慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第35話 大東亜戦争
 「八紘一宇 アジアはひとつ」。大東亜共栄圏を構築し新しい秩序を造る「聖戦」は1941年12月8日開戦、瞬く間に東南アジアの西欧植民地を制圧した。

 最後の植民地として欧米列強が陣取り合戦を展開する中国で、急激に力をつけた新参・日本帝国が日華事変の泥濘化打開の南進論を極度に警戒した各国は、日本を孤立させるべく構築したABCD 包囲網(America, British, China, Dutch)で対日石油全面禁止が開戦の引き金となった。東洋人が白人植民地支配に割り込む事がそもそも僭越である考え方があった。
 石油の一滴血の一滴、南の生命線と、蘭印の石油さえ奪取すればこの戦いは勝利するとの決断で、戦争目的は一刻も早く蘭領東インドの確保にあった。それ故に西洋植民地解放の謳い文句も、ビルマやフィリピンに独立を許可しても産油地東インドは永久に領土とする帝国の方針だった。

 蘭領東インド攻略作戦は正に電光石火、1942年1月タラカン島敵前上陸、2月セレベス・メナドとスマトラ・パレンバンへの落下傘攻撃で始まり石油基地を制圧した。
 3月1日陸軍二個師団4万がジャワ・メラク、エレタン、クラガンに一斉上陸、5日にバタビア、7日にバンドン、スラバヤを占領し9日には早くもボールデン指揮10万のオランダ軍を降伏させてしまった。これは住民が挙って日本軍に協力したからである。
 総司令官・今村均中将は中国で住民の敵意の中で戦ってきたので驚き、上層部の反対を押し切って融和策をとった。以後45年8月15日敗戦まで軍政下に置かれる。
 (戦争犯罪裁判でオランダは今村のジャワでの犯罪を追加しようとしたがインドネシア側はその主張を拒否した)

 当初植民地解放日本軍は絶大な人気で歓迎された。ジョヨボヨの予言「白い豚は赤い鶏冠の鶏(日章旗)に追い出されるだろう」 <1>も的中したからだった。
 イデオロギーは大東亜共栄圏確立だったが、軍政は戦争遂行の資源確保で民情研究より日本精神主義の強制に終始した。総動員令により厳しい統制経済で生産流通は混乱し、徴用による労力提供(ロームシャ)で社会は混乱し住民を圧迫した。
 日本国内同様に独立を餌に民族主義者達を利用して大衆の組織化を展開し、ジャワ奉公会、隣組、警防団を組織させムラユ語による教育普及を図った。日の丸掲揚、皇居に向かって最敬礼、住民は意味も解らずひれ伏し「優しい兵隊さん僕らの兵隊さん」の隣りの教室ではバキャロと鉄拳が飛んだ。

 戦争が苛烈となり補充兵(兵補)・防衛義勇軍ペタ(Pembela Tanah Air最終的には3万人強)が組織され軍事訓練が行われた。ヘイホ(兵補)はそれまでオランダの傭兵以外に組織的に銃器を持った最初のインドネシア人だった。
 ロームシャは徴発された民間人でビルマ戦線などに連行され重労働に従事し数万人が帰らなかった。今もヘイホとロームシャは固有名詞で残っている。

 日本敗退後、逆上陸した英・蘭軍と独立戦争を指揮したのはペタと別班と呼ばれた200人の情報諜報訓練を受けた分科青年道場出身者であり、独立達成後の政治権力を掌握する。スハルトもペタ教練を受けている。
 インドネシア共和国となった後もこの時代の組織教育が政治に流用されているのはクルラハン(隣組)、ゴロンガンカルヤ(職能グループというが政府御用政党大政翼賛会)や情報組織(分科)に顕著に現れている。僅か三年半の日本軍政で社会は大混乱したが、反面この地の大衆に民族と国家観念を植え付けたのはインドネシア語の普及とともに大きなインパクトがあった。

未帰還日本兵
 敗戦の混乱で武装解除後兵隊は全員銃殺とかオーストラリアへ連行とか流言飛語が飛び兵士達は疑心暗鬼となったり本隊に復帰出来ない分隊もいた。インドネシア独立ゲリラは武器欲しさに合流を促した。一兵卒でも軽機関銃を手土産に脱走すれば革命軍は中尉で迎えた(藤山)。本隊とはぐれて山中で偽医者になった兵(乙戸)も。中には僅かだがその後美談となる大東亜共栄圏建設インドネシア独立志士もいた。二千人以上が独立軍で戦い半数が戦死した。
 脱走兵という旧教育での汚名の劣等感と、我々がインドネシア独立を勝ち取ったという誇りが交差して、事情にもよるが二反する葛藤の中で細々と生きてきたのが実状だった。
 独立後スカルノ来日時に「独立は一民族の為ならず全人類のものなり」と、独立前夜の独立宣言起草文会議で多大な協力を惜しまなかった海軍駐在武官・前田精を病床に見舞い、住吉留五郎、市来龍男の顕彰碑を建てた。

 戦後賠償や経済関与で再び日本の関与が始まると、彼等が尖兵として起用されたが、大勢が固まると残留者と企業人の落差は埋められず彼等は捨てられた。
 長い交渉の末軍人年給が支給されたのは戦後数十年たってからで、金額よりも逃亡兵汚名払拭の喜びが先だった。現在生存者は一割弱90名ほど<2>で亡くなれば英雄墓地<3>に葬られる。
 戦後もだいぶたってこの希有な互助会(Yayasan Warga Persahabatan福祉友の会)が脚光を浴びるとメデイアの格好の標的になった。苦しい暮らしの助け合いは何らかの輝く主義を主張する必要も生じ、独立の志士ならまだしも我々が独立を与えたと変形する場面も出てきた。マスコミにとってはその方が劇的だし残留兵もなんらかの証しが欲しかったのも事実だったのだろう。

【原註】 【Up主の註】
<1> Joyoboyo: クデイリ朝(1135〜57)の名君で多くの予言をした。'ジャワ歴1970年(2039)に白人への全面聖戦となる。平傘(シナ人)は下流に流されトウンタン川は血で染まる。ジャワ人は再び自治を獲得するが長続きせず黄色人種の王が支配する。聖戦では線が地上に巻き付いて遠くと話すことが出来、馬無し車が距離を問題にしなくなる。  ジョヨボヨの預言書には「白い豚が……」とは全く書かれていないので、これはプロパガンダであったのだろう。19世紀にはジャワにおいて文芸復興のような民族覚せいの運動が盛んだったのは確かだ。
また庵翁はどこからこの原註の文を持ってきたのかは不明。
ジョヨボヨの預言書はこちらから。
<2> なし 最後の生き残りだった小野盛氏(インドネシア名はラフマット小野)が2014年8月25日に亡くなって、「福祉友の会」は二世にひきつがれている。
<3> 英雄墓地:勲章受章兵士に資格があり現在3400名、うち日本人13名(全土で41名) この原稿は1997年頃に起こされたものなので、2018年現在埋葬されている受章兵士の数はもっと増えているはずである。

第35話 終
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作成 2018/09/04

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