「日本辺境論」

内田樹著 新潮新書 336

第I章 日本人は辺境人である。

日本人はきょろきょろする
21 本書における私の主張は要約すると次のようなことになります。
「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種の影のようなものだ。本当の文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
おそらくこれは、はじめから自分自身を中心として一つの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族の一つとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。」(引用元 梅棹忠夫著「文明の生態史観」中公文庫 1974年 P41-42)
22 夢中になって外来の新知識に飛びつくかというと、「ほんとうの文化は、どこか他のところで作られるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識」に取り憑かれていたからです。
22 世界的に見ても、自国文化論の類がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的でしょう。(中略)私たちはどれほどすぐれた日本文化論を読んでも、すぐに忘れて次の日本文化論に飛びついてしまうからです。日本文化論が積層して、そのクオリティがしだいに高まってゆくということが起こらない。それは日本について本当の知は「どこかほかのところ」で作られていて、自分が日本について知っていることは「なんとなくおとっている」と思っているからです。
23 私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というのはどこかに原典や祖形があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いの形でしか存在しません。
23-24 制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文物が別のより新しいものに取って代られる時の変化の仕方に意味がある。より正確に言えば、変化の仕方が変化しないという所に意味がある。丸山眞男はこんなふうに書いています。
「日本の多少とも体系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来思想である、けれどもそれが日本に入って来ると一定の変容を受ける。それもかなり大幅な『修正』が行われる。先ほどの言葉を使えば併呑型ではないわけです。そこで、完結的イデオロギーとして『日本的なもの』を取り出そうとすると必ず失敗するけれども、外来思想の『修正』パターンを見たらどうか。そうすると、その変容パターンにはおどろくほどある共通した特徴が見られる。そんなに『高級』な思想のレヴェルでなくて、一般的な精神態度としても、私達はたえず外を向いてきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」(引用元 丸山眞男著「原型・古層・執拗低音」、『日本文化のかくれた形』岩波現代文庫 2004年 P138-139)
26 日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど。変化する仕方は変化しないということなのです。
26 日本思想史はいろいろと変わるけれども、にもかかわらず一貫した云々というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変わる、ということです。(中略)よその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が『伝統』化しているのです。(引用元 丸山眞男著「原型・古層・執拗低音」、『日本文化のかくれた形』岩波現代文庫 2004年 P138-139)
27 「日本社会の基本原理・基本精神は、『理性から出発し、互いに独立した平等な個人』のそれではなく、『全体の中に和を以て存在し……一体を保つ[全体のために個人の独立・自由を没却する]ところの大和』であり、それは『渾然たる一如一体の和』だ、というのである。(……)言いかえれば、『和の精神』ないし原理で成り立っている社会集団の構成員たる個人は、相互のあいだに区別が明らかではなく、ぼんやり漠然と一体をなしてとけあっている、というのであり、まさにこれは、私がこれまで説明してきた社会関係の不確定性・非固定性の意識にほかならないのであって、わが伝統の社会意識ないし法意識の正確な理解であり表現である、ということができる」(川島武宣著『日本人の法意識』、岩波新書 1967年 P172)
27-28 主義主張、利害の異なる他者と遭遇したとき日本人はとりあえず「渾然たる一如一体」の、アモルファスな、どろどろしたアマルガムを作ろうとします。そこに計画のあるもの、尖ったものを収めてしまおうとする。この傾向は個人間の利害の対立を調停する時に顕著に表れます。
28-29 しかしどんな尖った主張も「まあまあ、こちらにもお立場というものがあるわけですから、どうです、ここは一つナカとって……」で引き取ってしまう風儀を、単なる「法意識の未成熟」と決めつけてよいのかどうか。ちょっと待っていただきたいと思います。この調停術が聖徳太子以来千五百年続いてきたというのがほんとうなら、これは「他者」と応接するときの日本人の基本パターンであるということになります。川島はこれを「社会関係の不確定性・非固定性の意識」と呼びます。それは丸山の言う「よその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が『伝統』化したものと、指しているものは同じです。それが千年を超える伝統を持っているなら、西洋近代を「人類史の頂点」とする進歩史観を当てはめて、これを「後進性」とか「退嬰性」とみなし、矯正や廃絶の対象とするのはいささか早計というものではありますまいか。第一、西洋近代を基準にして、「だから日本はダメなんだ」という短絡的な結論を導き、伝統の矯正や廃絶を求めるというふるまいそのものが、伝統的な「変わり身の早さ」のもっとも定型的な徴候なんですから。
29 私達は変化する。けれども、変化の仕方は変化しない。そういう提携に呪縛されている。どうして、そんな呪いを自分にかけたのか。理由はそれほど複雑なものではありません。それは外部から到来して、集団のありようの根本的変革を求める力に対して、集団としての自己同一性を保持するためにはそういう手だてしかなかったからです。もっぱら外来の思想や方法の影響を一方的に受容することしかできない集団が、その集団の同一性を保持しようとしたら、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるしかない。
30 私達がふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、つねに新しいものにキャッチアップしようと浮足立つのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナル・アイデンティティを規定したからです。世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を捨つるが如く伝統や古人の知恵を捨て、一時も同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たちは日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。
オバマ演説を日本人ができない理由
30 2009年1月20日、バラック・オバマはワシントンに集まった二百万人の聴衆を前に歴史的な就任演説をしました。素晴らしい演説でした。
31 (この演説の)どこが感動的かというと、清教徒たちも、アフリカから来た奴隷たちも、西部開拓者たちも、アジアからの移民たちも、それぞれが流した汗や涙や血はいずれも今ここにいる「私たちのため」のものだというところです。人種や宗教や文化の差を超えて、「アメリカ人たちは先行世代からの「贈り物」を受け取り、それを後代に伝える「債務」も同時に継承する。アメリカ人がアメリカ人であるのはかつてアメリカ人がそうであったようにふるまう限りにおいてである。これがアメリカ人が採用している「国民の物語」です。
アメリカ人の国民性格はその建国のときに「初期設定」されています。(中略)ここが正念場というときには「私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか」という起源の問いに立ち戻ればいい。(中略)私たち(日本人)は国家的危機に際会したときに、「私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか」という問いに立ち帰りません。私たちの国は理念に基づいて作られたものではないからです。私たちには立ち返るべき初期設定がないのです。
33 第二次世界大戦の死者たちについてさえ、その死が何を意味するかについて、私たちは国民的合意を持っていない。死者たちはある人々から見れば「護国の英霊」であり、ある人たちにとっては「戦争犯罪の加担者」です。まるで評価が違う。彼らはなぜ死んだのか、その死を代償にして、私たち後続世代に何を贈り、何をやり残した仕事して課したのか、その贈与と責務を私たちはどう受け止め、それを次世代にどう伝えてゆくのか、悲しむべきことに、それについての国民的合意は存在しません。
33-34 大和の沖縄出動に動員された士官たちの論争を一人の海軍大尉がこう語って収拾したと吉田満は『戦艦大和ノ最期』に記録しています。
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジスギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」
「日本ノ新生ニサキガケテ散ル」ことを受け容れた多くの青年がおり、戦後の平和と繁栄は彼らから私たちへの死を賭した「贈り物」であると私は思っています。けれども、彼らが私たちに負託した「本当ノ進歩」について、私たちは果たしてそれに応え得たでしょうか。それ以前に、そのような付託が先行世代から私たちに手渡されたという「物語」を私たちは語り継いできたでしょうか。
私たちはそのような物語を語りません。別に今に始まったことではなく、ずっと昔からそうなのです。私たちは歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かということについてほとんど何も語りません。代わりに何を語るかというと、他国との比較を語るのです。
他国との比較でしか自国を語れない
35 私たちは「日本はしかじかのものであらねばならない」という当為(度欲註:まさになすべきこと)に準拠して国家像を形成するということをしません。できないのか、しないのか、それは次の問題として、私たちはひたすら他国との比較に熱中します。「よその国はこうこうであるが、わが国はこうこうである。だからわが国のありようはよその国を基準にして正されねばならない」という文型でしか「蓋世の言」が語られない。
36 (オバマ演説に対する日本の首相の感想には)ある国固有の、代替不能の存在理由は、そのGDPや軍事予算の額やノーベル賞受賞者の数などとは無関係に本態的に定まっているという発想がここにはありません。
37 他国との比較を通じてしか自国の目指す国家像を描けない。国家戦略を語れない。そのような種類の主題について考えようとすると自動的に思考停止に陥ってしまう。これが日本人のきわだった国民性格です。
38 日本という国は建国の理念があって国が作られているのではありません。まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的地位がさだまる。よその国が示す国家ヴィジョンを参照して、自分のヴィジョンを考える。
39 アメリカが日本の国益を損なう要求をしてくる場合でさえ、それは「やはり日米同盟しかない」という「外交通」たちの核心を揺るがすことがありません。そのような異常な判断が成り立つのは、「アメリカがときに日本の国益を損なうような要求をするのは、それだけアメリカが日本に近しい感情を抱いているからだ。『身内』だからこそ、このような理不尽なことを平気でしてくるのだ」という奇妙な信憑が私たちに共有されているからです。
39 おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず「長いものに巻かれて」みせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度、これこそは丸山眞男が「超国家主義の心理」として定型化したものでした。
日本の軍人たちは首尾一貫した政治イデオロギーではなく、「究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識」に基づいてすべてを整序していたというのが丸山の解釈です
。(丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」「現代政治の思想と行動」未来社 1964年 P20, P20-21)
44 「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることにもっぱら知的資源が供給されるということです。自分が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることの方を優先するということです。
ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか。もっぱらその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います。
「お前の気持ちがわかる」空気で戦争
45-46 もちろん、私たちも何から何まで空気で決めているわけではありません。どういう空気を醸成するかについて、それぞれの立場から論理的な積み上げをそれなりに行ってはいるのです。でも、論証がどれほど整合的であり、説得力のある実証が示されても、最終的には場の空気がすべてを決める。場の空気と論理性が背馳(度欲註:反対になること)する場合、私たちは空気に従う。
「自分の言いたいこと」が実現することよりも、それが「聞き届けられること(実現しなくてもいい)」の方が優先される。自分の主張が「まことにおっしゃるとおりです」と受け容れられるなら、それがいつまでたっても実現しなくても、さして不満に思わない。私自身がそうなのです。まことに不思議な心性というべきでしょう。
46-47 丸山はさきの戦争について、これを主導した「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」がないことにとりわけ注目します。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。しかるに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」。
(丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」「軍国支配者の精神形態」「現代政治の思想と行動」未来社 1964年 P24, P107, P108, P108-109, P109)
47-48 日本の行った戦争には綱領的な指導理念がありませんでした。もちろな「五族協和」とか「八紘一宇」とか「四海同胞」とかいうスローガンはありましたけれど、これは要するに「私たちは『身内』である」ことの言い換えに他なりません。私たちは「侵略」しているのではなく、「兄」として「弟」たちの無作法をとがめ、かつその蒙昧さをひらいているのであるという言い方が繰り返しなされました。「私たちは『同類』である」という宣言は「だから説明しない」ということと実践的には同一の意味です。「同類」「身内」であれば、ことさらに言揚げして、どのような企画をどのような手順で実現しようとしているのかについて挙証責任はない。そう考えている。
丸山の言う「ずるずる」というのは、その政治的行為を主宰する主体がいないことを示す擬態語です。ある政治判断について、その意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす鋼材のすべてについて責任を取ろうという人間がいない。既成事実の前には際限なく譲歩し、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。
49-50 (東京)裁判記録を引用した後、丸山はこう結論しています。
「右のような事例を通じて結論されることは、ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出されていくものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにいえばどこからか起こって来たものと考えられていることである。『現実的』に行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということになる。」
(丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」「軍国支配者の精神形態」「現代政治の思想と行動」未来社 1964年 P24, P107, P108, P108-109, P109)
50 ここには日本人の思考原型がみごとに言い表されています。
ただし、私は丸山ほど手厳しくこれを断罪する気にはなれません。というのは、日本人は昔からずっとそうだったし、それでなんとかやりくりしてきたからです。それでうまくいった政治的難局だってあった。いや、むしろその方が多かったかもしれない。ですから、その成功体験に固執しているのだと私は思います。成功体験が共有されていなければ、このような特異な心的傾向がひろく内面化されるということは起こりません。場の空気が醸成されると、誰も反対しない。おのれの固有名を賭けて全体的趨勢に反対する人間が出てこない。この「付和雷同」体質が集団の合意形成を早め、それが焦眉の危機的状況への対処を可能にした事例がじじつ歴史上に何度かあった。
51 「現実主義」の意味するところは現代も小早川秀秋の時代と変わりません。現実主義者は既成事実しか見ない。状況をおのれの発意によって変えることを彼らはしません。すでに来てしまって、趨勢が決したことに同意する。かれらにとっての「現実」には「これから起こること」は含まれません。「すでに起きたこと」だけが現実なのです。丸山が言うとおり、わが国の現実主義者たちは、つねに「過去への繋縛のなかに生きている」のです。
ロジックはいつも「被害者意識」
51 そもそも私たちは「日本とはどういう政治単位であり、どういう理念に基礎づけられ、どういう原理で統治されており、どういう未来を志向しているのか」という国民国家にとって必須の問いにさえ答えることができない。それが未来を志向しているからです。未来は日本的「現実主義者」の視野には入ってこない。
53-54 日本の国民的アイデンティティの中心は、この「他国に従属しても政体の根本理念が変わっても変わらないもの」、すなわち、「状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来しも私たちはつねにその受動者である」とする自己認識の仕方そのもののうちにあるからです。
ですから、国體を国際法上の言葉で定義することができなかったという事態そのものが日本という国家の本質的ありようをみごとに定義している。そう考えた方がいい。「何となく」日本人の集団行動を導く、言葉にできない「何物か=空気」、そのつどの既成事実をそのまま受け容れ、それに屈服するというありかたが久しく私たちの国の機軸をなしていたし、今もなしている。
55 戦争指導者たちは「悪気はなかった」という言い訳を東京裁判で真剣な表情で繰り返しました。日本人が他国侵略に際して、「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」というようなスローガンを掲げたのは、「武力による多民族抑圧はつねに皇道の宣布であり、多民族に対する慈恵行為」であるということを多少は本人も信じていたからです。
それに対してナチ親衛隊帳ヒムラーは「諸民族が繁栄しようと、餓死しようと、それが余の関心を惹くのは単に我々がその民族を、われわれの文化にたいする奴隷として必要とす限りにおいてであり、それ以外にはない」と獅子吼しました。日本人にここまで確固とした戦争理念を見ることはできません。私たちはたとえ欺瞞的ではあっても、「慈恵行為」を大義に掲げずには侵略することができない。侵略相手の国民にさえ、空気の共有や場の親密性を求めてしまう。
丸山がこの文章を書いてから六十年以上が経過しましたが、これらの指摘はすべて今でも十分に妥当します。
56 「大東亜戦争」を肯定する、ありとあらゆる論拠が示されるにもかかわらず、強靭な思想性と明確な世界戦略に基づいて私たちは主体的に戦争をしたと主張する人だけがいない。戦争を肯定する誰もが「私たちは戦争以外の選択肢がないところにまで追い詰められた」という受動態の構文でしか戦争について語らない。思想と戦略がまずあって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。ほんとうにいないのです。どれほど好戦的な核武装論者でさえ、彼らのロジックを支えているのは「被害者意識」なのです。
57 (政治的に)「追い詰められない」ための予防的手だてを講ずるということについてはほとんど知的リソースを投じない。まず、「あちら」が先手を打つゲームから始まる。自分から「打つ手」というのは何も考えていない。現代日本のミリタリストたちもまたその発想法においては、まことに「辺境」の伝統に忠実であるといわねばなりません。
「辺境人」のメンタリティ
57-58 「辺境」という概念をここで一度きちんと定義しておくことにします。「辺境」は「中華」の対概念です。「辺境」は華夷秩序のコスモロジーの中に置いてはじめて意味を持つ概念です。
世界の中心に「中華皇帝」が存在する。そこから「王化」の光があまねく四方に広がる。近いところは王化の恩沢に豊かに浴して「王土」と呼ばれ、遠く離れて王化の光が十分に及ばない辺境には中華皇帝に朝貢する蕃国がある。これが「東夷」、「西戎」、「南蛮」、「北狄」と呼ばれます。そのさらに外には、もう王化の光も届かぬ「化外」の暗闇が拡がっている。中心から周縁に遠ざかるにつれて、だんだん文明的に「暗く」なり、住民たちも(表記的には)禽獣に近づいてゆく。そういう同心円的なコスモロジーで世界が整序されている。
58 中華思想は中国人が単独で抱いている宇宙観ではありません。華夷の「夷」にあたる人々もまたみずから進んでその宇宙観を共有し、自らを「辺境」に位置付けて理解する習慣を持たない限り、秩序は機能しません。
日本列島は少なくとも中華皇帝からは久しく朝貢国と見なされてきました。朝貢国は皇帝に対して臣下の礼をとり、その代償に「国王」は冊封される。
60 日本列島における民族意識の発生について私たちがとりあえず言えることは、この地に最初に政治単位が出現したその起点において、その支配者はおのれを極東の蕃地を実効支配している諸侯のひとりとして認識していたということです。列島の政治意識は辺境民としての自意識から出発したということです。
62-63 「日出づる処の天子」と「皇室」の事例から、私たちが知るのは、日本と朝鮮では華夷秩序の内面化の程度にかなりの差があることです。朝鮮が久しく日本列島を「蛮夷」として見下してきたのは、列島人があまりに「田舎者」すぎて、華夷秩序における正しい作法を知らず(か知らぬふりをしてか)、長者に当たる朝鮮に対してしかるべき敬意を示すことを怠ってきたことが一因です。司馬遼太郎はこう書いています。
「李氏朝鮮は、平俗にいえば、中国にいます皇帝をもって本家とし、朝鮮王は分家であるという礼をとった。地理的には蕃であっても、思想的には儒教であるため、大いなる華の一部をなすという考え方だった。
それだけに朝鮮儒教では華夷の差を立てることには過敏だった。当然ながら、この"理"によって日本は蕃国であらねばならない。ただ朝鮮という華に朝貢してこないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になる。」
(司馬遼太郎著「この国のかたち五」文春文庫 1999年 P205-206)
朝鮮は古来みずからを文明とし、日本を野蛮とみなしましたが、これは歴史的事実を踏まえて導かれた結論ではありません。倭寇が沿岸部を侵略したから、豊臣秀吉が侵攻したからそういう評価が定着したということではなく、宇宙論としてそうなっているということです。つまり、日本列島が華夷秩序内で「蕃地」にカテゴライズされている以上、そのふるまいのすべてには形式論的に「無知」というタグがつくということです。何をやっても日本人がやることは無知ゆえに間違っている。これは華夷秩序イデオロギーが導く自明の結論です。そして日本人の側もそういうふうに自分たちが見られているということを知っていた
66-67 ひねくれた考え方ですけれど、華夷秩序における「東夷」というポジションを受け容れたことでかえって列島住民は政治的・文化的なフリーハンドを獲得したというふうには考えられないか。朝鮮は「小中華」として「本家そっくり」にこだわったせいで政治制度についても、国風文化についてもオリジナリティを発揮できなかった。それに対して、日本列島は「王化の光」が届かない辺境であるがゆえに、逆にローカルな事情に合わせて制度文物を加工し、工夫することを許された(かどうかは知りませんけれど、自らには許しました)。
67 この国際関係における微妙な(たぶん無意識的な)「ふまじめさ」。これはもしかすると、辺境の手柄の一つかもしれないと私は思うのです。はるか遠方に「世界の中心」を擬して、その辺境として自らを位置づけることによって、ミスもロジカルな心理的安定をまずは確保し、その一方で、その劣位を逆手にとって、自己都合で好き勝手なことをやる。この面従腹背に辺境民のメンタリティの際だった特徴があるのではないか、私はそんな風に思うことがあります。
68-69 憲法九条と自衛隊の「矛盾」について、日本人が採用した「思考停止」はその狡知の一つでしょう。(中略)九条は日本を軍事的に無害化するために、自衛隊は日本を軍事的に有効利用するために。どちらもアメリカの国益にかなうものでした。ですから九条と自衛隊はアメリカの国策上はまったく無矛盾です。
この誰の眼にも意味のあきらかなメッセージを日本人は矛盾したメッセージに無理やり読み替えた。(中略)アメリカの合理的かつ首尾一貫している対日政策を「矛盾している」と言い張るという技巧された無知によって、日本人は戦後65年にわたって、「アメリカの軍事的属国である」というトラウマ的事実を意識に前景化することを免れてきました。
私はこれをひとつの政治的狡知であると思います。ただ、これは偶発的、単発的に出てきたものではなく、「日出づる処の天子」以来の辺境人の演じる「作為的な知らないふり」の一変奏なのだと思います。私たちには「そういうこと」ができる。ほとんど無意識的にできる。
70-71 わが国では「華夷秩序周辺の辺境だから」という前段から、まったく正反対の結論をそのつどのこちらの事情に従って導くことができる。
「辺境人であること」は日本人全員が共通している前提であって、これを否定することは私たちにはできません。というのはこのコスモロジーを否定するためには、それと同程度のスケールを持つ別のコスモロジーを対置するしかなく、現に日本人は東アジア全域を収めるような自前の宇宙論を持っていないからです。過去も現在も日本人は一度として自前の宇宙論を持ったことがない(そしてたぶんこれからも持つことができない)。
もちろん、それは日本人が、「わが国こそが世界の中心である」という夜郎自大な名乗りをしたことがなかったという意味ではありません(何度もしました)。けれども、その名乗りは常に中華思想を逆転したかたちでしかなされなかった。
72 もし、辺境人が本当に中華思想を超克し、華夷秩序の呪縛から逃れ出したいとおもっているなら、それは中心と周縁の物語とは別の物語を創り出すことによってしか果たされません。
明治人にとって「日本は中華」だった
73 明治維新後、日本は近代の国際社会に足を踏み入れました。そこは華夷秩序のコスモロジーとは違う種類の物語によって政治的幻想が編成している境域でした。ですから、日本は華夷秩序以外の物語に基づく外交戦略を採用することもできたのです。けれども、日本はそのどれも採用しなかった。
明治初期の征台論、征韓論は外交戦略としてしては何をめざしたのか、よく意味の分からない行動です。けれども、「日本は中華であり、天皇こそが中華皇帝である」という華夷秩序の物語のスキームの中で考えると理解できる。というのは、国力が充実した中華王朝は国威発揚のために必ず四囲の蕃族を討伐するからです
74 明治維新後近代化に成功して大陸半島に対して軍事的優位をもったとたんに日本が行ったのは、華夷秩序を反転させ、新たな「中華」である欧米列強の手法をそこに適用することでした。
75 ジョルジュ・クレマンソー、ロイド・ジョージ、ウッドロウ・ウィルソンが仕切ったこの会議(第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議)は戦後世界に新しい国際秩序を創り出すことを主目的としていました。「新しい国際秩序の創出」です。世界の成り立ちについての新しい物語を作り出すことです。20世紀の国民国家とはどのようなものであるべきなのか、諸国民はそれぞれにどのような役割を担うべきなのか、どのような包括的なスキームを適用すれば、国家間の利害調整をフェアな仕方で行いうるのか。そういった本質的な問いに応え得るような新しい物語が要請されていました。でも、このときの日本全権たちは、そのような新しい物語の必要性を感じていませんでした。そもそもこのような戦争を二度と起こしてはならないと日本人は別に思っていなかった。明治維新以来の日本は戦争にすべて勝ち、領土を拡大し、権益を獲得し、市場を拡げ、雇用を創出してきました。それを「止めろ」という話に同意できるはずがない。
77 この生々しい外傷的経験から(第一次世界大戦の)戦後のヨーロッパの人々は国際平和の必要性を生身の痛感に基づいて実感しました。けれども、日本の指導者にはその実感がまったくなかった。(中略)ですから、国際協調や軍縮は、大国が自国権益追求を隠ぺいするために功利的に利用している美辞麗句にしか聞こえなかった。「国際平和のために自分たちには何ができるのか」という問いを自らに向けた政治指導者は日本にはいませんでした。
78 私たちは国際社会のために何ができるのか。これは明治維新以来現代に至るまで、日本人がたぶん一度も真剣に自分に向けたことのない問いです。このような問いを自らに向け、国民的合意を形成し、かつ十分に国際共通性を持つ言葉で命題を語るための知的訓練を日本人は自分に課したことがない。なくて当然です。というのは、「とにかく生き延びること」が最優先の国家目標であったからです。
79 不幸なことに、その結果、近代日本人は「私たちはいかなる責務を果たすために国際社会に参与しているのか」という国民の存在理由を基礎づける一連の問いを自らに向ける責務を免ぜられたまま「五大国」の一角という高い国際的地位に上り詰めてしまいました。その政治的未熟が最初に露呈したのがヴェルサイユ講和会議だった。日本はここで平和主義・国際協調に向かう「新秩序」の潮流にあからさまに非協力的な態度を示し、列国の指導者の信頼を失いました。日英同盟の解消はこの文脈の中で理解されるはずです。
82 「私は被害者です」という自己申告だけではメッセージの倫理性を基礎づけることができません。「私たちは人間としてさらに向上しなければならない」という、一歩踏み込んだメッセージを発しうるためには、被害事実だけではなく、あるべき世界についてのヴィジョンが必要です。自分の経験を素材にして、自分の言葉で編み上げた、自前の世界戦略が必要です。けれども、私たちにはそれがない。
日本人が日本人でなくなるとき
82-83 明治時代にアメリカに渡り、苦労してイェール大学の教授になった日本人に朝河貫一という人がいます。彼は日露戦争の前後にアメリカの世論を親日的な方向に導くために講演や出版活動で懸命の努力をして忘れがたい功績を残しました。
先に書いたように、日本は戦勝国として、第一次世界大戦後の国際新秩序を領導すべき立場にありながら、時代遅れの帝国主義モデルに取り憑かれてしまいます。朝河貫一は日露戦争後の日本のこの未来志向の欠如を悲しみ、深く憤ります。
日露戦争に日本が薄氷の勝利を収め得たのは、「ただ武人兵器の精鋭のみにあらず、武士道の発揮のみにあらず、はた全国一致の忠君愛国真にのみにもあらず(……)実に絶体絶命止むを得ずして燃え上がりたる挙国の義心がそのまま東洋における天下の正義と運命を同じゅうすという霊妙なる観念が、五千万同胞を心底より感動せることを忘るべからず」
(朝河貫一著「日本の禍機」講談社学術文庫 1987年P130)
「東洋における天下の正義」と朝河がここで言うのは清国の主権保全と機会均等のことです。「機会均等」というのは、二十世紀の初めの国際外交のキーワードの一つですけれど、清国の利権を独占せず、交易や市場参入に諸国が平等のルールで競争に参加することを具体的には意味しています。(中略)列国による中国の分割蚕食をこれ以上進めず、中国の主権回復と市場の成熟を待つという選択肢は清国民にとっても、相対的には「ましな」ものであったでしょう。
84 日露戦争における日本の勝利は「旧外交」路線をひた走るロシア帝国に対して、大義名分として「新外交」の二大原則を掲げ、国際社会の支援をとりつけたことで獲得されたものでした。
85 戦後、日本は「前日の敵」ロシアの轍を踏む方向に舵を切ります。割譲地、鉱山鉄道についての利権、領事の治外法権、居留地専管地の行政権を獲得し、清国の主権と機会均等を侵す政策を次々展開してゆきます。朝河はこのふるまいを「暫時の小利に眩みて永遠の国運を思わ」ぬものとして痛罵しました。(朝河貫一著「日本の禍機」講談社学術文庫 1987年P130) この暗鬱な予言の通りに、日本は「国運の分かれ目」で道を誤り、その三十年後には亡国の危機に瀕することになります。
86 冷静に国益を考察できる政治家であれば、日露戦争後は薄氷の戦勝をもたらした「新外交」戦略を維持し、国際世論を背景に清の主権保全を助成するほうがより有利であるという推論はできたはずです。それが短期的には大陸での権益の逸失を意味したとしても、長期的には国際社会における名分的優位と発言力をもたらすことの利益も推理できたはずです。
86-87 長期的な国益を考えればありうる選択肢を無視し、まるで魅入られたように、短期的利益の確保という視野狭窄的なソリューションに向かった。(中略)ポーツマス条約の後に日比谷焼打ち事件を惹き起こした日本のマスコミと大衆運動化たちが国際状況と日本の国力の評価についてひどく無知であったことは確かに事実です。日本国民は国際状況を知らなかった。政府自身が日露戦争の「薄氷の勝利」の実情を国民には知らせていなかった。(中略)
経験的に言っても、「国民的規模での無知」が政府の管理によって達成されることはないからです。人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままであることを欲望する場合だけです。
88 幕末と明治末年では、国際情勢について、一般国民がアクセスし得た情報量には天地の隔たりがあります。にもかかわらず、幕末においては状況判断を過たなかった日本人が、明治末年には状況判断を過った。とすれば、その理由を情報量の多寡で説明することはできない。説明しようとすれば、国民たちは幕末において日本が直面していた状況は理解できたが、日露戦争後にに日本が直面していた状況は理解できなかったという言い方になる。では、この二つの歴史的局面では何が違っていたのか。
88-89 幕末の日本人に要求されたのは「世界標準にキャッチアップすること」であり、それに対して、明治末年の日本人に要求されたのは「世界標準を追い抜くこと」であったということ。これだけです。
日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣する時には卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。(中略)他国の範になるようなことをしたら日本人はもう日本人ではなくなってしまうとでも言うかのように。
89 この脊髄反射的な無能化から、私たちはこれが民族のアイデンティティに関わる問題だということを察することができます。というのも、長期にわたる国益を損じても守らなければならないものがあるとすれば、(中略)それは国益を享受すべき当の主体です。日本人が国益を損なっても守ろうとするものがあるとすれば、それはひとつしかありません。それは日本です
逆説的に聞こえるでしょうけれども、論理の経済は私たちにそういう推論を要求します。「諸国の範となるような国に日本はなってはならない」という国民的決意を基礎づけるのは「諸国の範となるような国」はもう日本とは呼べないということを私たちが知っているからです。そんなのはもう日本じゃない。
90 朝河が情理を尽くして説いたような「東洋の平和と進歩とを担保して、人類の文明に貢献し、政党の優勢を持して永く世の畏敬を受く」るような国になったら、それはもう日本ではない。日本国民の過半は無意識的にそう判断したのです。
91 日露戦争後、満韓で日本がしたことは「ロシアが日露戦争に勝った場合にしそうなこと」を想像的に再演したものです。未完の計画ではありましたが、設計図だけはちゃんとあった。だから、この作業は本質的には「キャッチアップ」なのです。
とことん辺境で行こう
92 帝国主義列強に「伍す」ることこそは我が国民的悲願でした。けれども、帝国主義列強を「領導する」ことを国民は誰も望んでいない。世界の範となり、諸国民に人類の進むべき道を指し示すというような仕事は誰も望んでいない。そもそも、そんなことができるはずがないと全員が思っていた。
93 本来のナショナリズムは余を以ては代え難い自国の唯一無二性を高く、誇らしげに語るはずであるのに、わが国のナショナリストたちは、「自国が他の国のようではないこと」に深く恥じ入り、他の国に追いつくこと、彼らの考える「世界標準」にキャッチアップすることの喫緊である旨を言い立てている。
94 日本の右翼左翼に共通する特徴は、どちらも「ユートピア的」でないこと、「空想的」でないことです。すでに存在する「模範」と比したときの相対的劣位だけが彼らの思念を占めている。
95 ヨーロッパ思想史が教えてくれるのは、社会の根源的な変革が必要とされるとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想社会を今ここで実現しようとする強靭な意志を持った人々です。
しかし、日本史上には、そのような事例を見つけることはきわめて、ほとんど絶望的に困難です。
96 今問題にしているのは有用なコンテンツを発信したかどうかではありません。マーケットを独占できたかどうかではありません。教化的にふるまうことができたかどうかです
「教化」というのは、「諸君は私のメッセージを理解せねばならない。なぜなら、諸君が私のメッセージを理解せねばならない理由を諸君はまだ知らないが、私はすでに知っているからである」というアドバンテージを主張できるものだけがなしうることです。(中略)
私たちにできるのは「私は正しい。というのは、すでに定められた世界標準に照らせばこれが正しいからである」という言い方だけです。それ以外の文型では「私の正しさ」について語ることができない。
97 「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」、それが辺境の限界です。知識人のマジョリティは(中略)日本の制度文物はすべて、世界標準とは比べものにならないと彼らは力説する。そして、「だから、世界標準にキャッチアップ」というおなじみの結論に帰着してしまう。
98 右翼も左翼も中道も知識人も非知識人も(中略)そういう語法でしか語ることができないということに気づいていない
98-99 指南力のあるメッセージを発信するというのは、「そんなことを言う人は今のところ私の他に誰もいないけれど、私はそう思う」という態度のことです。自分の発信するメッセージの正しさや有用性を保証する「外部」や「上位審級」は存在しない。そのようなものに「正しさ」を保証してもらわなくても、私はこれが正しいと思うと言いうる、ということです。どうして言いうるかと言えば、その「正しさ」は今ある現実のうちにではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求めるからです。私の正しさは未来において、それが現実になることによって実証されるであろう。それが世界標準を作り出す人間の考える「正しさ」です。
100 私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保証するだけかがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。そして、それはもう私たちの血肉となっている。どうすることもできない。私はそう思っています。千五百年前からそうなんですから。
100 私は、こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです。
なにしろ、こんな国は歴史上、他の類例を見ないのです。それが歴史に登場し、今まで生き延びてきている以上、そこには何か固有の召命があると考えることは可能です。日本を「ふつうの国」にしようとむなしく努力するより(どうせ無理なんですから)、こんな変わった国の人間にしかできないことがあるとしたら、それは何かを考える方がいい。その方が私たちだって楽しいし、諸国民にとっても有意義でしょう。

第II章 辺境人の「学び」は効率がいい
「アメリカの司馬遼太郎」
101-102 つい場の空気に流され、自前の宇宙論を持たず、辺境の狡知だけを達者に駆使する日本人の国民性格を私は他国に比べて例外的に劣悪なものだとは思っていません。(中略)誰もが、それぞれの国民を共扼している思考や感情の型から完全に自由な人間などいません。
その「型」は諸国民にとって檻であると同時に、共感と同意の場でもあります。国民性の「型」にぴたりとはまらないと自国民の心の琴線に触れることはできない。逆に言えば、深く金銭に触れる思想や感覚は、その国民以外には感知され難い。
読んだときに心のひだにしみいるように感じるテクストの書き手は種族に固有の論理や情感を熟知している。そういう書き手や作品を検出するために簡単な方法があります。それは外国語訳されているかどうかを見ることです。
103-104 もし、アメリカに「司馬遼太郎みたいな作家」がいたとしたら、どうなっているでしょう。「アメリカの司馬遼太郎」が書いた「独立戦争」ものや「南北戦争もの」や「ウェスタン文学」を日本人は争って読むことでしょう。なぜ日本の司馬遼太郎はアメリカでベストセラーにならないのに、なぜ「アメリカの司馬遼太郎」は日本ではベストセラーになるのか(いないので、なっていませんが)。これは私たちの国民性格を知る上で一つのヒントになると思います。
他国の国民性格について、その特異なものの考え方や感じ方を知ろうと望むなら「国民作家」の書いたものを読むにしくはない。私たちはそう考える。けれどもそんな風に考えるのはたぶん私たちだけです。
104-105 吉本隆明でも江藤淳でも、彼らが考究したのは、恒に日本人のことです。その独特な国民性格を解明するためですし、つねに念頭を占めていたのは「私たちは前近代のエートス(端的には武士道)と欧米文明とをどう接合できるのか」という主題でした。たしかにこれは私たちにとっては死活的に重要な主題ですけれども、徹底的にドメスティックな主題です。よその国の人にとってはまるで「ひとごと」です。もしかすると、「どうやって欧米に追いつくか」が喫緊な国民的課題であるアジア諸国の知識人の中にはこのような問題設定に共感する人もいるかもしれませんが、それでも「武士道」が何であり、それを継承することにどんな意味があるのかはほとんど理解できないでしょう。
106 (アメリカ人は)自分のよりどころはいま・ここにいる自分だけだというわけですが、みちろんいま・ここにいる自分なんてあやふやで頼りないものでしかない。自意識過剰になるのも当然だと思います」(高橋源一郎。柴田元幸著「小説の読み方、書き方、訳しかた」河出書房新社 2009根な P62-63/64)
だから、アメリカ人は「我々はこういう国だ」という宣言から始める。「『私は何々である』と規定することからはじめられたというか、はじめなければならなかった」。だから「アメリカの作家と話していてもみんな言うのは、アメリカっていうのは要するに一つのアイディアなんだ、ということです。」(高橋源一郎。柴田元幸著「小説の読み方、書き方、訳しかた」河出書房新社 2009根な P62-63/64)
106-107 私はこれを読んで、思わず膝を叩きました。日本の作家たちが口をそろえて「日本っていうのは要するに一つのアイディアなんだ」というありさまを皆様は想像できますか。私はできません。それは私たちは「我々はこういう国だ」という名乗りから始まった国民ではないからです。
私たちは自分たちがどんな国民なんだかよく知らない。日本人にとって、「われわれはこういう国なのだ」という名乗りは、そこから全てが始まる始点ではなく、むしろ知的努力の到達点なのです。(中略)「日本人とはしかじかのものである」ということについての国民的合意がない。
108 こんなふうに「いつの時代の日本人がいちばん日本人として出来が良かったか」というようなことが議論の主題になるという事実そのものが「日本人とは何か」についての国民的合意が存在しないことの動かぬ証拠なのです。
109 誰もが、「ほんとうの日本人はどこにいるのか」と「きょろきょろ」訪ね歩いている。ここに欠けているのは「私が日本人である。日本人を知りたければ私を見ろ」とすぱっと言い切る態度です。それだけは誰にもできない。
アメリカ人の場合は、「アメリカ人とは何か」ということは、彼ら自身の生き方を通じて現に物質化しています。「息をしていても、飯を食っていても、風呂に入っていても、私は常にアメリカ人である」という確信が深く内面化している。フランス人も同じですし、中国人も同じです。
110 でも、私たちはそうではありません。私たちは不安でしかたがない。日本人であることはどういうことなのか、私たちは確信を持っては言うことができないからです。「どういうふうにふるまうのが日本人らしいのだろうか」ときょろきょろあたりを見回して、「「日本人の標準的ありよう」ってなんだろうと思量している。でも、国民的合意はどこにもない。その不安がつねにつきまとっている。
君が代と日の丸の根拠
112 「アメリカとは何か」という根本的な問いをアメリカ市民たちがまっすぐ自らに向けて、その問いに自らの責任で答えることを当然だと思っていることが知れるからです。(中略)少なくとも、「アメリカとは何か、アメリカ人はいかにあるべきか」という問いに市民ひとりひとりが答える義務と権利がともにあるということについては、「アメリカというアイディア」に骨肉を与えるのは私だという決意については、国民的合意が成立している。
日本にはそのような合意はありません。「日本とは何か、日本人はいかにあるべきか」という問いについては、何が「正解」なのかを知ろうとするだけです。どこかよそで、誰か他の人が決めたことのうち、どれに従えばいいのかを知りたがるだけです。「日本というアイディア」に骨肉を与えるのはこの私であるという発想をする人だけがいない。
114 今あるこの制度文物はいつ、どういう文脈の中で選択されて、どうして「これ」であり、「これ以外」のものでなかったのかについての、筋目の通った説明を求めることは、制度について根本的に思考するための第一歩です。しかし、日本人は「どうしてこうなったのか」についてはなぜか問わない。そして、「いつからかは知らないけれど、そう決まっているのだから、その通りにしよう」と考える。既成事実の前には実に従順に譲歩してしまう。
117 (日本という)国号が選ばれ、この国旗が選ばれ、この国歌が制定されたのには、それなりの歴史的条件が整っていた。その判断はおそらくその時点での最適解であった。そのことについての国民的合意をつねに形成しておくべきではないか。面倒がらずに、その時点まで繰り返し遡って、そのつど改めて「だから、これでよかったのだ」という合意形成のための情理を尽くす努力をすべきではないかと申し上げているのです。
虎の威を借る狐の意見
119 人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
120 断定的であるということの困った点は、「おとしどころ」を探って対話することができないということです。(中略)両方のどちらにとっても同じ程度不満足な妥協点というものを言うことができない。主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。
121 ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経験を言うことができないので「譲れない」のです。
122 日本人が国際社会で侮られているのというのがほんとうだとしたら、(中略)自分がどうしてこのようなものになり、これからどうしたいのかを「自分の言葉」で言うことができないからです。国民ひとりひとりが、国家について国民について、持ち重りのする、厚みや奥行きのある「自分の意見」を持っていないからです。持つことができないのは、私たちが日頃口にしている意見のほとんどが誰かからの「借り物」だからです。自分で身銭を切って作り上げた意見ではないからです。
123 日本人がどうして自分たちが「ほんとうは何をしたいのか」を言えないのは、本質的に私たちが「狐」だからです。私たちはつねに他に規範を求めなければ、おのれの立つべき位置を決めることができない。自分が何を欲望しているのかを、他者の欲望を模倣することでした知ることができない。
起源からの遅れ
124-125 自分の存在の起源について人間は語ることができません。空間がどこから始まり、終わるのか、時間がどこで始まり、終わるのか。私たちがその中で生き死にしている制度は、言語も、親族も、交換も、欲望も、その起源を私たちは知りません。私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、後から、プレイヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐強く待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界に関わっている。それが人間は本態的にその世界に対して遅れているということです。それが「ヨブ記」の、広くはユダヤ教の教えです。
普通の欧米の人はこういう考え方をしません。過ちを犯したので処罰され、善行をなしたので報酬を受けるというのは合理的である。けれども、処罰と報酬の基準が開示されておらず、下された処罰や報酬の基準は人知を超えているというような物語をうまく呑み込むことができない。
125-126 日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。現実にそうだから。それが私たちの実感だから。ゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなゲームをしなくちゃいけないのか、何のための、何を選別し、何を実現するためのゲームなのか、どうもいまひとつ意味が解らないのだけれど、とにかくやるしかない。
これが近代化以降の日本人の基本的なマインドです。そして、このマインドは、ある部分までは近代史の情況的与件に強いられたものですけれど、日本列島住民が古代からゆっくりと形成してきた心性・霊性にも根の先端が届いている。私はそうではないかと思います。
126-127 社会制度のうちには、「本源的な遅れ」という考想を前提にしないとうまく機能しないものがあります。一つは師弟関係です。(中略)
私たちにはどの人が私の師にふさわしいのかを俯瞰的視座から言うことができない。というのも、その技術や知識についての俯瞰的視座から一望することができないということが私たちがそれを学びたいと望んでいる当の理由だからです。
ほとんどの場合、私たちは学びたいと望んでいるものについて重要なことを何も知りません。「どうでもいいことを少しだけ知っているが、肝心なことは何も知らない」というくらいの無知のレベルにいるときが、ものを学ぶ動機は最も高い。
128 学び始めるためには、「なんだかわからないけど、この人について行こう」という清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だからです。そしてこの予備的な考査抜きで、いきなり「清水の舞台から飛び降りる覚悟」を持つことについては、私たち日本人はどうやら例外的な才能に恵まれている。
複数の選択肢のうちから最良のものを選択できるような俯瞰的な考慮的立場に立つことを禁じられたまま選択を迫られたもの、「起源に遅れて世界に到来したもの」が発達させることのできる才能はそれしかありません。そして、これは同時にすぐれて宗教的な態度でもあります。
『武士道』を読む
129 新渡戸稲造にして、おのれの正邪善悪の観念を形成しているものを「体系」というかたちでは言うことができなかった。それは何となく決まっているものであり、「これは武士道にかなっている」「これはかなっていない」という判断には汎通性があるけれど、改めて「それは何を基準に定まるのか」と問われると。うまく答えることができない。「武士道」というのは「鼻腔に吹き込」まれるもの、まさに「空気以外の何物でもないからです。
130 新渡戸によれば、武士道が武士階級から平民たちに流下し、「全人民に対する道徳的標準」となったとき、それは「大和魂」と呼ばれます。
130-131 「『大和魂』は遂に島帝国の民族精神(フォルクスガイスト)を表現するに至った。もし宗教なるものは、マシュー・アーノルドの定義したるごとく『情緒によって感動されたる道徳』に過ぎずとせば、武士道に勝りて宗教の列に加わるべき資格ある倫理体系は稀である。本居宣長が
  敷島の大和心を人問はば
  朝日に匂ふ山桜花
と詠じた時、彼は我が国民の無言の言を表現したのである」(丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」「現代政治の思想と行動」未来社 1964年 P20, P20-21)
新渡戸は武士道の心髄を「山桜花」の審美的たたずまいに托して筆をおいてしまいます。それは結局「匂い」なのです。場を領する「空気」なのです。
133 まさに「脆く消えやすいもの」であることを至上の美質とみなすような文化であるがゆえに、それは脆くあってはならず、消えてはならない。これが新渡戸稲造の採用したトリッキーな論法です。
135 新渡戸は(中略)努力と報酬との間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する、そう言っているのです。これは日本文化の真相に届く洞見だと私は思います。
無防備に開放する日本人
135 努力と報酬の間の相関を根拠にして行動すること、それ自体が武士道に反する。(中略)私はこのような発想そのものが日本文化の最も良質な原型であるという点において新渡戸に同意します。
136 これはこれまでの著書でも繰り返し申し上げてきたとおり、「学び」の基本です。(中略)けれども、この構えを集団的な「刷り込み」によって民族的エートスにまで高めようという無謀を冒したのは日本人(とユダヤ人)くらいでしょう。
137 「学ぶ」構えは知性のパフォーマンスを向上させるためには劇薬的に効きます。劇薬であるだけに、使い方がむずかしい。おそらくそのせいで、「学ぶ」ということを集団の統合原理の基礎にしているような社会集団はほとんど存在しない。
139 英米系の叙述スタイルで学術論文を書く学者はわが国にもたくさんいます。でも、彼らが現に駆使している叙述スタイルが会得するに値するものであるかどうかをエビデンス・ベーストで説明することはしません。彼らがするのは、「これが『世界標準』だ。そう決まっているのだ」という宣告だけです。その適切性を証明するためには何もしない。「そう決まっている」と師に教えられたので、その形式を学んで、会得した。つまり、これは際立って日本人的にふるまい方だということです。
140-141 日本人はこれから学ぶものの適否について事前チェックをしない。これは私たちに刷り込まれた一種の民族誌的奇習です。けれども、この奇習ゆえに、私たちは、師弟関係の開始時において、「この人が師として適切であるかどうかについては吟味しない」というルールを採用していた。そういう仕方で知的なブレークスルーに対して高い開放性を確保していた。
141 自らをあえて「愚」として、外来の知見に無防備に身を拡げることの方が多くの利益をもたらすことをおそらく列島人の祖先は歴史的経験から習得したからです。
便所掃除がなぜ修行なのか
141-142 師弟関係では、弟子にはこれから就いて学ぶべき師を正しく選択したかどうかについては挙証が求められません。弟子に師を適正に格付けできる能力があらかじめ備わっているはずがないと考えられるからです。だから、誰を師としてもよい。そのように乱暴なことが言い切れるのは、一つには、師が何も教えてくれなくても、ひとたび「学び」のメカニズムが起動すれば、弟子の眼には師の一挙手一投足のすべてが「叡智の徴」として映るということです。そのとき、師と共に過ごす全時間が弟子にとってはエンドレスの学びの時間になる。
144 兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。(中略)「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。(中略)「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。
146-147 「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、これが学びの信仰告白の基本文型です。
学びの極意
148-149 私たち日本人は学ぶことについて世界でもっとも効率のいい装置を開発した国民です。(中略)辺境の列島住民が「最高の効率で学ぶ」技術を選択的に進化させたのはある意味では当然すぎるほど当然なことだからです。辺境民がその地政学的地位ゆえに開発せざるを得なかった「学ぶ力」が日本文化とその国民性の深層構造に(「執拗低音」のように)鳴り響いている。
『水戸黄門』のドラマツルギー
151 多くの場合、「虎の威を借る狐」は「どうせ狐だ」ということが初めから周りの人には露呈しています。
151-152 だから、どの時代の、どんな領域でも(政治でも、芸術でも、学問でも)「時流に乗って威張る人」と「時流に乗って威張る奴に、いいように鼻面を引き回されている人」があっという間にマジョリティを形成してしまう。見た目はずいぶん違いますけれど、かれらはある反応パターンを共有しています。それは、「何だかよくわからないもの」に出くわしたら、とりあえずそれに対して宥和的な態度を示すということです。「何だかわからないもの」に出会ったら、判断を保留し、時間をかけて吟味し、それが何であるかを究明しようとするのではありません。とりあえず宥和的な態度を示す。そのままぼんやり放置しておく。そして、誰かが「これはすごい」と言うと、たちまちそれが集団全体に感染する。
これは学びへの過剰適応と呼ぶことができると私は思います。
156-157 『水戸黄門』が日本人視聴者から長く選好されているのは、それが極めて批評性の高い「日本的システムの下絵」であり、「日本人と権力の関係については戯画」だからだと私は思っています。(中略)リアルに造形されているのはワルモノたちの方です。視聴者たちはこの、自己利益の追求においてはそれなりに合理的なのに、ひとたび外来の権威を前にすると思考停止に陥る人々のうちに自分たちの似姿を見て、「なるほど私たちの心理はこのように構造化されているか」と無意識のうちに再認しているのです。

第III章「機」の思想

どこか遠くにあるはずの叡智
158 「外部に上位文化がある」という信憑は私たちの「学び」を動機づけできています。それはまた私たちの宗教性をかたちづくってもいます。
158-159 辺境人の宗教性は独特のしかたで構造化されています。(中略)私たちの外部、遠方のどこかに卓越した霊的センターがある。そこから「光」が同心円的に広がり、この夷蛮の地にまで波及してきている。けれども、その光はまだ十分に私たちを照らしてくれてはいない。
この霊的コスモロジーは華夷秩序の地政学をそのまま宗教的に書き換えたものです。
159 自らを霊的辺境であるとする態度から導かれる最良の美質は宗教的寛容です。異教徒を許容するという宗教的寛容をヨーロッパ世界は無数の屍骸を積み上げた後にしか達成できませんでしたが、日本では宗派間の対立で殺し合いを演じたという事例はほとんど存在しません。
159 その反面、辺境的宗教性には固有の難点もあります。それは辺境人がおのれの霊的な未成熟を中心からの空間的隔絶として説明できてしまうせいで、未熟さのうちに安住してしまう傾向です
160 この辺境の距離感は私たちに余り深く血肉化しているせいで、それが今まさにこの場において霊的成熟が果たされねばならないという緊張感を私たちが持つことを妨げている。
161 私たちはパフォーマンスを上げようとするとき、遠い彼方に我々の度量衡では推し量ることのできない卓絶した境位がある。それをめざすという構えを取ります。自分の「遅れ」を痛感するときに、私たちはすぐれた仕事をなし、自分が何かを達成したと思いあがるとたちまち不調になる。この特性を勘定に入れて、さまざまな人間的資質の開発プログラムを本邦では「道」として体系化している。
「道」はまことにすぐれたプログラミングではあるのです。けれども、それは(誰も見たことのない)「目的地」を絶対化するあまり、「日暮れて道遠し」という述懐に託されるようなおのれの未熟、未完成を正当化してもいる
極楽でも地獄でもよい
163 私の実現できる技芸や私が知っている知識は師に比べればはるかにわずかなものにすぎないという謙抑的な名乗りをしている限り、私たちは自分にできないこと、自分が知らないことでさえ次代に伝えることができる。これが「道」という教育プログラムの際だって優れた点です。
163 けれども同時に、その利点はそのまま修行の妨げともなります。私が現に学んでいること、私が現に信じていることの真正性を、私自身は、今この場で挙証する責任を免ぜられているからです。
165 辺境人固有の宗教問題、それは先ほど定式化した通り、霊的センターから隔絶しているせいで霊的に未完成であり未成熟であることが説明され、一気に大悟解脱しようと願うことよりも緩やかに成熟の階梯をあがることの方が勧奨されるような土地柄で、今こここで一気に普遍的な宗教的深度に至ることは可能か、という問いです。
166 親鸞はこの問いを最初に強く意識した宗教家の一人ではないかと思います。(中略) 親鸞が日本宗教史上にもたらしたものは、この「転換」ではないかという気がします(何となくですけど)。つまり、「霊的に劣位にあり、霊的に遅れているものには、信の主体性を打ち立てるための特権的な回路が開かれている」という辺境固有の仮説を検証しようとしたのではないかと思うのです。
「機」と「辺境人の時間」
169 辺境人の最大の弱点は「私は辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない」という論理形式を手放せない点にあります。まさにこの論理形式が「学び」を起動させ、師弟関係を成立させね「道」的なプログラムの成功をもたらしたわけですが、「小成は大成を妨げる」という言葉のとおり、この成功体験が逆に、辺境人にとって絶対的な信の成立を妨げてもいる。その成功体験の妨害を解除しなければならない。
169-170 必要なのは、「私は辺境人である」という自己規定のかたくなさを解除して、「外部を希求する志」だけを取り出すことです。(中略)そのためには、主体を空間的・時間的にマッピングしている遠近・先後というカテゴリーそのものをどこかで切り捨てなければならない。大変な仕事です。
この困難な課題に立ち向かうために、宗教者たちはさまざまな概念を駆使しました。例えば「機」という概念がそれです。
173 武道的な働きにおいては、入力と出力との間に隙があってはいけない。隙がないというのは、ほんとうは「侵入経路がない」とか「侵入を許すだけの時間がない」ということではなくて、そこには自他の対立関係がない、敵がいないということです。間違って理解している人が多いのですが、武道の目的は「敵に勝つこと」ではありません。「敵を作らないこと」です。
武道的な「天下無敵」の意味
173 「天下無敵」という言葉がありますが、この言葉を「天下の敵という敵をみんな斃してしまったので敵がいない状態」だと解している人が多いようです。(中略)でも、能く考えればわかりますけど、そんなことはありえない。「敵」を広義において私たちの心身の機能を低下させ、生きる力を損なうすべてのもののことと解するならば、すべての敵を斃すということは不可能だからです。
174-175 「敵」という概念は根源的な矛盾を含んでいます。敵を除去すべく網羅的なリストを作成すると、世界は自分自身を含めすべてが敵であるという結論に私たちは導かれます。
ですから、武道的な意味でも「天下無敵」は、それとは逆にどうやって「敵」を作らないかを工夫することになります。
175 無傷の、完璧な状態にある私を「標準的な私」と措定し、私がそうではないこと(つまり「今あるような私」であること)を「敵による否定的な干渉」の結果として説明するような因果形式、それが「敵」を作り出すロジックです。「敵」はこのロジックから生み出される。「敵」とは実体ではなく、「原因」で「結果」を説明しようとするこのロジックそのもののことである、と言ってもよいかと思います。
176 相手が斬りつけてくるので、それを避けなければいけないという条件を仮に想定します。選択できる動線は限定されます。このときに「自分には無限の選択肢があったのだが、攻撃の入力があったせいで、選択肢が限定された」というふうに考えるのが「敵を作る」ことです。それに対して、「無限の選択肢」などというものは仮想的なものにすぎず、とりあえず目の前にある限定された選択肢。制約された可動域こそが現実のすべてであり、それと折り合ってゆく以外に生きる道はないと考えるのが「敵を作らない」ことです。そう思うことで、時間意識が変成する。
敵を作らない「私」とは
177-178 「敵を作る」心は自分の置かれた状況を「入力/出力系」として理解しています。「ベスト・コンディションの私」がまずいる。そこに「敵」がやってきて(対戦相手でも、インフルエンザ・ウイルスでも)、私が変調させられる。「敵」繞力を排除して、「私」の現状を回復すれば「勝ち」(できなければ「負け」)という継時的な変化として出来事の全体はとらえられている。
このプロセスのことを沢庵は「住地煩悩」と呼びました。(中略)「入力と出力のタイムラグ」、「主体と他者の二項関係」それ自体が住地煩悩である。沢庵はそう言います。そういう継時的な変化の中に身を置いてはいけない。ではどうするか。
178 (交響楽で)実際に演奏者たちはどうやっているのかと言いますと、同時に演奏しているのです。自身の身体的な限界を超えて、自分からはみ出して、他の楽器奏者と融合して、一体化している。オーケストラの全員で構成される「多細胞生物」があり、それが演奏している。奏者ひとりひとりはその多細胞生物の個々の細胞である細胞と細胞の間では確かに「やりとり」がなされているのだけれど、もともとそれらは一つの生物の部分であり、母体は共有されている。そして、メンバー全員を含み込んだ共身体が演奏の主体である。そういうふうに考える。
179 そのときに「敵を作らない」ということと「隙を作らない」ということは同義になります。「万有は共生している」というのは道徳的な訓言ではなく、心と身体の使い方についての技術的な指示、とくに時間意識の持ち方についての指示なのです。
179 哲学的な他者論の枠組みで言っても、話は同じです。主体と他者が本質的な意味で「出会う」ためには、主体概念そのものを書き換えなければならない。
180-181 即答できるのは、呼びかけられたらすぐに返答できるように、つねづね怠りなく準備しているからではありません。どれほど入念な準備をして「即答」体制を構築していても、呼びかけの入力がまずあり、それが返答を起動させるという順序でことが継起する限り、それは即答ではない。継起的にことが生起する限り、即答はできない。論理的に言えば、即答するためには「即答すべく準備している主体」というものがあってはならない。けれども、「即答」というのは現実の、具体的な高位なわけですから、主体によってしか担われ得ない。では「私」ではないとしたら、その行為は誰が担うのか。
肌理細かく身体を使う
181 主体の概念規定を変えるしかない。それが答えです。
182-183 石火之機においても、?啄之機においても、「外部からの呼びかけを受信する主体」というものは出来事の以前には想定されていません。「右衛門」という呼びかけが聞こえ始めたときに、右衛門の主体はまだ存在しておらず、「あつ」と答え終わったときに主体はすでに存在している。「石火之機」を生成の場とするものだけが「石火之機」の時間を生きることができる。
その言葉を聴き取ることのできる主体は、その言葉の到来によって賦活される(活力を与える)。命令の到来以前にはまだ主体として存在しておらず、命令を果そうと身を起こしたときにはすでに主体として存在している。「右衛門」と呼ばれたその刹那に右衛門という主体は生成する。まさにその呼びかけに「あつ」と即答するものとして生成する。そのような呼びかけを先駆的に待望していたものとして、その呼びかけが「最後のピース」であり、それが嵌入したことで、起動するものと、生成する。
183 そのような主体にとっての時間の流れは不思議なしかたでたわむことになります。
185-186 「石火之機」というのは別に抽象的な議論ではなくて、技術的には「肌理細かい身体操作」の追究というかたちでプログラム化できるということです。
「ありもの」の「使い回し」
186 辺境人は「遅れてゲームに参加した」という歴史的ハンディを逆手にとって、「遅れている」という自覚を持つことは「道」を究める上でも、師に仕える上でも、宗教的成熟を果すためにも「善いこと」なのであるという独特のローカル・ルールを採用しました。これは辺境人の生存戦略としてはきわめて効果的なソリューションですし、現にそこから十分なベネフィットを私たちは引き出してきました。
問題は「その手」が使えない局面があるということです。
187 私たちはつねに「呼びかけられるもの」として世界に出現し、「呼びかけるもの」として、「場を主宰する主体」として、私は何をするのかという問いが意識に前景化することは決してありません。すでになされた事実にどう対応するか、それだけが問題であって、自分が事実を創出する側に立って考えること言うことができない。この問いそのものがきわだって辺境的であるということに私たちは気づきません。でもそうなんです。欧米の人は(ユダヤ人を例外として)こんなふうに時間の問題を考えたりしない。
187-188 「機」というのは時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する時間のとらえ方です。どちらが先手でどちらが後手か、どちらが能動者でどちらが受動者か、どちらが創造者でどちらが祖述者か、そういったすべての二項対立を「機」は消去してしまう。後即先、受動即能動、祖述即創造。この「学ぶが遅れない」「受け容れるが後手に回らない」というアクロバシー(曲芸)によって、辺境人のアポリア(行き詰まり)は形式的には解決されました(繰り返し言いますけれど「理屈では」です)。
この「A即B」のスキームを採用することから利益を引き出すことができるのは辺境人だけです。つねに場を主宰し、つねに先手をとり、つねに主体であることを望む人たち(「中華人」たち)は「機」の思想とは遂に無縁です。彼らにはそのような思想を発達させなければならない理由がないからです。
188-189 「機」の思想を持ったことによって私たちは「飛び込む」ことが可能になりました。「清水の舞台から飛び降りる」ような冒険的な決断をすることができるようになった。何度も言うように、清水の舞台から飛び降りれば、ふつうは骨を折って大怪我をするか、打ち所が悪ければ死んでしまう。それでもなお「飛び込む」ことができるとしたら、それは舞台から飛び降りるときに、どこに飛び降りれば怪我をしないで済むかを先駆的に知っているからという以外にありえない。「機の思想」はそのコロラリー(論理的帰結)として「先駆的な知」を要求します。
189 「機の思想」が当然すぎて言い落しているのは、私たちがどこで出会うのか、どこが「機」の現象が生成する当の場なのかを、あらかじめ知っているということです。私はそれを「先駆的に知っていること」というふうに述語化してみたいと思います。それはどのような能力なのか。
190 (鰯の頭を)「拝むことのできるもの」と「拝むことのできないもの」を先駆的に識別できる能力が備わっていて初めて「外部」への広々とした開放性が担保される。
191 私たちがある種の能力を発揮できるのは、その能力が発揮できるようにする予備的能力を有しているからです。その能力を発揮してもよい場所と時間を言い当てることができる能力が備わっているからです。能力は二段構えに構造化されている。
192 文化資源は中華文明圏から取り入れなければならないということが辺境の条件であった。ですから「その有用性が分からないもの」について、その有用性や意義を先駆的に知る能力を開発することが私たちにとっての民族的急務であった。
194 『野生の思考』という二十世紀の知的パラダイムを一変させた主著の冒頭でレヴィ=ストロースは「ブリコルール」について書きました。ヨーロッパの「文明人」たちとは別の種類の知、「野生の思考」によって思考する「未開人」たちがいる。彼らの知はどの様に効率的に機能しており、それが彼らの人間的世界の秩序と尊厳をかたちづくっているか。レヴィ=ストロースはそれらを知らしめることで、自民族中心主義のうちにまどろんでいたヨーロッパ知識人に冷水を浴びせました。諸君が唯一の人間的知と思っているものとは別の仕方で機能している知が存在する。「人間の生が持ち得るすべての意味と尊厳」を自分たちの集団だけが独占しており、他の集団はそれを欠いていると考えることはあまりに傲慢である。「人間性はその歴史的・地理的な諸様態のうちのただ一つにすべて含まれていると信じることができるためにはよほどの自民族中心主義と無思慮が必要である。」Claude Levis-Strauss, La Pensee sauvage, Plon, 1962, p31/p297
195 なぜ「いつか何かの役に立つかもしれない」ということがわかるのか。ジャングルの中に、彼の視野の範囲には「その用途や意義が知れぬ」無数のもののうちで、とりわけ「それ」が彼の関心を惹きつけたのでしょうか。
先駆的にその有用性を知っていたという言い方でしかこの行動は説明が付きません。
196 人間には「どうしてよいかわからないときに、どうしてよいかわかる」能力が潜在的に備わっています。その能力は資源が潤沢で安全な環境では発達しない。「どうしていいかわからない」ときにでも、「どうすればいいか」を訊きに行く人がいたり、必要なものを買い足しにいけるなら、先駆的に知る必要はない。けれども、資源が乏しい環境や、失敗したときに「リセット」することが許されないタイトな環境においては、「どうしていいかわからないときにも適切にふるまう」ことが生き延びるために必須のものになる。
「学ぶ力」の劣化
196 「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まります。
197-198 「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠に拠っても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。ですから、もし「いいこと」の一覧表を示されなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子どもがいたら、その子どもにおいてはこの「先駆的に知る力」は衰微しているということになります。私たちの時代に至って、日本人の「学ぶ力」(それが「学力」ということの本義ですが)が劣化し続けているのは、「先駆的に知る力」を開発することの重要性を私たちが久しく閑却したからです。
198-199 この力は資源の乏しい環境の中で(ということは、人類が経験してきた全歴史のほとんどにおいて)生き延びる上に不可欠の能力だったのです。この能力を私たち列島住民もまた必須の資質として選択的に開発してきました。狭隘で資源に乏しいこの極東の島国が大国列強に伍して生き延びるためには、「学ぶ」力を最大化する以外になかった。「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。
わからないけど、わかる
199 「その意味を一義的に理解することを許さぬままに切迫してくるもの」について、「理解したい。理解しなければならない」ということが先駆的に確信されることが「学ぶ」という営みの本質をなしている。その前提については洋の東西で違いはありません、ただ、それを記述する時の筆致にはずいぶん違いがあるように思われます。
201 知の可能性の開花は子供の主観の側からは「自分が真理だと思っていたもの」の喪失として経験される。こま喪失の不快が乗り越えられるためには、今それを失うことを通じて、将来的にそれ以上のものを回復することについての先駆的確信がなければ済まされない。これをヘーゲルは「胎児」の比喩で説明しています。
202 「胎児はやがて人間になるはずだが、自分が人間であることを自覚してはいない。理性のあるおとなになったとき、はじめて自分が人間であることを自覚するので、そのとき、そうなるはずのものになったのである。こうして理性が現実のものとなる」G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳。作品社 1998年P55
胎児はやがて人間になるはずであり、その下絵が胎児のうちにすでに書かれており、胎児はその下絵をそれと知らずに忠実にトレースしているのである、というのがヘーゲルの考え方です。
202 胎児は放っておいても設計図通り人間になりますが、「学び」は主観的な決断がなければ起動しない。やはり、「学び」への決断は「胎児である」という初期条件からは直接は導き出されない。
204 先駆性というのは、「機」の時間論のところで述べましたように、後から見るとそれから起こることを先取りしていたように見えるという事後的印象のことであって、行動しているリアルタイムでは自分が何をしているのかを先取りしているわけではありません。(中略) 「先取りする主体」というものを想定してしまうと、出来事が起きる前に、それを先取りして準備している主体がもう存在することになる。そして、準備するものは必ず遅れる。入力を待ち、それに反応する限り、必ずそこには隙ができる。待てば必ず遅れる。だから待ってはいけない。
「世界の中心にいない」という前提
205 私たちの文化における「機」の概念は、どう工夫しても、「設計図」や「胎児」や「それがもともとあったすがたへと還ってゆく」ことや「円環を描いて人へと還っていく運動」や「はじまりで前提とされたものに最終段階でようやく到達する」「自分に還ってきた統一」といった表現ではその意を尽くすことができません。
209 私が学ぶべきこと、私が経験すべきことはすべて私のうちにあらかじめ書き込んであり、私はただそれを再発見し、自己に与えるだけであるという人間観は、哲学的には整合的です。けれども、こういうのは「自分は世界の中心にいる」ということがあまりに自明なので、「どんなことがあっても自分を世界の中心にいると思うことができない種族」のあることを想像できない人々のものだと思います。
210 おのれのローカリティを足場にして、「こういうのも『あり』ということにしてはいただけませんか?」ということを国際社会に向けて申し上げたい、と。そのように考えているのであります。

第IV章 辺境人は日本語と共に

「ぼく」がなぜこの本を書けなかったのか
213-214 「ぼく」という書き手は読者と非常に近い位置にいる(ことになっている)。だから、想定読者が多分知らないような人名や概念には言及しない(言及する場合もかならず丁寧に説明して「周知のように」というような意地悪なことはしない) 。いつも読者と「同じ目線」をキープして、「この人は、読者を置き去りにすることはないよな」と読者を安心させておいて、ゆっくり進んでゆく。ところが、時には読者との親密な距離を保っていると飛び越えることができない行論上の段差に出くわすことがあります。(中略)一時的にではあれ、読者を置き去りにして、書き手だけが必至の思いで「向こう側」に飛び移り。それから縄梯子を作って垂らすというような二段構えでゆかないと越えられない難所がある。
だから、半分ほど書き進んだところで(宗教について論じ始めたところで)「ぼく」で押し切るのはもう無理と判断して、最初から全部「私」に書き換えたのです。
「もしもし」が伝わること
214 というような説明は日本語話者にはたぶんすらすらとご理解いただけるはずです。別に高校の国語の時間に習ったとかそういうことではなくて、日本語を使って生きていれば「人称代名詞の選択というのは、そういうものだ」ということが血肉化しているからです。
216 書き手の人称代名詞や常体敬体の使い分けで、書かれるコンテンツまで変わってしまうと私は書きましたけれど。それは言い換えると、日本語手はメタ・メッセージの支配力が非常に強いということです。たとえば、日本人はコミュニケーションにおいて、メッセージの真偽や当否よりも、相手がそれを信じるかどうか、相手がそれを「丸呑み」するかどうかを優先的に配慮する。
216 私たちの国の政治家や評論家は政策論争において、対立者に「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらおう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。
不自然なほどに態度の大きな人間
218 自説への支持者を増やすためのいちばん正統的な方法は、「あなたが私と同じ情報を持ち、私と同じ程度の合理的推論ができるのであれば、私と同じ結論に達するはずである」というしかたで説明することです。
けれども、私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではありません。もっとも広範に用いられているのは、「私はあなたより多くの情報を有しており、あなたのよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい」という恫喝の語法です。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせさえすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。
218 「何が正しいのか」という問いよりも、「正しいことを言いそうな人間は誰か」という問いの方が優先する。そして「正しいことを言いそうな人間」とそうでない人間の違いはどうやって見分けるのかについては客観的基準がない。だから、結局は「不自然なほどに態度の大きな人間」のいうことが傾聴される。
221 日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わることさえある)点にあります。そして、私はこれが日本語という言語の特殊性に由来するものではないかと思っているのです。
日本語の特殊性はどこにあるか
224 江戸時代の日本の識字率は世界一であったとよく言われます。私はこの高識字率は教育制度よりもむしろ日本語の特殊性に由来するのではないかと思っています。
日本語はどこが特殊か。それは表意文字と表音文字を併用する言語だということです。
かつて中華の辺境はどこもそのようなハイブリッド言語を用いていました。朝鮮半島ではハングルと漢字が併用され、インドシナ半島(度欲註:ベトナム)では「チュノム」(字喃)と漢字が併用されていました。(が現在廃止されています)
225 その中で、日本はとりあえず例外的に漢字と自国で工夫した表音文字の混ぜ書きをいまだにとどめている。
漢字は表意文字(ideogram)です。かな(ひらがな、かたかな)は表音文字(phohogram)です。表意文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像と音声の二つを並行処理しながら言語活動を行っている。でもこれはきわめて例外的な言語状況なのです。
226 日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。(中略)だから、失読症の病態が二種類ある。
言語を脳内の二か所で並列処理しているという言語操作の特殊性はおそらくさまざまなかたちで私たち日本語話者の思考と行動を規定しているのではないかと思います。
日本語脳がマンガ脳を育んだ
226 もっとも際立った事例は「マンガ」という表現手段が日本において選択的に進化したという事実です。これに異存のある人はいないでしょう。
227 日本のマンガは日本の雑誌掲載時のスタイルのまま、文字は縦書き、ページは右から左へ進みます。欧米の漫画は文字は横書き、頁は左から右です。欧米の漫画を読みなれた読者にとって、物語が右から左へ移行するマンガを読むためにはリテラシー(読み書き能力)そのものの書き換えが必要でした。そのようなリテラシーがまだ十分に育っていない時期は、日本のマンガは「裏焼き」され、欧米仕様の読み方で読めるように改作されていました。
それが今では、マンガだけは、欧米でも、日本で読むのと同じ製本、同じコマ割りでよめるようになった。欧米の若い読者たちがマンガをオリジナルの味わいで読むことができるように、彼らのリテラシーそのものを書き換えたのです。かれらが自分たちの文字の読み方の定型を崩しても惜しくないと思えるだけの水準の質に日本のマンガが達したということです。
228 なぜ、日本人の書くマンガだけが(とりあえず今までのところはということですが)例外的な質的高さを達成しうるのか。これは言語構造の特殊性によるのである。ということを看破されたのはこれまた養老先生です。
228 白川静先生が教えるように漢字というのは、世界のありさまや人間のふるまいを図示したものです。白川漢字学の中心となるのは「サイ」という表意要素です。「サイ」は英語のDの弧の部分を下向きにしたかたちです。
この文字を後漢の『説文解字』以来学者たちは「口」と解したのですが、白川先生はこれを退け、これが「祝詞を入れる器」、もっとも根源的な呪具の象徴であるという新解釈を立てました。そしてこれを構成要素に含む基本字全ての解釈の改変を要求したのです。
229 白川先生の解釈から私たちが知るのは、古代の呪術的な戦いは言葉によって展開したということです。「文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、ことばのもつ呪的な機能を、そこに定着永久化することであった」白川静、「古代中国の民俗」『白川静著作集7』P304
ということです。
私たちはもう漢字の原意を知りません。けれども、漢字がその起源においては、私たちの心身に直接的な力能をふるうものであったという記憶はおそらくいまだ意識の深層にとどめている。漢字というものは持ち重りのする、熱や振動をともなった、具体的な物質性を備えたものとして私たちは引き受けた。そして、現在もなお私たちはそのようなものを日常の言語表現のうちで駆使しています。
230 私たちは言語記号の表意性を物質的、身体的なものとして脳のある部分で経験し、一方の表音性を概念的、音声的なものとして別の脳部位で経験する。養老先生のマンガ論によりますと、漢字を担当している脳内部位はマンガにおける「絵」の部分を処理している。かなを担当している部位はマンガの「ふきだし」を処理している。そういう分業がなされている。
235 「絵」と「ふきだし」を並列処理できるマンガ・リテラシーは、表意文字と表音文字を並列処理する特殊な言語である日本語話者において特権的に発達したという話です。
「真名」と「仮名」の使い分け
236 原日本語は「音声」でしか存在しなかった。そこに外来の文字が入ってきたとき、それが「真」の、すなわち「正統」座を領したのです。そして、もともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正統の座を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境語的構造です。
236 土着の言語=仮名=女性語は当然「本音」を表現します。生な感情や、剥き出しの生活実感はこのコロキアルな土着語でしか言い表すことができません。たしかに、漢文で示された外来語=真名=男性語は存在します。けれども、それは生活言語ではない。それを以てしては身体実感や情動や官能や喜怒哀楽を適切には表すことができない。
漢詩という文学形式がありますけれど、残念ながら、漢詩は限定的な素材しか扱うことができません。庶民の生活実感や官能は漢詩の管轄外です。ですから、列島住民がを文字持つようなってから千五百年以上が経ちますけれど、私たちがいまだに読み継いでいるのは実は「仮名で書かれた文学作品」が中心なのです。
237 『土佐日記』で紀貫之は「をんな」の真似をして女性語を使ってみたのではありません。(中略)そういう言葉づかいをしないと私たちの社会では言葉はうまく人に届かないということが確かめられた。
238 私が知る限り、学術的論件をコロキアルな語法で展開するということに知的リソースを投じるという習慣は欧米にはありません、学術的論件は学術用語で語られ、生活事象は生活用語で語られる。
240 韓国でもベトナムでも母語しかできない人にはしだいに大学のポストがなくなりつつあります。その中で、日本だけが例外的に、土着語だけしか使用できない人間でも大学教授になれ、政治家になれ、官僚になれます。これは世界的には極めて例外的なことなのです。
それは英語やフランス語で論じられることは、ほぼ全部日本語でも論じることができるからです。どうして論じられるかといえば、外来の概念や術語をそのつど「真名」として「正統の地位」においてきて、それをコロキアルな土着語のうちに引き取って、圭角を削って、手触りの悪いところに緩衝材を塗りこんで、生活者に届く言葉として、人の肌に直に触れても大丈夫な言葉に「翻訳」する努力を営々と続けてきたからです。
日本人の召命
241 Philosophyに「哲学」という訳語を与えたのは西周です。西はその他に主観、客観、概念、観念、命題、肯定、否定、理性、悟性、現象、芸術、技術などの訳語を作り出しました。
241 なぜ中国の人達は日本人の作った漢訳を読み、自身で訳さなかったのか。
日本人にとって、欧米語の翻訳とは要するに語の意味を汲んでそれを二字の漢字に置き換えることだったからです。西周の例を観て分かるように、彼がしたのも実は日本語訳ではなく漢訳なのです。外国語を外国語に置き換えただけです。
241-242 清末の中国人にはそれと同じことができなかった。不可能ではなかったでしょうけれど、つよい心理的抵抗を感じた。これまで中国語になかった概念や術語をあらたに五位に加えるということは、自分たちの手持ちの言語では記述できない意味がこの世界には存在するということを認めることだからです。自分たちの「種族の思想」の不完全性とローカリティを認めることだからです。ですから、中国人たちは外来語の多くをしばしば音訳しました。外来語に音訳を与えるということは、要するに「トランジット」としての滞在しか認めないということです。母語にフルメンバーとしては加えない、それが母語の意味体系に変更を加えることを認めないということです。
242-243 現に、清末の洋務運動は近代化を目指しながら、イデオロギー的には「中体西用」論から抜け出ることができませんでした。西洋の「用」(武器や軍艦)はすぐれているけれど、「体」(制度や文化)は中国の方が上位であり、西洋の文物ももとをただせば、みな中国起源のものであるという自民族中心主義的な思想です。
明治維新の後の日本はそういう考え方はとらなかった。なにしろ外来の語に「真名」の地位を譲り、土着語の方を「仮名」すなわち一時的で、暫定的なものとして扱う言う辺境固有の言語観になじんできたわけですから、外来語--ということは「強者の種族の思想」ということです--の応接は手慣れたものです。明治の日本が中国や李氏朝鮮を取り残して、すみやかな近代化を遂げ得た理由はこの日本語の構造のうちに読み取ることができるだろうと私は思います。
244-245 私たちは華夷秩序の中の「中心と辺境」「外来と土着」「先進と未開」「世界標準とローカル・ルール」という空間的な遠近、開化の遅速の対立を軸にして、「現実の世界を組織化し、日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように」してきた。その点が独特だったのではないか。そういうことだと思います。
245 さしあたり私たちにできるのは「なるほど、そういうものか」と静かに事態を受け止めて、私たちの国の独特な文化の構造と機能について、できる限り価値中立的で冷静な観察を行うことではないかと思います。
247 私たちの言語を厚みのある、肌理細かいものに仕上げてゆくことにはどなたも異論がないと思います。でも、そのためには「真名」と「仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語という、もうそこを歩むのは日本語しかない「進化の袋小路」をこのまま歩み続けるしかない。孤独な営為ではありますけれど、それが「余人を以ては代え難い」仕事であるなら、日本人はそれを己の召命(神の恵みによって神に呼び出されること)として粛然と引き受けるべきではないかと私は思います。

註 原著で傍点を振ってある部分は太字で示してあります。

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2016-02-19 修正
2021-05-19 修正


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