慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第6話 イエスとノー
 変われば品変わる。此処ではLain padang, lain belalang「余所の畑には違う蝗」という。

 イエス、ノーの肯定と否定が俺の国とは逆なので困る。
 「はい」と「いいえ」が逆という事は、根本的な生活方法を変更しなければならない瀬戸際に立たされていると言っても大袈裟ではないだろう。

 初めはウンという仕草さをコックンと顎を引くやり方ではなく、反対に顎を軽く突き出すのを可愛いと感じたり、眉を上下に動かす(真似るとうまくゆかない)のを珍しく感じているうちはいいが、会話での返答が欧米流に我々とは逆なのだ。
 「まだ行ってないの?」「食べなかったの?」と否定疑問形で尋ねた場合だ。
 首を横に振るのはノーのサイン、食べたのかと思うと、まだ食べていない意味になる。
 私の答えも同じ状況では全部逆に取られるから、根本的な誤解が明瞭な形で実現する事になり、社会生活を満足に過ごせないことになる。
 いくら会話力があると自慢しても、この長く培われた習慣は簡単には変更出来ない。
 それ以前の血の問題にまで遡らなければ決して解決しない。

 イエス、ノーをはっきり言わない日本人(東洋人)と欧米人が言い、それを我々は後進性と勝手に決めて、だから駄目という。果たしてそうなのか。
 答えを聞いてから解るようじゃあ。心眼で胸の内を察する方が高級だ。
 日米修交条約締結でサムライがボストンに行った時の噺に私は民族の誇りを感じる。
 ちょんまげ姿二本差し、背筋を伸ばして微動だにしないサムライ達を前に、白人が手振り身振りで喋りまくるのを冷ややかに眺めて一言も発せず、時折互いに細い目と目を交わすだけなので、彼等は業をにやして、「小奴ら分かりもしないで」とつい悪口を呟いたら、サムライ一同瞬時に腰の鯉口を切ったという。
 すべてを理解しなお寡黙、男の鑑、日本文化の結晶だが、いまではどかた(土方)が履くたっつけ(ジーンズ)で足を組み、アッハ〜ンというのがナウイ。
 自分の主張を明確にするのが現代的紳士だとする風潮は、千年来異民族の蹂躪に喘いだヨーロッパ人の自己防衛の手段で、豊富な水に恵まれたアジアにそんな我欲のつっぱった文化はない。
 此処の人達も我々にも増して明瞭な意思表示をしたがらない。否定するのは、ことの善し悪し以前に、相手に対して大変に失礼な事だといった感情がある。
 「出来ますか」
 「Kami usahakan dulu.なんとかやってみましょう」
 「いつまでに」
 「Akan besok sekitarnyaまあ、あしたか、その位には」
 この返答は基本的には、出来ない、期限はないとの意味になる。
 やっても駄目な事もあろう、あしたに続く未来も含みますよ。深遠かつ高度な文化遺産が、そう答えさせる。
 私はもうそれを知っているから「きたな」と思い、「明日は何時までに?」と追い打ちをかける。私の好きな言葉、絶対とか必ずとかを加えれば、
 「Insya Alah明日の事は神のみぞ知る」
 と、お互いに白ける。
 しかし、否応なしに工業社会に足を踏み入れた今日では、神の御心に反しても明日の約束位確定出来ないとベルト・コンベアは動かない。
 人の気持ちは管理出来ない。すべての采配は神の御手に帰すといった基本的な判断があるから、叶えられなくても、催促したり嘘つきと怒ったりしない。私の運命はまだそこまで行っていないのだと考える。
 茶碗が割れたのは私のせいではなく、 それは割れる運命に従っただけというイスラム世界を揶揄する諺があるが、自分の過ちを認めたがらないのは、苛酷な搾取弾圧に曝された長い植民時代によるものか。
 いい悪いは別にして、予想もしない理由を並べて言い訳するのに対峙すると、諦めと忍耐と自制が交差する。
 相手の非をあげつらうのは野蛮人だと考えてしまう。
 そんな愚にもつかない言い訳など、いっそ「ゴメン」て言えばいいのに。
 それは俺の文化で、謝罪すれば即賠償問題が起きる。謝罪の言葉の意味はなく、かつ無条件降伏、どのような要求も受け入れる事になる。
頭を下げればすべてを水に流せる一億一家家族の国とはやや違う。
 口約束では、俺の好きな言葉の、「絶対」に当てにはならない。
 約束事も単なる儀式の効力しかない。気休めだ。
 男の約束とか武士に二言はないなど、抽象的な美学など甘い。
 「死んでやる」とか「さあ殺せ」「決死の覚悟」「死んだ積もりで」
 日本人はすぐ生き死にの言を聾するのがお好きなようだが、それを和文訳にして「死にそう」とか「死んじまえ」など決して言わない事だ。
 死についての考えが俺等とは明らかに違う。どこが違うと言われても困るが、喩えに死を持ち出すのは禁句である。自殺が最悪最低な行動なのが教理だそうだから。
 死は神の采配だからだ。人間が人間に言う言葉ではない。
 自殺(切腹も含む)は最大の罪だから「死んでやらあ」などと簡単に強がるなど最低の言葉で人間放棄になろう。

 神のお力を現実的なものに引き上げる方法がある。
 それは銭だ。
 いうなれば約束を買うのだ。銭の力で、相手の義務を確定させる。
命 令者、依頼者は上部に位置し、それの受け取り人は下に位置する構図が出来上がるらしい。銭の力と考えるから汚らしく感じるが、神は誰も見る事は出来ず、案外と気紛れだから、はっきり見られる代替品でこの場を繕うのが人が出来る唯一の手段だ。
 神も微笑んで御覧になっておられると信じて。
 白い封筒がいい。江戸の下町の大家はちり紙を忘れても、いつも心ずけのお引き(小さいのし袋)を持つのがしきたりだった。旦那様や大人になるのも生易しいものではない。人は貴方の為にと粉骨砕心するのではなく、余禄を期待してするのだ。
 パン喰い競争の感じだ。貰えなければ走らない。
 渡すのにも高度な技術が必要で、「そら!」などと机に投げるようでは新興成金だ。
 さりげなく、忍びやかに、遠慮がちに、感情を逆撫でしない配慮で。中身も大からず少なからず、定価表など何処にもない。
 チップを値切ったと自慢する日本人は、長い貧乏の日々から抜け出せない俄か成り金、所得が数百分の一の開きのある人達と高い安いと揉めて何になる。知らないで騙されるのは間抜け、旦那はわかっていて騙されるのが本当の旦那様なのを知らないのは、どう言い訳してもまだ俄か成り金なのだ、日本人は。

 文化的にジャワは奈良京都のように爛熟している。
 断定的言動や大声は確実に軽蔑されるから、江戸っ子気質、「面倒だい、べらんめえ」はこの国の気質には合わない。多くの軍人を輩出しているスマトラ・バタック人の闊達さも、ここでは野卑で下品な連中と陰口を囁かれる。
 宵越しの銭を持たず、スットコドッコイの竹を割ったような生一本の男らしさは単なる頓馬、もしかしたらここは限りなく進歩した女性国なのかもしれない。
 ああ疲れる。生きざま死にざまの美学の国に帰りたい。

第6話 終
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作成 2018/08/30

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