慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第15話 カウィンとニカ
 KAWIN: 結婚 番いになる 交尾
 NIKAH: 結婚 結婚完了 宗教結婚
 ニカは宗教に基づく男女の契約。カウインとは男女の交合を含めた肉体的意味が強い。
 家畜の繁殖にもカウインを使う。カウインしたけどニカはまだとふざけて笑う事もある。

 此処の国での結婚は一概に言えない。地方と環境で著しく異なる。
 謂える事は、婚前交渉は罪悪の意識が強い事だ。夜の蝶の人生はそれが発覚したらそれで終わりで人間としては扱われない。そんな商売の女の罪の意識もまた大きい。心の隅に大きな罪悪感(宗教的な)を秘めているから、ホステスとか云われるまっとうな職業になったらしい日本とは異なり商売にも身が入らないようだ。底辺にイスラム法があるからだろう。
 カラオケバーにたむろする外人客はその事をご存じない。愛がすべてに優先すると考えている。愛という概念はアジアでは希薄だと言えば叱られるだろうが、百年前の日本では少なくても男女間にはその言葉はなかった。惚れる、慕うがせいぜいだったのではないか。
 普通の家庭の娘は絶対に単身では異性には会わないし会えない。一人で出てくる娘は家庭的に堕落していると思っていい。外国娘の一人での観光旅行など、こちらの人達には想像が出来ない。ありえない事なのだ。

 情報の発達から新しい風俗が日常生活に曝されるようになって、西欧式がナウイとする若者、ミニスカ−ト、袖無しブラウス、腕を組む男女も見られるようになったが、家族間の新旧の軋轢は想像以上と思う。雑種都市ジャカルタはじめ大都市の姿がこの国と思うのは大きな誤りだ。
 男女間交際は今の日本の社会とは雲泥の差の厳しさだ。自由な(淫らな)交際が女性解放、近代化。どちらが良いかは未来が決める。
 イスラムは人間の本性を冷徹に凝視し、女性の得られるべき幸福に就いて教える。
 四人妻が異教徒に興味本位で語られるが、身分も地位も与えられないいわゆる妾(それが愛人でも囲い者でもダ−リンでもいい)よりも、それが望ましくなくても(イスラムは奨励しているわけではない)しっかりと公的地位を得られる立場にすべきだと説いたのではないか。
 最近流行の遺伝子論から行けば、男は常時種の保存と伝達に無意識的にも意欲があるから、定まった一夫一婦の取り決めが揺らぎ物議を醸す事はそれも常態である。
 (近来のアフリカ類人猿フィ−ルドスタデイでは、驚くべき類似性が次々と表面化している)
 イスラムの徹底した婚姻法はまた書く機会もあろうが、ここの遊び人が女を漁る時はイスラムではなくキリスト地域を選んでいる。
 逆に離婚率はべらぼうに高い。ジャワの貧農の娘は初潮を待って結婚し(させられ)子供が生まれると男はいずこともなく姿を消す。道徳観念、扶養の義務などさらさら無いようだ。捨て子、貰い子、養子もまた驚くほど多い。子供は親や親戚が分け隔てなく育てる。都会で働く女中は多いが殆どこのケースだ。女も当然の事のように運命を受け入れていて屈託がない。簡単にカウインし簡単にチェレイ(離婚)する。婚姻、ともに人生を築くという崇高な精神に欠如しているとしか思えない。渋谷のあいまいホテルにしけ込む現代教養人と同じだ。最初に俺が下宿した家の女中は、ある夜段ボ−ルに生み落として失踪した。主人はまるで猫の子のように可愛がって育てていた。学齢期になったらとか戸籍とか俺が聞いても笑っているだけだった。
 此処の男性の根性に就いては俺には一言ありだ。犬(ここで人を動物に例えるのは最大の恥辱)と謂れたくなかったら、少しは女房子供に責任を持てと怒鳴って十日程付け回された事があったが、大流行のダンドウット歌謡の詩も殆どが男に捨てられた女の嘆き節だ。
 しかしこれもフリ−セックスは御法度で、なんらかの結婚をしなければならない。幸い寡婦も再婚のチャンスは多い。十五歳年上、連れ子三人の寡婦でも新しい亭主をみつける。結婚の概念が日本とは異なる。
 イスラムの四人妻は、女権の現代には都市部では少なく、役人、軍人には認められない。第二夫人と公認された女性は少なくなった。男性の対応(第一夫人の許可、平等、財産管理等)が厳しい為だろう。しかしイスラムの男女関係が殊の外厳格なのは変わらない。イスラムの強い地方で夜の愉しみは罪悪であり、ホテル投宿にも結婚証明書の提示を求められる事がある。(西スマトラ、南スラウエシなど)
 男女間のもめ事は往々にして殺傷沙汰にもなる。妹の恥(単なる恋の道往きでも)を雪いで色男を殺傷しても、法より慣習が優先する国柄だから、歓呼で迎えられる。

 異教徒の結婚は通常は全く考えられず、強いてなら家族縁者を捨てる覚悟が要り、それはこの国では非常に厳しい状況になるだろう。生活規範は宗教に依るから共存出来ない。まず不可能だ。
 こそこそビ−ルを飲んだり、トンカツも喰えない日常に追いやられる。
 結婚式は(かっこいいから)聖ドミニコ教会で、赤ちゃんが生まれたら鎮守の神社に初七日、死んだら浄土宗だったわね、じゃあもう冒涜以外のなにものでもない。俺はその事は恥ずかしくて説明出来ない。
 都会では地方から多数の種族が流入して、今までになかった文化を造りつつあるのは江戸、東京と変わらない。他種族での婚姻は日常化したが、感覚的に外国人同士の結婚といった捉え方で、東男と京女より遠い。習慣も言葉も異なるから、事情が許せばそれぞれで二回式をあげるし、その後の日常生活にはやはり支障がでる。大体嫁さんの方へ傾斜する。

 望まれる婚姻は、同郷、同村、従兄婚。親戚関係が二重三重の繋がりが出来る。そんな家系の人達の顔は殆ど似通っている。
都会では式と披露は分けて、バライ(集会場)を利用するようになった。立食パーティで、百人から千人以上の客を招待する。民族衣裳と民族音楽、地方の仕来りを垣間見ることが出来るが、もう画一的になってきた。
 新居の部屋は飾られ、寝室に贈り物が積まれるのを客は列を作って拝観する。昔は処女の契りの証明を展示したものだったが今はもう廃れた。
信仰の度合いによっても式の様式は様々で、新郎だけが客に接し、新婦が表われず、客の席も男女別々の時がある。
 花嫁も見たいし祝言も言いたい。笑顔で近づいてもそっぽを向いて、ひどくつれない。握手の手のやり場がない。挨拶も緑に出来ない山出しではなく、妻は夫、父親以外には接近してはならないイスラムだった。

 俺はアジア混血推進論者だが、最近外人でも此処の女性と結婚する若者が増えた。何で俺に相談に来るのか知らないが、俺は言ってやる。
 「恋人と結婚するのじゃあなく、家と結婚する覚悟があるかね」と。
 その時点では誰でも盲だから、この忠告もさして効き目はない。
 結婚後しばらくして、先ず嫁さんの弟が転校して同居する。母親が田舎から出てくる。妹が、従兄が。そのうち誰だか知らない他人まで家の中をうろうろするようになり、彼が東京出張から帰任したら彼の部屋に義理の兄貴がベッドを持ち込んでいたと泣き言を言ってきた。それみた事か。
 チャド(ここではクルンガンまたはジルバップ)で顔まで隠して身体の線を見せない後進性との評価が一般的だ。

 汝心淫らな時は既に姦淫の罪深き事なり。
 俺はどうしてもそこに眼が行く。女性もそれを意識してのファッションだ。失礼ネ、とかエッチネとか言って欲しくない。それがお望みではないのか。
先進アメリカは今どうか。離婚は既に茶飯事で、父無し児の数は天文学、ある学者が遺伝子研究で新生児の血液を調べたところ、余りの結果で発表を取り止めたという。幸せならそれでもいいが、本来男性は間接的にしか自分の子供と確認できない不幸を背負っている。
 人間には厳とした発情期がなく、ピグミー・チンパンジーみたいに挨拶かわりでないにしろ、それが集団社会生活に貢献している。満員電車で赤い尻を振られたら都会生活は成立しない反面、そういった困った問題もある。
 宗教はこの困った問題に各種の方法で努力した。
 一夫多妻、カソリックにみられる一夫一婦、それが徹底するとコプト教になり、いっそのこと妻を娶らない求道的坊主になるが、遺伝子を残さないことには人類絶滅だから、いくら仏様の教えでもこれは妥協出来ない。
 話がそれた。しかし久しぶりで日本に上陸すると、何から何までセックス漬け、新車の広告にも半裸の女性が寄り添うのか知らない。日比谷線のホ−ムにも赤い尻をした娘がわんさといる。そんな眼が俺にそなわったのも厳粛なイスラム世界に住んだせいか、どうなのか。

第15話 終
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作成 2018/09/01

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