慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第30話 船頭 アブドゥル・ムイン
出会い
 本船オンデッキで、フィンランドのシルタラヨットから積み込まれたラロV世号がシンガポールに入港する。1987年11月のことだった。
かねての打ち合わせで東京の回航専門家は、ジャカルタまでのパイロット=水先案内人を要求していたので、俺はリアウ海の主といわれたアリ・ムヘンドロのパスポートを取得すべく奔走した。
 インドネシアは三百以上の部族が住む多民族国家だが、南スラウエシ(旧セレベス)のブギス・マカッサル人は勇猛な海洋航海民族でその名を知られている。
 マレー半島から赤道を覆うようにしてスマトラ、ボルネオ、ジャワ、モルッカ、イリアンと世界一広大な多島海が広がるこの海域で、彼等の言葉は公用語だし内海航路を独占している。
 なにかの役にたつだろうと新艇ラロのローカルクルーはこの部族と決めていた。
 シンガポールへの出発を前にして、アリのパスポートは発給されなかった。傷害の前科があるのがその理由だった。
 「そうゆうことは、前もって言って呉れなきゃあ困るじゃあないか」
 アリは黒いイスラム帽を傾けて、それが起きた日を懐かしむように眼を細め、胸を少しはだけて、「シリッ、でして、、、」
 左の肩先から指一本入る位の傷痕が斜めに走ってシャツの下に消えていた。
 俺はそれ以上は聞かなかった。

 シリッとは「恥」を意味する。
 彼等の特出した性情にこの恥の観念があり男の人生はそれで回っているようだ。
 いわゆる、恥じをかかされた、面子が潰れた、恥をそそぐ、で仇討ち。
 時に彼等は何処で知ったのか俺達はサムライの子孫だとゆう。命より面子が大切でマル(羞じ)、臆病、恥ずべき事、みっともないと認定されれば、もう住む処も居る処もなく村八分になってしまう。
 オランダとバンダ海の香料争奪で最後まで戦ったのはマカッサル、ゴアのスルタン・ハサヌッデイン(1631〜70)を擁した彼等の祖先だしこの国の英雄でもある。火力の差で街から文化まで破壊され、マンガッサラは忌まわしい名のフォートロッテルダムになる。そよ風の町といわれる大木並木も美しいマカッサルの街には、沈黙の血塗られた歴史があるのだ。
 共和国独立戦争も悲惨で、ウエスターレンに虐殺された住民は四万とも六万人ともいわれる。
 航海民族っていわれるけど、陸に住めない日々があったのだよと古老が呟いたことがあった。1971年にウジュンパンダン<1> と州都名が変更されたが、これもジャワ(体制派)が彼等に特別な感情があるからだと囁かれる。いまもって彼等はウジュンパンダンってどこのこと?と決してその名前を使わない。
 インドネシア人は彼等を怖れる。猥雑野卑な港湾を支配しているからばかりでなく、感情の行き違いがあったりすれば、それが他民族に理解出来なくても、彼等の尺度でシリッとなれば生命まで狙われるから。
 スマトラ・バタックは勝ち負けを考えてから、俺等は死ぬ為にやると。事実彼等は結構なインテリでもさりげなくナイフを隠し持っていたりする。男が少なくなるから戦う外は寝ていると言って笑う。
 彼等にシリッについて聞いてもあまり確とした返事は返ってこない。土俗的価値観に強固なイスラム観が混合したものだろう。
 「ええ、仲間うちでも女性問題がこじれたりすると、男ふたりがサロン(腰布)の中に入ってクリス=短刀で決着をつけるなんてこともありました」
 筒形に縫ったサロンに入って切り合えば必ず両方傷つきどちらかは死ぬ。
 「だけどパレンバン人みないに毒を盛ったり、ジャワ人のように刺したら細い束元が折れて刃先が相手の身体に残るようなケチなこたあしません。シリッを告げて正面からが決まりです。でなきゃあマルですから。ええ、物入り(経費)は親族が負担しますから」
 俺はそんなわけで船の引き取りには一人で出かけてゆき、日本からきた専門家からこっぴどく罵倒されてしまった。「約束通りやってくれなきゃあ困りますよ。初めての海でパイロットなしでどうするってゆうのです?」
 「悪かった。人には言えない事情があって連れて来れなかった。しかしあんたのリクエストでサテナブも付けたし、我慢してよ。誤差は百米もないってあんたも言ってるから、ぼんくらネシア人よりマシじゃない?」
 「あんたは海の恐さを知らないんだ。いや、あんたは海をなめてる。初めての海でクルーは素人でしかも新艇とくらあ。僕はごめんだね、パイロットがいなくちゃあ」
 俺は俯いてメルボルン・カップ、ダブルハンドレースで色の黒いパイロットマンを乗せろとルールブックにあったか考えた。フィニッシュする二人のほかに誰がいた?
 ふたりにとってオーサカまでの5千マイルは初めての海だったはずだ。専門家の言が正しければショートハンドは総て海をなめてる事になる。
いろいろあったけれど、ラロは水先なしに660マイル走ってジャカルタにこうして泊まっているじゃないか。専門家が自慢した衛星航法装置はピーピー音だけは電子音だったけれど、ジャカルタに着いた時、その示度はソロモン群島オーシャン島だったじゃないか。
 専門家とはその後会っていない。

 さて、俺はアリの代わりを探さねばならなくなった。それとゆうのも彼は俺に対してマルだから、たとえ許して呉れても働けないと郷里のブルクンバに帰ってしまったからだ。
 ジャカルタはタンジョン・プリオクの船溜り。
 ビーチコマーといって、ハーバーやマリーナには、これといって定職もなく舫いをとったり、ちょい仕事をしたり、旦那衆にお世辞を言ったりして暮らす男達がいるものだ。
 シロットもアンダもソニもそんな手合いで、浜辺のスラムに生まれて旦那の船を洗ったり、夜番をしたり、こそ泥をしたり、時にはテイラーも握る。
 ヨット用のパーツはまだジャカルタでは手に入らない。壊れたらシンガポールまで行かねばならない。壊れたシャックル<2>を眺めてため息をつく。輸入税も考えるから。
 数日すると、シロットがちょうど良いサイズのシャックルを古新聞の包みからだして、「よかったら友達が売りたいって、値つけしてください」
 結局なければ困るから俺は買うはめになる。いくらアラーの神はすべてがお見通しだといっても、こうもタイミングよく友達がいるものか。なにか後ろめたく、突然誰かに後ろから肩を叩かれそうな嫌な気分が続くが、そのうちに忘れる。 喉元過ぎれば、、。
 その日、俺がジブファーラーをいじっていると。シロットが、
 「トアン=旦那、客人です」と告げた。
 客人は崩れかけた桟橋で、スーパーのビニール袋ひとつぶら下げて立っており、にゅうっと腕ごと一枚の紙片を差し出した。
 「トアン、もし宜しければ、この手紙持参の男を、私の代わりに使って下さい。名前はムイン、腕は確かです。 ブルクンバ村 アリ・ムヘンドロ 署名」

 これだけの手紙を俺は五分以上かかって読んだ。ノートを破った藁半紙はところどころ沁みがあり、堅く握っていたせいか皺だらけで、すさまじい筆跡だったから。
 俺はデッキから紙と男を七・三で見下ろした。

 「ムインが名前だね」
 「サヤ、トアン」
 「こっちへ上がれ、話を聞こう」 「ヤッ、パッ」
 潮が満ちてきていてラロと桟橋には一米も段差が出来、舫いロープは三米は延びていた。
 ふつうなら先ず手か足でロープを手繰り船を寄せてから、スタンションかどっかに掴まり、よっこらしょと乗り移る。M銀行支店長などまだ若いのに股が開かず、桟橋と一尺でも隙間があるともう乗り移れない。そうゆう老人みたいな若者が最近多くなった。
 腕は確かです、そのムインはためらいもなく汚いサンダルを脱ぐと、右足をロープに乗せ、左を一歩踏みだし、次の右は綱渡りみたいに、左がシャーステップにかかり、ほいっとばかりラインを跨いでピープデッキ<3>におどおどと立った。
 −お主、やるの!−
 全体的に眺めればネアンデルタール人に近いが、船泊りでなら支店長より際立った雰囲気がある。男の価値はネクタイだけでは決められない。その道に長い経験があると、その姿格好は自ずと定まり、無駄な動きがないものだ。人はそれを職人とゆう。西洋ではマイスターか。
 「(給料は)いくらだ」 「セライン、トアン(思し召しで)」
 「十万」
 言い渡してから少し後悔した。十万(6千円程)はこの種の男には大枚だし、月給だけで人が使えるわけのものでもない。それに此処の男共は信用できない。三ヶ月試用期間で六万といえば良かったかな。考えながらムインの足に眼が行った。大きな親指とその他の指が開くだけひらいて、さながらフィン(足鰭)の形だった。
 犬が顔を突き合わせたら、おじけた方が負けでその関係は死ぬまで続く。
 俺はわざと間を措いてからゆっくりと目線をあげて奴の顔と正対した。
 色の黒いのにはもう驚かないし、マカッサル人には禿げが多いのも知っていたが、こ奴はどうだ。マレー系にしては骨太で、やたらと大きい造作がつるりとした頭にくっついていた。
 ずんぐりした身体は臼のようだ。ジャワ人にはないブギス族亜種か。


ピニシ船
 「(生まれは)マカッサルの(何処だ)?」
 「ジェネポントで」「タカラアの隣村だ」 「そうで、トアンはご存知で」
 「行ったことがある。プラフ・ピニシ<4>の村だ」
 100フィートはゆうにある二本マストガフリグ<5>の木造スクーナー<6> 、ピニシが、十米もあるバウスプリット<7>に三枚のフォースル<8> 、ミズントップスル<9> を風に飛ばされながらスンダクラパ旧港にアプローチする勇姿を眺めて俺はなぜか泣けてきた事があった。
 それを釘一本使わず造るのがその村だ。
 「親爺はピニシ造りの職人で、わたしゃあ二十二の断食明けまでそいつにのってました」
 「俺の舟はその半分もない、ごみみたいなもんだ」
 「だけんど、遊び舟にゃあ珍しくテイアン(マスト)が二本」
 「ピニシの孫ってとこか」
 俺が顔をほころばせたので彼もつられたように笑った。前歯が二本無かった。
 政府が発動機取り付けを指導した事があったが、彼等ピニシ乗りは油代が嵩むとか機関士がいないとか理由をつけてはかどらない。本当の理由は船の底に穴などあけられるかといったいい噺を聞いてから俺は、喧嘩早く猛獣呼ばわりされるピニシ乗りに親近感を持った。
 「パ・アリとは友人か?」 「縁つづきでして」
 「字は書けるか」 「―――」
 二本の無い歯をだしたのが答えだった。笑うとなかなか愛敬がある。
 歳を聞くのはやめた。聞いても無駄だから。四十くらいか、わからない。
 「船に泊まっての番もやることになるが」
「 サヤ、トアン、陸(おか)に寝場所はありませんで」
 「決まった。その汚ねえシャツはこれと代えろ」
 俺は着ていたポロシャツを脱いで投げてやった。ラコステだがもうダゴズデになっているが、主従の契りは自分の持ち物をやるに限る。共和国とは言っても此処はまだ江戸時代前期だから。
 こうしてムインは新しい主人を、俺は船頭を、その後の南海の師匠を得ることになった。

 シロットがセコセコと後ろからきて、
 「トアン、気い付けた方がいいです。奴ブギスでしょ、クパラバトウ石頭ですぐ刃物沙汰ですから」
 「違う、マカッサルだ。まあ、どっちでも似たようなもんだが」


プロウスリブ Thousand Islands
 ラロはゆったりとうねりに身をまかせて、323°Nプロウ・スリブの珊瑚礁群に針を置いた。
 島とも呼べないサッカー場程の大小の小島が折り重なるようにして百とも二百とも、首都の北30マイルに展開していて何もないジャカルタの観光資源としてもて囃されている。
 最近日本資本も進出して、こんな処でカツドンも食えるとゆうが俺には敷居が高い。
 今日はエリアの南のコトック(蛙)島に友人がバンガロウを造成したとゆうので表敬訪問とゆうことになる。新艇が来ると何か理由づけして沖にでたいものだし、この船はまだ俺の手の内に入っていない。
 ジャワ海に低気圧はない。南緯六度の赤道無風帯にすっぽり入るから、半年毎に変わるモンスーンと灼熱の太陽に照らされた陸風海風が顕著なまことに穏やかな海況だ。椰子の木もハワイのように風に抗して斜めに生えているのと違い真っ直ぐ立っている。
 一度災害が起れば島ひとつ吹っ飛ぶ噴火や、大河の流れが変わる洪水もあるが、俺はまだベアポールで持ってゆかれたような時化は知らない。
 けだるいような道往きで、吊るした眼鏡やギャレーの鍋が一定の周期で音をだす。
 小魚が一団となって滑空に移ると、その後ろで銀色ベルトのシイラがきらりと一閃してそれを追い、跳躍に失敗した幾匹がデッキで跳ねるのを、シロットがバケツに入れて今夜のお采だ。

 ラロはダブルフォーセイルのケッチ、モーターセイラー<10> だ。正確な帰航をお約束するボルボターボ100馬力。エクアトール=赤道無風帯をおもんばかって見知らぬ国フィンランド製の決断だったのだが。
 33フィート9トンは余りにも重過ぎ、100馬力もハル形状からいって宝の持ち腐れ。しげしげと眺めると犬なら狆ころのようだ。加えて、俺達がモンゴリアンなのを忘れたわけではないが、椅子は高すぎ机は低すぎ、背伸びしなければ届かないグラブレイル<11>など疲労が倍加する長脚族仕様。まだある。オーナーズルームダブルベット、専用トイレ。ポートホール<12>から射し込む夕日、今宵への期待−カタログ通り−俺はあらぬ期待に想いを馳せ、本来の荒海を忘れたらしい。フリークウエーブ<13>に見舞われて隣に「期待」がいなかったせいか、ベッドを跳躍して特注の洗面台まで飛ばされた。今宵の期待スペースを得る為にこの艇にコクピット<14>がない。アフトデッキ<15>二階席からラット<16>をとるひどく不安定なポジションとなる。フネはすべからず水面に限りなく近く舵を持つを以って尊しとなす。一升枡には一升しか入らない。「新しい時が流れる」都心型3DKマンション。なかなか思い通りにはゆかないものだ。

 「?」なんの音もしなくなっている。双眼鏡も静止している。
 ムインはと見ると、フェンダー入れに横坐りにラットの中心近くを鷲掴みにしてトラホームの赤い眼で前方を見ている。風は変わらず8ノットくらい。
 モーターセイラーは自分で風を作るような走りかたをするから1400rpm回すと風向きは前寄りになってシート<17>を締めねばならない。ウエーキもうねりを越えて真っ直ぐ引いている。
 俺が代わって少したつとフライパンが踊りはじめる。奴が取ると音が消える。身体が波にシンクロしているとしか言いようがない。恥かしながら一位ムイン、二位オートパイロット<18>、三、四がなくて五が俺とゆうことになろうか。

 プロウスリブ(千の島)は生まれたり死んだりしている。
 海図にあるニルワナ(涅槃)はその名のように、いまは海中で瞑想しているし、ポートサイドの白波はこれから生まれようとしている干出し州で、木が一本生えているのもご愛敬。もっとも1923年オランダ作図のチャートなら多少の誤差はあると納得しても大勢に影響はない。
 三時間走ってジョン灯をかわせばコトックが望まれる。群島の中に突っ込むことはなく、この島はグループの南の端にあるから遠くからでも視認しやすい。
 数百の標高一米にも満たない小島が、折り重なるように散在するサウザンドアイランズは確かに神々の座に近い美しさで観光客は息を呑むが、船乗りには息を呑む暗礁地獄の連続だ。
 殊に水面下にぶらさがり物のバラストキール<19>を抱く近代ヨットでは。夜航なぞおもいもよらない。ヨットマン憧れのトロピカルシーを目指すなら、都会の完備したマリーナ族は話題にしない喫水を再考した方がいいのじゃあないか。憧れの南カリビアン、バハマとは土地言葉で浅い海、かわい子ちゃんは渚にこそ相応しく、マリアナ海溝にいる噺はついぞ聞かない。
 コトック島も新しいジェッテイ桟橋が数十米リーフを跨いで延びて、T字形の先端に送迎用かストレブロらしいボートが舫っている。休息する丸い屋根もある。たいした投資だ。
 ホーンを鳴らしてから俺はムインと代わった。アロングサイド接岸は格好の入学テストだから。ラロはブロードリーチ<20>でアプローチング、さてムイン、どうするか。
 横坐りのままちらりと空を見上げ、気に入った距離でエンジンをフリーに。
 やる事が逆だ。
 桟橋に数人があらわれる。つるつると舵輪を廻してラロは大きく旋回しながら風位に立ちはじめる。ムインはシートを手繰ってからその余りで逆舵にしたラットを縛り、メインセイルを降ろす。 −しくじりやがった。フネは尻向けちゃうぞ−
 フェンダーを四個ぶら下げはじめると、ラロはジブセイル<21>をシバ<22>させながらゆっくりと頭を振りはじめた。ジブシートを箇縛するのにあわせるようにラロは風に押されて接岸する。
 ムインは舫いロープを肩に、バウからぴょんと桟橋に降り、くるっとヒッチ<23>してからスタスタと艫へ歩く。ジャストタイミングでスターン<24>が寄ってくると、気だるいような仕草でスターン舫いをとってお終い。
 いつの日か故国に接岸する時これをさりげなくやりたい。とてもやりたいが未だに出来なくて、ほいっ!とロープを投げている。
 奴は新艇でそれをやってのけた。
 少し慣れれば俺だってと思いたいが、悔しい哉、奴には何の無駄も余分もないのだ。慌てるわけでも待つわけでもない。

 「飯焚いておけ。俺は島をひとまわりしてくる」
 レストランでビールを飲んでも、さっきの仕事が頭に残りいつもより苦かった。
 顔見知りのイエシイが今日は蝶ネクタイ、大袈裟に両手を広げて、
 「トアンの新しいカパル、ジョートー!」
 彼はマナド人とゆうが、同じスラウエシの北と、南の俺の船頭の海坊主とでこんなに違う。
 自分も知らない数代遡った白人混血で所作が派手だし似合っている。
 「なんだいイエシイ、やけにめかしこんで」
 「コトックもインタナショナルになったんです。日本の別嬪さんも毎週きますからね」
 この島が好きなのは岸まで鬱蒼と木が茂り、木陰にいれば陽ざしを遮って涼しかったのに、それらは殆ど切り倒されて芝生と白いバンガロウ、テニスコートに変わっていた。
 「外国人は蝿一匹いても満足しないんです。殺虫剤は島全体にスプレーしてありますしルームエアコンもばっちりです。とっておきのシーフードでA−1のお部屋がいいです」
 「悪いけど君に逢えただけでいい、あとは全部要らない。只の風が好きなんだ」
 島の何処かで有料の風を造る発電機の音が間断なく聞こえていた。

 コトックもこれで終わりだ。神々とデイーゼルジェネレーターは似合わない。
 どちらかが死ぬ。

プラウコトック=蛙島
 ムインは裸で背を向けて何やら煮ている。腰骨に深い傷痕がある。ブギスの男は誰も体を粗末にするようだ。彼はあわててシャツを取る。
 此処の連中は裸を他人の眼に曝すのを嫌う。大きな失礼と心得ている。
 それに引き換え近頃では いちじく 無花果の葉っぱより小さい着物もある。

 ギャレイの鍋に10センチ位の小魚が数尾はいっている。
 「どこで買った?」 「トアン、船底がだいぶ汚れています」
 「知っている。魚のことを聞いている」
 彼は怪訝な顔をして、潜って獲ったと言う。
 「網でか、釣りでか」 「ラロは手網を持っているんで?」
 俺はゴッグルをだしながら、「俺の分も獲ってこいよ、少し少ない」
 「へい」 ムインはビニール袋を持つと、ラダーステップを伝って水に入った。
 出てこない。なかなか出てこなかったので覗きこむと、でかい白い足の裏が水中で動くのが見えていたが、それこそ海坊主そのもので、ずぼっと頭が表れ真っ赤な眼でにいっと笑った。
 袋に三尾入っているではないか。もう一度と言ってからシュノッケルを付け反対舷から背中から飛び込んだ。
 ラロの船底にはもう海生物が付きはじめペラも白く変色していた。
 海坊主はすうっと船を伝って突つくと白いものが海中に散って魚が寄ってくる。
 一度息をしに浮上した。ムインは無造作に手掴みで魚を捕る。極く無造作に。
 腕を伸ばす先の魚を。俺がやれば当然魚は体を躱す。
 「いいなあ。おまえ銭がかからなくって。食い物は船の下にいる」
 「んが、いつもってゆうわけじゃあ。日和によるし、あんまり捕ると寄ってこなくなります。コルバン(生け贄)なら神も、、アルハンブリラア」

 夕風が立つ頃に、桟橋に数人のギター弾きが集まって、縮れ髪の色黒ならアンボンだ。
 アンボンなら喉はいい。俺は札を一枚ずつ縦折りにして呉れてやった。

♪ Kole kole, E Lumbae Kole,
Tiup angin barat, A lumbae Kole, 風は西から、コーレ
Manise, manise Sutalalu manise,  かわいい、かわいい、なんて愛しい、
Sama santan dengan Gula, ♪ ちょうど、お砂糖にココナツみたいに、
 ハモリがたまらなく上手い、生まれながらのものだろう。

 ああ、きっとアンボンへ、バンダの海へ、スパイスアイランドへ行くぞ、
 よっしゃ、俺の番だ。
Ditanah orang baru beta menyasa e,   見知らぬ土地に来て寂しいよ、
Mengapa beta mau buang diri begini,  なんで自分を捨てたのかしら
Jauh dari pangku mama sungguh asing lawan e,♪母さんの膝から遠い余所の地に、
【Up主の註】
<1> (原注) ウジュンパンダン: 南スラウェシ州都。第三代大統領ハビビの出身地で、退任直前市名をマカッサルに戻し、唯一の善政と称えられた。
<2> シャックル = 滑車、シャーステップ = 舷側足板
<3> (原注)ピープデッキ = 後部通路
<4> 写真の帆船。Garuda機内誌2002年4月号から拝借
<5> (原注)ガフリグ:上部横桁を持つ装帆
<6> (原注)スクーナー: 二本マスト大型帆船
<7> (原注)バウスプリット:前檣
<8> (原注)フォースル:前帆
<9> (原注)ミズントップスル:中央最上段補助帆
<10> (原注)モーターセイラー:機帆船
<11> (原注)グラヴレイル: 取っ手
<12> (原注)ポートホール:横窓
<13> (原注)フリークウエーブ:与太波予期せぬ大波
<14> (原注)コクピット:外部乗員席
<15> (原注)アフトデッキ:後部甲板
<16> (原注)ラット:舵輪
<17> (原注)シート:ロープ
<18> (原注)オートパイロット:自動操舵装置
<19> (原注)バラストキール: 安定重り
<20> (原注)ブロ―ドリーチ:斜め横風
<21> (原注)ジブセイル:前帆
<22> (原注)シバ:裏風
<23> (原注)ヒッチ:結策
<24> (原注)スターン:後部(艫)

第30話 終
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作成 2018/09/03

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