慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第34話 維新後の渡航邦人
からゆきさん
 倭寇の昔から、日本人の海外干渉には、いつも血なまぐさい影が付き纏う。
 オランダが日本人の戦闘力を買ったのは、当時台湾(高砂)を根城に活躍して、支那やルソンを悩ました日本海賊の風評を聞いていたかもしれないが、商取引にもいつも切羽詰まった余裕の無さ、不器用ともいえる性質が垣間見えるようだ。
 鎖国政策で後続を絶たれたとはいえ、日本人町は代変わりもおぼしい月日で跡形も無く消えてしまう。
 以後の232年、日本人は針の穴より小さい出島から海の彼方を垣間見ることになる。

 大政奉還(1867年)前夜、幕府が海外渡航差し許し状を交付したが総数179通のうち清への70枚の外は欧米であり、近隣アジアは南冥の地、無告の民と称する棄民で、その先遣はいわゆる唐行きさん(女郎衆、娘子軍ピンプ)だった。彼女達を追うように寄生して貧農の次男三男が呉服、売薬行商、見世物屋で渡ってゆく。
 明治10年頃のシンガポールに二階建ての建物はなく家といえばニッパ椰子葺きで、電気が点るのは明治23年(1890)のことだったが、東西国際航路の寄港地で野卑な船員や淫蕩な白人が求める娼婦市場だったのは否めない。
 明治14年の同地日本人は男8人女14人だが既に二軒の邦人娼家があった。同27年領事館登録で男119女278となっているが、無告の民で人知れず売られていった女性が大部分だったから実際は千人以上の醜業婦がおり誰が最初かは分からないが、明治4年お豊、男装のおヤス、商人グレーンの妻のお花、サーカス団の伝多の婆さんなどだろう。

 蘭領東インドは広がりが大きくジャワ、ボルネオ、スマトラ、セレベス別個の事情があり、なにより遠距離で交通不便に加えて明治32年ハーグ万国平和会議条約調印まで蘭領インドの邦人法的処遇はシナ人同様で不遇だった。シンガポールにも住めないなど特別な事情があったかと推察されるほどだ。
 明治6年頃からアチェに住んだ塩沢某が最初だとゆうことで明治19年の墓標がメダン日本人共同墓地にある。
 ジャワには明治16年(1883)渡航したシナ人妾西田トメだったようだ。
 ジャカルタの墓標で最古はコタ・マンガドウア墓地の商人後藤実史妻俗名登美明治27年1月29日没、行年38歳。夫は明治30年36歳で和歌山県人だった。
 その後明治25年に林信雄という肖像画家が、明治27年頃東京出身内田某がスラバヤに酒場を開く。吉坂寅吉が日清戦争の頃(1894)サーカス団長としてバタビアに定住した。
 日本郵船が作られて香港航路を開設したのが明治23年、ジャワには南洋郵船がジャワ航路を開設したのは大正元年で、それまではオランダ系会社しかなかった。
 明治43年、長崎の金子久松がゴム園開拓で南ボルネオ、ジャワに、熊本の歯科医正源寺寛吾がパンジャルマシンに、セレベス・マカッサルは明治40年、南太平洋貿易がコプラ貿易でマナドに進出したのが大正10年であった。
 明治30年(1897)蘭領東インド全体で男25名女約100名、日本領事館開設の明治42年には男166、女448でこの十年が蘭印進出のひとつの盛期だった。
 マレーの千代松は、姓も出身も不明、明治初年サーカス団に拾われてシンガポールに来て世話好きお豊さんから借金して吹き矢博打を始める。徒手空拳、裸一貫の行商、輪投げ、射的、按摩、人力車夫から出発し、徐々に売薬、写真や、床屋から医者、運送屋に発展していった。破れたシルクハットを被りオッペケペとラッパを吹き、幟を立ててオイッチニと村々を回る売薬行商は日本人専業となり正直で勤勉な商売はトコ・ジュパン(日本人の店)で成功して行く。ピープルメン薄荷飴、メンソレ、清心丹、精露丸、仁丹、毒掃丸などの安価な常備薬だったが1930年頃にはオランダ輸入9.5%を大きく上回る32%となる。
 新潟の高橋忠平の越後屋、堤林数衛の南洋商会は大成功した。トコ族である。
 堤林は理想主義者で、刻苦勉励質実剛健で青年育成に捧げ、ジャワ各地に九38ヶ所の支店を設け資本金は150万円になったが、世界恐慌で昭和3年解散時、支店は社員に譲渡し独立させた。
 蘭・日関係の悪化で制約を受け、密偵である疑いをかけられ存続不能となる。

トコ族、グダン族
 日清、日露戦争に勝利し国力に沿って、南進日本と南方資源を窺いはじめたが、最終的には武力による強圧的な奪取になって表われる。資源市場確保に失敗した日本は白人支配に抗した戦争に突入して、火力で権益を確保しようとし、これにも失敗して国を占領されてしまったのは今更申し上げる必要はない。
 外地関与で興味があるのは、満州・蒙古(中国東北地方)への殖産は国家規模の正道だったが南方進出は国策以前の感覚で、なにかロマンが感じられる。
 南進論であり南洋、図南といった表現も登場して、それまで日本では意識がなかった太平洋の彼方の南洋に夢を求める雰囲気は満蒙開拓とは次元の違う感触があった。
 オランダ鎮台と戦う西郷隆盛末裔の「浮城物語」、南洋遊記、楽園爪哇は18版を重ねた。
 大正期の南進論は実業の日本社がメデイアを利用してブームを起こし南洋協会設立、大隈重信が南洋諸島に雄飛せよ、小川利八郎売薬成功談などと啓蒙した。
 しかし日露戦争後一等国意識を増長させた日本は、大東亜共栄思想が欧米に伍した植民地争奪戦に変形してゆき、現地住民はおろか同じ同胞にも差別意識が蔓延する。
 南進日本の掛け声は国策に迎合した資本家だけが享受し、私人はむしろ国辱呼ばわりされ、商店行商族(トコ)と資本を背負った倉庫族(グダン)とは決して交わらず、グダン族はゴルフとテニス、トコ族は野球で選択も出来ない没交渉が芽生える。

 日本一等国民意識が培養されてエリート意識は助長され「日本人としての矜持」が常に求められ、外地にいながら孤立化を強める主因になっていく。
 現地人と同棲する事は日本人社会の不文律を破るだけでなく、一等国民から堕落を意味し、日本人がカンポン(部落)に出入りすることは土人になったという事と(財)国際文化振興会が南洋通の言葉として当たり前に載せていた。
 「ジョンゴス、バブに片言のマライ語をもってし、トッカンベチャにキリカナン(左右)を声高に命じ、パッサルを横行してはイニブラパ、マハルで得々としている日本人トアンに物申したい。ワタシ日本18年あるヨ、日本むすめさん、たくさんよろしいある、などと喋る異国の人間と我々は真面目な話をしようとは思ふまい、これは原住民の場合でも同じである」 マライ語断想 新ジャワ 昭和19年
 シンガポールに正式な領事館が開設されたのは明治22年で、乙宗商会の二階に間借りしてシンガポールに三井物産が支店を開設したのが明治26年。前後して日本郵船、有馬洋行、スラバヤの台湾銀行支店の客は娘子軍だった(大正4年)。

 1895年台湾を領有した日本は南方関与を強化し、西欧列強は危機感を抱く。

第34話 終
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作成 2018/09/04

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