慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第29話 旅行記「O, Inani Keke ちょっとお嬢さん」 -マナドで唄って-
蘭の花びら
 インドネシア通の人たちから「メナドに行かれましたか」といつも聞かれた。
 まだですと答えると、やや残念そうに、「いちど行かれたらいいです」。
 そこは素晴らしい景観であり、住む人々であり、なにより当国一の美人の誉れ高い地方と賛辞がつけば興味も倍加する。
 いつかはと機会を窺がいながらも叶えられないのは、マナドは遠い地なのだ。
 愉しみはあとになる程多くなると言い訳をして、メナドを思う日が過ぎていった。

 地図を見ると巨大なインドネシア列島のほぼ中央に、奇妙な"K"の字を呈して横たわるスラウエシ大島。南海の蘭の花びらとは裏腹に峻険な山々が四方に半島を突出させて、天地創造の日神はこの地を創り給い、それぞれの岬を伝いそれぞれの国を目指せと命じ、人は世界に散っていったとする椰子の茎に記されたブギス・ロンタル伝説があるのも肯けるその姿だ。
 神はいまだ確たる信念もないまま火山を怒らせ川の流れを変え、島を沈める。
 それだけでも空想を掻き立てられるが、メナドは島の北、西から東に鶴の首のように連なる長大な岬の先端に位置する北スラウエシ州ミナハサ県の首都である。
 この海の回廊は幅僅か2〜30`で700キロもの長さは多分世界最長の岬だろう。

ミナハサ − みなさま −
 北のミナハサはクリスチャンが多く、なにやら女性的だ。
 多様性の中での調和が国是のインドネシア共和国の首都ジャカルタはその見本市の観があり、多くの外領人が住み分けるが、街のメナド人は多数派のジャワ、スンダ人やスマトラの人達とやや趣きを異にすると感じるのは好奇心ばかりではない。
 この国の衣装のサロン腰布を巻きたがらない。男はペチ(イスラム帽)でなくソフト帽子を愛用し、日曜日には着飾ってグレジャ(教会)に行き、オランダ語や英語を日常語にしてマレー語(インドネシア国語)を使いたがらない。
 確かにマナド人はそれなりの教養で違和感が少ないし、車曳きのような賎職につかない。
 ジャワ人のように、妙にへりくだった慇懃無礼さも、スマトラ・バタック人の野卑ともいえる闊達さもない。
 その時代、オランダ植民が最も成功した地域で、統治の中間職に多用され、当時住民二千人にひとつの学校があった。ジャワの五万人にひとつでは比較にならない。自分達はオランダ 第12番目の州を自認していた。
 いまでこそ東北の辺境と思いがちだが、列強が命を張って権益を争ったスパイス争奪の拠点だったし、否、それより遥か昔の唐、宗の南海交易の中継地として栄えた地なのだ。
 ここの人達に強いモンゴロイド、コーカソイドの血の混合が認められるのもその紛れも無い証拠だ。ムステイーソ(混血)には神の悪戯で、驚くほどの美形が生まれる。
 ジャワ人などが、メナド人は派手好きお祭り好きのラマイ・ラメイアン浪費家で身上を潰すと軽蔑するが、それが出来る土地柄なのだろう。
そんな国への最後の干渉が日本軍だった。
 ダバオを飛び立った空の神兵が、大空に花と咲いて降下して三年程軍政がひかれたが、共和国の中で戦争混血児が最も多い。そして半世紀、なんの違和感もなく同化しているのもこの地域の歴史所産なのだろう。
 わけ知りの友人が、「メナドは港、ミナハサは皆様、ゴロンタロは五郎太郎、浦島太郎の龍宮城と乙姫様はあそこなんだよ」古い日本人はなぜかメナドが好きなのだ。

教員養成学校
 或る同窓会に招かれた。 『REUNI VEXSISWA MINAHASA 1942-45』 
 戦中の日本職業学校卒業生の集まりだった。
 舞台に不自然な字体で「中」と書かれた周囲をKYOOIN YOOSEISHO、SIHAN GAKKOUの文字が囲んだ幔幕が張られ、定刻 「気を付けい!」 「整列! 番号!」
 「イチ、ニ、サン、、、、十五、欠!」 どきもを抜かれる。
 ♪ 見よ東海の空あけて、旭日高く輝けば、、♪
 白髪の老男女が唄う正確な日本軍歌で幕が開いた。
 ♪ 藍より蒼き大空に、真白き薔薇の花模様、見よ落下傘空を往く、、 ♪
 老人は得意気に、「儂はそれを下から見上げていたものさ」
 ♪ 桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、ひとつください 供しましょ ♪
 この夜は歴史が止まっていた。

 「Tuan Anu, Marilah menyanyi dulu jo Lagu Asli Nippon 日本の方 本場物唄って!」
 突き出されるように一段上に連行されても、咄嗟のことで思いつかない、、。
 ♪ 海ゆかば 水くかばね、 山ゆかば、 苔むす屍、
 大君の辺にこそ死なめ、 かえりみはせじ、、♪
 場違いな歌に、なんとぴったりとハーモニイしてバックコーラスをつけてくる。
 正直ある種の感動を覚えた。
 拍手が鳴り止まないうちに、目が合った前の席のお嬢さんに笑いかけてから手を取って、
 「Sekali lagi mencobalah Lagu terkenar O inani Keke, Ayo tolong dibantu yah あの有名な オ、イナニケケやってみるから 援けて、、」
 ♪ O, Inani Keke Mange Wisako やあ、お嬢さん 何処行くの
 Mangewa ki Wenang tumales waleko、 マナドの町へ菓子買いに、
 Weane, Weane Weane Toyo、 ちょうだい、ちょうだい すこしだけ、
 Daimo siapa ko tare Makiwe、 もうないよ、もうないと言ってるのに、まだ欲しがるの♪

 インドネシアにはそれぞれの地方にそれぞれの言葉で唄われる歌が数多くある。
 それらのなかの名曲は中央で知名され、国民歌的な地位を得る曲もでる。
 ミナハサのこの曲は、Lagu daerah(地方歌)の白眉で、国民愛唱歌にもなっている。
 ゆったりと柔らかいテンポ、デユエットするにはうってつけのこの歌で会場は大いに盛り上がった。私はまだ見ぬマナドの港に下る大木並木の坂道を想像した。 歌は僅か数行に多くの情感が詰まっている。 これこそマナドだろう。 少女がはにかみながら駆け下るその坂道を、、。
 老人のお孫さんか、黒真珠の瞳の娘さんの唄うスローテンポ ミナハサ民謡、
 Esa Mokan Only You。
 はじめて聴く歌の意味はわからないけれど、お菓子を舐めていた少女は、長い黒髪を揺らし男を悩ます女神が紺碧の渚を背景に裳裾をたくしあげて婉然と微笑む、、、。
 その週のうちに私はマナド行きのエアチケットを買った。

箱庭の岬
 朝早くジャカルタを飛び立ったフォッカー100は、茶色く濁った水を海に吐き出すジャワ海を東へ四時間、エルロンを下げればそこには、蒼すぎる海にメナド富士が乳房のように浮かび、クラバット、ロコンの山裾の緑の絨毯のなかに、白い家並みが湾を囲むように広がっていた。
 窓に納まる可愛いい箱庭のような眺めだった。

 スコールが去ってエプロンは黒く濡れ、椰子の林を渉る風は、どんよりと重いジャカルタの大気とは違うすがすがしさだ。
 風の香り、それに乗る話し言葉にも乗合バスの形もジャワとの距離を感じる。
 独立の英雄の名を冠したサム・ラトランギ空港。メナド人ぜんぶがオランダの犬だったわけではない。
 ゴルフ場を右に見ながら長い緑の下り坂を半時間も走ると街の喧騒に包まれる。小さい中央広場を囲む繁華街から耳を聾する流行歌が流れる割にはノンクロン(ぶらぶら歩き)が少ない。
 マナド市周辺で二十万人、ミナハサの人口密度はジャワの半分以下の三百人のせいでもなく、石油時代になって経済はスマトラやそれを牛耳る首都に移って、往年の富有県もチェンケ価格の暴落、コプラ脂も低迷してただの地方都市に転落、やや停滞が感じられるようにみえる。
 海岸に沿ってサム・ラトランギ大通りが長く続き、ミニバスがワンウエイを数珠繋ぎで走っているが、セダンやトラックの姿は稀だ。
 どこも独立英雄サム・ラトランギが巾を利かせる。そろそろ新しい英雄が必要なのではないか。

 最初のひと晩は、その街の名のあるホテルに泊まることにしている。
 街のグレードがそれでわかるから。

 カワヌアホテルのロビーもプールも閑散としていて、ジャカルタ資本チエーンに組み入れられたのも肯ける。
 ロビーでは三十年前のキングコールが、ユアロンリイ ミステイックスマイル=あなたの神秘的な微笑みとモナリザを唄っていたから、私もジャパニーズ神秘的微笑みを浮かべてマンハッタンでもと思ったが、ボトルストックとバーテンダーの手元を見て、ただのジントニックにした。
 バンドにむかってグラスを上げると、一気にハッピイソング(上を向いて歩こう)、私へのウエルカムソングに変更した。
 左隅に白髪(メナド人には実に多い)赤シャツの骨太が、子分に囲まれて密談を交わしているほか客はいなかった。
 ギターがお出ましになり、「スラマットダタン、ようこそマナドへ」
 世界共通の仕来たりで、札を縦折りに挟んでやってから一曲所望。
 はるばると来たのだから黒真珠を想って民謡エサ・モカンを。
ESA MOKAN
Esa mokan genangku wianiko,
Tia mo marua rua genang e karia,
Mangalei ngalei uman wia si Op.Wailan,
Pakatuan pakalawiran wiani ko,
 でぶのギター弾きは、リクエスト曲にか札にかわからないが、顔中で満足して、身体に似合わずアルペシオで16拍子にのったスローテンポで唄いはじめたから、私はやっとメナドにいるのを実感した。
 赤シャツが親指を突き出しながら近づいてきて、 「日本人か?」
 「まあ」
 「なんのプロジェクトか」  「サイトシーイング」
 「日本人はひとりではカンコーしない」 「まあな」
 「自動車か、リゾートか?」 「考え中だ」
 「わしは役にたてる。知事は親戚だ」
 シャツと同じ赤い紙に金色の字の名詞を呉れた。支那寺にいる狛犬に似た色と顔だった。
 こんな小さい町では誰でもおおかたは親類同士だろう。
 この国での定理がある。はじめは簡単、何事も可能で出来ないことはない。実際に始まると、何故か止めどもない困難と不運がやってきて、挙げ句にスサ(難しい)、最後はナシブ(運命)、アパボレブアット(しょうがない)、インシャーアルラー(神のご加護を)。

 今朝は友人アリがミナハサハイランド観光ドライブに誘ってくれる。
 初対面で「クリスチャン国メナドでアリとは珍しい」 イスラムの ALIと思ったら違いAryだった。
 なにかのスポーツで舌を軟らかくしない限り識別できない。
 海岸から道はすぐ登りになり、巨木の並木道の両側に古い屋敷が続いて、往年の恵まれたコロニアルシテイの片鱗を覗かせる。
 どこかから歌のオ、イナニのケケ(娘)が飛び出してくるような坂道。
 住人達は毎朝あの沖に浮かぶマナドトウア(メナド富士)を眺めながらコーヒーを飲むのか。
 街に近いロコン(1580m)はときどき噴煙をあげ空港を閉鎖させる。
 マハウ(1311m)も活火山だがまだ十`走っただけ。人々は火山と共存している。
 八百メートル登れば八度気温が下がるから、見晴台のあるテイノールは20度、汗がすっと引く。ダイビングスポットとして世界的ドロップオフを持つブナケン、マンテハゲ、マナドトウアのコバルトブルーの海が俯瞰され、これで白い帆船が浮かべば一服の絵は完成する。
 少し汚れたセイルを垂らしたランボ舟が額の左端に止まっていた。
 箱庭でもこうも上手くは作れない。

 大学の町、花の町トモホン。メナド美人の産地トモホン。
 路の両側に花が咲き乱れ、私は身を乗り出して花より団子を探した。行き交う馬車も見慣れた痩せ馬ではなくむっちりした尻を振り、鈴を鳴らすのを追い越してゆくが、アリイのガイドにも耳をかさねばならず忙しい。
 「チェンケブームの頃、この辺は成り金が続出して、電気もないのにGEの冷蔵庫を家に飾ったり、スハルト大統領のXX息子がマナド美人に岡惚れして、外堀を埋めるようにチェンケ協会会長になった頃からこのザマです。キロ一万四千がたったの二千三百じゃあ」。
 カワンコアンの高原の村村を過ぎ、誰でも一度は訪れるワトウピナペテガンの霊場に行く。
 キリストが入る前のアニミズムで、不気味な黒光りする巨石に強大な霊験があるとゆう。
 長く見捨てられていたが、或る貧相な小男が突然とロットレ(数字合わせ富籤)を当てだし、それを元手にマカオの胴元を破産させ、自分の死期も予言して、儲けた不浄の金を教会に寄付しその日に死んだが、それがこの霊石のお告げとゆうことで一時は国中の話題を独占した。まだ三十年経っていない出来事だ。霊石は国家予算で堂が建てられ、スハルトも今を時めくパレパレ出身のハビビ大臣も、国の行く末を占ってもらうとゆう。
 天皇や総理が伊勢神宮に参詣する文化国日本だから、馬鹿げているとは言わなかったし私も日本流に手を合わせた。巨石にはどっしりした存在感があり、痩せこけたキリスト様より奇跡を起こしそうに見えた。

 火山岬には至る所に温泉が湧いている。
 入浴の習慣がないから昔負傷兵治療に日本軍が作ったとゆうサルファ浴場は、湯元の熱湯を緩い階段状の斜面から長屋風の湯小屋に導いている。
 兵士の急所が、痛くもなく溶けて無くなるスラウエシ名物の蝋燭病にも効くといわれたが、私は握って確認しただけで入るのは止めた。
 ランゴワンから左に折れて、広い稲田の先にトンダノ湖(水面標高600b46ヘクタール)があらわれる。
 落下傘部隊が降下したのはこの辺で、対岸のカカスには水上機桟橋が残っている。
 珊瑚礁の島々から高原の湖まで小一時間、花が咲き温泉が湧き、涼風と美人なら、もう霊石に祈らなくても観光ポテンシャルならトップクラス。エイゴも通じるし、祭り好きはバリ以上だ。
 バリは葬式込みだが、ここは定めし生の謳歌を優先順位にするのだろう。
 ガルーダ直行便が日本から飛べばそれで決まり、最も近いインドネシアとなって、ここも「センエン、ヤスイヨ」の声が聞かれるように変わるだろう。
 昼はエソニックフーズと、そんな雰囲気のある店に入った。メナド人は蝙蝠から犬、鼠までが好物と聞いていたが、現実にテーブルにはわけのわからない黒い塊があった。裏庭にはシェパードや狆ころの頭蓋骨が転がっているのか。
 「鼠といってもドブ鼠じゃあなく、特別な木の上にしか住まない奴で、子供達のいい小遣い稼ぎです。蝙蝠は猫程もある大きいのですが、いまはもう祭りとか伝統行事以外余り食べなくなりました。スーパーもあるし」
 「どうだか」
 何を食べてもいい。地域と場所により人間の食い物は多彩だ。だから地球の果てまで拡散したのだ。むしろ何処にでもケンタッキーとかマクドナルドのある方が奇妙だ。
 目の前に広がる湖は松を配した小島を浮かべ、静かにさざ波をたてていた。
 小舟が近づき、店の亭主に渡したものはシラスのような小魚で、口にいれるとまだむずむずと生きていたが美味だった。わさび醤油があればなあ。
 遥かにクラバット山が霞んでいた。周辺はタンココ・バトウアングス(焼け石)、ドウアスダラ(兄弟)自然保護区の熱帯雨林で、鼠や蝙蝠じゃあなく、世界最小猿タルシウス、最小牛アヌア、有袋類クスクスや身体の三分の一もの大きさの卵を生むマレオ鳥がいる。
 ウオーレスがたまげた土地だ。ナチュラリストなら引っ越した方がいい。
 湖のドレインはトンダノ町で、そこに小さい滝もあり僅かを流れてマナド湾に注ぐ。
 俺達は別と威張るトンダノ人に相応しい誰かの英雄像が、小さいロータリーに睨みを利かせていた。 この国では殆どお目にかかれないコーヒーショップの看板にちゃんとCaffeeと書かれ、旦那衆がテレビサッカーに夢中になっていた。まだ実利社会のインドネシアでは、満腹感もない喫茶店とか、景色を見る観光などの時代ではないから、私にとっては意外な光景に映った。
 私がこの国で初めて知り合った男はルンバヤンとゆうトンダノ人で、生活はどうあれ、噂の如く自信にあふれ高慢だったし、カウナン氏も、昨夜会った赤シャツ氏のように骨太白髪の贅沢好きで、「国に帰れば働くことなぞない。安楽椅子に坐ってサンギール人が落とす椰子の実を勘定してればいいのさ」とうそぶいていた。
 こうゆう手合いとジョイントすると私がサンギール人になりかねない。
 サンギール・タラウドは岬の北にある群島で、インド移民が多い出稼ぎ族だが、その勤勉さでいまでは旦那の地位を脅かしているらしい。世の中はいつまでも同じではない。

 美しい風景もいいが、当国一の美人天国は何処なのだ。
 まだはやいからちょっと寄り道してトンスエの知り合いに寄らせてください、とアリイが言った。
 トンスエ村はカウナンが囁いた極め付きがいる村として有名で、覚えていた。
 アリイの知り合いは郡長で、テイコアル家は名門だからトンスエにいるべきものがいるはずだ。
 乙姫様とか。純血アラブ馬の競り市前のような期待感が高まる。
 車は予想に反して高床式トラデイショナルハウスではなく、普通の煉瓦壁の家に着いた。
 アリイのように背が高く、色は褐色だが彫りの深い初老の紳士が慇懃にオランダ語らしい挨拶をする。挨拶なら何語でも同じ、にっこり微笑めば万国共通、明らかなコーカソイドの血が何代か前に移入している。初めの話題は誰でもが日本人の話しになるもので、木村中尉がこの家に泊まったとか斎藤曹長殿を知っているかとか。うわのそらで聞き流しているのはやましい気持ちがあるからで、壁の調度品やその横の貧相なイエス様の額に目が移り落着かない。
 ショッキングピンクのポンチのグラスを盆に、同じ色のワンピースを召したミストンスエがお出ましになった。
 「マーガレット、マルガリッテ。リチェって呼ばれています」
 私は神の采配をうたがった。蝶より蛾に近いから。 マーガレットってどんな花だっけ。
 正確な発音は長くアムステルダムとイーストコーストに暮らしたからで、それで婚期も失したらしい。きっとまだ蝶になっていないのだ。しかし彼女の会話は一級品で、人は見たくれだけではない。
 緊張して汗がでた。芸術品は維持費も嵩む。特に虚栄心のトンダノ美人なら。
 天は二物を与えず、龍宮城ではなかったが、再会を約してオランダ館を辞した。

 夕日の残照があった。 海と山、町と港、峠と湖、紫外線も涼風もミナハサは、客人を恍惚とさせる、小人国に踏み込んだガリバーになった気持ちにさせる、まさに箱庭だ。
 涼風を求めて庶民が海岸通りに出始める時間になっていた。屋台がとうもろこしや氷菓子を売り、サイクリング部隊が嬌声をあげて通り過ぎていった。
 漁り火が瞬き、マナド富士は紫の闇に消えていた。

 美人国マナドに来て景色が美しかっただけじゃ男がすたる。 シャワーを浴びてコロンを多めに振りかけて夜の町に出陣といくか。職業学校同窓会の整列、番号! に加えて突撃!
 昼の倍以上のボリュームでこれでもかと流行歌を流し客寄せをする商店で、スピーカーよりでかい声で、「ラグダエラのテープはありますか」 「?」 「マナドの歌だよ!」 「ここみんなそうよ!」
 ジャカルタからはるばる仕入れたらしいロック、ダンドウット。 それを地元の流しが真似たハイテンポの騒音音楽。この騒音のなかでイメージした優雅なマナドを捜すには忍耐が要る。
 とにかく適当に、トップシンガーらしい双子のテイエールマンシスターズ、 エルミイ・クリット、メナド美人オンナ・シンガルのポップミナハサ、女なのはわかる、それが名前なのだろうが。やや貧相なギタートリオのカレオンスラタングループなどを選んでそうそうに店をでる。
 華人系とみられる繁華街のホテルのデイスコはすさまじい。いくら不景気だからといってラグビイじゃあないんだ。客引き争奪戦。スラバヤかアンボンあたりの出稼ぎお譲さん達に両腕を押さえられて罪人のように連れ込まれた中はサイケなストロボがきらめいて、これでもかの音響、小心者は萎縮しちゃう。真っ赤な口紅が、大昔この岬にもあったカルバニズム(食人習慣)に見えてくる。ほうほうの体で宿に帰り、もういちど水をかぶって買ってきたテープを聴いてみた。
 壊れ易い小さい箱庭のこの街は、進取の精神か新しもの好きなのか中央に汚染されてミナハサオリジナルには程遠く、長いことはないなあと思わずにはいられない。
 郷土芸能のご本家バリの人口も、あの寄せ付けないような農耕封建社会もここにはない。
 浮薄ともいえる開放は、早晩此処を西欧的にか、ジャカルタ的にかに覆われてしまうだろう。
 それはただの真似なのがわからない。オランダ第十二番目の州と錯覚しても所詮ミナハサ人なのは昔の苦い歴史が教えたのでしょ。

木の実ウクレレ
 宿変えして、名前も定かでないロスメン(旅篭)にはいる。
 プライバシーとかっこつけて、監獄部屋で孤閨を囲うより、屋根の下の人とはすぐ知り合いになれるこういったアトホームな安宿が好きだ。すもう取りが似合う腋臭の強いオランダ娘、何を考えてるのか無口なドイツ、腕にちゃちなタトー(入れ墨)オージーダイバー、それぞれ旗を掲げたら愉快だろうなと黄色の私はレセプションをぐるりとひと眺めした。
 カウンタの横の埃だらけのショーケースに、色が飛んだ絵葉書とTシャツなど、負けずに埃だらけのウクレレみたいな弦楽器が転がっている。
 「これは売り物かい」
 気の無さそうにカウンタ越しに女事務員が振り向き、奥から主人が出てきた。
 埃を払ったので思わず顔をそむけたいほどだ。 「で、いくらだい?」
 「そうさな、手造りだから、、。 ま、五万ならいいよ」 ボロンと鳴らしながら言った。
 それは何かの木の実を輪切りにした共鳴胴に四本の弦が張られていた。

 民芸品楽器で二千円は安すぎる、と一瞬算定したが、おくびにも出さず、
 「ずいぶんの値だね、シンガポールじゃおんなじ物が二万もしない」
 この国で教えられた値切り作戦、技術供与とでも言うのか。
 「じゃあそこで買えばいいじゃないか」 「埃だらけで可哀相だから聞いただけだよ」
 「まあ、遠い処から来たんだから記念にしな、三万払いな」 可愛い楽器は私のものになった。
 「買ったんだから弾いてみてよ」
 「いや、実は弾けないんだ。これから習うまで飾っておく」
 「ジャパンは変ってるな、弾けもしない楽器を買うなんてさ」
 やりとりをドアの陰で聞いていたのか、ドアボーイの兄ちゃんがにじり寄ってきて眉を上下に動かして合図を送ってきたから、 「ホラ、弾けるならやってみな」 と渡してやった。
 兄ちゃんは調弦ももどかしそうに、ボロンがポロンに変わったとみるや、私の知らない地歌を奏ではじめたではないか。 ロビーは即座にライヴハウスに早変わり。
 ♪ Indonesia TanahAir beta, Pusaka Abadi nan Jaya,
 インドネシア 吾がふるさと、永久なるこの国よ、
 我を生みし地よ、我を育てし地よ、吾が老いを見守り、吾が眠る地よ、♪
 パチパチ、パチ、、。
 「この若い衆を、数日私に貸さんかね、 言い値でいいから」
 契約はすぐ成立して、兄ちゃんは私のカメラを首に鞄を手に、楽器を抱えてついてくる。
 料金? それは聞かないで。 お兄ちゃんの名誉の為に。

ボランモンゴンドウ
 ブナケンで潜らずしてダイビングを語るなかれ。マナドに行ったと人にも言えないだろう。が、つい昨日まで、マナド湾にスキューバなど持ち込んで自然を愛でる変人はいなかった。
 魚は欲しいだけ獲れるし、人々は、馬鹿げた遊びは疲れるだけだとゆう日を生きている。
 アメリカ留学を終えたドクトル・バトウナ(現在ムーレックスダイビング主宰)が故郷の海を覗いてから、その垂直に切り立つ雄大なドロップアウトで一躍世界に躍り出たのがブナケンリーフだ。
 望まれるすべての条件が揃っているとゆう。当たり前だ、此処はウオーレス卿レコメンドの国なのだ。
 アリイは何もブナケンだけじゃあなく、まわり海の全部がそうですと言うのは当を得ている。
 岬にはミステリアスとも言える湾や入り江や小島が続いていて、地図を見るだけでぞくぞくする。
 車は町を出てタシクリアの浜辺から、入れ物だけ造って中身がないようなこけおどしのマナド・ビーチホテルを右手に見る。
 砂浜もプライベートビーチと名前を変えて金網でかこって貧乏人とナントカ入るべからず。そして自分達も金網の中に囲われてしまったのに気付かない。
 がらんとして、客より従業員のほうが多いコーヒーショップに入って坐る。
 アラビカトラジャコーヒーを注文する。 「ウエルカム、 日本人か」
 不審尋問には答えないで、顎をしゃくればポロンポロンとマナド民謡。
 楽隊つきのカンコー旅行なんて、特選ツアーでもこんな贅沢はないだろう。

 椰子林のなか、うねるように丘を越えて県境ポイガルを通過する頃には、教会とモスジュット(イスラム礼拝場)が混合して、西に行くほどイスラムが強くなるが、何処ぞの国のような血で血を洗う宗教戦争など起らない。
 主義主張を譲らない契約民族と受容と寛容の民族の違いか、単に適当な信仰なのか私には分からないが、地を覆って進軍したキリスト教が、インドネシアではイスラムの海に浮かぶ藻くずのような点でしか広まらないのは何故なのか。
 ミナハサクリスチャンもイスラムに囲まれた島のように浮かんでいる。
 女がジルバブで顔を被いアザンの斉唱が流れると、キリシタンとイスラムの区別もつかない私でも、遥けく来たものよとの感慨が湧く。
 楡の木陰にチャペルの鐘の音、えせクリスチャン西洋思想に犯された情けない教育のせいか。

 ミナハサをあとにボランモゴンドウにはいるに従い、すれ違う車もなく宗旨に関係なく、石油文明の恩恵が薄れ、電信柱のない世界が広がる。
 水道はおろか電気もない自然との共存も悪くはないが、自然は万物に平等だから、毒蛇にもマラリアにも恵みを垂れ給う。
 200`走り、間道に入り、山の麓を廻ると、突然視界が広がった入り江が、ラブアン・ウキ、ウキの舟泊まりだった。
 私は大袈裟でなく息が止まった。

 嗚呼、此処こそ伝説の浦島が、救けた亀に連れられて訪れたイスタナ・ドウユン(龍宮城)への入り口ではないか。
 母なる神秘的な、安らぎの胎内のような水面が丘の奥深く導かれ、物音ひとつしない静寂を怖れる衝動で小石を投げれば、油のような水面の彼方まで波紋が広がってゆく。
 足元で浮き州が動くように無数の蟹が蠢いていた。
 眼をやれば左右から迫った丘が海に沈む先に小島が浮かび、白い波涛が横一線に背景を作っていた。 「プラウ・プニュウ(亀島)です」
 静寂を破ったのは長いウエーキ<1>を引いて、現世の規則正しい船外機の破裂音を恥ずかしげに響かせたアウトリガーカヌーだった。
 「迎えの仲間です。ロスメン(旅篭)もないので、今日は対岸の家に泊まりましょう」
 腰の幅しかない丸木舟に腰掛けて風が頬に心地良い。
 薄暮の鏡の水面を分けると、俺は浦島太郎になったと本気で思った。
 突然いっせいに小波がたち、小魚の大群が舟を包むが、仲間達は一顧も与えない。
 
 欲しければ欲しいだけの恵みのある豊かな国なのだ。
 漁どりを終えた数隻のカヌーが、海風をラテンセイルに孕ませてすれ違う。
 冷えたビールは望めないが、ジャルパックでは買えないカンコーだ。 しかも楽隊付き。
 さざ波と刻む発動機音、 兄ちゃんの爪弾きが夕闇に見事なハーモニイを流す。
 
SI PATOKAAN パトカアンちゃん
Sayang sayang si Patokaan matigo-tigo gorokan sayang,
Sako mange waki tanah jauh mailek ilek lek lako sayang,
シパトカアン、 遠くに行くのはつらいよね、
別れにひと目会いたくても、親戚中が集まってて、恥ずかしくて、、
テンポの速い快調なメロデイ。

AMPURUK On The Top of The Mountain
Ampuruk ing kuntung parege-regesan
Maka tembo-tembo mai inataran
Kasaleen kaaruyen mai inataran
Tumembo mei ing kayobaan
Kami mangaleiye kariya katuari
Secita mbayaan ndoang tayasa
Maesa wona tewo membembereran
Eluran kayobaan yasa
峠の頂きに立って、去り行く故郷、これからの新世界を想う。
 恋人よ、心変わりしないで待っていて、、。

 気づかれないようにレコーダーのスイッチをオンにした。

 暮れなずむ岸辺からピカリと光が場所を教える。引き潮に足を濡らして上陸した。
 センテル(懐中電灯)の光束の先に小屋があり、夕餉の匂いも流れていた。
 案内された家は板壁の隙間から風も流れるあばら屋だったが、ベッドのシーツは取り替えられているのがわかった。
 ペトロマックス(加圧ランプ)の灯かりと陰が踊り、尻のスケットルを取り出して気付け薬バーボンを喉に流す。
 「魚好きのトアンにウダンロブスタ(海老)と考えたのですが、ちょうど罠に掛かった奴がいたんで、それにしました」
 こげ茶色のそれが皿にいた。 「野豚かね?」
 「猪でなくて牛みたいなやつで」 「まさか、アノアでは?」
 「むこうから嵌まってきたので、、猪専用って札もたてられませんしね」
 笑い事ではない。国際貴重保護獣アノアが俺の口のなかにいる。
 世界でこの島にしか生息しない犬程の牛の元種、アノア貴重種だ。
 靴底よりは軟らかい、噛むといい味がした。
 「君はモロシンやマエラン村より此処がいいのかね」 主人に聞いた。
 「わたしゃ余所者ですけん。ジャパラ(中部ジャワ彫刻村)から黒檀や鉄木、白檀など捜して旅して此処でこいつと知り合ってね、、」
 ベッドに横になって蝋燭を消すと、森の生き物は活発になる。
 鹿の鳴き声、なにかの鼻息や足音が、頼りない板壁の向こう側で聞こえた。天然記念物が遊んでいるのだろう。

 朝の光が主人の財産を照らし出した。小屋のまわりに所狭しと立てかけられた材はヨット乗り垂涎のチーク、マホガニイ、ジャパラの腕が無造作に作品を生み出していた。
 こんな異境に暮らしても、創作はせずジャワ様を踏襲している。
 手離れが早いといわれるインドネシア職人だがこれはどうだ。ラマヤナ物語が一枚板に三層に彫られている。二層目はどうやって刃を入れるのだろう。
 お粥の味に社会学を持ち出したくなる今朝のお粥味は絶品だった。
 アノアの出汁ではないだろうが、色の黒いでかい尻を腰巻きで包んで、薪の煙りで眼をこすっていた夫人が炊いたとは信じられない。
ジャパラの彫り師も「こいつがいたので」、か。味だけは食べてみるまでわからない芸術だ。
 汽車賃払ってでももう一度招待されたい。アノア・ステーキ付と宣伝したら銃殺になるが。
 
 コップに並々と注がれたコーヒーにザラメ糖、コンデンスミルクまで。
 この国の仕来たりで、熱いコーヒーを受け皿に受けてゆっくりいただく。
 アラビカの馥郁たるアロマ。トラジャの地にも近い。ネスカッフェの下僕に成り下がったヒルトンの金持ち野郎、ざまあみろ。

 西の第二の町のゴロンタロ行きを止めたのは、アノアを食ったせいでもマラリアが怖いせいでもなく、ワテイのドライビングテクニックだとエボラ熱になりそうだから。
 彼のせいではなくハイウエイとゆう名前がそうさせる。
 無人の道をクラクソンを鳴らしっぱなしで突っ走るが、山羊との約束はないから一頭を巻き込んで、車は危なく崖に転落するところだったが、山羊 はすぐ立ち上がって消えたのが砂煙の後ろに見えた。 冷や汗をぬぐって見るとメーターはまだ時速100キロを指して止まっているのにエンジンはショックかスタートしなかった。
 モウアト湖の腿程もある鰻に食欲もなく、トンパソバルー、モトリンと下ってアムランの海を見た。
 「疲れたでしょうから温泉でもどうですか。日本人は熱い湯に入る珍しい人間だから」

 ここだとゆうモイントとゆう海岸には、黒い砂浜に波が寄せていた。
 ぴちゃぴちゃ渚を歩いてから、掘ってみると熱い。
 横になれるだけの穴はもう湯舟で、大空と水平線、遠巻きにする仲間を眺めながら大の字になって、差し出されたお湯のような缶ビールを飲んだ。
 こんなのがあればいいなと思うと、神様はもうそこに準備するといった感じだ。
 夢の入り江、神秘の湖、森と火山、島々。デユーテイフリーショップはまだないが、薄物を纏った天女を探して、椰子の梢を眺めながら、もういちどお湯になったビールをあおった。

 プライベートビーチの金網の隣のマララヤンビーチはサタデイイブニング、賑やかだった。
 誰もいないVIP専用ベンチのランプが、庶民の砂浜の格好の灯かりになっている。
 文明の冷えたビールを飲み直し、文化的美人(トンスエ人としておく)が、片方の腰に体重を移してゆったりと唄いだした。
 私はこの柔らかいマナドを感じさせるメロデイにかアルコールにか酔った。ここの言葉はすべてに韻をふんでいるから耳にも心にも沁み込むのかもしれない。 その極め付きが、

LURI WISA KO (Where is my Doll)
Luri wisa ko luri wo dumedenme
Luri kayu jati luri rerendeman
Diwaganku un rende,rendemku wiani ko
Maesa 'm banua kita dua e lenso
Maerenderendemen kita dua lenso
Lenso mu man putih, taan si nujian

 耳元で囁かれたらいちころと思いきや、歌姫は気だるいような仕草で隣に坐って、私程度のエイゴで身元調査を開始した。
 「ジャパンか。どこから来たか。ホテルはどこで、いつ帰る?」
 赤シャツの身内か親がポリスか。これが彼女の売り物の長い髪に絶え間なく指を絡ませる。
 それが粋なのか流行なのか、恥ずかしい歳でもなさそうで、これで三十年生きてきた。
 がんばれ、ケケ(娘さん)。

 日曜日の朝、白く輝くチャペルに善男善女が群れ集い、鐘の音が響くコロニアルシテイ・マナド。
 サンデーミサのあと、聖歌隊の演奏を鑑賞しましょうと正真正銘トンスエ美人リッチェのお招きがあった。特別にホーリーソングをコリンタンで演奏してくれるそうだ。
 コリンタンは竹製のシロホンで、知っていたし街で買ったエルニイのテープもこの伴奏だった。
 まぎれもなく女性的な音で好感がもてるが、ややパンチに欠ける。
 竹で造った楽器は笛をはじめジャワのアンクルン(めいめいがひとつの音階を担当して大勢で演奏する。ヨーロッパにもカウベルなどがある)、ヴェトナムで聴いた吊り橋のように巨大な木琴には及ばないが、これらも大昔先進国中国大陸から海を渉って教えられたのだろうか。
 物造り職人大国日本は、同じ竹笛でも完璧を追求して銘を刻み生命を吹き込む。殺人兵器日本刀まで工芸品にまで高める。ここは違う。音さえでればいいのだ。物に対する感覚が違う。
 近代工業社会もこんな些細な神経で支えられていはいないか。
 しつこさとか執着心からも、インドネシア工業立国の道は遥かに遠い。
 イッチェはまことに丁寧な解説を加えて説明してくれる。歌は感性だからほんとうは説明は不要だとも言えないで拝聴する。
 「インドネシア合唱コンクールで優勝しました」 「このグループが?」
 「いや、 サンギールクリスチャンの Masamper Tampungang Lawo Group ですが」
 彼女の至れり尽くせりサービスは、私の手にその栄光あるカセットをそっと手渡して、トウキョーに紹介してくださいと付け加えるのを忘れなかった。自信は全くないが努力しましょうと応えた。
 どうせなら、絶海の過疎島サンギール・タラウドの芸術家を呼べるなら心からそう願う。

 日本人がそう呼ぶメナドを、ムナドかマナドと発音できた時が俺のマナドになるだろう。
 空港に向かう道から赤い装束に身を固めた多数の若者が湧いて出てきた。
 「VIPでも来るのでしょう。チャカ・レレウオーダンスって戦いの踊りです」
 大勢の群集で走れないので一緒に見物する。
 どこから持ち出したのか、先頭隊はイベリア人の兜を被り、腰に太鼓をぶらさげてリズミカルに打ち鳴らす。まさしく龍騎兵、中世鼓笛隊の行進だ。
 続く喇叭隊に手を振ると、歓迎の予行演習か、親分が合図すると高らかにラッパが鳴った。
 インドネシアで聞く初めてのトランペットだった。なんとそれはメキシコマリアッチ風のスパニッシュリズムではないか。
 この好色強欲なイスパニア植民集団が北のフィリピンからなだれ込むのを阻止せんと、オランダに助けを求めたのが事の始まりで、征服された住民が喜ぶような植民の成功だったが、当のミナハサ人が忘れ果てたイスパニアの陰が、こうして芸能に残っている。
 オランダはインドネシアに何を残したのか。三百年の圧政でも言葉さえも僅か五十年で消え失せた。オランダはやらずぶったくりと言われても言い訳は出来ない。きっと此処の人達を人間ではないと考えていた節がある。混血児が搾取の歴史に比べて驚くほど少ない。
 私の驚きを背にして、赤衣の集団は、ラッパの音も高らかに遠ざかっていった。
 私はマナド、メナド、ムナドと口ずさみながら、お兄ちゃんから木の実ウクレレを受け取り、今度会う時は本物のギターだよと肩をたたき、アリイに再会を約してタラップに歩いた。

 人間のほか渡れなかった、渡りたくなかったウオーレスラインを十分もかからずひと跨ぎして、茶色のジャワの岸辺が、雨を呼ぶ雲間に見え隠れしていた。
 たぶん蒼い国から来る人に、恥ずかしがって雲で隠しているようにみえた。
 友に会ったら言ってやろう。

 「マナドに行かれたことはありますか。まだなら行くべきです。インドネシアの茶色のイメージが蒼色に変わるでしょうから」

1991 箱庭の街マナド紀行より
【Up主の註】
<1> ウエーキ = 航跡

第29話 終
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作成 2018/09/03

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