嗚呼、インドネシア
第91話インドネシアの懐メロ
アーチスト編
Group T

Group-Tには以下のアーチストが含まれます。
Teresa Teng
Tetty Kadi
The Crabs
The Mercy's
Titiek Puspa
Titiek Sandhora
Tito Soemarsono
Tonny Koeswoyo
Toto Salmon
Trie Utami
Tulus
Tuti Trisedya

Tonny Koeswoyo
ミュージシャン・作曲家
Tonny Koeswoyo,本名Koestono Koeswoyoは1936年1月19日に東ジャワ州Tubanにて生まれ1987年3月27日にジャカルタで没した。享年52歳。
彼はKoes BersaudaraとKoes Plusのリーダーであった。Tonnyはピアノとギターとキーボードを演奏することができた。

幼少期
Tonny KoeswoyoはTuban出身のR. Koeswojo (Raden Koeswoyo)とRr. Atminiの間にできた9人兄弟の四番目であった。兄弟の順番は以下の通り。
No.1. Tituk (perempuan), meninggal waktu bayi.
No.2. Koesdjono (Jon alias John Koeswoyo)
No.3. Koesdini (Dien ~ perempuan),
No.4. Koestono (Ton alias Tonny Koeswoyo),
No.5. Koesnomo (Nom alias Nomo Koeswoyo),
No.6. Koesyono, (Yon alias Yon Koeswoyo),
No.7. Koesroyo (Yok alias Yok Koeswoyo),
No.8. Koestami (Miyi ~ perempuan),
No.9. Koesmiani (Ninuk ~ perempuan).
家系図から彼らはTubanのSunan Muriaから数えて七代目に含まれることがわかる。(/1) 彼らの母親はオランダ時代のTuban県令の姪にあたる。

Tonnyはその幼少期を兄弟と共にTubanで過ごした。最初の時期彼はTonと呼ばれていた。しかしその後立派に見えるようにTonnyに変え、いずれにせよ兄弟の中で一番ハンサムであった。Tonnyの音楽歴はTubanのludruk(/2) のグループに加わった時に研ぎ澄まされた。1952年Koeswoyo一家は国内省の高級官僚であった父親の転勤によりジャカルタに転居した。ジャカルタで彼ら一家は南ジャカルタ市Kebayoran BaruのBlok C Mendawai III通 14番に居を構えた。
音楽の血はギターを弾きハワイアンを演奏する父親のR. Koeswojoからの遺伝であった。四歳の時TubanでTonyは何時間もバケツや水溜めをlidi (/3) で、また水を入れた他の器をまだつぼみのjambuの花を先につけたlidiで叩いた。その手にしたのはバケツ、水溜め他の独特な音が出るものであった。思春期に入りTonny Koeswoyoはバケツを叩くことを好まなくなった。音楽の才能が防ぐべくもなく段々と音を立て始めた。Tonnyは次にギターやバイオリン、音楽の本を買ってほしいと頼んだ。父親のKoeswojoは、人は音楽で生計を立てられないという理由でこの申し出を受け入れなかった。
父親は辞職してBank Timurに就職した。彼は中部ジャワのSoloの農園の管理を任され家族連れで引っ越した。ジャカルタの彼らの家は長兄のJonと三人の弟TonnyとYon、Yokの四人の男の子だけが住むことになった。五番目の弟のNomoは瓦工場で働いてスラバヤへ放浪に出ていた。Jonは同居している三人の弟たちがcrossboyesになって喧嘩の風潮に同調することを恐れていた。この時「カミナリ族」の熱がジャカルタやバンドンのみならずスラバヤのような大都市では流行っていた。弟たちが「ポジティブな活動」をするように考えて、Jonは積極的に弟たちに楽器を買い与えた。その時HonはHotel Indoneisaのビルに入る前のBiro Yayasan Tehnikで働き始めていた。彼は弟たちをまとめるために楽器を買い与えた。Tonyと共にJonはSoloに向かった。この時期、楽器メーカーが最もそろっていたのはソロのJalan Tembaga, Nononganだった。彼はコントラバスを一台とアコースティックギターを二台、ドラムセット1セットを購入した。この購入資金はJonの給料と母親の無尽講から出された。弟たちの将来を壊すことになるからとJonと母親はソロの父親から叱られた。しかしながら彼らは楽器を買う硬い決心を変えなかったから父親は折れた。この楽器はジャカルタへ列車で持ち帰られた。父親の兄がまだHotel Indonesiaで働いていたので、駅からHotel Indonesiへトラックで運ばれた。
これ以来Tonnyは熱心に音楽の勉強をするようになり、ギター、ウクレレ、笛を演奏できるようになった。この音楽的能力は独学で身につけたもので、Nick Manoloffからの五線譜ではなく、ギターの爪弾き方はスペイんのCarcasoに倣いかつまたジャカルたのギター教師のTjio Bun Tekから学んだものであった。彼は昼夜ギターを弾き続けた。彼はまた音楽関係の活動があればどこへでも出かけた。学校行事、大学の行事あるいはなんでも音楽関係のものに参加した。音楽ヘの傾注はTonnyに進級試験に落ちて三回も試験を受け直すほどに学業を忘れさせた。Tonnyはその後、弟のTonとYokに演奏の方法を教えた。その弟のNomoは放浪から戻ってきて彼らと一緒にやり始めた。Jonが弟たちに楽器を買い与えた時、兄弟たちの間だけで演奏するという約束をTonnyとの間で結んでいた。ここからKoes Bersaudaraの結束が生まれたのだった。このバンドは安い楽器とジャカルタ製のRobinのアンプで練習していた。多数の人が音楽を聴きに来たので彼らの家も毎晩賑わうことになった。このことで父親のKoeswoyoがジャカルタに戻ってきた時、音楽で身を立てることはできないという理由でしばしば小言をもらった。このことをTonnyと他の兄弟たちは気にせず、彼らはずっと音楽を演奏し続けただけであった。
1967年、Koeswoyo一家はJalan Mendawai IIIからJalan Sungai Pawan di lingkungan Blok C, Kebayoran Baru, Jakarta Selatanに引っ越した。この時、家族全員がジャカルタに戻った。1970年以来、彼らは今に至るまでKompleks Koes Bersaudaraとして知られているjalan Haji Nawi, Cipete, Jakarta Selatanに引っ越した。

音楽経歴
学校でのバンド
Tonny Koeswoyoはジャカルタでの高校時代から真剣に音楽界での長い道のりを開始した。音楽をやるという本能が掻き立てられて彼はGita Remajaという名で校内バンドを結成した。そのあと、友達のJan MintaragaとSophan Sophianと共に彼はTeenage’s VoiceとTeruna Riaというバンドを立ち上げた。このバンドは数々の学校での青年のイベントにしばしば出演した。Teenage’s Voiceバンドは1952年頃に結成された。このバンドは後日Sophan Sophianがボーカリストとして参加してIrama Remajaに名称変更した。彼が大学への受験勉強に時間を割いてしまったためこのバンドは埋没してしまった。

Koes & Bros
1958年、彼は実のKoeswoyo兄弟たちのうち兄のJon Koewwoyoをベースに、Tonny Koeswoyo
をギターに、弟のNomo Koeswoyoをドラムに、その弟のYon Koeswoyoをボーカルに、皿のその弟のYok Koeswoyoをボーカルに取り込んだ。TonnyはこのバンドをKoes & Brosと名付けた。兄のJon Koeswoyoは仕事の合間にこの兄弟バンドで弟たちに加わった。一方、弟のNomoは出稼ぎからもどった後で参加した。このKoeswoyo氏の息子たちの最新のグループの活動初期にはKoeswoyo一家以外からの二人の名前、当時ギタリストであり現在はコミック作家として知られているJan Mintaragaとジャカルタの家の隣人であるIskandarがかくれていた。Jan Mintaragaは二軒となりの家であり、毎回そこで泊ってしまうほど熱心に練習や歌に参加した。かれはラジオオーストラリアの音楽を聴くのが好きだった。新曲に出会うとかれは新曲の記録を持ってやってきた。Iskandarは放浪の旅から帰ってきたばかりでドラムの演奏に未熟なNomoを支援した。

Kus Brothers
1960年にTonnyはこのグループの名前をKus Brothersに改名した。Tonnyは二人の兄弟歌手を使ってたので米国のEverly Brothersに似せたのだった。とはいえ本当はTonnyのYonとYokのデュエットに関するインスピレーションは英国の双子の歌手のKalin Twinsであった。1950年代末から1960年代初頭にかかる時期にインドネシアの音楽グループは、彼らを除き、普通は外国曲を歌うのが誇りであった。Tonnyと兄弟たちは当時流行っていた洋楽のEverly Brothers, Harry Belafonte, Kalin Twinなどのような歌の練習もした。その時代にはインドネシアの歌を歌うのは恥ずかしいことと考えられていた。Tonnyと兄弟たちは路上で、あるいは誕生日やスナタンのお祝いの席上で余興として演奏した。公衆の面前で出演することを学ぶことができてまたタダで食事を出してもらえることで出場料は問題ではなかった。彼らの妹のMiyiekは彼らが出演した時に唄ったことがあり、ボールペンと石鹸、ノートをもらってご機嫌だった。また現金をくれた主催者もいた。たまにJan MintaragaがKoes Brothersに参加した。ただ、彼は高い声が出せず調子っぱずれになるので彼は学業に忙しいので参加するかどうかは気まぐれだった。

1962年Kus Brothers (Kus Bros)はレコード録音にトライした。レコードを作る夢を放ったTonnyがいた。その夢とは兄弟たちに不可能であり気違いのようだと考えられていた。しかしながらTonnyは洋楽を歌うのではなく曲を自作しようと考えていたので勇気があった。時にはMas Yosと呼ばれたSoejoso Karsonoが所有する当時有名であったレコード会社PT. Iramaを通じた。Mas YosとJazz Jack Lesmanaの指揮者であるIramaの音楽ディレクターは二週間以内に曲を準備することでTonnyに挑戦した。Tonnyはこの挑戦状を受け入れた。曲を創作するための長時間が必要だったため、Tonnyは国営農園公団を退職することを決意した。Tonnyはその後、作曲に集中した。一週間以内に彼はWeniとTerpesonaの二曲を完成させた。兄のJonは皿ほどあるレコーディングテープで録音を行った。Jan Mintaragaの協力を得てTonnyはPTIramaに録音の依頼状をタイプした。録音テープはPT Iramaへの依頼状と共に送付した。約束通り彼は二週間以内に返答したのだった。
演奏された曲の結果を見て、Mas YosとJackは驚き1962年にKoes Brothesにコンタクトした。兄のJonはこの家族バンドを強力に支えるために仕事を止める決心をした。その時のKus Brosの構成は、Tony (gitar melodi), Jon (bas), Nomo (drum), Jan Mintaraga (gitar), Yon dan Yokボーカルだった。NomoはドラムセットがまだうまくなかったのでIskanarに手伝ってもらった。録音は2トラックで行われ、録音技師のFreddy Bulekの下で直ちに実施された。三曲目になって初めてJan MintaragaはジョグジャカルタのAkademi Seni Rupa Indonesiaでのインテリア専攻で学業を続けるために脱退した。Tonnyはその後バンドの指揮者の再編を行った。JanのポジションのギターにはJonを入れベースにはYokを充てて演奏することにした。

Kus Bersaudara
Mas Yosは現在五人組のKoes Brothersの名前があまりに西洋風なのでKus Bersaudaraに変えたらどうかとTonnyにアドバイスした。Tonnyも新しい名前に賛同し、1963年にTonny Koeswoyoと兄弟たちが新しいバンド名で放った最初のアルバムになった。この最初のアルバムは"Weni", "Terpesona", "Bis Sekolah", "Senja", dan "Telaga Sunyi"など12曲が入っている。このKoes Bersaudaraの12曲のすべてはTonny Koeswoyoの作品である。彼らの歌はRRIと空軍の放送局を通じて広く聴取者の耳に届いた。このAlbum Iの成功は当時インドネシアの音楽市場を支配していたRahmat Kartolo(/4) とAlfian(/5) の歌の人気を退けることになった。音楽評論家は聴取者の注意はKoes Bersaudaraに向いたと述べている。

Koes Bersaudara
レコードを出したとしてもKoes Bersaudaraの幸せは変わらなかった。かれらの当時の報酬はほんのわずかだった。ヒットした彼らの曲は単に何の変化も与えなかった。かれらはあちこちで演奏し結婚披露宴やスナタンのイベントに色どりを加えた。その後しばらくして長兄のJon Koeswoyoも1964年に脱退を決めた。すでに結婚していたJonはグループを脱退して船員になって働く場所のTubanに彼の家族を連れていくことを決意した。Jonが脱退してからこのグループはTonny Koeswoyoに率いられる四人兄弟となった。Tonnyはこの音楽グループの名前を1964年に変えてKoes Bersaudaraとなった。この新しい編成でTonnyはリードギタリストになり、Yon はリズムギターとともにリードボーカルのまま、Yokはベースギターを弾きながらの歌手で、Nomoはドラムであった。この様に演奏とYonとYokのボーカルはKalin TwinsやEarly Brothersの形からビートルズのスタイルに変化した。とはいえ、彼らはoleh John LennonやPaul McCartney, George Harrison,Ringo Starrで知られているような襟なし上着着る必要があるのではないかと思うほどであった。
このグループは続く数年間にいくつかのレコードアルバムで成功を勝ちとった。レコードという形で創作曲を有してはいたが彼らはまだステージで歌ったときは雀の涙ほどの報酬しか払ってもらっていなかった。Tonny Koeswoyoの歌はポピュラーにはなったもののKoewwoyo一家の家計には大きな変化がなかった。

投獄
1965年にKoes Berasudaraは国内で有名な音楽グループになりたに追随を許さなかった。しかしKoes Bersaudaraは一週間に二回のクマヨラン国際空港のレストランあるいはMegaria劇場での映画の間の間奏曲としての定期コンサートが必要だと感じていた。群となりあふれ出した観客からはいつも洋楽のリクエストを重複してもらった。Koes Bersaudaraがステージに上がっていた時に観客のリクエストで彼らはやむを得ずThe Beatles, Kalin Twins, Ricky Nelson, Everly Brothersの曲を演奏した。Tonnyは米英からの西洋音楽を禁止するPanpres Nomor 11 Tahun 1965が有効であることを知っていたが、Tonnyはファンのリクエストを拒否することは難しかった。
1965年6月25日Koes BersaudaraとDara Puspitaバンド、Quarta NadaはKoesno大佐の催し物に呼ばれた。この三つのトップバンドはかわりがわり洋楽を演奏した。最後にKoes Bersausaraが登場してThe BeatlesのI Saw Her Standing Thereわ演奏し始めてすぐ、Koesno大佐宅の屋根を超えた投石が起きた。「新植民地主義ひっこめ、文化ひっこめ、Ngak-ngik-Ngok(洋楽)やめろ」という左がかった叫び声も伴っていた。一旦ショーを中止して、洋楽を演奏しないと無理やり約束させられた。バンドメンバーの名前がデモ隊に記録された後、臨席者全員が自主的に退去した。
TonnyとNomo, Yon, Yokは安堵の気持ちで帰宅した。四日後のちょうど1965年6月29日にKoeswoyo四兄弟は逮捕されてGlodok刑務所に入れられた。逮捕令状はジャカルタ特別区国家検察庁が出したNo. 22/023/K/ SPPS/1965の一時拘留命令書で、Aroen SH中尉のサインが入っていた。彼らはNekolim(新植民地主義と帝国主義)の匂いがするインドネシアの文化に合わない洋楽を広めたとしてスカルノ大統領に告発されたのだった。逮捕当日Tonnyは弟たちと同じGlodok刑務所の房に入れられた。彼らは洋楽はインドネシア人を反映しないと考えられていて1965年当時には若い世代の精神を毒するゆえに危険だと考えられていた当時禁止されていた洋楽を単に演奏しただけなのにスカルノ旧時代政権によって服役させさられたのだった。四人は裁判もなしで刑務所で三カ月もしゃがんでいた。警察側も社会にKoes Bersaudaraの歌を流すことを禁じた。しかしながらKoes Bersaudaraのファンたちはラジオ・シンガポールの放送を通じて彼らの歌を聞くことができた。Koes Bersaudaraは対岸で彼らの曲のPagi Yang Indahが大ヒットしていた時には刑務所にいたのだった。彼らはインドネシア共産党撲滅の9月30日革命のちょうど一日前の1965年9月29日に釈放された。
出獄後、Tonnyは下記のKoes Bersaudaraの歌を通じて監獄の状況を描写した。この100日間の経験はミナン人の血を引く有力者Dick Tamimiの所有するMesraレーベルでDimita Moulding CompanyからKoes Bersaudaraの二枚のアルバムJadikan Aku DombaMuと To The So Called The Guiltiesに注ぎ込まれた。盛り込まれた歌にはMengapa Hari Telah Gelap, Balada Kamar 15, Di dalam Bui, Jadikan aku Dombamu, Voorman, Untuk ayah dan Ibuなどがありこれらはレコード盤になって市場で高い好感を得た。
2008年12月11日のMetro TVで放送されたKick Andy番組での聴衆の前で弟のYok Koeswayoが述懐した中でこれまで秘密にされてきた事実が明らかにされた。実際には彼らはマレーシアのスパイとされてその時に収監されたのであった。当時インドネシアはマレーシアと対立していた。「昔はKOTI(Komando Operasi Tertinggi=最高作戦司令部)があった。彼らは我々をリクルートしその司令官は海軍のKoesno大佐であった。単に当時の政府を我々をとても嫌うように仕向けたから我々は逮捕されたのだ。この逮捕に関連して、われわれを内緒でマレーシアに脱出させることであった。そこで我々は逆スパイとして利用されことになっていた。しかしながら11月29日(/6) に出獄してすぐに9月30日革命が勃発した」とYokは語っている。

出獄後Tonnyと弟たちの音楽は経歴は元に戻って進んだ。この期間に彼らの特性がとても明確になった。ビートルズのスタイルはまだKoes Bersaudaraにぶら下がってはいたものの、出獄後のTonnyの生んだ曲の大部分はビージーズの影響を受けている。この文脈で彼らはTree little wordやThe Land of evegreen, The Old Manのような英語の歌も出している。

Koes Plus
音楽活動では成功を収めたとはいえ、彼らのアルバムの売り上げからの収入をエンジョイできるほど多くなかったため、メンバーの生活は経済的に困難なだけであった。Koes Bersaudaraの生産性は1960年代末、はっきり言えば1968年から1969年にかけて弱まった。弟のNomo Koeswoyoは1969年にドラマーとしてのポジションを先駆けて去った。彼は家族を養うために音楽の分野以外の仕事を選んだために時々練習には来なくなった。Tonny Joewsoyoによれば、NomoはKoes Bersaudaraで音楽に焦点を合わせるか脱退するかを選ばされたのだった。Tonnyは弟たち全員が音楽に集中するように従っていたためTonnyの態度は極めて厳しかった。練習しているときにスタジオの外で友人たちと自動車の商売上の問題を話し合っていたNomoを時には追い払った。彼はすでに結婚していて子供が一人いたため、Nomoはより実務的な性格を持っていてTonnysは異なる人生観を持っていた、

NomoがいなくなったドラマーのポジションはKasmuri(Murryの呼び名で知られている)に変わった。Murryはスラバヤ出身で検事が所有する元Band Patasのドラマーであった。MurryはYonの友達のTommy Darmoを通じてTonnyに推薦した。この時本当はTommy DarmoがNomoの後釜のドラマーになりたかった。しかしスラバヤ出身のこのTommyはドラムのスキルが不十分であった。ぴったりのドラマーが見つからなかったためTonnyは親友のTotok ARというベーシストに援助を頼んだ。TotokのTonnyに対してMurryを推薦した。YonはTommyがMurryをスラバヤ時代から知っていたので、彼らのところにMurryを連れてくるようにTommy Dramoに頼んだ。
Nomoを脱退させるTonnyの決断は末の弟のYok Koeswoyoの強硬な反応を引き出した。Nomoへの同情という形として彼も脱退することを選んだ。YokはKoeswoyo兄弟以外のメンバーと一緒に演奏したくないので脱退したのだった。両者は大騒ぎとなり、TonnyとYonはこのバンドのペーストドラムセットを彼ら以外のグループで使うことを禁じたのだった。彼らはこのバンドを解散しようかと提案したこともあった。更に、彼らはMurryを紹介したと思われたのでTommy Darmoをも脅したことがあった。Tonnyは彼の決定事項に固執した。1969年には彼らの母親が亡くなったのだが、彼の意見は変わらなかった。
経済的に困難な状況の中で、NomoとYokが脱退した後Tonny Koeswoyoの経済状態も悪化した、かれは命を繋ぐために持っていたラジオを売ってbecakを買うことに至ってしまった。Tonnyは音楽分野で生き残るために精一杯努力した。かれは決定が速かった。女性ギタリストバンドのDara PuspitaのTitiek ARとLies ARの弟のAdji Kartono(Totok AR)をベーシストに採用した。Totokは1960年代末からジャカルタのJalan Sungai Pawan No. 1のKoes Bersaudaraの本拠地で彼らとともに寝起きしていたので、Koes Bersaudaraのメンバーたちにとって新顔ではなかった。その前に彼はバンドンがベースになっているPhillonバンドで外国のロックミュージックを演奏していた。

弟のYonと追加したTotok ARとMurry (Kasmuri)と共に、彼はFREE AND PEACEと暫定的に名付けた新しいグループを結成した。この名は長くは用いられなかった。彼は当時の風邪薬のAPC PLUSのブランド名からインスピレーションを得た。そしてTonnyは、最終的にTonny, Yon, Totok AR, Murryの四人で構成される新しいグループバンドの名にKoes Plusを選んだ。このKoestonoオリジナルの名前の指揮者はMurryの参加で新しいエネルギへを得たようで、彼の創造性はより多くのバリエーションをもった音楽リズムを表現することで溜めておけなくなった。この編成はまだ有名ではなく楽器の一部は借用品であったためぐらついてはいたものの1969年にKoes Plusのためのアルバムをリリースしようとした。
Koes PlusはDick Tamimi所有のDimita/Mesraからリリースされたアルバム Volume I Dheg Dheg Plasを通じて公式に活動し始めた。このような構成で、Koes Plusはインドネシアの音楽愛好家から間接的な同情を得たのだった。彼らの最初のアルバムのレコードはいくつかの音楽ショップで拒否された。とはいえ本当に楽しい曲Kelelawar=コウモリは彼らを笑わせた。これはTonnyにとってではなく他のメンバへの一部をぐらつかせた。
Murryは気難しく、友人たちにただでレコードアルバムを配りながら東ジャワ州のJemberに行った。彼はLemon TreesというグループでGomblohとともに演奏しながら製糖工場で働いていた。TonnyはMurryをJemberまで追いかけてジャカルタに戻るように誘った。RRIでKelelawar1970年のアルバムKoes Plus Volume IIでTonnyは末の弟のYokをKoes Plusに復帰させることができた。これ以来YokもTotok ARの後釜に公式に座ることとなった。Totok ARは後日Pertamina Bandに参加した。このときにTonnyは弟嗎Nomoを呼び返さなかった。彼は音楽のスタイルに合わせたMurryのドラムテクニックそのままを使うことを見つけたのだった。これ以外にMurryはTonnyの希望通りに作曲もできた。Murryと共に彼らはKoes Plusグループを拡大した。このAlbum Volume IIでKoes Plusの名前は知られ始めた。Koes Plusはゆっくりと流行り始めて国内バンドの王者になり始めたのだった。
Koes Plusの名前は1970年11月にIstora Senayanで行われたバンドジャンボリーのイベントでManis dan SayangとともにDeritaを歌って出演した後ライブで聴衆から歓迎された。この時Koes PlusはPanbersや他の有名なバンドと共に出演した。すべてバンドは英語で洋楽を歌った。インドネシア語の自作の曲を歌う勇気があったのはKoes Plusだけだった。これ以来、Koes Plusの人気はますますさえぎられることなくブームと名のインドネシア音楽産業界の王者となった。特筆すべきはこの後Eugene Timothy率いるRemacoからに移籍した。ついにKoes PlusはRemacoに絶え間なく拍車をかけられたヒットマシンになったのだった。1974年の記録ではKoes Plusが毎月二枚、年間合計24枚のアルバムをリリースしたことになっている。
1970年代は単に彼らの時代だった。1972年から1976年にかけてインドネシアの空は実にKoes Plusの歌で満たされた。ラジオのみならずパーティーでも常にKoes Plusの歌が流れた。この当時青年だった人でKoes Plusを知らないインドネシア人は多分いないだろう。Koes Plusが新アルバムをだすときには常に多数のKoes Plustの愛好家たちと一般社会が待ち受けていた。Murryは気難しく彼の友達にレコード化したアルバムをただで配りつつ、東ジャワ州のJemberに行った。彼はLemon Treesという音楽グループでGomblohと共にバンド活動をしながら製糖工場で働いた。Tonnyはその後ジャカルタに戻ってくるようにMurryを追いかけてJemberまで行った。RRIで彼らの曲KelelawarがかかってすぐKoes Plusの最初のアルバムを人々は探した。しばらくして、Koes PlusはDerita, Kembali ke Jakarta, Malam Ini, Bunga di Tepi Jalan、Cinta Butaの曲を通じて当時のラジオ音楽ランクキングでインドネシア音楽界を支配し始めたのであった。

このグループがポップスやDangdut, Melayu, Keroncong, Jawa, Folksong, Rock, Bosanova, Qasidah, Rohani Natal, 子供用ポップスなどいろいろな種類の音楽で100枚以上のアルバをリリースすることができた。彼らの歌の多数は現在に至るまで懐メロヒットになった。彼らの歌はインドネシア歌謡ランキングでヒットし。Bujangan, Muda-Mudi, Kembali ke Jakartaなどの様にすべての年代の人に唄われた。彼らはソフトドリンクのF&N、トヨタキジャン、ノートの表紙など広告でのスターにもなった。

家族の支え
国内音楽界へのKoes Plusの浸透の成功は彼らの一家からの同情を引き出した。父親のR. Koeswoyo(2000年8月8日ジャカルタで没)からのものを含めたKoeswoyo一家からの支持もやってきた。この父親はYon KoeswoyoがすべてをきちんとうたったKoes Plusのアルバムのために多数の(33曲)の曲を提供した。父親の作曲した歌は一概にいうとポヒュラーとその一部はkeroncongの雰囲気のジャンルに入る。これにはMuda-Mudi, Oh Kasihku, Keroncong Pertemuan, Layang-layang, Penyanyi Tua, Mari Mari Oe もっとはっきり言うと Jangan Bimbang Ragu, Nasib Penyanyi Butuh Uangなどがある。

No Koesとの競合
ビジネスで成功した弟のNomo Koeswoyoは後日音楽界に復帰しようと挑戦した。彼もKoeswoyo家族以外のミュージシャンたちと一緒に1970年代初期に自分自身の音楽グループを立ち上げた。このグループバンドはNo Koesと名付けられた。このグループは成功したと言われ1970年代末にはKoes Plusの王者の地位を脅かす強力な対抗馬になった。

Koes Bersaudaraの再編
1976年と1977年Koes Plusの人気は下降し始めた。Koes Plusは彼らの音楽のアイデアが枯渇したと疑った人が多かった。Eugene TimothyはKoes Bersaudaraの最高のアイデアをぶち上げた。これ以外にずっと前から、兄弟同士間で運営している二つのバンドの競合の実態に同情するKoeswoyo一家の主張もあった。更には1960年代のKoes Bersaudara全盛期を懐かしんだ彼らの古くからのファンの意思もあったのだった。
1977年初めにTonny Koeswoyoは1969年につぶしてしまったKoes Bersaudara音楽グループの再興を準備し始めた。彼はYonとYokとともに一つのクループとして一つなるために弟のNomoを呼び戻した。四人のKoeswoyo兄弟が一堂に集って再結成に賛成した。彼らの登場は1977年のKoes Bersaudara Seri Perdanaのアルバムに収録されている曲のKembaliに記されている。今に至るまで伝説となっている究極の一曲になったこの歌は当時ヒット曲になった。この統合はKoeswoyo一家からの十分な支持を得た。父親のKoeswoyo Sr.は曲Demi Cintaを提供した。同様に長兄のJonも弟のYonとと共に仕上げた自作の曲Haru dan Bahagiaを提供した。Nomoも、彼らの統一に際して大きな役割を果たした父親への尊敬の感情を込めた曲Ayahを作曲した。
このアルバムの成功は1978年に至るまでの続く4アルバムを伴った。この再結成ですべてのメンバーが曲を提供しその一部は作曲者自身が歌った。Koes Bersaudaraはこの時期から各々のメンバーが作曲して作曲者が歌うというように特徴づけた。しかし、このアルバムは市場ではあまり成功しなかった。1970年代に市場ではすでに強かったKoes Plusの人気も1960年代に流行ったKoes Bersaudaraの復帰に一致しえなかった。このグループは最終的に非公式に解散しTonnyは弟のYonとYokと共にMurryを加えてKoes Plusグループを再編したのだった。

1979-19080年にかけてKoes Bersaudaraは強力な家族のサポートで再結成しようとしていた。今回は妹のNinoek Koeswoyoが数曲を提供した。彼らは市場に二枚のアルバムを出した。Koes Plusのイメージがファンの眼に強く焼き付いていたためこのアルバムはそれほどの成功を納めなかった。このグループはこのあと数年間の空白期間に戻ってしまった。Yonと兄弟たちはKoes Plusに復帰し、一方Nomoはその当時成功したビジネスをに専念するとともにソロシンガーとして芸能経歴芸のを重ねた。
1986年にKoes Bersaudaraは再結成され1987年に6枚のアルバムを出した。このグループは1987年にレコード化されたアルバムKau Datang Lagiの同名の曲で成功を収めた。この年にTonny Koeswoyoが重病になりついには失くなってしまったので彼らの結束はそれほど長くは続かなかった。
亡くなる前にTonny KoeswoyoはKoes Bersaudaraと共にアルバムDia Permata Hatikuをリリースして、TVRIのSelekta Pop Artis Safariの番組に子供歌手になった姪のChicha KoeswoyoとSari Yok Koeswoyoと出演した。
Tonnyの死後、残された三人の兄弟は1988年に8枚、2000年には2枚のKoes Bersaudaraのアルバムを出した。このアルバムはTonnyが亡くなる前に作った歌で世に出ていない曲がその一部になっている。そのユニークさは、YonとYok, Nomo, Murryの構成で1988年にリリースされたCoutry PopというKoes Bersaudaraのアルバムである。

Tonny没後のKoes Plus
Tonnyが亡くなる前にKoes Plusの存続を弟たちに遺言したことがあった。残されたKoes Plusのメンバーたちは1987年名はAIDSと1991年にはPop Melayu Amelindaのアルバムを出した。これらのアルバムは1970年代ほどには売れなかった。1993年末にこのバンドはカムバックショーで国内を驚かせた。ここから、最初の頃はコンサートチケットがかなり高かったのだがKoes Plusのショーの急成長と成功に証明されるようにこのバンドは彼らの黄金時代を懐かしむ多数の忠実なファンがまだいることが見える。
Koes Plusは、病気による1997年のYokの引退とその後の同様の2004年のMurryの引退など何回もメンバーチェンジがあったが今に至るまで存続している。今に至るまでKoes Plusに残っているのはKoes Plusの偉大さを象徴している忠実な家族の一人のYon Koeswoyoだけであり他の新メンバーはとても若い人である。Koes Plusの芸能経歴での成功は、有力者や音楽評論家が認めていて、1992年8月から始まったほぼ毎回と言っていいほどの定期的なBASF Awardを受賞している。

音楽におけるTonnyの開拓者精神
自作の曲を自分で演奏するというインドネシア音楽史はKoes Bersaudaraが作った伝統である。Koes Bersaudaraはインドネシア語の曲を作ってレコード化したパイオニアである。その後、この伝統はVolume 1 & 2とその続きのアルバムでKoes Plusに引き継がれている。Koes BersaudaraもKoes Plusもその当初は洋楽の方に向いていたが、Tonnyがインドネシアのミュージシャンはインドネシアの伝統音楽芸術の豊かさを掘り返すことを嫌ってはならないと叫んだ。そして彼は実にインドネシアの地方や伝統色でその音楽を集めることに成功することでその証拠とすることができた。今に至るまで、理想的にTonnyの一貫性をもつミュージシャンに出会うことは難しい。このことはPop Indonesia, Pop Jawa, Pop Melayu, Pop Keroncong、派生的な子供用、クリスマス、Qasidah、英語の歌、Album in Hard Bear, Folksongのアルバムの存在によって証拠づけられる。

Tonnyは広い視野を持っていたため質の良い曲と歌詞を生み出すことがとても上手だった。Al Qur’an、旧約聖書、Gitanjali, Bhagawad Gita, Vivekanandaなどを原典とした哲学的に読み物が彼の作品の一部に影響を与えている。Tonny Koeswoyoが作った曲は恋愛をテーマにしただけではなく、信仰やナショナリズム、自然賛美などもある。
この当時のKoes Bersaudaraの優越性はTonny Koeswoyo自身にあった。彼はKoes Bersaudaraの音楽にSimple is beautifulを配合したのだった。その当時音楽評論家にとって誤った理解が一時的に生じたことがあったが、ごく普通の歌詞とイージーリスニングな曲を作る概念は60年にわたって歌い続けられてきたKoes BersaudaraとKoes Plusの歌になったのであり、時代を超える大衆の歌になったことは不可能ではないのである。彼は普通の言葉の形式を取ってはいるがたくさんの意味を含んだ心を打つ歌詞も創作したのだった。Koes Bersaudaraは音に印を踏んだ歌詞を多数使っているので読みやすく耳に優しい。このことは彼がChairil Anwarや川端康成の文芸作品を好んで読んだことに影響されている。。これだけではなく、TonnyはKoes Bersaudaraのブレーンとして、曲名はその曲の歌詞にぴったり合わせることと共に一行内の語数の要素とリズム的に言葉の強さをぴったり合わせることを忘れることがなかった。

Koes Bersaudaraの歌詞とメロディーのオリジナリティを維持するために、当初Tonnyは弟たちに作曲することを禁じた。後日彼はバンドのための曲を作るように弟たちを支援するように考え方を変えた。彼は弟のドラマーであるNomo Koeswoyoに、Tonnyの音楽の概念に合わない演奏方法をとるKemayoranでのDomingo Rodaにドラむを習うことを禁じた。Tonny Koeswoyoの規律と忍耐、楽観は弟たちの演奏と歌唱の才能を研ぎ澄ますことになり、ひいてはKoes Bersaudaraのショーの成功につながった。このことはKoes Plusの時代にも引き継がれ、彼らの歌は実に耳に心地よく、内容があり、国内の音楽愛好家の耳に親しくなり、ラジオ放送でしばしばかけられるようになり、各種のパーティーイベントで多数歌われることになった。

彼の作品は彼の死後も多数リバイバルヒットした。Tonny Koewoyoが作った歌Cintamu Telah Berlaluを歌ったChrisyeはTonny Koeswoyoの作った歌詞は詩的で深い意味とを有していると語った。Lex’s TrioはKoes Plusの曲を特別に歌ったアルバムを作った。故人になった歌手のRichie Ricardoは曲Bus Sekolahを再び歌ったと記録されている。曲Manis dan SayangもKahitnaが歌っている。若い歌手のMarshandaはKisah Seih di Hari Mingguをリバイバルヒットさせた。Andaikan Kau DatangはRuth Sahanayaがリバイバルヒットさせた。この曲は第四代大統領のSusilo Bambang Yudhoyonoの好んだものであり時々大統領官邸での各種のイベントで歌われた。2004年に2000年代の有名な歌手Harvey Malaiholo, Armand Maulana, Audy, Glenn Fredly, Ruth Sahanaya, Andy /rif, Duta Sheila on7などを巻き込んで作曲家Erwin Gutawaが思い描いていたSalute to Koes Plus/Bersaudaraの大コンサートが成功裏に開催された。
これ以外に1980年代以降今に至るまで国内バンドの少なくない人たちが、Koes BersaudaraとKoes Plusの歌を特別に歌ったり、しばしば彼らのショーで歌ったりした。これを称賛する外国の音額評論家でファンになった人も少なくない。取り立てて言えば、Koes BersaudaraとKoes Plusのすべてのアルバムを収集しているアメリカのAllan Bishopが挙げられる。

プライベートライフと社会生活
音楽で生計を立てるといったん決めたものの、Tonnyは両親の希望通り大学まで学業を続けようとした。彼の最終学歴はIKIP Jakarta(現在UNJ)の英語学科であったが、最終段階まで行ったのにもかかわらず終了できなかった。この大学で彼はキャンパス内で行われる大学生の各種の芸能行動に熱心に参加した。スカルノ時代における重大な政治危機に陥っていた国の状況下で彼も大学生組織の活動に積極的に参加したこともあった。彼はHimpunan Mahsiswa Islam(HMIイスラム学生同盟)とGerakan Mahasiswa Nasionalis Indonesia (GMNIインドネシア民族主義学生運動)で活動的であった。ここで宗教と民族主義の要素が強い個性の二つの面が見られる。
強力な民族主義の精神はKoes Plusの幾つかのアルバムにある曲Nusantara1-8シリーズに反映されている。Koes Plusと共にTonnyはGanyang Malaysia作戦(/7) に関してスカルノ政府と共に密使を演じようとした。同様にスハルトの新体制でも、Timor TimurのDili空港での活動は1975年にポルトガルの元支配地地域へのインドネシア国軍が侵攻する先駆けになった。この「政治案件」に関連して、Dianaのような曲が生まれた。(この歌はジャワ人農民の名前には普通存在しないDianaという農民の娘について語ったものである。) これ以外にもラテン音楽の要素がはっきりとみられるDa Silvaという曲もある。
Tonnyは長くはなかったが国営農園会社の代理店で働いたこともあった。自作の曲をレコード化する条件としての作曲へ挑戦するべく音楽へと傾注するために辞職したのだった。音楽活動での成功で彼は兄のJon Koeswoyoが弟たちにしてくれたことも忘れなかった。Tonnyと弟たちは彼らの収入の一部をしばしば兄の家族の生活ひの補助に充てていた。
Tonnyは二回結婚した。最初は西スマトラ出身で南タパヌリ県の血を引く女性のAstrid Tobingと結婚した。この結婚は離婚に終わった。この結婚でTonnyはKen AngelinaとEki Diparamita, Damon Wicaksi Wangsaの三人の子供を得た。Damon (Damon Koeswoyo)はギタリストとしてTonnyと同じ道に進み、1994年のKoes Plusの再編の際にバンドを強化した。続いてDamonはYon Koeswoyoの息子のDavid Koeswoyoである従弟とDadakoeグループを結成した。
Tonnyはその後アメリカ出身のKaren Julieと再婚した。この妻への感嘆を彼は妻の名前を取った曲の中に注ぎこんでいる。二回目の結婚で現在Karen Julieと共に英国に住んでいる娘Kirsty Koeswoyoと息子Cleo Koeswoyoを得た。

逝去
Tonny Koeswoyoは致命的となった大腸がんによりジャカルタで1987年3月27日に51歳で亡くなった。音楽活動をやるうえで長いことこの病気は無視されてきた。音楽活動への高い意図は健康を忘れさせたのだった。Tonnyは家族の前で静かに亡くなった。彼はSang Khalik(神)に対面する時に長兄のJon Koeswoyoに案内されるだろう。
Tonny Koeswoyoは家族の生活費を捻出する資金がないまま亡くなった。彼の妻はジャカルタのPondok Indahの幼稚園での英語教師として働くまでになった。入院治療費用は弟のNomo Koeswoyoが捻出した。ミュージシャン仲間数人も資金を出したことがあった。250万ルピアを出したのはEddy Sud, koordinator artis Safariであった。
Setia Mitra病院での治療中、彼の病気がますますひどくなった時でも、一人のミュージシャンとしての希望は少しも減らなかった。Tonnyが楽想を思いついた時ギターを抱えさせるために親友のミュージシャンのOnny Suryonoが彼を支えた。ミュージシャンとしてのTonny Koeswoyoの最後の遺産となったと思われるいくつかの曲が作られた。Cakrawala HatiとDewi Sri, Nenek Sayang, Wit Gedhangである。この歌はインドネシアのポップス界の革命家となったミュージシャンの驚異の残光の証拠となった。
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使用楽器
ギター
• Fender Stratocaster
• Gibson SG Special
• Hofner Galaxy Series
• Hofner Verythin CT
• Burns Baldwin
• Gibson Les Paul
オルガン
• Farfisa Compact Duo
• Farfisa Professional Series
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Up主の脚注
  1. Sunan Muriaは16世紀の人だから25代目くらいにならないと変である
  2. 東ジャワの伝統的なコメディーの一つ
  3. 箒などに使う椰子の葉の硬い芯
  4. カントリーウエスタンスタイルの曲調。
  5. ハワイアンスタイルの曲調
  6. 文脈から見ると9月29日の間違いだろう。
  7. 対マレーシア作戦

[出典]
https://id.wikipedia.org/wiki/Tonny_Koeswoyo

Toto Salmon
クロンチョン歌手
Kr. Telomoyo, Kr. Bandar Jakarta, Lgm Bengawan Solo, Kr. Dewi Murni, Kr. Sapu Lidi, Kr. Bayangan Kasih, Kr. Kr. Tangis Sukamto, Lgm Seledang Sutera, Kr. Segenggam Harapan, Kr. Keindahan Alamm Kr. Malamの歌手。
[出典]
Youtube

Trie Utami
歌手・作曲家
Iieと2普通呼ばれているTrie Utami Sariは西ジャワ州バンドンで1968年1月8日に生まれた。
彼女はスンダ人とジャワ人の血を引くインドネシアのシンガーソングライターである。Trieは退役大佐のHaji SoedjonoとHajjah Soejarni Oesoepの間の娘である。Trieは三人兄弟の末っ子である。

バイオグラフィー
幼少期
Iieは小さい頃から音楽に親しんでいた。彼らの家は常にレコードでのクラシック曲と共にPat Boone, Glen Muller, Perry Comoの曲で満たされていた。1972年から1986年まで、二人の姉Purwa TjarakaとThea Ika Ratnaと共にIieはピアノの練習をした。ピアノの先生は、バンドンの音楽教育センター財団(YPPM)のLindaであったと共にハンガリー人のAlfons BecalelとRhinnoであった。1978年にIieはバンドンのBina Mustikaで音楽教育を受けた。
幼稚園以来、Iieは歌うことが大好きであった。Iieも Ibu Kasurと Ibu Sud, A.T. Mahmudが進行役を務めるTVRIの子供スター番組を熱心に見ていた。Iieは歌謡大会にも常に出場していた。Iieが最初に出たテレビ番組は1977年のTVRIのAyo Menyanyiという小学生歌唱競技番組であった。数年後にIieはバンドンでの独立戦争の時の歌の競技会で二等に入った。これ以来Iieは常にTVRI Jakartaでゲストスターシンガーになった。

高校時代Iieは姉のPurwa TjarakaについてTheaの代わりにバンドンのレストランで定期的に歌うことになった。これ以外にIieはバンドンのRadio Dee-Day その後Radio OZ 103 FMでアナウンサーになりKahitnaバンドでのリードボーカリストにもなった。
高校卒業後Iieは米国での音楽の勉強を続けたかったが、残念ながら家族にはその金銭的余裕がなかった。二人の姉が大学に進むのとは異なり、Iieは学業を続けないことを決めた。Iieはその後キーボート―やサキソフォンで音楽的能力を増々深め、バンドンのドラムバンドグループのGenta Winaya Drum Corpsで曲のアレンジの訓練を行った。

芸能経歴
Iieのプロとしての最初の仕事は当時大変流行っていたジャズの流れをくむバンドのKrakatauからのオファーがあった時だった。Krakatauと共にIieは最初のアルバムである「First Album」を1986年に作った。それにもかかわらずIieの名前は1987年のPrambors青年創作曲競技会でEdwin SaladinとAdelansya作のKeraguanを歌って優勝したときから知られ始めた。Iieは1989年のインドネシアポップス歌手祭で優勝もした。

国内競技会に参加する以外にIieは外国の競技会にトライした。彼女は1990年のクアラルンプールでのABU (Asia Pasific Broadcasting Union) Golden Kite World Song Festivalと1992年のルーマニア・BrasovでのThe Golden Stag International Singing Contestでグランプリウィナーになった。彼女は2000年のNews Music誌でペスト女性ジャズシンガーとして選ばれたとともに同年のバンコクでのABU International Anthemで優勝者として持ち上げられた。
ヒットしたIieの曲にはKau Datang, 自作のUntuk Ayah dan Ibu, Nurlela 1とNurlena 2がある。この最後の歌はRumpiesグループに参加したVina Panduwinata, Atiek CB, Malydと共に歌っている。
Iieは劇場映画やテレビ映画のテーマ曲、Elegi Buat Nana (1988), 2003年のPerisai Kasih yang TerkoyakとLembang Ilalangも歌った。歌唱以外にIieは作曲も行った。数十曲を作った後でこれらを自分で歌ったのみならず他の人に歌わせた。自作の曲で有名なものはPurwa Tjarakaと共に歌ったインドネシアダンドゥットコンテンスとのテーマ曲になったJadilah Bintangがある。

Trie Utamiは2004年から2006年に人気を博したAkademi Fantasi Indosiarの審査員としてあだ名のMiss Pitch Controlで出演したことで公衆に増々知られるようになった。彼女は2013年のAkademi Fantasi Indosiarの審査員にもなった。

プライベートライフ
IIeは1991年にミュージシャンのViva Permadi (Wiwie GV)と結婚した。二人は故人の遺志に従いWiwieの父親の遺体に対面して結婚した。この結婚は約二年間で離婚に至った。Iieは1995年11月23日に、南スラウェシの著名人であるAndi Baso Amirの息子のAndi Analta Baso Amirと結婚した。しかし前回の結婚と同様にこの結婚も10年間耐えたあげくの離婚に終わった。離婚理由は夫による拘束からIieを解放することだった。

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ディスコグラフィ
スタジオアルバム
  • Untuk Ayah dan Ibu Tercinta (1991)
  • Kau yang Kutunggu (bersama Deddy Dhukun) (1992)
  • Cemburu (1995)
  • Mungkinkah Terjadi (bersama Utha Likumahuwa (1996)
  • Kekasih Bayangan (2007)

ミニアルバム
  • Centil = Aced (1991)
  • Gimana (1991)


  • 1989 - 10 Bintang Khatulistiwaのメインボーカルで Rezky Ichwan作のMaaf
  • 1991 - Salah Apa Aku bersama Malyda
  • 2006 - Djaduk Ferianto作のクリスマスアルバムの中のAlam Raya Karya Bapa とMalam Kudus k
[出典]
https://id.wikipedia.org/wiki/Trie_Utami

 Tulus
歌手、作曲家
Muhammad Tulus, S.Arsは1987年8月20日に生まれた。彼はインドネシアのシンガーソングライターである。

Tulusは2011年9月に音楽の途に入り、活動中のシンガーソングライターとして自作の曲をリリースしている。芸術家としてだけではなく、Tulusは実兄のRiri Muktamarとともにタレント事務所を経営しレコード会社での重鎮を占めている。TulusCompanyは公式に5毎のアルバムをリリースしている。

音楽界での10年間にTulusは音楽と映画撮影の分野で70以上の賞を受けている。TulusCompanyの大きな希望はTulusの曲を楽しめるリスナーの人たちをより多く獲得することではあるとはいえ、社会の彼に対する認識は以前には想像もできなかった形となった。
音楽メディアを通じた精力的な活動のみならず、スマトラ象保護のためのTeman Gajahやインドネシアでの教育の推進のためのキャンペーンのためのBantu Guru Belajarという社会的な目的でこの二つの独立したキャンペーンをTulusは始めた。
【幼少時】
Tulusは1987年8月20日に西スマトラ州Bukittinggi市で生まれた。彼はミナンカバウ家族の三人の兄弟の末っ子である。父親はコントラクターとして働き、母親は音楽カセットを販売していた。

TulusはPayakumbuh市の小学校三年生の時に級友の前で歌い始めた。その時彼はNurという音楽教師に無理やり歌わされた。その教師はTulusの歌唱能力に気づき、歌手への道を勧めた。Tulusが中学二年生の時にパダン市で行われたErwin Gutawaのアレンジした曲でのChrisyeのコンサートに行った。この体験が音楽界を深く印象づけた。

高校に進学してTulusは両親と共にバンドンに引っ越した。大学就学のためにそれより先に同地に住んでいたTulusの兄たちに彼らが続いたのであった。彼はバンドンのPGII 1高校に入学し、建築家になる意欲を出してバンドンのKatholik Parahyangan大学の建築学科に入学した。

大学時代に彼は友人から習って作詞を始めた。音楽的背景なしにTulusは直感で曲を書いた。歌詞のために彼はミナンカバウの古い詩の形に影響されたたとえ話とパントゥンを参考にした。

大学生活の末期にTulusはジャズクラブコミュニティとバンドン市のいくつかの大学キャンパスで頻繁に歌い始めた。大学時代、彼はSikuai Bandに参加していたことがあった。
【音楽経歴】
Ari (Aru) RenaldiにプロデュースされてDemajorsで販売されたTulusの主要アルバムTULUSは自己所有のTulusCompanyの自家録音で2011年9月28日にリリースされ、Tulusは曲のすべてを創作しAri Renaldiは上記のアルバムのコンポーザーと副プロデューサーとして役割を果たした。Tulusの実兄のRiri Muktamarはエグゼクティブプロデューサーとして指揮をとった。Sewindu, Teman Hidup, Kisah Sebentar, Tuan Nona Kesepianと Jatuh Cintaなどの曲はインドネシアのいくつかのラジオ局の人気ランキングで王者になった。

雑誌Rolling Stone IndonesiaはTulusを編集者の選択として2013年のRookie of The Yearの王位につけた。それとは別に、彼の主要アルバムは2012年の1月と2月にRolling Stoneのランキングトップに据えられた。曲Teman HidupはKompas TVのK-20ランキングの一位になることができた。

Tulusはファンを満足させるために頻繁に単独コンサートを開催した。最初のコンサートはTulus: An Introduction と銘打ってバンドンのAutitorium Center Culture Francais (現IFI)で2011年9月28日に開催され、その後Tulusのコンサートは2012年5月25日にジャカルタの Gedung KesenianでTulus: Beyong Sincereと名打ち、 そしてKonser Dioramaと題した単独コンサートは2013年5月9日にバンドンのDago Tea Houseの劇場で開催された。

TULUS-Gajahというタイトルの二番目のアルバムが2014年2月19日に発売されたのに伴い、2014年9月25日にバンドンのSasana Budaya Ganeshaで、2014年12月2日にはジャカルタのBalai Kartini Kartika Expoで、さらには2015年3月21日にはジョグジャカルタのGrand Pasific HallでTulusは単独コンサートを開いた。アルバムTULUS-GajahはアルバムTULUS-Tulusと同様、変わらずにAri Renaldiのプロデュースの元、自分の会社TulusCompanyの音楽レーベル会社を通じてリリースされた。

Tulusは7年間の音楽キャリアで音楽部門とシネマトグラフィ部門で表彰を50回受けた。昨2017年にアルバムMonokromでAMI Awardの五冠を達成しえた。TulusはジャカルタのGeloraBungkarnoで行われた第18会アジア大会開催式でインドネシア・ラヤ(インドネシアの国歌)を歌う指揮者に抜擢されるという幸運に恵まれた。

音楽部門での活動に限定せずTulusは、イラストレーター、グラフィックデザイナー、アートバ゜ーフォーマー、ビデオグラファー、フォトグラファーなどの各種のプロフェッショナルと音楽産業界の外でコラボした。Davy Linggar, Melati Suryodharmo, Papermoon Puppet TheatreとKendra ParamitaがTulusが相手にしたあまたのコラボしたプロたちの中の四人である。

これまでにTulusの曲はデジタルストリーミングSpotifyを通じて9700万回も聞かれた。TulusもデジタルストリーミングSpotifyで100万人のお得意様をもつインドネシア第一のミュージシャンになった。YoutubeのMusikTulusチャンネルでは425,668人のファンを有し、Tulusのビデオは合計すると224,098,506回再生された。

インドネシアはTulusの音楽事業のホームである、とはいえこのホームで音楽作品を出すのをやめないばかりか、Tulusは2015年に日本へも事業を拡大している。Tulusの第一歩はKutsuという題のTulusの自作の日本語の曲のリリースで始まった。日本語版では曲Sepatuの歌詞がKutsuとなっている。日本での事業開始三年目に日本インドネシア友好大使60人に選出された幸運に恵まれた。

日本の後、TulusCompanyは隣国のマレーシアへリスナーの拡大の歩を進めた。同国での事業はTulusCompanyの代表としてShiraz Projectをつかむことで2015年6月にアルバムMonokromを正式に発表することで開始された。Wardahを入れたShiraz Projectと共同で仕事を行い、彼はクアラルンプルのIstana Budayaで2018年9月中旬に開催された主要なミニコンサートを開くことに成功した。このコンサートでは1200枚のチケットが売りあげられた。

2016年10月初旬にTulusはサンフランシスコで主要なショーに登場する好機を得た。Tulus Live in Sanfransicoはそのショーのタイトルになった。The RecencyのSocial Hallで開催されTulusは自作の14曲を披露した。

サンフランシスコの後、Tulusは日本の浜松でツアーを続けた。この間International Jazz Festival in Hamamatsuと題した国際的スケールでのジャズフェスティバルのオープニング歌手として登場した。
【ディスコグラフィー】
  • Tulus (2011)
  • Gajah (2014)
  • Monokrom (2016)
  • Manusia (2022)
【フィルモグラフィー】
タイトル  配役  註 
 2016-2017 The Voice Kids Indonesia   Juri 第1&2巻 

【ツアー】
  • Tur Sewindu (2019)
  • Tur Manusia (2023)
【表彰】
ムスタングアンケート賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2022 Song of the Year Hati-Hati di Jalan 獲得
Ter-Relateable ノミネート
Ter-Produktif Tulus ノミネート

インドネシア音楽賞(Anugerah Musik Indonesia)

カテゴリー ノミネート作品 結果
2015 最優秀アルバム賞 Gajah 獲得
最優秀ポップスアルバム賞 獲得
最優秀作曲賞 Jangan Cintai Aku Apa Adanya 獲得
最優秀男性ポップス歌手賞 獲得
最優秀ポップス作曲賞 ノミネート
Gajah 獲得
最優秀Soul/R&B/Urban男女ソロ歌手賞 Baru ノミネート
2016 最優秀作曲賞 Pamit ノミネート
最優秀男性ポップス歌手賞 獲得
最優秀ポップス作曲賞 Pamit (bersama Ari Renaldi) ノミネート
最優秀Soul/R&B/Urbanグループ・コラボ賞 Para Pe獲得 (bersama RAN) ノミネート
2017 最優秀アルバム賞 Monokrom 獲得
最優秀Soul/R&B/Urbanアルバム賞 獲得
最優秀作曲賞 Monokrom 獲得
最優秀Soul/R&B/Urban男女ソロ歌手賞 獲得
2019 最優秀男女ソロUrban歌手賞 Labirin 獲得
最優秀作曲賞 ノミネート
Adu Rayu (bersama Yovie Widianto &Glenn Fredly) 獲得
最優秀コラボ作品賞 獲得
最優秀ポップス作曲賞 Adu Rayu (bersama Yovie Widianto) ノミネート
2020 最優秀男女ソロポップス歌手賞 Adaptasi ノミネート
2022 最優秀アルバム賞 Manusia 獲得
最優秀ポップスアルバム賞 獲得
優秀作曲賞 Hati-Hati di Jalan 獲得
最優秀男女ソロポップス歌手賞 獲得
最優秀ポップス作曲賞 Hati-Hati di Jalan (bersama Ari Renaldi) ノミネート
Karya Produksi 最優秀Folk/Country/バラード作成作品賞 Diri ノミネート

ミュージックプラネット賞 (Anugerah planet Muzik)
カテゴリー ノミネート作品 結果
2014 最優秀男性新人賞 Tulus 獲得
2015 最人気アーティスト賞 ノミネート
最流行曲賞r Satu Hari di Bulan Juni ノミネート
最優秀コラボ賞(男性) Jangan Coba Berlari (bersama Sezairi) 獲得
2016 最人気アーティスト賞 Tulus ノミネート
最人気曲賞 Pamit ノミネート
最優秀曲賞(Indonesia) ノミネート
2017 最優秀アーティスト賞(男性) Monokrom ノミネート
最優秀曲賞(Indonesia) ノミネート

Ardan Group賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2013 最大再生曲賞 Tulus 獲得

インドネシアビルボード音楽賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2020 Top 100 Song of the Year Adu Rayu (bersama Yovie Widianto & Glenn Fredly) ノミネート
Top Collaboration Song of the Year ノミネート
Top Streaming Song of the Year (Audio) ノミネート
Top Radio Airplay of the Year ノミネート

Bukalapakゲームチェンジャー賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2019 Penggerak Perubahan di Bidang Musik Tulus 獲得

Cornetteポップス賞
2017 Favorite Pop Male Singer Tulus 獲得
Best Pop Music Video Manusia Kuat 獲得

感激(Dahsyatnya)賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2015 最も感激した男性ソロ歌手 Tulus ノミネート
最も感激した曲 Gajah ノミネート
最も感激したVideo Klip Baru 獲得
2016 Jangan Cintai Aku Apa Adanya 獲得
最も感激した男性ソロ歌手 Tulus ノミネート
2017 ノミネート
最も感激した曲 Pamit ノミネート
最も感激したVideo Klip Monokrom 獲得
2018 最も感激した曲 ノミネート
最も感激したVideo Klip Tukar Jiwa 獲得
最も感激した男性ソロ歌手 Tulus 獲得
2019 ノミネート
最も感激した曲 Labirin ノミネート
最も感激したアップビート曲 ノミネート

グローバルエキサイティング賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2015 Hit Paling Seru Tulus ノミネート

雑誌Haiの読者投票音楽賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2014 The Best Album Gajah 獲得
The Best Single Sepatu ノミネート
The Best Pop Tulus 獲得
The Best Male 獲得
2015 獲得
The Best Concert Konser Gajah ノミネート

インドネシアチョイス賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2014 Album of the Year Gajah ノミネート
Song of the Year Sepatu ノミネート
Male Singer of the Year Tulus 獲得
2016 獲得
2017 獲得
Album of the Year Monokrom 獲得
Song of the Year Ruang Sendiri ノミネート
Music Video of the Year Monokrom 獲得
2018 Manusia Kuat 獲得

インドネシア音楽賞Indonesian Music Award
カテゴリー ノミネート作品 結果
2022 Male Singer of the Year Tulus ノミネート
Album of the Year Manusia ノミネート
Song of the Year Hati-Hati di Jalan ノミネート
Songwriter/Composer of the Year Hati-Hati di Jalan (bersama Ari Renaldi) 獲得

JawaPos.com 読者投票
カテゴリー ノミネート 結果
2017 Favorite Male Singer Tulus 獲得

インドネシアLINE賞
カテゴリー ノミネート 結果
2019 Most Favorite Male Musician Tulus 獲得

Mom & Kids賞
カテゴリー ノミネート 結果
2015 Penyanyi Pria Kesayangan Tulus ノミネート
2016 Penyanyi Idol Kesayangan ノミネート

インドネシアニコロデオン(Nickeloden)子供賞
カテゴリー ノミネート 結果
2015 Penyanyi Favorit Tulus ノミネート
2016 Lagu Indonesia Favorit Pamit ノミネート
2017 Penyanyi Favorit Tulus 獲得

バンドンFM Ozラジオ賞
カテゴリー 該当 結果
2017 最もフレンドリーな曲 Pamit 獲得
最もフレンドリーなOzclusive Tulus 獲得
最もフレンドリーな男性歌手 ノミネート
最もフレンドリーなミュージシャン ノミネート
2018 ノミネート
最もフレンドリーな男性歌手 ノミネート
最もフレンドリーな曲 Tukar Jiwa ノミネート
最もフレンドリーなファン層 Teman Tulus ノミネート

マヤ杯
カテゴリー ノミネート作品 結果
2014 Lagu Tema Terpilih Lekas (dari 3 Nafas Likas) ノミネート
2016 Video Klip Musik Terpilih Ruang Sendiri 獲得
2017 Monokrom 獲得

インドネシアローリングストーン誌賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2013 Rookie Of the Year Tulus 獲得

SCTV賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2015 トップ歌手 Tulus ノミネート

SCTV音楽賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2015 男性ソロトップ歌手 Tulus ノミネート
2016 ノミネート
2017 ノミネート

ソーシャルメディア賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2019 Penyanyi Pria Tulus 獲得

テレコムセル賞
カテゴリー ノミネート作品 結果
2021 Favorite Male Singer Tulus 獲得

称賛、雑誌など
Java Jazz Festival
表彰 獲得者
2015 Indonesian Young Talented Tulus
JOOX Indonesia
表彰 獲得者 .
2017 The Most Streamed Artist Tulus
Rolling Stone Indonesia
表彰 獲得者 結果
2016 10 Album Musik Terbaik 2016 Monokrom #1
Spotify
表彰 獲得者
2016 Indonesian Top Male Artist Tulus

出典
https://id.wikipedia.org/wiki/Tulus_(penyanyi)
https://id.wikipedia.org/wiki/Daftar_penghargaan_dan_nominasi_yang_diterima_oleh_Tulus

Tuti Trisedya
クロンチョン歌手
Tuti Maryatiは南スラウェシ州マカッサルで1956年10月8日に生まれた。
彼女は世界の24言語で歌える特技を持っているインドネシアのクロンチョン歌手である。以前はTuti Tri Sedyaとしても知られていた。

バイオグラフィー
南スラウェシ州マカッサルで1956年10月8日に生まれた。青年時代をスンダ地方(西ジャワ州)で過ごした。学歴はバンドンの国立第9普通高校卒業である。ジャカルタのASMIで大学を終えて1977年にextension programではトップで卒業しと記録され、彼女はジャカルタのUPN Veteranの法学部で学業を続け、絶賛という言葉をもらって卒業した。
マルチタレントの個性はTuti Maryatiが多くの行動と称賛を得るようにした。1974年に学生としていた時に彼女は第八隊の国旗掲揚隊の一員となったことがあった。1975年に彼女はIndonesia-Canada World Youth Exchange Programで交換留学生として選抜された。他にも彼女にはたくさんの称賛されるものがある。

歌手の世界で彼女の名前はクロンチョン分類で1986年のラジオテレビスター選手権で優秀した時以降知られ始めた。それ以前にも空軍ジャカルタ統合司令部の1983年のクロンチョン大会で優勝したことがあった。「私はクロンチョンの歌を一度も習ったことがありません。ただWaldjinah /1の歌唱方法を学んだだけです」と言っている。
1988年にTutiは政府賓客の前で歌う大統領官邸での歌手となった。「クロンチョンで大事なのはソフトなことです。それは多分クロンチョンは眠気を誘うと人に言わせる物なのでしょう。正しくはクロンチョンは心を落ち着かせるものなのです」と言っている。「実際には眠気を誘うのはそのパッケージでありクロンチョンという包装です。クロンチョンは眠気を誘う物ではないことを指摘しておきます」とTuti Tri Sedyaの名で往時知られていた彼女は追加した。TVRIで放送されたGebyar Keroncongでは歌手兼コーディネーターとプロデューサーになった、

クロンチョン音楽で忙しくしている以外に、Tuti MaryatiはMC (Master of Ceremony)としても活躍している。

Tri Sedyaと1977年に結婚したが、2005年に離婚した。この結婚で彼女は三人の子供を得た。

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ディスコグラフィ
ソロアルバム
  • Tuti Maryati in Japanese Keroncong, and Degung Sundanese (19??)
  • Album Emas Keroncong Tuti Tri Sedya Vol. 1 (1992)
  • Album Emas Keroncong Tuti Tri Sedya Vol. 2 (1992)
  • Keroncong Asli Tuti Maryati (2005)
  • Keroncong Pop & Asli (2006)
  • Langgam Sunda Nostalgia Tuti Maryati (2008)
  • Sejuta Kenangan dalam Lagu Cinta (2008)
  • Keroncong Orchestra - Persembahan Bagi Bunga Bangsa (2010)
  • Elegi Sang Bidadari (2015)

複合アルバム
  • Keroncong Karyaku, Dorce Gamalama (2006)
  • Keroncong Asli, Parade Bintang Keroncong (2005)
  • Keroncong Pilihan Dari Masa Kemasa, Vol.10
  • Keroncong Pilihan Dari Masa Kemasa, Vol.9
  • Keroncong Pilihan Dari Masa Kemasa, Vol.8
  • Keroncong Pilihan Dari Masa Kemasa, Vol.6
  • Keroncong Pilihan Dari Masa Kemasa, Vol.4
  • Keroncong Pilihan Dari Masa Kemasa, Vol.3
  • The 65th Aniversary of Bengawan Solo

+++脚注+++
/1 有名なジャワの女性歌手

[出典]
https://id.wikipedia.org/wiki/Tuti_Maryati
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2021/04/15 作成
2023/02/22 追加

 

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