慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第16話 霊宿るクリス
 クリスとはジャワに伝わる伝統的な短剣で祖先の霊が宿るといわれて珍重されている。
 刀身は独特な波打つような姿で美しく守護刀として一見しただけで身分が知れるという由緒正しく腰の後ろに差す。。
 柄元が非常に細く、刺したあと刀身だけが相手に残るというがそれよりクリスには霊力があるとジャワ人は信じている精霊と神秘主義の国である。クリスの霊力はそれ自身に意志がありクリスが持ち主を選び、相応しくない人にはいくら金を積んでも持てないといわれる。

 シンガポール大使リー・クーンチョイはインドネシア民俗、精神主義に興味を持ち在任中(1970〜74)に各地を調査しIndonesia between Myth and Reality を著したがその中に飛翔するクリスの実見記があり彼は見た事によりそれを信じている。
 中部ジャワのウオノギリから30キロの田舎の警察官ムスナデイが亡父の霊魂がクリスに宿り飛翔するという。彼は父の遺言に従い40日間墓守りをしたがその時亡父が大切にしていたクリスを父の身代わりで飛ばせる霊力を得たといった。
 真夜中の墓前に灯かりを燈し、花を散らし、香を焚く。ムスナデイは儀式を始め祈祷し、私たちは蚊に刺され足が痺れる頃森の一角から突然青い閃光が走った。彼は父の霊が来たと告げた。
 人間の眼には見えないが宇宙の仕切られた空間になったといった。クリスを確かめてから置くよう促され彼の同意を得て、リー氏はサインした名詞をクリスに刺し同席した全員が見守るなかクリスの周辺で青い光がチラつきクリスはもうそこにはなかった。彼に問うと我々は一瞬盲目になるのだと言った。墓場で消えたクリスの話をしている間にムスナデイはもう一本飛ばすといってその通りにした。我々は車で彼の家に帰ると、確かに二本のクリスが門前のバナナの木に突き刺さっていた。
 証拠の名詞はムスナデイの寝室の戸棚の中にあった。彼はクリスが戸惑って最初に寝室にそれからバナナの木に飛んだのだろうと言った。

 ジョクジャの王パクブオノ七世のクリスは刀身に添って七回りする龍が鋳込まれ鍛造には28年かかったという。王はこれを7本造らせたが残っているのは3本で、他は天皇陛下、スエーデン国王、オランダ女王とムッソリーニの子孫に贈られたという。

 ジャワの神秘主義はKebatinanと呼ばれる。
 内なる、隠されたというアラビア語からきていて狭義のクバテナンは神秘主義の師匠とその弟子に使われるがこの師弟関係は大小様々でジャワからスマトラまで不統一に広がっている。
 本来瞑想、禁欲で世界内面の隠された真理追求グループなのだが実際は占い者、呪者と区別はつかない。悩みを持つ善男善女が噂で訪ね師の予言を聞くという日常が暮らし向きなのだ。
 ジャワ人は医者や薬よりドックン(dukun)という霊媒者の言に従うのを選ぶ人が多い。

 私の経験だが、ある日愛車ホンダアコードが車庫から消えた。盗難にあったのだ。女中の姿も消えたから犯人は彼女の一味だろうが、警察に届けたが出てくるはずはない。
 知り合いがドックンの処へ連れて行き祈祷したら家から西のタンゲランに車が見えると宣告した。
 礼金を足すと通りの名まで言うではないか。駄目元と社員を連れてそこに行ったが当然常識通り車は見当たらなかった。通りの奥の木の下というので路地まで入ったが車が通れる道ではないので諦めた。やはり迷信や馬鹿げた宣託など信じる方が間抜けだ。
 帰ろうとすると、道の向こうからグレーの車が来る、私のアコードだ!
 社員達は強引に車を止め運ちゃんを引きずり出し数回殴ってから警官に引き渡した。
 警察署では色々理由をつけて車を返してくれなかったが何回も出頭して半月振りに返ってきた。
 犯人は女中の色男でスマトラに帰る足にしようと犯行に及んだという事だった。
 その後2回裁判所に呼び出され証言したが色男は立てないほど痛みつけられた姿が哀れだった。この一件はどう説明したらいいのだろう?ドックンの透視力を信じますか。

 もうひとつ;
 友人K氏は大手商社の駐在社員で樹種調査の為に東インドネシアのセラム島に出張した。
 セラムは神秘主義と黒魔術で有名な島でアフルウという部族が住み、東半分はいまだに外国人立ち入り禁止地区だ。
 村主とジープで山に入ったが雰囲気がいつもとは違い、前をゆく青年達が木に隠れたと思うや突然後ろから現われたり隣を歩く男が突然いなくなったりして不気味だった。
 仕事もそこそこに帰る段になって村主は「こんなにひどい乗り心地では耐えられないからわしはひとりで帰る」と言う。もう日暮れ近く村までは遠く夜になってしまうと慰留したが聞かず、村主とはそこで別れた。数時間走ってやっと村に帰り着くと、村主が出てきて「ずいぶん遅かったじゃないか」と出迎えたという。

 インドネシアの人々は迷信深いというのか身分にも学歴教養に無関係に霊界とともに生きている。<1>
 知人の家は亡くなって日が経つ祖母と一緒に暮らしている。
 訪ねれば居間に祖母の坐る椅子がありそれには座らないでといわれた。怪訝に思い尋ねると時々来て坐っているし、しょっちいう中庭を横切っているとまるで家人同様に話し気味悪さも感じない話し様だ。

 近頃は街の騒音で掻き消されたようだがここにはクンテラナック<2>と呼ぶ大食漢の女幽霊がいるという。インド洋に面するプラブハンラトウ(姫湊)にはロロキドル<3>という霊が緑色の服を着て渚に近寄る人を海に攫ってゆく。そこのホテルには彼女の泊まる専用の部屋が用意されている。<4>
 首都の西のバンテン地方はブラックマジックの本拠で、抹殺したい人や恨みを晴らしたい人で賑わっている。

【Up主の註】
<1> インドネシアのおばけのはなしはこちらに。
<2> Kuntilanak
<3> Nyai Roro KidulかNyi Blorongという名で呼ばれている。南海の女王陛下Kanjeng Ratu Kidulの娘であるという説がある
<4> バリのクタ海岸あるバリビーチホテルにもニャイロロキドゥルの泊まる部屋が二つある。一つは全焼しても一つだけ焼け残った本館の部屋とヴィラである。

第16話 終
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作成 2018/09/01

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