嗚呼、インドネシア

第2講 タガロアの海 絵と文 庵 浪人

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-ポリネシア人の大航海-

地球の七割は水である。その七割が海洋であり、そのまた七割が太平洋である。
その広大無辺ともいえる太平洋の水世界にけし粒のような島々が点々と浮かぶ。
世界から最も遠く最も小さく最も遅れて人類が移民し、最も遅れて現代文明と交渉を持った地域である。
そことはミクロネシア、メラネシア、ポリネシアと呼ばれるオセアニアであり地球表面績の三分の一を占める海半球で、日付変更線160度を中心にした地球儀を眺めれぱ地の果てではなく海の果てに伸かにオーストラリア、日本、北アメリカが縁取られるに過ぎない。この茫洋とした無窮ともいえる海世界に散在する三万数千の星座のような小島すべてを加えてもせいぜい九州位にしかならないのになぜヒトは移住していったのか、それは誰で何処からだったのか現代学術でもその全客はまだ殆ど解明されていない。
しかしただ一つ確かな事がある。それは舟がなければ為し得なかったホモモビリタス(移動するヒト、ホモサピエンス賢いヒトとの対比)から、人類拡汎史上唯一海上移動した人々で、常軌を逸したとも言えるこの大移住はその環境である海上と距離とその速さで特質される。
同じ血を持つモンゴリアンは凍てつくベーリンジアを越えてアメリカ両大陸に拡散しわずか千年たらずで南アメリカ最南端のフェゴ島まで、直線距離でも一万5千キロある両大陸を年間平均で15キロ移動した'疾走'だったが、太平洋西岸から南太平洋に拡汎していった人々はその十倍以上の猛スピ‐ドで圧倒的かつ頭脳的計画的植民だったのだ。
それはひとえに海上移勤する革新的なヴィークルとナヴィゲーションを開発した叡智による。
その叡智とは一万キロにも及ぶ大洋横断に耐えるフネと、さながら一キロ先のリンゴの実を正確に射抜くが如き航海技術を、彼等は三千年前に既に獲得していたことだ。
いまマウイ・ポリネシアンと呼ばれるが、彼等の始祖達はクラ交易では黒曜石と宝貝を二千キロも離れた島々に運び、単に儀礼訪間で東京広島の距離を、勇気も蛮勇も必要とせず向かい風と海流に逆らい且つ往復航海をごく日常的に行っていたのだ。
勇敢なヴァイキングの略奪航海がもてはやされるが、彼等は僅か千牛前に治岸を追い風でしか移動出来なかった手漕ぎ舟だったのだからまったく比較対称にもならない。
この卓越した能力はその後の資源枯潟、西洋人の干渉とキリスト教宣教による固有文化の破壊、蒸気船運航で急速に衰退し、幽かな残映がミクロネシア・サタワル島に残るだけで浜辺の丸木カヌーだけになってしまった。一万年前への逆行で航海を忘れた人々は文化を破壊され飲酒、肥満、人口過密に悩まされ固有文化も博物館だけのドルと十字架の洗礼を受けている。

アジア赤道周辺にはじめて人類と呼べる人達が住んだのはいつだったのかはまだ闇の中だが、最終氷河期が終わる頃東行を続けるモンゴロイド系新人類はスンダランド(現在のりアウ、ジヤワ海)で繁栄していたが氷河期が終焉して海面が百米も上昇して水没し、否応なく新天地を求めてアジア最東端に到達したが、眼前に広がる大海原に行く手を阻まれてある期間釘付けになったのはニューギニアからソロモン諸島メラネシアの人種、言話習慣の稀にみる複雑多岐と錯綜が証明している。
人類最後の大移勤は'賭による拡散'と呼ばれるような難事業なのは過去に経験したことがない異界(水)への挑戦だったからで、その衝動が天災か疫病か、迫放か脱出か殺致かは措き'陽の出を求めて'とロマンチックに喩えておこう。
浜辺に佇んで沖を眺めると風は常時東から西へ吹き抜ける貿易風帯で、加えて赤道反流は逆潮で押し寄せていた。しかしこの風と海流が遥か彼方の島々の情報を渚に運び伝えたのだ。陽の出こ向かえば幸がある、と。
数次に亘る大移動はおおよそ三干五百年前に開始され歴史時代黎明期にはタヒチ、リモートオセアニアトライアングルの東端イースタ一島に1500年前、北端ノトワイに1000年前にそして最後に南端アオ・テア・ロア(ニュージランドやチャタム)に植民した。
すべての航海者が目的を達したのではないのは言を待つまでもない。遭難、漂流や苛酷なまでの生存資源の少なさで放棄された島、辿り着いた島の資源を喰い尽くして人知れず死に絶えた集団や幾世代後にそうなった島などこの海域にはミステリイアイランドと呼ばれる島が散在する。ネッカー、ニホア、モ‐ルデン、パーマーストン、ラオウル、へンダ‐‐ソンなど大海に孤立した謎の島、化石島で痕跡だけが残っている。
移住にあたって最も重要な搭載物は目的地でパンの木を植林する上だったのをみてもそれがわかる。
チャタム島のモリオリ族はニュージーランドから逆侵攻してきた同じマオリ族によって絶滅されてしまい、なかでも最も衝撃的な歴史が最東端の孤島イースタ‐だろう。人口急増により全く独自の文化(文字も含めた)を築いたのも束の間、出口のない袋小路的狂い咲きとも呼べる狂気は共食いも含め終章を迎えた。

イ‐スター島 -文化の袋小路的開花-
海岸線長僅か60キロ・小豆島位のイ一スター島(80平方キロ)は南米チリ領だがそこから3,800キロ、タヒチから4000キロ、住人のいる最も近いピトケアン島からも2000キロ離れた絶海の孤島である。
'太陽の西、月の東'視界に比較する陸地はなく、この小島こそが全世界で、心理的に最も近い陸地は見る事のできる太陽と月だったのです。 RAPANUI(大地)が彼等のつけた島の名前だった。
1722年復活祭の日、最初の外来人オランダ提督ヤコブ・ロッゲフェーンによってイースターと命名されたが、現在はイスラデパスクア(複活祭の島)と呼ばれているが、1774年キャプテンクックの調査ではTeapi(新しいもの、若いもの)Tamareki(若い君主)Whyhu(新開拓地)Vaihu(水のでる処)、西欧人接触以後のポリネシア人テピトオテヘヌア(世昇の臍)マタキテランギ(天を見る眼)と呼んでいた。(当時はまだ噴煙をあげていた)
そこに1000体を越す巨大石像アモイが林立し、壁画や独自支字ロンゴロンゴなどの遺跡遣構遺産は七千近くあるといわれる。
人々は何のためにそれらを彫り建て、そしてすべてを倒して終ったのだろうか。
イースター島は数万年前に海底火山の降起によって海面に表れた島で、最初の移住は4〜5AD、伝説では西からアナケナの浜に上陸したホツマツア王といわれている。
ポリネシア社会は首長を中心とする厳格な階級社会だったから、勇気と野心のある若者が新天地を求めて沖を目指したのは遠洋航海術、その舟、位置測定、食料・水補給は世界で並ぶものがない技術を持っていた。
偉大なる祖先を祭るアフ(祭壇初期モアイはまだ素朴で小さい)を中心にして酋長神官は一夫多妻、平民は多夫一妻家族葉落で、タロイモ、サツマ芋、バナナ、砂糖黍を載培、鶏とポリネシアハツカ鼠、磯で獲れる魚、海鳥と卵などを食していた。(サツマ芋原産地は南米大陸でこれを東から入手したのか地球を一周した末に手に人れたのか現在も不明)
噴火による島に植物が繁茂するには何百万年もかかるが、彼等が最初に訪れた時はこの島は鬱蒼とした森に被われていたが、現在は荒涼とした草原で木の一本もないのは、狂信的なアモイ建設の故の乱獲である。
彼等が船出したポリネシアの島々も同じであった。
大木を切り双胴丸本舟を開発して波涛を越える技術で、かくも遠隔な地に移住したのだが、伐採に上る乱獲で資源が枯潟する頃には人々はそれぞれの島に孤立を余儀なくされ、後には僅か数十キロ離れた島でも没交渉になり、航海技術も失われていった。
偉大な始祖を祭るアフは時とともに部落問の素朴な競争心によって巨大化していった。
素材である石(凝結岩〉は休火山ラノララクにあったし、長年月にわたり外的圧力を受けないで孤立していた。巨石人像はやがて島民年活そのものとなり、それを脅かす嬰素になっていった.(10メートルのアモイは30人で一年、それ(40トン)を立てて運ぶ(20キロ以上)にはそれ以上の労力がかかった。最大のモアイは高さ21.6 m 250トン)石造物の雄工ジプトのピラミッドは規模も技術も遥かに高度である。馴染みの深いものは約80基、紀元前27世紀から約二百年問で作られた。
アモイは1000体、800年にわたって飽きることない情熱、幾世代にもわたり人生の全目的とした人たち。年活条件の悪化、閉塞状祝で人々の常軌を逸したエネルギーが集中した文化の暴走Esotieric Efflorescence - Prof. Sarlinseだった。
モアイ作り最盛期の十七世紀中墳には島の人口は一万人とも二万人ともいわれている。
食料は算術的計数、人口は幾何学的に増加し、五千人が二万人になるには僅かに数十年。極めて深刻な食糧危機が突然島を襲って、アモイ製造は突然終焉した。
十八世紀の調査では当時島には10以上の部族によって分割されていたといい、深刻な食料不足から部落の象徴であるモアイを倒すフリ・モアイ戦争が起り、それは何百年の建設を僅か五十年でことごとく破壊してしまった
創造神マケマケは軍艦鳥マヌタラにオロンゴ岬の絶壁下の三つの岩山を住み処と定めた。
マケマセの化身はタンガタマスと呼ばれる烏人で、海原を越えて飛ぶ鳥こそ神の化身で、春に渡ってくるマヌタラの卵を獲り霊力マナを得て支配した行事は1866年に廃止されるまで続いた。

【年表】

400 - 1000AD 東ポリネシアから人が移住する。五世紀には察壇アフが造られる
1000 -1680年 12世紀頃最初の王となったホツマツアが現われた頃部族問のアモイは巨大化の途を辿る。絶頂期には二万人が住んでいたと推定される。
1680 - 1772年 アモイ製作は途絶。森林など資源枯褐、人口燥発で大規棋な殺戮、アモイ倒しフリアモイが19世紀まで続く。鳥人儀礼はこの時期始まる
1772年4月5日 ロッゲフェーンが島を'発見'し命名する。島民はアモイの前で地に頭をつけて析っていた。
1770年 スペインのドン・フェリペ・ゴンザレスが来航してスペイン領となる。
1774年 クック来航。島民は戦争の最中でアモイは倒されていた。
1776年 ラペルーズ調査の為来航、以後漁船、捕鯨船の来航がはじまる。
1805年 米国アザラシ船ナンシー号が22人の島民を誘拐。以後島民は外来人に敵意を示す。
1811年 米国捕鯨船ピントス号女を誘拐。性病を蔓延させ社会混乱を引き起こす。
1816年 ロシア軍艦ルーリック接岸するも上陸出来ず。
1825年 英国軍艦ブロッサム号投石にあい接岸不能。この時島民4000人と提督ピーチの記録。
1838年 フランス提督デュベチ・ツアルは立っているのは九個と記録。アモイはすべてうつぶせに倒されていた。ハナウ・エエペ(長耳族)とハナウ・モコ(短耳族)の部族開争だったという説は弱く貴族平民の階級闘争だった説が有力。
1862年 ペルー艦隊が1000人を奴隷として拉致。天然痘蔓延して住民600人
1864年 エジソンエイロ神父がキリスト教化
1866年 デトル・ボルニエ来島して島の買い占め、圧政を開始。
1871年 島民300人がタヒチに逃れる。
1877年 ボル二エ変死。この時島民111人。
1882年 英国サッフォー、独ハイエナら来航。この頃より遺物の持ち出しが続く。
1888年 チリが海軍の管轄下と宣言。ウイリアムソン&バルフオア社の利権となる
1935年 セバスチヤン・エングラート神父が学校、ライ救済施設を作る。
1945年 チャールズ・デリ牧羊会社が52年まで権利を取得。
1947年 トール・ヘイエルダール冒険航海に成功し、南米渡来説を発表。
1958年 へイエルダールがカトリック教会を寄付。
1964年 チリ海軍統治への反対運動で選挙により初の文官知事が誕生。
1968年 バリマッチ紙アフ・タパイのモアイ像を修復。親光の口火を切る。
1981年 米国NASAがスペースシャトル緊急着陸用330メートル滑走路を作る。
1983年 ハリウッド映画がオールロケでRAPANUlを製作。
1995年 タダノ機械が援助し、トンガリキ・アフと15体のモアイを修復する。
1992年 観光化の一途をたどり年間観光客一万人。現人口3000人。ラパヌイ文化センター建設。混血.早婚.飲酒賭博の弊害。


そのヴィークル

複胴船マルチハルボートなのは言をまたない。不安定な丸木舟に腕本を取り付けて安定させる知恵が世界の他地域にどうして生まれなかったのかは大きな疑問だが、アジアで開発されたこの船形を未象有の大航海に果敢に採用したマウイ人達は実戦での試行錯誤で現代人も及ばない知恵を獲得していった。
@速度は現今の帆走船で最速。
A風上ヘの切り止がり性能の獲得。
B不沈。
初期の段階では多分シングルアウトリガーカヌーが用いられたと考えられ、この船形は現在もインドネシア全域からミクロネシアに受け継がれています。左右に浮き子(アマス)を持つダブルアウトリガーはニューギニアメラネシアからアウトライアーポリネシアに混在しているシングルアヴトリガーカヌーには様々な知恵が込められていて、それらすべてが現在に至るも合理的な英知なのだ。
船体をアンシンメトリック〔非対称)にすることでアマス側の抵抗を相殺させ直進性を向上させ、方向転換する時には現行ヨットの一度風向に立てて帆を振るタッキングではなく帆柱を移動させて前後逆に走ることでアマスを常時風上に位置させておく事ができた。

これはProaと呼ぱれる方向転換でカヌーのダブルエンダー(前後同形)が寄与した。
パンダナス草のセールはラッテン三角帆で風上陸能抜群、軽量取り扱い容易でマストを低く出来る絶対の武器だった.
カヌーを2隻繋げたダブルカヌーが本来の遠洋航悔の主役になったのは第二波と云われるフィジーからマルクエサスを経てクック、ソサイテイ、リモートオセアニアに至る紀元前後の大航海に現れたとみるべきで、安定性、積載力でアウトリガーカヌーを凌鷲していたからだ。
現在は絶滅に等しいが往時は外板を縫い合わせた30米以土の大型船も存在していて、ポリネシア大航海で勇名を轟かしたキヤプテンクックの実録では1770年4月26日ポマレ王トウがモウレア島攻撃でタヒチ・パペーテに集めた艦隊は160隻の大型戦闘艦と170隻の小型帆走船で、旗艦は長さ33メートル幅6メートルを横材28本で連結し、高さ1.3メートル長さ7.3メートルの台座が据えられていたと記録している。
1977年ハワイ・ピショッブ博物館篠遠喜彦博十がタヒチ・ファフィネ島で発掘した舟は全長25メートルに達するキャットで一千年前のものと測定された。
パプア大島の東側に連なるムッサウ、ビスマルク、ソロモンに達していた彼等は、有り余る大木を切り出して繋げバンダナスの草を編んで風を捉えた。
今彼等は幻の航海民ラピタと呼ばれる。
@1952牛アメリカの考古学者ギフォー・ドとシャトラーが二ュ一カレドニアで発掘した3600年前の遺跡。ラピタ人は但か300年ほどで5000キロ近くを東進してサモアまで達したから百年で1500キロ、陸上移動の十倍以上の猛スビードでほぼ三回にわたる遠征で1500年前までにリモートオセアニアのハワイ、イースター、ニュージーランドに達した。最初の紋様士器製作集団である。華奢だった体型は環境適応して巨人型になった。

そのナヴイゲーション
ミクロネシアヤップのサタワル島には唯シングルアウトリガーカヌーがサイパン島と往復航海を行っている。ボスはマウ・ピアイグル師で彼は念力と星座でデイレクションをする。先年目本人青年が弟子入りした。
古代カタマランを復元して航海機器を使わず潮流やうねり、星座だけで遠洋航海する動きがナイアノ・トンプスンではじめられ〈彼もマウ師に指導された)、双胴船ホクレア号でハワイ〜タヒチ無計器航海を、カナダ西岸まで航海して現在も固有文化の保存に意欲的だ。
高度な天文知識で位置把握を可能にしたのは彼等は島々にはそれぞれの星を持っていると考えて、円周(天空)を32等分して特定の星の出現(ターン)没入(トウプル)で移動を把握し、東西に航海する事の多い為、最初に水平線に現れる東鷲座α星メイナップ、西バイユルが重要だった。北極星はフッシュメケットウ(またはAku)南十宇星はウエネウエネヌップ(またはHema)と呼ぶ。
マウイ人が遥かな洋上に未知の島がある確信を得るには、漂着物から海鳥や海獣の動きや、雲の流れはたまた海のうねりにまで幽かな感触を得ていたと思われる。
波は数学的な波動だから徹紬な観察で遠方の島に寄せて返す脈動を察知できるのかも知れない。雲の湧きあがりも、島の上では確かに異なるはずだ。
木の枝海図は島の酋長の門外秘だったが、枝を交差させて貝を結んだ地図は風向きから潮流の中に浮かぶ小島を表していた
マウ師は洋上では日的地を見るまで乗組員とは没交渉で、ひとり念力テレパシーを発揮するといわれ、近年海棲動物の高周波による情報交換は我々人間の音声1の数十倍のヘルツで人間がハーモニカなら彼等は才一ケストラになる程で、迷信とは謂えない感性を持っていると云えるのではないか。
それらの確信によっての航海は'魔法の瓢箪'がアシストした。
タヒチから最初にハワイ5000kmを目指した人達は南東の貿易風を捉えて右舷開きのアビームで8ノットの快速で北上しヘソ(赤道)に達すれば氷平線に北極星が表れ徐々に高くなってゆく。
瓢策は半分に切った少し下に同じ高さの穴を四つ開け水を入れて、水はこの穴によって水平を出す。穴のひとつに眼を当てて覗き切り口に北極星を提えられば位置を知ることができ、穴と切り口の線が20度になるまで北上すれば目的地は正に真西に浮かんでいる。
ハワイは北緯20度、中指と親指のなす角度は20度でもあるのだ。
8ノットは現代ョットの平均速度より圧倒的に速く、かくなる遠距離でも一ケ月以内で到着出来る計算でカヌーの少積載力も余裕をもってクリア出来たわけだ。

その乗組員

マウイ・ポリネシア人には未だに解明されない多くの謎がある。
モンゴリアン亜種なのだが何処から来たのかは不明で人類学上最大の謎として残っている。
石器時代から近代まで世界から完全な姿で隔離された人々で、金属はおろか弓矢も知らない民族だったのだ。言語学上はムラユオーストロネシア系に属しているからサフル陸棚を東進したプロトマレイ人種だとの説が妥当だが、最近の骨格調査で台湾起源説から土器調査も含めて縄文人南下説も表れてきたが、それらが突調子もない仮説とは一概には言い切れず、その巨人体型に至っては確たる論説はないのです。
ベルグマン法則での個体は低緯度ほど小さくなるとゆう法則が全く当てはまらないのだ。
巨人・肥満・早熟多産体を倹約遣伝子型仮説(苛酷な食物代謝環境適応)として提えたり寒冷適応説(タパ布以外に衣服はなく海洋はもとより海岸菜食は驚くほど寒い)などがあるが解明されてはいない。
大航海の動機が戦争、飢餓、天災だとする識者もいるが、船とゆう大きな道具を首長の許しなしに建造する事は出来ず、飢餓天災では建造する準備も余裕もないだろう。
マウイ社会は完全な縦社会で意欲的で強健な若者が権カ者(王)になるには新しい支配地を自身で開拓し分家しなければならず、王と村人総出で周到な準備のもとに壮挙を決行したのだろう。後に交易、訪間で新しい島との往復航海が頻繁に行われてゆく。
積み荷の飲料水と食料はタロ芋、ヤムイモ、パンの木の実と苗、最重要な物はそれらを育てる'土'だった。果実バナナや栗(粟?)、黍、サツマイモは新大陸原産だからどうして彼等が持っていたかも大きな疑問なのだ。
椰子の実は貴重な飲料水、コプラ脂肪蛋白補給だけでなく燃料や転覆した時の浮き子と鎮波具として使われた。
豚、犬、鶏は生きていて腐らない蛋自源として貴重だった。
魚への知識は当然ながら豊富で、釣り針も人骨製も含めて多岐にわたり、或る種の魚アパヒは大量の真水を含んでいて飲料に使われた。
新天地で重要なものは将来の労働力である子孫の為に女性で、これに失敗すれば航海が成功しても早娩死に絶えるしかないからだ。
(終)

註:図面と写真は「知られざるポリネシア 99の謎」 産報デラックス から引用させていただきました。
(終)

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2006-08-27作成
2006-08-29 移動・修正

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