死の壁
新潮社文庫 061
養老孟司著

第一章 なぜ人を殺してはいけないのか

<18> システム(自然や環境のこと)というのは非常に高度な仕組みになっている一方で、要領よくやれば、きわめて簡単に壊したり、殺したりすることができるのです。<中略>だからこそ仏教では「生きるものを殺してはいけない」ということになるのです。システムを壊すのは極めて簡単。でも、そのシステムを「お前作ってみろ」と言われた瞬間に、全く手も足も出ないということがわかるはずです。
<23> 人間を自然として考えてみる。つまり高度なシステムとして人間をとらえてみた場合、それに対しては畏怖の念を持つべきなのです。それは結局、自分を尊重していることにもなるのですから。
<23> 他人という取り返しのつかないシステムを壊すということは、実はとりもなおさず自分も所属しているシステムの周辺を壊しているということなのです。「他人ならば壊してもいい」と身勝手な勘違いをする人は、どこかで自分が自然というシステムの一部とは別物である、と考えているのです。
<24> 「人間中心主義」が危険だと私が思う理由はここにあります。
<25> それは実態としての人間の持つ複雑さとかそういうものとは別に、勝手に意識だけが人間のすべてだと考えるようになったということです。そして、自分の思い通りになることが一番価値のあることだという思想を、西洋近代文明は押し通してきた。
でもそれはおかしな話なのです。自分自身すら思うとおりになないことに気づけば、嫌というほど変わることなのです。


第二章     不死の病

<26> 人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。
こうした勘違いが生まれたのは、おそらく19世紀です。情報化社会が生まれてから、人間の意識が変わってきたのです。
<27> 本来、人間は日々変化するものです。<中略>眠っている間にも身体は変化している。脳細胞だって変化している。
それでも毎日目が覚めるたびに「今日の俺は昨日の俺とは別人だ」と思うようでは社会生活もなにもあったものではない。だから、意識は「昨日の俺は今日の俺と同じだ」と自分に言い聞かせ続けます。
日々変化する自分とは反対に、変わらないのが「情報」です。
人間は変化し続けるものだし、情報は変わらないものである、というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です。
<28> これが私が言うところの「情報社会」です。
<28> 「俺は俺」「私は私」で不変の意識であるはずだ。不変とすれば、どうしてそれが消えなくてはいけないのか。なんで死ななきゃなんねえんだという疑問です。
昔の人もこの矛盾もしくは理不尽には気づいていました。だから「魂」という概念を作り出した、そして自分が消えても意識は残るはずだ、ということを「魂が残る」というように考えて、納得していたのでしょう。
<29> しかし近代に入ると、科学はその「魂」という考え方を否定してしまった。
さあこうなると答えがなくなってしまいます。「魂はない。でも俺の意識は不死身のはずだ」では矛盾してしまいます。
そこでどうなったかと言えば、「何が何でも死なない」という意識が出てきたのです。
<30> 「身体は滅びる。科学的には魂は存在しない。でも意識は不変だ」では筋が通りません。これが、「情報化社会」、すなわち意識中心の社会になったことによる矛盾の一つなのです。
<32> (この矛盾に関して)問題にしているのは<中略>「あの時の自分は、本当の自分ではなかった。本当の自分を見失っていた」という理屈です。
そんなことはありえないのです。今、そこにいるお前はお前だろう、それ以外のお前なんてどこにいるんだ、ということなのです。
<32> 近代化とは、人間が自分を不変の存在、すなわち情報であると勘違いしたことでもあるのです。霊来、実に人間は「死ねない」存在になってきました。
<33> こんなふうに情報と化した自分のことを、明治時代来、日本のインテリと言われる人たちは「西洋近代的自我」などと呼んでみたりしたのです。そして「個人」というものとそれを混同していった。
<34> 個性は身体に備わっているものなのに、それが意識にあるものだという勘違いが蔓延していることについては、これまで何度も指摘してきました。この勘違いから、「日本人は没個性」云々という類の言い方が出来るのです。
<34> 「則天去私」というのは「西洋的近代自我」すなわち「私は私であり、その個性は意識にのみある」という考え方に対する、日本人としての反発だったのではないでしょうか。
<35> 排便は、人間が自然のものとして存在している以上、どうしても避けられないことです、そういう生と不可分のマイナスの面を排除してきたのです。
<36> (死と排便と)同様に戦後消えて行ったものはたくさんあります。電車内での授乳と肉体労働者がふんどし一つで働く姿です。
この辺のことには皆、共通の感覚があるのがお判りでしょうか。身体に関することが、どんどん消されていったのです。
これは都市化とともに起こってきたことです。<中略>世界中どこでも<中略>ほぼ似たような状態になります。これは意識が同じ方向性もしくは傾向を持っているからです。
<39> 近代以降、身体に代表される自然というものを、できるだけ遠ざけてきたのは間違いない。よく私が例として挙げるのは、中世に描かれた「九相詩絵巻」という絵画です。ここでは死体が少しずつ腐っていく様、朽ち果てていくさまが、きわめてリアルに描かれています。
<42> (「平家物語」の中で)最後まで生き残るのは後白河法皇とあと数人です。今の映画や小説と比べてみると、ずいぶん暗い話だということになる。
しかし、おそらく当時の人はこれを暗いという風には受け止めていなかったのではないかという気がします。「九相詩絵巻」に描かれたように、「死」というものは日常的に身近にあったのです。
<44> 「死だの死体だのは見たくもないし、考えたくもない」という姿勢は、当たり前のことを見ようとしていないということに他ならないのです。
<48> 現代人にとって「死」は実在ではなくなってきている。死が本気じゃなくなってきたといってもいい。
<50> 現代人は、自分が死なないと考えると同時に死を遠ざけてきました。それは前述したように、身体を遠ざけてきたのと根本は同じです。


第三章  生死の境目

<55> 生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。
しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義ができないと。この境目も定義できません。
<56> 生死が定義づけられないとなると、「死」という瞬間もないことになります。
どういう形にせよ、社会の制度としては切れ目を決めることを求められます。<中略>実態とは関係なく、言葉で作っている法律ではそれを規定することができます。厳に社会の通念として、死亡診断書には死亡時刻を書くことになっている。そして、そこでは「この時点から死だ」ということは決まっているわけです。
<57> そして、それは言葉の上でそう決めたことに過ぎません。実体としての「死の瞬間」とは別のものです。
こんなふうに実体とは関係なく、何かに境界線を引いたり、定義できたりするというのは言葉の持つ典型的な働きです。言い換えれば「死の瞬間」というのは「生死」という言葉を作った時点でできてしまった概念に過ぎず、実際には存在していない、と言ってもいいでしょう。
<59> 「生」とはどういうことかというのは、そのまま生き物とは何かという定義になります。生き物というのは、一見いつも同じ状態を保っているけれども、それを構成してる要素は絶えず入れ替わるという性質を持っています。
<63> 結局、生物というのはこういうサイクルを常に自分の体の中でグルグル回し続けているものだと言えます。
このサイクルを繰り返しているものを私は「システム」と呼んでいます。
別の言い方をすれば、システムというのは「実体」だと言っていいかもしれません。これに対して「情報」は、情報、簡単に言えば、文字、音声、映像などのことです。これらは脳で解釈されたときに、本当の情報になります。
<67> 日本において(脳死)問題の中心になっていたのは、あくまでも社会が一致して決める「死」のようです。脳死についての議論でも、一見科学の話のようでも、問題となっているのはあくまでも社会が決める「死」です。
<69> 脳または心臓というもっと大きなサイクルは止まった、と。今の時点での社会的に言うところの「死の瞬間」というのは。単にこの大きなサイクルが泊まったのをそうだとしようと、とりあえず決めたということに過ぎません。
<70> はっきりと言えることは、今の時点では結局「生死の境」は死亡診断書にしか存在していないということです。そしてそれは社会的な死に過ぎないということ。


第四章 死体の人称

<76> かつて死とは何かについて考えようとした際に、「死体とは何か」ということについて考えました。
なぜ「死」ではなく「死体」かと言えば、少なくともそれは具体的なものであるからです。
<77> 死体には三種類あるのです。<中略>「一人称」「二人称」「三人称」です。死体についても全く同じ区別をつけて考えることができる。
<77> まず「一人称の死体」。<中略>つまり「俺の死体」です。これは「ない死体」です。実はこれは存在しません。言葉としては存在していますが、それを見ることはできなのです。
<78> つまり、「俺の死体」は概念としてしか存在していないということです。「俺の死体」となった瞬間から、モノである筈のものが、無くなってしまう。
科学の前提には観察の主体が存在しなくてはならない。ところが「俺の死体」に関しては、観察する主体が消えてしまうわけです。
<79> その時点でそれは「俺の死体」ではなくなります。したがって「一人称の死体」ではなくなってしまうことになります。
<79> 「二人称の死体」とは<中略>親しい人の死体は死体に見えないということです。
<81> つまり「二人称の死体」というのは、いわゆる抽象的な「死体」とは別のものなのです。じつは私たちがもっともわかる「死」、悲しみなどの感情を伴って見つめる「死」は、この二人称の死です。
<82> 「三人称の死体」のみが、私たちにとって簡単に死体になります。死体として認識することができるといってよい。
<84> 死体をどう扱うかについて考えるには、それがなんであるかを考えざるを得ません。結局、私は死体も人間であると考えるようにしました。生きている人を扱うのと同じように、死体も扱う。そう考えれば何の不都合もありません。
<85> ことは人間の死だけではありません。動物実験をしている科学者にさえどこかに心理的な抵抗があるのです。
実験で使った動物の慰霊祭をやるというのもそういう気持ちからでしょう。


第五章  死体は仲間はずれ

<87> 完全に万国共通という面ばかりではなく、死体についての考え方、捉え方には当然にがら社会的環境が影響します。<中略>日本では、「死体は人間じゃない」という考え方が文化になっています。
<88> (「清めの塩」とは)死体と「穢れ」という概念を結びつけているわけです。
「穢れ」という概念は、本来は科学的な根拠がないことです。ということは、少なくとも現代においてタブーにするようなことではない。にもかかわらず、その習慣が残っているのは、私たちにとって何らかの意味があるからに他なりません。
<89> それは「死んだ奴は我々の仲間ではない」というルールを暗に示しているのです。
<89> これは死んだ途端に名前が変わる戒名ということでもわかります。
つまり死者は差別されているのです。はっきりしているのは世間という円から出されてしまうということです。
<90> だからこそ、そういう存在の死体を扱う仕事というのは、ある種、特別な仕事のように見られてきたわけです。江戸時代に「非人」と呼ばれて差別を受けていた人たちがいました。
<91> 「人非人」という言葉は、江戸時代の人間についての定義を非常によく表しています。
<92> 日本では世間の人であることが、ヒトであるというふうに考えたからでしょう。
「非人」が制度として成立したのは江戸時代です。それ以前にも様々な呼称で呼ばれていた被差別民がいたと仰るかもしれませんが、それは別の存在でした。
たとえば中世以前から特定の仕事、皮革を扱うような仕事を請け負い、差別されていた人たちがいました。しかし彼らは差別されていたと同時に、昨日集団としての権利と優れた技術も持っていたのです。
<93> 武具は革を使います。その革を扱う技術を持った人たちというのは、戦国大名にとって実に基調で重要な存在だったのです。
これが江戸時代に入ると、身分差別としての面が強調されてきた。
江戸時代に「非人」と呼ばれた人たちは<中略>都会に流れてきた無宿ものなど、共同体からはじかれた人たちです。
<94> さまざまな事情で無宿となった人が都会に集中した。それに対応して幕府は「非人」というカテゴリーを作ったのです。
<94> こういうふうににして江戸時代にできた世間という円があります。
「非人」現在の日本の世間の原型は、ここにあるのです。この円は、今風に言えば、一種のメンバーズクラブのようなものだと考えるとわかりやすいかもしれません。
<95> 死ぬということは、そのメンバーではなくなるということなのです。
<96> こういうルールがあるということがわかると、日本の社会というものは非常によく見えてきます。
こんなに科学技術が進んだと思われている社会において戒名という前時代的な制度が続いているのには、理由があるのです。
その根底には死んだら名前を替えなくてはいけないという暗黙の了解、決まりがあるからです。
<97> 切腹というのは、こういうメンバーズクラブの会員資格を武士の一存で消滅させるということです。そうまでして脱会する恩典は何かといえば、それまでのクラブ内での義理をチャラにしてあげましょうということです。
<98> 退会がそれだけ厳しいメンバーズクラブならば、入会だって相当うるさいのは当然です。<中略>すでにメンバーになっている側の都合もしくは判断で入会お断りとなる。すなわち間引きをしてしまう。
これだけ中絶が普及したにもかかわらず、倫理問題として取り上げられたことは極めて少ない。それはまさに生まれてくるまでは親の一部であり、独立した人間ではないということが世間の認識だからです。
<99> そう考えると、母子心中が日本では外国より多い理由もわかってきます。母親が自殺するときに子供まで道連れにするというのは、外国では非常に特殊な例です。
それが日本で多く見られるというのは、つまり子供が社会に出てきてからも母親の方ではどこかで自分一部だとみなしているからでしょう。
<100> ベトナムのベトちゃんドクちゃんのような結合双生児は、<中略>不思議と日本人の例というのは目にしません。<中略>これは別に人種によって極端に発生率が異なるというものではないはずで、日本に少ないとすれば、ここでも間引きが行われている可能性は否定できません。
<101> もう少し厳しい基準では、「日本人に見えないといけない」というものがあります。
<102> その「常識」はどこから来たかと言えば、あきらかに「我々の仲間はこういう顔だ」というルールが根底にあるということなのです。
この日本的感覚は(人種差別というより)<中略>むしろ仲間外れの感覚に近い。
こういうルールというのは、共同体によって違います。日本だけが特殊なルールを持って<中略>いるということではありません。いずれの共同体もそういうルールを持っています。そして、そのルールというのは明確に記録されていないものなのです。


第六章  脳死と村八分

<103> 死の基準を決めるということは、メンバーズクラブ脱会の基準を決めるということです。
<104> ところが、メンバーから外す、すなわち村八分にするには村の総意が必要になります。
しかし、脳死に関してはそうではありません。だから脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)なるものを作って、総意を得るようにしたのです。
しかしその臨調に参加した人には、集会の性質が村の総意を決めるものだという自覚がほとんどなかった。だから議論が混乱したのです。
根本の問題は、移植すべきだという議論の中心が医者だったということです。
<105> 医者という機能集団が進める議論というのは、その集団の中ではきちんと完結できる論理が組み立てられます。
しかし、それでは他の村人たちには何かモヤモヤした気持ちが残ります。このモヤモヤした感じの底にあるのが共同体のルールであり、暗黙の了解です。「非成文憲法」というふうに呼んでもよいでしょう。
こんなふうに脳死については、日本では共同体のルールにかかわるから、かなり揉めた。その一方で妊娠中絶については揉めなかった。日本だけを見ているとそれが普通のことに思えるでしょうが、諸外国では必ずしもそうではない。それはルールが違うからです。
<106> そもそも、そういう問題(妊娠中絶や脳死)を公けにして、明文化していくことが良いことなのかどうなのかが非常に難しい問題です。
<108> 中国には<中略>日本とは別のルールがあって、中国人は死んだあとも「そいつはそいつだ」と思っているからでしょう。
<109> 靖国問題というものの根本もそこにあるのです。日本には死者は別物だという暗黙の了解がある。<中略>ところが中国の方は、たとえ死んでいようが戦犯が祀られたということは、政治的にもまだ意味なり影響力があるのだと思ってしまう。
死者も影響力を与えられる、この世のメンバーだという世界観が根底にあるのではないか。
<111> あくまでもそこ(死刑反対論について)にかかわるのは共同体のルールです。だからこそ、死刑についての議論を始めても、脳死同様、どこかモヤモヤしたものが残る。それは共同体のルールにかかわる問題だという視点が抜けているからです。
共同体のルールにかかわることというのは、非成文憲法ですから、それを意識しないことで成り立っています。それをあえて表に出そうするから厄介が生じます。
<112> 「脳死は死だ」という断定を避けないと、村八分を規定する<中略>共同体のルールに抵触します。全員一致じゃないのに、そんなことを決めてはならない。しかし臓器移植は勧めていきたい。となると結局この第四の答え(脳死は死ではないが、臓器移植は可である)にならざるを得ない。
<113> 脳死が死か死でないかということを決めることと、臓器移植とは関係がないというふうにした。それはどこか、江戸時代にタテマエとは別に実態に則して「非人」という存在を作ったやり方にも通じるような気がします。
<113> 脳死臨調の少数意見の中には「人は死んだらモノである」いう主張もありました。<中略>これは反対派の意見なのです、その理由は「死者には人権がないから」ということでした。主張したのは法律家でした。
<114> これもずいぶんおかしな話です。
生きていようが死んでいようが、モノはモノだし、人間だと言えば人間なのです。論理的に整合性があるのは、生きていようが死んでいようが人は人だ、という考え方でしょう。これがおそらく普遍的な考えです。
<114> ただし、そのことと、解剖してはいけないとか、臓器移植はいけないとかそういうこととは全く別です。生きている人間だって、手術で足を取ってしまうこともあれば、移植をすることもあるのですから。要は扱う時に、こちらが人と考えるかモノと考えるかということです。
<116> 日本の大学はそう(ハーバード・ロースクールのように厳しい)ではない。では何かというと、これも一種の共同体なのです。だから入るルールだけはうるさい。公平、客観、中立でなくてはいけない。
<117> (多額の寄付金を払って入学する方法は)現にアメリカではそれが通用しています。
それはアメリカでは、世間も大学も、必ずしも日本型の共同体ではないからです。別に、入る基準が平等だったり公平だったりする必要はない。<中略>その代わり、中で勉強をして機能集団の一員となる努力をしないと卒業させてもらえないし、資格は得られない。


第七章     テロ・戦争・大学紛争

<119> 私は、戦争やテロが嫌いだという以前の問題として、その背後にある原理主義というものが嫌いです。
原理主義、あるいは一元論<中略>に陥った時に、人は絶対の真実があると思い込んでしまいます。絶対の真実を信じる人は絶対の正義を振りかざします。
<120> 人間は「自分が絶対だと思っていても、それとは別な考え方もあるだろう」というくらいの留保を持った方が良い。
<120> 大学紛争も、かつての日本の戦争も、いずれも原理主義が大きくかかわっていました。
<122> こういう(正義を振りかざす)人の押しつけがましさというのが、共同体の持つ一つの体質なのです。平等性を求める。
「みんなのため」には、本当はいろんなことをしなければならないのです。
皆が同じことをするということとは違います。
<123> 第二次大戦後、人類史上で初めて若い人が働くなくて済むようになりました。どこの国も人口が増えて若い人が余った。彼らの行き場のないエネルギーがたまり、その発散場所として学生運動という場が作られたのではないかと思います。
第一次大戦には、ヨーロッパが20世紀になって最初に都市化した時に発生した余剰人口を片付けるという意味があったのではないでしょうか。
あれだけの犠牲者を出しても、ヨーロッパがある意味で安泰だったのは、言って見れば、人口を減らした「効果」があったからなのではないか。
<124> それ(インターン制度の改革に緒端を開いた学生運動)は別に体制の転覆でもなんでない。つまり若い人たちが大人に「俺たちもきちんと社会の仲間に入れろ」といっていたにすぎないのです。
これは若い人が大勢でてきたのに、体制側がそれを取り込むための装置、かみ砕いて言えば若い人たちのスペースを持っていなかったから起こったということです。
これがなぜ世界で同時多発したかといえば、都市化と絡んできます。石油が世界中に安価に供給されるようなったおかげで、大都市があちこちにできました。物流が飛躍的に伸びて、大都市に人が住めるようになった。世の中が効率化しました。
そうすると遊休の人口が増える。ところが、その遊休の人口全員に仕事を与えることはできない。それが団塊の世代がぶつかった問題ではないでしょうか。
そもそも(学生運動をしている)彼らが「反体制」を唱えていたとしても、別に全く新しい政治を求めていたとは私には思えないのです。
<128> 実は日本はいまだに太平洋戦争の総括ができていないのではないでしょうか。
<129> クラウゼヴィッツが『戦争論』で書いている通り、戦争に外交の手段という側面は間違いなく存在しているのです。しかし、日本人にはその感覚が無さすぎた。
政治の一手段だったはずの戦争が、むしろ逆に目的になってしまった。
東大にいる時に、ある席で隣に舛添要一氏が座っていました。<中略>「戦争を研究すること自体が何か許されない風潮があるんだよ」と怒っていたのです。冷静に戦争を研究すること、損得を考えることが、とんでもないと思われていることに怒っていたのでしょう。
<133> (戦争に関する損得勘定)結局のところここでもコストパーフォーマンスの考え方が抜けているような気がします。<中略>極端に言えば、何人まで死んでもよくて、何人からだといけないという計算をしていない。そもそも「国益」の定義がないのです。
イラクの石油は大切だ<中略>から貢献せねば、という人もいます。しかし、どうしてお客の方が立場が強い、というふうに言う人がいないのかもわかりません。買ってもらえなくて困るのは先方ではないのか。他の商品(とは別に)石油だけ特別扱いする理由を本当に検討したのでしょうか。
<134> 「プロジェクトX」(という)番組があんなに人気が出たのか。そしてなぜ戦後そんなにモノづくりに打ち込んできたのか。そこにも戦争の影響があったように思えます。
<135> (敗戦で)それまでの価値観がひっくり返された。下手な理念はあてにならない、それよりも確実なのは科学技術だと思うようになった。だからとにかくものづくりに突き進んでいった。敗戦に対する復讐です。
多くの日本人が何か確実なものを求めようとした。その結果としての「ものつくり」だとすれば、今後はその分野が衰退していくのも無理はないのかもしれません。


第八章    
安楽死とエリート

<137> (安楽死問題の中の)加害者は、エリートと言い換えてもいいかもしれません。エリートというのは、否が応でも常に加害しうる立場にいるのです。
<138> 日露戦争の二百三高地での戦いで彼(乃木希典陸軍大将)はたくさんの若い兵隊たちを死なせてしまった。<中略>だから最後は自分も腹を切った。
兵隊を死に追いやった重さを乃木大将は背負わなくてはいけなかったからです。エリート、人の上に立つ立場の人というのは、本来こういう覚悟がなくてはいけない。常に民衆を犠牲にしうる立場にいるのだ、という覚悟です。
そして、エリート教育というのはこういう責任や覚悟を教え無くてはいけなかったはずです。<中略>しかし、戦後はそういう本来の意味でのエリート教育がなくなった。
<139> 医者が安楽死にかかわるということにも同様の責任、重荷が付いて回るはずです。
<143> 都市化が進むとこういう(安楽死を行う医師)職業は見ないようになります。ないものにしようとする。だから、普通の人が意識をしなくなるのも無理はありません。
もし、それ(安楽死処置)を簡単にやれるような人が増えてくるとすれば、それは都市化と関連があります。なぜなら、都市化によって人と人との距離が離れていくと、相手が何者かがよくわからない。より「三人称の死」に近くなります。
<144> 「植物状態で生かしても、本人も家族も不幸なだけだ。早くけりをつけたほうがいい」というのは簡単です。しかし、そういう人は、少なくとも「死なせる側」の意志の立場は全く考えていない。
<146> このように、特定の人間にある種のことをやらせる、請け負わせる、または押し付けることについての意識が希薄になっている。特定の人間の方の気持ちや立場に考えが及んでいないのです。
それがエリート教育がなくなってしまったことの根本です。普通の人たちがエリートに何かそういう汚れ仕事をさせているという意識を持たなくなっただけではありません。エリートだったはずの側も、自分たちがそういう責任を負っているという意識がなくなった。多くのトップ、指導者と言われる人たちに、自分が人の生死を握っているという意識が無くなっているのもそのせいです。
ここで問題にしているのは、危険な所に行かせることの是非ではなく、誰かがそういう重さを背負わなくてはならないということです。
そういう気持ちを背負う立場なのが、かつてのエリートだったのです。
ところが、今の社会はそれが無くなった。特に日本の場合は、平等主義がいたるところに蔓延してしまった。そのために、エリート教育というものも無くなった、そして、エリートが背負う重さというものが無くなってしまった。エリートという形骸化した地位だけが残ったのです。
<154> 荻生徂徠は「先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり」と述べた。
かみ砕いて言えば、「建前では天地の上下と、君臣の上下は一致しなくてはいけないと先人たちは言っているけれど、実際はそんなことはない。人間のルールは人間のルールなんだから、ちゃんと決めなくては駄目なんだ」ということです。
日本が明治に入って他のアジア諸国よりも自然科学が伸びたのは、こうした思想があったこと無関係ではないと思います。社会的ルールと自然科学のルールは別だということが常識だった。
<155> 不思議と日本も江戸時代からこういう近代科学に連なる思想が一般的になっていた。これは中国のように強い専制君主がいる国では考えられないことでした。いつも偉い王様がいて、その人の作っているルールと世界観が、自然科学と繋がっていなくてはならなかった。それは自然科学とは別物になるわけです。
<156> 現代において、安楽死の基準を法律で定めようとするならば、それは共同体のルールを天のルールにするとは言わないまでも、明文化して表に出してしまおう、ということです。
問題は、様々な厄介な部分が存在しているのに、それを踏まえずに明文化することイコール近代化だというような安易な考え方で議論を進めると、どこかで矛盾なりモヤモヤした気持ちが残ってしまいます。
現代人はともすれば、とにかく明文化すること、言いかえれば意識化することそれ自体が人間のためである、進歩であると考えます。そこにはいったいどの程度まで意識化することが人間のためになるのか、という観点が抜けているのです。
そもそも言葉というのは人間が持っている機能のごく一部に過ぎません。にもかかわらず、言葉によってすべてを規定しようというのは何か無理があるのではないでしょうか。
<157> 整然としたルールのみで社会を扱おうとするとどうしてもどこかにごみ溜めができてしまいます。言語化できないこと、ルールに入りきれないものをどんどんそこに放り込んでいくと、次第にそのゴミ溜めが肥大化していって、いつか溢れます。そうすると社会の枠組みなりルールが壊れることになります。
社会の枠組み、ルール、建前、あるいは意識で片付けられない問題というのは必ず起こります。安楽死はそれに類する問題です。
<158> どこまでも患者を助けようとする現代の医療は、突き詰めれば「人間は死なない」という前提でやっているのと変わらないことになるからです。「人は死ぬものだ」という前提を落としてしまっている。すると死について正面から考えるのは難しくなる。
<162> 「(安楽死を)どんどんやればいい」という立場の人は、とにかくルールを作って考えずに済むようにしてくれ、ということです。学者、専門家というのはこの考えずに済ませようとしているところをきちんと考えなくてはいけないのですが、あえて黙っている。
<163> 本来は、安楽死というのは他の死と同様に、一般論が成り立たない話なのです。

終章 死と人事異動

<165> 死んだらどうなるかというようなことで悩んでも仕方がないのも確かです。
<166> そこで悩むのは、そもそも「一人称の死」が存在しているとおもっているからでしょう。
<167> 考えるべきは<中略>自分の死ではなく、周囲の死をどう受け止めるかということの方が考える意味があるはずです。
<168> 死というのは勝手に訪れてくるのであった、自分がどうこうするようなものではない。
だから自分の死に方については私は考えないのです。
無駄だからです。
<172> 生きがいとは何かといういうような問いは、極端に言えば暇の産物なのだ、と。本当に大変なとき、食うに困っている時には考えないことです。
そういう人生論が求められるという状況は、現代人が感じている閉塞感が関係しているのでしょう。
しかし、そもそも人間、悩むのが当たり前なのです。
<174> 自殺がいけないという理由は、大きく分けて二つあります。一つは自殺は殺人の一種であるということ。だから「なぜ人を殺してはいけないのか」というのと同じ理由です。もう一つは自殺がやはり、周囲の人に大きな影響を与えてしまうということです。「二人称の死」なのですから。
私は自殺したいと思ったことはありません。簡単に言えば、「どうせ死ぬんだから慌てるんじゃねえ」というのが私の結論です。こういうと「どうせ死ぬんだから今死んでもいいじゃないか」というやつがいるかもしれませんが、それは論理として成立していない。なぜなら、それは「どうせ腹が減るのだから食うのをやめよう」「どうせ汚れるから掃除しない」というのと同じことだからです。
勝手に「一人称の死」についてのみ考えて、それが「二人称の死」としてどう受け止められるか、その影響を考えずに自殺することが良いとは思えないのです。
<178> (挨拶などに)苦手意識があったということは、つまり何かが心の中で引っかかっていた。単純に考えれば、内気だからとか人見知りだからというような解釈ができるはずです。でも、そんな解釈で自分が納得できていたら、そもそも心に引っ掛かることではない。しかし、そういう解釈ではどこか居心地が悪かった。
<181> (著者の幼児期の体験の記事に続いて)それでも死は周囲に大きな影響を与えるということは間違いありません。安易に自殺を考える人に代表されるように、現代はそれを忘れている人が多いように思えます。
<182> 死は不幸だけれども、その死を不幸にしないことが大事なのです。<中略>それを知恵と呼んでもよい。
<186> (人事異動に関して)「決まったことは仕方がない」と私はよく言います。それは何も流されて生きなさいと言っているのではなく、そのくらいの気持ちでいれば、逆に大抵のことは実はうまくいくと思っているのです。
<188> 人事にせよ、死にせよ、いずれも「なかったことにする」ことはできません。死は回復不可能です。
しかし、原則でいえば、人生のあらゆる行為に回復不可能な面はあるのです、死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないということだけです。
ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。今日という日は明日には無くなるのですから。
人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです。


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2016/09/18 作成

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