慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第1話 歌の故郷
サバン サンパイ メラウケ (From Sabang to Merauke)
 インドネシア列島国家をあらわす時、その西端のインド洋に突き出した小島町サバンから、東のパプア・イリアン国境のメラウケまでと使われます。
赤道直下に広がる東西五千`南北二千`の大島嶼群は、アジアとオーストラリアに跨る長大な回廊で、地図を重ねればアメリカ大陸を横断してバーミューダに、イギリスからギリシャに達するほどです。
 世界一の島はグリーンランドといわれますがが、そこは大部分が極北の不毛地帯で生物には不適な環境。赤道の多雨林が広がるインドネシアは全域が圧倒的な好環境で、この地域には第二位のイリアン、第三位カリマンタン、第六位スマトラ、九位スラウエシ、十一位ジャワを擁して、その島の数一万数千、日本本州はわずかに第七位に顔をだす程度ですから、我々が想像しているより遥かに巨大な国であるのがわかるでしょう。
雪を頂く高峰からトロピカルレインフォレスト、珊瑚礁、マングローブスワンプ、乾燥サヴァンナ、火山、大河、都市、村、300種族以上一億八千万人が暮らしています。
 その意味合いから申せば、近頃観光で喧伝されるバリは、インドネシアにとっては芥子粒の小島(全土の0.3%)に過ぎないのです。
♪♪Air Laut 「海」 演奏Orkes Cafrinho Kg.Toegoe♪♪  けだるいジャワの海を表現して秀逸 古典

インドネシア
 インドネシア共和国は、独立前は東インド、蘭領インドと呼ばれていましたが、それは宗主国側からの呼称で、住民は列島全域に及ぶ意識はなく、あくまで種族地域を示すジャワ、アチェ、ブギスの国で、それが現在まで強く残っているのは、インドネシアはひとつとして民族自立、独立から半世紀たらずの歴史だからだからでしょうか。

 インドネシアとは、インドに島を意味するギリシャ語ネーソスの複数形をつけた造語で、1850年イギリス人JRローガンの論文に初めて使われた学術用語でしたが、1920年にはいり民族運動が勃興し、青年の誓い(1928年十月)で地域を包含した多様性での統一を宣言し、イーストインデイ(オランダ領東インド)に代わる語として用いられるようになりました。
 マレイシア、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアなどは人種言語系からも同一文化圏に属します。
 多民族・多言語の広大な大列島を'Binneka Tunggal Ika多様性での統一'の旗印のもとで、ひとつに纏め上げる壮大な挑戦が続けられているのです。

 ヌサンタラはサンスクリット語で'島々の間 Nusa Antara'ジャワ島とその周辺を指し、独立前後新しい呼称を好かない人達が使いましたが、いまはインドネシアを表す雅語で定着しています。
 Insulindoとも呼ばれますが一般的ではありません。

 熱帯雨林は動植物の発生から進化の源泉ですから、高温多雨、火山の恩恵を受けた豊穣は人類の一方の起源として、遥かな太古からサフル大陸を発した人々は、この回廊を西から東に旅を続けながら、それぞれの文化を築く人類の営みが続きました。一万数千年前最終氷河期の海面上昇でスンダランドが水没しリアウ、ジャワ海となり、そこに住む人々の大移動が起こって北は琉球から日本へ、東はソロモン群島を南太平洋の島々に散っていったと謂われます。
 そうして歴史の幕開けにインド仏教が、ヒンドウが渡来し、支那大陸の影響がしばらく続き、中世、アラブ商人が模範となって、列島は野火のようにイスラム教に帰依しました。
 世界でもっとも穏やかな人々といわれたのも、争う必要のない恵まれた自然の恩恵だったのでしょうが、それが災いしたのか、欧亜を結ぶ拠点の地の利から列強の餌食となる近代史がこの地を襲いました。
 人類史の大きなエポックである'地理上の発見'大航海時代はとりもなおさずスパイス香料を探す旅で、それまで秘して語られなかった丁字、沈香の実がこの国で自生している噂を頼りの探検で、結果的にマジェラン隊が人類最初の地球一周航海者となったのです。
 インドネシアはその意味からも人類史に重大な意味のある地域なのです。
 強権と組織立ったキリスト布教は現在も続いていますが、特定地区での影響力は大きいけれど、さながら水に浮かぶ油のように限られた地域でしかありません。
 こうして列島は特異な重層文化が万華境のように花開きながらも、決して固有の姿を失うことなく、巧みに融合させ調和させる力は、まず柔らかく受け入れて硬直せずに柔軟に時間をかけながら、己の求める姿にしてしまう懐ろの深さに驚きます。
 ラテン諸国などには決してみられない民族の大きさといえるでしょう。

 現代の一点収斂志向は、この列島国家もその例にいもれず首都ジャカルタが政治経済の九割を掌握して地方への影響力を強めています。
芸能も流行も発達したメデイアを通して地方の隅々まで淘浸し、急速に画一的に変貌して、地方色は日増しに薄れてゆきます。特色ある地方芸能の消滅するのを怖れます。
 観光資源として、バリのように汚染されながらも生き残れるのでしょうか。


Lagu Daerah (地方曲)
 地方語で歌われるその地の特色あるリズムを持つ歌曲の総称と捉えます。
 無形文化である歌謡には、住民の意識になくても、列島の島々が辿った独自の長い歴史が滲み出て、同じコンセンサスに立ってのリズムであっても、耳を澄ませて聴けば、島により地方により明瞭な特徴が表れて興味が尽きません。
 四百もあるといわれる地方語で唄われるこれらの歌謡は、異邦人には言葉の持つ背景も含めて難度は高いけれど、メロデイは万人共通の感情の発露であるし、歌は貧富の暮らしとは関係なく存在してシンプルでも、名曲は数知れず唄い継がれて地方の特色を色濃く反映しています。
大袈裟に申せば、それらを訪ね歩く知的満足は計り知れません。

 地方語で唄われる歌は民謡の範疇に入ると思われがちですが、我が国の民謡とは異なり、地方都市にそれぞれ確固とした基盤があり、中央のリズムに影響されても独自性の強い新曲(地方語)が発表され、その地方でのスターが存在し、こういった背景から、中央に進出し国民的スターに成長する歌手もでるのです。
 地方のヒット曲には当然その地方独自のリズムが脈々と流れているのは言を俟ちません。

 民謡の定義では我が国では唯一知られるガムランなどを指すのでしょうが、このジャンルにもヒンドウ・ガムランだけでなくイスラム・ミンバルなど我々には理解不能な物語的吟詠が色濃く、その地に生れ育たなければ異邦人には入り込めないでしょう。

 明治12年(1979)に文部省に音楽取調掛(現東京芸術大学)が設立され、洋式音楽が導入され最初の唱歌集が生れ、それにあわせるように後世に名を残す名作詩・作曲家が輩出し輸入曲も加わり、わが国の音楽土壌が大きく変化しました。私達も当然その流れの中に存在していますから、そのような曲想に惹かれます。
 インドネシアは東西世界の要石で、文化交流の歴史は日本の比ではありません。
 残念ながら、実利収奪しか念頭になかった長いオランダの圧政で、無形文化は消滅したかに見えますが、面や線ではなくても点として生き続けています。
 そんな大それた解釈なぞ必要もない風土と歴史を感じさせ、心の琴線に触れる名曲に出会えればそれで充分なのです。

 アメリカンロックやビートが街に氾濫し、スンダ地唄ダンドウット<1>が異常繁殖しながらテレビ・ラジオで列島に拡汎してゆくご時勢でも、独立前後の厳しい時代を生き抜いた地方曲は死なない。村の辻で旅芸人が奏でる人生の哀愁が心を打ちます。
 これらのラグ・ダエラの知名曲は、Lagu Indonesia 2000の約半数(50曲)を占める。
 スンダの哀愁、ジャワの洗練、バタックの勇壮、ミナンの雄大、芸人天国バリ、海の香りマカッサル、女性的なミナハサ、スパイスアンボン、暗黒パプア、ばら撒かれたように散在するヌサテンガラの島々には未知なるリズムが眠っています。


歌はその地による。
 浅学をかえりみず、ラグ・ダエラのふるさとの極く一部分を眺めてみましょう。
 広大無辺ともいえる大列島インドネシアには未だ眠っている数多くの地方名曲があるでしょう。
 タニンバル、 チモール、 ロテイ 、サウ、 フローレス、スンバなどの東インドネシア地方や、森の奥深く息ずくカリマンタン・マハカム源流、スマトラ・クリンチの山並みジャンビの雨林、沖のニアスなどなど目が眩むような懐の深さ。
 どうか一曲でもいい、これら珠玉のラグダエラを教えていただきたい。
 ともに南国の熟れた夜空を思い浮かべ愉しもうではないか。


 初出は HPe-group Lagulagu会。 数稿を集めたので重複する項もある。
 歌好きな日本人滞在者がインドネシアの歌を唄うLagu Lagu会の収集した歌曲を一冊に纏めて現在は130曲で、その中にラグダエラは約半数集曲されている。本稿に表れる曲は保存してある。
 1920年〜1990年頃までの歌曲で選曲はSP,LP、Tape音源が多く音質がいいとはいえない。
【Up主の註】
<1> Dangdutと綴る
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作成 2018/08/23
修正 2018/08/25
修正 2018/08/30

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