池上彰著「大人の教養」

 筆者はダムの水門などの鋼構造物のエンジニアで、社会に出て以来45年間にわたり海外プロジェクトに技術コンサルタントとして携わってきた。したがって、感性などは普通の日本人のサラリーマンとは少し異なっていることを自覚している。読者諸姉諸兄はこの点を念頭に置いてこの読後感を読み進んでいただきたい。
 なお、文中の青字部分は本書からの抜書きで、文章を簡略化してあります。黒字の部分は本文のまとめと筆者の意見です。

 数十年ぶりに会った隣人で二歳違いの幼馴染と雑談していて、この本の著者である池上彰氏は彼の同級生であったことを知った。この幼馴染とは通学区が同じであったから筆者もイケガミ少年とは練馬区立光和小学校で毎日顔を合わせていたはずであるが、もちろん面識などない。
 幼馴染から教えられた後、池上氏に親近感を覚え、同氏が出演しているテレビは見るようにしている。テレビをあまり見ない筆者が池上氏の出演番組を見ようとするのは、親近感というよりも同氏の知識の広さ、縦横無尽に問題を的確に切り裂いて解説した上にそれらを縫合して視聴者にわかりやすく理解させるという技術に優れているからである。

 今回のインドネシアへの出張の際にこの本を見つけて、飛行機の中で一度、出張先に着いてから二度読み返してみた。
 以下は、この本の読後感である。


序章 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」
リベラルアート(一般教養)

 上記のように海外滞在期間が長いため欧米人と付き合わねばならない機会が多々あった。海外で働くためには英語の能力が求められるので二十歳代中盤に英会話教室に約二年通っていたのである程度の英会話はできる自信があった。
 さて、28才でインドネシアのジャカルタに初めて海外駐在員となり、外国人と毎日付き合うようになった。そこで大きな問題に対面することになった。一つは専門知識でありもう一つは一般教養であった。駐在する前までは設計技師であったので、巨大プロジェクトの流れをつかんで大局から見る社内教育は全く受けていなかった。したがって設計以外のことについてはまるで素人であり、このことを上役にこっぴどく叱られたことがあった。
 それはさておき、欧米人と仕事をしていて契約交渉などで激論をたたかわせた後に彼らと雑談する機会が多々あった。彼らはちゃんとした大学教育を受けているインテリたちであり、豊富に蓄えた一般教養に属する知識を滔々と話すことができたが、筆者はこの種の話題について口をはさむことができない悔しさを感じ続けていた。政治、社会、経済、歴史、文化、宗教などに関して会社の同僚たちに比べると筆者は読書量も多くいろいろな知識を蓄えていたにもかかわらず全く歯が立たなかったのであった。
 この悔しさをばねとして、興味を引きそうな本を買い込んでは熟読するようにした。その結果、ある程度までは彼らについていける知識を得ることができた。しかし、それでも、その話題に関する英語の語彙が不足していたので、できるだけ英語の語彙を収集するようにした。この傾向は今でも続いている。

 若い人たちに伝えたい。

 自分の専門分野で知識を増やすことはもちろんのことだが、その分野での自己の業績を第三者の目から見た評価を自分で行う必要があり、そのためにはやはりこの一般教養が無くてはだめなのである。仕事をしていると専門知識だけでは解決できない問題に直面することが多い。それを解決するのにはやはり一般教養が必要になってくるのである。
 若いうちは特に楽しく時間を過ごしたいと思うだろうが、時間の隙間を見て一般教養に関する書籍を読んでほしい。著者はこの本の中で一般教養としての、宗教と宇宙、人類の旅路、人間と病気、経済学、歴史、日本と日本人に分類している。筆者にとっては受け入れにくい部分がわずかにあるとはいえ、筆者の人生経験から、著者のもつ宗教と歴史観に関しては全面的に賛同するものである。

第一章 宗教
 著者は一神教と多神教が風土の違いによって成立し、存続していると主張している。これには大きく賛同するものである。でも、もう少し追加しておきたい点もある。
 確かに著者の指摘通りインドや東南アジア、日本では多神教が多い一方、中東起源の宗教は一神教である。
 中東では砂漠が多く自然環境が厳しいので大変厳しい「神」という概念が生じたとある。しかし、これは本当だろうか。温帯地方では台風や火山国では地震、火山噴火などの自然災害が多く、砂漠とは別な自然の脅威にさらされているのは事実である。熱帯地方は年間降雨量と土壌の種類によって繁栄した場所とそうでない場所がある。
 中東といわれると砂漠というイメージばかりが強調されるが、実際に現地に入ってみるとそれほど過酷な環境ではないことがわかる。雨季と乾季があり、川も流れているから農業もできる地域も多く、そういう地域に国が誕生した。また、特殊な地域を除いてはアラビア半島の内部は一面に砂漠が広がっており、人が住めないから歴史も生まれなかった。居住可能なのはもっぱら海岸地帯に限られており、彼らは農業と商業で生計をたてていた。コーランと一般的に呼ばれているイスラムの聖書アル・クルアンには商業のやりかた、遺産相続、などが具体的に書かれていることから、アル・クルアンは砂漠の民ではなく商業民を対象として書かれたものであることが分かる。
 一方、熱帯と温帯の多雨地帯では降雨による大木が構成する豊かな森林が多く存在する。自然が豊かなので人口が多かった。数千年の歴史の中で生きていた人たちの総数は中東地域よりずっと多かったはずである。この総数が多かったということは霊も多いことになる。世界のあちこちに行って霊の存在を調べてみた結果、多雨地帯で巨木の覆い地域ほど霊の数が多いことがわかった。また乾燥地帯ではこれらの霊が巨木に集中して存在していることがわかった。

 原始の時代には世界中で精霊信仰が行われていたと聞く。
 高温多雨地域ではそれだけ精霊の数が多いことと強力な精霊が多かったため人間に対して強い影響を与えてきた。一方、乾燥地帯では精霊が少なかったので人間に対する影響が少なかったと推察できる。これが風土の違いによって一神教と多神教が地域別に発生した理由なのではなかろうか。
 イスラムの教えは他の宗教に比べると極めて論理的で、第三者の監視による自浄作用が行われるように組み立てられている。ISO9001の導入委員をしていた時、ISOの概念がイスラムの基本概念をぱくったのではないかとおもったほどである。
 インドネシア語で書かれたイスラムの祈祷手引書を読んでいたところ日食と月食の際に行う特別な祈祷があるのを見つけた。日本でいうと厩戸皇子(聖徳太子)と同時代で預言者ムハンマドが活躍した時代には一般庶民は神が怒って太陽や月を隠したと恐れていたようであるが、エジプトやメソポタミア文明の時代から連綿と続く天文学の専門家たちはこれらを定期的に生じる自然現象としてとらえていたに違いない。ただ、これらの時には太陽と地球と月が一直線上に並ぶので、地磁気の流れが普段とは異なることを古代の人たちは身体で知っていたのでなかろうかと想像するのである。
 上記のように、一神教は精霊の影響が少ない地域で発展したために、これらの精霊と彼らの考える「神」との区別が容易であったのではなかろうか。一方、多雨地帯では精霊の影響があまりに強いためにこれをひっくるめて「神」と定義したため多神教が発達したとも考えられるのである。
イスラム
P56 マリアに神の子が宿ったと伝えた天使ガブリエルは、アラビア半島においては、ムハンマドにアラビア語で神さまの言葉を伝えたということになります。

 なぜ天使ガブリエルはアラビア語で伝えたのだろうか。答えは簡単で、他の言葉ではムハンマドが理解できなかったからである。ムハンマドが妻に伝えた時の言語はアラビア語であったが、ガブリエルは言語ではなくその前段階である言語という媒体を通さない「意思」で伝えたのではなかったかと思う。この世のものでないものから伝わる情報はおおよそこの「意思」であるからだ。しかし、ムハンマドは修辞学を学んでいなかったから、その「意思」をこれほどきれいなアラビア語で表現する能力はなかったろう。この事実から、ガブリエルは直接ムハンマドの脳に働きかけて美しいアラビア語を伝えたのだろうと想像する。筆者はアラビア語には疎いが、アル・クルアンの読誦を聞いているとその音の美しさに魅了される。だから、アル・クルアンとは「読むもの、音読するもの」の意味になっている。アル・クルアンの節々にチャクラに働きかけると言われている音が含まれていると思うのは筆者だけであろうか。たぶん、そうだろうな。
P60 (一神教では)世界の終りが到来すると、それまで地中で眠っていた死者たちは目覚めて、神の前に引き出され一人ひとり、生前の行いのうちことと悪いこととが秤にかけられます。
ですからインドネシアでこんなジョークができるんです。
ジャカルタではメトロミニという小型バスが1980年代から交通機関として走っています。このバスの運転は乱暴で、交通マナーなどはしょっちゅう無視する「無頼バス」です。もちろんこの運転手たちは貧しさにあえいでいます。
このメトロミニの運転手が最後の審判の結果、天国に行きました。天国の入り口では天使たちがやさしく迎えてくれ、大天使ガブリエルが案内してくれた終の棲家は豪華な家でした。「ここでゆっくり暮らしてください」とガブリエルは優しくいいました。
数日後、今度はイスラムの指導者であるキアイが天国の入口にやってきました。彼が案内されたのはかの運転手の家のすぐ前のボロ屋でした。
家まで送ってきた天使にこのキアイが噛みつきました。
「私は生涯を通じてイスラムの普及に努めたのにもかかわらず、イスラムの戒律をろくに守ろうとしもしなかったあの運転手が豪邸に住んで、キアイである私にはなぜこのボロ屋をあてがうのだ」と。
天使はあわてずにこういいました。
「天国での待遇は生涯の善行の合計で決まることはご存じのことだと思います。あなたはキアイとしてイスラムの布教に努めたとおっしゃいますが、あなたが説教などをして働いている間、信徒たちはどうしていましたか?過半数が居眠りしていましたね。ということはアッラーのことを忘れていたのです。一方、あの運転手は乱暴な運転をしていたので、乗客たちは常にアッラー、アッラー(神様どうか助けてください)と神の名を唱えていました。これが我々の評価結果です」と。
 この最後の審判のために遺体は焼かずにイスラムでは土葬することになっています。火葬が基本の日本では役所に特別な申請を行って土葬許可をもらっていると日本ムスリム協会の理事から聞いたことがあります。一方、中東では薪が貴重なので一体の遺体を火葬するためには調理につかう何か月分もの薪が必要になるので行われなかったのでしょう。ですから、焼死体になってしまった人は天国に行けないとイスラムの人たちは考えているようです。

 天国と地獄の概念は仏教にもありますが、小学校で習った理科をもとにして考えてみると矛盾します。
 地獄に落ちると劫火に焼かれ永遠に苦しむ、と言われています。劫火に焼かれるためには肉体が必要です。ですから、死者が復活しなくてはこの「地獄の理屈」が成り立ちません。ところで、小学校で習った食物連鎖という概念は、元素は食物から肉体へ、体内から排出されたものは微生物などより分解されまた食物に戻ると教えています。ということはすなわち、以前には他人の肉体の一部であった元素を今回は我々が肉体の一部として利用していることになります。これは時間系があるから可能なのですが、最後の審判のように、歴史時間を一点に集中させてしまうと肉体を復活させようにも元素の取り合いになってしまい、肉体が完全に復活できる可能性はほとんどゼロパーセントになるという結論に至ります。
 仏教でも「嘘も方便」なんて言いますから、そんなに目くじらを立てることでもないでしょう。筆者は「インチキを教えている」と思っていますが、「信じる者は救われる」のですから、そう考える人は勝手にどうぞ。

 この著書でもスンニ派とシーア派について触れていますので、インドネシアのイスラムについて少し述べてみましょう。
 インドネシアのイスラムはスンニ派と言われています。インドネシア人の大半を占めるジャワ人も大多数がイスラム教徒です。確かにかれらの礼拝方法を見るとスンニ派ですが、他の行動を見ているとほとんどシーア派あるいは大乗仏教の教徒のようです。死後、初七日、40日(日本では49日)、100日、祥月命日に死者に対する祈祷が行われます。これはイスラムのジャワ全土への布教が終わったのは日本の江戸時代末期であり、元々のヒンドゥー教・仏教が撲滅されてからたかだか150年しか経過していないことによります。現在でも、表面上はイスラムに改宗したことにしていても、まったくイスラムを信じていない人も多々存在します。イスラム布教以前はヒンドゥー教と仏教とが入り混じった宗教を信じていました。14世紀にはジャイナ教とバラモン教も併存したようです。
 15世紀になって明の永楽帝は鄭和(ていわ)を南海諸国などに派遣しました。鄭和の遠征として学校で習ったことがあったでしょう。この人は漢人ではなくて雲南人でした。雲南と元との戦いで捕らわれて宦官にされたのですが、非常に優秀な人であったので明の提督として数回南洋遠征にいきました。鄭和の家系は何代にもわたるイスラム教徒で祖父が三年をかけてメッカ詣でをした時の話を幼い時に聞かされて外国に深い興味を抱いていたようです。またこの当時には漢人はほとんど海外に行くことをしませんでしたが、汕頭(すわとう)と雲南人たちは東南アジアに多数移住していました。

 さて、なぜ中国でイスラム教が布教されていたかという疑問が生じるでしょう。実はジンギスハンやフビライ汗の行動がこの引き金になったのです。元は13世紀にトルキスタンに軍の総司令部を置きました。ここは蒙古と新しく侵略した国々の中間地にあたるので地理的に最適だったのです。軍隊というのは大部分が若者で構成されています。彼らは蒙古からお嫁さんをもらうより現地の女性と結婚して、彼女らが信じていたイスラムを信仰するようになりました。やがて配置転換などで多数の蒙古軍の軍人が家族を連れて中国に戻ってきました。それで中国にイスラムが大々的に入り込んできたのです。元が滅びると彼らは現地の人たちの間に埋没していったのですが、イスラムはそのまま中国西部地域に残りました。鄭和はこのような人たちの末裔だったのでしょう。蒙古軍の軍人たちは中央アジアの赴任地でイスラムのハナフィー派の信仰を持ちました。ですから鄭和もハナフィー派の信者だったのでしょう。それゆえに海外に住んでいる同族であり同じ信仰を持つ人たちのルートを使って鄭和は遠征のための海外情報を集めたのでした。
 鄭和は現在のベトナムにあったチャンパ王国に居住していた豪商、彭コ強(ボンタクケン)を東南アジアの華人の惣代に任命しました。彭コ強は任命されてから四年後にマニラにいた顔英裕(ガンエンワン)を、当時ジャワで隆盛を誇っていたマジャパヒト王国地域の華人代表として派遣しました。マジャパヒト王と華人女性との間に生まれた砲兵隊長であり火薬の知識が豊かな孫龍(スワンリョン)という男性を顔英裕はスマトラのパレンバンの華人代表に任命しました。翌年に顔英裕は彭コ強の孫にあたる彭瑞和(ボンスイホー)を孫龍のアシスタントとしてパレンバンに派遣したのです。この彭瑞和はその翌年にジャワに派遣され同地のムスリム華人たちの指導者となりました。この彭瑞和こそが今でもジャワ人ムスリムに慕われ尊敬されているスナン・アンぺルという偉人になります。これらの人たちの子孫もイスラムをジャワに布教することに功績があったので、いまでもジャワ人に慕われています。

 閑話休題。
 池上氏も指摘しているようにシーア派の教えは仏教によく似ていて、イランでは聖人墓地への参詣などが日常の出来事になっています。ジャワでも同様で、彼らはバスを仕立てて聖人墓地への参詣にいそしんでいます。この参詣自体、スンニ派では禁止しているのにもかかわらずです。また、困ったことがあると厄払いと称して古代から伝わる精霊の廟に詣でることも普通に行われています。このような仏教的要素の強い文化ですから、15世紀頃にジャワで最初に普及したイスラムは聖人を崇めるシーア派の教えでした。しかし、この教えはイスラム正統派の考えに合っていなかったので、シーア派は弾圧され指導者は焚刑に処せられました。
 今のベトナムにあったチャンパから華人の女性がジャワにやってきて王の妃となったという話がありますが、実はこの女性は15世紀にチャンパからやってきた中国大使の妻であったとのことで、貴賓席に座っていたので人々に王妃になったと間違えられたようです。この女性はイスラム教徒であり、いまでもジャワに残存するこの女性の墓所は参詣の対象になっています。
 ジャワの北海岸地域の都市へイスラムが豪商の華僑の手で持ち込まれました。かれらはほぼ全員がチャンパの華僑であったとのことです。彼らはイスラムのハナフィー派を奉じていました。かれらの子孫はジャワの王の側室になったりして、徐々にジャワ人たちにイスラムが認知されるようになってきました。イスラムをジャワに伝えたワリソゴと言われている聖人たちの大部分はこの華人たちであったことが歴史学者によって明らかにされています。上記に関する詳しい話は池上氏ではなく筆者にお尋ねください。

第二章 宇宙
 古代から人類は天体の動きを細かく観察してきました。まあ、昔のことですから夜は寝るしかないのですが、寝つけない夜は外に出て空を見上げていたことでしょう。電気もない時ですから地上は漆黒の闇で天上には銀河が美しくかがいていたと書けば美しいのですが、ひねくれ物の筆者(池上氏ではありません)はそうは考えません。
 実は、私たちの先祖は天から何かが降ってくると恐れていたのではないでしょうか。世界中に大洪水の神話が残されているのは先祖の記憶をそのまま残しているのではないかと思うのです。ある学者の試算によると数京(京=1000兆)トンの水が短時間に地球に降り注いだといいます。地球の歴史上ではこのような事件は何回も起こっているのですが、サハラ砂漠に降り注いだ最後のものだけが記憶されノアの洪水と言われているものでしょう。その証拠に、人類は数千年前には山岳部や丘陵部に居住して平地には下りてきませんでした。平地ではまた洪水に襲われる恐れがあるからだったのでしょう。
 天文学は、人類の初期には危機の予測を目的とするものでしたが、天体の観測から吉凶を占ったりすることに変化していきました。近世になって天体の動きは物理的に説明できることが分かり科学の発達の緒端になりました。彼らは創造主である神の偉大さを明らかにするために研究をつづけていましたが、有名な地動説が教会の教える天動説に反しているからと宗教裁判にかけられたこともありました。
 ビッグバン理論などが登場して途方もない昔の宇宙の状態を知ることができるようになったのも科学とそれに伴う技術の発達のおかげですが、筆者の興味を引かないので宇宙についてはこのくらいにしておきます。

第三章 人類の旅路
P110 人類はアフリカから始まった
 20万年前にクロマニヨン人がアフリカ地溝帯で生まれた
と池上氏は言っている。でもこれは「現在までに分かっている事実から考えると」という前提に立てばその通りですが、もっと重要な証拠が海中に眠っている可能性だって否定できないのです。

P101 進化=進歩ではない
 進化とは決して劣ったものから優れたものへと進歩するものではないのです、
と池上氏は述べている。進化は変化であり、また進歩とはとある基準を物差しとした場合の評価点だからです。人間が進化して日本では寄生虫病をほぼ払しょくしたことは進歩ではありますが、その結果としてアレルギーが蔓延したことははたして進歩と言えるのでしょうか?

 1986年に家族同伴でインドネシアの東ジャワへ転勤しました。当時、二歳過ぎたばかりの末子の息子はアトピー性皮膚炎とぜんそくに悩まされ、出発前に医者から山のような量の薬を渡されたのでした。転勤先の住居はお世辞にもきれいとは言えない築30年を超えた官舎であり、周囲は牛やヤギが勝手に歩いているような農村部でしたので、末息子の今後の健康状態の悪化について深く憂慮しました。しかし、彼のぜんそくの発作は徐々におさまり、あれほどひどかったアトピー性皮膚炎も一か月後にはその跡がほとんど消えてしまったのです。日本にいた時の家は全室カーペット張りの床でしたが、インドネシアの官舎はコンクリートタイル張の床であったためにイエダニなどの影響がなくなったこと、さらには居住地の周囲には寄生虫がはびこっていたため、寄生虫の分泌物が好影響を与えたものであろうと思います。また数キロ先の山腹には杉の木がたくさんあったのですが家族全員花粉症にもならず、約二年間の赴任を終えて無事帰国することができました。日本に戻ると、やはりアトピーとぜんそくが再発したところを見ると、上述のようにカーペットについているイエダニが悪影響を与えていたものであろうと思われます。

P110 人類はアフリカから始まった
 ミトコンドリアを調べていくと人類の祖先は例外なく東アフリカの一人の女性から始まったことが分かると述べている。でも、「ミトコンドリアイブ」と名付けられたこの女性はいったい誰から生まれたのだろうか?少しでも学問が深化すると疑問がますます増えてくるのです。
 染色体で思い出しましたが、韓国人と日本人の染色体を調べてみると、両国の女性には同一の染色体が見つかるのだが、男性は異なっているという研究結果があるそうです。これは現在の日本人の男性が持っている染色体をもっていた朝鮮半島にいた男性は全員殺されてしまったということになると言われています。はたしてこの話は真実なのでしょうか。古代の戦争では負けた側の男性はすべて虐殺され、女性だけが戦利品として勝った側にもたらされたと言われています。ですから、上記の説は全く荒唐無稽ではありません。
 この戦いとは新羅が朝鮮半島全域を制圧した時の事かもしれません。渡来人について日本の歴史書には多数の記述があります。七、八世紀ごろに朝鮮半島から渡来した人たちが多数いて、彼らが現在の埼玉県西部に住み着き、その名残が高麗や志木、新座などの朝鮮半島に由来する地名になっています。新羅が任那を滅ぼしたのですから、渡来人たちには新羅の人たちがいないと考えられるのですが、実際には新羅人たちが日本列島に多数移住してきたようです。彼らが日本列島に渡来したのは、朝鮮半島の近くに位置していたという地理的条件もあるでしょうが、朝鮮半島と日本列島の地域を含んだ大きな国家が外敵に敗れて、半島部分の領土を失い、そこの王族たちが技術者を連れて列島に移住してきた、すなわち、大規模な政治難民を列島側で受け入れたのではないか、と筆者は考えます。また埼玉県の秩父で日本で初めての硬貨である和同開珎が鋳造されました。この硬貨を作るためには、鉱山技術、精錬技術、鋳造技術など素人ではできない高度な技術が必要で、その当時の秩父には技術力の高い集団がいたことが分かります。この高い技術を持った彼らは渡来人であったようです。
 秩父盆地は周りを山岳に囲まれており、征服のために大軍を送るためには荒川沿いのあい路を通過しなくてはならないため、この盆地は比較的安全であったという地理的条件から渡来人が住み着いたのではないでしょうか。

閑話休題。
P121 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの違い
 池上氏は指摘していないのですが、どうもネアンデルタール人の方がホモ・サピエンスより大型で運動能力が高かったようです。大型の獲物も素手で捕まえることができたが、非力なホモ・サピエンスは道具を使わなければ獲物をとることができなかったようです。道具の発達は手先の繊細な動きを発達させ、脳の能力も向上したのでしょう。
 
(ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの)文化レベルの高低が決め手となって、現在の私たちが存在しているらしいのです。私たちは、なぜ存在するのか?文化の程度が高かったからなのです。
と池上氏はこの章を締めくくっていますが、他の章のようなきっちりとした締めくくりではなく、いささか後味が悪い感じは否めません。


第四章 人間と病気
P124〜125 吸血ダニとの格闘からスギ花粉症は生まれた
 人類が獲得してきた吸血ダニへの免疫システムが、スギ花粉をダニと誤認して免疫システムが作動することによってスギ花粉症が発生する。花粉症という病気は、私たちの環境があまりに清潔になりすぎることでもたらされた病気であるということが分かります。
 私たちが子供のころは、そこらじゅうがばい菌だらけだったので、免疫システムがきちんと作動してのでしょう。

 とあります。たしかに、池上氏や筆者が小学生のころ(1950-60年代)には検便や蟯虫検査など寄生虫病予防策がとられていました。
 時は流れて2003年。長期のインドネシア出張後におならが頻繁に出るようになり、その臭いがいつもと違うことに気が付きました。出張中には特にこれといった病気にはかからなかったので、寄生虫がいるのではないかと疑い、東京の薬局数店でコンバントリンというファイザーの有名な駆虫薬を探しました。しかし、どこの店でも「学校でその名前は習ったが現物にお目にかかったことがない」といわれたのです。インドネシアではこの駆虫薬はごくごく一般的なもので、どこの薬局に行っても在庫が必ずあるというものでした。日本では随分と前から駆虫薬が必要でないほどに清潔になっているということをこのことから実感しました。
 次は2006年にやはりインドネシアに出張した時の事。事務所の昼休み時間に若いインドネシア人女性たちと雑談をしていた時にこのコンバントリンの話が出ました。一人が「私はちゃんと三か月に一度はコンバントリンを飲んで寄生虫病にならないようにしている」というと、別な一人は「えーっ、あんた。寄生虫がいるようなそんな不潔な環境で生活しているの! 私なんか駆虫剤を飲んだことがない」と、お互いにどちらが不潔な環境にいるのかという討論が始まりました。おなかの中を清潔にするのか、外部を清潔にすることのどちらが正解なのでしょうか。哲学的問題になりそうです。
 1985年から約一年、1997年から数か月間、中東に出張していた時に現地の人たちの鼻の形がきれいなことに気づきました。この出張の往復に経由したヨーロッパの現地人たちを観察していると、ヨーロッパ人、特に高齢者で田舎の人たちは中東の人たちほど鼻の形がきれいでないことがわかりました。その後、インドネシアでも親子を観察していると、鼻の形が中年の両親より若い子供たちのほうが高くきれいな形をしているのに気付きました。帰国して自分とわが子を比べてみてもインドネシアで観察した結果とあまり相違はありませんでした。ちなみに筆者と父親はほぼ同じ鼻の形をしています。
 これは何を意味しているのかとつらつら考えた末にたどり着いた結論とは、鼻の形が悪くなるのは寄生虫の影響によるものではないかということでした。すなわち中東の人たちの鼻の形がヨーロッパ人より良いのは、イスラムの教えで寄生虫がたかりやすい食物を摂取しないかったではないでしょうか。

 負けおしみで冗談が得意のインドネシア人の友人は昼休みになると、「腹が減った」とは言わず「腹の虫に餌をくれてやる」といっていたので、「寄生虫を飼っているならコンバントリンでも飲めば?」と親切な筆者はそのつど忠告してあげていました。

P148 病気が人類の歴史を大きく変えてきた
 中世ヨーロッパではペストが大流行し人口の三分の一が死亡したとも言われています。そのため生き残った農民は貴重な労働力となり、領主に強い要求を主張することができるようになり、農奴の解放につながっていったのです
、とあります。
 すなわち中世の農奴制が崩壊し、近代の民主主義につながる思想の萌芽になりました。
 17世紀初頭、イギリスの清教徒と呼ばれるキリスト教徒がアメリカ大陸に渡っていきました。(中略) (かれらが)アメリカの東海岸に入って先住民と交流をしている間に先住民たちが次々に死んでいきました。これは清教徒たちがヨーロッパからたくさんの病原菌を持ち込んだためでした。免疫のない先住民たちは簡単に病気に罹って、バタバタと死んでいったのでした。同じことが南米でもポルトガルとスペイン人たちが渡航したことによっておこりました。
 私たちを知ることは、病気を知ること。病気を知ることは、私たちを知ることなのです、
とあります。
 これも、章の結論としては詰めが甘いような気がします。

病気が国家の繁栄を助けたことがありました。
 日本では昔から養蚕と絹織物が盛んでした。この生糸(絹糸になる一段階前の原材料)を欧米に大量に輸出することで外貨を稼いで大日本帝国は強国になったことはご存じのことでしょう。生糸を輸出するために世界遺産になった富岡製糸場が政府資本で建設されたこともご存じのとおりです。この工場では品質向上と生産性を向上させるためにフランスから製糸機械を導入してフランス人の指導員を雇用していました。この努力で日本の絹が欧米で売れるようになりました。
 この富岡製糸場での女工さんの待遇は「女工哀史」の話と全く異なり、かなり厚遇されていたようです。この工場で養蚕から生糸の製造までをマスターした女性たちを彼女たちの出身地でインストラクターとして絹産業を盛んにしようとしたからです。女工さんたちの大部分は農民ではなく武士の娘たちであったと解説していました。
 ちょっと世界地理で習ったことを思い出してください。フランス南部とイタリアでは絹織物が作られているということを習ったことがあると思います。そうです、日本の生糸が輸入される前は欧米市場の絹の需要にこの地域が応えていたのです。ということは欧米には昔から絹製品の需要があったということになります。
 既存の流通システムに新参入者である日本の絹がやすやすと参入できたはずはないのですが、大量の生糸が日本から輸出されていたのは事実です。日本の生糸は白くて染色しやすいといった品質の利点は指摘できるでしょうが、その最大の理由はヨーロッパの生糸が供給不足に陥ったからでした。供給不足の原因はヨーロッパで流行した蚕の病気でした。この病気によりヨーロッパにおける生糸の生産量が激減し、需要に応えるために生糸を輸入せざるを得なくなり、日本にとって千載一遇のチャンスが訪れたのです。
というわけで、病気が日本の発展に寄与したということもありました。
 余談ですが、洋服地は2.5mが一着分です。伝統的な日本の機(はた)は和服のサイズに作られていたので、製品の幅が欧米の基準に全く合いませんでした。それで、大機(おおはた)と呼ばれる木製手動式の紡織機を作り、女性二人が明治時代にはこの機械で絹織物を織っていました。この大機はその後の自動織機に押されて姿を消してしまいましたが、半分壊れかかったものが近年発見されて、復元されたものが桐生の資料館に残されています。この機織り機を復元して、屈強な男性二人で実際に機織りをやってみたところ、30分で疲れて果ててしまったそうです。明治時代の女性はこの機織り機を朝から晩まで動かしていたと言いますから、相当にスーパーウーマンだったのでしょうね。


第五章 経済学・歴史を変えた四つの理論とは
P153〜 近代経済学の父アダム・スミス
 アダム・スミスは「富とは国民の労働で生産される必需品と便益品である」と定義した。必需品とは暮らしに必要なもので、便益品とは便利なものの意味。
 富を増やすためにアダム・スミスは分業に注目した。みんな利己心から仕事をして、それが結果的に分業という形になって経済を回していると考えた。
 アダム・スミスの唱えた「見えざる手」とは市場経済が持つ自動調整機能のこと。
 アダム・スミスは、自由競争という視点から経済の仕組みを解き明かした。

 しばしば「見えざる手」を「神の見えざる手」という人を見かけますが、正しくは「見えざる手」だそうです。

P157〜 カール・マルクスの「労働価値説」
 マルクスは、利益は、労働力によって生み出されると考えた。これを「労働価値説」という。
労 働力の値段は、労働力を再生産する費用で決まるとマルクスは考えた。資本家が機械や土地、建物、原材料と労働力にお金を払って商品を生産し利益を出すには給料を下げるのが一番よいことになる。そうなると低賃金で働く労働者は生活が苦しくなってやがて労働者同士が団結して社会主義革命を起こすようになるというのがマルクスの予測であった。
 しかし、マルクスは資本主義がいかに非人間的なものであることは分析したもののそれに代わる社会主義の姿は具体的に提示していない。そのためレーニン、スターリンや毛沢東、金日成が勝手な解釈で社会主義国家作ったが、そのいずれも大失敗に終わった。

 残念ながらマルクスは性善説に傾倒しすぎており、人間の実態を観察し未来を予測することはできませんでした。そのため、ソ連では数百万人が虐殺にあい、中国では毛沢東が自分の地位を保つために文化大革命という権謀術数を使って有能な人たちを追放し、遂には農業政策でも失敗して三千万人というが死者を出してしまいました。現在に至っては、共産党をうまく利用して私腹を肥やそうとするばかりになってしまった。これが現在の中国経済の衰退の現況です。北朝鮮では、金「王朝」の存続のために国民が貧困にあえいでいるのはご存じのことでしょう。社会主義の目的は「富の平準化」であり、所得格差の縮小であったはずですが、そんなことは棚に上げて、ここ二十年間以上にわたり資本主義社会より所得格差が広がっているのを無視してきたことは、「私腹を肥やす」ことと「地位保全」だけに執着してきたという証拠にもなりましょう。

P162 常識を覆したケインズ革命
 ケインズは、不況を克服するような政策をその政府が実施すれば、失業者の増加を食い止めることができると考えた。自由な競争を行うと、売れそうな商品に多数の企業が参入するために供給過剰に陥る。商品が売れなくなると給料を下げたり、社員の解雇をせざるを得なくなる。この悪循環によって不景気になる。公共事業を行えば建設会社の社員のみならず社会の様々な人の給料が増え、その結果消費が増え、その効果は公共事業への投資金額より大きくなる。

 こういう政策は初期には効果的なのだが、対象となる社会の方も「どうやったら儲けられる」かを学習するので、数年したら使い物にならなくなります。経済は自然科学の実験ではないことがこれからわかります。

P168 ケインズは死んだ
政治家はケインズが思ったようには動かなかった。公共事業が増えるので建設会社が増えていくと新たな政府支出も建設会社を存続させる程度になって他の業種までお金が回って行かなくなってしまったのです。

P170 フリードマンの新自由主義
フリードマンなどの新自由主義者は、政府の規制はできる限り撤廃した方が経済がうまくいくと考えた。

P172 新自由主義は格差を拡大させた
 市場原理に絶対的な信頼を置くフリードマンの主張は、袋小路に陥ったケインズ的な経済制度に新風を吹き込んだが、格差を広げてしまう側面があった。日本でも雇用規制を緩和したため、大量の非正規雇用労働者が生まれ、格差が拡大している。この意味から、新自由主義は「勝組の論理」とも呼べる。

 新自由主義は「勝ち組の論理」であることは確かです。「勝ち組」とは有力者ですから政治的に見て彼らの影響も強い。税金をたくさん払っているのだから政府はその分余計にサービスしろ、というのがアメリカの考え方でしょう。しかし、日本ではまだまだ永年雇用という良い習慣が続いていることに日本人に生まれてよかったと思うのは筆者だけでしょうか。
 この「勝ち組の論理」を採用して、それを推し進めたのがサムスンに代表される韓国でしょう。その結果、失業率は高くなり、大卒者の就職率も日本の約半分になっています。このところの円安と中国産品の輸出を通じて、韓国経済はますます苦しくなってきているのは確かです。また、韓国の物価は日本とあまり変わらないのに対して、給与は日本の半分程度だと聞いています。また社会保障制度なども整備されていないので韓国の大多数の高齢者は生活に困窮せざるを得なくなっているようです。
 2014年から多数の中国人が来日するようになり、「爆買い」で商店は儲かっているようですが、彼らの目に余る非道徳的な行動は批判の的になっています。一方、身近な中国出身者を見ていると数十年以上前に来日した中国人には道徳的な人が多いように感じます。中国の状況に詳しい友人はこういっていました。
 「道徳的で礼儀正しい中国人は中国に愛想を尽かしてとっくの昔に出て行ってしまったから、残っているのは………」と。

P173 経済学は変わる
 最近の経済学では「行動経済学」に注目が集まっている。行動経済学とは、人間の心理的なふるまいを組み込んで経済現象を分析する学問である。人間は決して論理的な計算に基づいて冷静に行動しているわけではなく、感情や心理が経済活動に大きな影響を与えることが分かってきた。このように、現代においても新しい経済学が作られている。

でもこの「行動経済学」は小さな修正のみで、その前におきた経済学の大きな方向転換と同列に扱うことはできないでしょう。

第六章 歴史 過去はたえず書き換えられる
P178 歴史として残るもの残らぬもの
 「世界史」という科目は、ヨーロッパ中心の歴史として作られてきた。
 海外には「世界史」という科目はない。私たちの歴史観には、無意識のうちにヨーロッパ中心的な発想が刷り込まれてしまっている側面がある。
 ヨーロッパの歴史観の根底には、世界には始まりと終わりがあるというキリスト教の歴史観「終末論」がある。人間がかかわる出来事を、すべて神の意図が実現する過程として描くものである。
 キリスト教も天皇制も、いわば歴史の「勝ち組」です。そうすると、歴史とは常に勝者によって描かれた勝者の物語となります。

 東南アジアの学校では「世界史」という科目がありません。これはここ七十年間に独立した国家だからで、明治初期の日本のようにヨーロッパの学問をそのままなぞったのではないからでしょう。ヨーロッパの歴史には日本は含まれていなかったため、彼らのような「歴史学」を作りたいと「日本史」という科目が生まれたのでしょう。また、極東の辺境に位置する日本とはことなりこれらの国家は近隣諸国との歴史的・経済的関係が深いために「自国の歴史」という科目を作らなかったのかもしれません。

P181 進歩史観の確立
 17世紀は「科学革命」の時代で、自然界には物理的な法則があることが発見された。そこで歴史にも何かの法則があるのではないかと考える人たちも出てきた。18世紀に彼らが見出した歴史の法則とは歴史は進歩しているということ「進歩史観」だった。ヘーゲルは歴史とは理性によってより良いものになっていくという考え方を打ち出した。彼の歴史観を批判的に受け継いだマルクスも「唯物史観」というものを考えた。
 歴史は進歩するという法則に基づいて世界中のすべての国や民族が、今日までずっと進歩してきて、これからも進歩し続けると考えるのは早計だ。

 そのとおり。時計の振り子のように左右に振れながら「変化」していくのです。もし、今日までずっと進化してきたというなら、中国はなぜ先進国のような社会保障体制をとるにいたれなかったのか、インドやエジプトが、イラン、イラクがなぜ先進国でないのかを説明できなければなりません。それは、農業が最大産業であった古代に成功して大帝国を築いたことのあるこれらの国々の人たちはこの「成功体験」に縛られていたため、工業化という新しい波に乗りそこなったからではないでしょうか。

P183 なぜ四大文明は歴史に刻まれたのか
 四大文明のように歴史に刻まれているのは、文字やパピルスなどさまざまな記録手段を持つことができた文明です。記録媒体を所有することで知見の蓄積が生まれ、その蓄積に基づいて、文明が発達していったのだと思います。

 色々な記録媒体を所有した文明国でもなかなか平和な安定した社会ができないのは蓄積した知見を悪用して私腹を肥やそうとする輩が多いためではないでしょうか。
 さて、日本語で使われている文字には漢字があります。この文字は中国から伝わってきたので「漢字」と呼ばれており、明治時代まで公式な文章では漢文が使われていました。日本の明治時代の石碑を見るとそのほとんどが漢文です。そのおかげで平易な中国語なら我々はその大体の意味を辞書なしで理解できます。
 この漢字は漢民族が発明したように教えられてきましたが、実は漢字の成立過程を研究した京都大学の白川静教授はそうではないことを著書で暗示しています。
 漢民族は昔から親にもらった体に傷をつけるのは大変悪いことであるという考えをもっていました。しかし、漢字には刺青を指し示す文字がたくさんあります。ということは、刺青をした漢民族以外の人たちが漢字を発明して、それを漢民族が中国全土とその周辺部に広めたのであろうことを暗示しています。現在のところ、どの民族が漢字を創作し使い始めたかは明確になっていません。詳しくは「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」 (新潮文庫) 小山鉄郎著等をお読みください。また白川教授は二千年前に編集された漢字の辞典である「説文解字」の解説に多数の間違いがあることを指摘した、世界で最も優れた「文字学」の権威でもありました。同教授が「漢字学」と呼ばなかったのは、漢字を発明した民族が漢民族でなかったことを暗示しているものかもしれません。
 さらに、同教授は孔子に関する研究でも世界的な権威であり、これまでの研究結果の誤謬を指摘しています。たとえば、孔子は上流階級の出身ではなく、巫女が生んだ私生児であったということなどです。詳しくはその手の本をご覧ください。
 文字で記録することができたのは1500年前のインドネシアでも同じことでしたが、インドネシアでは宗教がヒンドゥー・仏教からイスラムに代わったことで、歴史的な記録はほぼすべて廃棄されてしまい紙に書かれたものはほとんど残存していません。残されたのは石碑に刻まれた文字、文芸書、華人の廟に奇跡的に保存されていた13世紀以降の漢文でかかれた年代記、中国やヨーロッパの文献だけです。東南アジア他の国ではどうなのかは調べたことがないので何とも言えません。

P185 記録の蓄積が愚行を遠ざける
 この言葉をアメリカの歴代大統領に捧げたいものです。ISISが跋扈しているのもサダムフセインにあらぬ疑いをかけ、殺してしまったアメリカ大統領です。その結果、中東の勢力バランスが崩れ、狂信的なアルカイダやISISが登場して現在に至っているのです。
 アメリカはアメリカに反抗する人たちのことを「イスラム原理主義者 fundamentalist」と呼んでいますが、もともと「原理主義者」とはアメリカ国内にいるキリスト教徒の一派の呼び名でした。日本にいるとあまり感じないのですが、一旦外国にでると、アメリカがいかに「ピューリタン原理主義的」な行動を取っているかがよく見えてきます。こういう視点を持つことも「教養」の一つでしょう。

P186 歴史観は一つではない
 私自身は、イラン・イスラム革命は言ってみれば宗教ルネッサンスではないかと考えています。
 1997年から1998年にかけてテヘランに七回出張した時に聞いた話によると、池上氏の考えは少し違うような気がします。1979年にシャー(王)の愚鈍な政策に怒った民族派が団結してシャーをイランから追放することに成功しました。その後、民族派の中での権力争いで勢力が弱まった時をねらって、インドにいたホメイニ師が帰国して、イスラム強硬派を集めて民族派を蹴散らして政権を奪取したとのことでした。その後、有識者や技術者、富裕層、自由を求める人たちが大挙してイランを後にしてアメリカの西海岸に移住しました。その結果、生産設備が停止したことで、イランが経済的な大損害を被ったことはあまり知られていません。この民族派の人たちの考え方はイラン人に広く賛同を得ていたせいか、ヒズボラ「ヒズブ・アッラー」と自称する穏健派の人たちに出張期間中に多数出会うことがありました。
 彼らはひげが濃いためにひげを伸ばしている男性が多かったので、筆者はヒズボラ = He・ずぼらと揶揄していました。(冗談です)
 イスラム革命の前、女性たちはイスラム風な服装をしても洋風な服装をしてもとがめられることはありませんでした。服装は女性各自の自覚に任せられていたのですが、革命後には政府からイスラムの法律に基づいた服装などが強要されました。革命前には金曜日には礼拝のために道路を埋め尽くすほどの人たちが出てきていましたが、イスラムを国民に強制した結果、革命後には人出が激減したそうです。イスラムでは、他人に強制してはならない、すなわちその人の自主性に任せなさいといわれています。そうでないと本当の宗教心は湧いてこないということが分かっていたからなのかもしれません。
 ですから「宗教ルネッサンス」というより、実際にはホメイニが「宗教活動」を強制することで、信者から信仰心をそぎ落とした「反宗教活動」ともいえるのかもしれません。
 テヘランにいた時に、現地の友人から「良いウオッカが入ったし、ガールフレンドが遊びに来るから来ないか」と誘われました。どんなことをするのか興味津々で訪ねてみました。姉妹の若い女性が真っ黒なイスラムの服装で入ってきて「ちょっとトイレを借りますね」と。びっくりしたのはトイレから出てきたこの姉妹、真っ赤なハイヒールにノースリーブの超ミニドレスを着ていたのです。こんな格好で人前に出ることはイスラム法で禁じられているのですが、国民たちはそんなことはお構いなしに好き勝ってに生きていました。外では宗教警察の目がそこかしこにあるので、一応真っ黒な服を着ているのですが、人目に付かない場所ではこんなことをやっていたのです。宗教で行動を縛ることはできても心までは縛ることはできないということを如実に感じました。
 中世のヨーロッパでは政治経済軍事のコンサルタントとしてイラン人(当時はペルシャ人)やアラブ人をたくさん招聘していました。これらの中東の人たちは優れた文化を持って暗黒時代のヨーロッパに来訪しました。その一つが「花を届ける」ことだったのかもしれません。帰国した人が出迎えの人たちからたくさんの花束を受け取っていたのをテヘランの空港で見かけました。またテヘランでは商店が休みの金曜日でも花屋だけは開いていました。自分の目で観察したことを経験や本などから得た知見と結びつけるという脳内作業も教養を高めるための準備として大切なことだと思います。

P187 イラン・イスラム革命に対して、中世に逆戻りしたと考える人もいれば、近代の自由競争社会の欠点を克服しようとした革命と考える人もいる。ただ、いずれにしても、あの革命を単純な進歩史観で位置づけることはできません。
 たしかに。同感です。ただ、中世のイスラム社会はヨーロッパほど暗黒ではなく、理性が十分に発揮されていた社会であったことは確かです。そのおかげで、アラビアでは自然科学、化学(もともとは錬金術)が大きく発達し、アルカリなどの基本的な化学技術用語はアラビア語が語源となっているそうです。ですからイスラム社会が「中世に逆戻りした」という表現は、中世における中東の状況を知らない浅薄非才の人が放った言葉なのでありましょう。これは中世が暗黒時代であったヨーロッパ人の言葉に違いありません。

P188 「歴史の真実」は変わる
 歴史は新しい研究結果によって、次々に書き換えられていくものです。
 史実を覚えることは歴史にとって本質的なことではありません。出来事と出来事の間に、どういう論理や因果関係が見て取れるのか。残されている史料を読み解くと、どういう出来事があったと推測されるのか。そういったところに、歴史を学ぶ面白さはあるのです。
 確かにその通りです。試験に出るから年号や人名を覚えるというだけでは歴史の面白さは全くわかりません。歴史は人間が作っていくものですから、愛憎や怨念を持った昔の人たちも私たちと同じような行動パターンをとったことでしょう。
 筆者が高校生の時の世界史の先生は、この出来事がなぜ発生してどのように影響していったか、またその出来事の背景をわかりやすく説明してくれたので、筆者は歴史が大好きになりました。7世紀から16世紀にかけてのインドネシアの歴史をインドネシア語から和訳したのも、この先生の薫陶のおかげです。
 ここ数年間に読んだ歴史の本で最も感銘を受けたのは杉山正明著「遊牧民から見た世界史」でした。ヨーロッパ中心の歴史教育を受けた筆者は、高校で教わった視点でしか世界史を見ることができませんでしたが、この本からはアジア大陸を縦横無尽に駆け巡り文化の交流にも大きな影響を及ぼした、今では勢力が衰退してしまった遊牧民から見た世界観がよくわかり、目からうろこでした。また、中東への出張が度重なると、彼らの視点からヨーロッパを見る、すなわち教わった世界史を見直すことができました。十字軍は正しくて勇ましいように教わりましたが、中東から見るとヨーロッパの野蛮人たちが沿岸部を荒らしまくった事件であると理解できます。ここ数百年の歴史を見ていると、民族の興亡には「技術の発展」が大きく影響してきたと思います。この件に関して1970年代の古い本ですが堺屋太一著「風と炎と」も熟読する価値があります。筆者はこの本に思想的な大きな影響を受けました。一人になれる時を作ってこのような本を読むことをぜひお勧めします。

P191 歴史は権力によって書き換えられる  北朝鮮と韓国の例
 北朝鮮の金日成は、戦争末期にはソ連の基地にいて、そこで息子の金正日も生まれているのですから、朝鮮半島で日本と戦っているわけがありません。(ソ連の思惑に従っただけで)自分たちの力だけで国を作ることができなかったからです。このコンプレックスをはねのけるには、自分たちの力で国を作ったという歴史を生み出すわけです。
 韓国では、日本が朝鮮半島を支配しているころから、上海には韓国臨時政府という亡命政権がありました。これは名前だけで実態は全くないものでした。この初代大統領に就任したのが李承晩でした。しかし李承晩は「臨時政府」の大統領を罷免され、戦争が終わるまで、朝鮮半島にはおらず、アメリカでロビー活動をしていました。この甲斐あって大統領の座におさまったのです。
 李承晩も金日成と同様、他国(アメリカ)に連れて来られる形で大統領になったのでした。そうすると、彼らにしても、自分たちの力で国を作ることができなかったというコンプレックスを抱えています。そこで韓国でもコンプレックスをはねのけるために、現在の韓国政府は上海に作られた臨時政府を継承するものとしています。つまり、上海にあった臨時政府が、日本の支配に対して戦った結果、現在の韓国があるという歴史を作り出したのです。これは北朝鮮のような歴史の捏造とまでは言えませんが、きわめて主観的な支持を作り出している点では変わりません。
 これが韓国人のいう「歴史の見直し」の実態なのです。

P194 政治的意図による歴史づくり 中国の例
 戦争中に「国共合作」が行われましたが、その実態は国民党が主体の戦争でした。共産党は、国民党と日本軍を戦わせ両方を弱体化させ、自分たちが漁夫の利を占めようという戦略をとっていたのです。
 共産党に政治的正統性があるというのは日本軍の侵略と戦って勝ち、中国の人々を圧政から救ったからだという歴史を作り、それを教え込むわけです。
 日中関係は実は中国の国内問題だとよく言われます。実際、中国で共産党の支配が揺らぐと、そのたびに反日キャンペーンが行われます。「日本はひどかっただろう。その日本と戦って、人々を解放したのは共産党だということを忘れてはいけない」というアピールに躍起になるのです。
 歴史とは勝者が描いたものであると同時に、その時々の政治の事情や都合によって、見直され書き換えられるものなのです。
 日本が大東亜戦争に負けて台湾が「解放」されるということで台湾の人たちは大喜びしました。しかし、大陸から台湾に逃げ込んだ国民党軍は大日本帝国軍の数倍も台湾人にひどいことをしました。これに抗議した台湾人が数万人殺された二・二八事件がありました。元々台湾に住んでいた人たちは本省人、蒋介石と共に来た人は外省人と呼ばれています。 2000年代に同じプロジェクトで働いた台湾人で、一人だけ中国人風な行動をとる人がいたのでその理由を尋ねてみると、「彼は外省人だから、我々本省人とは態度が違うのです、ふふふ」とその本省人の同僚がこっそりと教えてくれました。
 「韓国が経済発展したのは三十年以上にわたり日本に統治されていたからで、インドネシアは日本に三年半しか統治されていなかったから今の状態にあるのだ」と日本批判を続ける韓国の国連代表を皮肉ったのはインドネシアの代表でした。

P196 「東京裁判史観」と「大東亜戦争」
 日本の現代史にも、勝者の歴史というものが強く反映されています。1946年から48年にかけて行われた東京裁判では、勝者である連合国が敗者の日本を裁きました。それ以後、日本は侵略行為を深く反省しなければならないという歴史観を持つことになりました。こうした歴史観を揶揄した言葉が「東京裁判史観」です。つまり戦後の歴史観は日本の負の部分ばかりが強調されていると批判する人々が「東京裁判史観」という言葉を使いだしたわけです。
 東京裁判をどう評価するかという点については、今なお意見が割れています。戦後の日本の歴史観に勝者の側からの歴史観が反映されていることは確かです。
 最近よく言われるのは「アジア太平洋戦争」というネーミングです。これが現時点ではもっともイデオロギー色のない呼び方と言えるのではないでしょうか。
 (三十万人を殺したといわれている南京大虐殺については)その後の研究により、監禁で何らかの虐殺は明らかにあっただろうが、三十万人という数字はありえないだろうということもわかってきています。むかしだったら勝者の歴史しか残っていませんが、現代では様々な証言や史料を科学的・実証的に分析することによって、歴史の見直しも行われているということです。

 岸信介は生前「東京裁判」についてこう語っている。
 「戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない。ただ自分たちの行動については、なかには侵略戦争というものもいるだろうけれど、われわれとしては追いつめられて戦わざるを得なかったという考え方をはっきりと後世に残しておく必要があるということで、あの裁判には臨むつもりであった」(『岸信介の回想』 岸信介・矢次一夫・伊藤隆 文春学芸ライブラリー) 引用http://ironna.jp/theme/478
 筆者も岸信介の意見に賛同します。戦争というのはほとんどの場合、地上で行われますから外国の軍隊が入ってくる、すなわちその国から見たら侵略ということになります。その戦争が正当なものであるかどうかは、驚いたことにフィキ(fiqq)というイスラムの手引書に記載されています。

 フィキの第12章 ジハード (戦争) 章の冒頭にはこうあります。
 ジハードは、アッラーの宗教を守護するために、敵とみなされた無信仰者に対する戦争を意味するものである。
 戦争の目的は、アッラーの宗教を守護しそれを養い、高貴に保つことが基本となる。
 その戦争が目的とする理由と意図に定義を与えて戦争を行うことをイスラムは許すものである。すなわち、不公正さ、礼拝所の尊重、民族の独立、中傷の排除、そして各個人の信仰の保持と遂行、を拒否することがあげられる。

 この中では、「民族の独立」ということが大東亜戦争の一つの理由になったと考えます。
 現在のアジア諸国は欧米列強の植民地と化し搾取の対象となっていた1930年代の日本を囲む政治状況を考えると、欧米列強の魔手が日本の喉首を押さえつけ支配しようとしていたのは確かです。それを排除して民族の独立を保とうとする戦争は正統なことになります。
 また、ハディス(ムハンマドの言行録)ではこう説明されている。
 
略奪した財産に対する欲望によるもの、自分の勇気を誇示するために行うもの、憎悪によるもの、怨念によって生じた戦争を意味するものではなく、アッラーの宗教を高く奉じるためと全ての障害から守るために行うものである。
1.略奪した財産に対する欲望によるもの
2.自分の勇気を誇示するために行うもの
3.憎悪によるもの
4.怨念によるもの

 この解説によると、「世界の警察官」として自分の勇気を誇示するために行った湾岸戦争はアメリカ側に理が通りませんし、「化学兵器を所持している」とされたイラクのサダムフセインを憎悪の対象として殺したのは不当なことになります。
 ムスリムたちは上記の教えを守ろうとしていますから、どうしても「原理主義国家」のアメリカとは衝突することにならざるを得ません。これらのイスラムの教えはムスリムではない筆者にとっても正当と思われます。
 東京裁判では、戦争当時に発布されていなかった法律が適用されました。これだけで裁判のルール違反であり、インド人の判事が異存を申し立てたのですが、この正当な意見は却下されました。連合国側のもつアジア人蔑視に基づく「ごり押し」であった、といってもいいでしょう。
 ちなみに、「A級戦犯」の「A級」とはその人の立場による分類で、最も悪い人であったという分類ではありません。彼らは、国会決議で「戦犯」の汚名を取り除かれ、靖国神社に祀られています。

P199 歴史とどうつきあっていくべきか
 これまでの過去の歴史は、ある意味ではとても単純でした。勝ったものが記録を残し、負けた者の記録は残っていないからです。敗者の歴史というのは、この世界から抹殺されています。ですから、私たちが学んだ歴史は言ってみれば氷山の一角で、実はそれ以外にも知られざる歴史がたくさんあるということを常に頭の片隅にとどめておいてほしいのです。
 歴史を知らないと私たちはおろかな失敗を繰り返します。歴史に学ぶことで、失敗を未然に防ぐこともできます。歴史を批判的に眺めながらも、学ぶべき知見は現代に生かす。難しいことですが、その積み重ねによってこそ、私たちは過去の愚行を繰り返すことから逃れられるのです。
 歴史を学ぶことで、私たちはどこから来たのかが分かります。その知見をもとに、どこへ行くべきかを探るのです。

 一旦外国に出ると自分の身の安全のために情報を収集・分析して行動をとるのが当然であり、日本人以外はこういう風にやっています。しかし、飽食で平和ボケの日本人には全く理解できないのです。ですから若いうちに外国で仕事をしてみて自分の頭でいろいろと考えることが必要になってきます。これも教養の一つです。東南アジアや中東での滞在歴が30年以上の筆者がこういうのですから、信じてくださいね。


第七章 日本と日本人 いつ、どのようにして生まれたのか
P205 「日本」という名前の由来
 国家意識というのは不思議なもので、自分たちの中だけでは生まれてきません。つまり、自分とは異質な人たちと接触して初めて。彼らと我々は違うという認識が生まれてくるわけです。

 だから、若いうちに外国で仕事をして苦労した人ほど「日本人」という自覚が出てくるのです。

P209 「日本人」は1873年に誕生した
 明治になって1871年に戸籍法が制定され、その後、1873年に太政官布告(閣議決定)で国籍の違う人同士が結婚した場合、女性が男性の国籍になるという規定が作られました。(それ以前は)国籍という考え方がなかったのです。ということはそれまでは近代的な概念でいう日本人は存在しなかったということになります。
 日本人という明確な実態があるわけではありません。日本人という概念が政治的に作られたことで、初めて日本人というものが制度上、存在するようになりました。ラジオの放送が始まったり標準語ができたりすることによって、全国の誰もが一応、意思疎通できる共通の言葉を獲得した。そのことで少しずつ日本人という共通の国民意識が作られていったわけです。

 1919年生まれの母が文化服装学院に通っていた時(1930年代)に中国から留学してきた三人の女性は北京、上海、広東と出身地が異なるために、お互いの会話は日本語だったと母が語っていました。現在使われている中国語である普通話はその当時上海と広東では全く使われていなかったのがその理由とのことでした。台湾でも先住民と渡来した漢民族との会話には学校で教わった日本語が使われていたようです。

P212 時代を貫く日本人のアイデンティティは存在しない
 各地方で「よそとは違うんだ」という意識があるものの「日本民族」という一つのレッテルに何となく納得してしまうのは、この国がかつて戦争に向かって進む過程で作られた、さまざまなプロパガンダや制度がいまだに根強く残っている面もあるのではないでしょうか。

 池上氏は「戦争に向かって進む過程で」と言っているが、これは「過去の歴史の積み重ねで」と表現すべきです。
 インドネシアでは「インドネシア民族は一つ」という標語が国是になっています。これは独立宣言の中に含まれている言葉ですから、特に「戦争に向かって進んだ」歴史の中で民族意識が作られたと言い切るのは早計ではないでしょうか。

P213 国家意識はいかに作られるか
 人間は誰でも生まれ育った場所に愛着を持っています。それは海外の人々だって同じことです。しかし国家を愛する愛国心は、政治的な下地の下で生まれやすい面があります。
(イラクにいるシーア派の人がイランではなくイラン・イラク戦争の時にイラク側に加担した事実は)国家が国家意識を上から植え付けていくと、いつしか国家という単位で同朋意識が生まれること(を語っています)。

 これは初耳です。国家意識というよりも同族意識の方が正しいような気がします。たぶん、指摘された事象には経済的な問題が背景にあったと思います。宗教は経済よりも強いものです。だから差別された英国を後にしてピューリタンがアメリカに渡ったのです。

P216 健全な愛国心とは何か
 健全な愛国心というのは、上から押し付けられるものではなくて、みんなが自然に持つものです。ところが愛国心を政治的に利用しようとすると、やがて居心地の悪いものへ傾いていくのです。新大久保などで在日韓国・朝鮮人をターゲットに差別的な発言を投げかけるデモが行われています。これは明らかに他者を貶めることによって、自分の優越意識を保とうとしています。これはいびつな愛国心です。
 同じ日本という国土で暮らしている私たちが、皆で日本を盛り立てることで国が豊かになれば、結局は一人一人にその見返りがある。政治も経済も文化も個人的には切り離されているわけではありません。こう考えれば日本人一丸となって頑張ろうという意識は自然に出てくるはずです。

 これができないのが中国人です。支配者が変わると社会体制がガラッとかわりましたから、彼らの社会において信用できるのは政府ではなく財産でした。ですから、他人を蹴落としてでも自分だけ儲ければいいというのが中国人の精神です。中国共産党の幹部がしこたま財産を蓄えて、それをアメリカに移動したことはこの精神を如実に示しています。中国人を日本人のように政府の言うことを聞く国民性に改造しようとしたのが毛沢東の文化大革命でしたが、数千年にわたって培ってきた民族の精神をそんなに簡単に変えることができるわけがなく、文化大革命は大失敗したのです。後日、これは毛沢東が支配者として共産党内での自分の地位を保とうとする行動であったことが分かりました。数千万人を犠牲にしてまで自分の地位を守ろうとする非人道的な行為は、現在の中国でも「法輪功」の信者たちに対して行われています。支配者こそ、歴史から学ばなければならないのに、自分のエゴでそれを無視しているのが現状です。

P224 他者との関係から自分・自国を認識する
 人間ははるか昔から同じ問題を考え、そこから宗教や化学、歴史など、さまざまな知見や学問の体系を作り出してきました。
 学ぶという営みは、必ず過去の蓄積を下地にしています。歴史が書き換えられることもあるし、新しい科学的な発想が生まれることもある。過去を見直すことによって、学問は発展し成長するということです。
 現代の私たちの前には過去の膨大な蓄積があります。そしてこの過去の蓄積を生かすことで、私たちはそれまでより豊かな暮らしや社会を築くことができるようになると思います。
 現代に生きる私たちにとって、知識の重要さもそこにあります。単に受け取るだけではなく、それを現代に生かし、より良い社会をつくり、より良い人生を築いていく。それがリベラルアーツというものの価値なのです。

 過去の蓄積とは知識のことです。知識を学び、それを使って未来を開いていくのは知識の力ではなく「知恵」の力なのです。ですから、自分の頭で考えることが必要になります。リベラルアートはこの「自分で考える」ことを要求しているのです。

筆者はしばしば若い人にこう言っています。

「知識は本屋に行けばたくさんある。本当に必要なのは君たち自身で作り出す知恵なんだ」と。



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2016/2/19 作成

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