慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第3話 ガルーダ通り38番地
 家替えをして、市の東からダウンタウンに近いシガール氏の家に移った。
 シガール氏74才、最愛の連れ添いに去年先立たれ、今は一人暮らしの寂しさだ。

 昔空港のあった傍で、中央広場モナスやパッサルバルー銀座にも近い。
 街が南に発展するにつれこの付近はとり残されて、ありふれた密集地に変わってしまったが、そこだけ広い荒れた庭が残り、ひと抱えもあるバナナの大木が十本程、巨大な葉が日陰をつくり、名も知れない赤い花が咲き乱れ、持ち主と同じ年代のオランダ風ステンドグラスの窓が色とりどりの光を投げかけていた。

 サンヨー(水ポンプ)は壊れたままだし電気は900ワットだが、古いコロニアル時代の三角屋根が気に入った。
 バスタブはラッフルズ様式の白いホーロー鉄製で、入ると自分が芋になって茹でられている気分がしたし、便器も私が坐ると、足が床につかない白人仕様だったが、「世話になるよ」と言った。

 テラスの脚の折れた藤椅子に腰掛け、私はスパイスクリッパーの船長になった気分がした。そんな古い家だった。

 「?」
 一匹の猿がたわわに実ったバナナをもいでいた。 
 五尺に満たない躰に、貰い物のうす汚れたポロシャツは膝まであり、その外の布切れは必要がないらしい。
 蟹股の短い脚の割りにはバナナに伸ばす腕はアンバランスに長かった。長めの白髪の後ろ姿はマントヒヒそっくりで、抱えきれない収穫を終えて振りむき、にんまり笑う顔が柔和だったので安心した。
 指一本を立て、一本もない歯を見せながら、
 「タバコ イチ!」
 俺はマワス(狒々)と人間の合いの子ってあるのかしらと、やや混乱してマルボロを差し出した。こうして、まだマカッサルの港町にロコモビールの走る五十年前に拾われて、アソ(asuh 侍者または親無し児)と名ずけられた召使いとの三人の生活が始まった。

 主人ウイリム・シガール氏はミスタピーナツツバターのアリ・カウナン氏と同郷のマナド人だったのは偶然で、こちらも一方のサンプルの長身痩躯、どう見てもアーリアンの血が強い。何かの事情で故郷を捨てて半世紀、一度も帰省していないと言ったが、過去は笑って話題にしたがらない。
 民族系では最初の学校タマンシスワ運動に共鳴したリベラリストで、最初にテニスをした現地人、飛行機の操縦、ガレージには愛車だったボクゾールが鼠の巣になっている。
 温厚篤実が顔に書いてあるような紳士だが、亡妻がイスラムで、彼も改宗したから親戚付き合いは途絶えて訪れる人はいない。年代ものの家具に埃がたまり、うず高く積まれた本や壊れた道具に囲まれて、暗い老人特有の臭いのこもった部屋で孤高を楽しむといった人だった。
 何事にも強い好奇心を失っておらず、倹約の為かひどく長い距離でも歩くのが健康によいのだろう。

 アソは夜明けに起きだし窓を開け、石油コンロでその日の湯を沸かす。昨日の残りのおかずもついでに火をいれる。
 テーブルクロスを替え、皿とスプーン、フォークにフィンガーボールを所定の位置に置く頃、彼の伴侶である猫8匹(先週仔が生まれたから全部で13匹だが)がついて廻る。犬は私のものだからまだ寝ている。
 「私は時々箸を使うから揃えおくように」
 「サヤ、トアン(かしこまりました旦那様)」
 「この色のついたグラスより白いのがいい。替えてくれ」
 サヤ、トアンと言っても三日と続かない。既に定められたスペックで何十年とやってきたのだ。変更は彼にパンツを穿かせるのと同じく困難なことだ。
 料理のレパートリイは三種類しかない。
 魚ぶつ切り唐辛子煮。テンペ(納豆)炒め。いんげん白菜ごった煮。これを無くなるまで何回でも温めて供する。冷蔵庫があるほうがおかしい。
時には食器戸棚から異臭が漂うこともあって、目玉焼きだけのデイナーで終わらせる夜もある。 
 デイナーテーブルの白いクロスと銀色のフィンガーボール、ナイフスプーンがマニュアル通りに一ミリの誤差もなく並べられて、一皿の揚げテンペと目玉焼きではそぐわないと思うが。
 「これが人間様の夕食かよ」
 ひとり日本語の愚痴もでる。

 うしろの誰かが、
 「そうですかねえ」
 と応えた。
 ぎょっとなって振り返ると、そこに片足で立って壁にもたれ、腕に煮しめ色になったナプキンを垂らしたアソがいた。
 にたりと笑う。完璧な発音。しかしこれしか知らない。
 「パッ、タッタッタッ、ブランダカラ!(オランダ負け)」
 機関銃の銃口は高く上をむいている。チビの日本兵がノッポのオランダ兵を捕虜にしたのだ。歴史の変わる日を見ていたのだろうか。
 「おまえはトラジャだろ」
 こっくり。
 「トラジャの何処だ?」
 「あっち」
 「あっちじゃ解らん」
 にっこり。
 「私はジャパンだ。トラジャのずっと北の方だ」 
 「遠い。ジープでも四日はかかるだろ」 
 「いや、一週間だ」
 「ここからならマカッサルよりは近い。トアンはしょっちゅうジャパンに帰るが、俺はあれから一度も帰らないから」

 三種の料理も結構だが、あの爪の垢を見ると食欲も無くなる。私は自炊する事にした。
 台所はアソの領地だが、そこは蚊柱か、蚊のベールにぶち当たるといった感じで、あっという間に刺される。ここの蚊はゼロ戦編隊みたいにチームワークで攻撃してきて、とまるやいなや刺す。いらつく。アソは猫の頭を撫ぜながら、芋がでか過ぎるとか油が多いとか生意気を言うが、すぐにうまくいくはずはない。焦げないテフロン加工のフライパンを奮発した。
 事務所から帰るとそれは地肌を出して光っていた。
 焦げているとおもったアソは、日長一日の重労働で、その表面加工を削ぎ落してしまった。 嗚呼。

 「アソ、水が出ない」
 「マチェット、詰まった」
 水はドラゴン印の手押しポンプで屋根の水槽に貯める。
 シガール氏の朝の運動を兼ねていて、ゆっくりと決めた回数だけポンピングする。
 アソは決してやらない。水槽が空になれば洗濯もそこで中止してしまう。
 やかんの底は石灰質か白い沈殿物がたまっている。
 私は屋根に登り、水槽を覗いて眼をつむった。中の半分はどろりとしたヘドロで、奇妙な物体も浮遊している。
 「買ってから十五年経ちますから、大分汚れているでしょう。強くポンプすると、どうしても混ざるようで」
 大掃除をしている私をシガール氏が見上げた。
 この街は海抜ゼロメートル地帯で、井戸の深さはせいぜい数米、糞便は垂れ流しだから、大地の母でも分離するのは難しい。
 コップの水を飲むとき、私は透かして不純物の有無を確かめ、掛け声をかける習慣がついたが、まだ生きている。人間、順応性があるものだ。

 犬にも鑑札があるが、アソにはない。(カーテーペー=身分証明書)はこの国の重要な人別帳だが、それが無いのは選挙権もなく、国民ではないという事になり人間ではないわけだ。私はアソを友人と認めたから、彼は犬や家畜ではなく自然児という事にしよう。
 自然児は私が生まれて始めて会った文盲だった。
 友人になれば救け合う。
 彼にとって主人はシガール氏であり、私は闖入者だし友達だから遠慮もいらない。
 そしてこの家の三人とも無類に好奇心旺盛だった。
 
彼は向学心に燃えていて、私の部屋に入り込み、したためたのがこれだ。むかし東大出(秀才との意)の精神分裂症患者の書いた字と酷似していた。天才となんとかは紙一重というが本当だ。
 ブランジャ(買物)に行っても釣り銭を間違わないのは、彼がこの近所の名士であるのが理由で、多い少ない、赤(百ルピア)は青より下、昨日一枚で今日は二枚だと間違い、といったトーダイ生と変わらない計算方法。
 私が自炊するようになり、彼は資産家になった。ライターも持っている。点けたり消したり忙しい。ビニール袋や空き壜は換金出来るから彼の寝棚はそれの山だが困らない。彼は昔から、猫を抱えて椅子に座って眠るから。
 心なし寂しそうな前こごみの後ろ姿で、片方の手足が同時に動く歩き方。蛇口を捻る時は親指を使わないで手の平で、しかも左利き。俺は猿と原人を繋げる輪ミッシングリングの生きた固体を発見したと友人に書いた。
 彼は読めないが、百語を理解するピグミーチンパンジーもいる。学者の友は立腹して、「素人がくだらん妄想を抱くな。迷惑する」。しかしジャワのトリニールにはホモサピエンス、ピテカントロプスジャワニーズが住んでいたし、友人にまだアソを紹介していない。会えば私の言う事が真実になるのに。

 シーガル氏の知識欲も旺盛で、新製品のカタログを収集するのも趣味のひとつだ。英語、蘭語に堪能だから日本語も年代的に理解出来るはずだが笑って首を横に振るだけだったが、分厚い眼鏡を掛けてソニーの説明書を夜遅くまで読んでいるその姿は絵を眺めていたのではない。

 或る日、ひょんな事から友人にシガール氏と一緒に住んでいると話したら、
 「まさか」
 との答えが返ってきた。
 シガール氏はオッター機の操縦が趣味だった。無線の知識もあった。オランダからの独立を願って民族運動に参加して故郷を捨て、マカッサルからジョクジャに移った。
 メダンにいた時、夫人と知合ったと言った。
 夫人の両親が親蘭分子として日本軍に逮捕された。それがもとで結婚したという。両親がどうなったかは薄々解るが知らない。その後オランダのスパイ容疑で本人が日本軍と、独立軍からも嫌疑をかけられたそうで、どちらの側でも兵隊のやる拷問は同じだから、日本人と同じ屋根には住まないだろうと言うのだ。
 兵隊の尋問では口はあまり使わない。目的を達するにはもっといい方法がある。日本軍はその手の専門だ。
 現在の温厚なシガール氏には想像出来ない強烈な意志の時代があったのだが、シーガル氏も相変わらずウオークマンに驚嘆し、ズームレンズに強い興味を示す日常に変わりはなかった。
 その友人は、彼は優秀で日本語の読み書きも堪能だったがもう歳だからと付け加えたが、後にも先にも俺は彼の日本語を一度たりとも聞いた事がなかった。その事はある事実を裏付けるが、俺はどうしてもそれを聞く勇気がなく、黙っていた。

 友だちになったアソは召し使いから友達らしい行動をとるようになっていった。
 夜半、読書していてふと窓を見やると、ガラスの向こうに猖猩が覗いている。血の気が引いて腰が抜ける程驚くと、アソが笑っている。
 私は虫みたいなものが嫌いだ。蝸牛も入る。湿った塀にわんさと巨大なそれが行進しているのを見て逃げだしたのがいけなかった。机の上に巨大な蝸牛が列をなしていた。
 朝、車を出そうとドアを開くとシートにそれがいる。ケオンといってアソはけたけた笑った。
 アソを呼んで、目一杯怒鳴りつけた。シガル氏もいままでにない怒声でアソを叱った。
 私は言わなくてもいい事、減り過ぎる煙草やライター、ボールペン虫メガネを追求したからだ。いま考えてみると、私は自分の勝手な都合で、気分が良ければ物をやったり冗談を言ったり、じゃれたりの友達付き合いをし、そうでない時は謹厳な主人面をしたがる、わけの解らない男だったのではないか。アソは私がどの位置にいる人なのか理解出来なかったのに違いない。

 その夜、アソは帰って来なかった。
 シガル氏は「その内帰りますよ、なにせアソは大通りを渡って遠くには行けませんから」と慰めてくれた。

 アソは近所をうろついていると聞いたが、帰っては来なかった。
 そして、二ヵ月程たった日に、ルーラ(隣組)<1>が来た。
 アソはごみ箱の横に膝を抱えるようにして死んでいた。
 シガール氏は私のせいではないと慰めて呉れたが、私のせいだ。
 小さい棺桶をジープに乗せて土葬した。会葬者は四人だった。
 涙は出なかったが、坐ったまま立てなかった。


第3話 終
【Up主註】
<1> 隣組の組長か? ルーラなら町内会長で行政組織で隣組=RT, RWの上の組織の長。死亡していたのを通知してきたのなら町内会長であろう。
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作成 2018/08/29

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