自作エッセイ集 第4部 ペルー出張記
初めてのアンデス


「初めてのペルー」

この旅行記は1998年8月末から一ヶ月間ペルー南部の地下水開発事業のために日本政府ミッションの一員として現地調査に出かけた時の記録である。


第一話 フジモリ大統領

 アルベルト・フジモリがペルー大統領に就任して以来、テロ組織のMRTAやセンドロルミノソ(SL)の活動が徐々に弱まってきている。その理由として、テロリストの指導者を逮捕したことと、それまでにはなかった貧困地域住民へ施策を通じて援助を与えたりしたため将来に希望が持てるようになり、テロリスト離れが進んでいるとのことである。

 数年前に国税庁を新設し18%の消費税も付加するようになり、それも国庫収入を増やしている原因である。脱税ができないように、商店や企業などには背番号を与えている。
 さらに、思い切った行政改革を実施し漁業省では6000人いた職員を200人に減らしたり、毎年試験を実施し官庁の職員数を減らしていることが、政府の財政を助けていると聞いている。
 フジモリが大統領になった時に、日系人たちはテロに会うのではないかと心配していたが、それは厳しい取り締まりのため、杞憂に終わっている。日系人の中でもフジモリは有名ではなかったので当選時には日系人たちがおどろいたとのことであった。

 いつもの曇り空の下でリマにある日本大使公邸跡を外側から視察してきたが、まだ銃弾の穴が扉には残っていた。おりしも同行の一人があの事件に巻き込まれていたので、同氏が「ここの扉から走って逃げて、前の家の植え込みに隠れた」とか、「この位置に立っていた時に銃撃戦が始まりその場に居合わせた人たちが道にうつぶせになって難を逃れた」と当時をなまなましく再現してくれた。
 特殊部隊がトンネルを掘って地下から官邸に突入したことは周知の事実であるが、ここペルーの人たちは実にトンネルが好きで掘削も巧みである。これは鉱山用坑道のトンネル技術が進んでいるためであるとともに、リマでは固い岩盤層が地表近くにないので掘りやすいためであったろう。また雨が少ないために、水で地盤が緩んで坑道が崩れる心配が少ないという気象的原因もあろう。
 官邸から約百メートル先に高層アパートがあり、そこの部屋を一晩$1000で借り切った報道関係者もいたとのことであった。いまは静かできれいな高級住宅街に戻っており、正門の前に警備のパトカーが一台止まっていただけであった。
 時々、駐ペルー日本大使も観光地になってしまった官邸を見に来るようで、しばらく乗用車の中から見るだけであるとのことであった。

第二話 CHIFA(中華料理店)

 CHIFA(チーファ)とはペルーでしか通じない中華料理店を意味するスペイン語(ペルー語)です。

 ここ数年このチーファが急激に増えてきているとのことでした。というのは中国人が一旦ペルーに入って数年滞在しその後アメリカ合衆国に行くのだそうです。ペルーに滞在している中国人が生計を立てるためにお得意の中華料理店をたくさん開いています。彼らはほとんど広東出身です。従って中華といっても広東料理が主になります。

 残念ながら、日本料理は昼の定食が2000円と高いのと、ペルー人の舌に合わないためか、ペルー人たちは日本料理店よりこのチーファによりたくさん入っています。ペルーの日系人もチーファが好きなようです。

  以前は日系人はインディオの女性と結婚する人が多く、中国系人は昔奴隷として売られてきたアフリカ人女性と結婚する人が多かったそうです。 

第三話 高山病と食べ物

 下山したあとペルー人たちと海岸のレストランで昼食を取りました。僕らはスズキの料理に舌鼓を打っていたのですが、ペルー側の代表は「僕は魚がだめなんだ」とビフテキを食べていたのです。それを見た仲間の日本人が「そうか。だから山の上ではチキンばかり出していたのだな」と皮肉を言うと、この紳士は「そうではない。山の上では消化に良いものを出さなくてはならないからなのだ」とこれもまじめくさって言ったのでその真剣そのものの答えに一同大笑いをしました。

 筆者も標高4,600mでの昼食後に頭痛と吐き気がしはじめました。というのは、高地ではわりと空腹にしていた方が高山病になりにくいのだそうです。そう言えば山道で見かけるインディオの人たちには肥満体が少ないようです。あーそーか。良く働き、良く歩くからだ。

第四話 トイレとティッシュペーパー
 ペルーではトイレの中に必ず蓋付きのくずかごがあります。パレスチナでも便器から見て同じ位置にくずかごが置いてありました。これは使ったトイレットペーパーを便器には流さずにこの籠に入れるようになっているものです。

 というのも、ペルーでは簡易浄化槽を使ってトイレの排水を処理しているので、紙を流すと途中で詰まってしまうからです。これはパレスティナやインドネシア、マレーシアでも同じでした。筆者は紙よりも水で洗い流す方が好きなのですが、なかなか手桶を置いてあるトイレはありませんでした。

 ペルーの太平洋岸のほとんどは雨の降らない砂漠・土漠地帯で水が極めて貴重です。パレスティナも同じです。インドネシアやマレーシアは水が豊富なうえ、イスラムの教えに従い昔から用便後に水で洗い清めることになっているからトイレ兼風呂場に手桶が置いてあるのです。

 旅行者のみなさん、トイレットペーパーはゆめゆめトイレに流さず、ちゃんとくずかごに入れましょうね。

 【後日談】

 ペルー南部の水道公社を回って調査した結果、大きな町では水資源を有効利用するために、各戸の簡易浄化槽で汚水を処理するのではなくて、汚水処理場がちゃんとありました。でも古いシステムのトイレが多いので、排水管が詰まる恐れがありますから、くずかごに捨てるようにした方が安全です。 

第五話 道路測量とロバ
 通訳をしてもらっている日系人の土建屋さんから聞いたジョークです。

 アンデスの高地に道路を作るために測量技師たちがトランシットと箱尺をもって測量をしていました。それを日がな一日見ていたインディオのおじさんが彼らに、何をやっているのかと尋ねました。かれらはもちろん、道路を作るための測量だと答えたのです。

 これを聞いたインディオのおじさんは頭を振り振りつぶやきました。「学校を出たといってもなんてアタマの悪い奴等だ。学校なんか行かないワシラが道路を作る時にはロバを先に歩かせて、ロバが一番楽に歩けるように道をつけるのだが………」と。

第六話 白い自動車
 リマはともかく、長く滞在したタクナの町では白い自動車が多く目に付きました。それも中古カローラのステーションワゴンが多かったのです。このワゴン車は個人用ではなくて、多くはタクシーとして使われていました。

 白い自動車はどういう訳か、塗装の途中であり完成車としてみなされず輸入関税が安いのだそうです。

 このワゴン車はタクシーとして使われているために、燃費を安くするためにディーゼル車がほとんどでした。

 また、ペルーは右側通行なので、法律上左ハンドルにしなければなりません。陸揚げ後にハンドルを付け替えるために、日本からの中古車は港の埠頭から改造工場までナンバープレートをつけずに道路を走っていたのを沢山見かけました。

 中古車を陸揚げしている地域では、ハンドルの付け替えを技術が進んでいるとのことで、椀ボックス車やマイクロバスの扉の左右付け替えも簡単にできるとのことでした。特にマイクロバスのボディーには日本語で会社の名前が入っているもの、ドアガラスに「非常口」などと書かれたものがたくさんありました。現地の人は日本語も漢字も読めないので、それを恥かしいとは感じず、ただの模様と理解しているようです。

第七話 そばかす美人
 さて、お待ちかねのウーマン・ウォッチングの報告です。 

 ペルーでは各種の人種が交じり合っています。野菜スープ風に混じっているというよりも、煮すぎたビーフシチューのように、原形を留めないほどになっています。ですから、スペイン人顔をした人から、まるで日本人、まるでインカ人という人までグラデーションのようになっています。 

 スペイン系は白人と言っても小柄ですから、その血を引いているでも一概に小柄です。背は低くても幅は普通の白人程度ありますから、どうしても男女を問わず短足に見える人が多いように感じました。
 短足ということは、胴に対して足が太く見えるということになります。ですから、脚を少しでも細く見せようとサポートタイプのストッキングをたくさんの女性がはいていました。このタイプのストッキングは反射光が普通のタイプとちがいますから、すぐ分かりました。
 でもスチュワーデスさんたちはすらっとしている人が多かったのはどうしてだろうか、という疑問も残ります。

 また、インカ人の血が混じっているせいか、町で見掛ける事務所勤めの女性たちの肌の色を平均すると日本人よりも幾分色黒のようでした。インカの人たちはモンゴロイドと言われていますが、アジアの人たちに比べると幾分か鼻が大きいのに気づきました。

  日本ではソバカスは「シミ・ソバカス」と呼ばれるように、女性たちの敵ですが、ペルーではセクシーなほくろとともに「ソバカスはかわいい」と言われているようです。

第八話 ペルーの不思議な存在 (1/3)


 【邸宅の窓から】
 東京を出発する前に、ペルーでのテロとテロリストの話を散々聞かされて、脅かされていました。今はもちろん平静ですが、筆者のグループの乗る車には警察の特殊部隊が前後についていたのです。ですから、夜の社会探訪のチャンスもまったくなく、不自由な生活を強いられました。

 最初の日にびくびくしながらホテルを出る時に、テロリストのようにこちらを見張っている視線を探したところ、ホテルの筋向かいの古い植民地風な邸宅の二階の窓のひとつからそれを感じました。その夕方も翌日もまったく同じ位置から同じ視線を感じたので、「あの窓の中に警備の見張りがいるのか」と通訳を介して警備の警官に尋ねてみると、いないとのことでした。

 一般的に言って人間や動物の視線は時間とともに変化するものですから、この視線は人間のものではありません。ということは「不思議な存在」の発する視線ということになります。この視線は筆者が帰国するまでずっと消えることはありませんでしたが、前を通るたびにソレに挨拶していたので、最初の鋭い視線がだんだんと柔らかくなって来ていたのを感じました。たぶんこの窓の近くで誰かが自殺したか、殺されて、世間に恨みが残っているのでしょう。なまなましい視線ではありませんでしたから、この事件は数十年前に起こった事のようです。

 最初の日にホテルにチェックインした直後に瞑想をしたところ、周りからの視線をまったく感じませんでしたし、リマの街の中にあるプレインカの遺跡の前を通ってもあまり「不思議な存在」の視線を感じることはありませんでした。今まで滞在した世界の町の中でも、この「不思議な存在」、オバケの人口(?)密度がこれほど低いところはありませんでした。最近、滞在したことのある各都市の住宅地のオバケに関連する事項を比較したのが、次の表です。

調査項目 リマ テヘラン 東京 ジャカルタ
お化け(霊)の密度 低い 低い 高い 最も高い
湿度 最も低い 低い 高い 最も高い
樹木の量 最も少ない 少ない 少ない 最も多い
人口密度 少ない 最も少ない 多い 最も多い
その地域に人が住んでいた歴史 短い 短い 短い 長い
 人口密度と樹木の量がオバケの分布に関係してくるのではなかろうかということがわかります。ということは、人間たちがオバケを生産していることと、オバケは樹木にたかる傾向があるということが言えます。

 
【オリーブ公園の巨木】

 リマ市内には、樹齢500年を越えていると思われるオリーブの巨木が数十本生えている公園があります。このオリーブはスペイン人がリマに入植した当時の農園に植えたもので、約150年前にチリとの戦争の際に途中から切り倒されてしまったものでした。

 いまでは、立派に枝葉が付いていますが、樹齢500年の幹の部分には、その長い歴史を刻んでいる不気味なしわや窪みがたくさんみられます。

 このオリーブ公園のまえを通るたびに、「邸宅の窓からの視線」と良く似た視線を感じました。帰国する前日に公園の前を通りかかった時、ちょっと気になったので、ゴンザレス、アルベルト、ホセ、ラミレスなど思いついたスペイン風な名前をあげて老木に名前を呼びかけてみました。すると、答えがあったのです。自動車で通り過ぎただけですから、詳しくは調べることができませんでした。もし時間があったら、数日かけて老木一本一本の名前を確かめて「住民台帳」をつくってみたいなあと思っています。


【プレインカの線刻画】

 ペルーではインカ文明が発達する前にプレインカ文明がありました。この文明の人たちが作ったと思われる、大きな石に刻まれた線刻画がみられるところが、ペルーの海岸に沿って数十個所あります。

 今回の旅行の目的地は偶然この線刻画があるところに近い都市でした。土曜日に考古学専攻の大学生(スタイルが良くハンサムで上品な男子学生でした)をガイドにして、マジックランドと名づけられたこの土地を訪れました。

 ここは広い扇状地の端に位置していて、涸れた川、ワディ、の中にあったのです。川は、昔からアンデスの人たちが往復するための道になっていましたので、古代人の活動の跡があっても不思議ではありません。このガイド君がいうには、この一帯は磁場的にも特殊で、携帯電話が使えない特殊な地域です。 

 ここに線刻画が多い理由として、アンデスの人たちの宿場になっていた、山と海の民の領地の境界ではなかったのかということを上げていました。

 ワディの左岸にある入り口から入った我々はガイド君の案内で下流側にそれていきました。上流側に特異地点があったのに筆者は気づいていましたが、残念ながらこの地点の現地踏査はなりませんでした。

 筆者が瞑想を好む事を知ったこのガイド君(彼は英語がしゃべれたのですよ)は、宗教団体の人たちがその上でよく瞑想をする大きな石の前に筆者を連れて行き、「何かを感じるか」と尋ねます。「ものすごく悪い波動が出ている」というと、「そのとおりです。この石は人間を殺して神に捧げた台だ」というのです。この石には他の石よりもよりたくさんの線刻画がほられていました。


第九話 ペルーの黒魔術

 ペルーは、五百年くらい前にスペイン人によって征服された時にインカの人たちが沢山虐殺されました。この怨念が沢山残っていて、さぞかしインカ独特の技法による黒魔術がまだ残っているだろうと期待して、通訳さんに尋ねてましたが、都市部では伝統的なインカの黒魔術はなく、ペルー北部のアフリカ渡来の黒魔術があるだけとのことでした。 

 第十三話の【プレインカの線刻画がある場所】は、残留している怨念かみると、黒魔術を行った場所であるはずですが、今になってはその技法は忘れられてしまっているようです。というのは、インカ文明は文字がなく通信は「紐結び」でやっていたということで、文書としては残っていないようです。

 この通訳さんは熱心なカトリックですので、黒魔術についてはあまり話したがらないようでした。次回ペルーにいった時にまた調べてみようと思っています。

第十話 ナスカの地上絵

 あの有名なナスカの地上絵の発見者は、筆者と働いていた通訳さんの近所に住んでいた、本屋をしていたポルトガル移民のおばさんだったといいます。
 ナスカの砂漠に沢山の線があるということはだいぶ前に発見されてはいましたが、それが絵であることはこのおばさんが発見し地図まで作ったのですが、世間に認められず、気違い扱いされていたようです。

 この地上絵は線があまりに細く、筆者の乗ったジェット機の飛ぶ高度10,000mからは識別できませんでした。 
 ちなみに、晴れた夏の昼間では、この高度では幅6mの道路は識別できますが、走っている車は分かりません。大型バスやトラックの屋根の色が識別できるのは3,500mくらいからです。
 飛行機のコクピットからは50km前を同じ空路を飛んでいるジャンボ機、空路を横切るジャンボ機は100kmまで見えるとJALの機長はいっていました。 

 話を地上絵に戻しましょう。
 リマの国土地理院で業務上で地図を買った際に、このナスカの地上絵の地図も買い求めました。この地図には、「空飛ぶ円盤の滑走路」といわれている長い四角形や無意味と思われる線があちこち走っていました。 サルや鳥、クモなどの絵は広いナスカの大地のほんの一部に描かれているだけです。
 この地図を見ていて感じたのは、この図形は地上で測量して作られたものではないということです。宇宙の一点からレーザーシューターで描かれたようです。無意味と思われる線はレーザーシューターをチューニングする時に失敗したものですからもちろん無意味です。また我々が絵と認識している図形は、コンピューターで元の図形を作ってそれをレーザーシューターで地上に投射したというように思えませんか?
 誰がこんないたずらをしたのかは分かりません。

第十一話 ペルーのお地蔵さんとお稲荷さん

 ペルーの街道を走っていて気がついたのは、道端にある小さな祠と十字架でした。その前には献花してあるものも見かけました。試しに「交通事故がここであったのか」と尋ねると、そうだとのこと。今まで十数ヶ国を旅していますが、日本以外でこのような祠があったのはペルーだけでした。

 なんとなく日本の交通事故現場にある鎮魂のための小さなお地蔵さんのような気がしませんか?

 スペイン本国やその他のカトリックの国々でも同じような「キリスト教のお地蔵さん」を置く風習があるのでしょうか。

 筆者が働いていた政府の事務所に入ってみるとその敷地内に、なななんとピンクの祠があるではありませんか。ちょうど日本でいうお稲荷さんのような場所にあります。中を見ると、もちろん白いコンコン様ではなくて、マリア像が入っていましたが。

 このマリア像は埃をかぶっていました。あまりお参りする人たちがいないのでしょうね。

 マリア様については「第十七話 ペルーのカトリック信仰」に書きます。

第十二話 ペルーのカトリック信仰

【教会が山の中まである】  
 今までの十数年間に筆者が働いていたのは、日本以外では、インドネシア、イラン、シリア、ヨルダン、マレーシアなどのイスラム国とネパールでしたから、カトリック教が普通のペルーでの宗教の社会への影響に興味を持ちました。
 ペルーを旅して分かるのは山の中の小さな村にまで教会がたくさんあることです。インカの宗教はどこに行ったのでしょうか。

 征服者の持ち込んだカトリックが国の隅々まで入り込んで、人々の生活に根を下ろしています。別な言い方では、人々を支配しています。
 ヨーロッパを支配していたキリスト教、特にカトリックは昔から布教に熱心で、宣教師達は植民地化の尖兵となって働いてきたことはかれらのローマ法王宛てに提出した記録からわかります。
 スペイン人がインカの征服の際に持ち込んだ鉄砲は、当時の最先端の科学技術でした。その科学技術の元になったのがキリスト教だとインカの人たちは思い込んだのかもしれません。
 同時期に、スペイン・ポルトガルは世界に拡大政策を取りついにはアジア東端の日本にも渡来して、鉄砲とキリスト教を伝えました。しかし、日本はインカと異なり、中国を通じて世界の事情に通じていたことと、ある程度の武力があり、かつまた本国からは遠かったために彼らの征服を免れたのだろうと思います。

 彼らの征服を逃れただけではなく、鉄砲という先端技術は当時の日本の技術的・政治的状況にぴったり合ったのでそのまま吸収されてしまい、先端技術を持っているという征服者たちのアドバンテージは日本では有効ではありませんでした。
 もうひとつに、征服者たちが日本に渡来する前に、日本では世界宗教のひとつである仏教が広まっていて、民衆に仏教哲学が理解されていたため、体系の異なるキリスト教はなかなか浸透しにくかったのでないかと思います。 
 一方、インカ帝国ではその両方が欠けていたこと、さらに「神様(ピラコチャ)は大柄で白い肌で金髪だ」ということが言われていたために、やすやすと征服されてしまったのでしょう。

【聖母マリアが信仰対象である】  
 ペルー滞在中にマリア像のあまりの多さに呆れてしまいました。これじゃ、キリスト教ではなくて「マリア教」です。
 本来なら、キリストの像もいけないのですが、ちょっとオマケしてキリストの像に向かって礼拝を行うべきなのですが、ペルー人達はマリア像に向かって礼拝していました。 

 新約聖書にかいてあることを抽出してみると、パレスチナにあるガラリア湖から少し西に離れたナザレ村生まれのマリアは16歳の時に懐妊して17歳でイエスをベツレヘムで産み、彼女が50歳の歳にイエスが殺されたのです。
 新約聖書の内容を全て真実とすると、彼女は確かにイエスの母親でしたが、聖人でも使徒でもありませんでした。それにもかかわらず、ペルーに入る前のカトリックがマリアを聖母として崇めていたのは、ヨーロッパに古くから伝わる女神信仰がその根底にあったのかもしれませんね。 
 また新約聖書ではマリアは黒髪であると書いてあるにもかかわらず、マリア像の髪の色は茶色でした。

 もし、濃い茶色を黒と新約聖書時代の人たちが認めていたとすると矛盾が生じます。というのは、その当時でも漆黒の髪の人たちは沢山いたでしょうし、髪の色は彼らが他人を識別する際の重要な判別手段でしたでしょうから。現在のパレスチナ人(ユダヤ人と人種は同じで、頭を剃って裸にしたら現地人でも全く判別できない)には、少しモンゴルの血が残っているので、髪の色が黒の人が多いとも言えますが、サウジのアラブ人にも黒髪の人が多いので、この仮説は間違っていると言えましょう。

 じゃあ、何故マリア像の髪の色は茶色かというと、やはりヨーロッパの「女神信仰」がここでも表れているということになると思います。というと、北欧では金髪碧眼のマリア様になっているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

【教会とモスク】  
 ペルーで意外に思ったのは、教会の建物がイスラムのモスクに似ていることでした。もちろん、どちらも中東の乾燥地帯に発生した宗教であり、パレスチナとアラブでは気候が似ている故、食べ物も文化も似ていることは否定できません。また、両方の地域は気候が似ているためと地質が同じなため、建物の建築材料も似てくることは否定できません。大きな木がなかったので、長い丈夫な梁ができなかったこと、加工しやすい石灰岩が簡単に入手できたことが、その理由でしょう。モスクも教会も屋根は大きなドームです。これは、その部材に、曲げと引っ張り力に強い木製の大型の梁が得られなかったことから、圧縮には強い石材を使って、構造的には全ての部材に圧縮力しかかからない丸いドームという構造にしなければならなかったという技術的問題があります。

 一方、モスクは、もともとのキリスト教会を改造したり増築したりしたものが多かったので、意匠的に見ても、モスクのデザインは中東にあったキリスト教会のデザインに酷似することは当然です。あるいは、スペインは長くアラブに支配されていたので、当時の進んだアラブ建築様式をスペインのカトリック教会に適用したのかもしれません。バルセロナ、アンマン、アレッポ、イスタンルといった筆者が訪ねたことのある町には必ずそっくりの町角がありました。これもアラブとオスマントルコの影響なのでしょう。

【女性信者のベール】  
 漠然とは知っていたのですが、そここにあるマリア像を見て改めて気づいたことがありました。
 それは、ベールを被っているということでした。

 新約聖書では、女性たちがベールを被っているという記述が随所に見られます。これはパレスチナのみならず、乾燥地帯の服装なんです。強烈な太陽の紫外線と白い石灰石の建物からの反射光、乾燥した暑い空気から肌や髪を守るために露出部を全て覆ってしまうのが生理的に見ても最適の方法なのです。これが今でも生きていて、チャドルとかへジャブとか呼ばれている中東の民族衣装になっています
 このベールが、ヨーロッパの太陽の紫外線が弱い地域でだんだんと薄く、短くなっていき、ついにはカトリックの女性信者の被る現在のベールになったのだろうと思います。
 今度カトリックのシスターに会ったら、イスラムの女性たちの服装を思い出してみて下さい。よく似ていますから。シスターの制服は、少なくとも仏教の尼僧の服装とは全く違いますよ。 

【そこここにキリスト像がある】
 大きなキリスト像がそこここの町外れの丘の上にありました。この像は両手を前に広げて、「迷える子羊よ、我が元に集え」と言っているようです。新約聖書では、イエスキリストはひげをきれい剃っていたという記述をよく見掛けますが、この像のキリストはひげもじゃでした。
 「こいつらキリスト教徒のくせして、いったい聖書のどこを読んでいるんだ」と言いたくなります。しかし、カトリックでは長いこと一般信者には聖書の本文を見せませんでしたし、仮に信者が見たとしても、ラテン語でかかれていたので理解は不可能でした。
 また、聖書の記述を正しく理解することは一般信者にはできないといった理解も、カトリックにはあったような気がします。それはそれで歴史から見て正しいとは思いますがね。 

 ナントカカントカ言っても、この白い大きなキリスト像は、筆者に高崎観音を思い出させました。

【山の上の聖堂】

 アンデスの山中の村外れの丘の中腹に、屋根の上に十字架がついた奇妙な建物がありました。

 同行の友人に尋ねると、お墓であるとのことでした。アンデスの谷間には平地が少なく、その平地も農業に使っていますから、不便だけれどどうせ出歩くことのない死人には集落から遠い丘の上にでも住んでもらおうということでしょう。

 でも、この丘の斜面で土砂崩れが起きたらお棺ごと谷間におっこちてくるのではないかと小心な筆者は心配しています。乾燥地帯ですから遺体はミイラになっていますからなおさら気持ち悪いのではないでしょうか。

【日系人に見る宗教】

 日系人の通訳さん達に尋ねたところ、ペルーの日系人の間には仏教徒もいるにはいるのだが、ちゃんとしたお寺がなく、住職もいないということでした。お寺らしきものはリマ郊外の日本人墓地の近くにあるだけだと聞いています。

 仏教系の宗教としては創価学会で有名な日蓮正宗が、キリスト教系では統一教会が布教活動をしているようですが、あまり成功していないようです。

 日系の一世がだんだんと死に絶えていく上、二世以降はペルーでは一般的なカトリックに入る人が多いとのことです。結婚相手が日系人でないとたいていカトリックですから、意識的に無宗教な日系人は、配偶者の信仰の方に惹かれるのでしょう。

 もちろん、世界的な傾向として若い世代の宗教離れが進んでいることも言えます。

 このような日系人に対して、古くからペルーに住んでいる中国系の人(華人)たちは、華人同士で通婚する場合が多く、宗教も生活も中国スタイルを今でもしっかり守っていると言います。これは東南アジアの華人も全く同じ傾向にありますから、信じられます。

 世界史の時間に習ったと思いますが、600年前には山田長政に代表される数千人の日系人がバンコクに住んでいて、リトルトーキョーのような物があったとのことです。同時期には華人たちもチャイナタウンに住んでいました。しかし、華人たちは今でもしっかり生き延びて、彼らの文化や氏を守っているのに対し、日系人達はタイ社会に溶け込んでしまって既に消え去っています。
この違いはどこから出てくるものなのでしょうか。

 筆者の約15年間の在外生活からこんな風に考えています。

@中国人は「チャイナ・アズ・ナンバー・ワン」と考えている。

A歴史上官民族以外の政府が度度あったので漢民族を中心とする中国人たちは政府はどうでもよく、自分の商売・生活に重点を置いている。

B新しい商品の創造よりも、既存の商品の「価値創造」を得意にする人たちが多い。

 @の理由から派生することは、自分の価値観を変えることができないのですべて中国式にやらなければ気が済まない。現地社会の風習を無視しようとするために、現地社会と摩擦を起こすことである。

 Aの理由から派生するのは経済第一主義である。以前日本人がそう言われたが、中国人たちは数千年前からエコノミック・アニマルであるために、熱心に働く華人たちは成功していることが言える。一方、別の視点からは現地社会に食い込んで現地社会から富を吸い上げることにより東南アジアでは現地人との所得格差を大きくしている。

 Bの理由から、日本人は工業に向いていて中国人は商業に向いていることが言える。工業は価値の創造の傾向があり、国家経済全体のパイを大きくするが、商業はその大部分で富の分配をするだけではないかと思う。 

 このように、日本人と中国人では国民性の違いが大きく、それが上に書いたような日系人の消滅の原点になっているのではないだろうか。


第十三話 ペルーに見る人種的偏見


 1998年5月にジャカルタで暴動があったことを読者の皆さんはご存知のことと思います。筆者はちょうどその時にジャカルタにいて、華人への人種的偏見をひしひしと感じました。

 ペルーでも人種的偏見と経済的不満から同じ事が起きるのではないかと心配して、ペルー人の間に人種的偏見があるかどうかを尋ねたところ、特に人種的偏見はないとのことでした。

 というのは、移住者とインカ人たちの混血が500年も前から始まっていることと、ペルーの気候風土から、隣国のチリやアルゼンチンなどとは異なり、ヨーロッパからの移民があまり増えなかったことが言えると思います。

 スペイン系やインカ系とか言っても、あまりに混血の歴史が長いために、顔かたちによる差別がなくなっている一方、事務員は高学歴の人が多く、一般作業員は低学歴の人が多いなど、教育程度による区別があるとのことです。高学歴の人たちは都市部に多く、低学歴の人たちは山間部に多いことと、インカ系の人たちは山間部に多く住んでいることから、結果として低学歴はインカ人に多いことになってしまっています。

 山間部では生活が苦しいので、インカ人たちは職が見つかりそうな都市に下りてきて生活をしています。低学歴で低所得なため、どうしても町外れにスラムを作ってそこに住むようになり、貧困が山間部に残るとともに都市スラムとして発生してきているのが、最近の傾向です。

 これもフジモリ政権の頭痛の種になっているようです。 

 古くからペルーにいる日系の人たちはスペイン系の人たちと同じように街の中に散らばって住んでいますが、新しく来た中国人たちは、もともとあるチャイナタウンとそれに隣接するアパートにまとまって住んでいるようです。ここに中国人と日本人の国民性の違いが出てきています。


第十四話 荷物の取り違い

 帰国の際にはリマからニューヨークのJFK空港まではアメリカンエアラインズを使った。

 我々は全員五人で預けた荷物は九つであった。 

 バゲジクレームで荷物を受け取った後、空港ビルの出口付近でホテルのバスを待っていた。その間に、海外は十年ぶりの同行の友人であるアキレス君が一つのスーツケースを開けようとカギをがちゃがちゃさせていたが、突然真っ青になった。聞くと荷物を間違えて持ってきてしまったとのことであった。 

 この荷物を慌ててバゲジクレームに戻しにいったのだが、途中のゲートで止められてしまい、「バゲジクレーム」と書かれた待合室でしばらく待たされた。その間に彼の持ってきてしまった荷物のオーナーであるペルーの婦人とも会い、陳謝した上彼女の許しも得たのだが、自分の荷物がでてくるまでの時間がとても長かった。まるまる二時間はかかったであろう。

 みなさん、荷物の取り間違いには十分注意しましょう。間違わないように、かつ間違われないように、あまり一般的には多くない目立つ色のスーツケースを使いましょうね。

 さらにスーツケースの目立つところに自分用の大きなスティっカーを貼っておくと間違えが少なくなります。スティカーはプリンターでカラー印刷したものに接着ビニールで覆った上、両面テープで全面的にスーツケースに貼り付けると頑丈です。両面テープが付かない布製のスーツケースには、名刺大の透明塩化ビニール板にスティッカーを貼り付け、それを小さなベルトでスーツケースのハンドルに付けることをお勧めします。


第十五話 食料危機と食べ過ぎと

 今回の出張は短期間であったために、会社では特別に宿舎を設営せず、ホテル宿泊となった。ホテル泊りとなると面倒なのが食事である。そのつど毎晩何を食べようかと悩んでしまう。もちろんスペイン語は全く分からないからメニューも分からない。ウエイターに質問しようとしてもスペイン語が分からない。ヘレンケラーそのものであった。

 さて、リマでも食事の量が多いと感じたのだが、出張先のタクナというペルー最南部の町では、めちゃくちゃに量が多いのである。筆者は「大食らい」を自称しているが、全く歯がたたないほどである。一人前を注文しても日本人二とっては二人分は充分ある。

 このように食料を沢山使ってしまっても良いものだろうか?という疑問が湧いたのだった。

 イランでも同じように大量に食べるし、ヨルダンでも全く同じであった。一方、ヨーロッパの先進国では食事の量が多くなかった。さて、この「一人前の量」というのはどうやって決めたのであろうか。

 まず、食材の供給が多いか少ないかで決ることが言えるだろう。食べ物が少ない地域では、それほど沢山客に出すわけにはいかない。次は、お客が要求する量とその価格がつりあったところで落ち着くことが言える。

 ではお客が要求する量はどうやって決ったのであろうか。中東からヨーロッパにかけてはコーカソイド種、普通は白人と呼ばれる人たち、が分布している。一方、ミャンマーから東はモンゴロイド、普通は黄色人種と呼ばれる人たち、が分布しており、ユーラシア大陸の東半分の人たちはそれほど大食いではない。とすると人種によって食事の量が決るものなのであろうか。ペルーもスペインの植民地であったしスペイン系の人たちが多い。とすると、ペルーの食事が多いのはコーカソイド系の文化を引きずってきている理由なのではないかと推測する。

 この話をペルー人にしたところ、米国では食べ物の量がもっと多いと言う。たしかに米国ではなんでももっと多いし大きい。

 

 中東からアメリカ大陸までは世界の総人口の1/3を占める二十億人が住んでいるだろう。この人たちが食料をアジア人の二倍消費しているとなると、この人たちが食事の量を少し減らすだけのことで世界の食糧危機は回避できるのではないだろうかと思ってしまった。

 しかしながら、食事の量は単一的に決るものではなく各個人の満足度によるものであり、理性ではなく感情で決るものである。即ち、食糧危機は人間の意識革命をすることで解決できるのではないかと、4000mを越えるアンデスの高原ではからずも考え込んでしまったのである。

 

「初めてのペルー」(完)


2009-10-15 作成
2015-03-24 作成 

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