嗚呼、インドネシア
第91話インドネシアの懐メロ
アーチスト編
Group Y

Group-Yには以下のアーチストが含まれます。
Yasir Syam
Yok Koeswoyo
Yon Koeswoyo
Yuni Shara

Yasir Syam
シンガーソングライター
Mutiara yang HilangとKerinduanの作者

Yok Koeswoyo
歌手・ミュージシャン・作曲家
本名Koesroyo Koeswoyo、呼び名Yok Koeswoyoは東部ジャワ州トゥバンで1943年9月3日にうまれた。
彼は音楽バンドKoes PlusとKoes Bersaudraのメンバーの一人であった。彼はベースギターを演奏しつつコーラスを担当していた。

幼少時
YokはRaden KoeswoyoとTuban出身のRr. Atminiの間にできた9人兄弟の七番目であった。兄弟の構成はこうである。
• Tituk, 女児・夭逝
• Koesdjono (Jon 別名 John Koeswoyo)
• Koesdini (Dien)
• Koestono (Ton 別名 Tonny Koeswoyo)
• Koesnomo (Nom 別名 Nomo Koeswoyo)
• Koesyono, (Yon 別名 Yon Koeswoyo)
• Koesroyo (Yok 別名Yok Koeswoyo)
• Koestami (Miyi)
• Koesmiani (Ninuk)

家系図から彼らはTubanのSunan Muriaから数えて七代目 に含まれることがわかる。 彼らの母親はオランダ時代のTuban県令の姪にあたる。
Yokはその幼少期家族と共に東部ジャワ州のTubanで過ごした。1952年にKoeswoyo家族は内国省勤務の上級国家公務員父親の転勤でジャカルタに転居した。ジャカルタで彼ら一家は南ジャカルタのKebayoran Baru Blok CのJalan Mendawai III NO. 14に居を構えた。

Yokも小さい時はかなりワルガキであったが、失神するまで兄たちに殴られたことのあるすぐ上の兄のNomoほどではなかった。Yokのやった最大の悪事は角材で相手のNomoの頭をたたいたことであった。Yokの最終学歴はジャカルタのTriguna高校であった。彼は兄弟たちと人生を共にしようと音楽の世界を選んだので大学へは進学しなかった。

芸能経歴
Koes Bersaudara
Yok KoeswoyoはKoeswoyo兄弟たち(ベース:Jon Koeswoyo, ギター:Tonny Koeswoyo, ドラム:Nomo Koeswoyo,ボーカル:Yon Koeswoyo, ボーカル:Yok Koeswoyo)とその初期のギタリストとしてJan Mintaragaの家族外のメンバーから構成される音楽グループ結成の最初から活動を始めた。その当初1958年に彼らはこのバンドをKus Brothersと名付けた。実際らはYonとYokのデュエットがアメリカの双子の歌手のKalin Twinsからインスピレーションを得た。このグループの発展の過程で、YonとYokの兄弟のボーカルを使っている手名でアメリカのEverly Brothersのスタイルに似ていた。彼らは1962年に初アルバムをレコード化した。Jan Mintaragaが脱退した後このグループは1963年にKoes Bersaudraと改名した。
それからしばらくして長兄のJon Koeswoyoも脱退したのでTonny Koeswoyo率いる四人兄弟が残された。このグループは後日再度名前をKoes Bersaudaraに変えた。この新しい編成でYokはJonの代わりにベース担当とYonの声に従ったバックコーラスを急に命じられた。このグループは1965年6月29日ににGlodok刑務所にスカルノ時代の政府によって収監されるまで数年間にわたり続くレコードで成功を収めた。彼らは当時禁止されていたngak-ngik-ngok曲(洋楽)を演奏したと考えられた。彼らは最終的に1965年9月29日(共産党撲滅9月30日運動の前日)に釈放された。釈放後彼らは芸能活動を続けた。
2008年12月11日にMetro TVで放送されたKick Andyの公開番組でのYok Koeswoyoの告白でこれまで秘密にされてきた史実が明らかになった、実は彼らをマレーシアでのスパイとして使うために当時収監されたのであった。当時インドネシアはマレーシアと対立していた。「昔はKOTI(Komando Operasi Tertinggi=最高作戦司令部)があった。彼らは我々をリクルートしその司令官は海軍のKoesno大佐であった。単に当時の政府を我々をとても嫌うように仕向けたから我々は逮捕されたのだ。この逮捕に関連して、われわれを内緒でマレーシアに脱出させることであった。そこで我々は逆スパイとして利用されことになっていた。しかしながら9月29日に出獄してすぐに9月30日革命が勃発した」とYokは語っている。

Koes Bersaudaraからの脱退
音楽活動で成功を勝ち取ったとはいえメンバーの生活は経済的に苦しかった。Nomo Koeswoyoは1969年にドラマーとしてのポジションから脱退するイニシアティブを取った。彼は生計を立てるためにサイドビジネスとしてやってきた商人として音楽界以外での仕事を選択した。Tonny Koewoyoは彼にKoes Bersaudaraで音楽に集中するかあるいは脱退するかを選ばせた。Nomoは当時結婚していて子供が一人いたので、実用的で他の兄弟たちと異なる考えを持っていた。Nomo KoeswoyoのドラマーのポジションはMurryの発掘したKasmuriに替えられた。

Yok KoeswoyoはNomoをバンドから追放したリーダーである兄のTonnyの決定に対してし激しく抗議した。彼はこの三番目の兄(Nomo)に対する同情心からバンドから脱退することを決心した。YokはKoeswoyo王朝以外の他人とバンドを組むことを望まなかった。兄Nomoに対するこの同情心は厳しい方法で実行に移された。この二人は彼らが使っていたKoeswoyo一家の所有するベースやドラムセットをKoeswoyo一族以外の交替プレーヤーが演奏するのを禁じた。バンドは解散すべきだと彼らは言っていた。更にMurryを紹介したTommy Darmoに殴り掛からんばかりでもあった。それでもTonnyはYonと共に音楽活動を行う考えを持ち続けた。TonnyによってYokのベースのポジションはKoewoyo一家以外のTotok Adji Rahmanに替えられた。Tonnyも新しいバンドの名前をKoes Plusに替えた。彼らは1969年にアルバムKoes Plus Iを出した

Koes Plusへの参加
Yokは最終的に考えを変えて、1970年にベーシストとしてKoes PlusバンドのTotok Adji Rahmanのポジションに座った。それ以来、インドネシアの伝説的グループの一つとなって成功を収めたKoes Plusに存在し続けた。Koesは単に1970年代の国内音楽界の王になっただけではなかった。Koes Plusは100枚を超えるアルバムを産み出しその大部分は今に至るまで伝説となっているヒット曲になった。

Koes Plusの名前は1970年11月にIstora Senayanで行われたバンドジャンボリーのイベントでDeritaとManis dan Sayangを演奏した後で聴衆の絶賛を受けた始めた。この時Panbersや当時有名であったいくつかのバンドと共にYonはKoes Plusとともに登場した。これ以降、Koes Plusの人気はとどまることなく、沸騰しインドネシア音楽界に君臨した。特にKoes PlusがEugene Timothyが率いるRemacoレーベルに移籍した以降である。Koes PlusはついにはRemacoに休むことなく鞭を振られるヒットメーカーになった。1974年記録でKoes Plusは一月二枚のアルバムを出したことになる年間24枚のアルバムをリリースした。

1970年代は彼らの時代になっただけだった。インドネシア歌謡ランキングでの彼らのヒット曲はBujangan, Muda-Mudi, Kembali ke Jakartaなどのような全世代によって歌われた。彼らはソフトドリンクのF&N、トヨタキジャン、ノートの表紙などの広告のスターになった。Pop, Dangdut, Melayu, Keroncong, Jawa, Folksong, Rock, Bosanova, Qasidah, Rohani Natal, 子供Popsのようなジャンルの100枚以上のアルバムをリリースすることができた。彼らのたくさんの歌は今に至るまで不滅の伝説のヒット曲になっている。
Koes Plusのグループで、ベースとバックコーラスとして以外にYokは作曲して歌も歌っている。彼が歌った曲は、Kolam Susu,Why Do you Love Me, Tul Jaenak, Nusantara 3, Nusantara 5, Nusantara 8などである。Yokの声は極めて高く、彼の歌ったJemuやDa Da Daなどのような数多くの歌は、とてもキーが高いメロディーであった。YokはKoes Plusの中で最も低い声と高い声を出せた。彼は高音部に向かうメロディーの時にファルセット(裏声)を使ったことがなかった。

No Koesへの支援
Yokは公式にはKoes Plusに参加していたとはいえ、兄のNomoとのYokの親密さは、当時ステージ上での二つのバンドの間の競争ゆえに後退するものではなかった。Yokは何回かNo Koesグループの歌を入れるためにベーシストとしてNo Koesグループの手助けをした。さらには彼は兄のNomoのために自作の曲を時々提供した。NomoはNo Koesの幾つかのアルバムでYokの歌を良く歌った。Nomoとの親密さは子供のSari Yok KoeswoyoのレコードをNomoの所有するLiemanスタジオで採録するまで続いた。

Blo’on Group
1970年代のKoes Plusの空白期間にYokはBlo’on Groupバンドを立ち上げた。彼らの歌はおしなべてウイットに富んだ雰囲気を感じさせるものであった。このYokによって育てられたグループは、CockpitのキーボーディストのNadjib Oesman, リズムギターのJimmy, ドラムのImam,ベースのAgusとボーカリストとしてのTrio CekingのメンバーであるコメディアンのS. Kamdiであった。このグループは彼の兄のNomo Koeswoyoの直接のスポンサーでYukawi Recordで数枚のアルバムを出した。最初のアルバムはインドネシアポップスのジャンルであったが二番目はPelawak TuaやTukang Sateなどのコミカルなポップスであった。

Koes Bersaudaraの再結成
1976-1977年、Koes Plusのアルバムの売り上げが目標に達しなくなってきた。彼らが属しているRemacoのレコードプロデューサーのEugene Timothyは、Koes Bersaudaraを復活させるようにアドバイスした。Tonny率いるKoes PlusとNamo Koeswoyo率いるNo Koesの二重性を統一して再編しようとする家族の圧力もあった。このように1960年代の彼らの黄金時代が記憶にあるKoes Bersaudaraのファンの提案もあった。この提案を最終的にTonny Koeswoyoが受け入れ、Koes Bersaudaraの新しい時代を始めるために弟たち三人を呼び集めた。
1977年の初め、Tonny Koeswoyoは1969年に解散したKoes Bersaudara
再編することに成功した、彼は弟のNomoをYonとYokと一緒の音楽グループとして一つにするために呼び戻した。この四人のKoeswoyo兄弟は、会ってこれに賛成した。彼らの登場は1977年のアルバムKoes Bersaudara Seri Perdanaに収録されている歌Kembaliに特徴づけられる。この歌は当時ヒットして今に至るまで伝説となっている究極の歌の一つになった。Yokもこれと一緒に再編をにおわせる曲Tertundaを提供した。彼らのこの統一はKoeswoyo一家からの十分な支持を得た。父親のKoeswoyo Srも自作の曲Demi Cintを提供した。また、長兄のJonも弟のYonと仕上げた曲Haru dan Bahagiaを提供した。Nomoも彼らの再統一に大きな役割を果たした父親への尊敬の念を込めた曲Ayahを作曲した。
このアルバムの成功は1978年に至るまで続く四枚のアルバムを伴うことになった。この再編でメンバー全員が曲を共に提供し普通は自作の曲を自演した。とはいえこの続きのアルバムは市場でそれほど成功したわけではなかった。1970年代にそれほどはやらなかったKoes Plusグループの人気は1960年代に一世を風靡したKoes Bersaudaraの復活と比べることができなかった。この供奉は非公式に解散してYokはMurryを伴って兄のTonnyとYonとともにKoes Plus Groupを立ち上げた、
1979年から1980年にかけてKoes Bersaudaraは二枚のアルバムを出すことで統一しようとした。末の妹のNinoek Koeswoyoからの数曲の提供かあったことに家族の支えがあったことを見ることができる。これらのアルバムの売れ行きはそれほど良くなかった。このグループはその後数年間の空白期間に戻ってしまった。Yokとふたりの兄はKoes Plusに戻った一方、Nomoはソロ歌手として活動し当時相当に成功していたビジネスに戻った。

1986年にYokは三人の兄たちとKoes Bersaudaraで一つになった。彼らは1987年に六枚のアルバムを出すことができた。このグループは1987年にレコード化されたアルバムKau Datang Lagiに採録されている同名の歌で成功した。とはいえ、1987年に兄のTonny Koeswoyoが患ってきた大腸がんで亡くなったためこの兄弟の統一は長くは続かなかった。Tonnyの没後Koes Bersaudaraは1988年に八枚の、2000年には2枚のアルバムを出していた。

Tonnyが亡くなる前にKoes BersaudaraはアルバムDia Permata Hatikuをリリースし、彼らの甥や姪にあたる子供ポップス歌手、TVRIのPop Artis Safari選抜番組でChicha KoeswoyoとSari Yok Koeswoyoと共に出演した。

Tonny Koeswoyo亡き後のKoes Plus
Yok KoeswoyoはTonny Koeswoyoが亡くなった後の1987年から1997年までKoes Plusで音楽活動をしていた。Koes Plusのメンバーを数回かえることで数枚のアルバムを作成した。1997年末にYokはKoes Plusに取り込まれないとして休憩のために非公式に音楽界から引退することを決めた。それにもかかわらず、彼は1962年以来頑張ってきた音楽界を離れることは全くなかった。時々いろいろな構成のKoes PlusやTonny Koeswoyo亡き後のKoes Beresaudaraの構成と共に懐メロステージに出演していた。

音楽活動でのYokのパイオニア精神
現在に至るまで伝説となっているYokの作った歌は祖国インドネシアの豊かさを物語るKolam Susuである。というのは、彼の作品のこの歌とNusantaraシリーズゆえにYokは最も多くのゴールデンレコード賞とトロフィを獲得した。Yokの作品の多くは続く時代に何度もリバイバルされた。例えばジャワのポップスのTul Jaenakは1970年代から1980年代にかけてコメディアンのBagio CSが、1990年代にはDidi Kempotが再ヒットさせた。彼はKoes PlusのためにHow Much I Love YouやTears are Falling, We Love Each Otherなどの英語を使った曲を時々作曲した。彼の英語の作品でオーストラリアで流行ったものにはWhy Do You Love Meがある。1978年にはフランス語の曲Vivre Heureuxもある。

Yokのベース演奏は高い称賛を受けた。その中でも、Alex & Yakub (Kembar Groups)はKoes Plusの本当のキーパーソンはYok Koeswoyoで「今のところKoes Plusでビートを作り出しているのは彼だ」と言っている。
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プライベートライフと社会生活
若い時に彼はCori Louiseという女性と付き合ったことがあったが長続きしなかった。Yokは二回結婚した。最初の結婚は北スラウェシのMinahasa県Tomohon出身のMaria Sonya Tulaarであった。この女性はKoes Plus Volume Vの中のSonyaという歌の中で称賛されている。この異教徒同士の結婚から二人の子供が生まれた。長子はSari Louice Herning Hapsari (Sari Yok Koeswoyo)で彼女は歌手と女優の道を歩んでいる。Louiseという名前は昔の恋人の名前を思い出としてつけられたもの。二人目の子はジュニアバンドでギタリストをしていた故Rangga Panji (Angga Koeswoyo)である。Maria Sonya Tulaarはクリスマス休暇からの帰途に交通事故に遭い1973年12月26日に亡くなった。妻を亡くした悲しみを彼は曲Mariaで漏らしている。この歌は1971年にKoes Plusと共にリリースしたことのあるアルバムSonyaの最後に入っている。
Mariaの死後、Yokはフランス人のMichelle Beguinと再婚した。この結婚では子供ができなかった。この妻はYokの子供を自分の子供として養育することに精神集中すると述べた。

他の兄弟と同様に、彼らが音楽界に足を踏み入れた初期にたくさんの援助をしてくれた長兄のJonの家族の家計を支援するためにYokもしばしば収入の一部を割いた。1990年後半にKoes Plusを退団したあと、Yokは良く多く休息した。彼はバンテン州で農業に専念した。たまには伝説のKoes PlusやKoes Bersaudaraのショー番組に兄と一緒に出演していた。

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楽器
Aria IGB-STD Bass
Fender '70s Jazz Bass

[出典]
https://id.wikipedia.org/wiki/Yok_Koeswoyo

Yon Koeswoyo
歌手・ミュージシャン・作曲家
Yon Koeswoyo、本名Koesyono Koeswoyoは東部ジャワ州Tubanで1940年9月27日に生まれ、Banten州南Tangerang県Pamulangで2018年1月5日に没した。
彼はインドネシアの伝説的バンドのKoes Bersaudaraという名であったKoes Plusのメンバーであった。
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バイオグラフィー
幼少期
Yon KoeswoyoはRaden KoeswoyoとTuban出身のRr. Atminiの間にできた9人兄弟の六番目であった。兄弟の構成はこうである。
• Tituk,女児・夭逝
• Koesdjono (Jon 別名 John Koeswoyo)
• Koesdini (Dien)
• Koestono (Ton 別名 Tonny Koeswoyo)
• Koesnomo (Nom 別名 Nomo Koeswoyo)
• Koesyono, (Yon 別名 Yon Koeswoyo)
• Koesroyo (Yok 別名Yok Koeswoyo)
• Koestami (Miyi)
• Koesmiani (Ninuk)

家系図から彼らはTubanのSunan Muriaから数えて七代目 に含まれることがわかる。 彼らの母親はオランダ時代のTuban県令の姪にあたる。
Yokはその幼少期家族と共に東部ジャワ州のTubanで過ごした。1952年にKoeswoyo家族は内国省勤務の上級国家公務員父親の転勤でジャカルタに転居した。ジャカルタで彼ら一家は南ジャカルタのKebayoran Baru Blok CのJalan Mendawai III NO. 14に居を構えた。
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芸能経歴
Koes Bersaudara
Yon Koeswoyoは実の兄弟たちのバンド、ベースがJon Koeswoyo, ギターがTonny Koeswoyo,ドラムがNomo Koeswoyo, ボーカルがYon KoeswoyoとYok Koeswoyoそれに当初は家族外のギタリストのJan Mintaragaがいた、の初期から音楽活動に積極的に活動し始めた。活動初期の1958年には彼らはグループをKoes Brothersと名付けた。事実、YonとYokのデュエットのインスピレーションは米国の双子歌手Kalin Twinであった。YonとYokの兄弟歌手を使っていたため発展の中でこのグループは米国のEverly Brothersに似ていた。彼らは1962年は初めのアルバムを出した。Jan Mintaragaが脱退した後、このグループは1963年にKoes Bersaudaraに改称した。
それからしばらくして長兄のJon Koeswoyoも脱退したのでTonny Koeswoyo率いる四人兄弟が残された。このグループは後日再度名前をKoes Bersaudaraに変えた。新しい編成でYonはリズムギターが気はを演奏する一方そのままボーカル担当であり、Yokはベースギターを弾きながらのボーカル担当であった。Yonは良い声を持っていたのでボーカリストにするというTonnyの見通しは確かであった。このことから彼はギター演奏のために特別にTonnyに教えを乞うことはなかった。ギターの演奏能力は兄のTonnyのギター演奏をみて独学で習得したものだった。
このグループはスカルノ政権に1965年6月29日にGlodok監獄に収監されるまでの数年間に数々のアルバムで成功を収めた。Yonは兄弟のTonny, Nomo, Yokと同じ房に入れられた。彼らは、1965年当時インドネシア民族には合わない音楽と考えられていたゆえに禁止されていた洋楽を演奏したと思われていた。しかし実際にはこの収監は、スカルノ大統領が音楽芸術を通じてマレーシアを打ち負かすとの声明を発表した時のマレーシアとの構想が生じた当時の国防を目的としていた。当初シンガポールやサバ州、マレーシア本土に送るためだった。しかし、音楽での国防のために送られる前にスカルノ政権は降板した。共産党の9月30日運動が始まるちょうど前日の1965年9月29日にかれらは釈放され、シンガポールやサバ州、マレーシア本土には送られなかった。釈放後に彼らの音楽活動は続けられた。

Koes Plus
音楽では成功したものの、彼らの生活は経済的な困難を極めていた。兄のNomo Koeswoyoは1969年に率先してドラマーのポジションから退いた。彼は家族の生活のために音楽以外の仕事を選択したのだった。Tonny Koeswoyoによると、NomoはKoes Bersaudarで音楽に集中するか脱退するかの選択を迫られたとのことだった。Nomoは実利的な性格であり、当時結婚していて一児を得ていたので兄とは別な人生の方針を持っていた。Nomoが退いたドラマーのポジションはKasmuri(呼び名のMurryで知られている)に交代した。Murryの加入はTonnyへのYonのアドバイスだった。Yonは友人のTommy Darmoを通じてMurryと知り合ったのであった。
Nomo兄の脱退は末の弟のYok Koeswoyoの抗議を発生させ彼は脱退を選択した。YokはKoeswoyo王朝以外の外部の人と新しいバンドを組むのは好まなかった。この二人はTonnyとYonが彼らの楽器を新しいバンドで使うことを禁じたことに抗った。Murryが紹介したことでこの二人の兄弟がTommy Darmoも排除しようとしたゆえにYonも大きな過ちであると感じていた。彼らはバンドを解散すべきだと主張した。兄のTonnyはYonと一緒に音楽活動を続けると意地を張っていた。Yonは確かにTonnyの忠実な弟の一人でこの兄のいろいろな活動と意思についてきた。TonnyによってYokのポジションはAdji Kartono(通称Totok AR = Totok Adji Rahman)に交替させられた。YonはKoeswoyo一族以外からMurryとTotok ARを参入させることを問題視しなかった。Tonnyもこの後バンド名をKoes Plusに変えた。財政的な面での制限もめたことと楽器を借りなくてはならなかったが、彼らはアルバムKoes Plus Volume I Dha-Dheg Plasを出すことができた。このバンド構成でYonはメインボーカリストを務め続けた。
とはいえ、Koes Plusの二番目のアルバムでは弟のYokが考えを変えてベーシストとバックコーラスとしてKoes Plusに加入する準備ができた。このアルバム2でKoes Plusの名前は知られ始めた。Koes Plusはゆっくりと流行への道をたどり国内バンドの王者になった。

Koes Plusの名はDeritaやManis dan Sayang, Senja, Cinamu Telah Berlaluという曲を1970年11月にIsola Senayanで行われたバンドジャンボリーで披露した後、リスナーたちに歓迎され始めた。この時YonとKoes PlusはPanbersやThe Candies, Bhajangkaraバンド、The Rhadowsなどの有名バンドと一緒に出演した。当時Koes Plusの曲はBee GeesやThe Catsのような甘いサウンド色に影響されていた。Yon Koeswoyo自身はついにBee GeesのBarry Gibbがやっているようなビブラート を出すように努めるようになった。
それ以来Koes Plusの人気ははますますとどまるところを知らず、泡立ちそしてインドネシアの音楽界の王者の地位を占めた。Koes PlusかせEugene TimothyのRemacoレーベルに移籍した後、この傾向はますます上向いた。Koes PlusはついにRemacoによって休みなく鞭うたれ続けるヒットメーカーになってしまった。1974年の記録によるとKoes Plusは年間24枚のアルバムをリリースしたこと、すなわち毎月二枚リリースしたことになる。

1970年代は単に彼らの時代になった。インドネシア音楽ランキングでの彼らのヒット曲は、BujanganやMuda Mudi, Kembali ke Jakartaなどの様にすべての年代に歌われた。とはいえ、このグループはPops, Dangdut, Melayu, Keroncong, Jawa, Folksong, Rock, Bosanova, Qasidah, Rohani Natal, 子供のPops分野で100枚を超えるアルバムをリリースできた。彼らの曲の多くは現在に至るまで時代を超えた伝説的なヒットになっている。かれらはまたソフトドリンクのF&N、豊田自動車のKijangやノートなどの広告のスターにもなった。

Koes Plusの中で、YokやTonnyさらにはMurryもボーカリストとして出演したのだがYonの声は確かに彼らを凌駕していた。Yonのボーカルは、Kembali Ke Jakarta, Kisah Sedih di Hari Minggu, Diana, Hidup Yang SepiなどのKoes Plusの有名な曲の大部分をカバーしている。

ソロアルバム
Koes PlusとKoes Bersaudaraの活動空白期間にYonはソロアルバムを出した。1981年にTonnyの許可を得てLantaranというソロアルバムを出した。この件で彼は友人のミュージシャンで音楽愛好家のHarry Cahyonoに支援された。このSky Record製のアルバムには10曲が入っている。はっきり言うとこの10曲のうちLantaran, Senandung Malam, Jakrta, Tuan-Tuanなどの8曲はHarry Cahyonoの作品でありYon Koeswoyの昨比化はKota SunyiとKesanであった。このアルバムの大部分の曲は抽象的な言葉で社会批判がこもっていて簡単には消化できないものであった。一回聞いただけで意味がすぐ分かるKoes Plusの作品のようではなかった。この社会批判がつまった作品でのHarry Cahyonoの役割は27年後の2008年のSong of Porongというソロアルバムを通じて繰り返されたのであった。

Koes Bersaudarの再編
1976-77年にKoes Plusのアルバム売上達成に低下が生じた。彼らを担当しているRemacoのレコードプロデューサーのEugene TimothyがKoes Bersaudaraの再生を提案した。Tonny Koeswoyo率いるKoes PlusのKoeswoyo家族バンドとNomo Koeswoyoが原動力となっているNon Koesバンドの並立への家族の強い圧力もあり、ついにはこの二つのバンドは一つになった。さらには1960年代のこのグループの黄金時代を覚えているKoes Bersaudaraのファンの提案もあった。この提案はTonny Koeswoyoに届けられ、彼はKoes Bersaudaraの新時代を開始するために三人の弟たちを呼び集めたのだった。
1977年、家族とファンからの圧力でKoes BersaudaraはKoes Bersaudara 1977年主要曲シリーズに収録去りている曲Kembaliに記されているように一つの音楽グループに再編されることになった。1977年初めにTonny Koeswoyoは1969年以来埋葬されてきたKoes Bersaudaraという音楽グループをついに再生することができたのだった。彼は弟のNomoを弟のYonとYokと一緒の音楽グループに呼び戻した。このKoeswoyo 四人兄弟は会ってこのことに賛成した。アルバム I Koes Bersaudara Pop Indonesia vol. IはKembaliを主力の一つとして彼らがリリースしたものである。この曲とアルバムは実際に人気爆発になりそれ以来Koes Plus/Bersaudaraのファンたちの定番局として語られるようになった。この再編はKoeswoyo一家の支持を得た。彼らの父親のKoeswoyo Srは創作曲のDemi Cintaを提供した。同様に長兄のJonもYonと共に作り上げた曲Haru dan Bahagiaを提供した。Nomoも彼らの再統合に大きな役割を果たした父親への尊敬の念を表わした曲Ayahで追従した。
このアルバムの成功は1978年のまでの続く4枚のアルバムを伴うことになった。この再統合でYon以外のメンバー全員が創作曲を提供し、部分的に自作の歌を歌っている。Koes Bersaudaraはこの時期を始めとして各メンバーが曲を作って各々自作の曲を歌うことが一般的になった。しかしながら、これらのアルバムはそれほど成功はしなかった。1970年代にすでに固かったKoes Plusの人気は、1960年代に流行ったKoes Bersaudaraの再起と比べようもなかった。このグループは最終的に非公式に解散し、Yonは兄弟のTonnyとYokはMurryと共にGrup Koes Plusを再編した。
1979~1980年にKoes Bersaudaraは2枚のアルバムを出すことで再統一しようとした。注目されるべき家族の支えとは末の妹りNinoek Koeswoyoから数曲の提供があったことである。しかしながらこれらのアルバムはあまりヒットしなかった。このグループもその後数年間の空白期間に戻ってしまった。Yonは二人の兄弟と共にKoes Plusに戻ったが、Nomoはソロシンガーとして活動し当時とても成功していた自分のビジネスに忙しかった。
1986年にKoes Bersaudaraは再統一され1987年には6まいのアルバムを出した。このグループは1987年にレコード化されたアルバムのKau Datang Lagiの中の同名の曲で成功を収めた。とはいえこの1987年に続いて兄のTonny Koeswoyoが患っていた大腸がんで亡くなったためこの統一は長くは続かなかった。Tonnyの没後Koes Bersaudaraはなおも1988年には8枚、2000年には2枚のアルバムを出すことができた。
Tonnyが亡くなる前、Koes BersaudaraはアルバムDia Permat Hatikuをリリースし、当時TVRI番組のSelekta Pop Artis Safari子供歌手としてデビューしていたChicha KoeswoyoとSari Yok Koeswoyoの二人の姪とともに出演していた。

Tonny Koeswoyo亡き後のKoes Plus
現在に至るまでYon,本名Koesyono,は1962年以来やってきた音楽活動をまだ行っている。彼はKoeswoyok一家の一人の、Tonny Koeswoyoが亡くなった後で何回かのメンバー交代による編成替えを行ったKoes Plusと共に懐メロステージでなおも活躍している。1987年にTonnyが亡くなった後、音楽グループとしてのKoes Plusの人気は下がった。とはいえこのグループは、Koes Plusは不死で続けなければならないという故Tonnyの依頼のゆえにまだ続いているのである。この時からKoes PlusはYon, Yok, Murryとその時々で変わるサポートメンバーで出演している。この後Deddy Dores(Freedom of Rhapsodia)やAbadi Soesman (元God Bless)のような大ミュージシャンたちや信頼できる他のミュージシャンを巻き込んだKoes Plusのアルバムが登場した。
1991年にKoes PlusはYon, Yok, MurryとYokの息子に他ならないAngga Koeswoyoで構成された。1992年にAnggaは脱退しそのポジ駿はAbadi Soesmanに変わり、休息を選んだMurryの代わりのドラムポジションにはJelly Tobingが入った。ぬよよぁ年からKoes Plusの勃興のようなものが起きた1993年にはこのバンドは、Koes Plusの元マネージャーであったAis Suhanaによるアイデアの数々のカムバックショーの幕が国内で明けた。彼は1993年のKoes Plusの再統一に動いた。MurryもKoes Plusのドラマーとして復帰した。このツアーショーでこのバンドが彼らの全盛期を懐かしむ忠実なファンがまだたくさんいることが見られた。ツアーショーのチケットが当初はかなり高かったのではあるがKoes Plusのショーの急成長と成功でこのことが証明されるのである。
1994年にTonny Koeswoyoの息子に他ならないDamon Koeswoyoと共に彼らはアルバムTak Usah Kau Sesaliをリリースした。しかしながらDamanは長いことなく1995年に脱退し彼のポジションはNajib Usmanに交替した。Yokは1996年に脱退してYonがこのポジションをHans “B-Flat”と交代させた。1997年にNajib Usmanが脱退した。このポジションはDeddy Doresに交替しYok KoeswoyoがKoes Plusに再加入した。Yokは1997年に健康上の問題で引退するまで何回かバンドに参加した。彼のポジションはJack Kashbieに変わりBambangTondoが脱退したDeddy Doresの代わりに入った。1998年に脱退したBambang TondoのポジションはAndolin Sibueaに代わった。YonとMurryプラスAndolin SibueaとJack Kashbieは2994年まで歌い続けた。2004年に音楽の方向性の違いとますます悪化した健康問題のゆえになMurryも他の2人と共に最終的に脱退した。
最終的にKoeswoyo一家の一人であるYonだけがKoes Plusバンドに取り残された。Yomは後日若いメンバーの元B-PlusのギタリストのDanangや元B-PlusのベーシストのSoni、ドラマーのSenoをKoes Plusの編成を完成させるために雇い入れた。このバンドはKoes Plus PembaharuanあるいはKoes Plusミレニアムバー除荷と呼ばれた。この編成は2004年から今に至るまで続いている。 Koes Plusの特徴を形作っている要素の一つになっているYonの德著ある声でKoes Plusの感じがするのである。Koes Plusの音楽活動の成功は、1992年から始まったほぼすべてのBASF AWARDを定期的に受賞していることで国内の有力者と音楽評論家が述べているところである。
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プライベートライフと社会生活
Yonが受けた最終教育機関はジャカルタのUniversitas Res Oublica (現在のトリサクティ大学)の建築学科で1965年であった。卒業はしなかったものの学業の最終段階まで進んだ。
兄弟姉妹の中でYonは結婚が遅れたほうに入るのは確かである。このことはかれの創作曲のHiup Yang Sepiに注ぎ込まれている。歌は彼が未婚男性として本当に寂しくなったときに生まれた歌である。彼は涙ができねまでこのうたを歌ったことがあった。青年時代にYonは美しいインドネシア・オランダ混血女性に驚くほどのプラトニックラブを感じたことがあったと語っている。この女性は魂をエキサイトさせたそうになった。この恋は続かなかったとしても。
2008年のMetro TVのKick Andy Showで、Susy Nandarという女性バンドのDara Puspitaのドラマーに昔に真実の愛を掛けたことを打ち明けた。残念ながらこの恋が燃え盛った時にDara Puspitaは万国漫遊をしなくてはならなかった。彼らの恋は遠距離ゆえに潰えてしまった。Dara PuspitaのメンバーとのYonの恋愛物語はYonが歌う彼らの曲Andaikan Kau DatangにTonny Koeswoyoが留めている。
Yonは二回結婚している。最初はジョグジャカルタ出身のDamiana Susiと結婚した。この結婚でUlung Gariyas (Gerry) KoeswoyoとOtmar Veda (David Koeswoyo)の二子を得た。Davidはジュニアバンドのボーカリストになることで跡を継いだ。Yonが落ち込んだ時にSusyは家を出てしまったために離婚に至った。Tonny Koeswoyoが亡くなった直後の人気が落ちた時期であり、Yonの家族の生活はますます厳しくなった。家族を養うためにYonは自動車の売買をしようとしたと共に自宅を賃貸に出して生活しようとした。
Yonは1993年にBonita Angeliaと再婚した。1990年代中盤、彼らの生活はいっぱいいっぱいだった。子供が生まれた時にYonには全くお金がなかった。「分娩入院費の150万ルピアを払うのに借金しなければならなかった」とYonは自著の中で語っている、この二回目の結婚でBela Aron KoeswoyoとKenas Koeswoyoの二子を得た。今でもこの妻はKoes Plusの音楽活動でマネージャーを務めてジルバプをかぶっている。
他の兄弟と同様に、かれらの音楽界で活躍を始めるために大きな援助を行った長兄のJonの家族にYonも時々資金援助した。老後Yonは園芸と絵画に多くの時間を割いた。彼は商業目的ではなかったとはいえ2001年以来、絵画に集中したのだった。絵画以外に彼は作曲にも積極的で現在に至るまで持ちこたえているKoes Plusの最終編成での新アルバムを準備している。

死去と埋葬
2018年1月5日にYonは患ってきた肺気腫による喘息の影響で77歳の人生の幕を閉じた。Yonの遺体はTanah Kusir共同墓地に葬られた。

使用楽器
  • Fender Stratocaster
  • Fender Telecaster Plus
  • Gibson SG Xtra Slim
  • Jackson Soloist

宣伝広告
  • Toyota Kijang (1980-an)
  • F&N Strawberry Soda Pop (1973)
  • Bentoel Merah (1990an) コマーシャルスターではなく
  • Wismilak Special (2007)
  • BCA (2019) コマーシャルスターではなく


[出典]
https://id.wikipedia.org/wiki/Yon_Koeswoyo

Yuni Shara
歌手・女優
Yuni Shara,本名Wahyu Setyaning Budiは1972年6月3日東部ジャワ州マランで生まれた。
彼女はインドネシアの歌手である。また彼女はKrisdayantiの実の姉である。このところNina Tamam, Iga Mawarni, Reika Roslan, Andienと共にYUniは5 wanita (五人女性)のボーカルグループに参加している。

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芸能経歴
レコードの開始
小さい頃からYuniは歌うのが大好きだった。彼女は小学校に在籍中から歌謡コンテストに参加していた。中学生の時Yuniはジャカルタに転居した。Yuniが高校生だったときの1987年に15歳の青年たちのラジオテレビスターフェスティバルに参加する好機がやってきた。Yuniは父親から習ったクロンチョンを歌って二等賞を獲得した。二年後にYuniは同じフェスティバルに参加して優勝した。YuniもBillboard All Starsに入っている他の歌手と共にレコ―ディンクのオファーを受けた。

金字塔アルバムKasmaran (1991-1992)
Jatuh Cinta Lagiが入ったKasmaranというタイトルのYuniの最初アルバムは1991年にリリースされた。このアルバムは爆発的には売れなかったがYuniを知らしめることになった。同年にYuniはIrma JuneとともにBhaskara BandのバックコーラスとしてオランダのNorth Sea Jazz Festivalに参加した。

Hilang permatakuとSalah Tingkah (1992-94)
その翌年、Yuniはリバイバル曲が入った2枚目のアルバムHilang Permatakuをミニアルバムと同時にリリースした。この再録アルバムは爆発的人気を得た。同年Yuniは三枚目のアルバムSalah Tingkahを出した。これはリバイバル曲ではなく新曲のみを入れた主要アルバムとなった。残念ながらこのアルバムは失敗であった。彼女が歌った新曲はKaton Bagaskaraの作品であった。

Aku Percaya (1994-95)
その後1994年にYuniは新曲を入れたアルバムAku Percayaで再登場したが、残念なことにはこれもそれほど成功はしなかった。

Mengapa Tiada Maaf, OST Return Of The Condor Heroes, & Sebelum Kau Pergi (1995–96)
彼女の芸能活動は1996年にリリースされたアルバムMengapa Tiada Maafの時に頂点を迎えた。このアルバムは最初の一週間に15万枚を売りあげ、BASFから四枚のプラチナレコードを獲得した。同年にYuniはKembalinya Pendekar Pemanah Rajawaliというシラットシリーズのサウンドトラックアルバムを出してこれも最初の六週間で50万枚の売り上げがあったことでBASFから再度三枚のプラチナレコードを獲得した。そして1996年一年間でYuniはBASFから七枚のプラチナレコードを獲得した。さらに同年にはYuniはアルバムSebelum Kau Pergiをリリースして最初の一月間に17万枚を売り上げた。

Desember Kelabu (1996-97)
以前Maharani Kaharが流行らせた曲Desember Kelabuと同名のリバイバル曲アルバムを1997年にリリースした。

Pelangi (1998-99)
1998年にYuniは新しいアルバムPelagiを出した。

3 Bidadari (1999-2000)
1999年にYuniは長くは続かなかったがParamitha RusadyとDesy Ratnasariとで3 Bidadariを編成した。このグループは同年にリリースされた複合ミニアルバムKidungを出しただけであった。このアルバムでは以前Chrisyeが流行らせたKidungを3 Bidadariが歌っている。

Janji Sepasang Merpati (2000–01)
続くアルバムはSepasang Merpatiで2000年にリリースされた。

OST. Meteor Garden (2001–02)
2001年にYnuは你要的爱のインドネシア語版アルバムOST. Meteor Gardenを発表した。このアルバムは当時インドネシアを席巻していたF4がスターにあげたMeteor Gardenシリーズの熱狂と同時期にリリースされた。

Isi Hati & Belaian Sayang (2002–04)
翌年、Yuniは最新ポップスアルバムIsi Hatiを出し2004年までBing Slamatの古い曲Belaian Sayangを有名にしたアルバムBelaian Sayangを出した。

35 & grup vokal 5 Wanita (2007–08)
五年間の空白期間の後、Yuniは2007年6月3日の35歳の誕生日に”35 Cangkir Kopi Yuni Shara =ユニサラの35杯のコーヒー”という自伝と共にアルバム35を出した。この本はDarwis TriadeとコラボしたTamara Geraldineが書いたものである。Yuniが取り上げた9曲のうちSepiだけが新曲だった。この曲はミュージシャンのMelly Goeslawの作品である。Rieka Roeslan, Nina Tamam, Andien, Iga Mawarniと共にYuniは5 Wanitaというボーカルグループを組織した。

Is HaryantoとJames F. Sundah作のヒット曲とJalan Terbaik (2009-11)
その二年後名Yunimは最新リバイバルアルバムLagu-Lagu Hits Karya Is Haryanto & James F. Sundahを出した。アルバムタイトル通りにこのアルバムはミュージシャンのIs HaryantoとJames F. Sundahのベストアルバムを入れたものであった。同年にYuniはJalan Terbaikというこれまでのところ最後のアルバムとなった最新アルバムを出した。

KrisdayantiとIis Dahliaとの芸能活動 (2011)
2011年にYumiは実の妹のKrisdayantiとIis Dahliaと一緒に無名なグループを結成して以前Rumpiesが流行らせた曲Nurlelaのリバイバルシングルをリリースした。

アルバム Tuhan Jagakan Dia (2014)
2014年にYuniは曲Tuhan Jagakan Diaを同名のアルバムとして再度出した。

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プライベートライフ
YUniは1993年にRaymond Mantheyと結婚した彼四カ月で破局を迎えた。この1991年のジャカルタ・ボロブドゥール大学の財政金融学科の卒業生は以前歌手のNur Afni Octaviaの夫であった二人の子持ちの男やもめである実業家のHenry Siahaanと結婚した。彼らの結婚は最初から「お試し」だけであった。15歳の年の差以外に彼らは信仰の違いがあった。このことも彼らの結婚が五年間も法律の庇護の下になかった原因である。二人の結婚は1997年以来手にして2002年8月7日に初めてオートラリアのパースで正式なものになった。その四日後にインドネシアで婚姻を登録した。
愛する人と幸せを味わってたすぐ後の2007年2月にHenryはDetasemen88の通信設備機器調達に関する汚職で収監されてしまった。この行為は700億ルピアに上る国家の損失と考えられている。2008年5月21日にYuniはHenryとの離婚訴訟に入った。2008年6月17日にYuniは正式にHenryと離婚した。
Yuniは二回目のやもめになった後、法曹界の人と内縁関係になったとのゴシップが挙げられたことがあった。しかし、この話は正しいかどうかの証拠がなかった。その後Yuniは彼女より15歳若い若いプレゼンターRaffi Ahmadと親密になったことがあったが、数回で疎遠になった。
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ディスコグラフィ
スタジオアルバム
  • Kasmaran (1991)
  • Salah Tingkah (1992)
  • Aku Percaya (1994)
  • Mengapa Tiada Maaf (1996)
  • OST. Return of the Condor Heroes (1996)
  • Sebelum Kau Pergi (1996)
  • Desember Kelabu (1997)
  • Pelangi (1998)
  • Janji Sepasang Merpati (2000)
  • OST. Meteor Garden (2001)
  • Isi Hati (2002)
  • Belaian Sayang (2004)
  • 35 (2007)
  • Lagu-Lagu Hits Karya Is Haryanto & James F. Sundah (2009)
  • Jalan Terbaik (2009)
  • Tuhan Jagakan Dia (2014)

ミニアルバム
  • Hilang Permataku (1992)

シングル
  • Kidung (Bersama 3 Bidadari) (1999)
  • Lilin-Lilin Kecil (1999)
  • 50 Tahun Lagi (feat. Raffi Ahmad) (2010)
  • Aku Cinta Padamu (2010) (Hao Xiang Hao Xiang versi Bahasa Indonesia, OST Kabut Cinta rerun Antv)
  • Cinta Ini (feat. Raffi Ahmad) (2011)
  • Aku Jadi Bingung (feat. Iwa K) (2011)
  • Nurlela (feat. Krisdayanti, Iis Dahlia) (2011)
  • Akhirnya (Single Religi)
  • Tuhan Jagakan Dia (2014)
  • Selamanya Aku Milikmu (2017) (OST Sinetron Saur Sepuh The Series produksi SinemArt)

フィルモグラフィ
  • Rumah Tanpa Jendela (2011)

テレビ番組
  • Yuni Raffi (Trans TV, 2012)
  • Q&A (Metro TV, 2020, hanya satu episode)
  • ReYunian (iNews, 2020-sekarang)

コマーシャル
  • Kuku Bima Kopi Ginseng (bersama Raffi Ahmad)
[出典]
https://id.wikipedia.org/wiki/Yuni_Shara
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2021/05/18 作成

 

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