慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第11話 アントレド〜〜ン
 一列にお並び下さいというのを Antri/Antre という。Dong は呼び掛け。
 戦時中、共産国では常識的な街の姿で、物資が少なく需要が多く、混乱を防ぐには行列するより外にない。

 礼儀正しく、物静か、控えめな心情を持つ此処の人達のことは、遠くオランダ帆船が来航した時代に既に称賛された民族である。世界で最も争いを好まない民族。それは歴史でも明らかだ。
 人の前を横切る時、彼等は腰を屈め、右手を前にしながら微笑んで、むしろ卑屈とも見える仕草をとる。ジャワクラトン(王家)に会う場合はドアから遡行(躄り歩く)して、足に手を添えて押し戴かねばならない。ジャワには歌舞音曲にも見られる優雅な文化と階級社会が色濃く残っている。
 誰でも握手したら、その手を右手の胸にあてる。実に完成された封建階級社会だ。

 私はよく郵便局に行く。手紙が故郷とを結ぶ絆だから。
 窓口にはいつも黒山の人だかりがしている。客は係員を放射状に囲み、作業の手元を凝視する。切手の選別がおわるや、放射状の腕は一斉にその距離をつめて、我こそ次とばかり接近する。
 ポジションを獲得できるのは、その位置と係員の気紛れと、根性と筋肉と横柄さにある。
 私は一流大学出で、ジャワ人より教養と知性と社会性があるから、その輪に参加できず後ろに立って当惑する。体臭も祖国のそれとは異なるし、遠慮もある。
 それではいつまでたっても用は終わらないし、教養も社会性も長くは保てない性格だからイライラしてくる。肘をはって隣の男を牽制しながらぐいっと進む。
 幸いジャワ人に大男はいないから体力的には私が勝つ。三回ほどそれをやると、囲みは明らかに不快らしく私を下からみて、この外人野郎といった顔をする。そこで怯んだら今までの努力は無意味だから、ひとり飛ばして赤青の封筒をどさっと窓の前におく。
 時にはその封筒を間髪入れず移動させて自分のやつを前におく勇者もいる。
 そこで、「アントレド〜ン、並べよ」となるわけだ。
 うまい具合に何人かが異議を申し立てたら、「一列に並ぶか、客の数を見て係員を増やせばいい。いつだって早いもの勝、おとなしく待っていたらいつ終わるか解らない」と噛みつく。
 こういったシーンでなおも、「あんたが後ろじゃあないか」とか、「なにをこの野郎」とか紛糾しない。ジャワ人は私より教養があるから。
 「皆さん、混んでるから一列に並びましょう」と声をあげても知らん顔、皆黙っている。しかしやることは変わらず腕の筋肉と位置で決まる。
 職員に「たくさん待ってる人がいるのだから係員を増やしたら」と代表してクレームを言っても郵便職員は薄笑いするだけ。ユニフォームはこの国ではステイタスで、下々の民より上に位置するらしい。お巡りとか兵隊とか。
 いちど、次が私の番と期待したら、長い髪の小娘が横から割り込んだ。
 虫の居所もあって、「アントレドン!並べよ」、とばかり彼女の封筒を退けたら、
 「何よ、私が何したっていうのさ、ソッ!」と猛反撃を喰った。ソッ!とはソンボン(生意気の意)彼女の将来の為ゆっくり後から説教してやったが。

 バスの乗り降りも同じだ。並んで待たないが、並んでいてもバスが来れば一斉に列を乱してドアに殺到する。ドアは狭いから腕や荷物が引っ掛かって誰も乗れない。(戦後の日本でも同じ!)
 交通戦争での割り込み追い抜きに呆れ、私は彼等の対面時の虫も殺さぬ作法と、群集心理のこの変わり様は半端じゃあないと、むしろ驚嘆する。
 公衆道徳を守りましょう。守れないから声を大きくいうのだが、それにしてもこの街は物凄い。
 ピクニックあとの緑の芝生は紙屑の山。着飾ったパーテイで、ビュッフェの料理をさり気なく取るなどありえない。どっとばかりにだ。
 そう決めているように、通路に立って喋りまくる。ヒップ(尻)がでかいから通れない。すこし手で押すと、「なによ!」といった怖い顔で睨まれる。
 エレベーターも設置して日も浅いせいか、降りない前に乗ってくる。スポーツをやっていて良かったと感謝する時はこういう時だ。
 ビニールの到来前に道徳を確立しなかったから、腐らない石化製品をバナナの皮のように所かまわず捨てる。ジャカルタの下水管の再生不能はそれが詰まってしまったからだ。
 長距離バスが街に近づくと、助手は車内のゴミ屑(床に散乱している)を集めて、車がカーブにさしかかるやその遠心力を利用して外に放り捨てる。 捨てるカーブは決まっているらしく、それを拾おうと待ち構える村人が群れている。
 誰も何もいわない。私も車内の煙草の煙で声をだす気にもならない。
 娘さんは所かまわず髪を櫛けずり、男は煙草を吹かしポイ捨てだ。
 そのポイ男に紹介されれば、慇懃に手を胸に置いてから差出し、微笑とともに礼儀正しく挨拶する。この落差が私には理解できない。

 私の国も昔はそうだったように記憶する。西洋人はみんな礼儀正しくエチケットを弁え、それに比べたら日本人はなんだ。恥ずかしい。
 ちょっと待てよ。日本人は礼節の民、自己を殺してでも相手を立てる心情は社会の隅々まで行き届いていた。しかし「但し」がつく。但し知った仲でのことだ。此処の人達と非常に似ているのはやはり距離の二乗に比例するのだ。
 公衆道徳とは公衆即ち見ず知らずの他人が混在し、それが密度を持った時から必要になる。都会とか。緑の野原では必要のないものだ。
 西洋人の社会では混在密度の歴史があるから、板についているだけではないのか。

 最近の東京でも、三列乗車は励行されているし、塵ひとつ落ちていない。
 私はついジャカルタスタイルになって女房にひどく軽蔑される。
 それは人間の優秀さではなく、仕方無しに導入された約束で本来は無い方がいいのだろう。
 恐ろしい勢いと速さで都市化して行くジャカルタは明らかに住民が付いてゆけないだ。田舎の習慣が抜けきらないまま近代都市というスラムに押し寄せたから公衆道徳という約束事を守れない、いや知らないのだった。
 限られた空間に無理して人間が住むからアントレドンになるのであって、本来人間は羊の群れではないのだ。

 ジャカルタの群集も否応なしに、西欧風エチケットを身につける日がくるだろう。日本人の今のように。
 それが進んでいるとか遅れているとかの問題ではない。そうしなければ過密に対応できない寂しい習慣なのだ。

 狭いところに詰め込まれると人間も羊になってしまうのかなあ、と考えながら現実に大通りでの車の喧騒と、バスの乗り降り、エレベーターでの不愉快を噛み締めながら私は東洋と西洋の狭間を考える。


第11話 終
目次に戻る 第10話へ 第12話へ

作成 2018/08/31

inserted by FC2 system