慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第13話 床屋・ジャカルタ 1997年
 落語に浮世床屋というのがあった。庶民の心根を噺し聞かせるもので、だから床屋(いまどきは美容院とかサロンというが)に行ってみれば、其処のところがいろいろ分かろうというものだ。
 床屋にもいろいろあって、大木並木の日陰に鏡をぶら下げたもの、鏡すらない床屋もある。当然椅子は木箱で、どのように刈られたかはわからないが南国風情はホテルに勝るだろうが、隣で女の子同士が髪のなかのなにかを探しているのを横目でみたりすると、ちょっとね。

 場末の床屋に入る。場末といっても東京なら麹町か、目黒までは行ってはいない中心地(Pusat臍)なのは、天下のヒルトンホテルからそう遠くないからだが、乗合いが数珠つなぎで走りバイクの音も騒々しく、よく言えば活気に溢れ、悪く言えば玉石混合の玉のない感じだが、平均的ジャカルタ市民の街角で、ヒルトンがむしろ場違いな空中楼閣なのだが。
 この店は一応パンカスランブットと下手なペンキで書いてある。
 会話本には決して出てこず、チュクルランブット(散髪)とかポトンランブット(髪切り)と教えるが、ポトン(切る)と言うと笑われる。首を斬るを連想するのかと思ったら女性の髪にしか使わないからだと知ったが、それも教科書にはない。
 店の名前はデンシコ。インドネシア語Aku Disini=俺は此処だの西スマトラ語と教えられた。素晴らしい誇り、ヨットの名前にしたいくらいだ。
 その「誇り」は2bの鰻の寝床にそれでも床屋専用の椅子が数脚あって鏡とタルクパウダーなどそれらしい。
 椅子は男で塞がっていて、中の痩せたひとりだけが忙しそうに鋏を動かしている。

 ネグリジェみたいなヴァイオレット色のユニフォームも高級で膝下まで垂れて、髪はそれこそ床屋に行けばと言いたくなる長髪を束ねている。長いのは髪だけでなくてその指の爪が数センチ、一週間分の黒い垢が詰まっている。
 鋭い剃刀のような奥眼で私を一瞥して、眼で待てというので細い板に坐る。
 私の前の板に若者が一人坐っていて、何をするでもなく辺りを見回したり足を掻いたり、猫のような伸びをしたり煙草の先を凝視したりしている。
 この人の次が私の番か。

 しかし他の椅子では労働はしていない。しょっ口の椅子の男は引き出しの鋏を入れたり出したりしているから職人なのだろうが、一向に客をとる気がないらしい。
 てめえの髪に櫛を入れたり、鏡を見ても変わり映えしない顔をしげじげと見詰めたり鼻毛を丁寧に切ったりしている。
 奥から二番目の椅子の男は足を前に投げ出してニッと歯をむき出して点検してからこれも自分の髪を梳かしはじめた。
 早く私の番がこないかなあ。

 目を移すと私の前の足掻き男が、私の頭に燕がいるかのようにじっと見ていたのでぎょっとした。幅が二米とないから云わば至近距離だ。
 私はニッコリと指でVサインを送ったが、存在を認めないような空虚な眼でうしろの壁に焦点をあわせている。
 ひとり爺さまが入ってきて、私の知らない言葉で気合を入れるように叫んで奥に消えたが全員が無視。入れ替わりに中年男が入ってきて一番奥の椅子の前でタオルをぱたぱた叩きはじめたからこの店の親分で、私が人品卑しくないから主人が帰るまで待たせたのだろうと思ったら、彼はいちばん暑そうな隅にしゃがんで何かの物思いにふけりはじめた。メガワテイ追放を悲しんでも何も変りはしないよ。

 この間爺さま以外は全員無言。
 此処は誰が客で誰が職人なのだろう。労働を売って銭にする生活の場なのか。
 男が入り口から覗き込むと、私の前の若者はチェンケ煙草のもうもうたる刺激臭の最後の煙を風呂釜の煙突のように吹き出して、気だるそうに出ていってしまった。
 客ではなかったのだ。

 客らしいのが来たら、鼻毛男がやおら椅子から立ち上がってその男を坐らせ、おもむろに煙草に火をつけて、くわえ煙草も物凄く、まだ鼻毛の残っていそうな鋏を取り上げた。
 此処の人達は、この男だけじゃなく、仕事をするには煙草を咥えないと出来ないらしい。
 狭い理髪店は煙が充満し、吸うなとは言わないが時と場所と立場があるだろうに。
 それに俺が先客だというのにどういう事なのだ。
 糞暑さも手伝ってイライラしはじめるが、小さな窓は閉まっていて開けようとはしないのは、彼等が熱帯仕様で体感温度が私とは違うのだろうと我慢する。
 私は招かれたわけでもないガイジンなんだから。

 また眼で合図され長髪の客が終わったらしい。髪も洗わず髭も剃らない。
 俺が坐ると薄気味悪く柔らかい長い指で、色の変わったタオルに前の棚の瓶の水で湿りをくれてから首筋を撫でる。顔でなくてよかった。
 電気バリカンを使いたいらしいが、何かが足りないらしく、あっちこっち部品を捜して時間がたつ。毎日の生業なのにこの不手際はどうだ。
 やっと見つけたらしくスイッチを入れたが動かない。叩いたりしていたら突然電気鋸のような音がでて始動する。俺は外科手術されるように眼を閉じた。
 額に赤道の汗が噴き出る。反対側を刈る時にコードが俺の鼻先を動くのに気がつかないのか。(この間抜け)
 さっきの瓶の水をなすりつけてから、石鹸らしき白いものを襟足にこすりつけて剃刀を使うが、把手で俺の頭をこつこつ叩きながら拍子をとるのには呆れた。
 前掛けをとり、ぱたぱたはたいて終わりらしいが、まだ頬に白いものがついているじゃあないか。汚ねえタオルをひったくって自分で落として立ち上がって五千出す。
 二千返ってきたから、「アリガト」と言ったら、無言でニターと微笑んだ顔は能面の般若そのものだった。金百五十円也。

 文化が違うと習慣も変る。
 細かい仕草とか約束事がわからないから、相手の段取りや仕来たりを予想できない悲しさがある。疲れるみたいだ。
 コミュニケーションでの言葉はほんのワンパートを受け持つに過ぎないようだ。
 しかしこれでも客商売、少しは衛生上の配慮とか愛想も必要だろうし、職業的誇りとか職人気質もあるだろうに。客用の椅子に足を投げ出して虫歯を点検したり鼻毛ぬきなんか。

 私はヒルトンホテルのバーバーショップに鞍替えしてみた。
 顔を仰向けにして洗髪するインタナショナルスタイル。
 やたらお世辞たらたらで「ジャパニーズ? バリには行ったか? 何処に住んでる? いつ来た? いつ帰る?」
 髪を刈るのに不審尋問はないだろ、口より手を動かしたら?
 まことに結構な美人が爪まで研いでくれて「Anything Else? ほかにご用は」
 と艶めかしく聞かれて、あとこの人に出来る事はなんだろう、背中でも掻いてくれるのかしら? それとも、、。
 きっといい気分料と共和国への正当な消費税しめて九万ルピア!
 デンシコの正に三十倍。髪を切る目的と結果だけで、二キロと離れていない同じ街で何故こうも差があるのだろう。
 私はいつもこの街の奇妙さにその答えを捜している。

 その奇妙さとは、とりあえずふたつ程ある。
 外国合弁企業の長く高い塀、その隣は錆びた刃物も砥がない大工の掘っ建て小屋。
 全面ガラス張り空調ビル、二十メートルもあるレセプションカウンターの窓から見下ろすトタン屋根のスラム。柔らかいしゃぶしゃぶを頬ばる金持ちと同じ車のハンドルを持つ運ちゃんの三百ルピア(15円)のミイ(緬)。
 ホテルタクシー初乗り2700ルピア、ミクロレットバスは僅か400ルピア。
 あまりの格差の同居だ。

 豪華なゴルフ場つき分譲地へのジャラン・テイクス(鼠道)。こけ脅かしレストランかカキリマ屋台。主人の味自慢のちょっとした小奇麗なレストランはいったい何処にあるのだろう。上と下だけで中が完全に抜けた社会。多様性が国是といっても、あるのは極端な二重社会。申し訳ないが人間も同じだ。
 床屋のお兄ちゃんにはじまって、トッカン(職人)の気概など欠片もない。共和国一のタクシイドライバーになろうとがんばる運ちゃんに逢ったことがありますか。ハンドルを持てるだけが運ちゃんじゃあないのを教えてあげたい。
 僅かな曲がりも許さない左官の鏝、研ぎすまされた大工の鉋、職人の誇りはどこだ。
 ジャパラ<1>の三重彫刻が出来る人達が何で道具を粗末にするのだろう。
 工業立国を目指すのならこの職人気質の向上心と競争心こそが大切で、二十米のカウンターじゃあないはずだ。
 技術は学歴と資本とガイジンが教えてくれると、確かに考えているなら共和国の将来はない。大学出たから人より切れる鋏は砥げない。技術はそこからはじまるのに。

 アナリストは発展途上では一時貧富の差の拡大も止む負えませんとおっしゃるが、彼は総ガラスの向こう側で決してこちら側ではないから何とでもいえる。
 昔のように自然だけの土地なら銭もいらない、底値安定で比較も出来ない。
 首都に住む大多数の庶民はいま、鼻先に飴玉をぶらさげられても甘さも味わえないで眺めるだけのフラストレーション。こういうのは健康精神上よくない。
 だからきっと、Kosong、Habis、Tidak adaからSaya Tidak Tahuと言う返事がサービスと心得る売り子になるのだろう。

 そんなわけで、私の健康も大資本に巻き上げられた財布で風邪をひいた。価格差ほど俺の男前があがったとは到底思えないから、アリガトとはさすがに言えない。

 デンシコ俺は此処だ、やっぱり場末床屋がお似合いだ。楼閣はいずれ崩れよう。

 付: Kosongないよ(在庫がない)。Habisないよ(売り切れ)。Tidak adaないよ(そもそも「ない」)。Saya Tidak Tahu知らないよ。

【Up主の註】
<1> 中部ジャワ州で家具製作で有名なJeparaのことであろう。
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作成 2018/08/31

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