慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第36話 戦争賠償。借款援助、経済進出
 1951年サンフランシスコ講和条約が社会主義国を除く48カ国で締結された。

 中国は招かれずインドやミャンマー等は不参加で52年に発効したが、インドネシア交渉は難航し同国が平和条約を批准したのは戦争賠償交渉が妥結した58年のことだった。
 賠償額2億2300万ドル、借款4億ドル、債権放棄1億7691万ドル、賠償担保借款8170万ドル総計9億ドルの巨額で各国中最大だった。

 戦後賠償が日本に海外関与の実績を築くのに貢献したのはむしろ幸いだった。
 日本の急激な復興は官主導の賠償と朝鮮戦争特需が大きなインパクトになった。

 不良在庫が捌け、紐付き供与で製造業だけでなく建設業までが拠点と人脈を作っていった。
 個人は抹殺され、資本と技術の組織的関与が始まる。統括された組織で介入してゆく様は兵隊蟻の様相で、外国人には異様で不気味に映っている。
 鉄砲玉を札束に置き換えた現在の関与も、性情からかどこか不器用で、何事もその弾である金銭で解決しようとするようだ。

 賠償役務は当然政府の紐付き利権そのもので群がる官民の姿は異常で、岸内閣の賠償がらみの贈収賄事件にまで広がった。
 それを象徴するのが根本七保子の献上で'生きた人形の贈り物'は前代未聞であろう。
 スカルノへのプレゼントは彼女だけではなく金勢さき子など先約がいたが、若く美貌で計算高い彼女との競争に敗れて自殺したほど苛烈な戦争だった。
 デビ(稲の女神)と呼ばれて顧愛を受け独裁者の第三夫人に収まりヤソウ宮殿(弟八曽男の名、現在戦争博物館)に入り作戦は成功した。
 庶民の独立英雄ブン・カルノ(スカルノ兄さん)に寄せる支持は絶対で、若い時牢獄で不自由したからしょうがないと黙認していた。
 彼女が本当に聡明なら両国の関係は違った方向に向かったほどの権勢だったが、所詮ナイトクラブの夜の仇花と軽蔑されるのは彼女自身の処世による。理由はどうあれいやしくもスカルノ未亡人と吹聴するならそれなりの真摯な後半生があっただろう。インドネシアはその場を開けていたし歴史に残る活躍が出来たであろうに。
 その後の彼女の歩みを見ればとても本稿には書けないほど侮蔑の対象になる。

 1967年スハルト政権は外国投資法を導入し、日本は官民一致して怒濤のような関与を再開した。それまで滞在邦人は20人(1955)を割っていたがグダン族が急増し賠償で造ったホテルに泊り賠償で建てたビルにオフィスを構えた。
 インドネシア援助国会議IGGIでいつも最多供与国は日本で、参加12カ国総額224億ドルの20%を占めた。
 経済経験がなく地位のみを得た独立英雄達への許認可取得の実弾作戦は加熱した。
 インドネシアはコストパフォーマンスが高価との悪評紛々だが、汚職と腐敗は賠償から続く援助資金日本が教えた悪癖ともいえよう。プルタミナ国営石油公社イブヌ・ストウはアナザーカントリイもうひとつの国家と噂される権勢を欲しいままにした。
 日本企業の投資額は群を抜いており累計300億ドルアジア直接投資で最大、1997年度円借款は一千億円で全体の二割、民間企業への日系銀行貸し出し額は250億ドルで総額700億ドルの三割にのぼる。日本上場企業の殆どが参加し駐在社員は一万人を超えた。
 かつてインドネシア赴任は姥捨て山だったものが、勤務を終われば栄転が待っている華やかな任地に変わったのはあくまでも援助と投資額による。

 開発の父スハルトは独裁を強め身内贔屓と御用政党ゴルカルの専横は、日本進出企業の多くが何らかの形でスハルト家族、政商リム、ハサンと合弁し市場を無視した虚業が横行する。GNPは70ドルが1145ドルに増加しインドネシアは後進国から中進国に成長したと発展を謳歌したが、見せかけの繁栄は都市に集中し真に大切な中小企業など底辺育成は等閑視され貧富格差は増大の一途を辿る。愛国心希薄な華人資本と腐敗行政機構と組んだ大多数の日本企業にその責任があろう。
 日・イ協業の成果と謳ったコスゴロ・プランテーションは巨額赤字で再建不能で放棄され、世界有数のアサハンダムとアルミ精錬事業も黒字転換の望みはないのがその象徴である。

 借金経済は元本返済不能の危険を孕んでおり、それを助長したのがバブル日本企業群なのは明らかだった。雨後の竹の子のように正体不明の銀行が乱立し、高利回り商品が氾濫した。
 象徴的な出来事は1996年に首都中心のホテルインドネシア(これも賠償建築)横にファミリイ合弁でSOGOデパートがオープンした。いったい誰が買うのかと高級品を横目で見ていたその時、突如ヘッジファンド投機金融恐慌が勃発した。その後の結末は日本ソゴーの結末と全く同じになる。
 膨大な貸出し量を見れば近々破綻が来るのは明白だったから投機筋は所定の行動だったのだろう。投機筋は国も国民の将来も無視する。インドネシア企業がらみの高利回り外国債券百億円(日本国内で半分)が償還不能となる。
 スハルト独裁第七次政権は呆れる身内内閣で各国からも見放され末期的症状を呈していたその時に、何を考えたのか橋本首相が古い友人とか言って訪イしたが当然の事何の成果もあげられなかったのは外務省の情報収集力の無さと無定見を晒けだしたのはその僅か二ヶ月後に「古い友人」は崩壊してしまった。

 ルピア貨は暴落し、華人資金は一挙に国外流出して残ったのは派手なビルの空き部屋と右往左往する日本企業だけで、1998年5月スハルト政権崩壊の騒乱では的確な状況分析すら出来ず日本政府の救援を待つだけだった。
 現在に続く日本の景気低迷はバブル後遺症の不良債権処理が進まないのが最大の原因だが、その何割かはこの時期の無節操な投資と金融の結果だ。

バリの日本女性
 ここにもうひとつの現象がある。
 バリには自分の意志で来た日本女性が殊のほか多い。多分外国では一、二ではあるまいか。
 それも仕事や勉学ではなく、芸能と雰囲気に取り込まれた生産性の薄い理由の女性が多いのが特徴だ。

 首都の女性の大半は夫の赴任に随行した夫人で、いわゆるキャリアウーマンはまだ少ない<1>。夫の転勤で滞在地が決まるから本人の意思でないだけでなく、何処でも選択の余地はない義務的なものだ。だから同じ日本女性でも全く異なる目的になろう。
 バリの日本女性がジャカルタ・ジャパンクラブ(邦人親善団体)にバリ支部を創る申請をしたが受理されなかった出来事があった。人種が違うと思ったのかどうかは知らない。
 バリに遊びに来る若者が、画一化された日本に飽き足らず、けっこうな人数の女性がガイドやビーチボーイと同棲や結婚してしまうケースが異常なほど増えた。子供も生まれ現地に同化埋没しようとしているようだ。
 彼女達がジャカルタ・ジャパンクラブの支所を開設して中央と交流したい希望を述べたが拒否されてしまったという。理由は判然としないが、これを聞いてまだグダンとトコ族の因習が厳然として残っていると感じた。
 首都に住む会社人間の選良差別意識があるのではないか。いまもって日本人は日本人らしく欣司を保ち、現地人との過度の交際は慎むべきといった考えがある。
 いったい理想とする日本人とは何なのだろう。

 しかし考えてみれば、一個人の選択としては、動機と結果はどうあれバリの女性の方が純で人間的だと思う。
 海外滞在日本人は遂に女性が402,575人と男性393,277人を抜いた(1999)。永住者は88年に13万人、11万6千人と既に女性優位で、その差は98年には3万7千人に広がった。
 結婚、留学、NGO活動、生きがい探しもあるだろう。首都での国際結婚の殆どは夫が日本人なのに対し、バリでは妻が日本人と正反対で、これが何を意味し、将来どうなってゆくかは安易に予測は出来ないが興味がある現象だ。
 新しい時代、自分の意志で単身渡航し、生き甲斐とゆうものを発見出来れば人生の成功者といえるだろう。他人がそれをどう見ようが本人が満足ならそれでいい。女性は環境に順応して生きる術は勝っている。成功するだろう。決めたのなら成功しなければいけない。

 あるスパンでみると、後進国もいつまでも日本優先ではいないだろう。資本は蓄積され教育は発展し、情報はインターネットなど組織でなく個人単位で縦横に交換されはじめ、日本の好きな資本も技術も国境さえも交錯しはじめている。単一民族の純血とかの優越感などあのホイアンの太鼓橋のように形骸化する怖れ無しとはいえない。

 日本がどうしても資源と市場を必要とするなら経済援助だけでなく、国費で「帰らない日本人」を養成すべきだろう<2>。得意の集中力でそれぞれの地域に精通したスペシャリストを技術と資本に乗せて送り、若い彼等は現地で新しい人種として子孫を作りその地に貢献するだろう。外地に足跡を残した遺産は資本と企業と物ではなく、貧しい移民の子孫達なのを記憶しよう。

 外資導入法が施行され合法的な市場確保が進行し、それは工場進出に続いてゆくが、多くは組織的で人的交流は極めて薄い。勤務は腰掛け的でその地の骨になる気概がないのは、年功序列とか構造的な体質である。
 日本人が霰のように訪れそして去って行く間に、中国移民はクーリとして末端商として辛酸を舐めていたがその地に執着しその地に居着いた。
 軍事介入でシンガポールは日本領地となり僅かの期間昭南島と呼ばれたが台風一過の結末で終わった。現在移住華人はそこに国家をつくってしまったのが象徴的である。
 勝ち負けがあるとすれば完敗以上だ。

 事情はどうあれ現在日本企業が合弁事業の相手を選ぶ場合は、その多くは華人移住者達であり、深く現地に浸透している彼等なしには事業は成り立たないからである。
 現地の人々に「いつかは突然帰る人達だから」の囁きが聞かれる間は我が国の海外投資が安定成功したとは言い難い。どことなくお互いに違和感があり、経済進出したが足は浮き上がっている。事業は人なりと言うが、同化出来ない資産は或る日あっけなく崩壊するだろう。チャイナタウンは何処にもあるが日本人町はない。
 白人組織も多くは人が永年居住の経験を会社に売る契約が大勢で、例えば宣教師集団など母国で現地教育を徹底してから赴任すれば一生帰国しない。多くの現地専門家が生まれる。

【Up主の註】
<1> 1990年代までは東南アジアで仕事をしている独身日本女性を見かけることは少なかったが、2000年代に入って多数見かけるようになった。インドネシアよりもベトナムやタイの方が多いようだ。
それまでは、韓国人青年の海外での活躍が目立ったが、日本人たちも彼らに伍して活躍しているのを見て安心している。
<2> 「帰らない日本人」というよりも、現地に根を下ろして活躍している日本人の友人がたくさんいる。

第36話 終
慢学インドネシア 第三章 処変われば 完
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作成 2018/09/04

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