慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第1話 エアポート
 国際間の移動には飛行機を利用する。船を使う人は大金持ちかボートピープル難民のどちらかだ。両方とも使いたくない人は外国には行けない。海は歩いては渡れない。
 インドネシアに行くにも当然の事のように空路を使う。
 乗り物を選ぶことは殆ど出来ないが誰も疑問に思わない。日本からの船便はない。日数がかかっても安価に行きたい人もいるし好き嫌いもあろうが、七時間程飛んで訪れる。時間を銭で買う世の中だが人間の感性(進化)は科学進歩より遅れているから対応できず、唯肉体を運んで貰うような結果になって六千粁の距離がピンと来ない。隣町に来たような感覚が抜けないから、遠い異国の違いにあたふたする事になる。
 速度は金で買えるが、距離は絶対に金では買えない。
 不幸は、速すぎて体内の水が変わらないうちに着いてしまい、もっと不幸は、その水が入れ替わる前に、元の場所に帰ってしまう事だ。いったい何の為の海外旅行かと思ってしまう。
 インドネシアに船で渡るには最近経済特別区として第二のシンガポール(国際フリーポート)を目指すバタム島にシンガポールから半時間ばかりで到着出来る。
 しかしその後はまた飛行機のお世話にならねばならない。
 国が広いし外国人は忙しいし銭もあるから船を使う人はいないが、PELNIという国営汽船会社が主な内海航路を結んでいる。特別船室の料金は航空料金と同じ位だ。
 エコノミイクラスは船底の大部屋で、船酔い客のバケツの横に坐らなければならない。

 蚕棚みたいにおとなしく座らされ、空気よりはるかに重い物体が地面を離れて飛ぶ。高い切符を買ったから、それが安全への保障だと無理に安心させる。
 スチュワーデスは'これから皆様の空の旅のお供をさせて頂きます'と言う。あの声ほど無感情で冷ややかで、心のない声はない。乗客より高給を取っているから、腹の中はお供じゃあなくて運ぶ。
' 何なりとお申し付け下さいませ'を真に受けて、ブザーを鳴らしてもまあ絶対に来てくれない。業務はシステマチックで、マニアル以外の余分な事はしない。彼女達は多忙なのだ。
 喰いたくもない食い物が運ばれ、同じ時間で喰わねばならない。客の都合ではなく向こうの都合で。喰わすだけなら養豚場と同じだ。
私は貧乏人だし、飢餓の時代に育ち婆さんに飯粒を残すと罰が当たると言われていたから旨くなくても平らげないと損をしたような気分になるし、あげく体調を崩す。
 前の席からぬうっと紙が回って来て、大嫌いな試験かとどきりとすると、現在高度一万米で順調に飛行と書いてある。読まなくても順調な飛行位は解る。元を取ろうと酒を飲んでるのだから。それでスチュワートに、下に見える島は何てえの?と聞くと「知りません」だって。
 僅か数人で二百人の、何処の馬の骨かわからん客の世話をするのは、はっきりいってしんどい。それも空中を時速千キロで飛んでいるのだ。こんなヤバイ女中仕事は俺の娘にゃやらせられない。俺の娘なら絶対入社試験に合格しない。

 インタナショナルエアポートは國の玄関だ。
 國にはそれぞれ固有の匂いがある。
 羽田空港しかなかった時代、異人さんは'此処は便所の臭いがする'と言ったものだ。たぶん糠味噌の匂いだと思うが、色も形もそれと似ているからしょうがない。
 今のナリタは無臭に近い。その國も無味無臭の味気ない國になってしまった。
 この國の玄関に降りたつと、先ず最初にムッとする暑気に包まれる。どっと汗が吹き出し裸になりたくなる。
 チェンケ煙草の煙りが此処の空気だ。酸素より煙りが多く嫌煙権を主張しても通らない。
 西洋人がそれを捜しにこのスパイスアイランドに来て、金貨と命をかけて運んだ香料入り高級品だ。此処の男はそれをいとも簡単に燃やしてしまう。
 チェンケは丁字という木の実<1> だが、食生活が貧困だった日本での需要はなかったから私も知らない。このスパイスを煙草に入れて吸うからたま らない。煙は充満し眼が痛く咳が出て、強烈な臭いは建物を爆破しない限り消えない。
 女達は椰子油の髪油を塗る(都市では今は流行らない)から、体臭なども混ざってインドネシアの匂いとなる。いい匂いかだって?
 男共は髭面が多いし奥眼だし、肌の色も濃いから、はじめてだと皆な強盗にみえる。
 神の翼より速く太平洋を渡ってきて放り出され、異様な匂いにさらされながら、制服のお兄さんに罪人のように鞄を調べられたら、それでなくても動揺して当たり前の事でも本人には、忘れ得ぬ旅の想出として胸に刻まれる。

 昔に較べれば、いまは天国に近い。天国はスカルノ・ハッタインタナショナルエアポートという。場所の名前でチェンカレンの方が親しみやすい。1991 年の開港。<2>
 大国の表玄関にふさわしい威容だ。フランス人の設計と聞いたが、ジャワ様式を基調にした庭園風のトラッキングは好感がもてる。
日本人に設計させなくて正解だ。ナリタみたいになる。

 チェンカレンは下町のクマヨラン <3>からハリム空軍基地と、三回目の引っ越しになる。
 クマヨランは暗い建物に裸電球が点るターミナルとも呼べない小屋だった。それにふさわしい制服が待ち構えていた。
 入国検査、所持品検査でヨロクを奪うのが仕事だったから、正当な理由を並べても意味はなかった。当時はそれで名のある空港だった。何事もトップになるのは努力が要る。パスポートを捻ねくりまわしながら、いくら稼ぐ積もりか、日本人は金持ちだなあとか、スタンプが消えていて見えないとか、別室に招かれる事もある。菊の紋章が自分の見える範囲にあればいいが、それが手から手に渡って遠くに見えなくなると、それしか身分を証明するものがないから、褌を盗られた気持ちになる。
 自分達が作った仕事で、どう探してもない難癖だと、
 「君の為に貴重な時間を割いたのをどうしてくれる?」ときたもんだ。
 黙秘権を使った事もあったが、あれが以外と難しく、お喋りな俺には耐えられない技術だった。
 もうこんな國にくるのは止そうと何度も思ったが、リビアやナイジェリアはもっとひどいと、識者が教えたので我慢したのが裏目に出て、今の俺になった。
 次の関門が税関で、これは物を前にしたダイレクトパーチェーズ(直接取引)になる。
 外国人の中で日本人は鴨葱だ。かもねぎとは泥棒に札束を奪われて、これもといって宝石まで出す間抜けの事を謂う。
 眼が青くてでかい白人には先天的に被植民時代の畏怖があるのと、納得が行かないとびた一文出さない吝嗇が多いが、日本人は背丈も皮膚も似ていて、彼等が大嫌いな支那人と瓜二つ、何故か銭を持っている。少し揺さ振れば金で済むならとすぐ落ちる。
 「マナ オレオレニャ土産は?」、が所持品検査を致しますの意味だった。
 スーツケースの上に百円ライターを並べたり、安物時計(カシオさん有難う)を握らせたり自衛手段を講じたものだが、甘い顔を見せればとことんねだられるし、見せなければ意地になって、猿又まで脱がされるはめにもなりかねない。(二度程そうなった)
 俺には金がありそうだし、先方さんには権限がある。不足を補いあうのが美しい摂理だろうが。

 憮然とした想いで糞暑い外気に触れる間もなく、人気スターみたいにどっと囲まれる。
 客引きの汗臭さはどうも南國を感じさせない。股に荷物を挿み肩のバックをしっかり抱えて腕で押し払いながら小刻みに移動する。誰が正直者で誰がスリだか名札がないから俺には解らない。相手は駄目でもともと、家には八人の子供が口を開いて待っている。決死の労働だから敵いっこない。
 そんな時に限って、どかっとスコールが見舞う。滝壷に立ったようで傘など何の役にもたたないが、破れ傘を貸すプロジェクトの子供数十人が囲みに加わる。
 精根尽き果てて白タクの客になる。車は寒いのか白い煙を吐き出して震えている。
 窓は閉まらずワイパーも動かず、メーターはまだ止まっているのに時速80キロを指している。走りだしてもう私の靴とズボンは水浸しだ。床の穴まで気が付かなかった。
 やっと家に着くと、十万ルピアと言う。事前協議を忘れた私の罪だ。
 そこで国際会議が三十分も開催されるが、運チャンはだめもとだし、この國は先天的に外交交渉の天才だから厳しい対応を迫られる。
8000ルピアになるが、お釣りがないとの寝業をかけられて一万。では最初の十万はいったい何だったのだろうと思う。

 これがつい昨日までのリパブリックインドネシアの表玄関の寸景だったが、今は様変わり、年率6%の成長を続けて、アセアンの舵取りになろうかの勢いだ。
 国営ガルーダは「スラマット ダタン=ようこそ」と機内でイミグレーションスタンプを押してくれる 。<4>
 だけど、此処で暮らす以上、犬の仔は犬で、猫は生まれないのは知っていた方が身の為だ。錆びたネジでも油を指せば動く事もある。

 よく見ると多少の手抜きはあるが、全体的にはすがすがしい新空港チェンカレン。
 その日は新条令が発令されたのかやけに厳しかった。たんに係官が夫婦喧嘩した後だったのか定かではないが。外国人は悪さをしにこの国に来るのでもないのに、パスポートの入出国のスタンプの数に比例して検査は厳しくなる。
 所持品検査が無事済んで(クロスボールペン一本やった)出口に向かうと袖を引かれた。やれやれと一瞬気を抜いた時のこの絶妙なタイミング。
 検疫官だといって、がらんとした別室に連れて行かれた。
 私の所持している食品が禁制品だと言うのだ。
 新巻き鮭、山葵漬け、海苔佃煮、ご飯ですよ。
 何だというのでシャケだ。シャケとは何だ。魚だ。何処の?
 何で身が赤いのかと聞かれても答えはない。シャケに聞いて呉れ。
 わさび漬けなど説明はつかない。まして「ご飯ですよ」など。
 禁制品だと断定しながら、ご飯ですよを「オバット コンプレス湿布薬か?」 持ち出したければ二十万の税金だとぬかす。
 俺もその日は二日酔い後遺症で気分が勝れなかった。
 「金が無いから捨てて呉れ」
 「特別処置で十万にしてやる」
 いやしくもインドネシア共和国を相手に支那人みたいに値切る気持ちは私にはない。
 「ボンド(保税保管)にして呉れ。後から取りに来るが、ひと月かかる。もしその間に紛失したり、腐ったりしたら貴方の責任だ。本当はこの魚は学術標本の貴種なんだ。預かり証を書いてくれ」と開き直る。
 「ご飯ですよ」を袋に戻しながら、
 「役人の給料がいくらか知っているのか」
 「知らない」
 「教えてやろうか」
 「興味ない」
 「君の十日分だ」(三日分と訂正したいが止めた)
 「少ないナ」
 「で、いくらにする?」 
 シャケを二人でじっと見ながら高度の算式をする。
 一万出す。
 「もう一枚!」 
 千だす。 彼は笑う。
 なんで笑ったのか分からないが、二人は幸せを感じて席を立つ。
 塩鮭も笑っていたようだった。
 お互い、今日は日が悪かったようだ。

国歌 インドネシア ラヤ ー抜粋ー
インドネシアわが祖国、 吾が身捧げる大地、
彼の地に吾は立ち、国の印べとならん、
インドネシア われらの国よ、 吾が民族と祖国、
さあ ともに叫ぼう、インドネシアはただひとつ、
輝けわが大地、わが国、わが民族、わがはらから、
鍛えよ吾が心、鍛えよ吾が体、インドネシアの為に、


【Up主の註】
<1> 丁子の花を乾燥したもの、実ではない。
<2> 1985年3月1日の開港で、1991年は第二ターミナルが供用になった年。
<3> 現在のアンチョール、ビナリア公園の中にあった独立前からの空港。
<4> 機内手続きは2010年頃に廃止された。

第1話 終
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作成 2018/08/29

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