慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第3話 一万キロの隔たり、三百年の時 -バタヴィヤからジャカルタへ
 マラリア猖獗のチリウン河口スンダ・クラパ<1>の紅毛ポルトガル人交易所が、1527年6月22日、ファタヒラ率いるパジャジャラン・イスラム軍に打ち破ぶられ、その名を「ジャヤ・カルタ=勝利の町」とした現在のインドネシア共和国の首都ジャカルタは、その四百年余の日々のなかで、スンダクラパ、ジャカトラ、ジャヤカルタ、バタヴィア、ジャカルタと名前を変えるだけの長い変転があった。そうしていまはシンガポール人口より多い移住華人をはじめアラブ人、外領人、外国人など一千万人が六百平方`に住み、超過密に悩みながらも躍動する。
 DKI(Daerah Khusus Ibu Kota Jakarta−母なるジャカルタ特別市)「デーカーイー」が日頃使われるが、いずれ周辺を包含した衛星都市JABODETABEKとして再生するか、インドネシアであってそうでない大きな田舎町Betawiになるかはまだ誰もわからない。

 街の喧騒のなかで幽かな音が聞こえる。車の騒音の中で辻音楽師とも呼べない若者が手製のギターで日々の糧を探し、乳飲み子を背負った女はカスタネット様の竹箆を朦朧と打ちながら手を差し伸べる。
 夕闇迫る頃、ブリキ屋根のミナレットの四方のから、マグリブのアザンが祈りへの喚起をこれでもかのヴォリュームで詠いあげる。アラブだけが持つ耳慣れない音律でも荘厳の気が蔽う。
 ジルバブ(頭蔽い)の女達がブドウックを叩いてイスラム斉唱のカシダハンを賑やかに唄いあわせ、Aneka Musik(各種音あります)の店頭には無数のカセットCDが陳列され、ランガム(歌謡曲)とダンドゥットが負けじの大音響で鳴り響く。
 庶民には無縁の楼閣プラザホテルのロビーでは、お仕着せ衣裳のガムランチームが、眼を見開き、腰を突き出してバリ・ガムランのさわりを舞い、観光外人が物珍しく輪をつくり神々の国に来たのを確認する。メインバーではピアノに和して半世紀前のモナリザをそんな不可思議な視線も加えながら媚びを振りまく。
 多様性での統一Binneka Tunggal Ikaの世界に紛れ込んで、この裾野の広いミュージックフィールドのその幽かな音を訪ねてみたい。

クロンチョン(Kroncong)
 インドネシアを代表する旋律は古典ガムランだろうか、今を時めくダンドゥットだろうか。
 ダンドゥットは世に出てまだ日が浅く粗削りで、たしかにスンダ地歌を彷彿させる音節でも詩も稚拙で発展途上だ。このインド・ムラユ系リズムは独特で日本にはない音律だ。
 ガムランは一層難解で、ちょうど我が国の清元とか長唄のように、然るべき学習が先で、外国人がすぐ飛びついて理解出来るとは思えないし、超難解な言葉のおまけがつく。
 その間隙にエレキ・キーボードのポップス、セリオサ(歌謡)が満開のジャカルタだ。
 日本国居留人の為のFMデイスクジョッキー Gita Indonesiaも首都の流行を忠実に反映してロック調の、南国の優雅さには遠い旋律が殆どだ。

 独立前後の困難な時代に共和国津々浦々に流れ、兵士の士気を鼓舞し街に潤いを与えて建国の原動力になったクロンチョン(コロンチョン)は、半世紀たった今はナツメロに押しやられた感があるが、その旋律の優雅さ上質な詩とともに、南国の情緒を独自のリズムで表現するインドネシアを代表する音楽と申して異をはさむ人はいないだろう。
 竹笛に代わってフルート、鼓弓に持ち変えられたヴァイオリンがイントロに入っても、クロンチョン演奏で変わらないのは、転がるような弾弦楽器クロンチョンで、これがなければクロンチョンとは言わない。この細かい弾弦にのって、腰をきりりと締め上げたバテイックにか細いヒールサンダル、薄物のブラウスにひるがえるスレンダン(肩掛け)、緑の黒髪を金の簪で結い上げた歌姫が、恋の切なさ、別れの辛さ、遥かな恋人を偲んで謡い上げるゆったりとしたメロディー、「けだるく重い南国の夜空に高音の矢を射掛ける」歌唱は一級品、綾を結いあげるようなスウリン(竹笛)のアンサンブルは限りなく聴衆を魅了する。 「もう何もいらない、あなた、、、」

17世紀のヴァタビア
 地理上の発見につぐ大航海時代、覇権と権益を求めるイベリア半島の二国は幻の木の実スパイスナッツを求め、イスパニアは東から太平洋を渡ってフィリピンに、ポルトガルは西周りでアジア航路の中継地であるインドマラバルコーストのゴア、カリカットを経てジャワに来訪する。
 西のチリウン河口の岸辺のスンダクラパに異人たちの交易所が開かれ、その後の大都市ジャカルタ(ジャヤ・カルタ勝利の地)の発祥となってゆく。
 17世紀にはいり、ポルトガルは新興オランダ、イギリスに競り負けてジャワの拠点スンダクラパはオランダの手に落ち、1619年VOC(オランダ東インド社)クーン総督が古民族バターフに因んでその名もジャカトラからバタヴィアと変え、故国の習慣に依ってカナル(運河)が掘られ、胡椒、丁子の交易船が集散し収奪の拠点となる。
 この時期バタヴィアの人口は土地人1,373人支那人2,424人オランダ人1,912、日本人83人奴隷25人その他で8,058人だった。(Memorie van alle D'Mans Persoonen 1632)
 幕府鎖国令で平戸藩は1639年6月16日に、ビセンテ、エゲレスなど混血11名をバタヴィアに追放した。「長崎夜話草・じゃがたら文」のお春15歳(洗礼名ジェロニマ1624〜97)や、総督クーンに雇われた平戸の百姓傭兵もいた。

トゥグ・クロンチョンToegoe Kroncong
 1661年オランダは強権で、各地に住んでいたポルトガル棄人、ムステイーソ(混血)やスラニ(改宗奴隷)などを街の東北の寒村トゥグに集めて最初の23家族を幽閉隔離した。このなかに故国の謡いをよくし、その後クロンチョンと呼ばれる音曲のルーツになるクイーコ家がいた。
彼等は外界と断たれるほどに遠い祖先、帰れぬ故郷へのノスタルジアはかきたてられ、その中でも歌はイメージとして、遠い地と血をひときわ強く結び付けるよすがとして純化していったことであろう。
 キャラベル帆船のラスカル(兵隊、船乗り)たちはチェンブレ・ギターを奏で、地唄のポルトガル・ファドや子守り歌や舟曳き唄などを、彼等のキリスト教的音律に北アフリカ・ムーア人のイスラムのオリエンタル調の旋律も混合しながら、花びらが舞い落ちるように残していった。それこそが伝えられたインドネシアナショナルソング・クロンチョンの芽ばえであった。

 異人が手挟む多弦楽器いわゆるギター、マンドリンはカナリア諸島で生れ、4弦のカバキーニョはスペインから東回りでハワイまで達し、コア材のウクレレになる。
 バンドウリア12弦などはラテン諸国でも見られる。
 同じくポルトガル5弦のチェンブレも、ラスカルが使った携帯に便利な小型ギターで、ウクレレよりひとまわり大きく縦長で、胴の底がセクシイに膨らんだ頑丈な造りで、遥かな海路をジャワに齎され、五種の香木からチュンパカ、カナンガが選ばれて胴と竿を一体に削りだされ、音質がクロンコロンと聞こえたことから、それが楽器の名前となり歌の名を指すようになった。
 ちなみに、ボロブドール遺跡の石版レリーフには、当時のジャワに弦楽器はなく、今のガムランに繋がる木琴、銅鑼、竹笛の類である。列島固有の弾弦楽器は舟型の琴に似たカチャピで、床に置いて弾くものが多い。

 ジャワ固有の芸能は、禁断の王宮で培養されて、極限まで洗練され様式化されてきた。
庶民は南国の長いけだるい夜をワヤン影絵芝居や、操り人形ではないワヤン・オラン(人踊り)、トペン(お面)芝居などで、イスラム前のヒンドウ文化を捨てなかったが、世は芸能を楽しむような時代ではなくなっていた。
 王族同士の権力闘争、それに加担する英・蘭の暗躍でジャワは混乱する。
 十八世紀になると植民は加速され、オランダは街の中央ウエルトウフレーデンに総督府を造り植民地収奪を加速してゆき、1752年西ジャワ・バンテン王国はV.O.C.(オランダ東インド会社)に屈服した。
 住民不在のまま、英国は、ベンクルーヘン<2> をシンガポールと交換してオランダに委譲(1824)し、列島支配はオランダに帰した。
1830年オランダは本国の財政危機改善の為に、史上最悪の強制栽培法で金権農業(コーヒー、砂糖黍、藍)の強制を実施、莫大な利益は欧州の産業革命に貢献するが、ジャワ社会は奇形化しただけでなく、飢饉、大量の餓死者がでてディポヌゴロのジャワ戦争になる。
 オランダは巧妙な収奪経営に専念しただけで、イベリア人植民地のような混合文化を残さなかった。オランダ語も残らなかった。ジャワはラテン諸国のようにはならなかった。
 オランダが残したものは、法律形式と僅かな機械用語程度の少なさだ。

 トゥグ部落で細々と伝えてきたポルトガル文化は、1747年新約聖書のマレー語訳が此処のグレジャ(教会、現存)で初めて試みられた。掘割に浮かぶ小舟の娘がSirih Kuning(シリの黄色い花)を唄い、男達はBintang Surabaya(スラバヤの星)で和したことだろう。
 伝えられた歌は楽しげでも、なぜかもの悲しく、詩には空飛ぶ鳥達を眺め、翼が欲しいと詠うのも運命の定めからなのか。

 トゥグも三百年唄い続けてきたわけではなく、長い間ほとんど部落での交流程度で、楽団は三々五々見よう見まねで結婚式の余興や教会祭事で演奏していたと思うが、時代が変わりヤクブスクイーコがOrkes Kroncong pusaka 1661 Moresco Toegue (家宝クロンチョン1661年モレスコトゥグ楽団)を復活させたのは1935年だといわれる。長男フェルナンドが跡を継ぎ、サムエルの時代になり内紛もあってOrkes Cafrinho Tuguを立ちあげる。サムエルは2006年11月死去、息子Guidが継ぐが彼は街のロックバンド出だったからそのような演奏で伝統が失われたのも止むおえない事情だろう。
 トゥグバンドの特徴はここでは一般的な笛を使わない。バイオリン(チェロも)、クロンチョン3、ギター、ベースと大型片面タンバリン(レバーナ)が加わる。
Bintang Surabaya
Jo pronta foela estrella, bosoter noenka da un tenti?
Foela e strella noenka reposta
Mienja corsan noenka contenti
(クルーニーポルトガル語)
Dimana bulan dimana bintang
dimana tempanya matahari
Dimana pulang dimana tinggal
dimana tempat saya yang cari
Ibarat burung, ibarat burung ingin kuterbang
Buatlah melihat buatlah melihat si jantunghati
Layang layang terbayang masa yang telah lalu
Mengenangkan masa mudaku di Surabaya
Terang bulan Bintang bintang bersinar terang
Hanya satu bintang harapan yang kurindukan
Duhai bintangku bintang harapanku
Sinarkanlah cahayamu dalam jiwaku
花や星たちに、あの人を見なかったかと
尋ねても、彼らは決して答えてはくれない
私の心が晴れることもない

どこに月、どこに星
どこにお日さまは照るの
何処に帰りどこに住む、
それは私が探そう
鳥のように、鳥のように飛んでみたい
そしたら見れる、私のあの人を
想いは乱れて
若き日のスラバヤに翔んでゆく
月の光、千々の星は輝く
望むただひとつの憧れの星
ああ 私の星よ、希望の星よ
あなたの輝きは胸のうちに
♪♪Bintang Surabaya♪♪Orkes Kg. Cafrinho Tugu  Samuel Quiko 素朴でうら悲しい歴史を感じる

 1870年、トウグ村の北にタンジュン・プリオク港が完成するとバタヴィアには多くの外領人、支那人、アラブ、インド人の往来が盛んになり、バタビアは西欧のアジア経営の拠点として遠く日本にまで影響力を持つ植民都市に成長する。
 トウグ・コロンチョンはその狭間で芸で身を立てる土壌が生れて、マイナーな帰属不明の賎民ないし棄民が、食う為に流し芸人、辻遊吟師としてダウンタウンに繰り出していった。バタヴィアは古い因習のジャワに浮かぶ異境ともいえるコロニアルシテイだったから、この耳慣れない芸能も、此処では違和感なく受け入れられたのは想像に難くない。
 クロンチョンに惹かれたのは、この街の移住人や同類のユーラシアン(欧亜混血)達で、月光の下、黒いハットを横被り、首に白いマフラーのいなせなアウトロウの若者ブアヤ・クロンチョン(鰐楽士)がギター片手で街角を流し、流行り唄になってゆく。
 彼等は投げ銭の期待から、見物受けすればなんでもありのリズムを吸収し、それはひとつの節になってゆき、またトウグリズムは旅人たちによって列島各地に運ばれていった。
 当時バタヴィアはまだコタ(ダウンタウン)周辺でしかなく、カナルを挟んで南北に数キロの馬車路が総督府(現在大統領官邸)まで、東西はラワ(湿地)で人は住めず、せいぜいアンケ掘割までで、歩いて動ける範囲だった。
 鉄道時代になって、スタイション・コタ、ガンビール駅が東南郊外のメーステル・コーネリアス(ジャテイネガラ)植民軍基地と繋がり、バタヴィアは湿地に浮かぶ島から脱出する。パサル(市場)チキニ、ロキシ、スネンには人々が群がり喧騒を極めるが、まだ郊外はメンテン、西はチデン(デン川)、東はチピナン刑務所まででしかなく、クマヨランは大蛇の棲む森に一本の馬車路がうねうねと続いていた。

Kroncong Betawi
 バタビアが膨張して演劇や音曲で立つ職人が輩出して、トウグ・クロンチョンは多民族音楽と複合しただけでなく、コタ(ジャカルタ下町の華人街)の大衆芸能コメデイ・スタンブール劇団(1891年)との結合により発展することになる。
 劇団名にもあるように明らかに国際都市イスタンブールを彷彿させるように、西洋混血オーグスト・マヒューと華人ヤップ・ゴアン・タイの、何でもありのエキゾチックで極彩色国籍不明楽団だったが興行的に当たりコメデイ・オペラ、インドラ・バンサワン、ダルダネラ、ミス・リブット(騒々しいお嬢さん)など似たようなどたばた舞台とタンチェンボク、サヌシなどスターが表れ、下卑た掛け合い歌やいわゆるクロンチョン・ブタウイのジャンルが、生まれは卑しくても生っ粋のブタウイっ子のニュアンスで喝采を浴びる。

 時代が大きくうねりはじめた時期で、日本は王政復古(1868)'ご維新'となり、それまでの琵琶、義太夫、俗曲が西洋音楽の移入が始まった。第一号はトンヤレ節「宮さん」だった。音楽取調所(東京芸術大学前身)から最初の中学唱歌集が刊行され、その中に夭逝の天才滝廉太郎の「荒城の月」が載った(1879)。

 クロンチョンを語る時スタンブルT、Uとして表れる形式は、元来この地に昔からあったパントン四行詩(脚韻を踏む)の色が濃く、Tは楽器とヴォーカルが2小節交互に8小節の単純な形式で、ともに16小節のシンプルなメロデイだが、必ず曲名にスタンブルをつけるのが決まりで、この短い即興歌も男女が椰子油ランプに照らされて物語り風に延々と唄いあわせた。メロデイを借用して異なる詩で唄うのは此処のお家芸でもあった。
現存するスタンブルではStb.Jampang、Stb.Jauh Dimata(遠い瞳が恋慕の意となる)など。

Stb.U
Jika begini tuan naga naganya, Aduh Sayang
Kayulah hidup kayulah hidup dimakanlah api,
Jika begini Yaduh tuan, Jika begini tuan rasa rasanya
Aduh sayang, Badanlah hidup, Badanlah hidup terasa mati
'ああ、こんなものよ、木も燃え尽きるし、 わたしも生きてるだけで、死んだもおなじ、'
Moritsko
 コロンチョンの元曲であるMoritsko(混血児またはムーア人の意味といわれるが不明)は、アスリ(オリジナル、オーセンテイック)として28小節で成り立っており、最初装飾的なヴァイオリンかフルートでのイントロがあり、インテンポ8小節で歌は休み間奏スンガカンが2小節入る。それから2小節あり13小節の4拍目から始まり28小節で完結するのを守る。
 トウグモリツコは一般的な笛がなく、レバーナ(大型タンバリン)を使うハイテンポの特徴は、耳慣れたコロンチョンとはむしろ特異に感じるが、メロデイは同一でインドネシアナイズされてポルトガル伝来の陰はみられなくなった。
 舞台演奏が発展しスターシンガーが歌唱力を競うようになると、南国の風情を感じさせるように一層スローテンポになり、スンガカンも技巧的になってゆく。

Moritsko
Jikalau tuan mendengar kan ini 貴方がこれを聴いたら
Haraplah supaya senang dihati どうか心を和ませてください
A,,, oi, memetik gitar sambil menyanyi ああ、 ギター爪弾き 唄いあげて
Membikin pendengar gembira dihati 聞く人が喜ぶように
A,,, oi, Kroncong Moritsko ああ、 コロンチョン モリツコ
Aku dendangkan aduh sayang わたしは唄います、ああいいわ、
Agar hati rindu menjadilah senang 憧れる心を慰めるために、、
 Tugu Moritskoの歌詞はこれとは異なり'翼があれば飛んでゆきたい'と彼等独自の詩で唄う。

 一方バタヴィア下町の華人は人口的にも一大勢力だから、歌謡にも胡弓などを加えた強い中国色がにじみでてくる。掛け合い唄Jali JaliKicir Kicirナンセンス唄Lain Dulu、Lain Sekarang(今は昔)Persi RusakMalu Malu kucing(恥ずかしがり屋の猫)、日常の食べ物SurilangKopi SusuOnde Onde、ガンバン・クロモンと呼ばれるGambang Semarang、Dayung Sampan(漕げよ小舟)など賑やかに唄いあげる。
 宗主国オランダは収奪には熱心だったが、それでもBurung Kakatua(鸚鵡)や外国人の詩とわかるSelamat Tinggal(別れ)Kelap Kelip(漁り火)マレー語と蘭語双方の詩があるBunga Anggrek(蘭の花)De Orchideein、Bulan Purnama(満月)Schoon Ver Van Jou、Mengapa Menagis(なんで泣くの)Waarom Hull Je?などは古いコロンチョンとして残ったが、原作はオランダ人だと感じられる。
Bunga Anggrek
Bunga anggrek melai timbul, aku ingat padamu 蘭の花が綻びはじめると、あなたを想い出します
Waktu kita berkumpul ku duduk disampingmu あの時ふたりは一緒して、私はあなたのそばに座り
Engkau cinta kepadaku Bulan menjadi saksi あなたは私を愛し、死ぬも生きるも共にと
Engkau telah berjanji sehidup semati, 誓ったのはお月様も見ていたのに、、
Kini kau cari yang lain, Lupa dengan janjimu あなたはその約束も忘れて ほかの人を見つけて、
Sudah ada gantinya Kau lupa kepadaku, わたしなど忘れてしまったのです、
Oh, sungguh malang nasibku kini kau telah jauh ああ、私はなんと不幸せ、もうあなたは遠い人、
Kau mengingkari janji Kau pergi tak kembali, あなたは約束をやぶって、帰ってはこない、

De Orchideein
Als de orchideein bloeien、Kom and toch terug by my
Denk steeds aan die schoonste tyden Toen jy zaqt steeds aan myan zy
Als de orchideein bloeien In de velden van voorheen
Kun je my nog eens herinneren Ik voel my nu zoo alleen
Maar je bent nu van een ander Voorby is des romantiek
Kom toch terug by my weder Jouw vergeten kan ik niet
Als de orchideein bloeien Dan denk ik terug aan jau
Denk toch aan die schoonste tyden Toen jy zei ik hou van jou

 1925年ラジオ放送が開始されると、クロンチョンは娯楽の少ない大衆に一気に受け入れられ全国に拡汎して流行の基盤は確立された。
 バンド編成はヴァイオリン、チェロ、ギターにフルートとコロンチョン、ベースやアコーデオン後にハモンドオルガンも入った。チュック、チャックやペンニョとゆう単弦二弦リズム楽器も用いられた。
 モリツコは長くトウグ村に伝えられていたのを発掘してフォーマット化したのがビンタン・スラバヤ楽団のクスビニ(1908~91)といわれ、1930年頃だった。その後楽団にはブンガワン・ソロで有名になったグサン・マルトハルトノ(1918~)が竹笛奏者として加わっている。
 インドネシア民族運動の口火を切る1928年の'青年の誓い'で発表され、その後独立して国歌となるインドネシア・ラヤはコロンチョン奏者スプラットマン作詩作曲になる。
 インドネシアの歌聖イスマイル・マルズキ(1914~58)は、この困難かつ希望に燃える時代に数多くの名曲を世に贈り、足早に去っていった。
1945年インドネシアは四年に及ぶ戦いの後独立を達成した。
 初代大統領スカルノは民族統一の旗印としてコロンチョンを国民歌として奨励し、ライターはこぞって国威掲揚歌や祖国礼賛歌を作った。
共和国援助や戦時賠償金(約九億ドル)で巨大なモニュメント、国際ホテル、ビジネスビルをはじめスマンギ立体橋にアジア大会のスナヤン大競技場が落成し、クバヨラン<3>に高級住宅地が造成された。ジャカルタ銀座ブロクMはクバヨラン区画M地区のことである。

 トウグは代々Quiko家が継いできたが、1935年Jacobus Quiko(1920~78)がOrkes Kroncong Pusaka 1661 Moresco Tuguを1661年コロンチョンの至宝モリツコ・トウグ楽団と誇りを以って復活させ、お決まりの白いマフラーも粋に往年のレパートリーを披露した。そしてFernando Quikoが継ぐ。この頃世界的に歌謡流行が興った頃で、我が国でも多数の有能なライター、シンガーが世にあらわれてゆく。
 現在はSamuel QuikoがOrkes Kroncong Cafrinho Tuguを結成した。
 Kafrinyoとはアフリカ・バンツー系の賎民、アッラーを信じない背信者の意味だが、彼等には楽団名にする何らかの思い入れがあるのだろう。

ランガム(歌謡)
 ブンガワン・ソロをはじめ私たちが親しむクロンチョンの大半が8小節毎32小節をワンコーラスの近代洋風クロンチョン様式と、伝統ジャワ音楽を母体とした王宮ガムランのクロスビートとシンコペーションの交錯で不調和の調和ともいえるランガム・ジャワとが徐々に別れはじめたのは1930年後半だったのではないか。
 ジャワは古典に沿ってオクターブ程のジャンプも平然と唄いこなすが、ランガムは西洋調クロンチョン、アメリカンポップスの32小節が主流になってくる。
 ラジオ放送や義務教育でインドネシア語の普及と、いわゆる流行歌としてのクロンチョンは地方各地に飛び火するように拡汎し、インドネシアブルサトウ(・・はひとつ)思想に貢献した。地方語の佳曲が生れたのも時期を同じくして、コロンチョンビートで地方の伝統で個性ある奏法と歌唱はLagu Daerah(地方歌)と呼ばれている。

 ランガムを決定ずけた早逝の歌聖イスマイル・マルズキは、圧倒的な才能で夥しい傑作を送り出しそのすべてがヒットし、民族歌曲として永遠に歌い継がれる共和国の代え難い財産である。彼の多才は時代に遊離する先進性が感じられ、Juwita Malamなどスイング調を、コロンチョン一色のマーケットで余儀なくリズムを共有したといった一面も感じられ興味が尽きない。
 内戦の血なまぐさい中でも繊細な感受性を失わず、またそれを愛し続けた兵士、大衆の心は、軍歌行進曲一色だった戦中日本との落差を感ぜずにはいられない。
 マルズキのマーチは西欧風なHalo Halo Bandungくらいであるのが興味深い事実だ。
 戦場に赴く若すぎる兵士と、物売り乙女のジョクジャ停車場での一瞬の瞳に宿る輝きを捉えた傑作Sepasang Mata Bola(円らな瞳)、負傷した兵士を包む恋人の肩掛けSelendang Sutra(絹のショール)、英雄墓地で吹奏されるGugur Bunga(献花)などなど。
 ランガムクロンチョンは完成した。
 竹笛奏者グサンもジャワからランガムに転向し、Saputangan(ハンカチ)、Jembatan merah(赤い橋)、Bengawan Solo(ソロ河)で単純な曲想でも土地の人らしい柔らかな心を詠い数曲がヒットしたが、彼はやはりクロンチョンジャワに傑作が多い。
 奇しくも日本軍兵士にブンガワンソロが愛され、突出した知名曲になったが、この一曲でジャワがイメージ化されただけでも彼は名を留めるだろう。
 日本の愛国行進曲や軍歌も強制にしろ多く歌われ、年配者に「湖畔の宿」や「空の神兵」を上手に歌う人がいるのは、この国の人が歌が好きでかつ音感が発達していると感じる。
 従軍看護婦軍歌「愛国の花」を故郷を偲ぶ現地語の替え歌にした日本兵士もでた。
 スカルノは1960年皇太子訪問の折この曲に自身でBunga Sakuraを作詩して歓迎した。
 才能溢れるソングライターが輩出し、それを待つ聴衆、媒体のラジオの普及でアフマド、ネテイ、ワルジナ、イスナルテイ、リバニイ、ラトナ、エニ・クスリニ、ザハラ、イヴォなどが高度な歌唱で登場し、クロンチョン全盛時代を迎え男性歌手は中性化する。
 クロンチョンは肥大化し徐々に大衆から遊離してゆく。もはやチキニ通りで唄いあわせる時代は足早に去っていった。

ポップクロンチョン
 テレビの普及、輸入音楽の洪水、突如として怒涛の流行となったダンドウットに一蹴されたかのようなクロンチョンは、ナツメロの密やかな鑑賞に余命をつないでいるのだろうか。
 トウグ、唸りをあげて通り過ぎる大型コンテナトレーラーの埃を浴びて、歴史を無言で物語る夥しい墓石の奥のガリバー物語のような鄙びて小さいグレジャ教会。
 掘割りも干からびて、乾いた風が吹く。マリアが定番のパサル・ガンビール(市場にて)を唄っても、ワッシュ爺さんのファルセットの声も、エレキの嬌声にかき消される。
 港湾荷役の太い指で弓を取っても、アンプつきの電子楽器の敵にはなるまい。
 希少鳥朱鷺にも劣る厳しい毎日を暮らすトウグの夕暮れ、、。

 ある時期からクロンチョンの歌詞にパンチャシラ(建国五原則)の言葉が表れるようになり、その優雅なフィーリングにそぐわない強制を感じ取ったのは、建国時代の純粋に国を称える詩は、列島の自然の麗しさや故郷を想う切々たる感情の発露であったが、国家権力に主導された歌謡に大衆の支持はない。
 歌謡は揺れ動く男女の心の襞を、心情の吐露としてほとばしるものなのに。
 だから、ことに反応の早い都市の若者達はその閉塞感を嫌って、競って刺激が強く、よりハイテンポな直情的な歌を望んだのだろう。ダンドウットはまさに時代の要求だった。
 コロンチョンにのる詩の舞台が消滅したのは、我が国の艶歌の'耐えて待つ霧の波止場'とか'失恋を酒でまどわし'などの状景が消えたと同時に衰退したのと同じ世情といえよう。
 あれほどの流行をみたタンゴやジャズも今は殆ど演奏されない。時代がリズムを求めそして捨てるのだろうか。

 共和国首都ジャカルタは近隣を吸収してJagotabek首都圏一千万都市を目指す。
 独裁中央集権を強めた共和国は、71年外資開放によって空前のバブルに酔い、素朴な暮しから、虚栄の街ジャカルタに主導されて全国に影響を与える。うたかたの成長期1980年代のジャカルタ、それでも歌唱力のある'銭のとれる'歌手はいた。
 リアント、リント・ハラハップなどのライター、アイドル歌手テイテイックサンドラや、正統派ブルウリイ、トトポリ、ビンボなどがポップス調のヒットソングを発表し、インドネシアの美空ひばりことヘテイ・クス・エンダンがインドネシア歌謡界をリードしてきた。Teringat SelaluWidriCintaSepanjang Jalan Kenangan etc。
 クロンチョンはカシオキイボードによって淘汰されたと穿った見方もあるように、比較的安価かつ容易にグループを組める環境と、新しい海の彼方からの波を吸収しようとする若年層の選択と、陰鬱な独裁権力の日陰に住む大衆は、心の憂さの捨て所として強烈なビートを求めてロックやダンドウットに走ったといえるだろう。
 初期のダンドウットは野卑な直情さからインテリ層に敬遠されて、教養のない好みとされた。確かに下層階級から野火のように広がったのは僅かに70年代のことであった。
 いまでは全国津々浦々でダンドウット、カセット売り場の九割を占めるが、耳を澄ますと初期のクロンチョンの節回し、拡汎とよく似ているのに気ずくだろう。
 真似の出来ない小節の転がしや飛び上がる音程はこの地だけのオリジナルで、西ジャワ・スンダは無形芸術の宝庫だけあって、地歌ジャイボンやジョゲッを土台にし、イスラム・カシダハン斉唱も取り入れて、ブドウック(太鼓)スウリン(竹笛)とエレキは、逃れられないこの地に根付いたイスラム・オリエンタル調の抑揚、ヨナ(47)抜き5音階のアジア独自の所有になるニューミュージックとは言えまいか。
 ダンドウットを毛嫌いするいわゆる教養人も、上質といわれるクロンチョンも、始りは唄うことしか出来なかった賎民の鬱憤のはけ口だったのを認めれば、日を重ねるほどにオリジナルを失わないで洗練された独自の国民歌謡ダンドウットに発展するのは間違いないだろう。
 ポップス界もクロンチョンビートに載せられるAku Jatuh CintaKemesraanなどがヒットしたのは、違う形でクロンチョンが生まれ変わる過渡期なのだろう。

 椰子油ランプの下、細かい弾弦にのせて物憂い南国の夜空に高音の矢を射掛ける歌姫。
 ミラーボール輝く下、強烈なエレキビートに汗を散らして挑むダンドウットシンガー。
 タシクマラヤの選抜コンクールに、ベチャ輪タクを乗り継いで未来に賭ける農夫の娘。
 みなルーツは同じ列島の民なのだ。クロンチョンは永遠なり。
(参照:土屋健治 コーンハウザー 中村とうよう M.Quiko他 記入曲はテープに保存してあります)

{付記}
◆ 物好きが嵩じて、コロンチョンを復元しようとサミュエル氏とポンドック・コピのスルハン職人に依頼した。出来あがったものが四弦だったので、余所者のくせに「コロンチョンは五弦でなければ」と異議を唱えた。マイスター・スルハン悠揚迫らず「あっ、そう」と面前で錐を使って、たちどころにアスリのように一本弦を足してにっこり微笑んだ。 (現今のコロンチョンには四弦が多く使われる)
ことほど左様にこの土地は変転自在、拘らないとゆうのか、作曲者も謂れも、歌詞も確定出来ないことが多い。

◆ 元曲モリツコはインドネシア風に変貌して誕生の面影は見出されないで、これまでそのルーツを確かめることが出来なかったが、偶然の機会でTuguのSamuel Quikoが即興で唄った先祖からのOld Portugis Songは、まさしくポルトガルの地歌でかつモリツコだった。やはりこれが長い旅路の出発だったのだ。
◆ インドネシアの国民歌といわれる作者不明の数多くの曲たとえばAyo Mama、Ca Ca Mari Caなどアンボン系は、その植民の歴史からもNina Bobo(おねんねニーナ)とともにポルトガル渡来メロデーではないだろうか。

【Up主の註】
<1> Sunda Kelapa = 椰子の島
<2> 現在のスマトラ島のブンクル Bengkulu
<3> 原稿では「クマヨラン」となっていたが、文脈からするとクバヨランの誤り。Blok MのあるKebayoran Baruは1949年から開発が始まったもので、その前はゴム林であった。さらにその前はbayurの林であったことが名前から想起される。Kemayoranはジャカルタ市の北の海岸近くの地名でそこにあった空港は廃止された。
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作成 2018/08/24
修正 2018/08/25
追加 2018/08/30

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