慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第10話 ブタウィ・ジャカルタ
もうひとつの国? 巨大な田舎町?
 インドネシア共和国の首都九百万都市ジャカルタ。 政治の中心は申すまでもなく、経済の九割を握りその影響力と求心力は日ごとに強大に一点集中化して、それが良いか悪いかは別にして人々はこの街を目指し、ジャカルタを除いてインドネシアは存在しない。
 しかし奇妙なことに、この街はインドネシアを代表せず、この街にいてインドネシアはわからない。ジャカルタはインドネシアではない違う一国と言えまいか。
 共和国を代表する真の首都になるか、単に猥雑で喧騒を極める虚飾の巨大な田舎町になるかは誰にもわからない。

バタヴィアからジャカルタへ
 渋滞する通りでは昔のよすがを知る術もない。 オランダ支配を恥ずかしがるかのように、その昔を知ろうとしても歴史に三百年の事実だけが書かれるだけで、庶民の実生活や町の雰囲気を伝える文献など意外と少なく資料もない。
 オランダはイベリア二国スペイン・ポルトガルの植民経営とは明らかに異なる実利収奪だけの苛酷な経営を行ったとしか思えない。その証拠にそれだけ長い異民族支配も、政治的独立を果たしたインドネシアにオランダ文化の痕跡、言葉、習慣、芸能はもとより血の証しである混血人の姿すら見当たらない。ラテン諸国とは大きな違いだ。きっと英領時代のインド、マレーにも劣る文化教育環境だったのだろう。オランダの痕跡は僅かな機械用語、旧態依然たる法律手法にかろうじて残るだけである。

 歴史に翻弄されるように首都ジャカルタはスンダクラパ、ジャヤカルタ、 ジャカトラ、バタビア、 ジャカルタと名前を変えた。 (前出のバタヴィア・クロンチョンと重複する)
 パジャジャラン王国がチリウン川河口の寒村スンダクラパに胡椒交易のポルトガル人居留を認めたのは海抜ゼロメートル、マラリア多発の猖獗の地、捨てた土地を居留地にしただけだった。
 1527年、西のバンテン・イスラム王国ファタフィラ軍がポルトガルを攻め落として勝利の町ジャヤカルタと改めた。この日がこの町の誕生とされる。
1619年オランダ東インド会社総督クーンは、此処を母国の古代民族バターフに由来してバタヴィアと命名してカナル(運河)を巡らし、収奪の拠点とした。
 バタヴィアはオランダのアジア経営の根拠地として遠く長崎出島の交易を支配し、ジェスイット宣教団のF・シャヴィエル(ザビエル)もここから北の国に向かった。
 鎖国令(1633〜41)でジャカトラに追放されたお春は、ジェロニマ・ハルとしてシモンセンとの間に四男三女をもうけ上流階級で幸せに暮らした。
平戸から来た雇われ日本人が英・蘭双方の傭兵としてベンテンで切り結んだ。
 1886年にタンジュンプリオク外港を、郊外メーステル・コルネリス(カプテンコウネリアス、現ジャテイネガラ)に軍施設を建設し、小漁村は東アジア一のハイブリットな猥雑さと奇妙な哀愁ただよう植民都市に変貌する。
 時は過ぎ行き、蘭領インド攻略を目指す日本軍は1942年わずか八ヶ月で完全占領し、1945年8月15日まで軍政を敷く。スカルノがインドネシア独立を宣言したのはその二日後のことであった。
 街は東西湿地を嫌い南にしか膨張出来ず、コタ(町)と呼ばれる北区の総督府(現大統領官邸)までで、スカルノは日本戦時賠償でホテル、デパート、モニュメント、ソヴィエト援助でスマンギ立体交差点、スナヤン大競技場などを建設する。
 南に向かう細い馬車路が通る森に第二のメンテン、クバヨラン高級地区が造成されたのもそんなに古いことではない。

 1966年政権がスハルトになって、アリ・サデイキン市長はアンチョールリゾート、プロマス競馬場、ハリム空港、タナアバン、スネン、パッサルミングに大市場を、西側援助が投入されると華人資本家はクバヨランバルから更に南のポンドックインダなどに住宅団地を拡張し各地からあらゆる種族が流入して都市化の一途をたどる。
 ジャカルタっ子をブタウイ(バタビアの訛り)と呼ぶが、ブタウイ語が標準インドネシア語に侵入して若者を中心にメデイアを介して全国に広まってゆく。
 娘さんNonaは死語になりブタウイ方言Cewekが、踊りMenariがJogetで通用し、若者は華語でもルー(お前)グエ(俺)を常用する。
 ちなみにCibinong、Cikampekとチが頭につく地名は川岸の意味で、Rawamangunとラワは沼地のことである。Pondok Gedeはジャワ語ゲデ大きい庵の意と知る。

 1968年の外資開放で外国資金が一挙に流入してビルや高速道路、最初の湿地帯開発チェンカレン空港<1>が建設され、市は衛星都市Jabotabek(ジャカルタ・ボゴール・タンゲラン・ブカシの略)の名の下に利権に群がる蟻のブームに沸き人口一千万とゆう。
 翼賛与党ゴルカルにあらずんば人でなし、スハルト王国になった共和国は腐敗政治のなか銭がすべての虚栄の街になりさがり、貧富格差増大、大気汚染、交通渋滞と近代都市の功罪を忠実に歩み、街のシンボル、チリウン川に関心を払う人々は消えてしまった。
 1998年5月、国際投機集団にこの虚を衝かれた通貨暴落に端を発した混乱でのスハルト政権崩壊後、ジャカルタは糸の切れた大凧のように方向さえ定まらないで流れている。
 古き良き時代Waktu tempo duluに戻るのだろうか、はたまた吸収しきれない流入人口を処理出来ず、他のアジアにあるような巨大な田舎町ならまだしも、スラムに転落するのだろうか。
 暴動が起こった。政治腐敗と物価高騰に怒った庶民だとゆう。
 ジャカルタ構成民の多くは身分証明(KTP)も無いその日暮しの流入民で占められている。
 KTPが無ければ選挙権もなく人間には見做されない。しかし子供はつくれる。
 そのような哀れな賎民が平時の選挙運動(コンパニエ)に駆り出され、主義主張などあろうはずもなく僅かな小遣い稼ぎで眼を三角にして暴れまわる。その時しか存在感がないからだ。禁欲イスラムにカーニバルやお祭りはないからガス抜きのひとつだと言ってもいられない。騒乱で死人もでたのだから。扇動されれば何でもやる。商店焼き討ち掠奪で年端もゆかない子供達が生れてはじめて手にしたラジオカセットを抱えた嬉しそうな顔が忘れられない。一生買えない商品が並ベられ華人商店に虫けらのように追い立てられる毎日なら誰でもそんな気分になるだろう。
 街には耐えられない貧富の格差がありすぎる。いっそ昔のように皆なが貧しく、物もなく、みんなが助け合って生きていた時代がいいのかも知れない。願わくば、メンテンの街並み、ブリンギンの大木の木陰でベチャ(輪タク屋)が休み、エスリリン(氷菓子)の売り声が時を流すような、倦怠にもみえる情味のある南国の街に返って貰いたいものだ。この街にはマクドナルドやケンタッキーは相応しくない。

 ジャカルタ(Daerah Kusus Ibukota Jakarta−母なる首都ジャカルタ特別市の頭文字からDKI−デイカーイーと呼ばれる事が多い)は首都の誇りだけでなく、過去から現在まで常にインドネシア歌謡をリードしてきた。
 強権と軍の弾圧の下で爆発したのが七十年代のダンドウットだった。
 このスンダ地唄をアレンジしたニューリズムは、そんな貧民に圧倒的に受け入れられ、詩が野卑だとか下品だとか言われてもファウンダーロマ・イラマは名士になった。
 この街で生まれた国民歌謡クロンチョンを隅に追いやって、当代ダンドウットは圧倒的な影響力を列島に及ぼしているからだ。首都から発せられる音楽が地方に拡散して、地方語での歌に多くの影響を与え、歌手は全国コンクールが開かれるDKIを目指し、そして認められ、再び故郷の独自のリズムを育んでゆく。

Lagu Betawi
 インドネシアの歌聖イスマイル・マルズキは生っ粋のブタウイっ子だから彼の作曲は、西欧ポップスとクロンチョンハイブリットを完成させたジャカルタの歌といえよう。
 マルズキのシニックで感受性の強い作風は別項で詳述されようが、モダンクロンチョンを完成させただけでなく、彼の前にも後にも彼を凌駕する才能はないといえるほど際立っている。そうしてその原点(アスリ)はやはりモリツコに行き着く。
 前出と重複するが、猥雑な下町のクロンチョン・チナ、スタンブールにダンドウットの萌芽をみる。パサルガンビール、ジャリジャり、キチルキチル、Kg.クマヨランの系列だ。
 1930年頃からのバタヴィアの音楽は、奇しくもタマンイスマイルマルズキ(マルズキ記念園)のあるチキニ界隈で聞こえたに違いない。
 ブタウイソングでの古典はこのほかDayun Sampan(漕げよ舟)、Lain dulu lain sekarang (今は昔に)、Kopi Susu(ミルクコーヒー)、Rujak Uleg(サラダ)など意外と華人系の調子が顕著なのだ。曲だけでなく、当初は華人が歌謡界の一方を担ったと言えよう。
 スタンブルはクロンチョンの一形式で、短い16小節の歌謡で、サトウ(1)はメロデイが決っていて歌詞を換えるStambul Jampangなどで、ドウア(2)はその都度作曲されJauh Dimata、Terang Bulan, Tudung Priukなど名曲が残る。
 クロンチョンの初期もタンチェンポク、サヌシなど下町のアイドル歌手に華人がいた。
 バタヴィアダウンタウンは想像以上に強いチャイニーズタウンの勢力圏だったのだ。
バンドにも胡弓や銅鑼、クロモン(ボナン壷打楽器)などが多用されている。
 現在ジャカルタの西洋クラシック愛好家には華人が圧倒的に多い。

コロニアルソング
 バタヴィアのオランダは収奪に専念したと書いたが、どこかに何かの文化的痕跡がないものか。ないはずはないと耳をそばだてていたら、ノスタルジックなKelap Kelip(漁り火)、Slamat Tinggal(さようなら)がオランダの若者が作曲した(らしい)と知った。そう言われれば外人独特の稚拙な歌詞なのがわかるが、それが曲の優劣には関係ないだろう。
Kelap Kelip
Kelap kelip lampu dikapal anak kapal main skoci,
Airmata jatuh dibantal Aduh yang kunanti belum kembali,
Pulau Pandan jauh ditengah dibalik pulau angsa dua
Hanchur badan dikandung tanah Aduh budi baik terkenanglah jua,
Dalam hujan bajunya basah jalan jalan dipinggir kali
Biar kini kita Berpisah Aduh lain kali jumpa kembali,
漁り火が煌き,漁師達がスコチを漕いでいる、 ああ、昔は戻らない、涙が枕を濡らす、
パンダン島は沖に遠く 振り返ればアンサドウアが、第二の故国は今はなく良き友の思い出だけ、
川のほとりをそぞろ歩き 雨は身体を濡らす、今別れても ああ、いつかまた会いましょう
( アンケの掘割りで別れる居留人と女の情景か)


Selamat Tinggal
Slamat tinggal kasihku sayang, Janganlah lupa Janganlah lupa kapada saya
Biar jauh ku selalu ingat padamu tungguhlah aku sampai kembali
Kukembali untukmu sayang, Ingatlah ingatlah dengan janjiku
Biar jauh ku selalu ingat padamu, Ku tetap setia padamu kasih
さようなら 愛しい人、私を決して忘れないで
たとえ遠くに行っても私はいつも貴方を想い出す 帰ってくるまで待っていて、
私は必ずあなたのもとへ帰ってきます、私の約束を心にとどめて
たとえ遠く離れてもいつも貴方を想いだし、あなたを信じます 愛する人よ

(この詩なら外人の貴方にも作れるだろう)

 児童唱歌の趣きの古い歌Bulung Kakatua(鸚鵡)などは明らかに西洋風だ。
 コロンチョンの古典名曲を追うとBunga Mawar(薔薇)、Bunga Anggrek(蘭)などが出てくるがすべて読み人知らず。これらの曲は場所によってはオランダ語で歌われるし、曲にぴったり合っている。あとからムラユ語の詩が加えられたのだろう。
 Mengapa Menangis(なぜ泣くの)はコロンチョンの名曲だが、ハイテンポで唄われたWaaron Huli Je? が元歌であるのがわかろう。同じようにSchoonVer Van Jouも焼き直されて、知名曲Bulan Purnama(満月)に変身している。 オールドソングの多く、Siang berganti Malam(昼は夜へ)、Bunga Mawar(薔薇の花 大スターRukiahが映画で歌ってヒット) Cincin Permata(記念の指輪)Stb.Uも曰くがありそうだ。
Als de Zon Int'Westen Nedertは軽快の中にも故国を遠く離れた異邦人のペーソスが漂う。そう考えると、古典といわれる多くのアンボンの歌は非常に西洋風で、メロデーが移入されたあとインドネシア語の歌詞が付いたと思われ、原詩を知りたいものだ。

Bunga Anggrek (蘭の花)
bunga anggrek melai timbul, aku ingat padamu, 蘭の花がほころびはじめると、あなたを想い出す
Waktu kita berkumpul ku duduk disampingmu あの頃ふたりは一緒して、あなたのそばに座り、
Engkau cinta kepadaku Bulan menjadi saksiあなたは私を愛し、死ぬも生きるも共にと誓ったのは
Engkau telah berjanji sehidup semati, お月様も見ていたのに、、あなたはその約束も忘れて
Kini kau cari yang lain, Lupa dengan janjimu ほかの人を見つけて、わたしなど忘れてしまった
Sudah ada gantinya Kau lupa kepadaku,
Oh, sungguh malang nasibku kini kau telah jauh ああ、私はなんと不幸せ、もうあなたは遠い人、
Kau mengingkari janji Kau pergi tak kembali, あなたは約束をやぶって、帰ってはこない、

De Orchideein (オーキッド)
Als de orchideein bloeien、Kom and toch terug by my Denk steeds aan die schoonste tyden
Toen jy zaqt steeds aan myan zy Als de orchideein bloeien In de velden van voorheen
Kun je my nog eens herinneren Ik voel my nu zoo alleen
Maar je bent nu van een ander Voorby is des romantiek
Kom toch terug by my weder Jouw vergeten kan ik niet
Als de orchideein bloeien Dan denk ik terug aan jau
Denk toch aan die schoonste tyden Toen jy zei ik hou van jou

 1925年ラジオ放送が開始(日本も同年)されたのが、コロンチョンを一気に全国に流行させたのだが、現代歌謡の流行はテレビ(1983年開始)ではなくカセットテープが安価に出回ってからだ。テレビが国営で政府の検閲が厳しい御用放送だったからだろう。
 著作権や版権などが確立していない市場に海賊版、ダヴィングしたテープ流行歌が溢れた。はじめはまだ古いコロンチョンやマルズキの曲だったものが、ポップ調に編曲されて新しい歌手によって歌われだし、リアントやリント・ハラハップなどがセリオサとかノスタルギアと呼ばれるジャンルで流行ポップスをヒットさせ、ブラム・アチェ、トトポリ、テテック・プスパ、ビンボー、ブルウリイ、クス・エンダン、スカエシ、ワルジナなどのスターが続々と登場して歌好きな庶民のニーズに応えるようになった。
 懐かしのメロデイのように長い寿命のあるTeringat SelaluSepanjang Jalan KenanganTak ingin Sendiriなどが大ヒットした。 追かけるように忽然と起こるダンドウットの嵐。
 80年台のバブル景気で庶民の所得が増えてラジオカセットが容易に手に入るようになると同時に、電子楽器キイボード、エレキなど比較的簡単にバンドが組めるようになると、雨後の筍のようにニューバンドによるニューヒットが作り出される。今はもうデイスクジョッキーのヒットチャートで歌はアイドルによって目まぐるしく交代するどこの国の都市でも同じ現象になり、いわゆる玄人好みの職人シンガーは影をひそめた。
【Up主の註】
<1> 正式名称はスカルノ・ハッタ国際空港。空港付近はチェンカレン村であるのでこうも呼ばれている。
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作成 2018/08/27
追加 2018/08/30

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