
 「He seems to be not understand Japanese, Biarlah berceritakan Chinese」
 英・イ語チャンポン、それもすごい巻き舌で、日本語お分りにならないよう、支那語でどう、とステイムランのいびりがはじまった。
 彼は初対面ではいつもイニシャティブをとろうと居丈高に出るのが悪い癖だ。士官学校出が自慢の出世頭、軍隊とインドネシアのほかには何もない。
 「よかったなあ、これで楽になれる。ラジャ(王様)は街に帰るんでしょ、アキヤマサン」
 「君と別れたくないからずっと此処にいさせてよ。帰る時はいっしょだ」ウイリーの肩をポンとたたいた。
 ウイリーは如才ない。中国混血で出世を諦めていて、大過なく勤めを果たして一刻もはやくスラバヤに帰りたいのだ。
 「シンジュクによく行きました。貴方はイケブクロ?」
 トンポ中尉は私と半々に見ながら知識を披露した。彼は小宮山と同じ六大学の理工出身で、世間では立教より上にランクされているようだ。政府交換留学生だから 俊才に違いないが、イスラムでの日本生活の苦労話には真が篭もっている。大学はでたけれど、で入隊したと言った。
 彼だけがスラウエシ、それも純血マカサルニーズだ。電気技術が買われたのか日本語でか、地域懐柔策かは知らないが、生真面目な澄んだ瞳と強烈な信仰を持ち、代々スルタン親衛隊長の家柄だからラジャデインも血縁になるはずだが、彼のような冗談は一度も聞いた事がない。
 中尉達で座っている者はひとりもいなかった。ステイムランは食べたものが全部筋肉になるようにバナナの揚げ物を頬ばって、次のイビリ言葉を考えていた。
 チェンケ煙草の煙が充満して小宮山でなくても喉が痛くなる。東京の職場とは大分落ちる。殊に銀座本社とは。
 「当分いつもと同じで行くよ。坊やが慣れるまで中尉の喧嘩相手はまだこっちだ」人差し指で胸を指し、ステイムランに笑いかける。彼は「フン」というように笑いかえした。
 メラプテイ赤白国旗が風のない炎天に垂れ下り、工場にしてはやけに静かな構内、黄色のブルドーザのシートからジャリムの足だけ見えている。ボイラー室の押谷を探す。
 押谷がにっこり小宮山と握手すると、歳も似合いで私は世代の距離を感じた。
 「なにせ二年以上も屋外に放置されていたから、据え付けたからといってすぐに負荷はかけられませんよ。本当ならX線検査でしょうが此処ではそうもいかないし。だましだましで六割ってとこでしょうか。それだと稼動率は四割にしかならないけど爆発するよりましだし、最初はそんな規模じゃあないですか。製品の売り先も決まっていないっていうじゃあないですか。儲かったらいちばん初めに交換ですね」「技術的にはそうなるでしょうが、見たところ錆びもない。全負荷運転は出来ませんか。あと数ヵ月しか猶予はないし、グリュウからもそう言われてきたし」
 「怖いね、なんならマネージャーがレバーまわしてください。僕の彼女も怒るから」
 広い屋根の下にメインマシーンがスマトラの象のように並んでいた。色もグレイだ。ここも試運転にはなにかが足りずグレイの塗装を磨くくらいしかさしあたりの仕事はない。労働者にとって暇なのは毒だ。使う方も使われる方も不幸だ。こういった時によく事故がおこり勝ちだ。

 隅のほうで笑い声がおこり、十人程がかたまっていた。
 たぶん真ん中にサトウペンデがいるに違いない。
 笑いながら広げてあったカレンダーの裏を巻いた。ローカル工員が散って行く。
 「?」
 「工程表じゃあないの」
 「僕にもわかりますよ。遊びだってことは」
 「それじゃあしょうがない。教えよう。ロットレという数字あわせの富籤さ。六桁的中で百万、二桁で一万とかいってた」
 「工期は遅れる、予算は増える、利益は減る。おまけに現場風紀は最低ときている」
 「やり甲斐があると考えれば。気に入らなければ新服務規定だ」
 歩き始めてもまた「一足す一」を話し掛けてきた。いっそ二を引けと答えようか。

 どかんと音がしたように私たちは工場の屋根の庇護からでて太陽の直射に曝された。彼はサングラス、カルチェらしいのを、昔いた按摩のようにかけた。敷地の外れのシートパイルの連中も、カルチェでないにしろ黒眼鏡で振り向き我々を認めた。
 「よう大将、お揃いで。暑いね。そっちの新入りかい。
 名乗んなってば。こっちゃあパイルの名主ってなもんだ、なあ」
 ローカルは意味もわからず皆んな笑った。
 「新マネージャーの小宮山さんだ。失礼のないようにな」
 老田は鳶職のニッカボッカに地下足袋の制服をくずさない。
 「小宮山さんから雲がでた、つぅもんだ。よう小宮山の、お手柔らかに頼むまっせ、こうみえても気が小せえけんによ」
 「まともな口もきけんのか、この雲助野郎。人を見て話せ」
 「これだもんね、大将にゃあかなわねえ。老田つうの、むこうが久保のばか」
 小宮山の表情はカルチェでしかとは判らなかったが、異人種との遭遇に違いはなく、止せばいいのに三回程会釈した。これは会釈とはいえずぺこぺこ頭を下げた。
 「大将、聞いたゼ。地獄耳だけん。やるんだろ、頼むよ、連れてってくんろ」
 と右の人差し指を曲げた。
 「しょうがないな、遊びじゃあないんだが。小宮山さんに頼んでみろ」

 新マネージャーに人心をひく為、働きたくても働けない沈滞した空気を一掃する為に着任フェスタを計画した。
 タスの連中はすきやきが希望だが、ここの牛の肉はブレーキパットより硬い。ふたりのサトウにも相談して前にも好評だった鹿で代用することにした。
 はじめ罠も考えたが、招待状をだしたあとで肉がないじゃあ示しがつかないので、ウイリー中尉の軍銃を借りることにした。
 基礎打ちの連中ときたら飛び道具が好きで、スプリングの切れ端でドスを作ったとか、ステイムランのコルトを撃たしてもらったとはしゃぐ手合いだが素人に変わりはない。
 銃を持っただけで男は興奮するし、暗闇のなか懐中電灯で赤く光る両眼の真ん中を射抜く事は出来ない。誤射もありうる。
 勢子を使う追い出し猟にきめ、村に人をやった。

 夜明け前、我々は尾根伝いのいつもの場所に陣取った。風を見る。
 「煙草を吸うな。話しもするな。小便も屁もひるな。出来たら息もするな」
 老田は預けた銃を撫でたりさすったりしている。
 「中途半端に持つな。銃口は空か地面に向けておけ、斜めにして」
 そういう時だけはやけに素直に聞いた。
 しらじらと夜が明けてきた。勢子の動きもないうちに、頓間な牝が、こともあろうにぴょこんと15メートルもない岩陰から突然あらわれた。こっちを見ているとおもったら老田の銃が火を吹いた。弾先横に俺がいるというのにだ。至近距離で鹿の腹はふっとび、
 「やったあ!」
 「やったじゃあねえ、俺が肉になるところだ、大事な肉もふっとんだ」
 とにかくふたつになった獲物を手に山をおりると、勢子が捕らえた一頭も厨房に運び込まれた。
 コックの藤田は仏頂面をして、
 「ボス、あたしゃあ確かにコックで契約したんだけど、ろくなネタもないどころか、毛の生えた鹿の生き造りはないでしょ。これ芝の屠殺場の仕事とちがいます?」
 「まあそう言うな。着物脱がすのはレッペとマルチヌスがやるから」
 鹿は頭だけになっても恨めしげに藤田を見上げていた。
 スキヤキパーティも楽じゃあない。バケツの中の肉はまだぴくぴく動いていた。
 今夜の特別ショウはサトウペンデが移民村からジャワの踊りを呼んであると聞いていた。ここから東に行くと人口は希薄になり、マサンバに政府によりジャワからの移民村がある。インドネシアはおかしな国で、何によらず片寄っている。
 全人口の僅か一割の華人が経済の九割を握り、その九割が首都ジャカルタに集中し、面積比わずか一割弱のジャワ島に人口の七割がひしめいて世界一の密度というのに、狭いジャワ海の対岸カリマンタンは平方粁に十五人か。
 政府はトランスミグラントと称してジャワ人の外領移住を奨励援助しているが、新天地開拓の勇ましさも机上と現実はいつもギャップがでてしまう。
 ジャワ人は本来土着性が強く、生まれた土地に執着するから、支度金と只の土地を貰ってもすぐ出戻ってしまう。
 移住地が荒野でも、地域住民にとっては祖先伝来の土地に突然杭を打たれて、誰とも知らない余所者が入り込めば穏やかとはゆかない。貧乏なのは彼らとて同じなのだから。

 人の生活には見えない垣根がある。習慣も言葉も異なり同じインドネシア人とは表向きで、我々と同じ外国人なのだ。
 五ヵ年計画で何万人といった杓子定規の計画ではなく、地縁とか自分の意志とか肌理細かい配慮が必要なのでは。
 強権ではこじれるばかりだろう。
 街道を走るとそれまで高床式住居が突然と平屋建に変わりジャワ部洛とわかる。
 地域に孤立して交流の欠片もないのはお互いに不幸だといっているうちはまだいいが、抜き差しならない憎悪が湧かないか心配だ。

 急拵えのみしみしする舞台に数人の楽士。竹笛、どら、木琴と、故郷を出る時こればかりはと持ってきた古風な胡弓もあった。
 まぎれもない哀調を帯びた調べが流れる。下手さかげんがそれを倍加するように。舞姫が右手から表れた。手製の冠を載せ、瞳を見開きそして伏せ、腕を振り指を震わせながら舞う。笛が泣き、胡弓がむせぶ。
 「よう、ねえちゃん、いいぞう」
 馬鹿者日本人の野次。
 踊り子はそれを完全に無視して、瞳を中空に投げかけ、世の無常と己れの不幸を嘆くかのようにくるりと廻る。衣装の帯が男性の皮ベルト、素足が厳しい労働で荒れているのも痛々しい。部落の一週間分の食い扶持がかかっている。そんな、部外者の思惑をよそに悲しみを通りこし、怒っているような厳しい舞姿だった。
 「ボス、これ案外いけるね、さっぱりしていてさ」
 「口に合って何よりだ」
 お肉のお味より、残り少ない醤油の在庫が心配だ。
 ローカルで酒を飲むのはクリスチャン・バタック人のステイムラン中尉と数える程しかいない。イスラム教徒では酒は気狂い水でしかない。彼らは砂糖の塊のような菓子を齧りながらドミノ遊びに興じている。
 空には見たこともない無数の星が煌めき、降るようなという形容がぴったりだ。
 時折遠雷か天空がきらりと光る。場違いな松島音頭の合間に発電機の音が単調に聞こえる。これでタスのストレスが和らげば安いものだ。
 「センパイ、ゼミ明けのコンパのようです。紺碧の空を唄いましょうか、まだ覚えています」
 「君は理工の弱電だったね。日本人でもなかなかの難関だ。大した頭だ」
 「いやセンパイ、学生時代は勉強よりもっぱら留学生待遇改善運動で忙しくて。日本政府はあれでなかなか渋チンですから。電気サーキットよりも人のサーキットに興味が湧くなんて。技術者は元来ひとりで働くものなのに。先輩は集団の力を信じますか」
 「集団によるね。この国の『指導された民主主義』なら信じない。言葉の魔術でしかない。多数決というのも難しい。農民の視野は、見える範囲でしか行動しないしエゴが先走るしね。ここには昔からムシャワラとかゴトンロヨンとか呼ぶ原始共産思想があって、財産は個人ではなく村のもの、必要とする人に優先権がある。所有とか権利とか西洋個人主義とはいささか異なるようだ。そんな集団なら強固でそれなりに良い制度だと思うけど、経済が変わり所得格差とか欲望が増すと維持出来なくなる。情報が増えれば比較、優劣が起こってくる。昔はカリスマ、いまはマスコミか」

 「日本では明治レボリューションにも興味があり勉強しました。あれはフランス革命以上の成功だったとの評価があります。オークボとかイトウの名前が世界史に書かれないのがむしろ不思議です」
 「あれは庶民革命ではないよ。上流階級の思想遊びが高じた陣取り合戦だったと厳しい判定をする学者もいる。そして次代を背負ったのは二流の人物で、一流は時代の要求に忽然と表れ、花を咲かせるや早々と消えていったとは或る作家の言だが」「次に来る時代、マサドウパン、、、」
 トンポはこの場に相応しくない怖い顔をして一点を見つめた。
 「なんだいその顔は。インドネシアは独立した。二流とはいわないが新しい指導者で君たちが次代を背負って立つのだろ」
 「独立時代は終わり建設の時代だとスハルト大統領は言う。独立を勝ち取った国軍が民衆の先頭にたって国造りをする。僕は軍人だからそれをやり通したい」
 「民衆を指導するのは両刃の剣だ。民衆を指導するなど出来ない相談で、出来たとしたら逆戻りだ。大河に竿をさすような方が方がむしろいいのじゃないかな。無知にみえても農民はしぶとい。軍人といったって所詮民衆の汗の中でしか生きられない存在さ。閉鎖社会、軍のことだが、そこに住むと盲目になるか独善になるか」
 「秋山さんは本当にそう思いますか」
 「まあな。国と呼ぶ得体のしれない怪物がひとり歩きするとお仕舞さ。日本はそれで何百万人が死んでしまったからな」
 「日本は幸せな国です。敗戦しても国内に何の恨みも残らない。国民全部が犯した過ちとしている。利害得失をひとつに凝縮出来る国は珍しい」
 「じゃあインドネシアは違うっていうの」
 「まだ理想の段階かもしれない。そう願うのですが」
 「インテリにはかなわない、こんな夜でも議論だからな。ジャワ娘の話も出来ないのか」とウイリイ、ビールで顔を染めたバタック野郎も兵隊特有の体臭といっしょにやってきた。

 「ジェントルメン、我々の苦労もあと少しで報われる。インダストリイの誕生だ。インドネシア陸軍万歳!チャオ!」
 頭のイをエと発音するステイムラン中尉はアカデミイで鍛えたいい身体だ。肉体だけでなく脳味噌もそこで貰った。軍人の理想的人格だ。それ以外に耳を貸さず聴く耳も持たないように教育された。トンポ中尉の話の続きでスハルト批判など出てきたら、建国の父として歌まで唄われる彼の尊師を侮辱したとか単細胞は困る。
 「チャオはまだ早い、中尉。ソウミールは稼いでいる噂だけれど、プライウッドはそう簡単にはゆかない。工業は総合力だから。中尉はそのひとつをじき手に入れる。戦いはそれからだ。未知の世界といっていい市場原理の修羅場に身をさらすわけだ。鉄砲で脅かしてもこればかりはどうにもならん。引き金を引けば弾が出るのとはわけが違う」
 「最新設備、豊富な資源があって負けるわけがない」
 「機械は人が動かす。ベニア板はいつかは出来るだろうがコスト高の粗悪品。軍だか政府だかがいつまでその負け戦に耐えられるかだ」
 「はじめから高い悪いと言わないでもらいたい。われわれにもノルデイン、モジャイニなど立派な大学出もいるのだし、それらにアドバイスするのがタスの役目だろうが」
 「タス契約には儲けを探すのは入ってはいない。大学は授業料の割りには儲けの保障もしていない。経験不足が残念だね。プラントも貰い物だし」
 「貰い物とは言うじゃあないか」
 「君たちはいつもそうなる。カプテン・ステイムラン、工事が終わり将軍に認められれば我々はキャプテンだ。そうなればこんな山の中にいることはない。下手にかかわってうまく行かなければマイヨールにゃあなれない。女房子供も町に帰りたがっているだろ。スラバヤに。略章に黄色の帯をつけてスラバヤに凱旋だ。ウイリー大尉、御用はって士卒もつくんだぞ」
 ウイリー中尉はもう大尉になった積もりだったし、あと数か月で現実になるだろう。ステイムランとのにらめっこから眼をそらすと、そこにはもうトンポの姿はなかった。

 わたしはそれでなくても冷えていない煎じ薬のようなビールをあおった。

第三章 終


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2018-09-10作成

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