慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第18話 異邦人の歌
 インドネシアの近代音楽は、二十世紀初頭のオランダ統治のバタヴィア(首都ジャカルタ)や、東ジャワスラバヤの芸人や町芝居から興ったといわれる。
 植民都市の異邦人、外領の島民船乗り、移住華人や兵士、ジャワ固有のリズムが混合して、ひとつの姿を表したのがクロンチョンであった。
 クロンチョンは1661年オランダの強請でバタヴィアを追放されトウグ部落に隔離幽閉されたポルトガル棄民、改宗奴隷スラニ、ラスカル(船乗り)に発しているといわれ、現在までトウグにはクイーコ家が温存している→一万キロ、三百年。
 文化を残さなかったオランダだったが、古典といわれる名曲のなかには、長い植民地支配の中で音曲に僅かな痕跡でも残ってはいまいか。

VOC イーストインデイ 蘭領インド
 インドネシア独立からこのかたオランダの三百年の覇権の残影(言葉をはじめ文化遺産、混血)は他の旧殖民宗主国と較べて極めて少ない。
独立後オランダ語は僅かに法律、機械用語に残るだけで、宗主国の風習や影響力、蘭印混血人も稀である。
 長い間の疑問だったが、この理由はオランダはスペインポルトガルはたまた英国フランスとは異なり政治的領土支配の能力も意思もないVOC東インド会社とゆう実利偏重の重商主義の関与だったといえる。
 VOCは1799年膨大な欠損で解散しオランダ政府が権益を継ぐが、フランス革命など欧州の混乱で英国中間統治(1816)など混乱する。
 復帰後の蘭国の覇権はジャワ、マドウラ、バタヴィアの外はアンボン、マナド、パダンなど限定されていた。1830年ジャワでの強制栽培法の大失敗でその後覇権国は文明化の名で白人殖民化キリスト教を積極的に進めるがそれは第一次大戦開戦頃(1914)で、大列島は強固な文化が根強く目的は達せられなかった。 オランダ三世紀半にわたる支配は事実ではなく列島全体を政治支配したのは僅か三十年に過ぎない。

 この国の大らかさで、いままでそのルーツが漠然としていた名曲の中からその確とした証拠を探したかった。
 本テープはその試みで、たぶん最初のものだろう。

Bunga Anggrek 蘭の花
 オランダ青年の作曲といわれる古い著名なランガム(歌謡)で、創世時の大スターNetyでヒットしたが、作曲者不詳で、本曲は謂れのようにオランダ語で唄われる数少ない曲だ。失恋の詩が幼稚なので外人作詩かもしれない。
全国ラジオコンテスト1964一位 Rita ZaharaがTetap Segarをバックに唄う。
Bunga anggrek melai timbul, aku ingat padamu,
Waktu kita berkumpul ku duduk disampingmu
Engkau cinta kepadaku Bulan menjadi saksi
Engkau telah berjanji sehidup semati,
Kini kau cari yang lain, Lupa dengan janjimu
Sudah ada gantinya Kau lupa kepadaku,
Oh, sungguh malang nasibku kini kau telah jauh
Kau mengingkari janji Kau pergi tak kembali,

蘭の花がほころびはじめると、あなたを想い出します
あの時ふたりは一緒して、わたしはあなたのそばに座り、
あなたは私を愛し、死ぬも生きるも共にと誓ったのは
お月様も見ていたのに、、あなたはその約束も忘れて
ほかの人を見つけて、わたしなど忘れてしまったのです、
ああ、私はなんと不幸せ、もうあなたは遠い人、
あなたは約束をやぶって、帰ってはこない

De Orchideein オーキッド   Bram Aceh
Als de orchideein bloeien、Kom and toch terug by my
Denk steeds aan die schoonste tyden
Toen jy zaqt steeds aan myan zy
Als de orchideein bloeien In de velden van voorheen
Kun je my nog eens herinneren Ik voel my nu zoo alleen
Maar je bent nu van een ander Voorby is des romantiek
Kom toch terug by my weder Jouw vergeten kan ik niet
Als de orchideein bloeien Dan denk ik terug aan jau
Denk toch aan die schoonste tyden
Toen jy zei ik hou van jou
Hatiku oedih dan pilu aku cinta padamu
Bunga anggrek mulai timbil aku ingat padamu
Terkandung yang sudah lalu waktu kau menyintaiku

 ブラムアチェはブルウリイ、トトポリなどの二世代前のヒットシンガーで、この年代では蘭語素養のある者もいるが、長いオランダ植民文化は独立後半世紀も経ず消滅した。
 演奏はOrkes Bintang Surabayaでコロンチョンとして完成されている。リズムの細かい弾弦が楽器Kroncongでポルトガルのチェンブレ五弦小型ギターを模してトウグ村で作られていた。

Mengapa Menangis なぜ泣くの M.Rivany
古典のコロンチョンといわれて久しいが、次曲と比べると焼き直しの感が強い。Rivanyは60年代トップシンガーでこの国独特の技巧的中性的な歌いかただ。
Mengapa kau menangis mangis, Aku slalu rindu padamu,
Hapuslah airmatamu manis, Ku kan kembali padamu,
Percayalah padaku kasih, Aku takkan mengingkari janji
Jangan menangis lagi manis, Akukan segera kembali,

なぜ泣くの いつもお前を愛しているのに
さあ、涙を拭いて恋人よ、きっと君のもとに帰ってくるから
私を信じておくれ、私は約束は破らないよ

Waarom Huil Je? なぜ泣くの Maria H
トウグの典型的なリズムで、言葉も三種類使うクルーニイの物凄さだが、聴いていて楽しい。軽快だがこちらが古いのは確かだ。Mengapa Menangisはコロンチョン化されムラユ語の歌詞が後から作られたのだろう。素朴だがリズムはあくまで渡来風だ。

コロニアルソング
 バタヴィアのオランダは収奪に専念したと書いたが、どこかに何かの文化的痕跡がないものか。ないはずはないと耳をそばだてていたら、ノスタルジックなKelapKelip(漁り火)、Slamat Tinggal(さようなら)がオランダの若者が作曲した(らしい)と知った。そう言われれば外人独特の稚拙な歌詞なのがわかるが、それ曲のは優劣には関係ないだろう。
 バタヴィア時代の曲で外人作曲の噂があるが確証がない二曲を。両方とも歌詞は幼稚で外人臭がつよい。

Kelap Kelip 漁り灯     NN Rita Zahara
Kelap kelip lampu dikapal, anak kapal main Sekoci,
Airmata jatuh dibantal, Aduh yang dinanti belum kembali
Pulau Pandan jauh ditengah dibalik pulau Angsa dua
Hancur badan dikandung tanah
Aduh budi baik Terkenanglah jua Hum,,,
Dalam hujan bajuku basah, Jalan jalan dipinggir kali
Biar kini kita perpisah Aduh Lain kali jumpa kembali

漁り火が煌き,漁師達がスコチを漕いでいる、
ああ、昔は戻らない、涙が枕を濡らす、
パンダン島は沖に遠く 振り返ればアンサドウアが、
第二の故国は今はなく
ああ、良き友の思い出だけ、
川のほとりをそぞろ歩き 雨は身体を濡らす、
今別れても ああ、いつかまた会いましょう
 アンケの掘割りで別れを惜しむ居留人と女の情景が浮かぶ。

Selamat Tinggal さようなら NN Rita Zahara
Selamat Tinggal kasihku saying  Jangan lupa jangan lupa kepada saya
Biar jauh ku slalu ingat padamu  Tunggulah aku sampai kembali
Ku kembali untukmu sayang  Ingatlah ingatlah dengan janjiku
Biar jauh ku slalu ingat padamu  Ku tetap setia padamu kasih
さようなら いとしい人、私を 決して忘れないで、
遠く離れても いつもあなたを思い出し、 再び帰ってくるまで待っていてください
私はあなたの為にきっと帰ってきます 私と交わした約束を心に留めていてください
遠く離れても いつもあなたを思い出しています 心からあなたを信じています、恋人よ
これなら我々外国人でも作詩できるだろう。

Oud Batavia Samuel Quiko
 印尼・蘭語両刀の軽快な曲。トウグらしい。
 インドネシア語では字余りでやや無理がある。
 レバーナの替わりにベースがいいリズムを刻むトウグの古い曲をなんとかモダーンアレンジしているようだがインドネシアの匂いはない。
 広いインドネシアでもこのバックリズムは此処だけのものだろう。

 Als De Zon In't Westen Nedert
 オランダの匂いでマリアが手慣れて唄う。

 児童唱歌の趣きの古い歌Bulung Kakatua(鸚鵡)などは明らかに西洋風だ。
 コロンチョンの古典名曲を追うとBunga Mawar(薔薇)、Bunga Anggrek(蘭)などが出てくるがすべて読み人知らず。これらの曲は場所によってはオランダ語で歌われるし、曲にぴったり合っている。あとからムラユ語の詩が加えられたのだろう。
 Mengapa Menangis(なぜ泣くの)はコロンチョンの名曲だが、ハイテンポで唄われたWaaron Huli Je? が元歌であるのがわかろう。同じようにSchoonVer Van Jouも焼き直されて、知名曲Bulan Purnama(満月)に変身している。 オールドソングの多く、Siang berganti Malam(昼は夜へ)、Bunga Mawar(薔薇の花 大スターRukiahが映画で歌ってヒット) Cincin Permata(記念の指輪)Stb.Uも曰くがありそうだ。
 Als de Zon Int'Westen Nedertは軽快の中にも故国を遠く離れた異邦人のペーソスが漂う。そう考えると、古典といわれる多くのアンボンの歌は非常に西洋風で、メロデーが移入されたあとインドネシア語の歌詞が付いたと思われ、原詩を知りたいものだ。

 1925年ラジオ放送が開始(日本も同年)されたのが、歌謡を一気に全国に流行させたのだが、現代歌謡の流行はテレビ(1983年開始)ではなくカセットテープが安価に出回ってからだ。テレビが国営で政府の検閲が厳しい御用放送だったからだろう。
 著作権や版権などが確立していない市場に海賊版、ダヴィングしたテープ流行歌が溢れた。はじめはまだ古いコロンチョンやマルズキの曲だったものが、ポップ調に編曲されて新しい歌手によって歌われだし、リアントやリント・ハラハップなどがセリオサとかノスタルギアと呼ばれるジャンルで流行ポップスをヒットさせ、ブラム・アチェ、トトポリ、テテック・プスパ、ビンボー、ブルウリイ、クス・エンダン、スカエシ、ワルジナなどのスターが続々と登場して歌好きな庶民のニーズに応えるようになった。
 懐かしのメロデイのように長い寿命のあるTeringat Selalu、Sepanjang Jalan Kenangan、Tak ingin Sendiriなどが大ヒットした。 追かけるように忽然と起こるダンドウットの嵐。
 80年台のバブル景気で庶民の所得が増えてラジオカセットが容易に手に入るようになると同時に、電子楽器キイボード、エレキなど比較的簡単にバンドが組めるようになると、雨後の筍のようにニューバンドによるニューヒットが作り出される。今はもうデイスクジョッキーのヒットチャートで歌はアイドルによって目まぐるしく交代するどこの国の都市でも同じ現象になり、いわゆる玄人好みの職人シンガーは影をひそめた。

日本の歌
 インドネシア歌謡曲で日本で唄われる曲は「かわいいあの娘」で、オードウエイの旅愁などと並び殆どの人が知っている。外国曲では最も知られていている一曲ではなかろうか。
 軍国歌謡曲の「愛国の花」は従軍看護婦の歌だった。
♪ 真白き富士の気高さを 心の強い糧として
   御國に尽くすおみな等は 輝く御世の山桜 霧たち匂う 桜花 ♪
この曲を兵士のひとりがマレー語詩を作り、それが何年かたってインドネシア人たちに歌われるようになる。 望郷の詩だがマレー語は稚拙だから明瞭だ。
 
Waktu bulan purnama dikota ini Aku duduk sendiri diputi pantai
 Duduk sambil airmata ingat negeriku
 Hatikupun senyilah senyi hidupku  Negeriku sangat jauh daripadaku
 この曲は歌好きの初代大統領スカルノが平成天皇皇太子時代1960年に訪イした折りスカルノが作詞して数千人の児童合唱で歓迎したのは世界でも例がなかった。
 
 Bunga Sakura indah berseri seri  DiNipponlah tumbuhnya sudahlah pasti
 Bunga yang dipuja puja oleh rakyat Nippon
  Melati diIndonesia kita puja puja Itulah satu tanda kita Asia

第4回アジア日本人男性合唱団
 日本軍国歌謡は意外なところで歌われていて愛国行進曲、湖畔の宿、黒がねの力、軍艦マーチ、桃太郎さんなどが旧日本師範学校同窓会などで合唱される。
 五輪真弓とゆう歌手が心の友をヒットさせたが、どうゆうわけかこの曲がインドネシアで大ヒットした。若者なら多くが知っているだろう。 イ訳詩はないようで原語で唄われている。
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作成 2018/08/29
追加 2018/08/30

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