慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第17話 イスラム [その1]
 インドネシア住民の九割がイスラム教徒だとものの本に書いてある。
 数だけならインドネシアは世界16億人のイスラム中で最大の単一国である。
 そして共和国の国是、パンチャシラ(建国五原則)の冒頭に、唯一神への帰依が明記されている如く信仰深い、日本に最も近いイスラム国である。

 日本人は外国への興味が強く何でも知っていて何でも取り入れて来たようだが、実は世界三大宗教と、その中の一大勢力であるイスラムに就いては殆ど何も知らない。つい前まで回教といい砂漠で輪になって踊るおどろおどろしい怖い人種程度の知識で少し加わって五人の妻を持てる程度だった。教養ある邦人の多くはこの国に住んでいるにもかかわらず、イスラムの勧業に眉を顰め、時に先進国人の眼で、遅れた民を眺める侮蔑すら感じられる。
 異教を信ずる人々に対して憐憫の情を抱くのは宗教人の常だろうが、驚くべき事に我々日本人は確固とした規範宗教を持たない希有で不可思議な民族なのだ。
 ものの本にもこれを「生れて神社に初詣でして、キリスト教会で結婚し、死んでお寺で戒名を貰う」と自嘲して書かれている。不可思議と書いたのは、世界の多数派は依然として自派の宗教に拠り、それを社会規範として暮らしているから言うのだ。
 もちろん人間だから我々も漠然とした宗教心はあるにはあるが、宗教をテレビチャンネルを選択するような安易で浅薄な考えで対処している節がある。「あたしクリスチャンになっちゃった」。
 だから得体のしれない自称教祖が表れたりする。それを容認する社会なのか。

 日本社会はあまりにも禁畏が無さ過ぎる。不定見な自由は動物だ。「人の道」といって確固とした規範がなく、漠然としたコンセンサスで社会が成り立っている。漠然と「理想の人」を画いてそれを基準にしているようだ。理想とする人間像に照らしていい悪いを決めている。人でなし、人の道に反する、人後に堕ちる、人様が笑う。笑われないようにすると、いつの間にか人の道が変わって、今まで常識だったものが非常識になる。
 では人とはどんな人かというと答えられない。五十年前の理想の人は忠君愛国、臥薪嘗胆、切磋琢磨、一心報国だったがいまはどんな人なのだろう。IQが高い人か、ボランテイアに参加する人なのか、環境に優しい人なのか。確固とした定款がないから、正邪もどうにでも変えられる。
 よその国の人が不気味な人達と云うのも解る気がする。
 自分で生き方を探らねばならないから大変だし間違いも犯すだろう。
 定見のない社会は爛熟しても必ず崩壊するのは歴史が証明している。GNP世界トップが栄華といえるかどうかは疑問だが、新人類のジャパン、いつまで続くか見物だ。

 そんな我々がイスラムの後進性を嘆き笑い、キリスト教の先進(カッコいいと思う−だから結婚式をそこでやりたい−)を謳うのは正に異常としか言えない。安易に「クリスチャンになっちゃう」など笑止だし、宗教を議論するなどおこがましい。
 宗教規範が強い社会は苦労する必要がない。教えの通り過ごせばいいのだから。
 宗教に理由や意味づけはない。あるのは「信」のみだ。それも世代を超えて定まっている。どっちがいいからどっちにする、あそこがおかしい、わからないなどと自分の浅知恵での疑問も理解も必要ではなく、選択するなどむしろ冒涜であろう。
 生れた時に己の神は定まっている。歩き話すのと同じに心を形作る。親も先祖もそうしてコミュニテイの一員として成長し子も孫もそうなる。
 万が一、神(宗旨)を変える事は、親を捨て、村を捨てる覚悟が要る。それは重大な決意以上の難問であり一生に影響する。人間は群生動物なのを忘れては困る。
 (都会で間々異教徒夫婦や配偶者の宗教に帰依した家族もいるが、内面は我々には窺い知れない苦悩があるはずだ。少なくても我々日本人の観念とは大きく相違して重い命題であるのは事実だ)
 「神を信じない、神など人間が作ったものだ」「私は無神論者だ」などと間違っても言わないことだ。パンチャシラが決めているからではなく、神を信じない人は犬畜生だから。犬はお祈りしない、、。

遥かに未知な砂漠の異教イスラーム
 この国でのはじめての夜明け、しじまをついて突如起こった絶叫に「すわ変事か!」とベッドから跳ね起きたが、デモでもなさそうだ。少し落ち着いて怖々窓を開けて、これが噂に聞く回教のお祈りかと胸を撫で下ろしたのがイスラムとの最初の出会いだった。
 それから帰国まで毎朝毎日、向かいのモスジュット(礼拝場)のミナレット(尖塔)の四方の四個のラウドスピーカーから響き渡るアザン(祈りの喚起)は、はっきり申して異教徒には騒音以外のなにものでもなく、ヴォリュームいっぱいで家々の甍を圧するように神の栄光を詠いあげ町中を渉ってゆく。ここはこの重さのあるような唱和の下での暮らしがあるのだろうか。その音律の未知なる高低、不可思議な調子にひどく距離を感じ、遥けく来たものだが実感だった。
日本は海の彼方
 中学校ではこの砂漠の宗教をフイフイ教とか回教と教えた。不毛の地で輪になって踊るといった程度なのは、教える教師にも確たる知識がないのだからしょうがない。
 長じて若者の文化らしいものは映画で吸収するしかなかった。ハリウッドの正義の味方は必ず白馬に乗った十字の騎士で、駱駝に跨がり黒装束で「歯には歯を、眼には眼を」と大刀を抜くおどろおどろしい異教徒がほかならぬイスラムだった。
 そして白馬の正義が勝つ。チャペルの鐘の音、楡の木陰、ミッションスクールに眩しい高級感があった。ホワイトクリスマスの淡い感傷で憧れるキリスト文明を打ち砕き、文字数学化学を発達させ、西はイベリア半島、東はエジプト、インド亜大陸からアジアに達する大イスラム圏を創ったこの宗教が、なぜつい最近まで日本から遠い存在で認知されなかったのか。海の向こうの文化をしゃにむに受け入れてきた日本にただ一つ、イスラム教だけが未知で、興味の対象にならなかったのは何故なのか。
 イスラム人が泳げなかったからなのだろうか。

 全身を覆うヴェール(かつぎ)から煌く双眸を覗かせた婦人達、これほど異郷を感じさせる姿はない世界で、共通する何物も、それを繋ぐ僅かな橋もあろうはずも無く、摩訶不思議な魔法の絨毯とかシンドバッドの世界でしかなかった。
 わけ知りの男共は四人妻を意味ありげに囁いたり、鞭打ちの刑とか大挙しての巡礼とか、旨いポークを食わない変わり者と言うだけで、おどろおどろしさは一向に解決しない。
 本家アラビアに石油が噴出して、おこぼれにあずかりたい日本企業が往復するようになる僅か半世紀に満たない頃、その過酷な自然に生きる無責任でとっぽい男達のどうにもならない噺が酒席を賑わす。酒も飲まんでよく生きて行けるよなあ、、。

未知との遭遇
 夜半下宿に帰り着くと家人は寝たのか、しんとしていて、窓から幽かな月光が射し込んでいた。
 戸口から勝手口に通じる廊下を透かして見やると、何やら物体の蠢く気配がある。
 恐る恐る近づくと、白い熊のような動物が動いている不気味さだった。

 しばらく凝視して、それは女中スリのその日の終わりの礼拝だったのだが、異様ともとれるその約束事は明らかな未知との遭遇だった。
六億とも八億ともいわれる世界三大宗教のイスラム人は六世紀アラビアに興りほぼアフリカ赤道周辺から西、中央アジア、豚に埋まっていると錯覚する中国にまで達し、二億人のインドネシア人の九割が帰依しているという。
 映画にでてくる未開で恐ろしい戦闘的な黒装束ではこのような人心を掌握出来ない。

第17話 終
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作成 2018/09/01

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