慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第8話 昨日、今日、明日
 時の移り変わりをいう。
 一日は二十四時間で区切られて、一応未来永劫に続く。

 一応としたのは、一神教には最後の審判の日があり、地球はどうあろうと人の世は終末があると教えるからである。
 我々の昨日は昨日ではっきり確定している。あした、明日もあしたしかない。
 此処の人々の頭はどうもそれが違うような感じがする。
 
 今日は同じだ。明日は Besok, Esokと云って日常生活に問題はないが、どうもそれが、と言うのは、ベソッは明日に続く未来も含まれる認識がある。
 明後日は Besok lusa と辞書にはあるが、会話では余り使わない。Lusa も明後日の意と一両日の意味がある。
 有名な歌の中に、Besok lusa kita berjumpa pula「明日か、あさって、またお会いできるよ」という詩があるが、前後の言葉からそれは「いつか、また」の意味が強い。
 あさってを強調するときは日付けが間違いない。
 あしたは明日に続く未来を含んでいるから、約束事で確約出来ない時には、Nanti besok yaと言う。こっちはてっきり明日と考えるが、違う。近いうちという意味にとった方がいい。またはそのうちに、またいずれだ。
 これが外国人には紛争の種になり、自分の無知を棚にあげてべそをかき、彼等は約束を守らないとほざく。やんわり否定されているのが解らない。
 昨日も同じ伝で、Kemarin,おとといが Kemarin dulu だが、時によっては「この前」と言う時にクマリンが使われる時がある。日常会話でこの時制がいちばん厄介だと思う。
 ちなみにインドネシア語文法には時制がない。雰囲気で過去現在未来を想像する。
 Pada waktu dulu=以前という慣用句があるが、それは遠い過去をも表すから、数日前を確定したい時に一瞬日・イ会話辞典が頭に浮かぶ。duluは「先に、以前に」とあるが、お先に失礼という時にも使われるし、これが頭にうかべば、過去を言わんとしているのか先の話なのか混乱する。
 先週とは Minggu laluだが、Laluは経過、通過をも表すから正確とは云い難い。
 前の週ともとれる。そして「それから、それで」という時にも頻繁に使われるから困る。
 「数日前」を表すには、Beberapa hari yang laluと、また辞書の厄介になって舌を噛みそうにブブラパなどとやるが、こっちの人の会話にはそんな表現はついぞ聞かない。

 週末、土曜日(Sabtu)の夜だけは、Malam minggu(日曜の夜)でマラムサブトウではない。では日曜日の夜は何というかといえば Minggu malam と逆になる。愉しかるべき土曜の夜が丸一日ずれてデートをすっぽかす事になる。 
 言っちゃあ悪いが、いい加減なのか、拘らないのか、、

 いや、止まっている考えがおかしいとも云える。
 アナログとデジタルの違いだ。

 「そこまで幾日かかる?」と聞けば、「二日と一晩」というように答えられる。
 我々の一日は二十四時間だが、此処では十二時間区切りになるらしい。
 これも人により三十六時間(二回の昼プラス一晩の12時間)の場合と六十時間(二回の昼夜と一回の夜)を指す時があるから要注意だ。
 「日」はHariでこの語が24時間か12時間か特定出来ないのが困る。ハリは日と昼間も表すからだろう。
 極めつけの混乱がある。

 「十時半に会いましょう」。これは午前午後の違いはあっても十時三十分過ぎ、時計の針が10と30のところに来た時だと考えると間違いだ。
 此処では30分前を言うから9時半になる。十時の三十分前が正しい。
 咄嗟の時には混乱する。以後私は決して三十分刻みでの約束はしないようになった。

 数字感覚欠如?とんでもない、計算は分数がお好きで、25は四分の一、75は四分の三の表現を使う。
 此処の人は時間を守らないと外国人は言うし、彼らも自嘲的にゴムの時間(Jam karet 伸び縮みする)といって笑う。
 絶対時間は変わりようもないが、体感時間程変わるものはない。
 「惚れて通えば千里も一里、待つ身の辛さも一夜は一刻」
 人間にとって時間経過は明らかにゴムのようにワープするものだと分かったのはこの国に住んでからだった。

 年はタフンで、英語でyearとは云わない。日もさっき言ったようにハリで、時は Jamでhourは使わないのに、分になると突然にmenitと明らかに英語からの流用のmeniteを使う。秒のdetik は本来時計が刻む音で、機械時計が表れる前にはなかった言葉だし、調べたわけではないが、語感から外来語を連想する。
 彼等には分以下の時間帯がこの間までなかったのではないか。
 西洋の干渉を受けたのは多い少ないの違いはあっても日本も経験したが、西洋機械文化が入った時代に、日本人は彼等よりミクロの時間を持っていた。剣術使いは西洋人も知らない秒の百分の一の毛だか厘を数えられたという。
 キラキラ=大体が此処では多く使われるが、それでも済むのかもしれない。
 彼らと約束したら半日いや、それ以上の遅れは覚悟せねばならない。定刻に行くのは、相手もいろいろあるだろうし、第一プライドが許さない。
 偉いさんは決して定刻には来ない。
 来なくても約束を破ったなどと興奮しない。そのうち、ベソックには会えるだろう。
 それで長くも短くもある人生への影響はないから。
 まあ、約束そのものをしない方がいいとも言える。

 明日は神のみぞ知る。少し前の時代は、起床五分前とか海軍式分刻みのスケジュールを強制されたり、流石ドイツ人は時間を守るとかとお手本にされたりして来たが、最近文化圏では人間工学とか、人間らしい生き方とかが持て囃されて、フレックスタイムの導入などと、横文字なら進んでいる感じがするが、此処の人たちはずっと前から今でも、超モダンな時間の観念を持っていると思わざるを得ない。
 私が疑問に思ったり困ったりするのが遅れているのであって、南国の時間は大河の如く悠々と、「時」を超越して流れてゆく。
第8話 終
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作成 2018/08/29

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