内田樹著「困難な成熟」 |
内田樹著 夜間飛行
第一章 社会の中で生きるということ
責任を取ることなど誰にもできない 「責任を取る」とはどういうことでしょうか。ニュースを眺めていると、テレビでもネット抜きでも、不祥事を起こした企業や個人に対する「責任を取れ」という言葉が溢れています。しかし、人の死にかかわることや、原発事故など、個人のレベルを遥かに超えた問題について、人はどう責任を取ればいいのでしょうか。 |
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19 | 「ごめん」で済む話はない 世の中のたいていの話は「ごめんじゃ済まない」話なんです。(中略)「ごめんで済む話」はこの世にない、と。そう思っていた方が無難だと思います。 |
19 | 「目には目を歯には歯を」に込められた智慧 どのような損害であれ、それを原状に復元して、「なかったこと」にすることはできない。(中略)ですから、「もう起きてしまったこと」について「責任を取る」ということはできません。原理的にできないのです。 |
20 | だからこそ、「目には目を歯には歯を」という古代の法典が作られたのです。 これは「同罪刑法」と呼ばれるルールです。 どこかで無限責任を停止させなければならないので、法律で「これ以上は責任を遡及してはならない」という限度を定めたのです。 |
21 | 同罪刑法は「責任を取ることの不可能性」を教えているのです。人間が人間に加えた傷は、どのような対抗的暴力を以ても、どのような賠償の財貨を以ても、癒すことができない。「その傷跡からは永遠に血が流れ続ける」とレヴィナス先生は「困難な自由」に書いています。 |
24 | 私はおまえたちを絶対に許さない きちんと機能している社会、安全で、そこそこ豊かで、みんながルールをだいたい守っている社会に住みながら、かつ「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら(中略)それは「オレが責任を持つよ」という言葉をいうことです。 |
25 | 責任というのは、誰にもとることのできないものです。にもかかわらず゛責任というものは、人に押し付けられるものではありません。自分で引き受けるものです。 |
26 | 「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減してゆくからです。 どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もその一つです。 「責任」は、「鍋」とか「目覚まし時計」のように、実体的に存在するものではありません。でも、それが「ある」と考えた方がいいと昔の人は考えた。それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。 |
正義が成り立つ条件 「責任を取ること」は誰にもできない。しかし、だとすれば「被害者」は泣き寝入りするしかないのでしょうか。例えば、家族を殺された被害者家族は、ただその結果を司法に委ねるだけで、個人としては加害者を赦すしかないのでしょうか。 |
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28 | 古代から人間の集団には絶対になくてならない四つの柱がありました。 司法と信仰と医療と教育です。「裁き」と「祈り」と「癒し」と「学び」です。この四つの機能はどのような集団にも必須のものでした。それを欠いた集団は生き残ることができなかった。 |
29 | 四つの柱は繋がっている 四つ(の柱)は深いところで互いに繋がっています。 例えば、司法という機能は「罪」という概念がなければ成立しません。 そして、「罪」という概念は世界に正しい秩序をもたらす「神」という概念と無関係では存立しえません。 |
29 | 「罪の償いを求める」のは、それが傷ついた者の心身を「癒す」ために必要だからです。(中略)その「罪の償い」は、加害者に自分は何をしてしまったのか、そのことの意味を「学ぶ」ことを求めます。 |
31 | 「正義の執行」に求められる必須条件 そもそもどうして「裁き」ということが要請されたのか。 正義が行われなければならない。それは不正によって傷つき、損なわれた人に対する慈愛や教官に発しています。(中略)「惻隠の情」が正義を駆動しています |
32 | 正義の起源は生身を備えた他者の具体的な受苦に対する「共感」だからです。 |
33 | (水戸黄門がかわいそうな人の話を聞いて越後屋や悪代官を懲らしめる話を例に挙げて) 正義の起源にあるのは「他者への愛」です。「惻隠の情」です。それは原理的には「私の目の前にいて、現に傷つき、損なわれた生身の人間」との具体的な接触から生まれる。というより、それ以外の起源をもつべきではない。 |
33 | 「赦し」というのは、この「間近に寄って、個人的事情を伺ってみると、なんだか気の毒になってくること」です。 |
34 | 正義の執行が果たされるときの原則は、「個体識別」をしないということです。(中略) ですから、正義を執行する場面においては、正義の剣をふるう側は個体性豊かに描かれ、正義の鉄槌を受ける側は個体識別できないように平べったく記号的に描かれるという。 |
35 | 「赦し」は「裁き」のあとの話 正義の執行に際しては、「まず裁き」を下し、赦しについては「そのあと」話をする、という時間の前後を組み入れることになります。 |
36 | 「裁き」を求める動機が゛生身の他者の受苦への共感」であったように、「赦し」を求める動機もまた「罪ありとされた人間の、生身の苦しみへの共感」です。(中略)これらを無時間的に横一線に並べたら、正邪理非の区別は付けられなくなる。だから、私たちは正義の執行を求める気分と、処罰の緩和を求める気分という「同じ気分」を時間的に先後関係にずらすことで「別物」として処理しているのです |
38 | 刑の執行者には「顔」がない 裁きというのは本質的に公的・非個人的なものです。そうでなければならない。そして、赦しというのは本質的に私的・個人的なものです。そうでなければならない。 |
39 | 「正義」の烈しさを「赦し」がたわめる 私たちの住むこの社会システムの本義は、真理に準拠して裁き、裁かれたものを愛に準拠して遇するという点に存じます。正義は一つ所にとどまるものではありません。正義は開かれているのです。(レヴィナス「暴力と聖性」) 正義が行われ、その激しさを許しがたわめるというエンドレスの相互性のうちにのみ「開かれた正義」は存在するのです。 |
ルールとの折り合いをつける 裁くことにしても赦すことにしても、社会のルールとの関係を無視することはできません。もちろんルールが公正であればいいのですが、ルールというものはしばしば、それを決める権力者の手によって歪められてしまっているものではないでしょうか。 |
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40 | 「法律について」でも「道徳について」でも、質問の意味は同じだと思います。これらはどれも「他者と折り合って暮らすための方便」です。 |
41 | あらゆる社会的な取り決めにはそれが作られたときにめざされた「真実」があります。そこに至る他の「方便」として先人が工夫して作ったものがルールです。 話が難しくなるのは、あらゆる社会的な取り決めには「絶対に変わらないもの(制度の設計目的)」と「ころころ変わるもの(そこに至る便宜的・0迂回的方法)」が混ざり合っていることです。「絶対変えてはいけない部分」と「いくら変えても構わない部分」が混在している。この見極めが難しい。でも、これを見極められないとルールを適切に運用することはできません。 |
41 | ルールをめぐる混乱は、二種類あります。 ひとつは「真実」と「方便」区別がつかない人が、「方便」の部分を金科玉条の大義のように押し戴いて、かたくなに守ろうとすることから起きる混乱。ひとつはどうせルールなんか方便なんだからとその制定時点での「真実」が何であったかを検証しなくなることで生じる混乱 |
42 | だから、どういうルールは変更可能だが、どういうルールは変更不可能なのかを適切に見分けなければいけない。(中略)その判断ができない人間は少なくとも「ルールを運用する」立場に立つべきではありません。 |
43 | 「夫婦仲」の良し悪しは社会が決めている 夫婦仲の良し悪しや親子の親疎などは(中略)社会集団ごとに標準形が決まっているんです。 |
44 | 「世界中どこでも、歴史上どこでも、人間とは私のようなものだ」と思っているのを「民族誌的偏見」と呼ぶのです。 たしかに僕たちの中には「永遠不変の人間性」もある。でも、「自分たちの社会集団だけの、方便としての、ローカルな、代替可能な人間的性格」もあるんです。「人間とはこんなものだ」という思い込みが、「それがあなたのところだけ」地域限定でしか通用しないということがたくさんあるんです。 親族間の好悪や親疎の感情でさえ、実は内発的なものではなく、ルールで外側から決められている。そのことが分からないと「ルールを運用することのできる人間」にはなれません。 |
45 | 親族制度の「真実」 「親族の存在理由」は「親族の存続」なんです。 |
46 | 僕たちが暮らしている社会は複数の人間が共生している集合的な生命体です。(中略)ですから、その最優先の仕事は「生き延びること」です。 それが「真実」です。自余のことはすべて「どうでもいいこと」です。いくら変わっても構わない。集団が生き延びてゆく上で有用なら、どんな変化をしても構わない。集団が生き延びる力を滅殺し札阻害するファクターを回避するためなら、どんな変化をしても構わない、 それが社会的なルールを操作するときの基本原則です。 |
48 | いちばん小さな集団は「私」 「アルターエゴ(自我から別れた別人格)たちとの共同生活」にもルールがある。集団として生き延びるためのルールです。 |
50 | 同じルールは、それよりサイズの大きな集団についても(中略)適用されなければならない。 |
50 | 「スカート丈は膝上5センチ」という校則が存在する理由 集団構成員である限り誰も見捨てない。それが集団の存続ということです。 |
51 | 弱いものは強いものに食われて当然であるというルールでやっていれば、集団構成員はどんどん減っていって最後はゼロになる |
51 | だから、集団として生き延びることを目的とした場合には、「誰も見捨てない」ということと、「どうやって集団全体の生命力を高めるか」を考える。それがルールの真実です。 |
51 | 制服の「真実」は、「「集団構成員を外形的には差別化しない」ということです。できるだけ強弱のさや貧富の差や美的センスの差を顕在化させない。そのために制服がある。 もう一つは「相互に見極め難く似た姿」にさせることで集団にはある種の力を得るということです。 |
52 | 成員を相互に似たものにするというのは、集団が生き延びるために操る非常に高度な「技術」のひとつです。 |
53 | 全員が個体識別できないがゆえに異常に高い凝集力を持つことがある。 それを利用して、内部で起きる相対的な優劣の競争を抑制し、集団としてのパーフォーマンスだけを選択的に向上させる。それが校則のような集団ルールを操作する場合のかんどころです |
54 | でも「なぜルールがあるのか?」を問わない人間がルールを管轄し違反者を罰するということをしていると、集団の「生き延びる力」は必ず弱まってしまう。 だって「絶対に変えてはいけない大切なところ」と「どうでもいいところ」が識別できなくなるんですから。 そういうときに、人間は「絶対に変えてはいけないところ」を変え、「どうでもいいところ」に固執するようになる。必ず、そうなります。 |
フェアネス(公平・公正)とは何か フェアネス(公平・公正)とは何でしょうか。中央と地方、老人と若者、富裕層と貧困層。今の日本では様々なところで不公平感が高まっています。しかしそもそも社会がどうなれば「公平・公正である」と言えるのか?と考えると、一筋縄ではいかないように感じます。 |
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56 | ボールゲームというのが、実は人間たちの住む政界にある種のデジタルな境界線を引いて、そこにコスモロジカルな秩序を立ち上げるための神話的な装置だということが分かります。子供達はこの遊技を通じて、世界は「敵と味方」「戦争と平和」「生と死」「清浄と汚濁」といった二項対立を積み重ねて構造化されているという基本的な世界認識の「仕方」を学びます。 |
57 | 「つくりもの」に意味がある 実際には世界はアナログな連続体であって、こんな都合の良いデジタルな境界線は存在しません。 でも、人間はアナログな連続体の中では「意味」ある行動をとることができません。「意味」というのは「アモルファスな世界を人間たちが恣意的に切り分ける」ことで初めて成立する「つくりもの」だからです。 |
59 | 境界線というのは全部「つくりもの」だ。でも、人間がそういう「つくりもの」を要請したのは、それなりに理由がある。人間というのはそういうものがないと生きていけない、弱く哀しい生き物なのだ、というのが福沢の論のかんどころです。 |
61 | 「目的ははっきりしている」 「ここからこっちがフェアでこちらはファウル」という線引きは恣意的なものです。でも、それを決めないとゲームが始まらない。 |
61 | その取り決めをした方が結果的にプレイヤーたちが「生きやすく」なるという条件です。「ここからここまでが『身内』」と決めて、チームを作り「ゲームをする」法が、孤立したままより生き延びる確率が高い。人間的に成熟するチャンスも高い。様々な技術や他知識を身に着けることも容易である。 「フェアとファウルの絶対的な境界線は存在しないのであるから、そのようなゲームには意味がない」という人は、彼が使っている「意味」というものそれ自体がアモルファスな世界を恣意的に切り分けたことの効果だということを忘れています。 |
62 | 「本質は結果オーライ」 人間が創り出した全ての制度は「その制度があることによって、その制度がない場合よりも、人間が生き延び、成熟し、幸福になるチャンスが高まる」かどうかによって適否を判断される。 |
63 | 「このゲームでは、これを『フェア』と認定する」という宣言の適切性を基礎づけるのは「これ以外の基準で『フェア/アンフェア』を区分するよりも、この基準で区分する方が、ゲーム参加者全員にとって利益が大きい」という計量的根拠以外にありません。 |
66 | フェアな社会はフェアな人間を再生産する。 フェアネスの「さじ加減」を適切に扱えるような成熟した人間、つまり「フェアネス」とはどういうものかよくわかっている人間は、「フェアな社会」の果実だということです。 |
日本を変えていくには 「すでにあまりフェアではないところ」まで来てしまった日本の中で、社会を少しでも良い方向に変えていきたいと思った時、私たちは何から、どのように取り組めばいいのでしょうか。 |
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68 | 長く生きてきて、わかったことがいくつかありますが、そのひとつは「心配の仕方にもいろいろある」ということです。 |
69 | 取り越し苦労はしてはならない 人間は不思議な生き物で、自分の想像力の奔放さに「淫する」ということがあるのです。「こんなすごいことを想像できちゃう自分の脳のスケールの大きさ」に惚れ惚れしてしまうのです。 そうなると、「こんなことが起きたら嫌だな」と未来について、つい細部にわたって想像してしまうのです。 そうなると、「こんなことが起きたら嫌だな」という未来について、つい細部にわたって想像してしまう。その想像にのめり込んでしまう。 そして、細部まで想像された未来は強い吸引力を持つ。そこに引き寄せられてしまう。 |
70 | 自分が無意識のうちに仕組んだことを「きっとこうなると思っていた……」というふうに総括するのが「取り越し苦労」です。こういうのはよした方が良いですよ。 |
71 | 「見返り」は「最悪の事態」 (最悪の事態に対して)心の準備に投じた時間やエネルギーに対する最大の「見返り」は「最悪の事態」が本当に起きてしまうことです。(中略) その時初めて「最悪の事態に備えて心の準備をしておいてよかった」ということになるのですから。 つまり、「最悪の事態」に備えた人は無意識のうちに「最悪の事態」の到来を願うようになる。 |
73 | 「こんなことをしていたら、いずれ大変なことが起きる」という警告を発しているのに無視され続けたら、人間はいつか「大変なこと」が起きることを望むようになる。 仕方がないんです。無意識に望むんだから、止めようがない。その人の倫理性とか社会的立場とか無関係な心的過程なんです。。 そして問題は、「いつか大変なことが起きることを望む」無意識は、「なんだかわからないけど、危ない感じがする」というようなクラフトマン特有の「直感」を鈍らせてしまうことです。 |
73 | 「なんか変だ」ということが無根拠に分かる。そういうことができるのが本当の技術者ですから。 |
75 | 場を主宰しているの私だ じゃあ、どうやって機器の切迫を事前に直感しながら、それを回避したり、予防したり、それがもたらす災厄を最小化できるのか。 それは武道の場合といっしょです。 慌てないこと。後手にまわらないこと。 たとえ後手に回ったとしても、そう思って浮足立つとさせに事態は悪化しますから、そう思わない。後手に回ったのだけれど、「ふふふ、こうなると思っていたよ」と無理にでも断定する。自分がこの場を主宰しており、一見すると「後手に回った」ように見えるけれど、これはすべて「私が絵にかいた出来事な」のだと思い込む。 |
76 | なにしろ生き死ににかかわる危機的状況に立ち入ったわけですから、心身のパーフォーマンスを最大化しなければとてもじゃないけど生き延びられない。 恐怖、不安、後悔といった感情が心身の働きを高めることはありません。絶対にありません。 だからどんなことがあっても、こういうネガティブな感情がのさばり出ることを抑止しなければならない。 そのためには「場を主宰しているのは私だ」という話にしなければならない。 |
79 | 「床のゴミ」が見えているか (橋本治プロデューサーから、優れたプロデューサーは現場を全部見ているのでスタッフには見えない床のゴミが見えるという話を聞いて) 「後手に回った人間」「慌てている人間」「浮足立っている人間」は絶対に床のゴミを拾いません。 「待ったなしだ」とか「スピード感」とか「決定力」とかいうような言葉を上ずって口走る人間には「床のゴミを拾う」ことは絶対にできません。 それは「みんなが来る前にオフィスを掃除して、みんなが帰った後にお茶碗を洗っておく」ような雪かき仕事です。 でもそれができる人間しか「場を主宰する」ことはできません。絶対に。 |
80 | 後手に回らないために この章の初めにも申し上げましたが、僕が「『こういうこと』になったのは誰のせいだ」というタイプの他責的な言葉遣いはしない方が良いよと言っているのは、その言い方がすでに「後手に回っている」からです。 後手に回ったら必ず負ける。これは武道の基本法則です。 |
81 | 「私の失敗」で、「こんなこと」が起きたのであれば、あとの始末も全部「私」の仕事だということになる。 責任と決定権はバーターです。「責任を取る」と宣言した人間が決定権を取る。「こうなったのは、私の責任です」と名乗った人間に「これからどうするか」を決める権利が付与される。 |
81 | もし、あなたが「これからの日本を良くする」ことについて多少でも決定に与りたい、できるなら実効的にかかわりあいたいと本当に願っているなら、誰も気が付いていない「床のゴミ」をまず拾い上げることから始めるしかありません。 ふつうそれは「まったく新しいタイプの社会的活動をはじめる」というかたちをとることになります。 |
第二章 働くということ
労働とは不自然なものである 「働くことが生きがい」という人もいれば、「仕事は生活していくための手段」であって、できることなら遊んで暮らしたい、という人もいます。人間にとって「働く」とはどういうことでしょうか。 |
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90 | 「労働」の対立概念は遊び? それなりに愉快に日々の仕事をしている人にとっては、どこから労働でどこから遊戯か、截然 と識別することは限りなく困難なのであります。(中略) 繰り返し言いますけれど、愉快に仕事をしている人間には「オンとオフのデジタルな境界線」なんかありません。仕事しているんだか、遊んでいるんだか、本人にもよくわからない。それはたぶんその生き方が「生物として理にかなっている」からです。「労働と遊戯の区別がつかない状態」がある種の理想であるならば、それをわざわざ切り分けて、「労働とは何か」などと力む必要はありません。 |
91 | 「遊びの要素が全く含まれていない」仕事は「労働」ではありません。ただの「苦役」です。できるだけ早く逃げ出したほうがいい。 |
91 | 人間はまず消費した 労働の対立概念は、(中略)「消費」です。 |
93 | 人間だけが労働するのは、人間の消費する量が自然からの贈与分を超えたからです。 |
94 | 労働は消費に相関します。逆ではありません。消費量が増え、消費する品目が増えれば、それだけ労働時間も労働の種類も増える。それだけの話です。自然からの贈与でにあっていれば、人間は労働なんかしません。 |
95 | 人間は生産することに疲れるのではない 労働はその起源においては「安定的に消費できる」ことを目的に始まりました。(中略) 自然からの贈与は人間の側の都合では制御できない、だったら自然の恵みを人為によって制御しよう、そう思ったところから労働が始まりました。(中略)労働の本質は自然の恵みを人為によって制御することです。 労働の本質は「生産」ではなく「制御」です。人間にとって有用な資源を「豊かにすること」ではなく、それらの資源の生産・流通を「管理すること」です。 |
96 | 「価値あるものをたくさん作ってください」という要請に僕たちは疲れることはありません。価値あるものをじゃんじゃん創り出しているせいで、製品が一つ完成するごとに、それができるのを列を作って待っていた人たちから「おおお」と歓声が上がり、中には感極まって抱きついてきたり、感涙にむせんでいる人もいる……というような状況で「疲れた」という愁訴が口をついて出ることはたぶんありません。 僕らが疲れるのは「こういうスペック通りの価値あるものを、いついつまでに納品するように。遅れたらペナルティを課すからね」というタイプの要請に追い立てられている時です。 |
99 | すべては、自然からの贈与にだけ頼らず、自然からの贈与を安定的に制御しようとしたところから始まりました。(中略) 人間が何よりも求めたのはシステムの安定です。 だから、衣食住のための基本的な財そのものを生産するためのコストよりも、そのような財の生産を安定的に維持できる管理コストの方に資源を優先的に配分するという「倒錯」が起きたのです。 |
102 | (米国のジャガイモの皮むき器を生産している会社の)経営者たちは、自社製品をみんなが使って便利に暮らすだけでは満足しませんでした。彼らにとっては生産ラインが安定的に稼働することの方が重要だったのです。そのためには、まだ十分使える、価値ある自社製品がゴミ箱に投じられることを望んだのです。 それが労働ということです。必要なものを創り出す仕事よりも、不必要なものを創り出す仕事の方がより労働としては本質的なのです。だから、高額のサラリーが給付され、高い社会的地位が約束される。 人類史とは「人間にとって必要なもの」を作り出す工程の高度化・複雑化のプロセスではありません。残念ながら。そうではなくて、「人間にとって必要なものを作り出す工程の管理」の高度化・複雑化のプロセスだったのであります。はい。 |
103 | 自然に近いところで働いてください 僕たちが肝に銘じておくべきことは、労働は生物としての自然過程ではなく、倒錯だという原事実 を見つめることです。 僕たちがしている労働のほとんどは「生産」のためのものではなく「制御」のためのものです。(中略) 僕がしているのは、みなさんの手持ちの資源(身体や知性や想像力)をどうやって生物として最適なしかたで用いるか、「生きる知恵と力の使い方」についての情報の提供です。 やはり一種の制御技術です。 |
104 | その仕事をしていると、生きる力がなんとなく高まるような感じがする仕事をしてください。「生きる力がなんとなく高まる感じ」というのはご自身で直感的に判定する他ありません。 その直感力が無事に育ちますように。 |
組織の最適サイズ 「生きる力」が高まるような労働環境ということを考えると、「組織のサイズ」は重要であると感じます。あまりに大きな組織に勤めていると、自分の仕事がどのような意味を持つものなのか、見えづらくなってしまうような気がするのです。 |
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105 | 社会集団について「最適サイズ」というものはあるのか。生物学的には「ある」ということになっています。 |
106 | 150という数が集団を形成するときの一つの目安のようです。ダンパーさんは(勝手に)これを「ダンバー数」と名付けました。 |
107 | 「この組織は骨の髄まで腐っている」 ビジネスの組織論では、どんな組織でも、構成員が150人を超えると、とたんに効率が下がることが指摘されています。 150人までのサイズだと、専門的な管理部門がなくても自律的に組織が機能する。(中略) 150人を超えたとたんに、組織の機能ががくんと低下します。さぼるやつが出てくるし、使い込みをしたり、ものを盗むやつが出てくるし。必ず。不思議なことに。 だから、150人を超えると管理部門を作って、「自分は何も生産しないが、人が生産しているかどうかを見張る職務」を独立させないと、集団は動かなくなります。(中略) 管理部門の人たちというのは、自分たちが価値あるものを何も創り出していないということを無意識には感じ取っていて、それに対する「やましさ」を感じています。 |
108 | (管理部門の彼らが役に立っていることを証明するためには)、「管理部門が機能していないと、さぼったり、使い込みをしたり、盗んだりする人が出てきて、みんなが困る」ことを証明しないといけない。 つまり、生産部門は組織がうまく機能していることを喜ぶわけですが、管理部門は「組織がうまく機能していないこと」が存在理由を基礎づける最優先事項になる。 |
109 | 150人以下の組織では、頻繁に会議を開いたり、上司のハンコがもらえないと物事が動かないとかいうことがありません。臨機応変、現場処理。他のメンバーの協力が必要な時は直接頼めばいい。 そういう動きは管理部門から見るとすべて「規則違反」になる。ですから、「この組織は骨の髄まで腐っている」と管理者はうれしげに宣言します。 メンバーたちの間の「阿吽の呼吸」とか「何をあれしといて」「おうよ」的なやりとりは全部禁止されます。代わりに提示の出退社を求め、ユニフォームの着用を強制し、朝礼で「社歌斉唱けさせ、上位下達の官僚組織を創り出してしまう。 管理部門がそうやって現場の創意工夫やイノベーションを全部抑え込んでしまうと、あちこちで組織の壊死が始まります。フリーハンドで好きなことをやりたいという人たちはひとりまたひとり組織を去ってゆく。管理部門の大好きな「沈香もたかず屁もひらず」タイプの事大主義者たちだけが残り、組織は生命力を失い、次第に硬直化し、ある日土台から崩壊する。 |
112 | 軍隊だけに残る知見 経験的に言っても、150人というのが、人間が効率的な社会行動をとることのできる基本数のようです。ですから150人を基礎単位として、それを積み上げてゆくというのがたぶん人類学的に合理的な組織論なのでしょう。 |
113 | 今の日本の雇用環境はとめどなく劣化していますけれど、その理由は今の日本の経営者が「組織論」というものを考えないからだと僕は思います。 組織論というのは「生き延びるための集団づくり」の知恵のことです。かつて森から出て、樹上から下り、草原に住み始めた霊長類たちが集団の最適サイズを選択したのは外敵から身を守るためでした。構成員の心身のパーフォーマンスが最大化するのは、どのようなサイズの集団においてか。人類の祖先はたちはそれを考え、答えを出した。 でも、そのときに見いだされた組織論的知見は今では軍隊にしか残っていません。 |
114 | それはヒヒよりも愚かなふるまいです 僕たちの住む社会では、ほとんどの組織は「ともに集団を構成する人々の能力が低ければ低いほど、自分の利益が増える」ように組織が設計されています。 |
115 | だから、今の日本社会のように、「狭い集団内部で有限の資源を奪い合う弱肉強食の競争こそがリアリティなのだ」と信じている人たちが多数を占めるようになると、みんながお互いの生きる知恵と力の発達をどう妨害するかを競うことになります。 その「むしりあい」に勝利すると、たしかに一時的に「賞品」は手に入ります。 でも、そろそろ気づいていいと思うけれど、「自分以外の集団構成員が愚鈍で無能であるほど、自己利益が増大するというルール」で構成された組織は、次第に全体としても「愚鈍で無能なもの化」してゆきます。勝者の手に入る「賞品」もどんどん数が減り、みすぼらしくなってきている。いきおい、人々はお互いを無能化・愚鈍化する競争にさらにのめり込み、組織はいっそう貧弱になり、「賞品」はますますしけたものになってゆき、やがてゼロになる。そのとき、あたりを見回すと、そこにはもう「集団」と呼べるようなものは残っていない。 現代日本人は今まっすぐそういう「集団の弱体化」プロセスを歩んでいます。(中略) それは森からサバンナに生息地を写した時のヒヒよりも愚かなふるまいです。 |
117 | すべては生き延びるために 私たちは何のために集団を形成して暮らしているのか。 それは集団内部で相対的な優劣や勝敗を競って、有限の資源を傾斜配分するゲームをするためではありません。 生き延びるためです。さまざまな危機を乗り越えて生き延びるためです。 そのためには、ともに集団を形成する「仲間たち」が、知性において、感受性において、身体能力において、それぞれに固有の異能において、ポテンシャルを開花させ、その生きる知恵と力を最大化したてくれることがどうしたって必要です。 組織論はそのためのものです。 |
117 | けれども、いまは巷間で「改革」とか「効率化」といってもてはやされている組織再編の企てのほとんどは、単なる管理部門への権限集中にすぎません。 ですから、こういう連中が旗を振っている「改革」は宿命的に失敗に終わるだろうと僕は思っています。 |
会社とは「戦闘集団」である 昨今、ブラック企業の問題が取り上げられるようになりましたが、その一方で大企業であれば安心、というほど話は単純ではないように感じます。多くの人が会社組織に所属する現代において、私たちはどのような会社、あるいは組織を選ぶべきでしょうか。 |
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124 | 会社には母がいない 半世紀ほど前まで、会社は親族というよりはむしろ「博徒一家」や「藩」に類する「戦闘集団」に近いものであった、と。 だから、そこでは父性原理・男性原理がつよく働いていた。 |
124 | グローバル企業は「戦闘集団」ではない 父性原理・男性原理の根本をなすのは「復讐の原理」です。やられたらやり返す。 これが(中略)戦闘集団の「本質」です。 |
125 | つまり、半世紀ほど前まで、近代日本資本主義における「会社」というのは「生産のための装置」であるよりもむしろ「戦闘のための装置」であった、という仮説を僕は立ててみたいと思います。 |
125 | 若い皆さんが会社になんとなく「一身を託す」気になれないのは、企業が「戦闘集団」ではなくなってしまったからです。 |
127 | 自分が傷つけられると、他のメンバー全員も「傷つけられた」気分になる。この痛みの共有というか、「共傷性(co-vulnerability)」、それが組織の統合力と戦闘力を担保する。 |
127 | ところが、現代の日本のリーディングカンパニー、とくにグローバル化している企業はもう「共傷性」というルールを有していません。 社内でも社外でも、ひとしくメンバーは競争にさらされています。銃弾は前からも飛んでくるし、後ろからも飛んでくる。内外のプレーヤーのうちでもっとも強い個体を選別するゲームがエンドレスで続く。そういうふうにしたほうが「集団の戦闘力が上がる」という信憑があるので、そういうルールでゲームが行われているのでしょう。 |
127 | どうしてこんなひどいルールが採用されているかというと、このゲームの本当のプレーヤーは「戦場にいない」からです。ディスプレーの前や会議室で株や外貨や金融商品の売り買いをしている人たちがゲームの「ほんとうのプレーヤー」です。 |
129 | このゲームでは、「どんなことがあっても傷を負わない人間、誰が傷を負っても共感しない人間」が真の勝利者であるように会社ゲームは設計されています。(中略) グローバル企業の活動においては、傷ついた仲間の「仇を討つ」という発想は誰もしません。傷ついたのは自己責任ですから、それは「自助」に委ねる。それよりみんな「自分だけでも生き残る」たるに必死です。(中略) ひどい人生ですけれど、殺されるわけではありません。 だからいくらでも残酷になれる。 そういうゲームなんです。今やっているのは。 |
130 | 「家族的な会社」を選んではいけない では、いったい若い人たちはこれから会社というものとどう付き合ったらいいのか。 選択肢その一。まだこの世に生き残っている数少ない「まともな会社」を探す。 「一家的」「藩」的な会社です。忠家族的な会社ではありません。(中略)父性原理・男性原理で貫かれているために、どうやって全員の戦闘力を高めるかを全員が工夫するような組織。それを探す。 |
133 | みなさんが入るべき会社があるとすれば、それは「集団の戦闘力を高めるためには、何をすればいいのか」ということを熟慮した末に、「未来を託すために、若い人たちを大切にする」という経験則を発したところです。(中略) とりあえず、離職率の高い企業と、労災訴訟の多い企業には絶対に近づいてはいけません。 |
134 | キャリアへの道は無数に開かれている 選択肢その二。自分で会社をつくる。 選択肢その三。会社というものと関係を持たない生き方をする |
135 | 今の若者たちは「新卒一括採用」というルールに縛られていて、そこから脱落したら「人生おしまい」というような恐怖を植え付けられています。(中略) 若い働き手を求めている職場なんか日本中に無数にあります。資格も免状も要らない。体一つで来てくれればいいというところがいくらでもある。 でも、そういうところについての適切な就職情報は誰からも提供されません。「サラリーマンになる以外にも無数のキャリアパスがある」という情報が遮断されている。 それは国策でもあるのです。 若い人たちの雇用条件をできるだけ切り下げるという彼らの狙いが日本の国策と一致するからです。 |
「やりたいことをやる」だけでは人生の主人公になれない 今の若者は「やるべきこと」「やりたいこと」に関心を持つけれど、自分が「やれること」にはあまり関心を持ちたがらないようです。しかし、これからの世の中で生き残るために必要なことは、「自分は何をやれるのか」を知ることではないでしょうか。 |
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138 | この問いの中で私が一番興味を惹かれたのは、今の若者は「やるべきこと」「やりたいこと」には関心があるが、「やれること」には関心がない、という対比における助動詞の使い方でした。これはなかなかいいところを衝いています。 |
139 | 動詞に「当為」と「願望」の助動詞を付けて話すのが「子ども」で、動詞に「可能」の助動詞を付けて話すのが「大人」である。 |
139 | まず欠如があり、「私はその後に登場する 「自分がやらねばならぬこと」「自分がしたいこと」というのは個人的な事柄です。それに対して「自分にできること」は公共的なことがらです。「個人的なことがら」というのは、ひとことでいえば、他人の同意や参与抜きで自己決定できることです。「公共的なことがら」というのは、他人の同意や商人抜きでは決定できないことです。 |
142 | 「大人」というのは、自分が何ものであるか、自分がこれからどこに向かって進んでゆくのか、何を果たすことになるのか、ということを「自分の発意」や「独語」のかたちでははなく、「他人からの要請」に基づいて「応答」という形で言葉にする人のことです。これはすごく大切なことです。 「可能」の文が意味をもつためには、いくつかの条件があります。 (1) 他者がいる。 (2) その他者が何かを欠如させ、それが満たされることを求めている。 (3) 「あなたの欠如を満たすもの、それは私である」という名乗りがなされる。 |
144 | 他者というのは「もの」ではなくて「モード」だからです。孤立し、飢え、渇き、不安のうちにあるもの、それが他者である、と。 そして、そのようなものを支援し、飢えや渇きを癒し、安心させるものとしてはじめて「私」というものが出現する。そういう順番なんです。 |
144 | 「私」は「自分にできること」のリストを手に持って、「他者」の到来を、お店でお客さんが来るのを待つように、ぼんやり待っているわけではありません。そうではなくて、他者はまず孤立と飢餓のと不安のうちに登場する。だから取り急ぎそれを何とかしなければならない。そのときに「あ、じゃあ、私が何とかします」と名乗る人が出現する。それが「私」なんです。 |
民話の主人公のように生きなさい 主人公は「助けを求める人」の懇請に応じたときに、「助けを求める人の懇請に応じるもの」としてはじめてその存在を基礎づけられます。助力に応じないで、「あ、ちょっとオレ、『自分がやらなければならないこと』や『自分がやりたいこと』があるから」とすたすたと通り過ぎるものは決して「主人公」にはなれない。そういうことです。 |
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執着と矜持を分かつもの 激変する社会の中で生き延びていこうと思えば、不要な執着は手放したほうかいいのは当然です。しかしその一方で、どれだけ状況が変わっても、人としての「矜持」を捨ててはいけないとも思います。内田先生は「執着」と「矜持」を分けるものは何だとお考えでしょうか。 |
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148 | 矜持というのは、人間にとって生きる上での自然です。 ここできっちり筋目を通さないと、自分が「生きている」気がしなくなるもの、それが矜持です。(中略) 執着はそうではありません。 生きる上では不自然なこだわりのことです。この筋目を通さないと、「かっこうがつかない」とか「オレらしくない」とか「首尾一貫しない」とか、そういう理由で説明できるこだわりはすべて執着です。 |
149 | 執着に引きずられると生命力が滅殺します> ある選択が適切だったかどうかを判定するときの度量衡はいつでも「生きる力」の増減です。 |
152 | どちらが体に悪いか 生き物としての自然な感情の発露(弱いものが苦しんでいる)というようなときは体は自動的に動くのに、社会的立場からの行動(そもそも世間というものは……)のときは身体の切れが悪い。 |
153 | 面接の採否は数秒で決まる 何かをしなければいけないというときに、自然に体が動く場合と、「理屈」をつけないと動かない場合があります。 理屈をつけないと体が動かないというのは執着の方です。 身体が厭がっているんです。 だから、「譲れない」ことか「譲ってもいい」ことかを判定するのは、「体が自然に動くかどうか」を基準にするのが一番確かです。 |
155 | 仕事の質の高い会社ほど、外形的な基準(学歴とか資格とか)ではなくて、見た時の一瞬の印象で採否を決めるということが行われていると僕は思います。 「人を見る眼」と言いますけれど、あれは正確に人を見たときに自分の中でどういう反応が起きているかをモニターする能力のことなんです。 |
156 | 「素直な身体」づくりを 「執着」と「矜持」の差の判断も同じです。 判定基準は外側にあるわけではありません。言葉にできるものでもありません。自分の身体の動きの「自然さ」だけが判定基準です。 でも、それができるためには、生命力を強めるものに惹きつけられ、生命力を弱めるものからは身をよじって逃れるような「素直な身体」を持っていなければなりません。 |
運と努力の間で 東大生の両親は高学歴かつ、富裕層であるといったデータをよく目にします。どんな家に生まれるか、誰と出会うかということで、その人の人生は大きく左右されます。人生は「運」と「努力」、いずれによって決まるのでしょう? |
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158 | 「運か努力か」というのは「氏や育ちか」や「遺伝形質か生活習慣か」と同じように答えのない問いです。でも、答えのない問いだから、そんなことを論じても始まらないということはありません。答えがないに決まっているにもかかわらず、そのような問いを人々が飽きずに立て続けるのは、「答えを得ること」ではなく、「それに付いて考える」ことが知的に生産的であるということが知られているからです。 |
159 | 努力ができるのも運のうち 僕が好きなのは(こういうのは「好き嫌い」でいいんです)「努力ができるのも運のうち」と「運は努力で呼び寄せる」というものです。「運か努力か」という二項対立で考えること自体に無理があって、運と努力は切り分けることができない形で絡み合っている、そう考える。 「努力ができるのも運のうち」というのはみなさんもしみじみ実感することがあるんじゃないかと思います。 |
161 | 努力して何とかなる場合もあるし、そもそも努力の余地のない場合もある。すべての人間的達成を全部「努力の成果」であるとみなすのは危険なことです。 でも、現代日本では、すべてとは言いませんが、ほとんどに人間的達成は「個人の努力の成果」であるとみなすというルールが採用されています。 誰でも努力する能力を備えている。努力するためには才能も幸運も要らない。 これがメリトクラシー(meritocracy)「能力主義、成果主義」基本にある人間観です。 |
162 | 「勉強しようと思えばいくらでもできる環境」にいるということ自体、歴史的見ればむしろ例外的に幸運なことなんです。 ですから、「努力ができるのも運のうち」なんです。 そういう生得的な資質があったり、そういう後天的な環境があったりしているおかけで努力ができる。努力というのは自己決定できるものではありません。自己決定できる部分もありますけど全部じゃない。そのことをわきまえておくほうがいいと思います。 |
164 | 明けない夜はない 全員が同じスタートラインから出発するわけじゃない。「努力できる人」はそのことだけですでに大きなアドバンテージを享受している。そういうふうに考えるのです。そして、善人であったり、みんな頼られる人であったり、国家須要の人物であったりすべく「努力できる」なんて、私はなんて幸運なんだろうと思う。そう思うことができたら、もうすでに結果の半分くらいは手に入ったわけです。 ですから、「努力が運を呼び寄せる」というより、より正確には「努力できる人間はその時点ですでに幸運である」ということになります。 |
166 | 夜明けを見るためには夜が明けるまで生き延びることが必要です そのためには「私は運がいい」というふうに自分に言い聞かせる必要があります。 そうでも思わないとやっていられないからです。そうでも思わないとやってられないくらい厳しい状況をなお生き延びるための「方便」として「運」という言葉があるのです。 |
168 | 「半分しかない」と思うか、「半分もある」と思うか これは人間的気質の問題ではありません。もっとプラグマティックな、もっとずっとリアルな「生き延びるための技術」の問題です。 「半分もある」と考えた方が、それからあとの心身のパーフォーマンスは向上します。(中略) 危機的なときほど楽観的にならなくてはならない。 |
第三章 与えるということ
格差論のアポリア 今の社会は、年金制度一つ取ってみても、若者が虐げられ、老人を優遇している面があるのではないでしょうか。社会全体の活力を増すためにも、子育て支援を拡充するなど、もう少し若い世代に再分配すべきだと思うのですが。 |
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172 | (NHKの番組「ニッポンのジレンマ」を見ていて、うんざりした。著者の友人である平川克美氏も同感であった) 「金の話しかしてないからじゃないかな」というのが二人の合意点でした。 |
173 | 平川君と僕が違和感を覚えたのは、そこで話されていることの「コンテンツ」論理的な不整合があるとか、データが間違っているとかいう理由からではありません。「なんで、そんな話ばかりするの?」という「話題占有率」の異常な高さが僕たちの違和感のゆえんでした。 というのはどこまで記憶をたどっても、僕たちは若い頃に年金について熱く論じたことなんかなかったからです。 |
174 | 「奇妙な夢」を見ている気分になる 「年金をもらう自分」の姿をどうしても想像できなかった。 それは60〜70年代というのが、社会的な変動期で、国家規模で「想定外」の出来事が続発して「もう先のことは分かんねえや」的な諦観とノンシャランスの入り交じったような気分が横溢していたせいです。だって、60年代前半において、平均的日本人が自分の未来について抱いていた最大の不安は「核戦争の勃発」だったんですから。 |
175 | 60年代後半から70年代前半までは今度は核戦争じゃなくて、世界的なスケールでの政治的激動の時代でした。(中国の文化大革命とベトナム戦争) |
176 | 世界が明日どう変わるかわからない。誰にも予想がつかない。そんな激動の時代が10年近く続いたのです。そういう気分のときに「年金の話」とか、しないでしょう、ふつう。 |
176 | その後は今度はいきなり非政治的な、享楽と奢侈の時代に急転換しました。バブルの時代です。 |
177 | ともかくそんなふうに生まれてから今日まで、年金のことを真面目に熱く語ったことが一度もなかった世代の人間なので、若い知識人たちが年金制度について熱心に制度のディテールについて適否を論じ合う姿を見て、なんだか「奇妙な夢」を見ているような気になったのです。 |
177 | 勘違いして欲しくないのですが、それが「悪い」と僕は言っているわけではありません(社会制度のあるべき形について真剣に語るのか悪いことのはずはありません)。そうではなくて、正月早々に、おそらく同世代の中でも際立って才知に溢れた方々が一堂に会して、そこで「年金制度」について、放送時間の半分近くを費やしたことに僕はびっくりして、うろたえてしまったのです。 僕の本年の声を漏らすならば、「今って、そんな話している場合なの?」ということでした。 どうして自分たちが年金受給年齢に達するまで、日本のシステムが「このまま」推移すると思えるのか、その楽観の根拠が僕にはよくわからなかったのです。 |
178 | でも、若い方たちはその鋭利な脳を活用して、例えばアメリカの太平洋戦略の変化への対応策とか、中国の拡大主義にどう対処するとか、朝鮮半島での軍事的緊張をどう緩和するか、といった日本の死活的な国益に直結する切実なイシューにはあまり興味を示されていない。 |
179 | 若い人達が先行世代を批判したいと思うなら、「彼らは邪悪である」というふうに批判しても、あまり意味がないし、効果もない。いうなら、「お前らは頭が悪い」です。これが実は社会的格差を論じる場合に、最大の問題なのです。 |
181 | それは無数の「頭の悪さ」の集積なのです 先行世代は邪悪である、と言うのは、先行世代が「このようになるように状況を制御している」ということです。「悪いやつら」と呼ぶのはそういうことです。ワルモノっていうのは、定義上「頭がいい」んです。 |
181 | 「悪いやつがおのれひとり受益するためにすべてをコントロールしている」というのは、だから「世界には理法があり、すべては整然とそれに従って動いている」という一神教的な信仰の裏返しの形に他なりません。 |
182 | 世代格差というのは(ロスジェネ 論もそうでしたけれど)、「どこかに全能の制御者がいる(いて欲しい)」という信仰の表れなのです。 もちろん、この社会に格差はあります。資源の分配についてのアンフェアはあります。さまざまな理不尽がある。でも、それは誰かが自己利益のために工作してそうなっているわけではない。それは無数の「頭の悪さ」の集積なのです。 制度設計のミスや未来予測の誤りや想像力の欠如や無根拠な楽観……別に深い考えがあったわけではなく、むしろあまり深く考えなかったせいで起きたことが無数に集積して「こんな事態」になっている。僕はそう思います。 |
184 | どうして私たちはこんなに頭が悪いのか 自分が選択したこと、自分がやっていること、自分が考えていることの適切さなついて第三者的、価値中立的な視点から吟味できないことを僕たちは「頭が悪い」と言います。そして、第三者的、価値中立的な視点から自分自身の推論や判断を吟味するというのは、言い換えると「自分の頭の悪さを点検する」ということなのです。 つまり「頭の悪さ」と「頭の良さ」を分岐するのは、「自分はもしかすると頭が悪いんじゃないか?」という自己点検の装置が起動しているか起動していないか、それだけの違いなんです。 「自分は頭が悪いんじゃないか?」という疑問に捉えられて、それ故メタ認知 的に自分の思考を自己点検できる人はあまりひどい失敗をしない。それだけの話です。 |
185 | そうするほうが倫理的に正しいとか、政治的に正しいとかという話をしているわけではありません。人間が人間にもたらす災厄をどこまで先送りでき、被害をどこまで軽減できるかというごくごく散文的な話なんです。 |
186 | 奪還論のアポリア 社会制度の不調を分析するに際しては、「邪悪なものがいて、彼らが受益するために、制度を捻じ曲げているのだ」という話型を採用することは自制した方が良い。それでは何も説明できないだけでなく、それに基づいて採用された解はしばしば破局的に暴力的な形をとるからです。 日本のように穏やかな社会においてさえ。 だから、社会的な危機について分析するときは、「愚鈍さ」を主たる関数にとる方がいい。愚鈍さは平和的な形で修正可能だからです。愚鈍さの修正は「処罰」ではなく、「説得」によるほうがより効果的だからです。 |
187 | 僕の意見は、これを「先行世代が自己利益を図って制度を捻じ曲げた」というふうに総括すべきではないというものです。 というのは、もしも、そのような事態を捉えたら、出てくる実践的結論は「自分たちに配分されるべき資源が先行世代に偏っているなら、『正しい所有者』はそれを奪還する権利がある」というものになるからです。けれども「奪還論」は社会集団内の対立を激化するだけで、実践的にはほとんど無効であり、社会をより住みにくいものにしかしない。 |
190 | 私はひどい目に遭っている」と誰かが言うと、必ずそれを否定する人が出てくる。「お前よりもっと苦しんでいる人がいる。その人に比べたら、お前には請求権なんかない」と言い出す人がでてくる。これが奪還論の本質的な矛盾なのです。 |
191 | 問題は想像力なのです 世界の全ての問題を同時的に解決できる完璧なソリューション以外は認めないということになると、たしかにあらゆる提言は「微温的」であり「弥縫策」であり「そんな中途半端なことをしているから社会の根源的な矛盾は解決されないまま放置されるのだ」ということになる。 そう言って他人の主張を切り捨てると、そのときだけはちょっと気分がいいかもしれません。でも、そこからは「よきもの」は何も生まれない。 |
194 | 「人の善意に期待するな」というのはひとつの見識です。経験的にはけっこう正しい。 けれども、これを理論的に汎通的 に正しい命題だということにしてしまうと、「人の善意に期待しない」で成功した人は構造的に「厭なやつ」にならざるを得ない。他人に善良なふるまいを期待することを許さないし、自分が善良なふるまいをすることも許すわけにはゆかない。そんなことをしたら、自分が最初に採択した前提が間違っていたことになるから。 |
194 | 20世紀、アジアアフリカで、欧米の帝国主義諸国を武力で放逐して独立を勝ち取った革命政権のうち、奪還した資源を全人民に公平に分配することに成功したものはほとんどありませんでした。革命政権の独裁者たちはしばしば帝国主義国家の植民地官僚よりもさらに激しい収奪と独占を自分に許したからです。権力者というのは「そういうもの」であるという前提から出発したので、自分が権力を奪取したあとはつ「そういうもの」になる以外に権力者のありようをイメージできなかったのです。 問題は想像力なのです。 |
196 | 私たちは何と戦うべきか 年金制度の不備を言い立てる若者たちは、「年金制度について考えたことがないし、制度についてろくに説明を受けたこともない」若者たち(今は老人たち)がこの制度の制定時点での有権者たちだったという事実を想像してみた方が良いと思います。 もうひとつは、社会的な資源分配上のアンフェアネスについて「実力行使による奪還」ということを言い出すと、それに呪縛されてしまうこと。「奪還論者」たちも、「奪還を果たした後の自分自身がどんな人間になるか」ということについては想像力の行使を惜しむ傾向があります。それについても想像してみた方が良い。 |
196 | 僕は「収奪と奪還」ではなく「贈与と嘉納 」の交換システムへの切り替えによって、現状を改革したいというアイデアを持っています。 |
贈与のサイクルはどこから始まるか 「収奪と奪還」ではなく「贈与と嘉納」の交換システム、と聞くと魅力的ですが、それは単なる理想論ではないのでしょうか。人に与える余裕がない以上、収奪と奪還の交換システムから抜けられないのが現実であるように思います。 |
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198 | 経済活動というのは、「等価物の交換」ではなく、「贈与」から始まります。 |
199 |
人類と同じだけ古いもの(には)「言語」と「親族」と「経済」です。(中略)この三つは原理的には全部「同じもの」です。それらに共通するものは、「交換」です。 |
200 | 存在していることの根拠を与えること 「言語」は「記号の交換」です。「親族」は「女の交換」です。(中略)経済は「財とサービスの交換」です。 |
201 | (キャッチボールで)飛んでくるボールは「あなたが存在していることを私は認知する。あなたが存在していることから私は今喜びを得ている。だから、あなたがこれからも存在し続けることを祈っている」という強い遂行的メッセージを携えています。 人間というのは、そういう祝福の言葉を定期的に服用していないと生きていけない生き物です。生理的に生きていけないということないけれど、生きている気がしない。 |
202 | 交換の目的は、それによって「何か価値あるもの(メッセージや性的配偶者や財貨やサービス)を手に入れること」ではありません。ぎりぎりまで削ぎ落とした交換の本質は僕たちに「存在していることの根拠を与えること」なのです。 |
203 | 贈与は主体的な行為ではありません 贈与は自己を起源とする主体的な行為ではありません。贈与はそれ自体「すでに贈与を受けてしまったことの結果」なのです。 |
203 | 贈与は「したい/したくない」とか「できる/できない」というような枠組みで論じられる話ではありません。 貴方の意志なんか誰も訊いていないから。 |
204 | あなたが「すでに贈与を受けた」と感じているかどうか、それだけが問題なのです。 |
205 | 「自分は『創造』に遅れた」という遅れの意識、「自分は『誰かが創造したもの』を気が付いたらもう受け取ってしまっていた」という被贈与の意識(レヴィナス先生が「始原の遅れ」initial apres-coupと呼んだもの)が贈与を起動させるのです。あるのは「受け取ってしまった」という被贈与感と、「だからお返しをせねば」という反対給付の義務感だけです。 |
207 | ああ、これは私宛の贈り物だ 「これは私宛の贈り物だ」と思う人間が出現したことによって贈与のサイクルは起動する。 きっかけはなんだっていいんです。「贈与された」と思う人の出現によって贈与が事後的に「あったこと」にされる。 |
209 | 「目に映る全てのことはメッセージ」 (ユーミンの「やさしさに包まれたなら」から) 「カーテンを開いて、静かな木漏れ陽の、やさしさに包まれたなら、きっと、目に映る全てのことはメッセージ」 木漏れ陽は誰かからのメッセージじゃありません。ただの自然現象です。でも、ユーミンはそこに「メッセージ」を読みだした。自分を祝福していてくれるメッセージをそこから「勝手に」受け取った。そしてその贈り物に対する「お返し」に歌を作った。 その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。「世界は住むに値する場所だ」と思った。そういう思いを与えてくれたユーミンに「ありがとう」という感謝を抱いた。返礼義務を感じたので、とりあえずCDを買った(昔だったので、買ったのはLPですけれど)。 |
210 | 贈与は「かたちあるもの」ではありません。それは運動です。 |
211 | そのリストが長ければ長いほど もし、現代社会において贈与と反対給付の交換活動が停滞しているとしたら(実際しています)、それは人々が交換の本義を忘れたからです 交換の本義を忘れて、交換とは「金儲けのためにすることだ」「自己利益を増大させるためにするとだ」と思ったからです。 「たくさんの人と交換すると『グローバルな人間』になれる」とか、「文化的バックグラウンドの違う人と交換すると『他者開放性の高い、倫理的な人間』だと世間から評価される」とか、功利的な目的に交換を従属させてしまったせいで、「そんなことのためなら、オレはいいよ。交換なんか。贈与なんかして欲しくないし、反対給付する義理なんかオレにはないよ」というようなことを言い出す人が出てきてしまった。 |
213 | 「反対給付義務を感じない人」というのがいるとしたら、それは自分に向けられた「おはよう」という挨拶を「自分宛てのメッセージ」だと認識できない人です。 そういう人は仕方がない。贈与のサイクルから出て行ってもらうしかない。そのような人は他社と協働的にいきていく能力がないと判定されるからです。 |
213 | 人間的な営為の全ては「贈与を受けた立場」からしか始まらない。そして、市民的成熟とは「自分が贈与されたもの」、それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」についてどこまで長いリストを作ることができるか、それによって考量されるものなのです。そのリストが長ければ長いほど「大人」だということになる。そういう話です。 |
214 | 「市民的成熟」の条件 贈与のサイクルにいる(人は)、「この全ての贈り物に対して、私も何かをせざるばなるまい」と考える。それが「市民的に成熟している」ということの条件だと僕は思います。 |
215 | 贈与のサイクルに参与できない人が増えているのは、市民的成熟を果たしていない人が増えたからです。 いま僕たちの社会は「子ども」ばかりになっている。見た目は老人であっても、偉そうにしていても、「子ども」は「子ども」です。大人がどんどん減って、子どもばかり増えてきたので、贈与のサイクルが停滞している。そのせいで、「こんな世の中」になっているのです。 もう一度、贈与のサイクルを起動させなければならない。 |
216 | 皆さんにして欲しいのは、ユーミンが歌ったとおり、「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、周りを見渡してほしいということ、それだけです。 |
贈与の訓練としてのサンタクロース 小さな子供を持つ親の多くは、サンタクロースを演じます。子どもには気づかれないように、しかし子どもが欲しがるプレゼントを枕元に置くサンタクロースというのは、ある意味で「贈与」の理想のように感じます。 |
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218 | 子どもにプレゼントを贈与する親たちはその行為を通じて個人的な愛情とか、気配りとかいうものではなく、ある種の「類的なふるまい」を果たしている。個人を超えたもっと巨大な「意志」を遂行している。 |
219 | 「お返しできない」こと 他にもキリスト教由来の儀礼はいくつもあるのに(イースターとか、ハロウィンとか)、なぜクリスマスだけが例外的にスケールが巨大なのか。 それは、これが「贈与」の儀礼だからだと僕は思います。 |
220 | 親たちがあえて固有名を名乗らず、「サンタさん」という偽名を全員が採用している。それはこの儀礼が贈与の本質を教えることを目的としているからでしょう。 |
221 | ありがたい=有り難い=存在可能性が少ない 「ありがとう」というのは文字通り「有り難い=存在可能性が少ない」ということです。その「有り難い」幸運に今巡り合った。たまたまこんないい思いをさせていただいた。だから、感謝する。「贈り物を受け取った」ということに気づいて、「感謝」の義務を感じたものが登場する。 それが贈与ということの本質です。 |
222 | 贈与という概念を持たない人間には宗教がない。宗教がないということは、端的にコスモロジーがないということです。 |
223 | その贈り物を返す相手は誰か クリスマスプレゼントが成り立つ条件というのはいくつかあります。 第一に、贈与者は「自分の名を名乗ってはならない。『サンタさん』というある種の普通名詞的存在に贈与者の地位を譲らなければならない」ということ。 第二に、(クリスマスプレゼントは)「求めていたのとはちょっと違うものが贈られる」というのが贈り物の本質的な属性だということを子どもたちはこの儀礼を通じて少しずつ学習していきます。 |
224 | 第三に、(中略)この贈与行為は親たちの個人的な発意でなされているわけではなく、親たち自身があるルールに従って、それを行うことを余儀なくされている。そういうことが(子どもたちに)ぼんやりとわかってきます。(中略)この「サンタさん=親」という矛盾の合理化において、子どもたちの宗教性のいちばん根っこの部分が形成される。 |
225 | 第四に、この最初の「被贈与経験」について、子どもたちは反対給付義務を感じるわけですけれど、お礼をする相手が今はいない。 |
225 | 親から受け取った贈り物を返す相手は自分の子どもです。 |
226 | 「サンタさんって、ほんとはいないんだよね」とぽつりとつぶやいたときに、子どもたちの中に宗教性の本質についての理解が芽生えたことを言祝いでください。 |
わらしべ長者が教えてくれるお金の話 贈与や交換ということを考えるとき、「お金」という道具は決して無視できない、大きな要素であると感じます。「お金」とはいったい何であり、どのように付き合っていけばいいのでしょうか。 |
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227 | 貨幣は大変「よくできた道具」です。人類の発明したものの中で最高に出来がいい「物神(フェティッシュ)」のひとつでしょう。(中略)「物神」は人間だけが持てる幻想です。 |
228 | でもそれはあくまで「幻想」です。 そういう「幻想」があるともないより「いいことがある」という計量的な判断を踏まえて採用された装置です。(中略) 貨幣は「恣意的に定めたルール」のひとつにすぎません。でも、「ゲームに勝つためには命を削ることも厭わない」というタイプの倒錯を伴わない限り、それはゲームのルールとして機能しない。 |
229 | 使用価値のまったくない商品 貨幣は「使用価値のまったくない商品」です。 (貨幣には)はなっから、「有用性」は当てにされていなかったのです。 貨幣が貨幣であるための唯一の条件は「それがすでに貨幣として流通している」ということです。 |
230 | この世にある全ての商品の中で、「持っていても仕方がない。何か別なものと交換しないと意味がない商品」というのは貨幣だけなのです。 貨幣の存在理由は「交換を加速すること」、それだけです。 |
232 | 「ババ抜き」というゲームが映し出すもの (貨幣を)所有した人間が「早く交換しようぜ」と浮足立つことです。 貨幣の人類学的価値を構成するのは人を交換の場に駆り立てることなのです。 |
234 | 貨幣は何をしたがっているのか お金持ちというのは、あえて言えば、「貨幣の本質=交換の本質を理解している人」のことです。貧乏人というのは、ひどい言い方を赦していただければ、「貨幣の本質=交換の本質を理解していない人」のことです。 |
235 | 貨幣は自分を媒介にして何をしたがっているのか? この問いをまっすぐに受け止める人が「貨幣と縁がある人」です。 「自分は」貨幣を媒介に使って何をしたいのか? こういう問いを立てる人はあまり貨幣とご縁がありません。 |
237 | 問題は自分ではなく、他者の欲望 (わらしべ長者の話を引き合いに出して) この物語には交換というものの本質が見事に描かれています。 交換の条件。 まず、移動し続けること。 二つ目は、交換を持ちかけられたら、必ず「うん、いいよ」と答えること。問題は自分の欲望ではなくて、他者の欲望だからです。 |
238 | 男はこの短い物語の中に登場するすべての人物の中で「移動すること・交換すること」以外に何もしない唯一の人間です、 そういう人間だけに「長者」になるチャンスが訪れる。 |
238 | ものの価値は交換したことによって、事後的に「あれには価値があった」というかたちで懐古的にしか成立しない。あるものに「価値がある」と言い出す人間の出現によって、価値は無から生まれる。それが「交換の奇跡」です。 ですから、男が最後に「馬」という「高速移動手段」を「不動産」と交換したときに物語は唐突に終わります。家はもう持ち歩くことはできない。だから、男は歩みを止めるしかありませんでした。そして、男が歩みを止めたときに、交換も終わりました。 |
大人になるとは あらゆるものに「被贈与」か感覚を覚え、贈与のサイクルを回すということは、別の言い方をすれば、「大人になる」ということそのものではないかと感じました。ただ一方で、「大人になる」とはどういうことかを定義するのは難しいとも思います。一体、どういう人が「大人」なのでしょうか。 |
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241 | それは一種の作品 「あなたが大人だと思う人」、それがとりあえず「あなたにとっての大人」です。あなた以外の人が誰を大人だと思っているか、それはどうでもいいんです。だって、そんなこと人と議論したり、合意形成したりすることではないからです。 |
242 | 人物鑑定眼というものは、もうしわけないけど、知識として教えられるものではありません。客観的に挙証 できるものでもありません。 |
242 | 「人を見る眼」というのは、「ありもの」を借りてくることも、誰かに教えてもらうこともできない。煮え湯を飲んで、赤恥をかいて、身銭を切って自分で身につけるしかない。 |
242 | 「あの人は大人だ」という言明については、他人は絶対にその選択の適否についてコメントしてはいけません。というのは「あの人は大人だ」というのは、単なる事実認知的言明ではなく、「私はこの人をロールモデルにして、これから人格陶冶に励むつもりだけという遂行的誓約でもあるからです。 |
243 | あなたの選択はそのままあなた自身の個性と成熟度が現れる。あなたが誰のどんな生き方を成熟の道筋として思い描いているか、それがあなたが誰を「大人」だと思うかにそのまま映し出されします。 そういう意味では「私にとっての大人」いうのは、一種の作品なんです。 |
248 | グラスやコースターやスツールやかかっている音楽や壁の絵に対して、「僕のためにこんな気分のいい瞬間を作ってくれて、ありがとう」という感謝と経緯があれば、「かっこつけている」というふうには見えないと思うんです。そういう時はグラスの中の液体と人間とのあいだに目に見えない生きた「糸」みたいなものが生成するから。でも「かっこつけてる」人間にとってはそうじゃない。そういうものは全部「小道具」扱いされるから。周りの事物を自分をかっこよく見せるために道具的に利用している人間はかっこ悪い。 自分の周りにある「もの」にのめり込んでいる人、それと一体化している人、見事な調和を達成している人は「かっこいい」。 |
250 | 蛇行する縫い目を見て ぼくは「ささやかだけれど、大切なこと」に対して無言で祝福を与えるような人を「僕にとっての大人」だと思ったようです。 |
250 | こういう細かい仕事をていねいにできる人が僕の理想だったんだということに思い至りました。 でも、蛇行する縫い目とアイロン皺をながめていると、なかなか理想我までの距離は遠そうです。 |
第四章 伝えるということ
最近の人がすぐにばれる嘘をつくのはなぜか 政治家、作曲家、あるいは科学者など、さまざまな分野で、それなりの地位を築いてきた人が、「嘘」をつく事件が増えているように感じます。 |
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255 | 「嘘」が目立つようになってきました。連日報道される事件の半数以上が「嘘」についてのもののような気がします。(中略)でもメディアというのは「そのとき人々が読みたがっていること」を報道するものであって、それは出来事の「件数」とは直接には関係がありません。 |
257 | 「嘘のつきかた」に目立たないけれどもある種の変化が生じています 「新しい傾向」とは、嘘をつく人たちが「すぐばれる嘘」をつくようになったことです。 |
258 | 可憐な人情がなくなった 「すぐばれる嘘」を人々はつくようになりました。常識的に考えて、「すぐばれる嘘」は「なかなかばれない嘘」よりも(こういってよければ)「嘘のつき甲斐」がありません。嘘をついたことがすぐにばれると、嘘によって得られた一時利得もまたすぐに没収されてしまうからです。 |
259 | つまり、ある虚偽の言明が「嘘」であるかないかは、その言明そのものの真偽によってではなく、「嘘」の被害者かららの「被害申告」に基づいて決まるということです。 被害者がいなければどのような虚偽の言明も「嘘」と呼ばれることはありません。 |
261 | 嘘というのは「虚偽の言明によって、言明を信じたものが不利益をこうむるもの」です。虚偽の言明を信じた者がいても、それを信じた人間が不利益をこうむっていないのなら、それは嘘ではありません。 |
261 | 「なかなかばれない嘘」が「出来のよい嘘」であり、どうせつくなら「なかなかばれない嘘」をつくほうが良いと考えられてきたのは「なかなかばれない」とそのうち被害者がいなくなってしまう可能性があるからです。 |
262 | かつての「嘘つき」たちは嘘をつくときでも「なかなかばれない」ようにすることに心を砕きました。こは言い換えると「嘘をつくが被害者は出さない」ということです。この気づかいには確かに掬すべき点があります。「盗人にも三分の理」というか「鬼の目にも涙」というか、条理のないところに小ぶりの条理を通そうとするこの半端な人情味が、私は嫌いではありません。 しかるに、当今の嘘つきたちにはそんな可憐な人情がありません。だから「すぐばれる嘘」をつく。 |
263 | 嘘というのは時間との勝負 「時間稼ぎ」というのはある意味では嘘の骨法に従っています。「なかなかばれない嘘」は嘘ではないからです。口から出まかせでも、否定し続けているうちに、被害者が死んでしまったり、周りの人達がもう相手にするのにうんざりしてしまえば、ずいぶん経ってから「私は一度も嘘などついたことがない」としれって公言しても、誰にもとがめられないチャンスがある。 |
265 | 嘘というのは時間との勝負である。そういってよいと思います。 |
265 | 歴史的条件が変われば嘘は嘘でなくなる 「すぐにばれる嘘」と「なかなかばれない嘘」かの間に本質の違いはありません。けれども、実践的には天と地ほどの違いがある。「その虚偽の言明によって私は不利益をこうむった」という人が出てこない限り、虚偽の言明は社会的に「嘘」とは認定されないからです。「その虚偽の言明によって、多くの人が利益を得た場合」もそうです。被害者よりも受益者が多かった場合には、それは「嘘」とは呼ばれません。 |
266 | 僕に分かることは「すぐばれる嘘」をつくことに対する心理的抵抗がどんどんなくなってきていることです。たぶんものごとの変化のスピードが速くなりすぎて、「先のこと」を考える習慣がなくなったせいでしょう。 |
268 | 問題は「寿命」です なぜ、人々が「すぐばれる嘘」をつくようになったのか。私の仮説は「それは寿命の設定が短縮されたからだ」というものです。 |
269 | 近代以前まで人々は数十人、数百人の同胞とともに集団的自我を形成し、「三世代、ざっと100年」を平均寿命とする生物でした。そのような生き物として生存戦略の適否を判断した。「家名を辱めない」とか「郷土の誇り」とか「一揆」というのはただ現時的に集団のバインドを強化することを目さして掲げられた原理ではありません。「サイズの大きな生き物、寿命の長い生き物」としてことの適否を判断せよという「間尺」の指定をしていたのです。 近代以前と現代でもっとも変わったのは「主体」のサイズと寿命、すなわちことの適否の度量衡となる「間尺」それ自体なのです。 親族共同体も、地域共同体も崩壊しました。同じように学術共同体も崩壊しました。 |
270 | 重要な知見について、先人や研究者集団の仲間への敬意を忘れるということは、(中略)他人が受けるべき敬意をおのれに「付け替える」ということです。 学術共同体とは「多細胞生物」であると思っている人は決してそのようなことをしません。先人の発見やすぐれた仮説はパブリックドメインに置かれた「みんなの財産」です。「みんなの財産」だからもちろん自分にもそれを使用する権利はある。けれども、それを「自己資産」であるかのように偽装する権利はあません。「オレに黙って勝手に使うな」と言い建てたり、課金したりする権利はない。政治活動でも、芸術的創作でも、話は一緒です。 |
271 | 人々が「すぐばれる嘘」をつき続けるようになったのは、別に人間がそれだけ邪悪になったからでも、愚鈍になったからでもなく、私たちが平均寿命の極めて短い生物としてふるまうことをしいられているからです。 ではなぜ、そうなってしまったか。これについてはまた別の長い話をする必要があります… |
死について考える 自分の寿命を短く認識している者ほどすぐにばれる嘘をつく、という指標は非常に興味深いものがありました。一方で、個としての自分はいずれ死ぬというのも事実です。自分が死んだあと、社会がどうなるかということに本気で思いを馳せることができるのか?と問われると、案外難しいことのような気がします。 |
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276 | 死の経験について主体として語る権利は誰にもない。死者自身にさえ。だから、死の経験を生者にもわかる言語をもって叙してはならない。死の経験は死者自身によっても語らせてはならない。死を記述することについてはかなう限りの節度を持つように。 |
278 | 心穏やかに待っていればいい 死ぬことについてどうしても気がかりであるというなら、「死」ではなく、「死をめぐる生者たちの経験」について考えたらいいと思います。(中略)具体的には、「私が死んだあとの家族の生計のこと」とか、「私がいなくなった後の組織の管理運営のこと」、とか「葬儀の段取りのこと」とか「遺産の分配のこと」とか、具体的な、今ここで制御可能な現実のことです。 |
280 | 私は明日死ぬかもしれない よく使われる「メメント・モリ(死を思え)」というラテン語には「死の表徴」、「死の警告」という語義があります。生きている人間に対する「死のシグナル」です。 「私は明日死ぬかもしれない」ということをいつも念頭において暮らしなさい、ということです。そうすると「当分オレは死なないだろう」と高をくくって暮らしている場合よりも、生きている時間の質が高まる。 ひとつひとつの経験の意味が深まり、ひとつひとつの愉悦の奥行や厚みが増す。生きることの深みや厚みや奥行きを味わい尽くしたいと願うなら、「死を思え」。そういうことだと僕は理解しています。 |
284 | 誰でも語りそうなことはできるだけ口に出さない 自分が感じていること、考えていることを発表するときには、できるだけ「自分が死んだら、これと同じことを感じたり考えたりする人がいなくなる」ことだけを選択的に語るほうがいいと思います。 でも、ネットで発言している匿名の人のほとんどはその逆のことをしています。 |
285 | 匿名者は「たくさんの人が同意してくれるに違いない」という前提から発言しています。ですから、「たくさんの人が使っている言い方や文体や修辞」をそのまま採用することになる。「私は真理を語っている」という確信が深まるほどに表現は非個性的になる。 でも、「私と同じように考えている人はたくさんいる。なぜなら、私は真理を語っているからだ」という命題に基づいて、個体識別できないような書き方をし続けることは本人が思っているよりはるかに危険なことです。 |
286 | 「自分と同じようなことを考えている人がいくらでもいる」というのは、裏返して言えば「だったら、自分はいなくてもいい」ということを意味するからです。「余人を以ては代えがたいこと」ではなく「同じことを語る余人がいくらでもいる」という前提で語っているわけですから、その人一人がいなくなっても誰も困らない。誰も気づかない。誰も惜しまない。 「私と同意見の人間がたくさんいる」という発言を「真理を語っている」と同定してしまう人は、実は自分に対して「呪い」をかけているのです。 それは、「私が存在しなくなっても誰も困らない」「私が存在しなければならない特段の理由はない」という結論に向かう他ないからです。 |
287 | 自分以外の人でも言いそうなことはできるだけ言わないでおく。 誰でも言いそうなことをあちこちで言い募って時間を浪費するには人生はあまりに短いからです。 |
288 | 僕が倒れたら 「私が死んだら、私と一緒に消えてゆき、誰も再現することのない言葉」とはどんな言葉か。それを自分の中に探る。 一行書いてみればわかります。自分の書いたものを読み返してみればわかります。「ああこれはどこかで読んだのを引用してきたのだ」「これは誰かの受け売りだ」「これは『こういうことを言うとウケる』ということを知っていて書いた言葉だ」。 そういう点検をして、ざっとスクリーニングして、それでも残った言葉があれば、それが「余人をもって代え難い言葉」「私が死んだら、私と一緒に消えてなくなる言葉」です。 それだけが生きている間に口にする甲斐のある言葉です。僕はそう思います。 |
289 | 「そんな変な話、これまでに聞いたことがない話」を相手に伝えるべく、必死で言葉を紡いでいくうちに、言葉は洗練され、磨き上げられ、研ぎ澄まされます。そして、やがて「変な話ではあるけれど、言わんとすることは何となくわかる」ものに仕上がっていく。 そういう言葉だけが「人類への贈り物」になります。 |
291 | 「青年」がいた時代 人が子どもから大人になるときには、さまざまな葛藤を乗り越える必要があります。人生を充実したものにし、さらには自分が死んだ後の社会にも思いをはせるような人間になるためには、10代から20代のいわゆる「青春時代」をどのように過ごしていくか、ということが重要であるように思います。 |
263 | 「青年」は明治40年代に、日露戦争に勝った日本が。これから「世界の列強に伍して国際社会で、政治的にも、軍事的にも、経済的にも、学術的にも、文化的にも生き延びてゆかなればならない」という重い歴史的使命を担うために意図的に創り出したものです。 もともと存在していれば、創り出す必要はありません。青年は明治にいくつかの社会的制度を通じて国策的に造形されました。教育制度としての旧制高校、そして明治文学。この二つが青年造形の最も実効的な母型になりました。 |
294 | 「青年」もまた、創り出されたもの 青年の特徴は「機動性」と「架橋性」の二点にあります。 父の家を捨て、故郷の食文化や宗教儀礼を軽んじ、西洋渡来の新たな文物に過剰な欲望を示し、都市の「根無し草」となります。(中略) これが「機動性」です。 |
295 | でも、そういうただの「根無し草」はいずれどこかで息切れします。(中略) そして、はっと胸を衝かれ、自分が「旧弊なもの、時代遅れのもの、日本の後進性の表れである恥部」だとして目を背けていたもののうちに「いとおしいもの」を見出すようになる。そして、目の色を変えて追い求めていた最先端の文化と、自分の懐かしい幼年時代に絡みついている旧時代の文化を、おのれの一身によって「架橋」しようと企てる。 |
296 | 青年はこのような「新時代の先端」と「旧時代の遺物」の間を往還することをその宿命とします。 これが「架橋性」です。 |
296 | 文明開化は「旧時代の遺物」を切り捨てても済ませられました。殖産興業も富国強兵も新時代の先端的制度文物に国民資源を集中することでなんとかクリアーできました。(中略) でも、「欧米列強に伍して世界の五大国の一隅を占める」というような国家的事業になると、もう「欧米から輸入したもの、欧米の真似をして作ったもの」だけでは間に合わない。 |
297 | そこで、明治維新のあと「旧弊」として二束三文で叩き売り、歴史のゴミ箱に放り込んだはずのものをまたゴミ箱から掘り起こして活用するしかないということになった。 国家的に資源再使用です。 その「新時代と旧時代を架橋する責務」を担ったのが青年です。 |
298 | 「青年」に相当する世代はいつの世にもおりましたが、これほど特殊な歴史的使命を期待された世代はこの時に出現したものです。 |
300 | 「青年」が消えると同時に「青春」も消えた 欧米と日本、旧時代と新時代を架橋する必要もない。ですから、「こまっちゃくれた子ども」の後はそのまま「幼児的なおっさん」になるというコースをそれからみんなたどるようになった。 |
300 | 明治大正時代に「青春」という言葉が選好されたのは、それが「青年」たちの時代だったからです。 「青年」が消えると同時に「青春」も消えた。 |
301 | ですから、「青春て、なんなんだろう」という問いをもし本当に切実なものだと感じているとすれば、その人は「青年というものが存在しなければ、この国はもう立ち行かないのではないか……」という不安を無意識のうちに感知しているからではないかと思います。 |
301 | 青年というのは、旧時代から新時代、欧米と日本を架橋するだけでなく、「子ども」と「大人」を架橋する存在でもあります。 子どものような初々しさ、理想主義、無垢さ、羞恥心を持ちながら、大人たちに交じってそれなりに交渉ごとをしたり、仕事で力を発揮したりする社会的能力ももっている。それが「青春」です。 |
教育とは「おせっかい」と「忍耐力」である 個としての自分を超えて人生というものを捉えていくにあたっては、人に何かを伝えること、あるいは教えることを考えないわけにはいかないように思います。人にもの教える教育者が踏まえておくべきことは何でしょうか。 |
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304 | 「おせっかいな人」が学びの場を作る ふつうは「教えたい」という「おせっかいな人」がまずいて、その人が「教わりたい」という人を集めて、学びの場というのは立ち上がります。 |
307 | 近代の学校教育はこの映画 が端的に示すように、「例外的強者が資源を節約してひとり生き抜く」から、「弱者たちが手持ちの乏しい資源を出し合って共生する。」へ生存戦略がシフトした流れの中にあります。 |
309 | ニーズを言葉にできない人へ まだ自分に必要なものを知らず、どこに行っていいかわからず、教わる大小に提供するものを何も持たない人たち、そういう「子ども」たちが近代教育における「生徒」の基本型です。この「子ども」たちをベースにして教育は制度設計されています。 ですから、教えることの起源は「おせっかい」になる他ありません。 |
312 | お代は要らないから、私の話を聴いてくれ それくらい「持ち出し」覚悟じゃないと、学びの場というものは立ち上げられない。 |
312 | もうひとつ、教えるために必要な人間的資質があります。 「忍耐力」です。 |
313 | 打ってもさっぱり響かない。十を聞いてようやく一を知る、というレベルの子どもをデフォルトにして「教えるシステム」は設計されなければならない。 |
314 | 今の教育システムはこういう「いつ開花するかわからない才能」や「どんなものだか見当もつかない才能」の能力開発にはまったく対応していません。(中略) 日本社会から(日本だけじゃないかもしれませんが)「大器」と言われるほどの人物が出なくなってしまったのは、そのせいだと思います。みんな「促成栽培」で「はやく、はやく」と子供たちを急かしています。だからひょろひょろした、根の浅い、見栄だけの人間が量産されています。悪いけど、こんなのへなへなしたのは、屋台骨がぐらついてきた日本社会の「つっかえ棒」にも使えません。 |
315 | 教育の受益者は「本人」ではない 教えるというのは共同体を支える「次世代」を創り出すための仕事です。それは家族でも、企業でも、地域共同体でも、国民国家でも同じです。 勘違いしている人が多いので、確認しておきますけれど、教育の受益者は「本人」ではありません。共同体そのものです。 |
316 | 先行世代が教えなければならないのは「自己利益を増大する方法」ではなく「共同体を生き延びさせるための方法」です。(中略) はっきり申し上げますけれど、「学ぶとこんな自己利益があるよ」という利益誘導で学習努力を基礎づけようとする試みは本質的に失敗を宿命づけられています。 |
318 | 教える人間必要なのは「待つ力」です。 待つといっても半端じゃない長さです、5年や10年待ってもさっぱり教えた甲斐がないということもあります、 そういう場合「教える仕事」はもう一人では担えません。転職したり、異動したり、リタイアしたり、あるいは死んだりしたあとも「後を引き継いで教え続ける人」たちと共同作業をしないと教えるという仕事は完遂できません。その意味で、教えるという仕事は本質的に「共同作業」なのです。 自分が目の黒いうちに結果を出そうと焦ってはいけない。自分一人で何とかしようとしてはいけない。 |
320 | 「引き裂かれてある」ことこそ教師 教えるときに必要なものは「おせっかい」と「忍耐力」なのです。この二つの気質は、よく考えると相反するものです。(中略) たいへんです。(教える人間は)まったく背馳する二つの能力を同時に発揮しなくちゃいけないんですから。でもこれは僕が35年「教える」という仕事をしてきた経験から申し上げられることです。 この二つの傾向のうちに「引き裂かれてある」こと。それが「教える」という仕事が人間に求めることです。これを受け入れることのできる人が「教える資格」のある人です。それ以外には「教える」ためのノウハウも、秘訣も存在しません。 |
323 | メンター からの「卒業」 自分のことをそれこそ「おせっかい」かつ「忍耐強く」導いてくれた上司のことが、最近、以前ほどには尊敬できなくなってきました。自分が成長したこともあるのかもしれませんが、そこまで「偉い人」に感じなくなった上司とどう付き合っていけばいいか、少し戸惑っています。 |
323 | 自分が「先達」と思って、素直に見上げて、その人の指示に従ってきた人の「底が見えた」と思ったときに、その人を「ロールモデルから外す」タイミングについてということになると、かなり本質的な問題です。 |
324 | 素直に「ありがとうございました」と告げて メンターには二種類あります。生涯その後をついてゆくことのできる「師」と、僕たちをA地点からB地点まで送り届けてくれる人、「繋ぐ人」です。 これはどちらも成熟のためには必須の存在です。「繋ぐ人」は場合によっては、本当に短い間、ある場所から別の場所まで僕らを導いたり、ある人に引き合わせたり、ある限定的な技能や情報を教えてくれたりするだけで、去ってゆきます。そのことについて悲しむ必要はないし、「裏切った」とか「利用した」というような自責を感じることもありません。 |
326 | 僕たちはかりにそれが短い期間だったとしても、「繋いでくれた恩」に対しては、素直に「ありがとうございました」と告げて、旅路を先へ進めればよいのではないかと思います。 |
327 | 子育ては誰にでもできる 教育の受益者は本人ではなく共同体。そうわかっていても、いざ親として自分の子どもに接すると「自分の子だけには幸せになってもらいたい」と考えてしまう。これはエゴでしょうか。親は子どもと、どのように接していけばいいのでしょうか。 |
327 | 経験的にわかっていることは、「複数の教育原理が共生している状態」と「単一の教育原理で律されている状態」では、いろいろな先生がてんで勝手に教えている環境に置かれた方が子どもが成熟するチャンスは高いということです。 「葛藤なき創造」というものがありえないからです。 |
329 | 成熟とは「役割」です どんな集団もそれぞれに固有の文化を持っています。 言語も宗教も食文化も生活習慣もコスモロジーも違う。そういう異なる集団性格をもった二つの文化圏がぶつかる時には必ず激しい葛藤が生じます。 でも、人類の歴史を見ればわかる通り、すべての文化的創造はその「二つの文化が衝突するインターフェース」に発生している。 一方が他方を「殲滅」させることができない場合には、「折り合う」しかない。(中略) 「折り合う」というのは、その二つの集団性格のどちらについても「まあ、そういう考え方もあるかもしれない」と受け入れることです。 |
330 | (落語の「厩火事」の)「兄さん」のポジションのことを「成熟」と言います。 成熟というのは、コンテンツのことではありません。役割です。(中略)芝居の役と同じですからそこに「キャスティング」されたら、巧拙の差はあれ、誰でも演じられる。 誰かが「仲裁役」をしなければならない状況に置かれると、その人は「成熟した人間であるようなふり」をすることを求められる。 |
331 | 大人だから仲裁役を頼まれるのではありません。立場上、仲裁役である人のことを「大人」と呼ぶのです。 |
332 | つまり、成熟というのは「仲裁する立場に立たされること」なのです。(中略) 成熟とは自己創造のことです。葛藤なき自己創造もまたありえない。そして、人間たちのあいだで、二つの原理が衝突しているときに、それを「どうですここはひとつナカとって」と介入することが求められる。 誰かがその立場を引き受けなければならない。その立場をやり遂げられる能力のことを「成熟」と呼ぶ。 つまり、人は成熟しているようにふるまわなければならないときに成熟するということです。 |
333 | 親たちの葛藤を子どもが仲裁するときに 「子育て」は「子どもの成熟を支援すること」です。その一言に尽くされます。 そして、子どもが成熟するのは「折り合わないものを折り合わせる」ことにおのれの理性的・感性的な努力を集中することによってです。 |
333 | 折り合わないものを折り合わせるためには、「いろいろ違いはあるけれど、とりあえず「この一点」では一致している」という共通のプラットホームを探り当てなければならない。(中略) 「コミュニケーションのプラットホーム」を探り当てること。あらゆる対話はそこから始まります。そこからしか始まりません。 |
335 | 父親と母親とで進路や就職について意見が対立しているときに、どちらかに加担することは「ナカをとって」になりません。子どもは親のどちらか一方に向かって「あなたの教育方針は間違っていた」と告げることはできません。(あまりに気の毒ではありませんか)。どちらも傷つけることもなしに、親たちの対立を調停するためには、どちらとも違う選択肢を自分で見出して、その選択を通じて自力で幸福になって見せるしかない。それが親たちの創り出した葛藤の子どもによる仲裁の原理的な形です。それが成熟ということです。 |
338 | 両親の育児戦略は一致してはならない この点については、世のほとんどの親たちは深刻な勘違いをしています。(中略) 両親の育児戦略は違うんです。違って当然だし、違う方がいいんです。 こどもが葛藤するから。 |
340 | 育児の最終目的は「子どもが幸福に生きられるように支援すること」です。そのためには「幸福とはこういうことである」というような決めつけをしてはならない。子ども自身が自分の頭で考えて、自分の進退で感じて、「幸福ってこういうこと?」と発見する日が来ることを気長に待つことです |
341 | 親族の存続は人類にとっての最優先事です。ということは「例外的に賢い人が、必死の努力を払わなければ、うまくゆかないもの」として制度設計されているはずがない。そんなに品質管理のレベルを高く設定していたら、とっくに人類は滅んでいますよ。 人類学的に重要な全ての制度は「誰でもできる」ように設計されています。 |
347 | 「愛国者」とは誰のことか (自民党の片山さつき議員の発言を引用して)現代日本の用語法ではこういう人は自分のことを「愛国的」であると名乗ることが慣習化しています。 でも僕はこのような人のことを「愛国的」であると呼ぶことに賛成できません。 むしろ端的に「ゼノフォーブ」xenophobe「外国人嫌い」と呼ぶべきだろうと思います。 というのは、「外国人嫌い」の人は、必ずも「同国人好き」ではないからです。 |
348 | 自分と政治的立場を異にする同国人について、その処罰や排除を要求する心的傾向のことを「愛国心」と呼ぶのは言葉の使い方として間違っていると僕は思います。 だって、「国」が成り立つために「国民全員が同一の政治イデオロギーを共有すること」という条件は含まれないからです。(中略) 「私」と同じ考え方や感じ方をするものだけが「日本人」であり、違う考え方や感じ方をするものは「非国民」であるというロジックは「愛国」的な方たちがほぼ無反省的に採用するものですが、、これは原理的に無理筋です。(中略) 彼らが好きなのは自分の国ではなく、自分自身なのです。 |
350 | 悪は局在するという仮説 「ゼノフォーブ」の採用する社会理論は「私たちの社会の不調は、私たちの社会に入り込み、国富を収奪し、国威を損じている外国人たちである。だから、彼らを組織的には排除さえすれば、私たちの社会は原初の清浄と豊穣を回復するであろう」というものです。 この理論を徹底させた実例としてナチスドイツの反ユダヤ主義があります。 |
352 | 社会システムの不調はたいていの場合は制度全体の経年的な劣化と部品の疲労が原因であって、すべての要素はすばらしく好調で健全に働いているのだが、ただ一種「悪の要素」があって、それが入り込んでいるせいでシステム全体が機能不全に陥っている……というようなことは制度設計上ありえない。 でもゼノフォーブたちは「悪は局在する」という仮説を手放しません。 |
353 | 自滅の構造 ほんとうに強大な外国人、本当にその国を支配できるくらい強力な外国人は排外主義的な愛国者のターゲットにはなりません、例えば日本列島におけるアメリカ人は差別の対象になりません。 |
353 | そもそも日本社会のシステム不調の大半は「日本がアメリカの従属国であって主権国家ではない」という現実から派生しているわけですから、「アメリカ人こそ諸悪の根源である」という説を唱えてデモ行進したり、反基地運動をしたりする「ゼノフォーブ」がいてもいいはずなのですけれど、僕は見たことがありません。当たり前ですね。それはアメリカ人が「ひどいことを言って罵倒しても暴力的に差別しても、効果的に反撃してくるリスクがない」という条件を満たさないからです。 |
354 | 外国人を排除してみたけれど、さっぱり社会システムは好転しない。さて、そういう場合にゼノフォーブはどのように推論するでしょう。 それは、日本人の癖に悪い外国人の手先になっている奴らが「獅子身中の虫」となって、国を裏切る破壊工作をしているのだという説明を採用することです。(中略) そうやって「非国民」たちもどんどん排除してゆき、ついに「非国民」たちで強制収容所は満杯になりましたが、まだ社会システムの機能不全は(中略)解消するどころか、どんどん悪化してゆきました。(だってまともな働き手をどんどん粛清し、収容所に放り込み、頭の悪い「純正日本人」だけで社会を回しているんですから) こうなると、最後には、「非国民や売国奴を摘発していると称している自称『愛国者』たちの中にこそ、非国民や売国奴が入り込んでいるのではないか。『灯台下暗し』、私たち以外の自称『愛国者組織』こそが売国奴の巣窟なのだ」という自滅的な推論に導かれます。必ずそうなります。 |
355 | 排外主義的愛国者というのはそれに似ています。 |
356 | 「自分に反対するやつは外国人であるに違いない」という推論を自分に許した人間は、そのときに、自分以外の人間については、それが誰であれ、「外国人」だと名指しして、その排除と処罰を要求する権利を自分に賦与したからです。 でもその権利を自分に賦与するときに、その権利の正統性について、客観的な根拠に基づいた挙証をしませんでした。 だから、同じ権利を他の人達が要求してきた場合に、それを退ける方法がない。 自分には「外国人を恣意的に認定する権利がある」とした根拠は「だって、オレこそ申請の愛国者だから」という自己申請だけだったからです。自己申請を権原にして「愛国者」になった人には、他の「愛国者」の「だって、オレこそ真正の愛国者だから」という自己申請には適法性がないことを証明できません。 |
357 | 私たちは誰を「愛する」のか 「愛国心」は必ず国民の統合に失敗します。 それは愛国心の純度を「非国民リスト」の長さに基づいて考量したからです。「許せないやつ」の数が多ければ多いほど、愛国的情熱の純度が高いというルールでゲームを始めてしまった。それで国民的な統合を果たせるわけがありません。 「敵」を攻撃することを主務とする愛国心は結果的に国民を分断し、互いに対立させ、互いに憎み合わせるだけです。排外主義的愛国心は必ず国民的な統合に失敗する。 理由はもうおわかりでしょうが、「自分と同じ考え方感じ方」を集団の統合軸として採用したからです。最初のボタンが掛け違っているのです。 |
359 | 持続可能、統合可能な愛国心の基礎となるのは、「私とは考え方も感じ方も違う人間たちとも、私は共同的に生きることができる」という「他者を受容できる能力」です。 「他者を受容できる能力」というとなんだか抽象的ですけれど、要するに、よくわからん他人の良くわからない言動についても、「まあ、そういうことって、きっとあるんでしょうね。オレにはよくわかんないけど、と判断を保留できることです。 |
360 | 「きわめて緊密な一体感に基づく連帯」を標準にして制度設計してしまうと、それがうまく作動しないときには、「異物の排除」以外の社会的行動を選択することができなくなる。だから、「ゆるい」連帯が集団の統合を達成するためのシステムとしてはいちばん合理的なものだと僕は思っています。 |
360 | 「愛する」という行為は理解と共感の上にではなく、「理解も共感もできないもの」に対する寛容と、そのような他者に対する想像力の行使の上に基礎づけられたほうが、持続する。そういうことです。 |
トラブルは「問題」ではなく「答え」である 日中関係、日韓関係など、外交問題には必ず、互いに相反する言い分があります。意見や見解の異なる相手とのタフな交渉が求められる外交の場面で、日本人はどのような態度で臨むべきでしょうか。 |
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364 | 不機嫌なときの判断は大体間違っている 精神科の名越康文先生から教えていただいた名言ですけれど、「人間が不機嫌なとき、暗い気持ちのときに下した判断は、だいたい間違っている」 お金をめぐるタフ・ネゴシエーションはほとんどの場合、当事者たちを直ちに不機嫌にさせます。ということは、きわめて多く場合、当事者たちは全員がその時点においてすでに当該論件について誤った判断を下す可能性が高い。 |
364 | 双方が「自分が正しくて、相手が間違っている」と思っているところから始めるネゴシエーションは両方が冷静なときでも調停がむずかしいものですけれど、それに加えてすでに「むっとしている」という条件が加わるんです。もう無理ですよ。そのネゴシエーションではほぼシステマティックに「間違った言葉」「言わない方が良い言葉」だけが選択的に口にされることになります。 |
365 | じゃあ、どうして、そういうことをあらかじめちゃんと決めておかなかったかというと、その話をその人とじっくり話したくなかったからですね。(中略) |
365 | つまり、「お金をめぐるトラブル」が起きたということは、その相手とお金がらみの話になった段階ですでに「未来に高い確率でトラブルが起きることを、実は無意識のうちに予測していた」ということを意味しているのですね、これが。 だったら、その段階で、将来的なトラブルを未然に防止すべく、きちんと取り決めしておけばいいじゃないか、とお考えでしょうが、それができれば苦労はありません。 そもそもそいつが「キライ」なんですよ。なんとなく「虫が好かない」。だから、できるだけ一緒にいたくない。顔を付き合わせてあれこれ話をしたくない。 |
367 | そして、人間というのは(このフレーズ今日は多いですね)、自分の人物鑑定眼が適切であることを確認する事によってもたらされる快感を、話の行き違いのせいで生じる損害よりも重く見る傾向があるのです。ほんとに。 |
368 | トラブルは自分で招き寄せている トラブルに巻き込まれるみなさんは、しばしば(皆さんが想像している数倍の確率で)そのトラブルを無意識のうちに「自分で招き寄せている」ということです。 「嫌なやつ」とは一緒に仕事をしない方がいいと僕がいつも申し上げているのは、そういうことなんです。 |
369 | お金がらみのトラブルが起きるのは「きっとトラブルが起きるだろう」と思っているくせに、トラブルを予防するような措置を一切取らず、むしろ機会があるごとにこまめに相手を不快にするようなノンバーバールなサインを送り続けたことの「成果」なんです。 |
370 | だから、トラブルというのは「問題」じゃなくて、「答え」なんです。 |
372 | 面子をつぶされる人はあらかじめ決まっている |
報告・連絡・相談 ビジネスマンの心得らしいですけれど、こういうことを言い出す上司って、要するにそうでも言わないと「部下から報告が上がってこない、連絡がない、相談されない」やつです。嫌なやつだから。 報告するとこまかいことをつついてがみがみ叱るし、連絡入れると「すぐ帰社して残業しろ」とか、「いつまで道草食ってんだ」とかぶつくさ言うし、相談しても何一つ役に立つアドバイスをしてくれないどころか、「お前がミスしても、俺は責任取らんぞ」と逃げを打つような上司だから、誰も報告も連絡も相談もしに来ない。部下がこの人からのサポートが欲しい、アドバイスが欲しいとほんとうに思っていたら、ルール化しなくても、自分から来ますよ。 だって、部下が何より聴きたいのは「君の好きにやっていいいよ。責任はオレがとるから」という言葉なんですから。 |
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373 | 要するに、「面子を潰される人」というのは、「その人に会いたくない」と思われている人だということです。(中略) 人とトラブルが起きるのは、必然性があってのことです。それまでの「トラブル発生要因」が堆積して、ある閾値を超えたことでトラブルが現勢化した。 374 どうしたら面倒な人と一緒に仕事をするような目に合わないようにできるか、それを真剣に考える方がはる「かに費用対効果のいいトラブル解決方法なんです。 |
376 | 領土問題はなぜ解決しないのか (領土問題の解決には)戦争かあるいは「五分五分の痛みわけ」がある。「五分五分の痛み分け」)が採択されるには、厳しい条件があります。 両国の統治者がともに政権基盤が安定して、高い国民的人気に支えられている、ということです。 |
378 | 弱い政治家は国内の世論が不満を抱く(けれど、長期的には国益を増大させる蓋然性高い)政策を実行できない。逆に、長期的には国益を損なうリスクがあると知りながら、自分の政治的延命のためにナショナリストに迎合して、対外的に攻撃的な構えをする。(中略) どこの国でも、領土問題の炎上と鎮静は政権の安定度と相関します。 領土問題「から」話が始まるのではありません。領土問題は両国それぞれの統治がうまくいっていないことの帰結なのです。 |
常識の手柄 従軍慰安婦問題、憲法問題、隣国との歴史認識問題でも、立場が異なると、議論以前の「常識」が共有できないことが多々あります。異なる立場の人が話し合うためには、もっと常識を共有し、共通認識を作るべきだと思うのですがいかがでしょうか。 |
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383 | 非常識な人間に共通する特徴 エビデンスを示せないけれど、なんか「こういう場合、こういう状況では、妥当性がありそうだな」と思わせるような頼りない知見のことを常識と呼ぶのであります。 この「頼りない知見」の「頼りなさ」こそ常識の最大のメリットである。ぼくはそう思っています。 その逆の「非常識なふるまい」というものを考えれば、常識が何であるか、だんだんわかってきます。 |
384 | 非常識な人間に共通する特徴は「理屈をこねる」ということです。 「常識だろ、そんなの」という人間が「どうして常識なんだよ。根拠を示せよ」と言われると、つい絶句してしまうのに対して、非常識な人間はその非常識なふるまいの正しさについてあれこれと「それらしい」根拠を探してきます。これが常識と非常識の違いです。 |
384 | 常識が先鋭化しないのはなぜか 常識というのは期間限定・地域限定です。その期間外・その地域外には適用されない。 |
385 | 非常識な人というのは実は「一般的真理」「歴史を貫く鉄の法則性」に基づいてふるまっているのです。主観的には。だから非常識な人は頑固です。 |
385 | 非常識な人の語彙には「常識」も「非常識」もどちらも存在しません。 存在するのは「永遠の真理」と「永遠の誤謬」のふたつだけです。そして、ご本人は「永久の真理」の代理人でいるつもりですから、これはたいへんです。 非常識な人は絶対に謝りません。 |
387 | 常識は真理にも、原理にもなりません。常識の名において人を死刑にするとか、常識の名において戦争を始めるとか言うことは決して起こりません。その適用範囲がかなり狭いということを自覚した知見しか「常識」と呼ばれないからです。 |
389 | 「俺がルールブックだ」 常識はそれが汎通的妥当性を有さないときにのみ強い指南力を持つ 今、この場でしか妥当しないという有限性を代償に差し出すことで、常識はトラブルに「けりをつける」ことができるのです。 |
今、日本人が読むべき本七選 ここまで多くの、そしてちょっとしつこい質問に丁寧に答えてくださり、ありがとうございました。これが最後の質問になります。今、日本人が読んでおくべき必読書を教えていただけませんか。 |
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392 | 出てから半世紀近く経って、いまでも読まれ続けている本。これが「必読書」の第一の条件です。 |
392 | 「負託間」と「言及頻度」 第二の条件は、その書物が日本という国の本質に触れており、日本人の国民性格(「種族の思想」といってもよいかもしれません)の根幹にかかわる知見を含んでいること。 |
392 | 第三の条件は「それについて語りたくなる本」であることということです。 |
394 | 本の価値には学術論文と同じで被引用回数も深くかかわる。 |
395 | (観劇の後のおしゃべりのような)「負託感」と「言及頻度」に間には明らかに相関があると思います。私が語らずに誰が語るのか。 |
396 | 「誰でも言いそうな批判」を口にする人は、負託感を覚えてそうしているわけじゃない。自分が言わなくても、誰かが言うだろうと思っているんですね。たくさんの人が悪口言うはずだから、自分だけが個体識別されて「コノヤロー」と個人的に報復されたりする心配ないよなと思っている。 でもそうやって個体識別されるリスクを回避したことの代償として、この人は個体識別される可能性そのものを自分で否定している。(中略) 「自分がやらなくても、誰かがやるだろう。自分が言わなくても、誰かが言うだろう」と思っている人は、そう思うことによって自分の存在理由の土台を掘り崩している。 |
397 | もし、何か言葉を発する機会があったら、できれば「こんなこと言うのは、この広い世界で私ひとりではないか」と思えるような言葉を選択しほうがいい。 |
399 |
壮絶なリアリズムを表した本ばかりに 『断腸亭日乗』 永井荷風 |
401 | 『夢酔独言』 勝 子吉 日本の武士たちというのがどういうエートスの持ち主であったのか、それをしるなはこ「葉隠」よりむしろこの本の方がよいと思います。 |
402 | 『氷川清話』 勝海舟 |
403 | 『痩我慢の説』 福沢諭吉 |
404 | 『兆民先生』 幸徳秋水 |
405 | 『父・こんなこと』 幸田文 『戦艦大和ノ最期』 吉田満 |
406 | 僕が選んだ「日本人が読むべき本」はかなりバイアスがかかった選書でしたけれど、どうも「武士的エートス」についてのものばかり選んだようです 「武士的エートス」って、(中略)たぶん「信じるに値するもの」はそれを身銭を切って信じて見せる個人の誓言と信託によってはじめて「信じるに値するもの」になる、という壮絶なリアリズムのことなんでしょうね。 |
(終) |
書き抜き終了 2018/11/24
註 原著で傍点を振ってある部分は太字で示してあります。
2018/12/10 作成
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2018/12/08 作成