慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第33話 香料諸島のサムライ
 数少ない我が国の海外関与は、663年の中大兄皇子(天智天皇)の朝鮮・白村江海戦が最初で、倭寇、秀吉朝鮮征伐、台湾ノイツと浜田弥兵衛、シャムの傭兵山田長政、日清日露戦争に続く太平洋戦争と、学究留学の遣唐使や僅かな期間の朱印船交易はあるとはいえ、いつも武力の陰がつきまとう。
 1543年、ポルトガル漂着船によってもたらされ二丁の火薬銃は、僅か15年で数千丁が自家生産された。海外渡来品をこれほど早くこれほど大量に自家生産した国は世界にはない。近代日本工業の手法の萌芽である。
 殺人器具の刀を工芸の域にまで高める技術力、貧乏国なのに世界最大の巨砲戦艦を建造したり、馬車すら持たなかったのが自動車産業を制覇したり、良い意味でも悪い意味でも日本人は鋭い職人民族と言う事が出来る。
 これに反して少なくても海外渡航が特異な出来事で記録される程希だったのは明らかで、加えて故郷を捨てる、出稼ぎなどまだしも、都落ちと偏見が深まり挙げ句、国策から南進日本と囃し立てても、庶民感覚は南冥の地と蔑視感が拭えなかった。それは経済大国といわれる今も続いているようで、資本と商品は農耕的勤勉さで世界に蔓延したが、肝腎の人間はいまだにその土地から離れられないでいるように感じられる。
 孤立した地理的制約か好戦的民族性かは知らないが、隔絶された環境が異民族との交流体験のない閉鎖的で視野の狭い性格を作ったのかもしれない。
 鎖国がかくも長く続いたのも、それを容認する気風が民族性としてあったからかもしれない。

 資源と市場奪取競争に参加して、東海の小島の我々は有無をいわせぬ大戦に参加した。
 結果は書くまでもないが、その事実は否応なくその土地に記憶されている。
 彼等は「日本人は突然大挙して押し寄せ、ある日突然一度にいなくなる」と囁くのは、軍隊の行動が鮮烈に記憶に残っているからだろうが、経済進出を果たした現在でも余り変わらないのは「いつかは帰ってしまう貴方だから、、」が土地の人に呟かれる言葉で、誤りではないから一抹の寂しさがある。

 グローバルエイジになって、これからハイブリットな日本人系が出現して落地生根・白手起家が増える兆しがあり祝着だが、長い歴史の中での我々の祖先の行動を振り返るのも一考だろう。

御朱印船交易
 過去の歴史上唯一の商業的海外関与だった朱印船貿易は、それまでにノウハウを蓄積していた島津、有馬、松浦、大友、大村などの西南大名、三浦安針(アダムス)、八重洲(ヨースティン)など渡来者、京都角倉了以、茶屋四郎次郎、大阪末吉孫左衛門、堺納屋ルソン助左衛門などの大商人、末次平蔵など幕臣に朱印状が与えられた。
 交易品は銀、硫黄、樟脳、刀剣鎧など、南国からは鹿皮、砂糖、更紗、象牙、伽羅、沈香、絹などであった。他国で垂涎の的だった香辛料は日本の食生活では需要がなかったのは面白い。

 朱印船はおおよそ長さ45m、幅8mで約30d、3本マストで、九州五島列島から真南に針路をとり、ランドマークの五行山目指して支那海を南下して、当時ダナン(トウーラン)からまだ水があったココ川を遡った。
 最大の日本人町はダナン近郊のホイアン(会安)、ユエとシャムのアユタヤで、当時ホイアンには五百人以上、アユタヤには千人が住んでいたといわれる。
 戦時中、海外雄飛の掛け声から山田長政(オヤセナピモク)が英雄視されたが、彼はアユタヤの用心棒からモールやペグー人より勇猛な盗賊の首領の戦闘力を買われてプラサットン王のリゴール太守に出世したが、輸出の花形商品であった鹿皮権益の強要に、オランダの暗躍から政治的左遷、ナコンシラマットでオヤカラホムに毒殺(1630年)された。
 ロマン的に語られる南国の日本人町は、同化しない選民意識、自意識過剰、好戦的性格、日本人同士の内紛で線香花火のように消滅してゆく。

 鎖国令によって追放されたキリシタンファミリーも哀れな物語として語られている。
 これには日本を後にする者が都落ちとか、うらぶれた敗残者的捉えかたがあるからであろうが、歌にも歌われたかの「じゃがたらお春」はどのような人生だったのか。

じゃがらたお春 : 洗礼名ジェロニマ(ヒエロニマ) 1624〜1697
 1635年7月に幕府は日本船、日本人の海外渡航帰国を無条件に厳禁し、外国人混血児追放に乗り出して、10月22日ポルトガル系男女小児287名をマカオに、1639年6月16日に平戸藩は、ビセンテ、エゲレスなど11名をバタヴィアに追放した。
 この家族のなかに、後に西川如見「長崎夜話草・じゃがたら文」のお春15歳がいた。

 この時期にバタヴィアの人口は8,058人−Memorie van alle D'Mans Persoonen 1632-
 内訳で会社のオランダ人1912、バタヴィア市民1373、支那人2424、日本人男48女24子供11、奴隷25人の108名になっている。
 一時移動していた者も含め、1620年のアンボイナ在住日本人63名など、実数は東インドでは300人近くの日本人が居住していたと想像される。

 1639年、幕府のより強化された鎖国令によりブレタ号で追放されたオランダ人シナ人と混血児とその生母四家族11人のなかに「はる」がいたのは同年9月17日に松平肥前守に報告された文書に残っている。
 「あらこいしや、なつかしや、こいしや、こいし、こいしや、こいしい」と望郷の想いを綿々と綴つた哀れと思うじゃがたら文は、享保四年に刊行された西川如見の長崎夜話草のなかでの創作とされていたが、お春は実在した。

 バタビア(オランダ植民都市、現在のインドネシア共和国首都ジャカルタ)に追放された彼女の家族は、ヒセンテ70歳、女房50歳、エゲレスとその女房37歳、娘まん19歳、はる15歳、孫万吉3歳の六人だった。
 お春はバタビアに追放されて後、1646年に平戸生まれの東インド会社事務補シモン・シモンセンと結婚した。シモンは有能な男で、やがてバタビア市税関長、カンボジア使節団接待役、シナ人遺産管理委員、孤児財産管理委員を歴任し、退職後は持ち船貿易を営みバタビア教会長老も勤める名士だったが、1672年胡椒仕入れ時に熱病で死亡、春が四十八歳であった。
 夫婦はマリア、フイリップ、ニコラス、タニ・ジェロニマ、アニナ・クララ、ヤン、ジェロニマの四男三女をもうけた。
 お春の住んでいたヨンケル通りH地区はジャカルタ・ダウンタウン、アンケ河の観光名所の跳ね橋のそばのコピ通りを入った現在のJl.Roma Malakaで、当時は要塞や総督府にも近い一等地で、春も社会慣習に従い十数人の奴隷使用人を使う優雅な大邸宅での生活だった。
 ジャカルタに追放された人達は哀れで悲しい物語として語られているが、お春の彼の地での地位と身分は長崎の暮らしに比べてはるかに豊かな生活であったのがわかる。
 同じように追放されたコルネリアという平戸生まれの女性の夫クノルは、東インド会社の経理部員、医師、宣教師団198名を率いる隊長で、シモンと同等の社会的地位にあったと思われ、植民地の上流階級の社交界に属していた。
 1684年長崎に寄港したオランダ商館長は日本人追放移住者のうち男子は殆ど死亡し、女子の三、四名が生存していると伝えている。

オランダの傭兵
 1556年1月7日、ルイス・フロイスが、マラッカからイエズス会に送った書簡のなかに「デイオゴ・ペレイラの船で日本人8名がスンダからシナに着いた」と報じている。その後、同じイエズス会ベルナルデイノ・フェラロは、洗礼名アントニオを授けられた日本人がポルトガル船長等の罪を被り、スンダ国王の前で処刑されたと報告している。
 当時の文献はこれだけだが、多数の日本人が拉致、売買で各地に連行されていたのは、信仰の本義に悖ると本国から出先が非難されたことからも判然とする。

 ジャワはあまりに遠いことと、オランダが勢力を得てからは、東インドとの交易は間接貿易となって日本人が直接同地に関係することは希で、V.O.C(オランダ東インド会社)に雇用される者が多かった。

17世紀 バタヴィアの日本人
 オランダは西ジャワ・スンダクラパ(ジャカトラ)をバタヴィアに改名し同地域での覇権が確定し、北上して日本との定期通商貿易を開始してから(1609年9月平戸)、1613年には早くも日本人三百名の移送計画を作り、同年二月ローデ・レーウ・パイレン号で68名の兵士、水夫、職人をジャワに送っている。
 商館長ヘンドリック・ブルーウエルは、東インド総督ピーテル・ポットに「日本人は性質怜悧勤勉、勇敢有能で米と塩魚だけで安価に養える。すでに将軍にも許可を得たから今後は十分な員数を雇入れるだろう」と報告している。
−Originele Testament van Isabella van Nagasackij 18Sept.1649−
 1615年ジャンク船フォルタイン号、帆船エンクハイゼン号で67名を雇用契約で送っており、この中に大阪出身の高級船員・楠市右衛門ほか船員51名、大工5名、馬丁1名の保証人俸給規則が列記されている。
 スパイスアイランド(蘭領インド)の覇権の基礎を築いた第4・6代総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンも、1618年3月30日付の平戸商館長ヤックス・スペックスに、有能にして勇敢な日本人青年25名を最初の便で当地に送致すべしと訓令している。

 1619年12月中旬に日本人90名がハリヤッセ、バンタムの両船で到着、翌年にはシナ号で武器食料と120名を送ったが沈没遭難した。
 このほか他のオランダ船スワルテン・レーウ、アウデ・ゾンネ号で随時渡来した邦人もおり、V.O.C(東インド会社)の雇用名簿に十数名の氏名が記載されている。
 日本人のバタヴィア移住が訓令による計画的なものだったが、南洋各地からさまざまな事情や経路で同地に転住した者もいないわけではなかった。
 日本人アンドレ・ロドリグオスは、日蘭通交貿易開始以前の1608年の暮れにマラッカ近海でピーテル・ウイルレムスゾーン・フェルフーベンの艦隊に捕らえられ1620年1月13日バタヴィアで解放され、日本人ヤン・ヤサゲ(弥助?)はマレー半島バタニで捕らえられ、二年後手当て113フルデンを与えられてバタヴィアで解雇。
 宗右衛門はスヒップ船サムソンでシャムからバタヴィアに移り、31ヶ月勤務して1623年4月11日に解雇され、長蔵はモルヘン・ステルレ号でバタニから渡来し、1620年7月22日総督クーンから自由営業の特許状を得ている。
 順調に居住数を増加させていた日本人契約移住者は、1621年9月13日幕府命令で禁止され、平戸を出帆するズワーン号に投じて密かにバタヴィアに渡ろうとした3名が発覚し磔刑。以後キリシタン弾圧、イギリス平戸商館閉鎖、イスパニアと国交断絶、奉書船以外の海外渡航禁止と鎖国化に進むが、この間に経路はさまざまだが40名以上の男女がバタヴィアに転住している。

 総督クーンが述べたように日本人は労働者より戦闘員として重用され、1618年12月に急遽来襲したトーマス・デール艦隊を避けてアンボンに避難した軍務報告に、兵員502名中オランダ兵400、日本兵50その他は召し使いと助手と記録し、この時イギリス軍の攻撃を防いだ司令官ピーテル・ファンデンブルック以下400名の兵士の中に、25名の日本人傭兵がいた。
 1613年7月のテイドール遠征に40名にのぼる日本人部隊が従軍して死傷者を出し、1615年5月のバンダ島遠征にも参加し、同20年1月17日には、発見された銀鉱採掘で作右衛門外22名がアムステルダム、アレント号で派遣されたり、翌21年総督クーンはバンダ攻略に、15隊2千人の兵員を編成したが、このうちニューホーランデヤ号に42名、ジーリックゼー号に45名の日本人隊が従軍した。
 また23年1月コルネリス・ライエルセン率いる南シナ方面派遣軍にバタヴィア在住邦人37名が志願従軍している。

バンテンの殺戮
 西ジャワ・バンテンは西洋人最初の介入地で、オランダと英国が進出してきた。
 1613年イギリス東インド派遣船司令官ジョン・セーリスが日本からバンテンに帰港した時、日本人水夫15名を雇い入れている。その後1617年リチャード・ウイッカムは平戸を去るにあたり、日本人11名を伴い、他のイギリス船でも14名が渡航している。1621年商館長コックスの8月3日の日記には給料支払い名に氏名がある。
The Moon乗り組
The Bull 、
The Elizabeth
善三、三四郎、久七
久左、 マチヤス、五郎作
忠七郎、仙五郎、儀八、

 イギリス人に雇われて海外に出た邦人もかなりいたことが判明する。
 一方オランダも平戸に商館を開設後、計画的に多数の日本人を雇用したが、バンテン商館長コルネリス・バイゼロが材木積み下ろし俸給の指示を仰いだなかに、三五郎、喜右衛門、太郎次郎、三助、佐市、喜兵衛の名前がある。

 バンテンでの英・蘭両勢力の確執が激しくなるにつれ、彼等日本人も好むと否とにかかわらずその渦中に巻き込まれてゆく。
 1617年7月19日、市場での些細な両商館員の諍いから、オランダ商館次席が日本人を含む20名を連れて急行して害を与えたのにイギリス側も雇員の日本人、バンダ人を引き連れてオランダ館を急襲し、黒人一名を斃し4名(日本人1名を含む)に重傷を負わせた。バタヴィア政庁はピーテル・デカルベンチールをバンテン王に差し向け、英人の不法行為を糾弾した。
 この事件が決着しないうちの11月22日に、再び悶着が起こって互いに相手を殺傷するまでに発展し、イギリス側は200人でオランダ商館を襲撃した。
 オランダ人の大半は遁走したが、踏みとどまった日本人5名は防戦して一名即死、4名が重傷を負った。イギリス側もバンダ人ひとりと、自国商館員が雇用していた日本人にオランダ人と誤認され斬殺された。殺害された日本人の中に甲必丹(カピタン)がいたとゆう。
 その後両国は互いに物資搬入を妨害しあい、1621年、命令違反して出港した日本人12名が捕らえられ殺されたり、同33年オランダ艦隊のバンテン港封鎖で、数名の日本人船が拿捕されたり、自ら商船を操って独力活動した者もあった。

モルッカ諸島の日本人
 イスパニア・ポルトガルの地理上の発見の世紀は、とりもなおさず熱狂的な香料諸島の発見と独占競争といっても過言でなく、マジェラン隊の世界周航に見るごとく、1521年にスパイス自生地であるテルナテ・テイドレ島に到達してから争奪戦は熾烈を極めた。
 1604年にドミニコ会ガブリエル・キロガ・デサンアントニオのナツメグ国情実記には、多くの人種の来航の中に日本人が含まれており、1615年にアムステルダム東インド本社からジャワ政庁への訓令で「支那人、マレイ人、クリング人、日本人その他イギリスフランス人の交易一切を阻止すべし」とあるので進出渡航が絶無であったとは断じられないが、記録に残る日本人は新興勢力オランダ、イギリスに雇われた日本人傭兵であった。
 1613年オランダ平戸商館開設間もない時期に、最初の集団契約移住者がローデレーウメット・パイレン号でバタヴィアに向かったが、同時期に艦隊司令官として着任したクーンが、13隻690人の兵員でのテイドール島遠征には40名の日本人一隊が参加しているのはモルッカ遠征の為の募集に相異なかろう。
 同年9月9日イスパニア人の拠る旧ポルトガル城塞に一番乗りの旗を翻したのは日本傭兵で、あまりに大胆剽悍なため多数の戦傷者をだしたと戦況報告をしたためている。
 オランダ軍の出動に対抗して、フィリピンのドン・フアン・デシルバ長官は、15隻からなる艦隊をモルッカ遠征に組織したが、マニラ在住日本人の500名もが応募して従軍したが、かねてその管理に手を焼き、シンガポールで解雇し陸上に追放してしまった。
 オランダ方面軍の報告(ラウレンス・レアールモルッカ長官、派遣船隊長ステーフェン・ファン・デル・ハーヘン)には、再三にわたって日本人傭兵や大工石工鍛冶職の狡猾、制御困難、危険性を指摘しているから、少なからざる日本人が雇用されていたのが判明する。
 有能な知事フレデリック・ハウトマン(1621年)の名簿にも、オランダ人40名マルダイケル25名、日本人20名の名簿があり、カラマタ城塞篭城戦では、イスパニア側戦死11、負傷40、オランダはオランダ人7名、日本人3名戦死、20名が負傷している。

アンボイナ事件
 アンボンは現在インドネシア共和国マルク州の州都である。
 マルク地域のバンダ海の要で、1512年ポルトガルがマラッカから発進させたアントニオ・デ・アブレウ来航から十六世紀末まで領有していた。以後1605年2月オランダがアンボン湾にニューヴィクトリア砦を構築してスパイス独占の地歩を固めた。
 覇権競争のイギリスも1619年に防御同盟を成立させて付近に五個所の商館を経営し対峙した。

 1620年ジャカタラ城での議決で、モルッカ知事ハウトマン、アンボイナ知事ヘルマン・ファン・スピュールトの要請で、作右衛門以下21名の銀鉱採掘士を送り採掘させたが失敗に終わった。当時同島には欧州人196名、日本人傭兵も63名いた。
 1623年3月アンボイナでのオランダ・イギリスの確執は激化し、いわゆるアンボンの虐殺が発生して日本人が犠牲になる。
 同年2月23日夜、オランダ守備隊の傭兵七蔵が、再三禁制区域に出入りして衛兵と雑談して城壁の構造や兵員数を質問した。言動を不審に思い、捕らえて拷問にかけたところ、他の日本兵達が城塞占領の陰謀があると自白したので、日本傭兵10人とポルトガル人1人を捕縛し拷問、拘禁中のイギリス人外科医と対決させ自白を強要、イギリス商務官ガブリエル・タワーソンを喚問して事実を認めさせた。
 十日間に30名の自白書を作成して、同8日スピュールト知事は一同に死刑を宣告した。
 翌九日イギリス人10名ポルトガル人1名、日本人9名が斬首され、タワーソンと日本人首謀者の首は曝され、日本人2名と残る8名は釈放された。
 事件は一見オランダの一方的成功に終わり、この事件からモルッカでのイギリスの勢力は急速に衰え、オランダのスパイス独占となる。
 アンボンが遥かな遠隔の地の孤島であるので、事件は暗々裡に葬り去られたかにみえた。
 やがてその情報は漏洩して、バタヴィアに転送されて俄然英国の憤激を招き、問題は英蘭両国政府の外交折衝にまで発展してしまった。
 オランダ側は正当性を立証する為、同島在留者に百数十ヶ条の質問状(60項は日本人関係)を作成した。
 事件後三十余年を経たクロムウエル時代に、オランダ側が85,000ポンドにのぼる多額の賠償金を支払い落着した。
 異境に憤死した日本人たちには何ら報いられることもなく、その消息も遺族に伝えられることもなかった。
 斬首された日本人は下記の通りである。
七蔵 Hytieso 24歳 平戸 傭兵
シドニイ・ミヒール Sidney Migiel 23 長崎 アンボン英国商館雇員
ペドロ・コンギ Pedro Congie 31 長崎 Conje、Congey
トメ・コレア Them Corea 50 長崎 朝鮮系?
長左 Tsiosa 32 平戸 傭兵
久太夫 Quiondayo 32 唐津 傭兵
神三 Sinsa 32 平戸 傭兵
左兵太 Tsavinda 32 筑後 傭兵
三忠 Sanchoe 22 肥前 傭兵
ソイシモ Soysimo 26 平戸 傭兵
作兵衛 Sacoube 40 平戸 傭兵
 最後の2名は後に釈放
 上記質問状は、当時の在留日本人の生活を窺い知る好資料で、ヤン・ヨーステン、ピーテル・ファン・サンテンは、日本人は常時Catanas(刀)を二本佩びていたこと。彼等もマレー、ポルトガル語を話す。キャプテン・タワーソンに仕えたのはシドネ・ミチェルとピーターコニエで、事件後も日本人三十名程がいたと答申している。
 アンボイナ守備隊名簿には五郎作、ヨウストJouste、長崎のLouis、庄三郎、堺の孫六などの名前が見出せる。しかし1644年には自由民ヤン・デ・クロウスひとりとなった。
 なお、かって敏腕な平戸オランダ商館長フランソア・カロンと江口夫人との五児のひとりのフランソアは、父カロンがバタヴィアから帰国に伴われ、1654年ライデン大学神学科を卒業しユトレヒトで修学、1661年アンボイナに渡り、以後14年熱心に伝道して1706年本国レクスモントで没した。マレー語に長じ、永年の布教の傍ら「マレー語説教集」「天への道」などの布教書が出版されている。

バンダ・ネイラ攻略戦
 バンダ海に浮かぶ小島群バンダ・ネイラは、スパイスのなかでも貴重な高級ナツメグの唯一の自生地で、1512年ポルトガルがナッソウ砦を造って死守したがオランダに駆逐された。オランダ支配になって取引きはしばしば紛糾したり、1609年には初めて英国艦が渡来して商館を開設し、現地住民も介入して極度に緊張した。
 オランダ総督クーンは1621年に住民の殆どを虐殺して支配権を確立した。
 クーンは再三にわたり、平戸商館に日本人移民(傭兵だけでなく婦人子供まで)を要請したのは腹案があったからに他ならない。
 1615年4月10日の平戸スペックスへの返書には「ローデ・レーヴメット・パイレン号、ハーゼウイント号に70名の日本人をモルッカに向け、バンダでの特殊任務に当てる云々」と書き送っている。
 アドリヤーン・ファンデス・デユッセンの総勢九百人の兵力でのバンダ遠征には、日本船一隻が随伴してプロウ・アピ攻略に向かい、隊旗を掲げて進撃したことをクーン自らが報告している。翌年のヤン・デイックゾーン・ラムは陸兵7隊、水兵3隊、日本兵23名でプロワイ攻略に向かっている。この事から日本人傭兵は直接参加、バタヴィア遠征隊(旗艦ニューホランデイアに42名)と相当数と想像出来る。
 1621年3月14日、旗艦上で作成の決議録にはオランダ志願兵34名、日本兵15名に論功行賞60レアル、30レアルを授与している。
 総督クーンのバンダ島集団殺戮に、日本人傭兵が特別任務で少なからぬ寄与をしている。
 大多数の傭兵団はクーンに率いられ他地方に転戦したが、日本人ピーテル、フランシスコ、茂助、ルイスなどは残留し相当な暮らしを営んだ。
 東インド会社使用人ドイツ人ヨハン・シグムント・ウルフバインの1634年1月24日の日記には「刑吏・トマス・茂助Moschは、シナ人料理店から裸足で歩いてきて、斬罪宣告の罪人を片手で一刀で斬首して役目を果たした」と書き残し、絞首罪や鞭打ちは奴隷に任せたとも書いている。脱走した兵卒ヨハン・ヘルマンも死刑を宣告され同様に斬首されたとも。
 バンダ諸島の住民はこのジェノサイトで絶滅し、クーンはプランテーションの労働者を他地方から入植させた。

セレベス・マカッサルの日本人
 この年代の日本人の殆どはオランダV.O.Cの意志で渡来したのだが、マカッサルはやや趣を異にして、持ち船で交易する日本人が活躍している。
 マカッサルはオランダが介入する遥か以前からバンダ海の海産物集散地として、中国人やアラブ人、ジャワ人など多数の外国人が往来していて、数万人の人口があったとゆう。
 「バタヴィア城日誌」1624年9月16日の項に、マカッサル在住の日本人(Japponess)についてアルフォンゾ・カルベリョから聞き取ったものと注釈して記録され、翌年バタヴィアからシャムに向かった三人の日本人は、マカッサル在住と申告している。
 その後十年をへて、1634年7月13日の同日誌によれば、オランダ艦隊司令官ピュヒュートベルト・ファン・ローデンスタインにより拉致された日本船は、カンボジアからマカッサルに交易の途中だったが、日本人との将来の関係を考慮して釈放されている。
 翌々1636年3月19日、同船は再度バタヴィアに入港して、マカッサル経由でカンボジアに帰港許可を求めている。船長は日本人甲必丹シセミの宗右衛門Japansen Capiteijin Soyemon van Sissemijと記しているが、彼こそカンボジアの日本人有力者頭領・森嘉兵衛の弟の宗右衛門である。
 東インド総督アントニオ・ファン・デイーメンの航海巡視記によれば、1637年6月22日彼の船は先年下付した渡航免状とカンボジア・オランダ商館長ヤン・デイリックセン・ハーレンの許可状も所持していた。この書状には宗右衛門のほかフワン(Ivan)など若干名の日本人が殆ど毎年主として米穀を積んで廻航してきていた。
 また鎖国後の1643年3月には江戸の有力者和田理左衛門がマカッサルに送った持ち船が7月帰着したと報じている。
 1653年11月26日には、マカッサル在住次良兵衛が、バタヴィア公証人役場に出頭して女奴隷を売却契約を結んでいる。その後四年たってヤンなる日本人が、持ち船でバタヴィアに入港していることから、マカッサル在住日本人達はオランダと対等以上の力で、鎖国後も交易に従事していたことが解る。

まとめ
 東インド(インドネシア列島)には前述したように直接交易がなかったのは、遠隔の地であるとともに、オランダの専横が歴然としていたからだろう。
 東インド会社なかんずく辣腕総督クーンは、何故か執拗に日本人移民とりわけ兵員に執心して訓令を送っている。事実応募した日本人は理由はどうあれ、専門職(殺戮者)として活躍している。傭兵は安いとは申せ一定の俸給もあり、仕事は命がけでも支那人の単純労働者(クーリー)より身分も高く望ましかったのかもしれない。
 関ヶ原の合戦が終わり(1600年)雑兵職が過剰供給になっていた日本の事情もあっただろうが、移住者に苗字はなく、職業兵士(武士)はいなかった。
 強健勤勉、勇敢剽悍で給料安価で、植民地管理には有能な労働力だったのは事実で、オランダだけでなくバンテン王など現地住民の畏敬も集めていたとゆう。
 しかし傭兵の宿命で、雇用主の違いからの日本傭兵同士の戦いも行われた。
 勇猛果敢な性質は時により不遜乱暴にも通じ、手厳しい評価もある。1616年モルッカ派遣船隊司令官ステーフェン・ハーヘンはこのような不逞の輩は仕えさせたくないと報告している。カピタンを選出させてある程度の自治が適当とも。
 移住者の特徴のひとつに高い死亡率があげられる。
 1613年から同36年でのオランダの記録では、戦死24、刑死15、変死51、逃亡数名とあり、日本人数を五百人とすれば、壮年者が多い彼等としては高率であろう。
 1632年バタヴィアの日本人は男子48名、女子24名、子供11名、夫婦84組の、両人日本人は10組、日本人女性の配偶者はすべてがヨーロッパ人であるのに対し、男性の66名が土地女性を妻帯しているが、支那人を妻にした男は皆無であった。
 僅か百年弱の間に、日本人移住者またはその類系は、埋没してしまった。

 本稿の傭兵の項は、岩生成一著「続南洋日本人町の研究」に拠った。膨大なジャカルタ文書館のオランダ資料を精査した大著ではあるが、出所のせいで、V.O.C以外の記録・調査が欠如しているのは止む負えないだろう。

第33話 終
目次に戻る 第32話へ 第34話へ

作成 2018/09/04

inserted by FC2 system