友人たちの論文集

庵浪人作品集
第7話 ブアの反乱

第二章 パロポの現場
 パロポの現場に行く前にカラエン親爺に会わねばならない。嫁さんの伯父だし情報も聞ける。
 小宮山もダウンしてしまったので、遅い午後ベチャに乗った。

 スングオプの古い家並みを過ぎると、昔のゴアの王宮跡にでる。当時はここが海岸で、高床式の大宮殿と着飾った人々が往きかっていただろうに、三百年たったいま、赤土の広場に傾いた数本の石柱が立っているだけだ。
 十七世紀にオランダが香辛料を独占しようとこの地に介入した時、マカッサル王スルタンハサヌッデインは、「海に境界線など引けるか」と果敢に抵抗し、白人侵略者は東に雄鶏あり、と怖れたという。
 隣国ブギスの寝返りもあってゴアはオランダ連合軍に屈し、マンガッサラは灰塵に帰し、その名も忌まわしいフォートロッテルダムに変わる。町も文化も根こそぎにされて、当時の面影は僅かに港の横に博物館として残るベンテン(保塁)だけだ。歴史はこの街に厳しい。
 掠奪と破壊の過去はその静かで美しいマカッサルの佇まいからは想像も出来ないが、要害の地の宿命は甘美な平和からは遠い定めか。
 危なっかしい橋を渡ると、欝蒼としたガジュマルの森が親爺の住み家だ。
 ひんやりとした空気が小径に流れ、庭師が昼寝している脇を廻ると、古いオランダ風の三角屋根としみだらけの壁、斑らな犬が吠えて、私を認めて間違いに気がつき尻を曲げた。
 「アッサラーム アライコム」
 イスラムで巨大な背中に挨拶をおくる。
 水牛と言うと怒るが肥肉のボリュームは他に例えようがない。
 小さい老眼鏡がゆっくり焦点をあわせ、
 「アライコム サラム。おぉ、来たな。新しいマネージャーはお坊ちゃんというが、ヒロヒトの子供かな」
 ルイアームストロングのようなかすれた野太い声、人なつっこい独特の笑顔で振り返った。
 この人に隠し事は出来ない。ロッキングチェアに坐っているだけでパロポの予算、知事の賄賂、警察署長の妾、日本の政変にベトナムの戦争、なんでも知っている。
 日本軍が敗走した後のオランダの逆進攻に続く独立戦争の時が17才、 ムーダー(殺人者)ウエスターレンに捕えられ、何でその汚らしい口から吾が美しいオランダ語がでるのかと、ピストルを床に撃たれて小便をちびった独立英雄A級退役大佐。
 南スラウエシ州選出国会議員だが、それを言うと水牛の冗談のように嫌う。

 インドネシアが共和国となって貴族はいなくなったが、法律より慣習が優先するここの土地柄では遥かに遠いジャカルタ議会より、多くの豪族の王のカラエン王としての存在は隠然たる力がある。
 正式にはラジャ・デインダエンラオといい、私は洋式にラジャデインというが、土地の尊称ダエンの統領カラエンと呼ばれている。族長を要めるのに相応しい大きい図体、頭脳の回転、カリスマ性は家柄なのだろうが、たくまないユーモアとその広い視野には一目おいている。宗教戒律で酒はたしなまないが、惜しむらくは女好きが玉に傷か。
 時代も変わってその舵をとる船の帆も破れがちだ。

 「これで役者が揃った。パロポも最終段階だ。フェスタのウンダンガン(招待)に儂の名も忘れんようにな。儂は日付けを忘れて行かないけれど、招待状は貰わんとな。なにせテクニカルアドバイサーの大将は、儂の婿殿だからな」
 「必ず。それにこれは最終でなく始まりです。スラウエシ工業の夜明けになるでしょう」
 「工業は競争で成り立つ。それに勝つ事で存続でき発展もする。お仕着せの入れ物があっても、中身がなければはじまらない。君には悪いがあれは立ち腐れだ。残念ながらこの土地には荷が重すぎる。産業は上からではなく下から育ってゆくものなのにこれじゃあ逆だ。あんなものをポツンと建てても、動かすにはいつも外国の力を借りねばならない。君達も只で働いているわけじゃあないだろう。
 それよりも、用水路とか稲作技術とか養蚕とか、教育に日本から奪った金を使うべきだ。だが学校とか人材教育、形に見えないものは点数にならない。井戸を千本掘っても、子供のトラホームを治してもベンツには乗れない。密林に輝く銀色の屋根が大統領に報告し易い」
 「まあ理想はそうでしょうが、建たないより出来たほうがいい」
 彼の第四夫人マルガリッチェが白い身体を赤青白三色のムウムウに包んでお出ましになった。はじめ母国オランダの国旗を巻いているのかと勘違いしたが、大柄な彼女には不似合いではない。KLMスチュアーデス時代には確かに美人だったろうが、最近肥えてうっすら髭も生えたか夫婦は釣り合ったようだ。
 「こんにちわ、久しぶりねえ。この前はジャカルタでしたっけ。トアンは紅茶よりコーヒーだったわね。忘れてはいないわよ」
 「ありがとう、リッチェ、できたらマダムのウインナ風で」
 「来月にでもハーグに里帰りさせると約束したからご機嫌がよろしい。子供達もいい経験だから、向こうが気に入れば転校していいとも言った」
 此処に輿入れする前後を除いて夫人は元の宗旨に戻ったから、この街でカソリック教会を捜すのは骨だし、前職が想像出来ない程、外国と外国語に興味も能力もない彼女は、いつも母国語しか喋らないし習慣も変えようとはしない。
 コストのかかる夫人といわねばならない。
 私との会話もオランダ語、私はその都度適当な言葉を使うが、混み入った話題があるわけでもないし、それで済む。しばらくしてウインナコーヒーが運ばれた事でもわかるだろう。
 女好きな親爺がロイアルダッジの機上で見初め、強引に掠奪した噂だ。前にそんな事を話題にしたら、
 「オランダは三百年、吾が祖国に乗っかっていた。今こそ儂はオランダに乗っかっているわけだ。近ごろはまた征服されそうだがね」と破顔大笑したものだ。

 マカッサル海賊の統領、前を向いてインドネシア語、右の客に英語で答え、左の私には冗談混じりの日本語で笑いかけ、夫人には流暢なオランダ語、部下にはブギス語で叱り、子分には故郷マカッサル語と、まるで歴史の積層を見るようだ。なんでそんなに言葉が達者なのか我々日本人には不思議だと聞いた事があった。
 「どこの言葉も方言だと思えば楽になるし、征服されれば誰でもこうなる。日本軍が来た時もトクベツ中学校で、バッキャローってよく殴られたもんだから嫌でもおぼえるものだ。いまの世の中はジャワ人のインドネシアだから、君もジャワ語を喋れれば出世間違いなしさ」と何の意にも解さないかのようだった。

 「アキヤマ、知っているかね、P3にはもうひとつのP,ピンハネ以外の目的があるのを。地図を見てご覧、パロポはボニ湾の最深部でルウ県の要害だった所だ。
 あそこを押さえればマカッサルの絡め手で、南スラウエシの穀倉地帯を掌握出来る。東にはドル箱になるマリリニッケルもある。P3の従業員に鉄砲を持たせれば即戦力になる。昔の日本を真似た屯田兵だ」
 「しかし一体、誰が攻めて来るというのです」
 「時の権力者は版図が広がる程悩みが増すものさ。疑心暗鬼、不平分子は何処にもいるからね」
 「政府は地域振興経済活性化の為にこのプランを策定したのでしょう。ひとつの国、ひとつの民族ひとつの言葉が国是なら、鉄砲とか戦争はもう過去のものですよ」
 「わかってはおらんようだな、嫁さんがブギスだというのに。インドネシアは世界に自慢出来るものがひとつある。それは世界で初めて多民族が一丸となって独立を勝ち取った事だ。三百以上の種族、一万数千の島でだよ。これは時が与えた宰相スカルノのカリスマと若者の純粋さと、曲がりなりに通じたインドネシア語があったからだ。目的も独立ムルデカと、戦う相手がはっきりしていた事もある。
 目的が達せられた後は、方向は多角化して触れたくないお金、経済が絡んでくると拳骨を突き出すだけじゃあ収まらなくなった。スカルノは東西陣営を危ない綱渡りをしたが限界だった。
 次の人は三流だ。先頭にたって引っ張るタイプではない粘液質で、演説はおろか、本心を明かさない密室がすきなジャワ人の典型だ。建設の父と言われている、言わせているが、要は言葉ではなくゲンナマだ。祖国の資源の先売り、切り売りでシナ人を重用しながら、結局私と組めば得だよと、大統領と父親の顔を使い分ける。
 日増しに官邸よりもチェンダナの自宅で取り巻きに囲まれて'Asal bapak senang '(貴方様さえ宜しければ)。インドネシアはジャワの国になった。正論を吐く気鋭の士は姿がなく、金の世の中になって行く。民主主義も「指導された」という頭文字がつくから、すべてが指導されるようになって、此処の知事、税関長、警察署長はみんな色の黒い丸顔小男のジャワ人だろう。地方軍監区ハサヌッデイン師団長もスハルトのまた従兄だ。
 ファミリイではない他島の余所者はそれじゃあ困るのよ。インドネシアの富はジャワ島以外の外領であるスマトラやカリマンタンとここスラウエシで、ジャワには人間だけしかない。パロポも決定までは揉めたものだ。地方出身者に技術教育もふくめた優先権を与える約束でサインしたのに、蓋を開ければブギス人はモッコ担ぎ、研修生は高級軍人や政府の馬鹿息子共、留学から帰ればあんな辺境には行きたくないと、費用はどぶに捨てたも同じになった。国会議員と云っても政府の推薦議員と御用軍人が半数以上、票決しない前に決まっているのじゃあ、大手を振って故郷に帰れるかね」
 「気持ちは解りますがカラエン、そんな事を大きな声で言わないほうが、誰が聞いているかわかったものじゃあありませんから」
 「馬鹿な、聞こえるように言っているのだ。言える事がリパブリックインドネシアじゃあないのかね」

 私はいつになく冗舌なラジャデインの言葉に返す答えもなく、庭のフランボヤンの赤い花をみやった。
 「まあいい。いずれはジャワの事はジャワ人が、セレベスはその土地の者達が決められる時代が来るだろう。話を現実に戻そう。そのアキヒトが来てアキヤマ、君はどうするのかね」
 「契約はまだあるけれど頭はふたつは要らない。彼が慣れたら身を引く事にしています。開所式を区切りにしています。これでもあそこには色々苦労した思い出もありますから」
 「引継ぎ事務が終わったら、すぐにでも帰って来て、この老いぼれを救けては呉れまいか。君と知合った時には君はもうパロポの人間だったから、今まで待っていたのだ。儂の自由になる舟は二百は下らない。儂の先祖はオランダが来るずっと前からバンダの海の富を扱っていたのだ。飛び魚、なまこ、真珠、あんたの国の好きな鰹、鮪やてんぐさもある。産物だけではなく、このラジャデインの顔、子分ども。この武器で君に世界の販路を開拓して貰いたいのだ」
 「いずれは世話になるでしょうが、今すぐにはとても行かない。新任者も思っていた程のサムライではないし」

 マングローブの生い茂る泥海に、最初のブルドーザを降ろし、敵前上陸さながらに荷揚げしたオペの梶原の顔が浮かんだ。P3の製品ができるまで、見届けたい気持ちがある。命令を受けてはるばると見知らぬ土地で苦労した男達もいるのだ。
 それでなくては一体いままでが何だったのだ。人は金だけでもパンだけでもないのだ。
 「君はパロポの製品が出来るまで、と顔に書いてある。ロマンチックな物語りは女共にせい。君のロマンは少なくても此処の役にはたちそうにないから。君の腰をおるようだが、パロポは着飾って身売りするのよ。フジヤマゲイシャのようにな。しかもよりによってチナ人に。日本のお菓子にもそんなのがあったな。ひとくちで二度美味しい、ワッハッハッハッ。いいか。君には君の考えもあろうが、今日はマカッサル、カラエン王では勿論なく、友人でもなく、義父として言うのだ。悪いようにはせん。早く、一日も早く帰ってこい」
 私は黙っていた。返事の言葉が無かった。

 夜明け前の四時、その日最初のスブの祈りが、まだ明けやらぬ椰子の梢を渉って流れる。
 'アルラーフ アクバル、アルラーフアクバル、
 アシュハドーアルラー、イッラッラー、イッロッロー
 アシュハドアンナ、ムハンマド ラルスラー'
 神を讃えませ、アルラーの外に神はなし。
 ムハンマドは預言者なり

 これから三百キロ、パロポサイトまでジープで三十時間、或いはそれ以上。
 増水と土砂崩れは神の領分で、祈るよりほかに手はない。
 佐藤は手慣れたもので、千巻きに似た此処の携帯食ゴゴスとジョニクロの空き壜三本に飲料水、作業衣と首の手拭いで準備完了。客人には最後の心尽しでホテルからサンドウイッチとママレード。パロポに住めばパンもバターも夢物語、ミネラル水ともお別れで、遅いか早いかの違いでしかない。欲を言えば限りがない。北極にも人は住んでいる。
 何が入っているのか三個のでかいスーツケースを積んだ横に、佐藤は技術者に来た手紙を入れた文箱を大事そうに膝に乗せ、客人はジープのシートがパパの外車より高いのか乗りにくそう。少しの動作でもたもたする男を見るのは嫌いだ。
 マセのジープは私が此処に住んでから同じ時刻を指して止まって動こうとしない時計塔を右折して北に向かう。
 発電所の点滅する赤灯も、灯火の少ないこの街では幻想的に見える。ガソリンスタンドで二個のジェリゲンも満タンにする。車は水では走らない。街道筋の油屋は文字通り水増しして売るから、泣かない為にも。
 レオフォンランケが塀の暗がりから精悍な顔とその高い鼻で方向づけるように表れた。
 「トアン、私物ですがこれを便乗させて呉れれば助かるのです」
 「いいとも、後ろに積んで呉れ」
 レオはパロポの主任技術者で、彼の父親はアムステルダムからこの街道を通す為に来た。九分通り完成した時に日本軍が進攻してきてスパイ容疑で逮捕され(実際そうだった噂はあったが)、銃殺はおろか、殴り殺された事、子沢山で生活が苦しい事、肺を病んでいる噂がある事などを小宮山に話している間に、重そうな木箱ふたつをやっと積み終えた。三つ目は木箱ではない若い男ひとり、狭いジープは満員になり、小宮山は明らかに不快な顔を隠そうとしない。
 「いつもこんな便乗を許すのですか」
 「相い身、互い身だからね」
 「この車はプロジェクトのものじゃあなく、南部の所有でしょ。断ればいいのに」説明してもはじまらない。此処は鳥も通わぬスラウエシなのだ。此処の流儀に従って貰う。そのうち自分でもわかる時が来よう。
 「レオ、重そうだけれど、中身は何だい。途中でパトローレに咎められたらバズーカ大砲ですって言ってみようか」
 「いや、中身は、サリミンの家の、その、井戸を掘ってやろうと。その井戸掘り用のパイプとか、、」
 「そりゃあいい。サリミンの女房の布団ならもっといい。トアンコミヤマが寝て行けるのに」
 井戸掘り道具を木箱に詰める、少しの疑問もあったが詮索してもはじまらない。それより私の背中に眼があったら、その若者の槍になった視線を見ただろう。
 私の眼は前しか見えないのがむしろ幸せだったかもしれない。

 海岸線に沿って北上する。両側のカユアサム大木並木が後ろに飛ぶ。
 市場に行く女達の頭に乗せた大篭、牛や山羊に道を譲りながら、パンカジェネの浮き橋まではちょっとした早朝のドライブ気取りだった。
 独立して十年後の1954年のムザッカル反乱(東インドネシアイスラム国樹立運動)で、この地方の橋は殆ど爆破された。ムザッカルは望みのない抵抗のあと国軍に射殺されて反乱は鎮圧されたが、その時の司令官が今を時めくスハルト大統領だった。
 一味の反乱を鎮圧したのは国家であり体制派だが、イスラムの正統を唱えながら粛清された事実は、立場が違えば殉死に値する行為だとする人々もいた。
 そしてそれらの人達はまだ生きている。

 ちょうど満潮で、ドラム缶を繋ぎあわせたりして作られた浮き橋は不安定で、さすがのマセもずぶりとタイアを滑らせる。我々は車内で身動き出来ず、ワイヤーとウインチでやっと脱出した。荷物は全部水浸しになった。サムソナイトのスーツケースも例外ではない。
 「エンジンに水が入らなくてよかった。それに三個目の荷物を積まなかったら、小宮山君も腰まで浸かって車を押さなきゃならなかったぜ」
 荷物の赤胴色が身体を拭いているのを横目にして言った。まあ順調な旅の始まりだ。パレパレの港町で昼。
 小宮山は一切れしか食べないので私もパンのお相伴にあずかった。喰わなきゃあ参るよと何回となく言ったが、濡れてしまったスーツケースが気になるのか返事はなく、二匹しかいない蝿に全神経を集中していた。
 エンレカンではいつものキャラバンを組む。モウリ平原で野盗マチャンヒタム(黒虎)がお待ちになる時があるからだ。官給品の錆びた銃がシートの下に転がっているが、日本人に射撃の名手はいないし、弾がでるのかも当てにはならない。お客が表れたら、マセを人質にして有り金残らずばら撒いて一目散がいちばんだ。
 何で走らないのかと聞かれたが、それを言うと彼をパロポに連れてゆかれそうもないので言わない。

 今日の相棒のバスの運チャンにお小遣いをやって、バスの先十分前に出発した。後ろについて日長一日埃をあびせられてはかなわない。
 レオの親父が造ったアスファルト道も、保守の観念のないこの国では既に剥がれて敷石が露出し、タイヤどころかスプリングの心配までしなければならないが、それも杞憂だった。すぐ先でアスファルトは終っていた。
 マセの出目は不明だ。いつ頃かプラントサイト現場にあらわれ、車を見たり洗車を手伝ったりしていた。小男だががっしりした骨太で、奇妙なスキンヘッドだった。暑いが理由だったが此処の男に坊主頭はいない。いかつい造作でも困って笑うと海坊主のようで愛敬があった。私の経験で顔と喋りと名前を聞けば、およその出身地を当てられたがマセだけは皆目見当もつかなかった。いまでも不明だ。本人自身知らないと思う。野良犬も生まれた場所は答えられない。物凄い混血が案外白い肌を与え、この近所のものではない。
 髭がないのは中国系ダヤクの血か。マセの名前にも何の根拠もない。イスラムならフセン、モハンマド、トラジャ・キリストならザカリアとかユヌスやマルチンダスなどだろうに。腰骨にかけて指一本はいる程の大きな傷は後天的な本人のものだが聞いても笑って答えない。けっこう遠い町の事も知っていて、変な常識と人生があった。
 お祈りもしないから、此処の連中からはやはり野良犬程度の扱いしか得られない。
 ある日ジープのエンジンから異音がでて運転手仲間の評定がはじまった。ウオータポンプとかタイミングチエンとかカムメタルとか騒々しい。私もそう思ったが、マセが後ろから小声でヘッドバルブと言ったのが聞こえたので、引きずりだしてヘッドを開けさせると、指摘した三番のイクゾーストが溶けていた。道具の使い方も手慣れていたので、この風来坊主を南部の運転手にした。字は書けないが、顔に似合わず、外人向けのおかしなインドネシア語をわざと操れるのも買えた。
 雇い入れに反対する声も普通ではなかったが、その日の出来事が動かない力になった。車を持ち逃げされたらはいい方で、あ奴は人を喰ったって噂がしばらく消えなかった。
 「おいマセ、お前は人喰いだって噂なの知ってるか。マカレーの山ん中で俺を喰うなよな」
 「滅相もないトアン、俺いちどだって、そんな!」
 「だがよ、なんで人が人を喰うのかなあ。祈祷とか呪いを消す為とも聞いたが」
 「うまいからじゃあないですか。腿とか頬、親指なんか柔らかいって」
 ハンドルから目を離し、ニヤリと笑われると噂を信じたくなる。

 佐藤は二日酔いで文箱を抱えて寝たまま、小宮山は午前中は首から下げたペンタックスをいじっていたが、観光撮影にも飽きたのか、床に転がった高級品にも興味をしめさず眼を閉じていた。三番目の荷物は本当に木箱になったように、微動だにせず、車はサダング川の激流を左にしてカロシへの峠道を登る。
 遥かラテイモジョン3400bの峰が雲に隠れることもなく望まれ、断崖の下遠くに蛇行して流れる一条の川があった。マカレーの山並みに冷たい風が流れ、私はオレンジ色のブレーカーを着た。サトウは首に手拭いを巻き、マセは昔あげた毛糸のセーターを重ね、新マネージャーのジャンバーはパンカジェネの水を吸っていた。
 マチャンヒタムも休業らしく夕日の沈む頃にはコトウのワロン茶店でアラビカが飲めた。サイフォンとかドリップなどと洒落たものでなく、コップにドバッと大量の粉を入れ上澄みだけ飲む。都会の薬品調合の仰々しさとどちらがリッチかと考える。
 マセは直行すると言ったが新人のことも考えねばならず、ランテパオのお気に入りのロスメン(旅篭)「マリア」を告げた。

 トラジャの国の門、舟形屋根のある橋を音をたてて渡る。シルエットになった段々畑、道を譲る農民のシリ を噛む真っ赤な唇がヘッドライトに浮き上がる。
 トラジャ人はその昔、海浜のブギスに追われてこの峻険な山の民となったといわれるが、彼らは始めからの高地民だったのではないか。顔も風習も異なるし、黒装束に菅笠はベトナムのメオ族と変わらない。
 人間は昔に遡る程長い距離を移動できたのだ。封建制が確立され、人は生まれた処で死ぬようになった。
 新人にトラジャのミステイックの話しもと思っていたが、シートに倒れこむようにして質問ひとつしないので手間が省けた。

 思いようでは雰囲気がある。ガラスのない跳ねあげ式の窓、石油ランプに影が白い壁に揺らぐ。ロスメン「マリア」は一世代前に宣教師が建てた泊まるだけの宿だが、私が来ると、ここの女主人はとっておきの食器を出して歓待してくれる。お世辞抜きで清潔と心暖かさだから讃めるのだが、彼女もそれを聞くのが大好きなのだ。
 自分の血の半分の由来にはまったく興味がなく、トラジャになりきっているが、箒に跨がらせたら町までひと飛びするような、痩せた高い鼻は私に西洋の物語りを思い出させる。
 低地のイスラム圏から表向きでもクリスチャンの此処まで登ってくると、自分がそれらとはなんの関係もないのに何故かほっとする。うわべだけにしろ、キリスト教の影響があるのか。楡の木陰、チャペルの賛美歌、セントポールサンシャインが日本に素晴らしい新文化を齎らしたからか。

 一般世界では通用しない不思議の民が私の故国でもある。神を選べる驚くべき国だ。生まれて七日目に神社に参り、婆さんが死んで浄土宗の坊さんがお経をあげると、翌日妹が目出度くミッションスクールに入学し洗礼とかいうのを受けたと聞き、結婚式は神宮か教会かを真剣に検討し、商売が左前になると祈祷師に占って貰う。
 誰も疑問にも思わない。なにせ路傍のお地蔵様の世界だから、絶対神への帰依は難しい。
 選択の余地のない、生まれた時神が定まっている世界に住むと、宗教の凄さ恐ろしさを感じる。神は見えない圧力でこの地に君臨する。私は疲れると何故かそんな考える必要のない煩悩が頭に浮かぶ。トラジャもいまはクリスチャンだが、尊厳な死への儀式は祖先の伝えを頑として変えようとはしない。人間の心は計りしれない。

 振り切るように歯の根も合わない冷たい水で水浴し、埃の服を着替えると、普段の不信心男に還った。
 椅子に坐った小宮山の身体が揺れているみたいだったし、そんな機会はこれからいくらでもあると、此処の風葬を話題にするのはやめた。
 喰いたくなければ喰わなけりゃいいと親切心も中止した。生まれてから髭がはえてもまだ人の援助があると期待しているこんなのが嫌いだ。もしかして男じゃあないのかもしれない。いずれ嫌でも人は一人ぼっちとわかる時が来る。それが嫌なら神のしもべ(下僕)になるか、母さんの子宮に帰ればいい。
 サトウは現実しか信用しない。それも夜しか。車の中で充分英気を養っていて、トラジャの木偶より、生きている木彫りを選んだのか呼んでも部屋にはいなかった。この卓越した時間配分ならイリアンの山でも生きていけるだろう。

 「マリアのコーヒーは本物だ」
 マリアが女主人の名前なのか旅篭の名前なのかいまだに知らないがそれで通っている。マリアの眼を盗んで、尻のスケットルからバーボンを補給する。酸味の利いたアラビカとアルコールのこのアロマ、神様はやはりおわした。
 「よかった。ほんとうに。夜は近ごろ物騒なの。変な噂があって洞窟に人がいるっていうの。黒虎 じゃあないかって」
 「遺品盗りじゃあないの、最近街じゃあ骨董品の値が上がったっていってたから」この地方には石灰岩の洞窟が多い。トラジャ風葬の奇習もそれを利用するし、穴堀りの好きだった日本陸軍もここに陣地を築いた事もあるが、なかは骸骨だらけだ。
 「住み家のない流人かしらねえ」
 「警察には届けたの?」
 「あなた本気? 警察なんてお金にならない事するわけないでしょ」
 「村長はなんて言ってるの?」
 「村長よりもダトック祈祷師が、悪霊の霊還りだから近づかなければ大丈夫って卦がでたから村じゃあそうしているわ」

 ここには村人の数より妖怪変化の人口のほうが多い。鼻をつままれても分からない真の闇を知らない現代人は笑うが、月のない夜に家から放り出されたら、誰でもお化けを信じるようになる。見えるという事は光が反射した事という単純な科学式を初めて理解出来るような、そんなにも闇は深く濃く、厚い。

 朝、跳ね戸を押し上げると、清麗な大気が心地よく、名も知らない花に、蜜を求めて蜂鳥がブンと羽音をたてながら空中の一点に静止していた。
 ドアの前に少女がしゃがんで私の起きるのを待っていた。
 ニ〜ッと微笑んでコーヒー盆をささげる。
 こういった朝がなによりも好きだ。もうずっと前に私の故国からは消えてしまった朝が此処にはあった。
 絶壁に穿ったいくつもの風葬穴に飾られた木偶が下界を往く人のなりわい(生業)を黙って見ていた。いままで幾人の男と女がそれぞれの業を背負ってこの狭間を往来したのだろう。
 私たちも、その蟻のような人生なのだろう。

 ただプンチャック峠という名の休み所で車が止まる。何も命令しないのにマセは知っている。こんなちょっとした機転が此処の人にはない。少し汗臭くてもマセを使う。
 いざり(躄)たちになにがしかの小銭を投げ、「小宮山さん、ちょっと、朝の観光です」
 無理に座席から剥がして崖の縁に連れていく。
 「あそこのジャングルのずっとむこう、下のほうに見えるでしょう、光って。あの米粒がこれから貴方の住むP3です。よおく拝んでおいて下さい。見納めになる事もないでしょうが」

 パロポプロジェクトは、遥か彼方に続く緑の海の中に、まったく調和しない硬質の輝きでピカリとその存在を教えた。


第二章 終


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2018-09-10作成

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