慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第19話 歌謡小史
 インドネシア群島国家にはその島々に独自の歴史、文化風習があり、オランダ殖民地になってもそれを収斂してひとつにすることは出来なかった(オランダ殖民もその地域によって異なる)。
 歌謡は庶民の心の発露でありそのような背景から、インドネシア歌謡には地域差が非常に大きい。 隣り合った地域でも曲想や音節に共通点は見出せない(バタック−ミナン、スンダ−ジャワ)のが日本との相違点であろう。

 インドネシア歌謡は世界の趨勢に同調するように1920〜30年代に流行するようになった。
 日本で唱歌と呼んで洋風音楽を導入した時期と符号するが、日本は政府主導だったのに反してインドネシアは歌謡曲の原点である庶民の発露。

 西洋風歌謡は周辺の土地とは浮き上がったバタヴィアのようなコロニアルシテイの流し唄、人気がでればなんでもいい芝居小屋(サンデワラ)で謡われた。 

 イラマムラユ(マレー芸能)  インド系のタブラ2連太鼓、手風琴かヴァイオリンで奏でられ、それはマラッカ海峡の両岸デリ(スマトラ東側)マレー半島を経てリアウ、バンカ諸島に達した。
 これこそがインドネシア歌謡の原点と書くのは、西洋音楽が流入してもこのリズムは共和国の人々の血のように守られて現在に至っているからだ。
 突如現れて下層階級から爆発したダンドウットは野卑だ下品だと蔑まれても捨てられることなく増殖しているのがその証拠だ。

1661 バタヴィアトウグに幽閉されたポルトガル棄民がファド系唄を温存。
1900 オランダ居留地の歌のマレー語詩での歌唱が現れる。Schoon ver van jau
1920 パントン4行詩に曲をつけた小唄が流行る。 Terang Bulan
 スタンブールと呼ぶ掛け合い歌、即興歌が流行る。 Stb.Jampang Jali Jali
1930 ビンタンスラバヤ楽団のクスビニがトウグ村に残る古曲Kg.Moritukoを紹介した。
1940 MグサンがBengawan Soloを発表。歌聖イスマイルマルズキがランガム(歌謡)クロンチョンを完成させる。ゴードントビンが各地の唄を収集してフォークソングと名づけて紹介しスカルノがナショナルソングで推薦した。 AyoMama, NonaManis
1950 洋風ポップが流行する
1964 ピルンガデイ准将がKroncongBeatと銘打って20枚のレコードをプロモート。
蓄音機が普及していなかった現地では売れなかったが濃い内容の保存盤。

ある人が素晴らしいインドネシアソングはカシオキイボードが滅ぼしたと嘆いたほど、安易にバンドを作り大音響で流す若者が急増した。
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作成 2018/08/29
追加 2018/08/30

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