慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第2話 歌謡概史
 インドネシアは世界有数のミュージックフィールドと云われている。
 広大な島嶼に無数の独自のリズムと楽器と歌い手が折り重なるかのように生きているのはこの地の地理的条件による所が大きい。
 狭いマラッカ海峡は古来から途切れず続く東西文化のクロスロードで、それは数千キロに渉って連なる大列島に多くの痕跡を残し、かつ島々は歴史を証人として大きな影響を受け島々はそれぞれの文化を育んでいった経緯による。

 大きく分けて先ずインド文明がこの地を洗った。現在に至るもインドネシア(インドに連なる島々)と呼ぶようにその影響は最も大きくこの地の底流になっている。
 古典と呼ばれるガムランは世界最大仏教遺跡のボロブドール建立前後にヴェトナムにあったチャンパから齎されたのか歌舞音曲は酷似している。
 鄭和海将の到来だけでなく中国の影響は近世に至る間に何回も激しくこの地に及び今以て大きな影響力を持っている。移住華人数は世界最多である。
 イスラム教は、人は神の前で平等を説き、繁栄する中東文明が波のうねりのように覆う時代が到来して瞬く間にこの島々を染めていった。毎日大音響で周囲に響くアザン(祈りへの喚起)の音節は我々には未知だが日常の音曲に染み渡っている。。
 16世紀の大航海時代の目的地が他ならぬ香料諸島の発見と制覇で、図らずもその木の実がこの地にありポルトガルからオランダの干渉を受ける。当然文化にも影響を及ぼした。
 これらの大波に遭遇するたびに音曲は砂に水が沁みるようにして残されて、それは重層し影響しあいながら独自の発展を遂げていった。海峡は島々の個性を際立たせて地方のリズムを特徴づけてゆく。
 独立後半世紀、共和国はマレー・インドネシア語を国語と定めたがまだ日は浅く、大列島は450以上の言語が用いられているという。中には文法が全く異なる言語も多い。彼等はバイリンガルの暮らしをしているといって過言ではない。当然地方曲はその地の言葉で作られ発音も意味も異なる。

 インドネシア歌謡は具体的にどのような系統があり今日の姿になっていったのだろう。
 歌謡は歴史に忠実だからこの国の辿った数奇ともいえる過去を反映している。異なる文化がいつも突然この地に訪れる。そしてそれは重層し新しい姿として現われる。この連続だった。
 この地は基本的には豊穣の地だ。新文化を排他することなく先ず取り入れ(ナリモ)徐々に自分流に変えてゆく心情は奥深く、彼等の唄にもそれが潜んでいるかのようだ。

古典ガムラン系:
 ヒンドウ仏教のモジョパヒト時代に洗練されて完成されたジャワ、バリの音曲、スンダデイグンなどである。銅鑼や鐘などの打楽器が主で、バリは独特の進化をして新進ミュージシャンとのコラボで新境地を開く。

イスラム系:
 本来歌舞音曲に冷淡な宗教だがこの異質な近東のリズムは色濃くこの地に沁みてアラブ調のリズムは根強く、カシーダ、ミンバルなど地方音曲を支配するといっていい。

インド系:
 巨大文明インドの影響は至近のスマトラから淘浸してひとつのジャンルとしてその経路からマレー半島から渡来したムラユ音楽で二連太鼓タブラは必須のID、今を時めくダンドゥットはムラユビートの支流である。

ポルトガル系:
 帆船団はスパイスアイランドのチモールから東方諸島に痕跡を残し、この音楽好きなイベリア人の西洋リズムは当時の都スラバヤ、バタヴィアに至り近代音楽の萌芽になってゆく。最古のポップミュージックの源流は確定されているバタヴィア・トゥグ村のクロンチョンでこの洋風の音曲は共和国独立前後に一世を風靡した。

オランダ系:
 収奪以外この宗主国は文化を残さなかったがバタヴィアなど本拠地にはその影響は皆無ではない。フォートレスから流れ出るオランダメロディーはその後マレー語に訳されて街の歌にもなった。

中国系:
 主として都市の移住華人が持ち込んだリズムは世界最大人口の華僑が育てた。中国リズムは下町で栄えかつガムランにも影響するほど根強い。

固有のリズム:
 ひと口にインドネシアの音楽と申しても裾野は広大でひと口に表せない。イスラム地方と北スマトラ、北スラウエシのキリスト教地域とは発想も習慣も全く異なるし最東端パプア・イリアンはまだ暗黒で数百以上の言葉、人口すら不明だ。イリアン曲も売られているがみなアンボン人などでオーセンテイックではない。

 我々にも馴染みの洋風リズムはどうしてもキリスト教圏から興ったのは賛美歌など日常にリズムが淘浸していたからだろう。歌謡界をリードしたのが北スマトラとアンボンの歌い手だった。
 竹笛ひとつとっても、スンダとバタック、ミナンでは最初のひと吹きで出生が明瞭に判る個性がある。その固有のリズムに外来文化が影響し地方曲独自の個性を醸し出す。

Angklung 楽器
 楽器にも特徴がある。そもそもイリアン未開民にはメロディーは持ち合わさずリズム(太鼓)だけなのは古ハワイのマウイ人にもみられる。
 この国の最大の特徴がアジアを代表する各種の竹を用いた楽器で西洋にはないものだ。
 笛から打楽器、巨大な木、竹琴は幅数米のものがある。アンクロン は音階毎に奏者が定められ数十人が演奏する。東洋独自の竹があらゆる処に使われ竹笛が最も多彩で興味は尽きない。縦、横様々で独自の音階を守っている地方もある。ペロック、スレンドロ<1> と分けるが奏者個々に微妙な振れがあり外来人の理解は不可能だ。笛は各地方で独特の奏法があり、歌謡曲で著名なバタック、ミナン、スンダのスウリン(竹笛)は個性が強く秀逸でひと吹きで場所が特定出来る。
金属楽器:
銅鑼はガムランに多用されて大小各種のゴンはテレビなどで既にお馴染みだろう。
 金属楽器は近来歌謡にはあまり使われない。
 
弦楽器:
 カチャピと呼ばれるが地方毎、形状で呼称は様々だ。船形琴状のものが多いがギター式では一弦から多弦、シタール,ガンブスも使われる。
 クロンチョンギターはポルトガルチェンブレ五弦の模倣で1950年代にハワイアンが大流行しウクレレが用いられたことから四弦が主流になった。(ウクレレはブラキーニャである)
 バイオリンも多くラバブとも呼ばれる。胡弓も用いられ中国調には欠かせない。


打楽器:
 太鼓は各地方に独自のものが多い。インドタブラはムラユ音楽に必須だ。背丈程の巨大なものや東のタニンバルの細長い小太鼓は片手で打ち会話が出来る通信手段でも用いられるといわれる。 カスタネット、片面タンバリンも用いられる。

ブラス:
 真鍮吹奏楽器はイスパニア軍楽隊の遺物を大小円錐形を繋げる自作品を鳴らす地方がある程度で、実演にはサックスを使うことがあるが珍しい。フルートはクロンチョン必須の楽器になった。
アコーデオン(手風琴)はいつからかムラユに参加して主役を演じる時がある。

 これらのリズムは海峡に隔てられた島々で独自の発展を遂げ、時間の経過とともに融合しあっていったがまだあくまで地域的だったが、ラジオ放送開始(1925年)頃から大衆音楽として共通のリズムが生まれていった。

クロンチョン(Kroncong)の芽生えと盛衰
 主導したのはやはり大都市バタヴィア(ジャカルタ)、スラバヤの流行歌で、それはジャワの音節とはいささか異なる喧騒の下町の芝居小屋の幕間に流されたバタ臭い弦音で、クロンコロンと聞こえたのでクロンチョンと呼ばれて人気がでたのに始まる。
 1661年オランダが主権を取り旧ポルトガル人、改宗スラニ、棄民マイデイケル人などをバタヴィア北部のトゥグ村に隔離幽閉した。この中に歌を良くするQuiko一家がいた。彼等は帰りたい故郷を偲び身の不幸を嘆きながら彼等の唄で慰めながら決して捨てることなく何代にも渉って続けた。
 ポルトガル5弦チェンブレギターをジャワ産のカナンガの木で自作しその音からKroncongと呼んだ。

 スエズ運河が開通、1886年バタヴィア北部タンジュンプリウクに新港が建設されると、下町コタは多くの外領人や渡来商人で発展し、ヒブラン(娯楽)を求める小屋掛け芝居や見世物小屋ができ
 トゥグの楽師にも日銭を稼ぐ場が出来た。周囲とは一味違うセンチメンタルリズムのいなせで、ややヤバい「ブワヤクロンチョン(鰐楽師)」と呼ばれ人気がでた。世界最古のポップミュージックの発祥だ。白シャツに黒ベレー、マフラー姿は400年たった今でも変わらないユニフォームだ。
 コメデイスタンブール劇団がマヒューとヤップで1891年に結成され国籍不明の何でもありの混血ムステイーソ演芸に人気がでてインドラバンサワン、ダルダネラ、ビンタンスラバヤなどが加わり人気がでた。最古の曲といわれるKg.Moritskoは遥かに古いポルトガルファドが元曲で、後にスラバヤのクスビニが編曲しマレー語詩を振ってインドネシア国民音楽クロンチョンの元祖に成長した。
 オランダ曲にマレー語詩を振ったMalam Hari (Schoon ver van jou), mengapa kau menangis (Waroon huil je?) などは今も歌われている。

 クロンチョン初期はバタヴィア地唄の短小節を繰り返す辻芸人の掛け合い唄Kg.Stambulで、メロディーが決まっていて即興詩を繰り返すStb.Tと新作曲をStb. Uと区別していた。
 Stb.Jampang、Stb.PusakaなどはTで、Uがその後のKg. Langgam(歌謡曲)になっていったのだろう。初期のレコードも僅かに残るが歌姫は金切り声を出さないと録音出来なかったようだ。
 MissToe, Miss Riboet(姦し娘)などが一世を風靡し、流行とともに素晴らしい男女歌手が輩出する。細かい断弦に乗って、けだるい南国の夜空に高音の矢を射かけるような歌姫、「もうなにもいらない、あなた、、、。」インドネシアだけのクロンチョンに魅入られた外国人は多いだろう。
バタビア、スラバヤの旅芝居サンディワラが地方を回って音舞を広めた。
 いずれにしてもクロンチョンが共和国に与えた影響は非常に大きく、奇しくもインドネシア独立の時代と符号するかのように民族統一に貢献した。


 インドネシアを象徴する名曲Bengawan Soloは1930年Gesang Martohartonoが作曲し、稀代の天才Ismail Marzukiがそれまで18小節の小品が多いクロンチョンを32小節洋風歌謡として完成させ数々の名曲を世に送り独立戦争の士気を鼓舞した。Sepasang mata bola, Selendang Sutraは不滅の金字塔である。独立戦争最中でもインドネシアには戦意を鼓舞する軍歌が一曲もなくメランコリックな曲なのも特筆すべきだ。
 初代大統領のスカルノは音楽好き、長男はミュージシャンになった。クロンチョンを国民音楽と奨励したので爆発的に流行し黄金時代を築く。
 現大統領のユドヨノは本格的で数々の楽曲をリリースしている。この国の人は確かに歌好きだ。
 北スマトラのミュージシャンGordon Tobingが地方曲を発掘し、インドネシアフォークソングとして紹介した。Ayo mama, Nona manis, Ca ca mari ca,などは国民歌になる。
 これらの曲は東のアンボン、チモールの曲で、長い殖民からメロディーは宗主国のものだったのだろう。これらの西洋調の曲が従来の地方地唄とは掛け離れた調子だからである。

 クロンチョンもタンゴやシャンソンと同じく下級階層から生まれ育った。
 バイオリン、クロンチョン、ベース、ギターの小編成のサロンミュージックはフルートやハモンドオルガンも加わり派手な大編成のステージ音楽に変わってゆき、60年代にはクロンチョンからセリオサ、ノスタルギアというジャンルがR. Rianto, Rinto Harahapなど西洋風歌謡曲(Langam)が主流になってゆく。ブルウリイ、ビンボ、ヘティクスエンダン など名歌手がでる。
Broery, Trio Bimbo, Hetty Koes Endang
 70年代になるとクロンチョンは国威掲揚歌が多くなり、大衆に飽きられる運命となる。才能のあるライターが出なかったのも原因ではないか。
 折りしもムラユリズムから派生してタブラ太鼓をドラムとエレキギターに変えてビートの効いたプロテストソングを歌うロマイラマ が現われ、ダンと打ってドットと応えるDangdutが取って代わり圧倒的に支持され列島はダンドゥット一色に塗り潰されたかのようだ。この洪水はこの地が本来インドムラユ系の血が強い証明ではないか。洋風歌謡の底辺で出番を待って爆発した印象がある。
 最後のクロンチョンはAku Jatuh Cintaだと思っている
 Roma Iramaの代表作はこちら。歯磨きのコマーシャルに使われた有名なSakit Gigi
原著の挿入歌 ♪Air Laut by Orkes Cafrinho Tugu
イラマ・ムラユ ムラユ芸能
 ムラユリズムから派生したダンドゥットはいまやクロンチョンを凌駕して国民歌になり列島隅々まで塗り潰した。我々にはやや異質なリズムで習得はむずかしいだろう。
 インド系のムラユ音楽はマレー半島で咲き、素朴なアコーデイオンとバイオリンが独特の抑揚のある謡いを広めた。インドタブラ二連太鼓(調律可)が必須でマラッカ海峡を南下していった。
 古曲では両岸で歌われているMakan sirih, Halimun malam, Biduan malamがある。
 近年シンガポールがニューリズムの拠点になると、新進ミュージシャンがカリマンタン土俗リズムを発掘してムラユに載せたり新境地を開く。例はZapin。
 我々の耳には入り難いが庶民階層では昔からヨーロッパ音楽よりムラユに人気があり、歌い手Benyaminは英雄だ。

華人系
 移住華人は波のうねりのようにこの地に到来して世界最多人口を持ち経済を牛耳っているが、下層にうごめく人々も多い。何代にもわたってこの地で辛酸をなめながら主として大都市周辺で暮らしてきた。首都近在のタンゲランやクラワン<2>には胡弓を持つ楽人がいる。音律も自然にジャカルタの曲に入り込んでいるのを感じる。例はDayung sampan

オランダ曲
 300年の植民地支配をしたオランダだったが実際は重商主義が長く領地領民支配は短かったし、元来オランダは文化転化には消極的だったせいか音楽など文化の影響は少なかった。
 しかしバタビアなど中央では居留人も多くその痕跡が認められる。
 国民歌謡の殆どがBurung kakaktuaKg.Kemayoranなどオランダ調洋風曲だ。
 最古のポップソングといわれるBunga Anggerekはメダンの居留学生が作ったといい歌詞は蘭語だった。トラデイッショナルソングのSelamat Tinggal(さようなら)もその歌詞の幼稚さから居留青年の歌だと想像されるしKelap Kelipもバタビア港で別れをおしむ居留外人の色が濃い。
 西スマトラのミナンを代表するTakana jo kampuan故郷を偲ぶはOslan H作曲となっているが、当時ブキッテインギにあったフォートデコック砦から流れる歌を借用したと古老は言っていた。



スンダとジャワ
 ジャワ島の二大雄族で共和国の人口の半分以上を占めるからその歴史政治文化の他族に与える影響は大きい。ジャワ島が世界最多の人口密度なのは多くの火山が噴出した沃土と多雨が齎したといえよう。重厚な歴史が音楽に与えた影響は大きくリズムの宝庫といえよう。
 ジャワはクジャウエンといって、すべてを取り込みそしてジャワナイズしてしまうようで、クロンチョンも然り、バタビアで生まれたリズムはジャワ化してチャンプル・サリと呼ぶ姿に変わる。
 インドネシア歌謡界代表WaljinahやSukaesihを輩出し揺るがぬ地位を護っている。
 隣接する西ジャワスンダは、風俗は同じようでも言葉、習慣は異なり明瞭な区別がある。スンダ低地に首都ジャカルタが生まれたが、ジャワ人は、中心はスンダではなくジャワと思っている。古代遺跡もジャワに集中しスンダにはないからだ。その故かスンダの無形文化(音楽)は突出している。
 時代を変えたダンドゥットはスンダ低地クラワンで興ったのもこの地方の地唄ジャイポンに依るし、いつもニューリズムが生まれるのがスンダなのだ。
 スンダ音楽は一日の長があり、ジャワガムランもここではデグンと呼び大きく異なる。一時衰退したかにみえたが庶民底辺で根強く生き延び近来再興し以前にも増して何処にも真似の出来ない旋律を持っていてスウリン(竹笛)の一声でスンダと判る特徴がある。音階もスンダ独自で他郷では真似られない。仕事を終わった各層の人が三々五々陋屋に集いいつ始まるかも定かでないうち、リードとともに秀逸なスンダの調べがはじまるのは悦楽だ。難解なスンダ発音で歌い上げる哀愁はアラムスンダ(スンダ世界)だ。ミュージックフィールドでは断然他を凌駕する実力があり歌謡界をリードする。スンダの美空ひばりことHetty Koes Endangはなんでもござれの最高シンガーだ。


北スマトラ タパヌリバタック
 未開山岳民バタック族が遅れてキリスト布教されたのは社会文化を持ちながら食人習慣を捨てなかった稀有の集団だったが持ち前の協調性で独立戦争では多くの勇猛な将軍を輩出し、アクティブな性質は共和国に優秀な人材を供給している。
 キリスト教以前にも此処には独自の音楽土壌があり今も保持されている。キリスト教布教団は当然海岸のシボルガから山岳地帯を目指したからこの付近Tapanuliが洋楽の基点になり近世多くのミュージシャンを輩出した。元来音楽素質があり土台もあったから洋風音楽の吸収は共和国一のリズムの宝庫に成長した。アンボンが東の横綱ならタパヌリは西の横綱であろう。
 特にハーモニックに優れ、天性の歌唱力のトリオは群を抜き多くのコンテストが中央進出を狙う若者の舞台になっている。共和国になってS.Dis, N.SutemorangがSing Sing So, Anju Ahu, Aleinangなどなど名曲をそれに続くRinto Harahapなどが業界に君臨する。名歌手は数知れない。
 特徴のある竹笛のイントロではじまる西洋調の歌唱はカンツオーネも逃げ出すほど秀逸だ。


スマトラ ミナンカバウ
 バタックの陰に隠れるようだがここミナンカバウはイスラム調歌謡では雄族で素晴らしい笛、ララブと呼ぶバイオリンは海岸地方そしてイスラム・ミンバルと出自が全く異なる音律が同じ地に共存している。勿論ポップにも美しい地方語で盛んなのはこの種族の言葉がマレーインドネシア語の始祖であるからかもしれない。Merantau(移住、出稼ぎ)が多いから望郷や母を恋う歌が多い。

スラウエシ マカッサル ミナハサ
 一般的に知名度は低いがアギン・マミリ (そよ風)<3>は共和国愛唱歌に出世した。
 いまはキイボードに席巻されたが南のマカッサルブギス族にはLosquineと呼ぶ哀愁ある弦楽器だけの演奏があり一時クロンチョン・マカッサルと呼ばれた。
 カチャピ・ブギスは村々を回り噂話を歌に託して売薬する吟遊詩人、
 北のミナハサ地方は女性的な竹琴コリンタンが有名だ。

バリの東
 西方の大列島と区別してバリの東に連なる島々をレッサースンダと呼ぶ。この地方は島により全く異なる民情で興味が尽きない。スンバ、スンバワ、フローレスなどなど。人口希薄で言語も複雑。どんな音曲があるか未知数だ。

チモール
 共和国歌謡曲の大きな部分がチモールの影響を受けているのは宗主国ポルトガルの残影が強いからではないか。最古の曲といわれるララバイ佳曲Nina bobo(おやすみニナ)が光る。

現在
 1997年スハルトが失墜してから大統領が四人も代った2000年期、街は経済危機を克服して地道に年6%の成長をしている。虚飾のショッピングモールが乱立しノンクロン(ぶらつき)の若者が。
 クロンチョンがモダーンポップスのセリオサ、ノスタルギアに替わって40年、庶民がダンドゥットを選んで30年、インドネシア歌謡界はどうなっていったのだろう。
 独裁が終わりインドネシアは多くの外国音楽が流入して主にアメリカンビート、ロック、レゲエなどが物珍しさも加わり大音響で街を蔽った。
安価なキイボードは若者のバンド編成に火をつけ、何処もかしこもロック、音の洪水になった。テレビの普及は島嶼間の格差を埋めて首都の流行が即地方に伝えられた。
 クロンチョンから洋風歌謡曲のセリオサに移行しブルウリイ、ビンボー、ヘティクスエンダンなど名歌手が音楽界をリードし、一時インテリ層とダンドゥットの下層と分かれた時期もあった。その間を縫ってイスラム色の強いNasidが隠然と場所を得たようにもみえた。

 これでもかのアンプの暴音、人気歌手には万余の客が嬌声をあげる。侘しさ、哀愁のエレジーは辻から消え、手製カスタネットを片手の寡婦がバスの中で物乞いするだけに変わってしまった。
 歌い手も歌も一夜漬け、使い捨て時代になったといっても過言ではない乱立が続く。

インドネシアポップの問題点
 メロディーは底辺の広さも加わってすばらしい。しかし詩がなんともお粗末なのだ。
 語学力のせいでもない。そもそもこの国に夜の酒場はないに等しいイスラム圏であり男女交際も厳しいから日本で題材になる酒場の歌、不倫、成さぬ恋歌などは法度で歌われない。
 歌詞は恋の歌と失恋、故郷を偲ぶ歌、母を恋う歌、故郷賛歌に限られてくる。
 インドネシア語がどうも繊細微妙な表現力に乏しいのは、気候の影響があるのではないか。年中同じ気温と時間、雨もスコールで味気なく詩情に乏しい。

PGD: 1964年Rudy Pirgadie (原稿ではEdy Prngadies准将となっていた)が私財を投じて最高歌手を糾合しOrkes Tetap SegarをバックにKroncong Beatと名づけてリリースした20枚のLPレコードは完成度の高さから好事家垂涎の盤である

【Up主の註】
<1> ガメランの短調と長調
<2> Tangerangはジャカルタの西側でスカルノハッタ空港がある。Karawangはジャカルタの東側の地域。
<3> Angin Mamiri
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作成 2018/08/23
修正 2018/08/25
追加 2018/08/30

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