慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第9話 アムック
Amuk: (集団で)発狂して暴れること。 インドネシア小事典 大学書林
Amuck: 暴れまわって。気狂いのように乱暴を働く コンサイス英和辞典

 英語にも使われる国際語アムック(アモック)は日本語では付和雷同で、理由も知らず分からないまま集団で暴力、破壊、略奪行動に走る狂気をゆう。

 インドネシア列島人種とりわけ最大派のジャワ人は世界でも希な柔和でおとなしい人々といわれる。ポルトガル航海者もオランダ植民者もおしなべて記録し本国に報告している。血で血を洗う宗教戦争も民族紛争も聞かないし、我々が付き合う人達も争いを好まず、礼儀正しく控えめで温厚な性格にみえる。

 アムックが国際語になったのには、そのように優しい人々が突如何かのきっかけで狂気に走る激情を秘めているのが不可解だからだ。いわゆる野次馬が当事者以上に興奮して集団化しつつ暴力の為の暴力が破壊と放火略奪に発展してしまう。豹変だ。
 流言蜚語でモブ(集団)は飛び火して町中の治安が破壊されることすらある。
 日ごろ内攻していた潜在欲求不満が爆発するのか。暑い気候のせいか、単なる無知か。
 アムックの特徴は奇妙なことにその発生と同じように突然と沈静化して、何事もなかったかのような日常に戻ってしまう。体力限界なのだろうか、病的な発作なのだろうか。
 多くの外国人がこの衝動の本質を極めようとした。

 イスラム教は禁制が多く教導的で楽しみを発散する祭りじみたものがない。
 本来歌舞音曲まで自制しなくてはならないし、男女同席も禁制事項にはいるから日常は味気ない生活のようにみえる。
 忍従と欲求不満が現状破壊を求めるのか。貧困と差別や権力の弾圧の爆発なのか。
 トランス状態になり易い性質なのか。理由ずけをしてもあまり意味のない病的な狂気だとすれば民族的資質になる。柔和な民族性とはゆうものの事件での残虐性はすさまじいものがあるのは知られている。
 アムックはこの列島の裏の性情として密かに語られ、消えることはない。

 たとえば日常よくある交通事故などで、ここの男達は普段は決して腕力など使わず延々と話し合うが、まわりに徐々に見物が集まりだし、当事者以外で議論口論になってゆき、それが何かのきっかけでモブ化すると当事者は蚊帳の外で、収拾がつかない混乱となる。こうなると警察も銃火も制止できない狂乱となる。
 イスラムを侮蔑したのが原因とか、華人の強欲に起因するとか権力への反発と事後理由ずけがされるが、歌謡、運動大会や集団礼拝、盛り場などで起こりやすいのはいなめないが。発端の軽重と事件の大きさの関連はなくまったくその時の成り行きでしかない。

 インドネシアは二十年に一度大きなアモックが起こるとゆう。
 いわゆる930事件、1965年のその日の共産党内乱と鎮圧で政権が移動したが、半年で数十万人の人々が殺戮された。PKI(共産党)と名指しされただけで、支那人といわれ金持ちだけで、市民から軍隊民兵の区別なくジェノサイトが起こった。
 当初は共産党非合法などそれなりの理由があったが、その後の半年の庶民の狂気的行動はとてもここには書けない。
 それから何事もないまま三十年あまりたった。平穏が続くほどそのリアクションも大きいといわれるが。

 SARAとゆう略語があるがまだ市民権は得ていない。
 Sukuisme(種族主義) Agama(宗教) Ras(人種) Antar Golongan(階級) を指す。
 他種族不和はそれまで没交渉だった異種族が、交通改善、都市化、政策移民などで隣接居住することで習慣言語などで軋轢が、異教徒排他、華人迫害、貧富層共存、ひいては現政府権力の腐敗への不満反攻を指し、これは民族統一を目指す共和国の最もデリケートな問題である。
 権力は往々国内の不満を外圧に転化することで収拾してきたが、共和国にこれといった外圧がないからそれを利用することはむずかしい。

 最近SARAに起因する騒乱が多発しているといわれる。
 1997年はこれまでより一層の事件がおこる庶民の予測は、ある雑誌のアンケートによれば50%と少ないとする15%を上回っている。
 近年報道された暴挙は以下のようになる。<1>
1995年9月 チモールチムール: 東チモール反乱、イスラム化への反発。18棟のイスラム礼拝堂とプロテスタント教会、4個所の市場、2棟の中学校破壊。96人逮捕。一月、バウカウでも数百人が暴徒化。
1995年6月 フローレス: 1500人のカトリック教徒が商店で略奪。
1995年11月 プロワカルタ: 華人のイスラム侮辱で約5千人が暴徒化、数十軒の商店自動車に放火、58人逮捕。
1995年11月 ペカロンガン: 華人商店が破壊される。
1995年11月 アタンブア: 政策移民でのイスラム、カソリック宗教対立。ヌサテンガラ州では94年から48件の同様事件が発生している。
1996年3月 シトボンド:異教徒同士の軋轢。教会へ放火、牧師5名死亡、125人逮捕。
1996年3月 ジャヤプーラ: 88年に逮捕された反政府主義者の獄中死亡に発した不平等闘争。治安部隊1500人出動、軍人1名民間人1名死亡。同月キミカ銅鉱山会社不平等解雇で暴動。3000人がフリーポート社を襲う。
1996年1月 ウジュンパンダン: 学生の市政策反対デモが騒乱に。学生3名死亡、焼き打ち。抗議デモはジャワ主要大学に拡大。同地方は80年反華人騒乱、87年7月、10月及び95年10月にも発生。
1996年7月 ジャカルタ: メガワテイ事件。野党に対する政府干渉。死者5名行方不明23名負傷者14 9名。(非公式にはこの十数倍にのぼる)
1996年10月 シトボンド: 宗教裁判の不満。牧師一家5名死亡。
1996年12月 タシクマラヤ: 地場産業と華人企業の衝突で一万人規模の暴動に発展。商店工場銀行百棟自動車百台に放火、3名死亡118名逮捕。
1996年12月 東チモール・デリ: ノーベル賞受賞3万人集会で164師団兵士が殴打死亡。
1996年12月 西カリマンタン: ポンテイアナク周辺の移民村焼失。地元民抵抗で軍隊出動。ダヤク 族とマドウラ人の軋轢。79年以降頻発している。
1997年1月 レンガスデンロク: 断食月での華人異教徒迫害。バンドンに飛び火。
1997年1月 ジャカルタ: タナアバン交通整理で行商人と衝突。役所放火
1997年2月 西カリマンタン: サンバス、ダヤク族5千人が移住者商店住宅に放火略奪。道路封鎖、 マレイシア国境閉鎖2百人兵隊空輸。死者5名行方不明21名、進行中。(現状はさながら戦争のよう)
 ここに挙げた事例はあくまでマスコミの報道だが、官憲に握り潰された事例またはいわゆるガス抜きといって、治安対策を故意に放置することもままあるとゆうから犠牲者も含めた記録や発表に信憑性は薄い。治安当局はいつも行方不明者として処理する悪癖がある。また犠牲者の中には身分登録(戸籍、居住証)がない人達も多く人権以前の問題だ。

 インドネシア共和国は現在アジアで最も安定した治安を維持してきた国である。
 強力な国家権力と「指導された民主主義」とゆう奇妙なお題目での強権警察国家であっても。
 地理的要因(島嶼国家)から、不安定要素が全国に蔓延しにくいこと、地下反政府組織も徹底的な弾圧にあって弱体化され、銃器管理も徹底している。アムックが地域的な暴挙として収束しているが、昨今の政情や経済が及ぼす人心の不安は明らかに増大しており、予断を許さない方向に向かっているのを憂慮する。
 種族的にも宗教的にも住み分けがなされてきたインドネシアでは、地域毎の差別化(独自性か)こそが国民融和の鍵である。多様性を無視した統一思考のリスクは余りに多いとも考えられる。

 多様性の統一こそが共和国建国の精神であるが、反面インドネシアはひとつの旗印で義務教育、都市化とともに急速な中央集権単一化(ジャワ化)に向かって進んでいる。国是も古典文化、政治経済の埒外でしか機能していない。
 過去連邦制も僅かな期間存続したが地域の偏在性からも成立しないだろう。
 良識人が人権、民主化と誹謗する東チモール問題も、一糸のほつれから他地域が追従する内乱に発展する危険は多く、当初の齟齬があったにせよ外部の干渉で問題を輻輳させてしまった。
 大規模なアムック騒乱が起こる地域はある程度特定される。

西カリマンタン・ポンテイアナク: 住民の華人の割合が拮抗していることと、ダヤク族と 移民の軋轢が強い。SARAの要素を包含している。
南スラウエシ・ウジュンパンダン: ファナテイックイスラム圏で、過去オランダ時代から中央の弾圧が多く種族的にも戦闘的な地域である。
北スマトラ:メダン ・華人が多く気性の激しいバタック人と混住している。
東ジャワ・マデウン 共産党時代から過激な地方。
西ジャワ・タシクマラヤ: アムックの頻度が多い。
西ジャワ・バンテン: <2> イスラム因習が強い。ジャカルタ西郊のタンゲランは過去政治的宗教的アムックが発生した。
首都ジャカルタ: 政治中心、過密、貧困、コミュニテイ融和欠如
アチェ:<3> 同地方はアムックの範疇を超えた民族闘争の様相。
 強大な権力の締め付けが終焉し、政治は群雄割拠、百家迷走、新しい権力を求めた空白状態が続く。
 長いスハルト専横時代の反動で、それまでの不満が一挙に噴き出した。移民政策の軋轢、米不作、貧困、不平等、格差、過密すべてが混迷の原因になり、憂慮すべきは新しい秩序構築がなく、安易に暴力に走る若年層が現れた事だ。
 無知と貧困が行き場のない不満を独善的な行動に走らせる。

 守旧派はそれまで優遇されていたスハルト親衛隊(Tim Mawar, Pemuda Pancasilaなど)が行き場を失い各地で政情不安を画作している。外国メデイアを騒がす宗教暴動や住民紛争の大部分は彼らの介入による人為的なものである。
 東ジャワ・バニュワンギのニンジャと称する一団のイスラムキアイ惨殺事件、ハルマヘラ宗教抗争放火殺戮はたまたアンボン抗争までもが彼らの指導?によるものと考えられる。
 カリマンタン・スンピトでの種族抗争も半年以上の虐殺が終息していない。
 これらが特殊なアムック現象だとするには難があり、現今の政情不安と権力闘争の陰影が浮かぶ。

【Up主の註】
<1> 1998年2月から暴動が頻発するようになってきた。この時にジャカルタに出張していたので、東京に状況報告を行った。このコピーがこちら
<2> バンテン地方に1992年から1996年まで正味約三年間滞在したことがある。この地方の人には自助努力という言葉がないようで、自分の失敗も他人を恨んで黒魔術をかけることが多い。
さらに、イスラムもかなりファナティックであり、私のような異教徒であってもイスラムの風習に従うように強制され、チェラマやその他のイスラムの催事に参加させられた。
<3> アチェ大地震でアチェの独立運動は立ち消えになり、2018年現在、現地はまったく平穏である。

第9話 おわり
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作成 2018/08/31

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