慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第7話 西スマトラ・ミナンカバウ
パダン人の定義
ひとりでは 故郷をあとにする
ふたりでは パダンレストランを開く
さんにんでは 契約書を作る
よにんでは メッカ巡礼
ごにんでは アッサラームアライコム

ミナンカバウ人のふるさと
 スマトラ(Svarnadvipa 金の国)のスリマハラジョデラジョ(栄光の王の王)はアレキサンダ−大王の第三子で、マラピ山の山頂に碇を降ろした国造り伝説がある。
 五世紀スリウイジャヤ仏教交易王国が南スマトラ<1>に勃興した前後から、この地は金産出地として知られて、スリウイジャヤの富はこのミナンの金で賄われていたとゆう。
 スルタン・パガルユンがバトウサンカルに強固なイスラム国を建国したのは、インドネシアにイスラム教が渡来したといわれる十一世紀を遥かに遡るとゆう説がある。
 アディタヴアルマン王(ジャワ人混血)が数々の碑文を残して歴史に登場するのは十四世紀であるが、前歴史時代に既に文字文化(解析不能)がある事が知られている。
 ジャワとの戦いで勝利した故事から「Menang Kerbau勝利の水牛」が種族の名となったと言い、女性の髪飾りは此処だけの優美で大きなタンドック(角)を形取っている。
 カユマニス、ダマ−ルなど森の富は、マラッカ海峡に注ぐ両カンパス、シアク河を経て交易された。この地が内陸であるにも拘らず地名にムアラ(錨地)を冠したり<2>、古謡の詩に舟、舵、櫂の比喩が多いのも広範囲な流通があり、流域地方から海岸線にはミナン語が使われてムラユインドネシア語の祖語になった程の影響力を持っていた。
 下って胡椒貿易では早くからインドアラブとの関係が深まってゆく。
 それらの富が西欧植民の干渉を余儀なくされるが、1818年かのスタンフォ−ドラッファルズがこの地を訪れ、農業商業など社会組織はジャワをも凌ぐと称賛した。
 現在共和国の町々を歩いてもこの地方程清潔な地域は見当らない。

 土地は厳しい沈下隆起が見られ、切りたつ断崖や渓谷はンガライシアヌク、マニンジャウ、シンガラックの景勝地を生む。そここに天に聳えるルマミナンの壮麗な甍は民族の歴史と重みを誇らかに謡いあげているようだ。
 ジャワの侵攻を知恵で凌んだ故事から「ミナン勝利のクレバウ水牛」と自ら名乗り婦人の被り物は水牛の角タンドックを模している。
 敬虔なイスラム信仰に支えられ、自由闊達、進取の気性に富み、率先して己れの可能性を求めて外領に出る風習(ムランタウ)があり、マレイシアネグリスンビラン建国、南スラウエシイスラム教化をはじめインドネシア全土にその足跡のない処はない。
 はじめ山(ダラット・地)を下って平地(ランタウ・パシシール海岸移住)に植民して、現在の州都パダン市(平野)を建設したのだ。飛行機で移動してはわからないが、スマトラは緑の大海で、これから行く遥かな地を、視界に広がる果てしない緑の魔界を眺めて想いを巡らすプランタウ(旅人)にとっては、勇気の要ることだっただろう。
 今でこそトランススマトラロードが貫通し、長距離バスが唸りをあげて結んでいる(首都から30時間)が、すこし昔はインド洋を船でゆくのもまさに命懸けの旅だった。

 計数感覚は華人以上の商才を発揮し、この国の流通に深く関与しているばかりでなく、首都ジャカルタの大市場スネン、タナアバンは彼等の縄張りで、パダン語を使えば同郷心で「Den Siko(Saya Disini私は此処だ)」半値になろう。
 独立時代にも多数の政治思想家を生み、 1958年〜61年共和国革命政府(PRRI)を樹立し一時期ブキテインギが共和国首都だった事でも知れる。初代副大統領ムハマドハッタを始めボンジョル、シャリフデイン、また現代の良識を代表するアブドウルムイス、アリフィンベイなど多くの著述出版家を輩出している。

 ミナンカバウは世界でも希有な母系社会が基盤で、その慣習(アダット)とイスラム原理主義との相克から男性には制約の多い土地柄が移住(ムランタウ)の動機を助勢した説もあるが、現代のアダットはゆるやかな形で存在し、生活規範は確固としたイスラム法に準拠する。ジャワに多い輪タク曳きも、この地では「なんで人が人を運ぶのか」と荷物運びしかいない。女中になるよりはと行商にでる。バブ(お手伝いさん)を探すのは至難だ。
プサカ(財産)は母から娘へ、ハルタ(資産)は母系の男性(ルマママック)<2>に引き継がれ、親族代表は母系の長老男子が握る。古くは夫は母方の家を守り、 いわば通婚(入り婿スマンド)で発言力はあまりない。初婚での離婚率は三組に一組の多さだった。
 他種族はパダン人の商才と母系を、けちでかかあ天下と囁くのもむべなる哉である。   

 ミナン族にはその黎明期から血縁、即ちチャニアゴ、タンジュン、グチ、シクンバン、シンクアン、ジャンバックの六系統が厳存し、現在に至るも同血縁(スク)での婚姻は禁畏でる。恋に落ちる前にスクの確認が要る。最も望まれる婚姻は従兄妹で、望まれない他種族との結婚はさて措き、異教徒では生涯故郷と家族を捨てる覚悟が要る。
 パダン人は百パ−セントイスラムで外はない。<4>
 どの家系にも双子が多い。インドネシアには稀なA,AB血液型が多い。
 姓名は当然イスラム名でマルガ(家名)はなく、姓名の後に父の名を付ける事がある。
 子女教育は全国有数で、学校授業の外ムガジ宗教塾にも強制的に通学させられる。文筆業や出版、教師が多いのも教育水準が高いのが理由であろう。民族自立、独立の気運は、この都(ブキティンギ)の郊外のコトガダン出身者がリードした。ちょうど維新の萩に似ている。反蘭運動に転化したパドリ戦争でこの村が親蘭だったことから、植民政庁の厚遇を受けて教育が進んだ青年達で、オランダにとっては皮肉な結果だった。

 ミナンの家は際立った美しい様式でも群を抜き、共和国の紙幣にも登場する。
 巨大な柱は上部に開く特殊な構造で、七重の黒いイジョウ草の屋根を支え、家屋は家族そのもので、娘の数だけの独立した居住区がある。何処に住もうと故郷のルマミナンが帰るべき場所で維持される。家屋の崩壊は家族のそれを意味している。
 雲界を抜けて峠を下ると、朝霧霞む視界にルマミナンの壮麗な甍が望見されれば、その様式美からくる威厳で圧倒される程だが、近来高額の維持費から、トタン葺きが多くなったのは惜しまれる。

 マサカンパダン(ミナン料理)は今ではインドネシアを代表する料理だが、パダン人の移住の橋頭堡であり、その濃厚なスパイスの味は全国を制覇した。動物性蛋白質脂肪摂取は全国一、そのせいかパダン人には偉丈夫が多い。<5>
 牛肉ココナツ煮から脳オタック、肺パルパル、腸ウルス、蹄まで一日以上かけて料理し、女性の価値は豊富なスパイス味で決まる程であり、レンダン、パゲ、デンデンなど、それにカリオと呼ぶカレ−料理もある。レストランには数拾の皿が供され、客は食べた皿だけ支払う式である。ジャワ料理より値が張るのは食材の差であろう。
 女性の民族衣裳も大きな特徴があり、ジャワなどのレ−スのブラウスとカインバテイック(蝋結染)ではなく、絹の厚地に金銀の縫い取りのある丈の長いもので、水牛の角を形取ったといわれる被りもの(タンドウック)を被り、美しいインドネシア女性の中でもひときは際立っている。ジャワ人とは異なり、面長な彫りの深い顔つきが多いが、衣装はイスラムに則り身体の線は出さず、男女席を同じゆうせずは徹底しており、会合では夫婦でも別れて座る。招かれても夫人は同席しないから、余計に神秘的に感じる。

 ミナン語はインドネシア語の母語といわれる。文法は同一だが、日常単語や発音は異なる。辞書にMとあるのはミナン語が原語の表示である。AをOと発音し<6>語尾Hの無声音、吃音、破裂音の発声が強い。
 歌詞の訳出ではその環境習慣の違いによる日本語表現困難な箇所も随所にある。

 ミナンパフォ−マンスでインドネシア化されたものが多い。プンチャクシラット(剣舞)タリピリン(皿の踊り)扇の舞など此処を発祥として全国に広がった。パントウン(四行詩)も同様で、現在でも男女の交流にこの詩形式が常用されている。
 音曲では各種の竹笛(就中小さい縦笛)太鼓(nalam,randai,bakaba)は独特の音色で秀逸である。イスラム詠唱も盛んで多くの専門歌手がいる。旧港パリアマン地方にはバイオリンを使う伝承芸能Rababu、Gamadが残る。
 地方歌にもこれらの郷土色が色濃く写しだされているからポップス調でもミナンの歌にはアイデンテイテイイが顕著である。
 毎月新曲が発表されている。メロデイはそこはかとなくアラビックなオリエンタル調が哀愁ある竹笛の細かい抑揚で表現され、それはやはりこの土地の個性豊かなオリジナルである。詩も高度で秀逸 近代ポップスまたはダンドウットは遠く及ばない。女王スカエシ、エリイ・カシム、テイエール・ラモンなどの歌唱力は秀逸である。

♪♪Ba Bendi-bendi♪♪ 馬車を連ねて  ミナン入門曲 
Babendi Bendi   Gumarang  Tiar Ramon
Babendi Bendi kasungai Tanang, Aduhai sayang 馬車を連ねて タナンの河原へ行こうよ、ああ、いい気分
Sinnahlah mamatiek Sinnahalah mamatiek bungo lambaiyuang  ちょっと寄り道して ランバユンの花を摘もうよ
Hati siapo indak kasanang, Aduhai sayang 誰が楽しくないなんて、ああ すてき
Maliek rang mudo maliek rang mudo manari payuang 若い人達を見て 日傘の踊りを踊っている、

♪♪Bungo Parawitan♪♪ ミナン代表曲 結婚式でよく歌われる
Bungo Parawitan パラウイタンの花 NN   Tiar Ramon
Kambanglah bungo parawitan, Simambang riang ditarikan, パラウイタンの花が咲いたよ、
di desa dusun ramah Minang ミナンの村のあの娘も蕾が開いたよ
Kambanglah bungo parawitan, パラウイタンの花が咲いたよ
Bungo idaman gadih gadiah pingitan 花のような乙女は箱入り娘
Dipasuntiang siang malam bungo Kananga, Gadiah nan Jombang 昼も夜も想い悩ますカナンガの花のようなジョンバンの乙女よ
Bungo kambang sumarak anjuang, 咲き誇る花のように気高く美しい、
Pusako Minang ranah Pagaruyuang それはパガルユンからのミナンの宝です
Tak kunjuang hilang dimato, Tabayang bayang rumah nan gadang 何処に行こうが決して忘れない、ミナンの財産です
【Up主の註】
<1> 歴史家のジョルジュセデスの説では都はパレンバンということになってはいるが、物的証拠になる大規模な遺跡が見つかっていない。スリウィジャヤの後の王朝の都であったMuaro Jambiの遺跡は現存しているが、パレンバンでは見つかっていない。ということは、ムシ河の河床変動で呑み込まれてしまった可能性も否定できない。一方、地理的にみてパレンバンでは中国とインドの交易ルートから外れることを指摘している人もいる。詳しくはこちらを。
<2> 例えばMuara Bunggo=花の港。他にもtanjung=岬、pulau=島を冠した地名が多い。河川交通が主体だったためだろう。
<3> 先祖伝来の田畑などの土地はその土地に残った娘が相続するが、一代で作り上げた資産はイスラム法に従って相続することになっている。土地収用の際、現地に不在の債権者が多いので混乱をきたす。
<4> 民族学的に言うと同じ血統の非イスラムもいてミナン語を話すが、ミナン人とは呼ばれていない。彼らは二度のパドリ戦争の後、イスラムに改修せずに伝統的な宗教を保持しており、深い山中に住んでいるとのことである。
<5> この食生活のために、痛風、高血圧、糖尿病患者が多い。
<6> マレー語に似て、語尾のAはOと発音する。
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作成 2018/08/25
追加 2018/08/30

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