慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第31話 ジャワの岸辺から
バリへの東航
 アッラーフ アクバル アッラ〜〜フ アクバル、
アシュハッド アッラ〜イラッハ〜イッロッロッォ〜〜〜
ラ〜〜イッロッロッォ〜〜〜
神に栄光あれ、 アルラーの神を讃えまつる、アルラーのほかに神はなし
 暁のしじまを縫って、遠く、近く、この日最初のスブの祈りの唱和がシルエットになって霞む椰子の葉を越えて響きわたる無風のマリーナアンチョールのジェッテイ(桟橋)。
 フォアデッキに直立し、キブラット(メッカの方角)に向かってムインは両手を捧げて神と対面する。
 遠くスンダクラパ旧港<1> の灯標、発電所識別赤灯群が明滅し一種荘厳の気が辺りを支配する。
 神との契約が済むまで総ての時はとまる。
 わたしは坐ってテルモスからこの日最初のコーヒーを注ぎ、この一年あまりのラロとの交流を思い返していた。

 ゾッとするような素人が、未知の海を600マイル、それも新艇で渡り、「ジャワは東西に長いから、南にゆけばそのうち何処かに着くサ」と言って顰蹙を買い海に放り込まれるところだった。実際ゴムボートに乗り移ってシゴトする羽目にもなった。仕事とは漁り舟に近寄って「畏れ入りますがジャカルタに行くにはどっちでしょう?」人には言えない。
 頼みのサテナヴィ<2> はピーピーッとナウい電子音を発して私を興奮させたが、何が悪かったのか目的地ジャカルタに着いてみたら示度はオーシャン群島だった。

 挙句の果て水も切れて唇を白くしてやっとこさ桟橋に上がったら不法入国だったよな、
 「此処はインドネシア共和国、公海上に退去せよ!」にゃ参ったよな。
 フネでは、電気と制服(警官、役人)は信用でけんナ。

 11月に入り西からの貿易風が卓越してきて、我々は今日バリへの東航を実現する。
 この国に「テイモールジャウ」とゆう言葉がある。直訳すれば「遠い東」だが彼等はそれを希望と幸福を込めて言う。幸せを運ぶ東への順風、アギンチモールジャウ、、、モンスーン、遥かな昔からその柔らかいが重い風に押されるように「舟は帆まかせ、風まかせ、主さん今頃いずこやら」。

 今年のモンスーンの吹きだしは例年になく弱く、一方交通のバラタン(西風)が14個目を超えた日はまだない。排水量9トンの櫓を押すには心もとない。バリ間で700マイル、風をクオーターに受けても3日と半日では無理がある。恥ずかしながら油を焚くことにして軽油缶をスタンションにずらりと縛る。
 だがきっとムインは水平線に現われるそこここの雨雲の縁に風を捉えて、彼がいつか辿った路を東に向かってくれるだろう。

 「待てば海路の日和あり」。帆船は自然と調和してきた。腕のいい船頭は待つ事の才に秀でていたとゆうが、今は待てない時代だ。何がなんでも土曜に出て日曜に帰りたい。その為にレールを敷いたり車を発明して人間様優先の日々を確立したかにみえるが果たして海でもそう出来るのか。
自然の声を聞かなくてもいいのか。
 東京勢は「正月はバリで」が夢だったから風の声を聞かずにガルーダ便何時何分発、帰国翌日出勤と決めてくる。考えようでは傲慢だがそれを疑問と思わない私も含めた社会があるのだ。
 今朝も予定より遅れているので無風の中沖に向かう。ぼんやりと2,3日風待ちすれば、必ずバラットダヤ(大西風)が吹くだろうに。

 毎晩チャートとデバイダーで、6ノットでチレボン沖が何時パス、マンダラナ灯台視認出来るから2000ワッチ!とログブックに書き入れて、「いい線だろ、ムイン?」
 話しかけても彼はニンマリするだけで応えない。字が読めないせいだけでもなさそうで、答えは
 「インシャアルラー=神の御意志のままに、、」
 価値の尺度が私たちとは違うようで、「トアン、見えた時がそこにいるとゆうことで」強烈な実存だ。
 三日と半日84時間が一流大学出の私のログだったが彼は四日か5日。 彼流にいえば4の昼と夜、5日目の夜半、余裕を持ってバリ西の端ギルマヌクに入った。石ころ頭の勝ち。

シャバンダル 港湾局
 予定より遅れたのは私のせいでも風のせいでもなくお上のご意向である。
 役人の非能率と不正はいずこの国でも同じだがここインドネシア共和国でも、大きな声ではいえないがそれはスサマジイ。正義の使者になりたければひねもす家で寝ているしか方法はない。

 行動を起こせば必ず許認可がついてまわる。ライセンスを頂戴出来るのは、正に待てば海路の日和なのだ。
 賄賂のことをわが国ではマイナイとか袖の下とかいい、ピーナッツは最近の隠語だ。
 ここでの正式語はCorruptionからきたKorupsiだがその行為が社会全般あまねく行き渡っているから類語も多い。Sogokは眉を上下に動かす、Suapは指で摘む、Tembakは撃つ、封筒も。
 まあ、よくぞそこまでと呆れ、感心するような尤もらしい難癖を探してサインを渋る。完璧な書類でも完璧なのがまた理由になる。申請者は時間が惜しいし面倒だし折衝自体がひとつの儀式だと知っているから適当な処で不足書類を何枚かの同じ図柄の紙片を封筒に入れて済ます。
 オランダの書類好きがまだ残っていると謂われるがとにかく煩雑極まりない。
 この国の国是が話し合いムシャワラとゴトンロヨンがある。相互扶助だから共通の利益を尊重してお互いが補い合って生きる。役人は下々より偉いし給料は安いからと両立しない論拠も飛び出す。ここで怯んでうんざりするようではまだ子供で、此処はまだ独立日が浅く徳川田沼時代だと諦める。コストを計算してテンバックが宜しい。それが嫌ならなにもこの国にいる必要はない。頼んだわけでもない。嫌ならとっとと帰ればいいのだ。
撃てばほとんどが集成する「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、、」だ。

 バリに行くには通行証が要るとゆうのだ。スラマット・ジャラン。この国ではヴィザがあっても自由に動けないのだ。
 ラロの係留許可はとってあるからタンジュンプリオク主港シャフバンダル港湾局に出頭する。
 別室に通される。待たされる。覚悟を決める。
 会う役人は奇妙にもみな同じタイプなのはどうしてか、手長猿がユニフォームを着たように極端に小さな頭蓋骨に長過ぎる手足がついている。エアインテークみたいに鼻の穴が上を向いていてこの国のチェンケタバコの煙をもうもうと吐き出したので汽笛でも鳴るのかと思ったほどだ。

 「グウモルニン。メスタ」 「ワタシインドネシアゴハナセマス」
 「素晴らしいヨットだそうですねえ、高いんでしょうねえ」 媚を売るような眼が気に入らない。
 「たいしたことは、、中古ですから」 ジャブの応酬だ。
 「マストが二本だそうですねえ」  「えぇ、まあ、、」
 「わが国の条例ではマスト一本につきアワックカパル(船員)2名が義務づけられています」
 「クルーの人数を減らす為に帆を小さくした二本マストなのです。独りでも操船可能です」
 「規則です。ま、それはそれとしてKTP身分証ですが、ムイン氏のは三年前に失効してます」
 「私が保証人になってるし必要なら大臣のも取れるけど」 はったりも時には必要だ。
 長い沈黙、彼は突撃を考え、私はこの2件で2万かと考える。待つのだ。先に喋れば負けだ。
 「基本的には、トアンの航海安全を担っているのをお忘れないように。なにかごとが起きれば国際交渉にもなり兼ねませんから」。  「ご心配をお掛けして申し訳ありません」
 「つかぬ事ですが、一体目的は何なのですか?」 「ウイサタアン、カンコーです」
 「今どきフネで観光する人がいるんですかねえ、ガルーダならほんの1時間なのに、、ほかの目的、金儲けとか、、、」 手長猿が鬨の声をあげたような高い声で笑い、毒でも入っているのかコーヒーカップを中空にかざして飲むでも、飲まないでもない決心をしている。
 「営業なら安全装備、検疫、鼠害薫浄もあるし、、」 私は彼の呟きと認定して黙っていた。
 「ヨットは私のものではなく、私はいうなれば番人です。それに観光は政府の脱石油の切り札、マリーンスポーツは将来のお国の観光の花となるでしょう」
 「どうだか、、」殆ど無関心の表情で下から上に視線を変えた時には行政官の顔になっていた。
 「追加二人の水夫とムインの件は?」
 少し早過ぎるけれど、すばやく封筒をファイルに挟み「早速当たってみます。それが決めなら致し方ありません。ご面倒おかけします」 両手を添えてファイルを彼の手元に押やった。
 封筒の角が少し見えるようにする高度なテクニックで その白さは際立って見えただろう。
 卑屈なお追従笑いを浮かべる自分を想像して死にたくなった。

 「明日連絡してください。代理人でも宜しい、では」
 あしたの11時、通行証には私がまだ会ったこともない2人の男の名の黒々とした署名があった。
 安全な航海を祈っているとの伝言でした。

 声を後ろに聞いて私は海の色の枠のあるP旗(24時間以内に出港、総員帰船せよ!)と海老茶色のキャプテン旗を揚げた。

ジャワの海
 わたしははじめはヴィデオプロッターやデプスファインダー、ウインドインジケーターなどメーターが大好きだった。しかしそれらは何らかの理由で動かない時のほうが多かった。発表されたばかりの衛星位置測定器=サテライトナヴィゲーションも凄いのはその価格だけだった(今は進歩してケータイ電話でも活躍している)。電子機器が教えてくれたことは、便利だが肝心の時に故障する苦い経験だった。一方、ムインは多分頭の中は石ころだろうが五官を使う。眼、耳、鼻、肌と第六感。彼の道具は40年使った中古品だが壊れた事がない。潮の香で暗礁を嗅ぎ分けうねりの寄せ方で島を見、六感で流木を避ける。
 彼がリギン(結索)に掴まっている姿をついぞ見た事がない。「右手は舟の為に、左手は自分の為に」が海上での鉄則だ。落水したら一巻の終わりだから必ず自分を保持していなくてはならない。飼い犬のようにいつも命綱で結んでいるのもいい。この格言ならムインは両手を舟の為に、その為にいつもしゃがんで蛙の姿で安定している。そのままの姿でフォアデッキに取り付く早さよ。
 大きくピッチングを繰り返すバウスプリットにしゃがんでツァイスでも見えない島影を赤い眼で指差す。いつもしゃがんでいて決して尻をつけて坐らない。

 今度の航海では往路だけの約束でソニを乗せる。西スマトラ・パダン人でこの国一番の計数観念が発達した種族で加減乗除は私程度は出来るからオフィサーとゆうところか。タイタイとゆうアメリカ人のクルーになってバンカ島からバンコックに向かったが、オーナーが殊のほか生殖行為が好きで眼のやり場がなくとてもラットを持っておれずバタムで下船、ムインとも気があうので乗せた。
 シロットは初めからのクルーだがいわゆるビーチコマー、波止場でうろうろしていて半端仕事をしたり旦那のご機嫌をとったりたまには盗みもする手合いで小児栄養失調の残影があり、かりん糖のように細身でバラスト重りにもならず肝心の時化では役立たずだが旦那好みの清潔好きで礼儀も正しい。あらゆる材料を探して一銭でも多くチップを取る事だけを考えているが、その理由が様々なのはあながち間抜けでもないようだ。まあ炊事の真似事は出来るし皿にトイレットペーパーだがナプキンを敷くエチケットも心得ている私のペットだ。
 相性はこうゆう密室の舟の中では重要な要素で、あ、うんの呼吸で行動出来なければそのうち些細なことで不和になってゆく。
 「船乗りは、目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」

 ジャカルタの浅い湾とクラワン岬をかわせばあとはジャワ海になにもない。
 暗闇の沖を90度E、3日と3晩そのまま行けば平べったいマドウラ島が見えそこで180度Sいやでもバリだ。気をつけるとすれば海上石油掘削櫓に侵入しない事、スマランのお客さん(盗賊)とスラバヤ沖本船航路だけだ。
 繁盛する港には多くの商人が集まり物が動く。この国で強い輸入規制があるにもかかわらず無い物はひとつもない。なんでもあるのは密輸が幅を利かせているからだ。世界最長の海岸線を持つインドネシアでは官憲もお手上げだし見付けても数日前私もやった同じ紙切れで片をつけるのだろう。役人と賄賂、密輸と泥棒、海賊だってターゲットが多くないとコストが嵩む。密輸品は奪われても訴えられない代物だし奪われる方も私設税関としてコストに折込み済みなのかもしれない。
 マラッカ海峡は狭過ぎる海峡を東西船舶が踵を接して通らねば日本も食い上げになる。近頃はステン銃の本格派も出没するとゆう。ジャンビ辺りのスワンプに逃げ込んだら逮捕は不可能だ。

 スラバヤは日本なら大阪で海軍の本拠でもある。
 それはともかく、近頃の本船はコスト削減でクルーを最小限以下に抑えている噂で、外の仕事に追われ過労気味でワッチ(監視)はサテナヴィに任せっきりだそうだ。自動化だ。
 ブリッジで双眼鏡を胸にヨーソロなんてやってるヒマなんてないと現職のキャプテンから聞いた。
 それでなくても進路を横切るタライ舟などレーダーには映らないし、よしんば衝突しても蚊に刺されたほどにも感じない。いつかヨットの残骸を舳先につけて入港した貨物船もいる。
 ヨットの遭難は荒れ狂う風波で沈没は昔の噺で、いまは衝突(本船、流木、漂流物−コンテナも含む−海生物)なのだ。
 スマランとスラバヤ沖はぼちぼち行けば陽のあるよう設定したから両方の不幸は防げる。

 ムインは椰子の若い芽とバナナの花、パラの葉となんだか知らないものを包んで海神様に捧げ、道中無事を祈願し、ラロは朝日の射す中、誰も聞いていないホーンをかすれたように鳴らしてベタ凪の沖に舳先を向けた。

 なにもないのが順航、「ひねもすのたり、のたり哉」。昼すこし前、遅刻した西風がゆっくり仕事をはじめ、頭のすぐ上にあるようなお日様に照らされた透明な風が、どこまでそうなのかずっと変わらず動くので我々もいっしょに動く。昔風に言うなら真艫(まとも)に受けてだが、マトモな考えが浮かぶような清涼な環境ではない。思索を練るには寒冷地こそ適する。日陰を探すのが仕事とは情けない。
 ジブスロットに長々と寝そべり、灰色に輝くいるかの一家がラロの見物にきても、あぁとゆう程度に南洋ぼけしてしまった。昔はアッ、いるか、イルカだぁ!と大騒ぎしていたのに。
 追われた飛び魚が一尾、一尾とセールに当たってデッキに落ちるのをソニがバケツに収納してまわり今夜のおかずになる。缶詰めもレトルトバウチも要らない。食い物は先方から飛んでくる。

 インドラマユ辺りから水平線に雲が立つようになった。午前中の熱射で空気対流が起こって積乱雲が発達するちょうどお時間になった。
 うねりも出はじめ舟に乗っている感じがしはじめた。黒い簾が海に影を落とす頃になれば、我々も神様も忙しくなる。
 真っ黒い雲ってあるものだ。ピユアブラック。風は東西南北の方向から吹くと教わったがここでは上下もあるようで、「本日の天気カリムンジャワ沖では快晴、北西風8米上から。一時南東の風16米下から。処により強いにわか雨」。ブローが顔を打ちクルーは濡れるからではなく寒いからストームジャケットなのだ。
 海面を黒く染めた何かが11時の方向から押してくるとそれが仕事初めになる。
 象の足で踏んづけられたようにガツン!ショックでラロは大きくヒールして風上に切りあがる。シートを送りミズンをフリーに、怠けていた罰でファーリングが絡みジブがでかい音をだす(便利なものは不便になる)。頭を落とすから余計にヒールしてバウがスプレーをしゃくりあげスタンション(手摺)までがぶる。デッキはほぼ垂直に近い。
 飛沫がきてもあまり影響はない。コックを捻った人がいたようでスコールが大桶を底が抜けたように、ダム放水のように、とても雨とは言いがたい。鰓でもなければ息も出来ない。
 舳先は霞んで、ソニが水中メガネをしてキンク(絡み)と戦っているが無駄とゆうものだ。放っておけ。なにがイージーセーリングだ、聞いて呆れる。一枚の帆をくるくる巻いて縮帆するファーリングは近頃流行りの新式だが、そうなって貰いたくない時に必ずそうなる。故障は回復の予想がつかないからいらつく。辛い作業だがストームジブに替える時間は予測出来る。その方が安全だ。
 ラロは風を逃す事で対応してきたので逆ブローが来るとブームが瞬時に反転ジャイブして危険だ。
 教師に減点されて一級免許は貰えない。黄色サウウエスター(時化用帽子)でシャーラインを洗われて傾くデッキを走ってブームを抱いて踊るムイン、低重心になったラロは腰が据わりひと揺れしてコースが定まった。あまりの驟雨で海面が叩かれ波もおさまるようだ。
 ここに台風はない。二時間もすれば、嘘でしょ!とゆうように黒い塊はひどい速度で南に抜けて天はまたいつもそこにある高めの太陽が狙いを定めて熱線を照射してくる。
 次の黒ちゃんはまだ遠いけれど14時の方角にウオーミングアップしている。積乱雲の行列だが、ムインはあれは来ないスとのご宣託があったからミズンハリヤードをガムテープで固定したりデッキのジェリゲン(燃料缶)を縛り直したり、散らかったキャビンを元に戻したり、この程度の対策は適度なストレスがあっていい。「やってる!」といった感じだが、これが3日3晩も続けば俺なぞあっさり土ザ衛門だ。波風は素人と玄人の区別はしない。

潮目
 夕方、もうビールのお時間と一本いや二本持って、とっておきのサラミを口に咥えデッキにでると、どうしたことかムインがバウに立ちひどくおっかない顔で時々腕をあげてアタマ(進路)を指示しシロッが眼を離さず従っている。「カランガン(暗礁)なぞないゾ、この辺りに、ムイン」
 「マランド(旋風)のせいかアルス(汐)がでてサンパ(ゴミ)がきます。夜は動けないかも、、」
 「ふ〜ん」わたしに危機感はなかった。
 ラロが少しアタマを振ると前方にいろんな浮遊物が漂う汐目があって海草、プラスチック、スチロール箱、板片に海鳥が休んでいる。ムインが叫んでシロッはスロットルを絞る。ムインは海面を凝視しながら腕で指し示す方に黒い潜航艇みたいなものがラロと並行して去ってゆくところだった。
 「ポホンクラパゲデ(椰子の大木)」
 未知の恐怖はあとになって訪れる。それはビールを一口して訪れた。あれに当たったら3千万はおしまいだ。撃沈されちゃう。
 それから数回そんなでかい奴と会ったが浮いているのは一本だけであとのは水と比重が同じなのか水中ですぐには見えない。ラロは前進微速、一緒に漂いながら切り抜ける算段だ。コンパスはおおきく振れて20度N。
 「まわり道ですが奴等と喧嘩しちゃいけません。しばらくこうしていりゃあスギ(直角)で当たる事はないッスから。ラロはバリン(スクリュー)があるしクムデイ(舵)もあるから生きた心地が。わしらの船にゃ底にゃなんにもないっす、いるかのように」。確かに帆船ピニシの底にはなにもない。

 「何処から来るのかなあ」「カリマンタンにも雨季がきて乾季のゴミを河が押し流しているんでサ。
 バンジール(洪水)のあとではもっと凄くクレバオ(水牛)や人間様まで、女はどうして決まって空を見てますが、トアンわけを知ってますか」
 「男にゃバリンが付いてて重いからうつ伏せで流れるんだろ」 それで私たちは笑う余裕がでた。

海賊考 (本稿は月刊舵、キャビン夜話に転載されました)
 アフトデッキで奇妙な姿で脚を折り、ドグハウスの屋根すれすれに視線を固定してラットの芯を鷲掴みした船頭アブドウルムインは、もう小半時もその姿勢を変えない。何が気に入ったのか此処では不吉な黄色の荒天用ハットサウウエスターを深く被り脱ごうとしない。左腿にえぐられたような傷痕。風に乗って潮の香と奴の体臭が混ざり合う。単調なジャワ海の東航。

 「ムイン、楽しいか?」 「シゴトでさぁ、トアン」
 「俺と出会うまで、何で喰ってた?」 「プラブハンラトウ(姫湊)で漁師でさあ、トアン」
 彼はヘミングウエイが逃げ出すような巨大魚との格闘の噺をしてくれた。
 「その傷はそん時のイカンパラ(エイ)の毒針でか?」
 「んにゃ、その前ですけん」 「前とは?」
 「スモッケル(密輸)で、、、。 リアウの海で、マーキュリイ2連掛けでした。運てやつはあるもんで、AL(海軍)に掃射されて仲間がやられたあと、わしゃ海の中に二日いましたんで。傷が治らず、魚仕事ってわけでサ。 だけんどぺロール(弾)があと3センチ上なら、玉持ってゆかれるところでした」 「スナット(割礼)の手間要らずだ」 
 我々はそれで乾いた笑いだったが、彼の遠くを見る眼は、流木探しではなく、いなくなった仲間を捜しているように俺には見えた。
 「スモッケルは儲かるか?」
 「親方のチナ人は儲かるでしょうが、こちとらの身入りは、それほどには、、」
 「だけど命掛けなんだろ?」 「トアンが思っているほどには、、あれよりマシです」
 「アレとは?」
 ムインはゆっくりと振り向き、無い前歯をだしてニーッと笑って答えなかった。
 「アレとはチュリバラン(抜け荷)だろ?」 「滅相もない、ま、それも仕事にゃ違いないですが。
 あの稼業は、誰かに見られてるような、後ろが気になって町にゃ住めなくなりますデ。時代も変わったことですし」

 海賊稼業バジャックラウト、私のイメージとは掛け離れて、彼の仕事の一部だったのが朧気ながら判ることになる。キャプテンエイバリーやキッドがお姫様を横抱きしてプープデッキでちゃんちゃんばらばらの勇ましさとはほど遠い、ゆうなれば私設税関のような、醒めたシゴトの感覚だった。
 我々の考え方からすれば彼は何回か転職している。
 叔父のピニシ帆船のデッキマン、まだ14歳の少年だった。恐怖のトップスル揚げ。
 真珠貝採取船。何人もダイバーが浮き上がらなかったが毎度のことで、夢の歌のような物語。
 密輸ボートのスキッパーといわゆる海賊。沖漁師そしてラロの船頭。
 私と関わりあったニュージョブ以外それらは殆ど区別出来ないほど重なり合い関連しているのだ。
 それはただひとつ、海を相手の仕事とゆう同じ労働なのだ。

 船は貿易風に乗って動く。いやな臭いとうるさい音がする発動機が付いたのはほんの百年ちょっと、船はずっと長い間風だけが頼りだった。船は風に押されて交易し文化を運んだ。
 発動機が巾を利かす同じ頃にお上とゆう制服を着た怖い人が現われ上前を刎ねるようになった。
 税関と呼ぶらしいが国境線は海には引けないといったのは我等の偉大なる祖先スルタン・ハサヌッデインだった。
 今だって私らには国境はないからお上のゆう禁輸とか禁制品の意味はよく判らない。欲しい人がいて売りたい人がいれば荷を運ぶだけだ。それを密輸だなんて!
 言っちゃあ悪いが制服は大きな海賊に感じる。

 マレーシア、シンガポールそれにインドネシアと呼ばれるようになったのはついこの間で、その画張りは不幸にも何も知らない西洋の収奪者によって引かれた。スルー、リアウ、ボルネオ、ミンダナオ、スラウエシ人はみんなが仲間でそんな国名で自分たちを認識してはいない。あくまで海ダヤクでありバジャウ、マンガッサラなのだ。引けない線を引くからややこしくなる。

 彼等の意識にない国境とゆう架空の線を越えれば「制服」に違法といわれ罰金、関税を徴収されれば不当の失費だから賊に会ったとゆうことになる。
 イスラム教はこの島々から内陸に淘浸していったが、その教義はアッラーの他に神はなく、人は神の前で平等を説いた。それかどうかは別としてここの人々には個人の所有感が希薄にみえる。
 財産は自分の物ではなく村のもの、仲間との共同所有で、それも神からの預かり物なのだ。
 共同体の中でそれを最も必要としている者に一時使用権が生じるといった考え。また教義に従えば持てる者は持たざる者にセデカ(喜捨)で余徳を返さねばならない。それが3%と決まっている。
 俺のもの、お前のものと眼くじらたてて争う世知辛い都会とはやや異質な世界がそこにある。
 欲しいものが先方にあれば一時預からせて貰う。向こう様が欲するなら「しあない、持ってけ」。
 すべからず神の采配で、総ての所有は神に帰すからだ。
 きっとリアウの海賊も襲う、奪うといった怖しい存在ではなくてコルバン(生贄)とかバギアン(分け前)といった柔らかい雰囲気も感じられる。そりゃあ時には行き違いもあって人のコルバンも出ただろうが。
 面白い事に、彼も追う立場と追われる立場が確立していないようだ。襲ったり襲われたりしながらこの海を生きてきたのだった。ムインは欲しいものを借りる為(返すアテはない)飛沫の中でパラン(大刀)を抜き放ったのだろう。パランやチュルリット(鎌)は使ったことはないと言ってたけど、それはどうかナ。短いワッチオフ、なにをしてるのかとフォクスルハッチから覗いたらプリオク出港の時の買い物で、いの一番に買い込んだホンコン製のパランを研いでいたじゃないか。ナイフではロープは切れないからナ、わかってるぜ、ムイン。
 私も視線を遠くに移しリアウの碧い海原、槍のようなプラフ(小舟)に膝立ちして、曲がれないほど乾舷低く突っ走るムインを見た。
 思いなしかムインの眼差しが厳しい。もうロープの端で奴の尻をどやすのは止めよう。いつラロの船頭から首領に変身しないとも限らない。

 海は繋ぎ、陸は隔てる。太古からそのようにして生きてきた彼等の前に突然陸の方式が闖入した。国境だ。誰にも見えない境界が海の上に出来て自由な行き来もならなくなってしまった。
 「制服は始末に負えません。奴等はすぐ撃ち、それに根こそぎ。わし等のことは芋ほどにも考えてはいません。トアンは知ってますか?ナツナの難民のことを。援けを求めてサイゴンから来た者たちを、、、」
 ムインはおかしなところで嘆いた。彼とて渡世人なのに。

 有無をいわせぬ大海賊の出現でそれまでの奇妙なバランスを保っていた海道の定めが崩壊した。奪われるだけでは他に糧を求めなくては生きてはゆけない。パランは飛び道具にはそれこそ刃がたたないから同じようなものを用意する。得物を持てば使ってもみたくなる。原子爆弾と同じだ。
 そうして制服のやり方で狩りをし、孤立し、専業となっていく。
 獲物が仲間以外の船なら、神も許し給う。異教徒なら、神の祝福あれ!

 暗い街角で、色の黒い奥眼の鋭い男が近づいてきて、「マッチあるかね?」と聞かれれば、単一民族出の俺は、物盗りかとドキリとする。
いつかの船旅でもそんな接舷をされて、先方はマッチが濡れただけだったのに白い帆の見慣れぬ船を見詰める彼等の眼は刺すようでラロの客人はパニックになった。
 東京に帰った友が「南海の海賊遭遇談」を吹いているのに失笑したものだ。海賊を避ける方法はと聞かれて、船に乗らない事。答えにならない。銀座でも盗賊にあう事もある。これも答えにならない。自分が海賊になればいい。馬鹿馬鹿しい。
 しかし近づく事は出来る。ムインのようなお仲間と一緒なら。但しお仲間と同じ言葉が出来るのが条件だが。奇しくも、スマラン沖でそれが現実となる。

 ハルを叩く波の異常さで目を醒ます。
 ラロは一杯から一杯に蛇行している。
 一度ヘッドの壁に叩きつけられながらとび出ると、思うことか、すぐ脇を速度をつけた巾の狭いプラフ(ボート)が懸命にラロのバウに回りこもうとしていた。ブームがバシン!と返る。
 ムインはと振り向くと、レーキの後ろからもう1隻スプレーを浴びながら全開で迫ってくる。
 「なんだ?!」
 「出るな! トアン、中に入って!」
 「そおぉ、」やけに素直に従ったことが後になっておかしかったが、本当は怖かったのだ。
 女はいなかったみたい、みんなフツーの人みたい、だけど速いななどと変な事ばかりが頭に浮かんだ。消火器だしといた方がいいんじゃないか、とか。
 そのうちラロは止まってしまい、うねりに任せて大きく揺れる。ポートホールからは何も見えない。
 バースの上で膝を抱え、奴等もだいぶ濡れてるよナ、、、。大変な事になった!
 ポケットにシーナイフはあるが何の役にもたたんだろう。

 音、怒鳴り声、私の知らない叫び声、テェナジ!!ブギス語で否とゆう意味だったか。また音、人の気配数人。ラロは私をいれて四人、足音は多いな、乗り移ったようだ。
 どうしてもきょろきょろ上を見る感じでひどく落ち着かない。姿勢も低くなる。
 そっとドアの鍵を閉める。
 上のキャビンは静かになったがデッキでまたテェナジ!と。あれはムインの声だ。
 何分?いや、時計を見ていなかった、情けない。
 再びエンジン音、ひどくヒールしてラロは動き出した。静寂がしばらくあって、連行されるのかとくだらん事を考えた。ドアにノックがしてビクリとした。海賊はノックなどしない。
 「すみません、トアン。騒がせて。すみませんトアン、予備の二十万ルピア(\18,000)とチャートテーブルにあったカセットとカメラ、ビールカートンやられました」
 「カメラはバカチョンの方か?」。「チョン?」。「もういい」。俺はだいぶ動揺してる。
 「アルハンブリラー(神への謝辞)、昔の(トモ)ダチでした。トアン、手首ないんですぐ判りました。あの野郎、もういい歳なのにまだシゴトしくさってからに、コルバン(生贄)と許してやってください」
 「セデカ(喜捨)だな、、、。鼠色(AL警備艇)でなくて良かったナ」
 「シュックルラー、トアン。ありがとう、神よ」
 テーブルの横に掛けてあったツァイスの7倍はそのまま揺れていた。泥棒にも三分の礼か。
 ムインの腰のパランががたんとステップに当たり、私もデッキにでた。
 ソニがワイルドジャイブで飛んだシャックルを替えていた。

 輝くような碧い海が広がり、なんとなく想像していた夜襲とは裏腹な、あくまで明るい事件だった。
 風の涼しさを感じられるようになって、私はぐっと前方に眼を据えると、時が戻り、塩飽水軍の頭目になった気分だった。 さて、東京に帰ったら、何と尾鰭をつけて話そうか。
バリ
 豊旗雲が西の空にたなびき、今日の勤めを終えた太陽が沈んでゆく。赤道の落日は早く落ちる。
 放射となった光芒が海面に金色のヴェールを投げる。四囲は紫紺に変わるあらゆる色を使って儀式を演出する。ラロはウエザーサイドでジブを細かくシバさせて調和する。
 茜色の彼方を三人は黙って見やる。明らかに私が暮らす処より、いま、めくるめくも偉大な神の座に近い。過去何億回もこの時が繰り返されているのに、只の一度と同じ日のない不思議さ。
 そして、カヌーに乗って東を目指した古人も、モジョパヒトのお姫様も、ポルトギスの荒くれ水夫も、
 あした沈む運命の帝国海軍巡洋艦の艦長も、そして私もムインもいまその続きを見ている。
 フネで遊ぶまで、私とてそんなことなど考えもせず、ネオンの街を儲けの為にせわしなく歩いていた。地球は確かに丸いと信じることもなかった。
 その仲間にいわせれば、馬鹿な真似をして、一銭にもならいのに、と蔑むだろう。
 ビジネスとゆう実の世界から遊離して、利を忘れれば奇人になる。利益追求売上げ増加とゆうおっかない世界に参加しないと、抹殺される。
 ボロを着てても心は錦、なぞ通用しないから、あのお方=神様も南の国に疎開なさったのだろう。
 損も得もない世界に棲みたい。影響力を少なく、粋の世界に、数寄の世界を探したい。

 隙があったのだ。油断とゆう。マドウラ沖。18.00
 「マドウラ、何もない処です。暑いだけ。男はサテ(焼き鳥や)か輪タク屋、一生闘牛を飼って終わります。
 「クラパンサピ(牛競争)はいい見物だと聞いた」。「いいのは女だっていいます」
 ムインの言い方は鉄よりステンレスがいいと言う感じだったので何がいいのか咄嗟には判らなかった。
 「子供の頃から特別のジャムウ(売薬)を飲んでるからだそうで」。スペシアルとゆう英語を挿入した。
 「そこだけが別の生き物みたいだといいます」
 「まるでシャコ貝だな」
 「ヤー、トアン、食いちぎられます、なんでもほどほどでなくちゃあ」 で笑った。
 暗くなる前にソラル(軽油)を入れときましょうと、生物学はちょんとなり、ムインはデッキでジェリゲン(燃料缶)を抱えた。凪いでいたのに滑って転倒し、動かなくなった。油が彼を濡らした。
 彼は腰をセルフタックレールにしたたか打って起き上がれない。
 「だから靴を履けといっただろう、裸足は滑るんだ」 
 この事故からソニとシロットが活躍するが、僅かな不注意はショートハンドにとっては命とりになる。
 流木騒ぎやお客さんも来てもたついたからマドウラ東の鼻で転進し、サプチ海峡通過は夜航になる。それが別にどうとゆうことはないが、やはりムインが重しになってフォクスルにいるとやや緊張度が高まる。
 「ソニ、寝ておけ。あと一晩、シアップラー(気をつけぇ)」
 私は冷や飯に山羊肉スープをぶっかけて腹ごしらえ、バンダナを締めなおす。
 「トアン、サプチはイアング島を通ってからでマドウラに沿ってではなく、、、」
 「わかってる、ムイン。海図でもそうだ」
 なにかシンとしたデッキ、マストの上のウインドインジケーターのライトが実に美しい。ローリングし揺れる度に、星が、天空が大きく揺れる。オートにしてワッチするが今夜は漁火もなく闇一色。

 私は船への適正がないと思う。船酔いには強いがなにしろ眠らないと駄目なのだ。それがひとつ。
 次が楽天家。状況を良い方にしか取らない。三が感激性、冷静心がない。それによく喉が渇きシャワー大好き。奴らは出港してからは頭だけ洗う。水も殆ど飲まない。
 遠目も効かず、それが適性なら生まれが漁師町くらいなものだ。いったい俺のクルー達は何を喰ってるんだろう?視力がぜんぜん違うもの。たぶん活字を見る習慣がなかったせいかも。
 「トアン、ワッチを代わりましょう」
 「そうか、じゃぁ」
 二時間もしないうちにバースにもぐり込むとは資格以前の問題か。

 夜明けだった。
 ムインはドグハウスに腹ばいになって進路を見、「この空で、昼頃メラピ山が見えたら、うまくゆけば今夜に錨を入れられるでしょう」
 ジャワ海が終わる頃からバラタンは南にシフトし、マドウラ海峡からの汐が思ったより強く、ラロの南進をはばみ、クローズホールドでがぶる。向かい風に海水が飛ばされ濡れながら時間が過ぎていった。シイラが3尾ほど釣れて、日が変わっても食事は相変わらずシイラの丸焼き。豊漁もよし悪しだ。

 ポートサイド(右手)にメラピ山の頂きが望まれ、ゆっくりと、余裕をもって、バリ西端ギルマヌク港のマングロープ林が左右に迫る水路、恥部をま探るように慎重に恥ずかしげに初めての港にアプローチしてゆく。
 私はクルージングも好きだが入出港のなんともいえない情感が好きだ。

 船には長い歴史があり車も飛行機も比べものにはならないから出船入船にはある種のセンチメンタルが漂っている。それは速度なのかもしれず、船の速さが人間に許された速度なのかもしれないと思う。ラロはその許された速さで、早起きの村人が闖入者をぼんやり見詰めるなかを、余りに透明で船が中空に浮遊しているような入り江に、「ジャンカル!(錨)」
 バリに着いた。

 アンカーロープがずうっと伸びているのも、水底の貝から空き瓶までなんでも見え、小便するのも気がひける。 ラロのスターンの極く薄い油膜も気恥ずかしく、水をばちゃばちゃ掻き回したりして、
 これがバリの、いや、レッサースンダ最西の水か。
 ギルマヌクはジャワ島とのフェリーターミナル。外国人はどこからバリを訪れるのにも航空便だからこの町の名は知らない。普通の人はここからバスでデンパサルに向かう。
 港は観光バスや運送トラックで喧騒していると想像は外れ、町ともいえない船着場は妙に寂れて数台のドカル(馬車)が客待ちしているだけだった。
 腰痛はなった人しかわからない痛さだし、ムインはそれを言わないから、一日を休養にして明日の日の出、潮が満ちたら出港としよう。空港のあるデンパサールまで80マイル12時間みればいい。

ワヒュー・スタストリ
 二年前ひとりの観光客としてこの海峡を渡り、フェリーの船長と知り合った。
 いつか自分で舵棒を持って来たいといったら、操船そっちのけで舵輪まで持たせて呉れた。
 約束のラロを見せてやりたい。古い手帳から「ジャランポゴット28番地」と禦者に告げた。

 小さい前庭に赤い花が咲いていた。
 「もし、キャプテン・スタストリのお宅ですか」
 しんと静かな家だった。すこし待ってから裏にまわってみたが誰もいないようだ。ふたたび表にでると、ちょうど路を渡ってくる婦人がいた。
 「キャプテンの友人で」
 いつの間にか近所の子供達が遠巻きに囲むのは私が外国人だからだ。
 「あのぅ、夫は亡くなりました」  まさか! 
 「ジャンタン = 心臓発作で」
 「ここではなんですから、お入りになって、、」  
 ロタンの小さな応接セットの上の壁に、髭も凛々しい好漢が写真の中で笑っていた。  「I don't beleave」
 「ナシブラー = 運命です」
 「今度会う時は自分の舟でと約束し、ジャカルタから今朝着いたのです」
 たぶん遺児だろう女の子に土産のアポロキャップをかぶせてあげる。
 船乗りの家なのか、私が船乗りになったのか、不躾けにも水浴させてもらいさっぱりした。
 部屋に戻ると女中らしい女がサテとロントンを供し、夫人はサロン姿からピンクのワンピースに着替えていた。この色は間違いでなければショッキングピンクと言う。

 私は落ち着かない。キャプテンとは海峡を渡る二時間ほどの付き合いで亡夫の話題とてないのだ。「会社の年金と保険でなんとか暮らせますし、もう過ぎたことですから。子供がいると再婚も、、。家があるから呑気にして、時々デンパサルにでて洋服の裁断なんか手伝ったりしています」
 昔、英国女優にジーンシモンズがいた。肌はたぶん彼女より濃いと思うが小さい顔に大きな瞳に上向きの唇がひどく撫で肩の華奢な首に乗っている。
 バリの地酒トアック、口に含めば、過ごせば二日酔い確実だ。
 「マデと呼ばれています。マデ・ワヒュー・スタストリ」 マデはバリ女性には通称だ。
 「バリはどちらですか」
 「わたし、バリ人じゃないの、結婚したら皆がそう呼ぶだけで、本当はマドウラなの」
 「マドウラ!」
 ムインがひっくり返る前に話していたシャコ貝か真珠貝、ひっくり返りそうになった。
 「マドウラにお友達でも?」
 「いや、マドウラ人とお会いするのが初めてなもんで」男と女の視線がテーブルの真ん中でパチンと音がしたようで、あわててマルボロを探した。
 「よく見てくださいな、女は女、いまはマドウラの貧乏後家」
 差し出された両手の指は驚くほど長く細かった。まとわりつく女児を女中に預け、そうして南国の生暖かい夜が更けていった。
 「ゆっくりお休みください。揺れる小さな船よりいくらかマシでしょうか、御用があればお呼びください、隣りの部屋にいますから。」
 南国のドアはカーテンだ。それが揺らぎワヒューは消えた。
 子供机、落書きのある壁、裸電球、天井のチッチャ(家とかげ)が戯れていた。
 私は枕の下で腕組みしてイニラー、ナシブ、、。

 真珠貝の夢を見た。サイケデリックな海の色、海草が揺らぎゆらいで、真珠貝の珠ひとつ、、、

 寝過ごして07.00、満ちていた潮は引き始めている。
 それまでのことはこの文の主題ではない。

ブランカット 出港!
 ソニはアンカーロープを巻き、ムインはまだ腹ばい、シロットは薄笑いを浮かべてコーヒーを、これが実にいいアロマなので首に出来ない。
 出船入船にはある感動があるが、今朝の出船は涙ぐむ心の高揚がある。
 「バ〜〜〜!」ホーンがサンパイジュンパラギ=また会う日までと告げる。
 避けられない労働もあって、私としたことが遅れた。
 引き潮出港もさることながら、女は魔物だ。目的地には寝坊したぶん日没後二時間も過ぎた頃だろう。
 狭くくびれて林が迫る入り江をシャーを擦るようにして外海に、その前には真正面に聳え立つジャワの霊峰グヌンメラピが天を圧して聳え立っていた。 標高2800b。
 シロットが首を振りながらメガネを差し出す。フェリー波止場の隅に小さい日傘ひとつ、
 「バ〜〜〜、 トウングーラースブンタール=待っててねー」

 今日から我々はジャワの泥海ではなくバンダに続くほんものの海に入った。そう思うと、風もチムールラウト(東南)からぐっと加速して、うねりの巾も雄大になる。風速計が狂ったように回転し、セーリングの醍醐味がもう始まっている。ウインチのキリキリ音が興奮を呼ぶ。
 「行くデ、友ばらよ!」

 11世紀腐敗した東ジャワ王朝は噴火災害やイスラム教に追われてこの海峡を渡ってバリに逃避した。以後バリは土俗宗教と混合したヒンドウ文化が華ひらく。
 有名な仏教遺跡であるボロブドールの石版レリーフには、巨大なトリマランが数十人の乗り組み員とともに彫られている。50米を越す構造船で、当時彼等は世界に先駆けて渡洋航海をごく日常的に消化していたのは明白だ。稲作文化が封建国家を育て誰も海には目がゆかなくなって船を含む航海技術は受け継がれなかった。
 むずかしいことは措いても、対岸のバニュワンギ(香り河)辺りから海面を覆うように大小の渡御船がお姫様を囲みドンソン(鐘)を打ち鳴らし渉っていった日があったのだ。
 人の世はうたかたの、移りゆく束の間の命だが、いま私が見る山々と海の碧さは変わらない。
 そんなことを考えられるように変わった自分が好きになった。地下鉄日比谷線の中ではこの発想はない。

 幻想を抱いているうちにもラロは「の」の字を書くようにしながら南下している。
 まわりに鰹のなぐらが立ち海鳥が乱舞する。色とりどりのラテンセールのカヌーがそれを追っている。うねりの陰にはいると波間に坐っているようだ。パニックになった鰹の群れに突っ込むが、ルアーに掛かるのはイカンタンギリ(しいら)だけ。わけを水産学者に聞いてみたい。
海峡を抜けると風はシフトし一本でバリ南端を掠めるのは無理になった。観光クタビーチに針を置き2,3回のタックになる。
 ラロはグヌン・アグン(偉大山)に敬意を表し、会釈するようにマストを傾け7ノット。ムインは責任を感じて腹ばいはいいが、ろくに水も浴びないのでバリの薫風もすえた臭いが混ざる。ラットの真ん前が彼の尻ではモジョパヒトのお姫様の続きはみられない。

 バリ。最後の楽園、神々の島バリと世界から観光客を集めそれなりの大成功。
 1952年まで初代スカルノ(母がバリ人)がお触れを出すまで娘たちは胸もあらわなトップレスだった。髪にブーゲンビリアの花かんざし、コペル(お供物)をプヤ(守り神)に捧げる小麦色の行列は神の下僕だった。いま女たちはサロン腰布を胸までたくしあげて人間になってしまった。
 バリの外の人たちはバリ人の生涯は葬式だけと軽蔑するが、グヌンアグン霊峰の頂きから縦割りの境界で王国が分かれ、戦いではなく芸能で白黒をつけた伝統からいまのパフォーマンスがある。
 海には魔物が棲むとゆう伝えからサンドビーチはオランブレイ(白人)が垂れ下がった乳房もあらわに闊歩するように変わった。数日の神の国を楽しむサーファーの無礼を嘆いたりはしない。原宿女がケタケタ笑いながらコペルを踏み潰して歩いても文句はない。カンコーとはそうゆうもので、それで母さんの食費が稼げればそれでいい。
 どこに行こうとコーラとフジフィルム、ハンバーガーとビールがなければならないのだ。

 このうねりは南極から通しでやってくる。神々の山グヌンアグンが高く低く、私は沖からすっぽりとバリの島を眺めている。ひどく贅沢なカンコーだ。
 プヤとは知らず小便したり、他人の家に土足であがる心配もない。この素晴らしい景観を遠くから眺めさせて貰えば、それで満足だ。
 「イカンパラ! (エイ)」
 ソニが叫び舵輪をまわす。ポートサイドを流れさる畳二畳敷きはあるマンモス、やはりこの国は豊穣の地なのだ。
 基本的に生きるのに厳しくないのだ。だから人々は楽天的にみえるし屈託がない。喰うくらいなら何処ででも出来る。まず受け入れる。それから少しずつ取り込んでゆく。時には失敗もするが、イスラムが入った時も一神教の物凄さ気にせずよろずの神のひとつにしたのだろう。
 オランダが浸入した時も何処か隣の王様かと隣国との喧嘩の仲裁を頼んだりしているうちにああゆう事になってしまった。
 日本は鎖国とか、閉鎖的で垣根の中から外を伺うところがある。外国人からグッドホスピタリテイと褒められるけれど、実は玄関から奥は絶対に見せない。
 インドネシア人に血液型A型を見つけるのは難しく殆どがBとOが多い。これは研究課題になるかどうか。

 ラロはクタビーチ沖をタンジュンメブルウに3回目のタックをしなければならないが、もっと岸に寄せて差をつけたくなった。5スターホテルのお客さんを羨やましがらせてやろう。
 サーフポイントぎりぎりまで持ってゆく。また新しい発見をした。
 なんで人は渚に立つと申し合わせたように沖に向かって佇むのだろう。例外はない。
 肌を焼く女たちは皆沖、こちらを向いている。胸も当然こちらを向いてふたつ。メガネにでかいのがふたつぶら下がっていると何か物体の感じで沖出ししたくなった。
 彼女たちを運んだジャンボが疲れたようにンガライ空港にアプローチしている。もうひと息岬を回れば新開地ヌサドアの奥にベヌアの港がある。有数のグーフィイポイントを避けて南下する。

 ヌサドアのホテル群の灯火をポートに視認しながらデッドスローで進入するが時間が最悪で全然見えない。チャートで確認したが役にはたたず、天下のバリの本港がこんなに厄介な処とは知らなかった。初めての入港は「陽のあるうちに」が鉄則だが、それを守って揺れる沖止めで朝まで待つ勇気があるスキッパーは少ない。港には船乗りが欲する総てがあるからだ。
 べノアは長い年月でマングロープと珊瑚がセランガン島と繋げてしまった。夜目にも白波が数キロにわたって続く。ヌサドアも双子島の意だがいまはひとつ。
 遥か沖の案内浮標ブイを迂回し、僅かに点滅する頼りない灯標とを見通してもラロは汐目に勝てず撚れたようにリーフに接近して一度目は失敗。ある速度がないと同じ事になるが、アラームは鳴りっぱなしで役にたたない。底づきの不愉快な音は聞きたくない。
 ソニがバウスプリットに腹ばいで指示し、よろよろ近づいてゆくと、偶然旧知の真珠採取船ハスコ2がラロを視認してくれた。
 「スラマットダタン!ようこそ」
 「アッサラムアライコム=神に平安あれ」とパイロットしてくれ、黒くシルエットで浮かぶ外航ヨットにアロングサイドすることが出来た。とにかくビールを飲んでからだ。

 やわらかいSE風が南洋仕様になった日焼けのお肌を撫ぜてゆく。空は満天の星。
 故郷はいま雪か。オイルスキンに身を固め、かじかんだ手でテイラーを握り、油の浮いた東京湾はシートもスモッグで黒く染まり、今日の「冒険」を肴に銀座でシャトーナントカで乾杯。
 イカンタンギリでよろしい。ほとんどの自然が好みだ。しかし自然は思いのほか意地悪で、存在するだけで文化人には何も与えてはくれない。

 こんな処、千年経っても気温28〜31℃、昼夜ちょうど12時間で変わらず永劫に同じだ。
 四季の無い国にいるとほんとうに月日の経つのも忘れてしまう。浦島太郎伝説は真実だ。
 援けた亀に連れられて竜宮城に来てみれば、絵にも描けない美しさ、、、。乙姫様に会い鯛や平目の舞い踊り、遊び疲れて禁断の玉手箱を開けて一気に老けこむ太郎、、。 真実なのだ。
 今夜の海の色と同じ色の風が渉ってくる。遠い東、チムールジャウの彼方から。
 スパイスアイランドとして歴史にぴかりと光り、消えていった島々、珊瑚礁を母にしたポルトギスの末裔が幾世代、忘れられた入り江に黒髪をたくしあげ、碧眼で見詰める瞳、、。
 思わずまだ見ぬ遠い東に眼を凝らしてしまう。

【Up主の註】
<1> ジャカルタ北部の旧港
<2> サテライト・ナビゲーションシステム

第31話 終
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作成 2018/09/04

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