「バカの壁」養老孟司著 新潮新書003

以前から養老孟司先生の著書には気になる点が多く、多数の著書を拝読した。
殆どの著書は難解であり、なかなか咀嚼できなかった。この「バカの壁」はその最たるもので、ミリオンセラーになったとはいえ、いったい何人が内容を理解できたか不思議に思うほどのものであった。理解できなかった読者の中には筆者も含まれている。

第一章 「バカの壁」とは何か
18 <知識と常識とは違う>
日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識がたくさんある、というのは別のものだということが分からない人が多すぎる。その延長線上から「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、分かってもらえるはずだ」といった勘違いが生じてしまうのも無理はない
18 <現実とは何か> 
「そもそも現実とは何か」。「わかっている」べき対象がどういうものなのか。ところが誰一人として現実の詳細についてなんかわかっていない。世界というのはそんなものだ、つかみ所がないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。
19 ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。
20 現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単なことではない。だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教は、現実というものは極めてあやふやである、という前提の下で成立したものだと私は思っています。つまり、本来、人間には分からない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中で一人だけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提ができる。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在するということだ。
20 ところが、私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界だ。ここには本質的に真実は何か、事実は何か、と追究する癖がない。それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。これは一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との、大きな違いである。
21 <NHKは神か>
私自身は「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています。なぜなら、突き詰めていけば、そんなことは誰にも確かめられないのですから。今の日本で一番怖いのは、それが信仰だと知らぬままに、そんなものが存在する、と信じている人が非常に多いことなのです。
22 こうした「正しさ」を安易に信じる姿勢があるというのは、実は非常に怖いことです。 現実はそう簡単にわかるものではない、という前提を真剣に考えることなく、ただ自分は「客観的である」と信じている。
22 膨大な「雑学」の類の知識を羅列したところで、それによって「常識」という大きな世界が構成できるわけではない。しかし往々にして人はそれを取り違えがちだ。
22 16世紀のフランスの思想家、モンテーニュが語っていた常識とは、簡単に言えば「誰が考えてもそうでしょ」ということです。
23 モンテーニュは「こっちの世界なら当たり前でも向こうの世界ならそうじゃないことがある」ということを知っている人だった。もちろん「客観的事実」など盲目的に信じてはいない。それが常識を知っているということなのだ。
25 <科学の怪しさ>
地球温暖化はCO2ガスの増加によるものだと決め付けた官僚について。
「科学的事実」と「科学的推論」とは別物だ。しかしこの事実と推論とを混同している人が多い。厳密に言えば、「事実」ですら一つの解釈であることがある。
25 <科学には反証が必要>
ウィーンの科学哲学者カール・ポパーは「反証されえない理論は科学的理論ではない」と述べている。一般的に、これを「反証主義」と呼んでいます。
26 真に科学的である、というのは「理屈として説明できるから」それが絶対的な真実であると考えることではなく、そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢です。進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証ができないところだ。「生き残ったものが適者だ」といっても反証のしようがない。「選択されなかった種」はすでに存在していないのだから。いかに合理的な説明だとしても、それは結果に過ぎないわけで、実際に「生き残らなかったもの」が環境に不適合だったかどうかの比較はできない。
27 <確実なものは何か>
「80%の確率で炭酸ガスと思える」という結論を持てばよい。ただし、それは推測であって真理ではないということが大切だ。
科学を絶対的なものだという風に盲信すると危ない結果を 招く危険性がある。
28 付け加えれば、科学はイデオロギーではない。イデオロギーは常にその内部では100%だが、科学がそうである必要はない。


第二章 脳の中の係数
31 <脳の中の一次方程式>
脳の中には y = axという方程式がある。
ここで、yは意識的な出力
aは係数「現実の重み」

x は五感からの入力

33 a = 0 の場合は入力に出力がぜんぜん影響を受けない。
34 a =∞ の場合の代表例が原理主義というやつ。
38 宗教は、基本的にマイナスをプラスに転ずることができる、という論理を持っている。キリスト教で登場するところの放蕩息子が改心する、という類のエピソードはその例だ。なにかのきっかけ、ここでは神に出会ったとかそういうことでマイナス10が突如プラス10になる。
39 基本的に世の中で求められている人間の社会性というのは、できるだけ多くの刺激に対して適切なaの係数をもっていることだといえる。

第三章 「個性を伸ばせ」という欺瞞
41  <共通了解と強制了解
「わかる」ということを「共通了解」と「強制了解」とに分けて考えてみる。基本的に言語は「共通了解」、つまり世間の誰もがわかるための共通の手段だ。この言語の中から、さらにもっとも共通な了解事項を抜き出してくると「論理」になったり、「論理哲学」になったり、さらに「数学」となったりします。数学というのは、証明によって、否が応でも「これが正しい」と認めさせる論理です。もはやこれは「強制了解」という領域になります。
42 この数学に、自然科学では「実証」という要素を加えた。実験室で調べたらこういう結論になったということには逆らいようがない。これは「実証的強制了解」と呼ぶことができる。人間の脳というのは、こういう順序、つまりできるだけ多くの人に共通の了解事項を広げていく方向性を持って、いわゆる進化を続けてきた
45 <マニュアル人間>
今の若い人を見ていて、つくづくかわいそうだなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところだ。
46 会社でもどこでも組織に入れば徹底的に「共通了解」を求められるにもかかわらず、口では「個性を発揮しろ」と言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理はない。要するに、「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているからだ。皮肉なことに、この矛盾した要求の結果として派生してきたのが「マニュアル人間」の類だ。要は、「私は、個性なんかを主張するつもりはございませんが、マニュアルさえいただければそれに応じて何でもやってみせます」という人種である。これは一見、謙虚に見えて、実はずいぶん傲岸不遜な態度だ。
48 本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものだ。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、「個人間の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようとする性質を持っている。だから、言語から抽出された論理は、圧倒的な説得性を持つ。論理に反するということはできない。
49  <松井、イチロー、中田>
  「個性」なんていうのははじめから与えられているものであって、それ以上ものでもそれ以下のものでもない。産みの親だとだって(皮膚移植ができない点で)それだけ違うのに、何で安心して違う人間に決まっているといえないのか。意識の世界というのは、互いに通じることを中心としている。もともと人間、通じないものを持っているに違いない。
50  (アラブとイスラエルのように) そういう「個」というものを表に出した文化というのは、必ず争いごとが起きている。


第四章 万物流転、情報不変
53 <私は私、ではない>
脳は社会生活を普通に営むために、「個性」ではなく、「共通性」を追求することはすでに述べた。これと同様に、「自己同一性」を追求するという作業が、私たちそれぞれの脳の中でも毎日行われている。それが「私は私」と思い込むことです。こうしなければ、誰も社会生活を営めない。
53 逆に流転しないものとは、「情報」だ。
54  <自己の情報化>
 流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、のではなく、不変なのは情報である。人間は流転するということを意識しなければならない。
54 現代社会は「情報化社会」と呼ばれている。これは意識中心社会、脳化社会ということだ。意識中心というのは、実際には日々刻々と変化している生き物である自分自身が「情報」と化してしまっている状態を指す。意識は自己同一性を追及するから、「昨日の私と今日の私は同じ」「私は私」といい続けます。これが近代的個人の発生である。
55 近代的個人というのは己を情報だと規定すること。「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。だからこそ、人は「個性」を主張するのだ。
60 知るということは、自分がガラッと変わることである。したがって世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までとほとんど同じ世界でも。
68 <個性より大事なもの>
人間は変わらないという誤った大前提が置かれている点とそれにあまりにも無自覚だという点が、現代社会が見落としている、つまり「壁」を作ってしまった大きな問題点だと思う。
69 人と情報、両者の本質的な特性を比較して考えれば、大きく変わらないのがどちらであるかは明白だ。だから若い人には個性的であれなんていう風に言わないで、人の気持ちがわかるようになれというべきだ。むしろほうっておいたって個性的なんだということが大事なのだ。みんなと画一化することを気にしなくてもよい。
69 親の気持ちがわからない、友達の気持ちがわからない、そういうことのほうが、日常的にはより重要な問題です。この問題を放置したまま個性といってみたって、その世の中で個性を発揮して生きることができないからだ。社会というのは共通性の上に成り立っていから、人がいろんなことをして自分だけが違うことをして、通るわけがない。
72 <意識と言葉>
「リンゴはどれを見たって全部違う。なのに、どれを見たって全部違うリンゴをリンゴといっている以上、そこにはすべてのリンゴを包括するものがなきゃいけない」この包括する概念をプラトンは「イデア」と定義した。
 全部違うのに同じりんごだといっているのは、われわれが意識の中で、すべてを同一のものだと認識することが出来るゆえに起こる現象だ。
73 <脳内の「リンゴ活動」>
脳がそれぞれの情報の同一性を認めないことになると、世界はバラバラになってしまうから、耳から認識した世界と目から見た世界が別ではしょうがないから、同じだと脳=意識はいわざるを得ない。
75 <theとaの違い>
不定冠詞が付くときのリンゴは、視覚情報として「赤くて丸いもの」が入ってきたので言語活動が起きたときの脳内の過程に過ぎない。手で掴んで齧ってみるとそれが本当のリンゴであることがわかり実体となる。こうなると定冠詞が付く。大きな概念としてのリンゴではなく、ある特定の私が手にしたリンゴになった。外界のリンゴは、それぞれ特定のリンゴ以外ありえない。ところが頭の中のリンゴは、プラトンの言うイデアとしてのリンゴです。
78 プラトンやソシュールにせよ、根本的には「自己同一性」に絡んだ、つまり言葉の世界と、あるいは別な言い方をすれば情報の世界と、システムの世界についての思想なのだ
79 <脳内の自給自足>
人間には大きなコンピューター・大脳が付いた。外部からの入力のかわりに脳の中で入出力をぐるぐると回すことができるようになった。これを思索というが、何も出力しないことを「下手な考え休むに似たり」という。脳が退化しないためにぐるぐる回しをすることになった。それで人間は非常に余計なことを考えるようになったのだろう。
81 <偶像の誕生>
 「神」に代表される抽象的概念というのは、このように演算装置の中だけでグルグル回転するようにして作られたものである。しかしそれだけではほかのものと違うから人間は不安になってくる。どうしても具体的なものが欲しくなる。そこで神像や仏像だのと偶像を作ったのだ。
ごくシンプルに言ってしまえば、神というのは人間の進化、脳の進化そのものである。
82 遺伝子の98%が同じであるにもかかわらず、チンパンジーとヒトの脳のサイズは三倍違う。これは遺伝的な変化が起こっているに違いない。わずかな遺伝子の違いからこれだけ違うということは、脳の進化にはほんのわずかな遺伝子しかかかわっていないに間違いない。その遺伝子を抽出して人間の脳を今の三倍にして「超人」を作ったらどうなるのか。超人は今の我々と同じように考え、感じられるのはもちろん、それにプラスアルファがついているか脳性が十分ある。そういう人間ができた時には、現代人のある種の役割は終わりになるのかもしれない。チンパンジーにわれわれの気持ちがわからないのと同様、われわれに超人の気持ちがわかるはずはないのである。
84 この超人を人間は神としたわけである。神は全知全能ということ、それ以上は人間は知りようがない。本来神というのは人間が昔から頭の中に作ってきた存在です。飛行機や電話、テレビにせよ人間はそうやって頭の中に作ったものを実際に外に作り出すという作業を続けてきた。人間が一番古くから考えてきたものは神であり、それを外に作り出さないなんてはずはない。

第五章 無意識・身体・共同体
87 「身体」を忘れた日本人
 現代人は当たり前と思っているが、実際のところと「あべこべ現象」が起きているというのは、情報についての認識だけではない。「あべこべ現象」と密接に関係しているのが、「無意識」「身体」「共同体」の問題だ。「意識と無意識」は脳の中の問題。「身体と脳」は個体の問題、そして「共同体」は社会の問題である。
88 軍隊と身体
戦後、われわれが考えなくなったことの一つが「身体」の問題だ。「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。
90  戦時中まで、身体を担っていたのは軍隊という存在でしたが、それが終戦できれいに消えた。以降、実は自分にとって一番身近な身体の扱い方を個人がわからなくなってしまった状態のままである。
91  日本では、この都市化に伴って、近代になって急に身体問題が発生してしまった。おそらくは古くから都市化の歴史を持っている社会、中国やユダヤ人の文化というのは古くから都市化していったために、こういう問題はすでに済んでしまったのだと思います。
93 身体と学習
身体を動かすことと学習とは密接な関係があります。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力することが次の出力の変化に繋がっていきます。
94 文武両道
  ここで言えるのは、基本的に人間は学習するロボットだ、ということ。それも外部出力を伴う学習であるということです。
94 江戸時代の陽明学というのは「知行合一」。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだという考え方です。しかし、これは、「知ったことが出力されないと意味がない」といういみだと思う。これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて理宇法に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味がない、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思う。
96 大人は不健康
仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくこと。限定化するということはコンピューターならば一つのプログラムだけを繰り返しているようなものだ。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。
98 脳の中の身体
 人間の脳では、てっぺんの部分で足を司り、その下が大腿、さらにその下が腹、というふうになっています。実際の位置とはちょうど逆転した形になっているのです。ところが、これが首のところまで来ると、そこで順番がまた逆転して今度は頭のてっぺんを司る、という構造になっています。(中略)これを図示したのがペンフィールドのホムンクルス(小人)という図です。

99 つまり、首から上の運動の代表は食物を摂る運動で、下は身体が移動する運動。目的も全く別。そう考えると、脳みその中で、首のところで切れているのはある意味で合理的です。手がその間に入っているというも実に理屈に合っている(中略)なぜなら首から上の運動には、人間の場合、食事のほかにコミュニケーションという重要な機能がある。これをやるのは口と手。歩きながら食べているなんて動物は、人間のほかに殆どいません。
100 「クビを切る」という表現は(中略)そこから上と下はそもそも分断されているものだと、いうことを無意識に私たちは感じているのではないかと考えられる。
100 首から下の運動は、本来は動物にとって基礎になる部分です。(中略)その移動機能を文明首魁は終えることで発展してきた、ということができる。
102 個人にとって見過ごされてきたのが「身体問題」だとすれば、社会にとってのそれは「共同体の問題だ。(中略)普通にこの世の中、共同体の中で暮らしていれば「共通了解」に達する、はずでした。ところがその「共通了解」が戦後の日本では偏ったか失われたかしている、ということになる。「共通了解」のもとになる共同体が一方で残っていて、一方で壊れてしまっているのが日本の社会の難しいところだ。
103  日本人が好きな「世界は一つ」とか「人類みな兄弟」といったフレーズは、かつての共同体への幻想によって支えられている。なぜなら、共同体の論理を世界規模に拡大して考えている、ということなのだから。
104 共同体の成員というのは基本的に平等だというのが建前です。その感覚から日本的悪平等というものが生まれている。これは、企業や組織で求められる機能主義とは相反するものだ。
108 おそらく、社会全体が一つの目標なり価値観を持っていたときは、どのような共同体、または家族が理想であるか、ということについての答えがあった。それゆえに、大きな共同体が成立していた。(中略)あくまでも共同体は、構成員である人間の理想の方向の結果として存在していると思う。「理想の国家」が先にあるのではない。
112  共同体が機能しているときには、人間同士の貸し借りそのものがある種の人生の意味たり得た。生きていく上では何らかの付き合いがあって、そこではどうしても貸し借りが生じる。
なにか借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの基本もそこにあって、人間を育てることで、自分を育ててくれた共同体に全うな人間を送り出す、ということだ。そしてそれは、基本的に無償の行為なのです。
113 人生の意味を考えることはそう簡単なことではないかもしれません。なかなか答えが出るわけではない。正解が用意されているわけではない。(中略)しかし、それを真面目に考えないことが、共同体はもちろんのこと、結局のところ自分自身の不幸を招いている。
115 身体や共同体と同様、戦後私たちが排除してきた、もしくは考えなくなったのが、「無意識」の問題だ。(中略)無意識が存在していること、そしてそれが重要な存在であることを自覚しなくなったということだ。
116 基本的に都市に住んでいるということは、すなわち意識の世界に住んでいるということだ。そして意識の世界に完全に浸りきってしまうことによって無意識を忘れてしまう、という問題が生じてきた。
116 フロイトが無意識を発見する必要があったのは、ヨーロッパが18世紀以降、急速に都市化していったことと密接に関係している。(中略)もともと無意識というのは、発見されるものではなくて日常存在しているものです。(都市化に伴って無意識がどんどん見えないものになっていった)
119 脳化社会である都市から、無意識=自然が除外されたのと同様に、その年で暮らす人間の脳からも無意識がどんどん除外されていっている。しかし、人間、三分の一は寝ている。だから、己の最低限三分の一は無意識なのだからそのパートについては、きちんと考慮してやらなきゃならない。

第六章   バカの脳

128 ある種の特殊な領域で秀でているからといって、「賢い」とは言えない。こう考えると、果たしてなんで頭の良し悪しを図るべきか、というのは非常に難しい問題だといえる。
社会的に頭がいいというのは、多くの場合、結局、バランスが取れていて、社会的適応がいろいろな面でできるということ。

第七章  教育の怪しさ

157 若い人をまともに教育するのなら、まず人のことがわかるようにしなさいと、当たり前のことから教えていくべきだ。別に道徳教育を強化しろということではなく、それが学問の本質にかかわるからだ。普通に人間がやっていることぐらい一応全部やってこないと、わかるようにはならないことが山ほどある。
159 教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります。実際には、ものすごく厳しい先生は、生徒に嫌がられるけれど、後になると必ず感謝される。それが仮に間違った教育をしても、少なくとも反面教師にはなりうるということになる。
160 反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にはない。(中略)サラリーマン化したからだ。サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実手なのではない。職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。ところが、教育の結果の生徒は作品であるという意識が無くなった。
163 そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないとできないはずだ。
164 私は、学生に人間の問題しか負えない。これは面白いことだ、と自信がある。解剖は解剖で面白いから、教えろと言われれば教えるけど二の次。いずれにせよ、じぶんが面白いと思うことしか教えられないのははっきりしている。
 学問というものは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。それが本当の学問です。そこの能力が、最近の学生は非常に弱い
165 情報ではなく、信を学ばなければいけないということには、人間そのものが自然だという考えが前提にある。ところがそれが欠落している学生が多い。
168 学生が頭蓋骨を見て何もわからないように、現物から学ばないというのは、全部ヴァーチャルになっているということの表れです。目の前に横たわる死体を見ていない。普通の人間が死体を前にしたら、これは何だろうと考えると思う。(中略)それに耐えられない人がほとんどです。政治は、その耐えられないものを隠していく。だから死体が隠される。しかし、それをあえて耐えてじっくり見たら、次はどうなるかというのが学問です。
170 意識的世界なんて言うのは屁みたいなもので、基本は身体です。これは、悪い時代を通れば必ずわかることです。身体が駄目では話にならない。

第八章 一元論を超えて
177  (我々は今日まで合理化という方向で進んできた)それだけ仕事を合理化すれば、当然、人間が余ってくるようになる。(中略)働かない人はなにをするかということの答えを用意しなければいけない。
178 そのへんこのことをまったく考えないまま、よく言えば無邪気に、悪く言えば無責任にここまで来た。にもかかわらず、いまだに合理化といっている人の気が知れない。
179 戦後、我々が理想としてきた、働かないでも食えるということイコール理想の状態ではないということが歴然と見えてきたということは言える。
180  (働かないでも食っている)ホームレスだけではことは納まらない。家庭の主婦についても、家事労働がかつてよりもはるかに楽になってしまった。(中略)家事労働をずいぶん楽にすることによって、女性は、ただ単純に楽になってしまっただけという結論が出てくる。面白いのは、暇になったオジサンがぐったりするのに対して彼女たちは元気になる。
182 学者は(中略)、人間はどこまで利口かということを追いかける作業を仕事としている。逆に政治家は、人間はどこまでバカかというのを読み切らないといけない。(中略)どのくらいバカかということが、はっきり見えていないと、説教、説得はできない。相手を動かせない。したがって、たぶん政治家は務まらない。
184 食欲とか性欲というのは、一旦満たさされれば、とりあえず消えてしまう。(中略)キリがないのはお金についての欲だ。そういう欲には本能的なというか、遺伝子的抑制が付いてない。すると、この種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなくてはいけないのかもしれない。
186 金は、都市同様、脳が生み出したものの代表であり、また脳の働きそのものに非常に似ている。(中略)
187 ある意味で、金くらい脳に入る情報の性質を外に出して具現化したものはない。金のフロートは、脳内で神経細胞の刺激が流れているのと同じことです。それを「経済」と呼称しているに過ぎない。
194 バカの壁というのは、ある種、二元論に起因するという面がある。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。
195 都市宗教は必ず一元論化していく。それは、都市の人間は実に弱く、頼るものを求める。百姓には土地がついているからものすごく強い。
196 この強さは、人間にとっては食うことが前提で、それを握っているのは百姓だということに起因している。
  基盤となるものを持たない人間はいかに弱いものか、ということの表れです、しかし、今はほとんどの人が都会の人間になっていますから、非常に弱くなった。その弱いところに付け込んでくるのが宗教で、典型的な一元論的な宗教です。
197 ゲルマン民族が、キリスト教という基盤の上で改めて都市宗教として作り出したのがプロテスタントだった。カトリックというのは中世の間に、言ってみれば部族宗教、つまりゲルマン民族の自然宗教と融合していった宗教ですから、実質的には多神教的な面がある。
  非常に一神教の色合いの強いのが、イスラムでありプロテスタントです。だからイスラムとアメリカが喧嘩しているのは、こちらから見ると一神教同市の内輪もめにしか過ぎない。一神教の人たちは、「あの人たちとは話が合わないのだから放っておきゃいい」という風では気が済まない。お互いに「あいつらは悪魔だ」と言い合っている。一歩引いてみればお互いさまなのですが。
198 楽をしたくなると、どうしてもできるだけ脳の中の係数を固定化したくなる。係数aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいからだ。
201 一神教の世界というのは、ある種の普遍原理です。
 しかし、こちら(日本人)は、「人間であればこうだろう」ということは考えられる。それは、普遍性として成り立つわけです。(中略)今後日本がもし拠って立つとすれば、そういう思想しかない。(中略)人間であればこうだろう、という話、本書冒頭で述べた「常識」が、私は究極的な普遍性だと思っているのです。
203 「人類皆兄弟」というと変な風に受け止められますが、人間みな同じという考え方が、日本の場合は基本的にあるのかもしれない。国境がなかったし、民族同士の殺し合いもしていないし、線上になっていない。こうした特性ら「甘い」というのは簡単ですが、悪いことだとは思えない。
204 安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちてゆくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし、向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然話は通じなくなるのです。


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2016/09/02 作成

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