「自分」の壁 養老孟司 新潮新書576

第1章       「自分は矢印に過ぎない」
12 自分より他人を知ったほうがいい
個性は放っておいても誰にでもあります。だから、この世の中で生きていくうえで大切なのは、「人といかに違うか」ではなくて、人と同じところを探すことです。
28 どっちでもいい
 「自分」とは地図の中の現在位置の矢印程度で、基本的に誰の脳でも備えている機能の一つに過ぎない。とすると「自己の確立」だの「個性の発揮」だのは、やはりそうたいしたものではない。そう考えたほうが自然な気がしてきます。
31 生物学的に見ても「自分」などというものは、地図の中の矢印に過ぎない。そして社会的に見ても、日本において「自分」を立てることが、そう重要だとも思えない。このように考えると、戦後、私たち日本人はずいぶん無駄なことをしてきたのではないか、と思えてしまうのです。
 「個性を伸ばせ」「自己を確立せよ」といった教育は、若い人に無理を要求してきただけなのではないでしょうか。身の丈に合わないことを強いているのですから、結果がよくなるはずもありません。
それよりは世間と折り合うことの大切さを教えたほうが、はるかにましではないでしょうか。

第2章 本当の自分は最後に残る
34 弟子は師匠になれない
「本当の自分」は、(世間と)徹底的に争った後にも残る。むしろ、そういう過程を経ないと見えてこないという面がある。最初から発見できるものでも発揮できるものでもありません。

第3章     私の体は私だけのものではない

60 シロアリとアメーバ
 こういう状態?共生といってもいいし、一心同体とか運命共同体といっても構いませんが、自然の本来の姿である。そう考えると、個性を持っても確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないものだと考えられるのではないでしょうか。生物の本質から離れているのは明らかです。

第4章       エネルギー問題は自分自身の問題

第5章     日本のシステムは生きている

84 馴染めないから考える
 (在日アジア人に対しての日本社会の説明)
日本には世間というものがあります、世間のメンバーではない人はメンバーとは別の扱いを受けます。しかし、これは差別意識の産物ではありません。あくまでも会員制クラブのメンバーかどうかということです。
88 安保の頃
 政治問題化すると、議論はおかしなほうに行く、これは若いころからわかっていることです。学生時代に見た安保闘争もそうでした
89 世間を良くしたいと、本気で考えるのならば、その人は、まず世間に入らなくてはなりません。そうすると、いろんな人がいる、いろんな考えがあるということが、よくわかるはずです。頭で考えた通りに簡単に進むわけではないこともわかってきます。(中略)それでも自分の一生の範囲でできることをしたほうがいいのです。
91 思想は無意識の中にある
日本人は、具体的な生活に関係ないことは何でも言えると思っています。(中略)日本にとって必要な思想は、全部、無意識の方に入っているのです。
91 思想というのは一種の理想であり、現実に関与してはいけない。これ、日本における思想の位置です。現実を動かしているのは無意識のほうにある世間のルールです。世間のふつうの人は、「思想家」と称する人たちの思想について、どこか現実離れしたものだと受け止めていることでしょう。それは性質上、当然のことなのです。
92 日本では、変に思想が突出するとかえって危ないことになります。それが太平洋戦争につながったわけです。日本で思想が先に立って成功した稀有な事例は明治維新くらいでしょう。
92 世間の暗黙のルール
 日本人の普段の生活は、世間にある暗黙のルールで動いている。だからその分、普段の生活にさほど関係のないことについて、百家争鳴で言い争って構わないのです。
93 江戸時代も同じで、合議制がベースになっていました。(中略)そういう国の民主主義と、王が強い主権を持って統治していたヨーロッパで生まれた民主主義を同じに考えることはできません。
96 江戸時代の不思議な人材登用
 そもそも(江戸)幕府そのものが、臨機応変な人材の登用によってつくられていた。田沼意次、柳沢吉保、新井白石等々は、本来はそんなに偉くなれるような家柄ではないのに、スカウトされて地位を得ました。
97 政治を見るときに大事なのは、人の能力をどう使っているかという点です。江戸は各藩が商業生産に乗り出していたころは、人材を非常によく使っていた時代でしょう。
99 変人もまたよい
 異質のものが入ってきたときに、どう社会が上手に受け流すか。これは日本が近代以降、ずっと百年以上抱えていた問題です。そのせいで戦争にまで突入した。
100 大きな視点でいえば、近代以降、日本の社会はずっと同じ問題を解決できないままなのです。すなわち「新しい他人とどう付き合うか」
103 日本の自殺は多いか
 (日本で自殺が増えていることについて)考えたほうがいいのは、(中略)「なぜこれまでは高度成長をしていて豊かな国だったのに、自殺が少なかったのか」「それがなぜ最近になって増えてきたのか」ということです。
105 世間といじめ
 本当に子供の自殺を減らしたいのならば、できるだけ「いじめが起きるのは君のせいじゃない」ということと、「君が死ぬと周りの人がどれだけ悲しむか」ということを暗黙のうちに理解させなくてはいけません。
106 逆に言えば、普段から親や周囲の身近の人からの愛情を強く感じていれば、それだけ死ぬことを思いとどまる力は強くなるはずなのです。
 自殺が増えていったことと、世間のしばりが緩くなったこと、人間関係が希薄になっていったこととは関係があるのでしょう。

第6章  絆には良し悪しがある

108 絆のいい面を見る
 以前から気になっていたのは、団塊の世代の人々がしばしば「老後は子供の世話にはならない」といっていることでした。(中略)「子供の世話にならない」という考え方に社会全体が向かうのは、ちょっと危ない傾向に思えます。それは「子供の世話をしない」ことの裏返しだからです。
110 個人主義は馴染まない
 そもそも集団というのは煩わしいものです。(中略)そういう気持ちは理解できるのですが、集団への反発をもとに「個」を立てるほうばかりに進むと、今のような社会、社会のきずなを解体する方向にでてしまう。
111 日本の場合は、絆、共同体の代用品として会社が機能してきました。戦後かなりの間は、これがきちんと機能してきた。ところが、そこにも「個」を立てるようになった。業績主義、成果主義です。
112 企業が、構成メンバーの安定や幸せを求めるのならば、ある程度はできない人必ず混じっていることを認めなくてはならない。そもそも仕事のかなりの部分は、できない人のフォローです。
112 近頃よく「雇用の流動性」といったことが議論されています。(中略)こっちで活躍できていない人は、あっちに行っても活躍できない。本当のミスマッチのせいでくすぶっている人なんて、ごくわずかです。しかも、その程度のミスマッチならば、かなりの部分は社内の移動だけで解決できるはずでしょう。
 こんなふうに人の使い方がおかしくなったのは、人を見る目を持つ人物が減ったからです。
113 不信は高くつく
濃密な人間関係に煩わしさはつきまとうとしても、大きなメリットがあることも事実です。人を信用するとコストが低く済むのです。
114 日本人同士がお互いに信頼していた時代には、不信から生じるコストが低かった。そのことは案外、見過ごされやすいのだけれども、日本の成功の要因だったのではないかな、という気もします。
117 あこぎはできない
 「絆」の大切さを考えるときには、心情的な問題もさることながら、実はそのほうが現実的には楽でコストがかからない、ということは知っておいてもいいでしょう。

第7章     政治は現実を動かさない

122 言葉は現実を動かさない
 言葉は最初からウソなのです。現実とは直接関係ない。言葉が動かすことができるのは人の考えだけです。その結果、その人が具体的に動いたときに、初めて現実が動く。だから、現実が厳しくなってきたときに、言葉に誠実すぎる人は結構まずいことをする。現実より言葉に引きずられるからです。日本が戦争に突入する時期がそうでした。このままだと石油が入ってこなくなる、という厳しい現実があった。そういう時に、現実よりも言葉に引きずられてしまう人がいたので戦争になってしまった。
132 知的生産とはホラの集積である
 内田樹さんの『日本辺境論』(新潮新書)は実に刺激的な日本論でした。本そのものが、著者自身の考えたビッグピクチャーだったからです。
133 133    (この著作のような)知的生産というのはホラの集積なのです。(中略)ビッグピクチャーのいいところは、関連のない事象がつながる点です。自分が思っていたことが、その一例にピタッとはまることがある。その提示した構図をもとに、読む人がそれぞれ自分で解釈ができる。それが面白いのですが、そういうことの良さがかわらない人が増えています。
134 医学は科学か
日本には大きな構図、骨組みを自分で考える人が、非常に少ない。骨組みは外部、多くは外国にお任せしておいて、その骨組みの中で部分的に仕事をするのが得意な人が非常に多い。
135 135    「意識」というものがなんであるか、そのことは科学では定義されていません。しかし、私たちは常に「意識」でものを考えている。その科学で定義されていない機能が自然科学をやっているとは、どういうことか。こういうことを考える人は少ない。
143 無関心もまたよし
 「政治にかかわらねばならない」という人は、みんなが全く興味を持たなくなったら、大変なことになるのではないか、という危機感を持っているのでしょう。しかし、そういう人こそ、裏を返せば、実は「みんな」を信用していないのです。本当に必要な時には、誰でも興味を持ちます。政治が問題になってくるのは、社会問題があるということです。
145 145  日本のような煮詰まった状態の国では、政治の出番は大してない。万事が必然だからです。(中略)つまり根本から変えることに、あまり必然性がない。(中略)政治的無関心が広がっているとすれば、それは単に切羽詰まっていないと感じる人が多い、ということに過ぎません。
149 フラフラしていていい
 真面目な人ほど、社会の問題を考えて「自分が世の中を変えねば」と強く思うのでしょう。周りが頼りなく見える人ほど、そういう気持ちは強くなる。でも、本当はたいていの人はフラフラ生きているものです。目の前のことをやるので精一杯。ただし、その精一杯をやっていくうちに、時折世の中の役に立つ、世の中を変えることにつながることも出てくる。そのくらいでいいのではないでしょうか。
そしてそういうことに出会う時期も若いうちである必要もない。ある程度年を取ってからでいい。大器晩成でいいのです。

第8章       「自分」以外の存在を意識する

173 意識外を意識せよ
 意識は一つになりやすいから、みんなでおかしな方向に一致して暴走することもあります。(中略)それを唯一止める方法は、意識を疑うことです。決して今の自分の考え、意識は絶対的なものではない。その視点を常に持っておくことです。
174 言葉でつじつまを合わせているから、理屈としては成り立っていることもあるでしょう。しかし、それは現実とは別のものです。あくまでも言葉に過ぎません。
174 別の言い方をすれば、「意識はどの程度信用できるものなのか」という疑いを常に持っておいたほうがいい、ということです。大して信用できないというのはすでにお話しした通りです。

第9章       あふれる情報に左右されないために

176 純粋さの危うさ
 今の若い世代は、かなりの時間をパソコンやケータイに費やしています。
177 容易に想像できるのは、人と直面するのが苦手な人が増えているということでしょう。(中略)画面に向き合っている時間が増えれば、必然的に他の時間は減る。減る中には、人と接する時間が含まれています。
177  人と生で接することと、ネット経由で交流することを同じにはできません。生で付き合うと、相手の固定したイメージを持ちづらくなります。「この人はこういう人だ」と決めつけても、その固定観念は往々にして裏切られます。
178 ネット経由の付き合いにおいては、どうしても「ノイズ」が消えていくことになります。ケータイやネットでの交流が主になっている人は、生の人付き合いを「ピュア(純粋)ではない」と感じるようになるのではないという気がします。
179 排外デモの純粋さ
 生の付き合いが減ると、どうしても純粋な方向に行ってしまう。(中略)中国、韓国の側でも彼らにとって都合のいい情報だけを「純粋」に選んでいて、「日本人はとんでもない」とやっています。彼らは彼らで、勝手にノイズを排除して極端な思考、行動になっているわけです。
180 情報過多の問題
 現代は「情報過多」だといわれます。情報過多というのは、別の言い方をすれば、身につかない情報ばかりが増えていくことです。知っていても役に立たない。
手に入る情報が増えて行けば、そのぶん賢くなるという単純な話ではありません。ネットを使えば、たいていのことがすぐわかる。そう思っている人もいるでしょう。でも、その「すぐにわかる」点こそが、ネットの問題点です。
182 数学の場合は、公式を導き出すまでの論理が大切で、その論理を作ることが、考えるということです。
183 メタメッセージの怖さ
 情報過多と関連して気を付けたほうがいいことは(中略)メタメッセージの問題です。
184  問題は、メタメッセージというものは、受け取る側が自分の頭で作ってしまうという点です。自分の頭で作ったものですから、「これは俺の意見だ」と思ってしまう。無意識のうちにすりかわってしまうのです。これが、とても危ない。
184 メタメッセージは、意識されないことが多いのですが、相当強く受け手に影響を与えます。
187 なぜ政治が一面なのか
 数多く流通している情報が、様々なメタメッセージを発している。必ずしも正しいとは言えないメタメッセージが積み重なっていくことが、人々に与えている影響はかなり大きいのではないかと思います。
189 生きていることは危ないこと
最近思うのは、「情報過多」が、実は「メタメッセージ過多」になっているのではないか、ということです。そしてメタメッセージが過多になると、それぞれがぶつかり合ったり矛盾したりします。その結果、「混乱する」「わからない」と思う人が増えているのではないでしょうか。
190 情報過多になり、知らず知らずのうちにメタメッセージを受け取り続けていると、本当に何が大事なのか、そのバランスが崩れてしまうように思えます。
194 柳の下にいつもドジョウはいない
メタメッセージを受け取るということは、自分の頭の中で、下(具体的な事象)から上(一般的な法則)を勝手に作ることです。
194 一つの例を見て、一般化を進める思考法はたいてい間違えます。
199 ツールは面倒くさいパソコンやインターネットのような新しいツールなどで、世の中が良くなる、進むと考える人もいることでしょう。しかし、話はそう簡単ではありません。
200 ものが詳細に見えるということは、それ以外の世界がぼけることにつながる。これは学者が陥りやすい落とし穴です。
201 ディテール(細部)を積み重ねていけば全体像にたどり着くはず、と学者は考えがちです。しかし、細部を調べれば調べるほど、全体は大きくなってしまうので、全体像からかえって離れてしまう、という面があるのです。
201 ビッグピクチャーの重要性:「だいたい、こう考えると納得するでしょう」という仮説は必要なのです。
203 地に足をつけよ
世間がきちんとしている時代ならば、世間ときちんと付き合えば、現実を見ていることになったかもしれません。しかし、今はその世間自体が怪しくなってきています。昔ほど強固なものではなくなった。そうだとすると、人間が意識的に作らなかったものと向き合うのがいい。大げさなことをする必要はありません。結局は、なるべく自然に接するようにするところから始めればいい。

第10章     自信は「自分」で育てるもの

208 脳は楽をしたがる
人間の脳は、つい楽をしようとします。脳が楽をする、とはどういうことか、それは現実を単純化して考えようとする、ということです。
215 人生はゴツゴツしたもの
いろんな揉めごとを、器用に要領や才覚で切り抜ける。そういう人に、つい言いたくなるのはそういう人生って面白くないだろうな、ということです。
216 日本人の底流にある価値観は、そうした要領のよさを尊ぶのとは別なものなのではないかとも思います。
効率よく答えを見つけるのではなく、自分で問いを設定する。そういう作業は苦しいといえば苦しいのかもしれません。しかし、私はある種の苦しさ、つまり負荷があったほうが生きていることを実感できるのではないか、と考えています。それがいきていることなんだろう、と。
217 自分の胃袋を知る
「他人のために働く」「状況を背負い込む」ことで重要なのは自分がどこまで飲み込むことができるのかを知っておくことです。つまり、自分の「胃袋」の強さを知っておかなくてはいけません。
218  常に他人とかかわり、状況を背負うということをしているうちに、なんとなく自分の「胃袋」の強さが見えてくるのです。
219 自信を育てるのは自分
社会で起こっている問題から逃げると、同じような問題にぶつかったときに対処できないからです。「こういう時は、こうすればいい」という常識が身につかないのです。
219 また、身体的な問題、遺伝的な問題などは別として、人間関係や仕事にかかわることなどの世間の問題というのは、どこかで自分のこれまでやってきたことのツケである場合が多い。「自分は何も悪くないのに、厄介ごとが次々に襲ってくる」と本人は思っていても、周りから見れば、その人自身が厄介ごとを招いている、ということもあります。どこかで他人や社会との距離の取り方、かかわり方を間違えているのかもしれない。しかし、逃げてきた人には、その人は見えない。
221 なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。しかしそうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」というのです。


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2016/09/03 作成

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