無知の壁 「自分」について脳と仏教から考える
サンガ新書 062
養老孟司、アルボムッレ・スマナサーラ、釈徹宗


この本を読んで、今まで読んだ養老孟司氏の著書にある記事の内容がようやく理解できそうだと感じることができた。これは筆者(このページのオーナー)だけが感じることであろうか。
この本は対談集であるので発言者の名前の最初の文字をカッコに入れて発言者をしめした。

まえがきに代えて 釈徹宗
6 本書の随所に見受けられる論点の一つは、「近代自我は、かなりやっかいなものだ」ということである。もちろん「近代自我」がなければ現代社会に適応できない。前近代の自我が抱える数々の問題を克服して、近代自我は確立してきた。我々は近代自我以前に戻ることはできない。現代人にとって、近代的「自我の確立」は今なお大きな課題であり続けている。
6  ある時点から近代自我が生み出す問題点が目に付くようになってきた。そのことに自覚的であるかどうかが、分岐点であるように思う。

第一章            自分」という壁

14 解剖学者の「バカ」と仏教の「無知」
(釈) 仏教は心身のトレーニングを通じて、その枠組みをできるだけ強くないようにしようとする方向性を持っています。自分で勝手に作り上げた枠組みは、苦悩を生み出すからです。苦悩の根源的な原因を「無知」と呼びます。
16 意識は行為の後からやってくる
(養) 多くの方が、ごく普通の常識としては「思う」のが先であり、後から行動すると思っています。例えば「喉がかわいたと思ったから水を飲む」と思っている。しかし、脳を測ってみると「思う」のは後です。まず水を飲むほうにはっきりと動き出し、半秒くらい経ってから「水を飲みたい」という意識が起こります。(中略)意識のほうが行為よりややこしい働きですから、脳の行為に遅れて意識が出るわけです。根本的に、それが意識の限界です。
17 (養) 我々が意識でできることは、たぶん止めることだけなんですね。そう考えると面白いことに道徳律というのは必ず「○○してはいけない」という形になっています。
17 (ス) 養老先生の話に合わせて説明するならば、脳がまず五つの項目を「やろう・しよう」と命令をしています。そこで人は、自分の意識を使ってそれをやらないことにするのです。
19 五戒 @不殺生:殺すなかれ
(ス) 人間の脳は、動物の脳より発展していますが、その発展している部分は原始的な古い脳で管理されています。ですから、人間の心の中でも、いとも簡単にほかの生命を殺す衝動が起こるのです。
20 (ス) ですから、思考を使って、気持ちを実行する前に抑えておくのです。それが戒律の第一の項目です。
22 五戒 A不偸盗:盗むなかれ
22 (ス) 自分に必要なものがあっても、他人の物を奪わないことに意識を駆使して頑張る、それは「偸盗をしない」という戒律になります。
23 五戒 B不邪淫:邪な行為をするなかれ
23 (ス) 大脳皮質のほうでは、「いい加減に、無責任に、性行為をしたい」という命令に対して意識を利用して、性行為は、相手の命を尊重しながら合法的に行うべきものであると理解します。
24 五戒 C不妄語:嘘をつくなかれ
24 (ス) 自分の身を守るために言葉を使って嘘をついたり、罵ったり、二枚舌を使ったり、無駄話しをする。脳が嘘をつく方向に動くのです。ですから人間は、意識的に嘘をつかないようにしなくてはいけないのです。
26 五戒 D不飲酒:酒、麻薬などの知恵を壊すものを使用するなかれ
(ス) 「酒・麻薬などを服用して、思う存分ふざけて、社会のマナーを無視してサルのようにふるまいたい」という脳の命令を、意識を使って制御するのです。仏教は「人は理性を育てるべきです。知恵を開発すべきです」と説きます。「知恵は人間の宝物なり」とはブッダの言葉です。
27 (ス) ブッダの説かれた戒律は、動物の生き方に戻りたがっている脳を戒めて、発展の方向に導くことなのです。戒律は自分の意志で守るものであって、ブッダの命令に服従するものではないのです。
27 気持ちがなければ行為にならない
(養) 「○○をしなさい」という道徳律は、まず意味がない。「水際まで馬を連れていくことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」ということだ。馬自身がその気にならなくてはどうしようもないわけである。
28 (養) 学問などを一生懸命やってきますと、つい「頭で考えることがすべてだ」と思い込んでしまうのですが、でも本当はそうではない。「それがすべてでない」ということは、自分が人生の中で大切ことをするときのことを考えればわかる。(中略)なんとかして相手の脳みそを動かそうとしている。
29 (養) 何事も意識でどうにかなると思っている典型が、科学技術です。
30 (ス) 意識とは生きるエネルギーのことです。意識がなければ身体はただの物体です。(中略)しかし知識には限界があります、知識で何でもできるわけではないのです。意識の命令に従うのは難しい。逆らってみてもそれもまた意識です。
31 (ス) 仏教の教えは、現代科学の「脳」という概念を使って説明するならば、脳幹と大脳辺縁系に支配権をあげないで、大脳新皮質が支配権をとれるように努力することではないかと言えます。
32 (ス) 知識には限界があります。意識とは生きていることそのものです。
34 人類初の科学的アプローチ
(ス) テーラワーダ仏教は、「お釈迦さまは科学的に語ったのです」「釈尊の説かれた真理には時代遅れなんかはないのです」「真理を発見したのだから、その真理を改良する必要はないのです」ということを、現代の方々に知らせたいと思っています。
35 (ス) 科学に飽きた人々は、精神世界に戻ろうと思って迷信世界に入り込みます。「科学は何でもやってくれる」と思っていたのは、その人々の勘違いなのです。科学者は何を研究しているのか、はっきり発表します。「私はすべてを発見します」という科学者は存在しません。はじめは「科学は何でも解決してくれる」と誤解していて、「科学は我々の問題を解決してくれない」と思うと、今度は「宗教の世界は大事なものを教えてくれる」と、また勘違いします。それで「精神世界」だと思ってやっていることは、振り返ってみると、かつての迷信世界への後退なのです。霊能者、占い師、超能力者、宇宙とのチャネリングをする人などが現れてくるのです。
36 (ス) 科学の研究分野にならなかったテーマとは「生きるとは何か、どう生きるべきか、何を目指して生きるべきか」という問題です。お釈迦さまという科学者はこのテーマについて研究し答えを見出したのです。(中略)現代科学は知識力に頼っています。知識を駆使して理解するべきものは、やさしく教えてくれるならば素人にも理解できるのです。
37 バカの壁=自分の枠組み
(釈) 脳に「ある枠組み」ががっちりできてしまうと、脳はその枠の外のことをそもそも認識しようとしない。それを「バカの壁」と表現された。
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(ス) 私はよく「主観」という言葉を使います。仏教用語では「自我」です。「Aham(私は)」とか「mama(私の)」といいます。人間は「私は」「私の」という色眼鏡でしか、ものを見ることができません。ですから「自分は世の中を知っている」と思っても、何も知らないんですね。自分が勝手にかけた色眼鏡を通して全部判断しているのですから。
39 (ス) 自分の世界の中で、入るデータを処理して勝手に認識します。これが主観というもので、特別な意味とか、価値あるものとか、絶対的なものがあるわけではありません。
40 知識のリミット、三段階
(ス) 皆に共通しているリミット。眼耳鼻舌身に情報が触れるとそれを認識します。それから判断して知識にします。認識すると、認識情報を一つの体系にまとめるために、脳が「自我」という概念を使うのです。自我があるのではなく、どうでもよい情報を一つの体系にまとめたいだけです。これが左脳の働きだと脳科学者は言っているようです。
過去でこの身体に触れた情報は今生きているこの身体には関係ないのです。今の身体と過去の身体は違うものです。
過去の認識データを、すべて自我という錯覚概念で一つの体系にまとめて一本化するのです。それが知識という働きです。過去はすでに消えたもので再現されませんから全く不要なものだと思っても差し支えないわけです。
41 (ス) 我々が推測する未来というものは、予言というものは、過去のデータの合成以外のなにものでもありません。ですから、宗教の世界は預言が大好きですが、一つも当たったためしはないのです。
ただでさえ生きるのは苦しいのに、このようにエゴという妄想概念に基づいて知識や概念を現実と関係なく一本化することで、人は耐え難い苦しみを作ります。悩み、苦しみ、怒り、嫉妬、憎しみ、欲、高慢などの感情に支配されて生きる羽目になるのです。これが知識の第一のリミットです。
41 (ス) 認識・経験を知識に組み込むこと自体に問題があるのに、そのうえ、我々は知識体系を作るのです。
42 (ス) 学問自体が自分の生きがいになって、人間として正しく生きることは管轄外になります。それから人間なので自我の錯覚が当然あります。学問的・研究的な知識も、一つの体系にまとめるためには、自我の錯覚が必要です。その結果、自分の自我に気づかないかもしれませんが、自分の知識に徹底的に執着するのです。それで脳は固くなります。(中略)認識過程があるパターンで固定してしまったということです。これが二番目のリミットです。
42 (ス) 知識そのものが養老先生がおっしゃるように「バカの壁」を作るのです。
44 (ス) 私たちは「バカの壁」をつくっているところで、留まっていないのです。さらに作った壁に激しく衝突して、壊れてどうにもならない状態になっているのです。これが知識の第三のリミットです。
仏教はこのリミットを智慧の障害として説いているのです。第一の障害は、誰にでもある自我の錯覚です。第二の障害は、自分の致死や見解に愛着を持つ見漏(けんろ)です。第三番目の治らないところまで進んだリミットは、邪見というものです。
身体に入る情報を先入観で現象化すること、新たな概念を作ることをストップして、今の瞬間に気づくという訓練をするのです。
生きるとはどういう仕組みなのかと客観的に発見することで、低くなった壁が崩れるのです。この状態を仏教では涅槃といいますが、涅槃とは何かを説明しようとしません。「知識の壁を壊したというなら、それはどのような知識か」と聞かれでもそれはどだい無理な設問です。
49 「受け入れる」ということ
(釈) 自分の枠組みを、少し横に置く。「私」をいったんカッコに入れてしまえば、相手に寄り添うのが楽になる。(養老先生はこれを「受け入れる」と呼んでいる)
49 (養) でも、それをやると「自分がなくなる」と思う人が多いのではないでしょうか。
49 (釈) 人は「私」を強く持てば持つほど、苦しみも強くなっていくメカニズムなっている。しかし、その一方で「私」がなくなるのは嫌なんですね。このあたり「そもそも、その『私』って何なの?」という問いを持ち、「その『私』と付き合う技法」をもつ仏教にヒントがありそうです。
49 自分を守る苦悩
(養) どうしても自分の意見をあきらめきれない、相手のほうに合わせられないのは弱いから、弱いからこそ頑張るのだと思うのです。
50 (養) 「受け入れる」ということ自体は簡単でも、うっかり受け入れると「自分が壊れちゃうんじゃないか」という恐怖はみんな持っています。その恐怖の根本は何かというと、「今の自分が死んじゃう」という恐怖です。
51 自分の世界で固まっていたら後退する
(ス) 「自分に合っている仕事を探す」ことは「自分を変えたくない」「発展させたくはない」という反進化論です。
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(釈) 今の人たちは「確固たる自分」というものが「ある」ということを前提としている。(中略)その「本当の自分がどこかにある」という前提と、だから「それを損ないたくない」「それを必死で守ろうとする」といった生き方は、構造的な苦悩を生み出し続けるのではないでしょうか。
53 (ス) 世の中は、自分には管理できないことばかりです。ですから最初から「思い通りにいかないもんだ」とわかって、周りがどんなに自分の意に反することをやってきても「対応してやるぞ!」「怒らないで行動するぞ!」というチャレンジャー精神で生きたほうが、ずっと楽です。しかし、それをするためには自我が邪魔なのですね。
54 「本当の自分」なんてない
(ス) 楽に生きるのを邪魔するものは自我です。釈先生もおっしゃったとおり「どこかに本当の自分があるんだ」というのは妄想なのですね。(中略)もし「本当の自分」というものがあるのであれば、本人がとっくに知っています。でも、みんな決まって言うのは「あるはず」でしょう。(中略)それは、現実的に考えれば、「今の自分に納得していない」ということなのです。
55 (ス) 「いるはず」「あるはず」の自分なんてものは措いて、今の自分を見ちゃえば、(中略)「本当は我々には自我がない、自我という錯覚があるのだ」ということがわかります。(中略)自我という錯覚をないことにして生きてみると、そのままでいれば十分。それでずっと毎日、進行していくんです。
56 困難も「自分」をはずすと楽になる
(ス) 身の回りにある現実的な状況を把握して「今、楽に生きるためにはどうすればよいのか」を考えれば、本当は何とかなるものです。そういう人ならば、他人にも助けてあげることができます。
他人と仲良くしようとすると、また自我の錯覚が鬼のように仲間割れに入ります。二人で仲良く生活しようと思ったとき、成功率は「自分がどの程度、自分を捨てることができるのか」ということにかかっています。
57 (ス) 「和合して生きるための秘密は三つです」
(1) 自分がないことにして相手の気持ちになって考えたり、行動したりすること。
(2) 雑事ややるべきことについて、担当を決めず、誰かの義務や仕事にしないで、問題を見つけた人がそれをやること。
(3) 定期的に皆、話し合うこと
59 (釈) 「バカの壁」が生み出す問題や苦悩は、「バカの壁」を解体しない限り続く。同様に、自分の都合が生み出す「無知」に無自覚である限り、生きる上での苦悩の連鎖は止まらないというわけです。










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2016/09/03 作成
2022/02/25 修正

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