嗚呼、インドネシア |
第88話 サムドゥラパサイ王国の歴史 |
このページは下のパンフレットを和訳したものにサルタン・マリクル・サレーの墓地に参詣した時の記録を追加したものである。 2014年 サムドゥラパサイ遺産センター刊 |
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14世紀中葉にモロッコ出身の高名な旅行家イブン・バトゥータ(原著ではIbnu Baththuthah英語ではIbn Battuta)がSumuthraと呼ばれていたSamudra Pasai (サムドゥラパサイ)を訪問した。後日、「Sumuthraは大きくて美しい町で城壁に囲まれ木造のミナレットがある」と彼の報告書 (脚註1)にある。イブンバトゥータが意味した町とは、現在の北アチェ県サムドラ郡 (脚註2)に存在したサムドゥラパサイの史跡を中心とする地域であった。<3> | |
脚注 (1) 「旅行記=『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』」 (2) Kecamatan Samudera, Kabupaten Aceh Utara |
サムドゥラパサイの史跡 | |
北アチェ郡ガンポン・マッディ (脚註3) にあるサムドゥラパサイ・サルタン国の史跡の墓標にタウヒド (脚註4) の文章を中心としたランプの浮彫がある。タウヒドは、東南アジアにおいてイスラムを伝え、イスラム国を広めるにあたって栄光と布教を通じてサムドゥラパサイを燃え上がらせた命の道標なのである。これも、三世紀以上にわたったサムドゥラパサイの支配者たちの最重要な使命になったのである。<5> | |
脚注 (3) Gampong Maddi (4) イスラムの唯一神を信仰すること。 |
サムドゥラパサイの黎明期 | ||
サムドゥラパサイの歴史は13世紀の前半に始まった。この事実は、三か所の墓標に刻まれた文章を解析した情報を通じて知るところとなった。この三か所の墓標とは北アチェ県サムドラ郡ムラー・ムリアのルボック・トウェ
にある二か所とマタン・ウリム (脚註5)の一か所に存在する。 この三つの墓標には、埋葬された人が多数の人に愛された著名人であったことを明示する解説が盛り込まれている。ルボック・トウェに埋葬されている二人の著名人は1226年に没し、マタン・ウリムに埋葬されている一人は1278年に没している。 墓誌にあるas-sa'idという言葉から、この三人ともアル・マリク・アッシュシャリー (脚註6) 以前の支配者でありその王朝はサムドゥラパサイを治めていたことを知ることができる。 この三つの墓誌は、この北アチェ海岸におけるイスラム政権が13世紀の前半以降に登場したことを挿し示しており、これがサムドゥラパサイの歴史の幕開けとなった。 |
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写真説明: 多数の人に愛されて1226年に没したIbnu Mahmudのルボック・トウェにある墓標。 囲み記事: 墓誌の訳 イスラムの信仰を持ち多数の人に愛され、ヒジュラ(イスラム)歴622年(西暦1226年)ズルヒジャの月の月曜日に没したIbunu Mahmidの墓石である |
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脚注 (5) Leubok Tuwe, Meurah Mulia, Matang Ulim (6) Al-Malik Ash-Shalih |
サムドゥラパサイの第一期 | |
アル・マリク・アッシ・シャリー | |
イスラムに改宗した後、マリクス・サレー と改名したマラー・シル (脚註7) についての伝説がある。この伝説は現地の人々に膾炙しているが、本当は異なり、正しくはアル・マリク・アッシ・シャリーの名で知られている。 凝縮され省略されたこの真実の記録は、このサルタンが公平な個性を持っていた人であり、同時に他人対しても慈愛をあたえる人でもあったことを表現している。 このように、偉大で影響をう与えた支配者であり、東南アジアにイスラムを伝播し (脚註8) その広い地域を照らし出すという偉業を成し遂げた神の恩恵を受けた支配者の一人であった。 これ以外に、アル・マリク・アッシ・シャリーは布教を確立し、イスラムの伝播を最重要とした人でもあった。 このイスラム王朝の支配は二世紀以上に及び、1518年に没したサルタン・ザイナル・アビディン・ビン・マフムド (脚註9)をもって終焉したのであった。<7> |
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写真説明: ガンポン・マッディにあるアッシ・シャリヤー王朝の祖であり1297年に没したサルタン・アル・マリク・アッシ・シャリの墓石 囲み記事: 墓誌の訳 ここに埋葬されているのは神に愛されて許され、イスラムの布教のみならず人々にアドバスを与え、尊敬される一族の出身で、信仰に篤く人々を解放し、サルタン・アル・マリク・アッシ・シャリという名で即位し、ヒジュラ歴696年のラマダンの月に没した人である。神よ、彼に恩恵を与え、彼の戻るところとして天国を与えた賜り給え。 |
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脚注 (7) Malikus Saleh, Meurah Silu。 歴史家のSlamet Muljana教授はMarah Siluと綴っている (8) 実は、この前にシーア派イスラムがこの地に伝搬していたが、それを排除し現在のシャフィー派イスラムをこのサルタンが布教したのである。 (9) Sultan Zainal 'Abidin bin Mahmud |
アル・マリク・アズ・ザヒール Al-Mailk Azh-Zhahir | |
彼はムハンマドという名で、アル・マリク・アズ・ザヒール(勝利の王)と称号した。 アル・マリク・アズ・ザヒールの墓標に北面はクルアーンのAt Taubah章の21-22節(脚註10) が浮き彫りされている。この節は神の恩恵と歓喜、天国と徳のある人にとっての永遠の至福、命と財産とともに移動しアッラーの道を歩むことについて説明してある。 アル・マリク・アッシ・シャリーの息子のアル・マリク・アズ・ザヒールの墓標の浮彫には、シャムスドゥニャ・ワッデン(世界と宗教の太陽)と称号したこのサルタンが、その父サルタン・アル・マリク・アッシ・シャリーのように後日イスラムの伝播に大きな役割を果たしたことが示されている。 彼とその父はサムドゥラパサイ・イスラム国の基礎を築いた人たちである。この二人の時代は東南アジアにおけるイスラム史の中でも最も重要な期間であった。 |
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囲み記事: 墓誌の訳 慈愛あまねきアッラーの名において。神よ、彼らに恩恵と与え喜ばせ、恩恵と天国、彼らを永遠の至福の中にいさせ賜え。実際にアッラーのおそばで大きなご利益を。最高位である真実絶対のアッラー。(悔悟章の21&22節) アッラーよ、ムハンマドとその家族に神への呼びかけを垂れ給え。 |
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脚注 (10) 「悔悟」章。21.主は、親しく慈悲と満悦を与えられ、かれらのために永遠の至福の楽園の吉報を与えられる。22.かれらは永遠にその中に住むであろう。アッラーの御許には最大の報奨がある。 |
マリカー・ダンニル Malikah Dannir | |
墓標の碑文から14世紀のサムドゥラパサイには数人の著名人がいたことが知られる。かれらは大王であったアル・マリカー・アル・ムアズザマア(脚註11) の父系の子孫で、ダンニルあるいは歴史家の間ではヌルル・アクラ、ヌル・アラ、ヌルル・イラー、ワビサー (脚註12)と呼ばれている。墓標の碑文は、このダンニル女王がケダ ー(脚註13)の王の息子であるカン王の息子のサルタン・アル・マリク・アズ・サヒールの娘であると述べている。 この女王の墓地はPirak川の右岸にある。2012年に行われたCISAH (脚註14)の探検の一つで得られた情報は、この地域のでは確かにいくつかの地区がいまだにケダの名前を使っていることであった。これは、意図するケダがPirak川とKeureuto川の南岸の間の地域であることを示している。この女王がヒジュラ歴791年か781年 (脚註15)に亡くなったため、父親であるアル・マリカー・アル・ムアズザマア(ケダの王の子カン王の子)が、同世紀にイブン・バトゥータの訪問を受けたと確信されている。 ダンニル女王の墓には足の方向(南側)にある墓標にはパサイ語(ジャウィ語あるいはマレー語)で説明がされている。このようにケダはイスラム来訪以前に存在した王国であった。 |
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写真説明: Pirak Tium村Meunye Tujoeh集落にあるマリカー・ダンニルの墓石 | |
脚注 (11) Al-Malikah Al-Mu'azhzhamah (12) Nurul 'Aqla, Nurul A'la, Nurul Ilah, Wabisah (13) マレーシアのケダ (14) Center for Information of Samudra Pasai Heritageの略 (15) 16世紀 |
サムドゥラパサイの第二期 | |
サルタン・ザイナル・アビディン Sultan Zainal ‘Abidin | |
墓石の碑文はすでに読めなくなっている。一つ二つの文字、アフマッドのような文字が明瞭に読めるだけである。しかしながら、墓地にあるクルアーンの節の碑文から、模様を伴った装飾も見られる以外に大理石で作られており、そのすべてがこの墓は大サルタンの記念のための墓として作られたものであることを指し示している。まだ解読できる碑文の中には一行の祈り「Khalladahullah mulkahu, Amin=アッラーよ、王国を永遠に」がある。このような祈りは強力な支配者と完成した安定期に達した王国のためにある。しかし、この墓がマリカー・ナーラシシャ・ラーの墓の西側に位置していることだけが、我々にこの墓がサルタンアフマッドの子のサルタン・ザイナル・アビドィンの記念を目的としたものであることを我々に確信させるのである。 サルタン・ザイナル・アビドィンは、14世紀後半のサムドゥラパサイが不明瞭な(現在に至るまで不明)時代を通り過ぎた後で国を治め始めた。15世紀の初頭にサルタン・ザイナル・アビドィンは決起し、祖父のサルタン・アル・マリク・アッシャリーが進んだ道を前進したのであった。彼はサムドラパサイの新しい面を開いたのであった。 墓は大理石でできており、彼の治世下で登場した光を放つ意味を持つランプを象徴している。ここに埋葬されている著名人たちは、イスラムを伝播し東南アジアにイスラム国を広げるべき役割を担当した人たちである。サルタン・ザイナル・アビドィンとその後は、ナラシシャなど歴代のサムドラパサイの諸王である子孫たちがこの大規模な布教運動を指導した。さらに、それ故、彼はアシ・シャヒッド(アッラーの道の証人)という称号が似合う、ということが娘のマリカー・ナラシシャの墓誌に記されている。 |
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囲み記事: 墓誌の訳 このサルタン・ザイナル・アビドィンの墓誌の一部に「アッラーよ、この王国を永らえ給えという文字がある。このような祈りは、彼の治世下で繁栄して強力なサムドラパサイの状態を記したものであるということができる。 |
マリカー・ナーラシスイヤ Malikah Nahrasyiyah | |
この人はサルタン・ザイナル・アビドィンの娘で1428年に没した。墓は大理石でできており、記念としてヤー・スィン章の言葉が刻まれている。 解釈本の中でAl-Baidhawiyから抜粋されたハディース(脚註16) の中で、ヤー・スィン章はAl-Mu'immah (話すもの)、Ad-Dafi'ah (拒否するもの)、Al-Qadhiyah (満ちるもの)と名付けられている。ナーラシスイヤの墓に彫り込まれたヤー・スィン章はこういう意味を持っているのかもしれない。当時のナーラシスイヤとサムドラパサイの善行はあたかも現世とあの世をカバーしていることを伝えようとした芸術家が、苦悩を離れ自分自身に挑戦することができ、人々に繁栄と平穏を与えることができるのだ。これ以外に、ヤースィン章はクルアーンの真髄である。マリカー・ナーラシシャの墓石にヤースィン章を刻んだ芸術家もナーラシシャがサムドラパサイの心臓であり、サムドラパサイは東南アジアのイスラム国の中心であることを言いたかったのではなかろうか。 アチェで、歴史のある墓石にヤースィン章が刻まれているのは、バンダアチェのカンダン12に存在するアチェ・ダルサラムの大サルタンであったサルタン・アラウディン・イナヤット・シャーの墓石にもみられる。<12> |
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脚注 (16) イスラムの新約聖書と呼ばれるムハンマドの行動記録 |
サルタン・ザイナル・アビディン・ラ・ウバダル Sultan Zainal 'Abidin Ra-Ubadhar | |
墓標のその名を述べている部分が碑文になっていて、彫刻家は波のような形の文字を彫り込んでいる。これは「波の征服者」を意味するラ・ウバダルという称号を意味とつりあうようにされているとみられる。 このように、この墓標の碑文によると、彼はアル・マリク・アッシシャリーの息子のムハンドの息子のアフマドの息子であるサルタン・ザイナル・アビディン・ラ・ウバダルである。家系図ではザイナル・アビディンはアフマドという名のナラシシャの叔父の息子である。ナラシシャのいとこに支配権が移った経緯は不明であるが、彼が没する1438年まで彼が支配したことは確定できる。 15世紀前半当時のサムドゥラパサイはその絶頂期であったとみられる。波の征服者=ラ・ウバダルという称号も意味がないわけではない。当時ザイナル・アビディンはその支配地域を広げマレー半島にまで至り、ムラカット(現在のマラッカで、東西からの舟が出会う場所を意味する)を開港し、同地に息子のマンスールを派遣して治めさせた。<13>それ故、サムドゥラパサイは交通が盛んなマラッカ海峡の本当の主になった。同時期はサムドゥラパサイの黄金期であった。 |
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写真説明: サルタン・ザイナル・アビディン・ラ・ウバダルの墓地はサムドラ郡クタ・クルン(脚註17) のサムドラパサイ・サルタン国第二期の墓地に存在する。名前と称号の部分は波の支配者/征服者という意味の称号に似合った海の波のような形のアラビア語のカリグラフィーで彫刻されている。 囲み記事: 墓誌の訳 これこそが光り輝き神の恩恵に浴して許されたサルタン・ザイナル・アビディン・ラウバダルの横たわった姿である。アッラーよ、彼とムスリムたち、両親とを許し給え。ヒジュラ歴841年のシャワルの月の21日の正午に亡くなった。この王にまず第一にクルアンの読誦と完ぺきな平和を祈る。 |
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ラ・ウバダルと称号した以外にザイナル・アビドィンはアル・マリク・アズ・ザヒールとも称号したことがその子孫の墓標に刻まれているのを見ることができる。この王国が滅亡するまではサムドゥラパサイの諸王はその子孫であった。それ故、それこそは各サルタンが鋳造したディルハム金貨には、彼らがザイナル・アビドィンの子孫であることを意図して彼らの名前の後にマリク・アズ・ザヒールと書かれているのである。 | |
サルタン・ザイナル・アビディン・ラ・ウバダルの墓は、サムドラ郡のクタ・クルンにある彼を記念して大理石でできており、サムドゥラパサイの第二期のサルタン一族の墓地の中に彼の息子のサルタン・アル・アディル・アフマドの墓の左側にある。 | |
クルアンの「信者たち章」の12〜16節(脚註18) がサルタン・ザイナル・アビディン・ラ・ウバダルを記念して、サムドラ郡のクタ・クルンにある大理石の墓石に彫り込まれている。上記の節は人間が生まれ、そして死に、最後の審判の時に生き返るというプロセスを説明している。 | |
脚注 (17) Kuta Krueng (18) 12.われは泥の精髄から人間を創った。 13.次に、われはかれを精液の一滴として、堅固な住みかに納めた。 14.それからわれは、その精滴を一つの血の塊に創り、次にその塊から肉塊を創り、次いでその肉塊から骨を創り、次に肉でその骨を覆い、それからかれを外の生命体に創り上げた。ああ、何と素晴しいアッラー、最も優れた創造者であられる。 15.それから後、あなたがたは必ず死ぬ。 16.それから復活の日に、甦らされるのである。 |
サムドゥラパサイの第三期 | |
クタ・クルンからみてパサイ川を右岸に渡るとガンポン・ラマ(脚註19) に入り、その後ムナサ・ムチャッ(脚註20) に達する。ガンポン・ラマでは、そこがサムドゥラパサイの時代に住宅地であったことを記す素焼きでできた台所用品の破片が発見された。 その南のガンポン・ムナサ・ムチャッには、サルタン国第三期の墓地群がみられる。この墓地群はしばしばジラッ・トンク・バテー・バレ (脚註21) と呼ばれている。ここには以下のサムドゥラパサイのサルタンたちが葬られている。(カッコ内は西暦での没年) |
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Sultan Shalahuddin (1462) Sultan Abu Zaid Ahmad (1466) Sultan Mu'izziddinya Waddin Ahmad (1466) Sultan Mahmud (1468) Sultan Muhammad Syah (1495) Sultan Al-Kamil bin Mansur (1495) Sultan 'Adlullah bin Manshur (1506) Sultan Muhammad Syah 3世 (1507) Sultan 'Abdullah bin Mahmud (1509) Khoja Sultan Ahmad (1514) Sultan Zainal 'Abidin 4世(1517) |
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サムドゥラパサイ王国第三期の墓地にある墓石群。 |
サムドゥラパサイ第三期のサルタン墓地にあるサルタン・マハムド・ビン・ザイナル・アビディンの墓標。 |
脚注 (19) Gampong Lama (20) Meunasah Meucat (21) Jrat Teungku Batee Bale |
上記のサルタンたちは硬貨にその名が各々記されていて、サムドゥラパサイの史跡地区で大部分が見つかった。 | |
15世紀末から16世紀初期にサムドラパサイが最盛期を迎えたことを示すアラビア語のカリグラフィー。 |
サムドゥラパサイの重要人物 | |
上記の写真は、1414年に没した、歴代の支配者たち(脚註22)を指導したシャドゥルル・アクバル記念して大理石で作られた墓石である。サムドラパサイにおけるこの存在はイスラム世界史において王国で重要な役割を果たしたことを指し示している。 墓誌の解説: ここに埋葬されているのは'Abbasiyyah王朝のカリフである歴代の支配者たちを指導した方であり、アッラーの恩恵があらんことを。ヒジュラ歴816年Rajabの月の23日金曜日の晩に亡くなった。 |
Maulana Tajuddunya wad bin ibn Abi Al-Ma'aliy Al-Qailyと称号し15世紀に没した'Abudurrahmanの大理石の墓標である。彼は、サムドラパサイを支配したサルタン。ザイナル・アビディンの時代に生きていたと信じられており、その当時にイスラムを東南アジアに伝え広めたことを象徴する波の形が記されている。 | クタ・クルンにある、シャイク・ラ・ズィクラの名で知られるシャイク・ザイナル・アビドィンの墓標。墓標には彼が1460年に没したことが記されている。 | 1424年に没したイスラムの指導者であり聖者でもありムハンマドの一族であるサイド・イマドゥディン(脚註23)の大理石で作られた墓石である。ムナサ・ムチャッのサルタン墓地群にある。 墓誌の解説: これは優しい信者の埋葬地である。すべてを与えるアッラーの恩恵を与え給え。敬虔で完ぺきで第一人者で聖人で布教に務め心が澄んだイマドゥディンはヒジュラ歴827年のムハラムの月の19日の金曜日に没した |
脚注 (22) 'Abdullah bin Muhammad bin 'Abdul Qadir bin Yusuf bin 'Abdul 'Aziz bin Al-Manshur Abi Ja'far Al-'Abbasiy Al-Mustanshir bi-Llah (23) Sayyid 'Imaduddin 'Ali bin Sayyid 'Izzuddin bin Ishaq Al-Husainiy Al Hasaniy |
Jirat Sareh (カーン王(脚註24)の墓地群)の名で知られる墓地群はクタ・クルンにある。この墓地には、1420年に没したラジャ・カーン と1508年に没したマウラナ・カディ・イブラヒム・トャリフ・イナヤティラー(脚註25)との呼び名で名高い聖人などのサムドラパサイの歴史上重要な人物が埋葬されている。最後に、ファラテハンあるいはファタヒラー(脚註26)と呼ばれるファトゥラー・シャリフ・ビ・ヒダヤティラー(脚註27)となんらかの関係があるとしぱしぱ見られていると述べられている。 | |
西暦1505年、ヒジュラ歴910年のラマダン月の15日の晩に没したミル・ハサン という名の敬虔な人の墓である。ミルという名前に先んじてつけられた言葉は聖人、あるいは大先生を意味し彼がペルシャ出身のサムドラパサイでの著名人であったことを示している。 | |
脚注 (24) Raja Khan (25) Maulana Qadhi Ibrahim Syarif bi 'Inyatillah (26) Falatehan/Fathahillah (27) Fathullah Syarif bi Hidayatillahは1552年にチレボン・サルタン国を興し1570年に没している。ジャワのワリソゴの一人。 |
ムナシャ・ウジョン(脚註28)にあるカナヤン王(脚註29)の墓地群。カナヤン王はサルタン・ザイナル・アビディン・ラ・ウバダルをはじめサムドラパサイの数代のサルタンの治世に渡った時代に生きていた将軍であった。彼は継母に心を寄せてしまったために父に追われたあとスムルルキ(脚註30)と名乗ったマカッサル(ブギス)出身の将軍であったとマレーの歴史では述べられている。スムルルキはマラッカに海賊に行く前に、ジャワの占領地で焦土作戦をとった。マラッカでは同地の提督と衝突した。この激戦はマラッカ側の勝利となったが、マラッカ提督側にも毒の吹き矢を受け多数の戦死者が出た。これを聞いてパサイのサルタンはカナヤン王にスムルルキを追い払うように命じた。激しい海戦が発生したが、カナヤン王は最終的にスムルルキを打ち負かすことに成功した。撤退したスムルルキは「カナヤン王はマラッカ提督よりも勇敢であった」とカナヤン王の勇気を讃えた。 | |
クルアンの悔悟章の21&22節がMeunasah PieにあるNai'na Husamuddin bin Na'ina Amin (1420没)の大理石でできた墓標に刻まれている。足元の南側の墓標にもペルシャの詩人Sa'diy syiraziyの詩がみられる。 | |
サムドラパサイのサルタン墓地群にある墓標に刻まれた信仰(tauhid)の文章の浮彫。 | |
脚注 (28) Meunasah Ujong (29) Raja Kanayan (30) Semerluki |
サムドゥラパサイにおける文化 | |
Al-Qa'im tahta Anri Rabbil 'Alamin (全世界を支配する神の命による実行者)と自称したサルタン・ザイナル・アビディンの書簡である。この書簡はポルトガルのリスボン博物館に収納されており、これはサムドラパサイの最終期の1518年に没し墓がムナサの第三期の墓地群にあるザイナル・アビディン・ビン・ラフマトが出したものと確信されている。 この書簡の中で、サルタンは勝手気ままな性格をサムドラパサイに駐在している二人のポルトガルの使者をポルトガルの「サルタン」(ゴアの提督)に届けるようMoran館長に向けている。 この書簡の中では、サムドゥラパサイとPariyaman、Mulaqat(マラッカ)、Barus、Pulikat, Bengalなどインドに至るまでの広くて深い交流がある多数の国々の名前がはっきりと述べられている。 |
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サムドラパサイにおける文化の開花とイスラムの開化の動きに伴い、横に置いておけないサポートが輸送機関である。これまでのところ同時期の船舶の残骸は見つかっていないが、一人の航海士の墓標に当時の船を形どったものがカリグラフィーの形で表現されている。 <21> |
埋蔵文化遺産 | |
印章 サルタン・ムハンマド・ビン・アルマリク・アッシャリーの印章でMamlakah Muhammad (ムハンマドの王国)と書かれており、クタ・クルンのあぜ道で2008年初めに村人が発見したもの。 |
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貨幣 サムドラパサイの金、銀、鉛の貨幣で、鋳型を伴っている。2006-2009年に発見された。 |
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金貨 サルタン・アブドラ・ビン・アフマド・ビン・ザイナル・アビディン・ラ・ウバダル(アル・マリク・アッジャヒール159年没)、アッシシャリヤー王朝の第18代サルタン時代の金貨。この金貨はアチェ内陸部のNibong村Alue Ngom集落の住民が発見したもの。汚れを取り除いた直後の写真。2009年1月。 |
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クタ・クルンの遺跡でその土地のオーナーが畑を掘った時に、発見された素焼き煉瓦で作られた建物の残骸。 |
養魚池を作るために浚渫した影響で地表に現れた陶器の破片。この遺跡のある地域の海岸にそって行われた浚渫作業で重要な考古学データが失われてしまった。 |
容器 ガンポン・ラマの住人が完全な形で見つけた容器 色々な注ぎ口(Beuringen-Kuta Krueng 2008) |
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伝統儀式に使われたもの この写真に見られるものはクタ・クルンの住宅の基礎から共に見つかったもの。これらは宝石の首飾り、硬貨、象牙の首飾り、土瓶、料理を入れる壺。CISAHが実施した調査で、上記の埋蔵品は、新生児に関するアチェの伝統儀式(peutroen tanoeh=土を踏む)に使われたものとみられる。 |
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あとがき |
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メダン-アチェ国道から曲がる地点が分かりにくいのでパンフレットにあった地図に経緯度と縮尺を追加した。 |
アチェの歴史 (Slamet Muljana著「ジャワ・ヒンドゥー王国の衰退とイスラム王国の勃興」から抜粋) 第四章 列島地域でのイスラム国 第一節 列島での最古のイスラム国 |
<129> 中国とインド間の往復航路はマラッカの港が登場する前から知られていた。七世紀のスリウィジャヤ時代に、中国とインド間の航海はマラッカの港を経由していなかった。当時マラッカの港は存在していなかった。その名前も述べられてはいなかった。中国からインドへの航路はバタンハリの河口にあるMelayu港 を経由していた。現在のジャンビ市付近である。この航路は中国僧の義浄著「南海寄帰内法伝」にこのように述べられている。「義浄は耽摩立底(TamraliptiあるいはTamluk)から羯茶(荼)(KatahaあるいはKedah)に向けて出発した。ここで冬になるまで停泊した。王の船に乗って、彼はここ(Kedah)から南に現在はスリウィジャヤの一部になってしまったMelayu港を目指した。この航海には一か月間を要した。普通、船舶は二月にMelayuに来航する。ここ(Melayu国)で夏になるまで停泊する。その後、北にむけて広東へ出発する。約一か月後に目的地に到着する。」 <130> 中国とインド間の往復航路は15世紀初頭にマラッカ港市が勃興するまでMelayu港を経由していた。それ以来、中国とインドの間を往復する船舶はマラッカに停泊しJambiには停泊しなくなった。換言すれば、インドから中国ヘの航路はスマトラの東海岸沿いではなくマレー半島の西岸沿いを通るようになった。ということは15世紀以前にはスマトラ東海岸にいくつかの港湾都市があったことになる。港湾都市の勃興はスマトラの東海岸の諸国の勃興と深く関係している。7世紀に述べられているのは、SriwijayaとMelayu、Barosである。これらの諸国は仏教を奉じるヒンドゥー国に含まれる。 12世紀末にはスマトラ東海岸にPerlakという名のイスラム国がみられる。この名は後日Peureulakとなり、12世紀の初期からその地に居住し始めたエジプトやモロッコ、ペルシャ、インド出身の外国商人たちによって建国された。建国者はアラブ人のQuraisy(クライッシュ族)であった。このアラブ商人はPerlak王の子孫である現地の女性と結婚した。この結婚で彼はSayid Abdul Azizという名の息子を得た。Sayid Abdul AzizはPerlak国の初代サルタンになった。Perlakのサルタンに即位してからはAlaiddin Syahと名乗った。このように彼はPerlakのSultan Alaiddin Syahという名で知られている。彼は1161年から1186年まで国を統治した。後日このPerlakサルタン国を建国することになる外国商人たちの来訪は1028年以来続いた。それ以前は、Perlakは王を意味するmohrat/meurah/marahが支配していた。Sayid Abdul AzizはアラブのSayidとPerlakのMarah姫との間の子孫で混血アラブ人であった。Sayid Abdul Azizが信じていたイスラムはシーア派のイスラムであった。Perlakサルタン国は一世紀以上続き、何人かのサルタンが知られている。二代目のサルタンはAlaiddin Abdurrahim Syah Ibn Sayid Abdul Azizで1186年から1210年までの統治期間であった。三代目のサルタンはAlaiddin sayid Abbas Syah Ibn Sayid Abdurrahim Syahで、1210年から1236年までの統治期間であった。<131>四代目のサルタンはAlaidin Mughayat Syahで1236年から1239年の統治期間であった。五代目のサルタンはMahdum Alaidin Abdul Kadir Syahで1239年から1243年までの統治期間であった。六代目のサルタンはMahdum Alaiddin Muhammad Amin Syah bin Malik Abdul Kadirで1243年から1267年までの統治期間であった。七代目のサルタンはMahdum Abdul Malik Syah byn Muhammad Amin Syahで1267年から1275年までの統治期間であった。八代目のサルタンはAlaiddin Malik Ibrahim Syahで1280年から1296年までの統治期間であった。 Sayid Abdul AzizとMarah(現地の王族)双方の子孫の間の政権争いは1236年から1239年までのSultan Alaiddin Mughayat Syahの治世に起きた。この政権争いにSayid Abdul Aziz側は負けた。このように1239年以降、PerlakのMarahの子孫であるSultan Mahdum Alaiddin Abdul Kadir Syahに率いられることになった。サルタンになる前、Mahdum Alaiddin Abdul Kadir SyahはOrang Kaya (Rangkaya) Abdul Kadirという名前であった。彼の統治期間はたった四年間だけであった。Perlakサルタン国の支配権はイスラム法学者のMalik Abdul Kadirに奪われてしまった。この人こそがMarah Siluの義理の親であったのだ。Perlakの支配権はAbdul Malik Syahという名の息子に継承された。このAbdul Malik Syahの治世にMarah Perlak王朝とSayid Aziz王朝の間で政権争いが生じた。その結果Perlakサルタン国はPerlak baoh/南とPerlakTunong/北に二分されてしまった。前者はSultan Alaiddin Abdul Malikの子孫のSultan Alaiddin Mahmud Syahに率いられ、後者はSayid Aziz王朝のMahdum Alaiddin Malik Ibrahimに率いられた。1280年にsultan Alaiddin Mahmud Syahはサルタンになり1292年に死去した。sultan Alaiddin Mahmud Syahの死後、この二つのサルタン国はsultan Alaiddin Malik Ibrahimによって再統一された。しかしながら、Perlakサルタン国はSayid Aziz王朝とMarah Perlak王朝との間の主導権争いの影響で大幅な後退を余儀なくされた。<132>13世紀末にPerlakサルタン国はスマトラ東岸諸国の間で役割を担うことはなくなってしまった。この政権争いでMarah Perlak王朝は大いに敗北したのであった。多数のMarahの子孫たちは他の土地に移住し、Sarah rajaやSerbajadi、Lukop、Balang Keujrenなどの村落を作ったのであった。 このSyaid Aziz王朝とMarah王朝の政権争いは外来王朝と現地王朝との主導権争いであった。実際に争われたのはsultan Perlakが支配していた胡椒の権益とBandar Perlakを経由する輸出権益であった。アラブと中国人の旅行者によると、Nampoli, Perlak, Lamuri, Samudera地域のアチェでの胡椒栽培は9世紀以来有名になっていたとのことである。このアチェの胡椒はMalagasi(マダガスカル)から持ち込まれたものと思われる。7〜8世紀にマダガスカルでの胡椒栽培は有名になっていた。マダガスカルの胡椒はアラブとペルシャの商人によってアジア大陸沿岸部と欧州大陸で商品になっていたのである。その多数がスマトラ東岸に来訪してきていたペルシャとアラブ商人は商品としての胡椒を持ち込みアチェ地域で胡椒の試験栽培を行った。Perlakはスマトラ東海岸の北半分の地域における胡椒の輸出港になった。胡椒の輸出は高額の利益をもたらし、Perlak港に来訪しその後そこに定住したエジプトやペルシャ、グジャラート(インド)の外国商人たちは当初以来Marah Perlakに支配されていた胡椒の権益をすべて支配しようとしたのであった。アラブ人の一人がMarah Perlakの女性と結婚した。この婚姻からSayid Abdul Azizが生まれたのであった。シーア派イスラムを信仰する外国商人たちの支援で、Sayid Abdul AzizはMarah Perlakの支配権を奪取しその後1161年にPerlakサルタン国を建国した。SayidはAlaiddin Syaの別名でPerlakのサルタンに即位した。混血アラブ人に率いられたPerlakサルタン国はシーア派イスラムを信仰するアラブ、エジプト、ペルシャ、グジャラートの外国商人たちから十分な支持を得たのであった。<133> スマトラ東岸北部でPerlakサルタン国以外にはPasaiサルタン国というエジプトのFathimiah (ファーティマ)王朝の海軍提督が率いるほかのサルタン国があった。Pasaiサルタン国はPasai河口に位置しエジプトの属国であった。Pasaiサルタン国はエジプトのファーティマ王朝のNazimuddin Al-Kamil海軍提督に率いられて1128年に建国された。エジプトのファーティマ王朝によるPasaiサルタン国の建国の理由は、ファーティマ王朝がスマトラ東岸地域の香料貿易を支配しようとしたからであった。この香料貿易を支配するためにファーティマ王朝は艦隊を動かしてグジャラートのKambayat港市を攻略しPasaiの港を開放しMinangkabauのKampar KananとKampar Kiri川の胡椒生産地域を奪った。Pasai港市は胡椒の主要輸出港となり、一方グジャラートはKampar KananとKampar Kiri川地域で産出された胡椒の交易市場となった。上記の三地域はファーティマ王朝に高額の利益をもたらし、この王朝は繁栄を極めた。Kampar KananとKampar Kiri地域を奪取するための遠征で、Nazimuddin Al-Kamil提督は亡くなった。彼の遺体は1128年にKampar Kananの河畔のBangkinangに葬られた。 ファーティマ王朝は976年にUbaid Ibn Abdullahによって建国された。1168年にシャフィー派イスラムのSalahuddinの軍によって壊滅させられた。エジプトのファーティマ王朝の壊滅でエジプトとの関係は断絶したが、このPasaiサルタン国はそのまま独立を保った。1168年にはこのPasaiサルタン国はKafrawi Al-Kamil提督に率いられていた。We島出身でインドとペルシャの混血であるJohan Jani提督は1204年にKafrawi Al-Kamil提督の手中からPasaiの支配をもぎ取った 。<134>Pasaiサルタン国はさらに永続して強力になり、大航海時代においてインドネシアでは最強の国家を形成したのであった。 いずれにせよ、シャフィー派イスラムのエジプトの新しい王朝はシーア派イスラムを奉じるPasaiサルタン国の存続を望んでいなかった。この新王朝はMamaluk(マムルーク)王朝であった。このマムルーク朝は1285年から1522年までであった。実際には、マムルーク朝もファーティマ朝と同様に香料の交易を支配しようとしていた。1284年にマムルーク朝は、シーア派の影響を払拭するためと同時にPasai港の支配者から主権を奪うためにインド西海岸の元イスラム法学者のFakir Muahmmadを伴ってSyaikh Ismailをスマトラ東岸に派遣した。Samudera Pasaiで彼らはIskandar Malikの名でPasaiの軍に入ったMarah Siluと出会った。Syaik IsmailはMarah Siluをシャフィー派に入信させようとおだてあげた。その時、Marah Siluはクルアンの読誦もうまくシーア派イスラムに入信していた。Seri KayaとBawa Kayaという名のMarah Siluの部下はシャフィー派に一緒に入りSidi Ali ChiatudinとSidi Ali Hasanuddinと改名した。エジプトのマムルーク朝の支援でMarah Silu別名Malikul SalehはSyaikh Ismailによってサルタンに即位した。Samudera国は、シーア派を奉じるPasaiとPerlakサルタン国の競争相手の国になった。Samudera/Pasaiはマラッカ海峡に面したスマトラ東海岸のPasai河口に位置していた。 Marah Siluの出自についてははっきりしたことがいえない。Hikayat Raja-raja Pasai (パサイ諸王の伝記)では、Marah Siluの父親はMarah Gajahで母親はBetungの姫であったと語っている。Betungの姫は金髪であった。この金髪をMarah Gajah引き抜いたところ白い血が出た。この白い血が止まった後、Betungの姫は失踪した。<135>この出来事はMuhammad王という名のBetung姫の養父の耳に届いた。怒ったMuhammad王は直ちにMarah Gajahを探すために部下たちを動かした。Betung姫がいなくなったことを恐れたMarah GajahはAhmad王という名の養父の家に避難した。Muhammad王とAhmad王は兄弟同士であった。しかし上述のBetung姫の失踪はこの兄弟間の衝突を引き起こした。両名とも戦死した。Marah Gajahもこの戦いの中で殺されたのだった。 Betung姫に取り残された二人の息子はMarah SumとMarah Siluという名であった。彼ら二人は家を出て放牧生活を始めた。Marah Sumは後日Birunの王になり、Marah SiluはPeusangan川の上流部を開墾した。毎夕Marah Siluは網を仕掛けたが、毎朝仕掛け網を川から引き揚げると中身はミミズだけであった。怒ってそのミミズも茹でてしまった。Marah Siluが土鍋のふたを開けると不思議なことにその中には黄金が見えたのだった。茹でたミミズが本当に黄金に変わったのであった。このミミズを茹でたのはずっとMarah Siluだけであったので、Marah Siluはミミズ食いという話が広まった。この噂は兄のMarah Sumの耳に届いた。Marah SiluはPeusanganの上流部から追い払われた。最終的にMarah SiluはRimba Jirun国を奪いそこの王になった。Marah SiluはSamudera国を建国した。彼は巨大な蟻が一匹住んでいた丘の上に宮殿を建てた。この蟻はこの丘の近隣住民たちからSemut dara (娘の蟻)と呼ばれていた。これがMarah Siluの国をsamuderaと名付けたゆえんである。他の伝承は、サルタンMalikul Thahirの所有するPasaiの犬がこの丘の上で小鹿とけんかしていたので、Pasaiの丘がこのように呼ばれていたと説明している。Pasaiの犬はこの丘の上に葬られた。これがPasaiの丘の名前の由来である。<136> 上記の解説のわずかな部分からでも、Hikayat-Raja-Raja Pasaiの作者はSamudera Pasai王国に関係する地名や歴史上の人物の出自を解説しようとしたことがわかる。この行為は民間語源(kereta bahasa)に他ならないのである。このようにBetung姫とMarah Gajah関連の伝承は、Hikayat-Raja-Raja Pasaiの作者によるBetung人とMarah Gajah、Marah Siluの父母の名前の出自を説明するための努力の結果であった。Pasaiの語源はtapasai = tepi laut (海の端)である。Tapaはtepi =端で、スマトラのバタック地方の名前のTapanuliの語を形成した tapa n uliで知られている。Tapaの語はポリネシア語族に「端」という意味で多数みられる。Sai/tasi/tasik/tahiの語は海を意味し、インドネシアポリネシア語族にも存在する。Pasaiの語はpantai(海岸)の同義語で、語源も同じである。Samuderaは海という意味に他ならない。Pasai国は海の端に位置していた。それ故、Samudera国と同一なのである。この呼称は、Marah Siluによって開発されたことのあるPeusangan川上流地域の内陸国に相対する地域につかわれたものと思われる。 1285年にシーア派を奉じるイスラムPasai国は混乱に巻き込まれた。敵対関係にあるPerlakのMuhammad AminとTemiangのYusuf Kayamudinの両者がPasaiのサルタンになろうとしていた。当時、PasaiのサルタンはPasai国の三代目サルタンAlwi al Kamilの孫であるサルタンBahauddin Al-Kamilであった。サルタンBahauddinはサルタンJohan Janiの孫であるサルタンIbrahim Janiを退けたのだった。このような経緯からPasai国の主権争奪のための四つどもえの戦いが起きた。この四つどもえの戦いは、Syaikh Ismailに率いられたマムルーク朝とサルタンPasaiに反旗を翻したMarah Siluの二つのグループに尻馬に乗せられた。海からはSyaikh Ismailの指揮下のマムルーク朝の艦隊に、陸からはMarah Siluの指揮下のBatak/Gayo軍に攻撃された。1285年にシーア派のサルタンPasaiの支配は終焉した。<137>Marah Silu別名Malikul Salehの指揮下でシャフィー派の新しいサルタン国が誕生したのだった。 蒙哥(Mongka)指揮下の元軍の攻撃の影響で1258年以来、バグダッドからエジプトに左遷されていたSyarif Makahの名を以て、Syaikh IsmailがSultan Malikul SalehをSamudera/Pasaiのサルタンに任命した。Syaikh IsmailによるMarah Siluの即位が、シャフィー派のSamudera/Pasai国における初代サルタンを生み出した。それは第一にシーア派を奉じるPasai国での力の均衡に基づいてマムルーク朝がシャフィー派イスラムを奉じる強力な原住民を必要としたからであった。第二にはSyaikh Ismailの理解によると、Marah Siluはスマトラ東海岸で好き勝手にやっているシーア派を殲滅することに賛成するであろうということであった。第三には、シーア派イスラムのペルシャ、アラブ、グジャラート商人たちの手中から胡椒の販売権を取り上げることに賛成するだろうとマムルーク朝が望んだからであった。Malikul SalehがSamudera/Pasaiを支配している間、シーア派の人の多くは利害損失を考えて寝返り、シャフィー派になったのであった。 側室から生まれたサルタンAladdin Muhammad Amin bin Abdul Kadiの子孫であるPerlakの姫Gangga SariとMalikul Salehは結婚した。Samudera Pasai国の勃興と共にPerlakのサルタンは後退を余儀なくされた。スマトラ東海岸北部においてSamudera Pasaiは最重要港となった。Gangga Sari姫との結婚から、サルタンMalikul SalehはMuhammad とAbdullahという名の二人の息子を得た。サルタンMalikul Salehは1297年に死去し、長男のMuhammadに交代した。Muhammadはsultan Malikul Thahirという名を追加された。二人目の子は1295年にシーア派に寝返り、その後Aru Barumanサルタン国を建国した。このようにMalikul Salehの統治時代には抑圧されていたシーア派はAbdullah別名Malikul Mansurの統治以来、Aru barumanで新風を得たのであった。Sultan Malikul Thahirは1326年まで統治し、その後Sultan Ahmad Bahian Syah Malikul Thahirに交代した。<138>Malukul Salehの統治時代に、Samudera Pasaiは1292年に中国からペルシャに向かう途中のマルコポーロの訪問を受けた。Ahmad Bahian Syah Malikul Thahirの治世下には、中国へ向かう北アフリカ出身のIbn Batutah (イブン・バトゥータ)がSamudera Pasaiを訪れた。イブン・バトゥータの訪問は中国への往路が1345年で帰路は1346年のことであった。Sultan Ahmad Bahian Sayah Malikul Thahirは1349年に崩御した。交代者としてZainul Abidin Bahian Syahがサルタンの地位についた。Ahmad bahian Syahの治世の末期の1339年にSamudera PasaiはGajah Madaが率いるマジャパヒト軍の攻撃を受けた。書きとどめておかねばならないもう一つの件は、Zainul Abidin Bahian Syahの娘が、1404年にマラッカサルタン国を建国したParameswara王と結婚したことである。この結婚の影響で、Parameswara王はシャフィー派イスラムを信仰するようになった。その後、マラッカはマレー半島の全東岸と西岸でのシャフィー派イスラムの中心地となった。 Samudera王国の正式名称はSamudera Aca Pasaiで、その意味は「Pasaiに都がある素晴らしいSamudera王国」である。Pasaiの都は現在すでになくなっている。 その位置は現在のBlang Me村付近である。このSamuderaの名こそ現在われわれがSumatra と呼んでいる島の名前の源なのである。Sumatraとはポルトガル人による呼び名である。これ以前、その名はPercaであった。義浄の著書から知られるように、中国の旅行者は一般的にChin-chou (金洲)と呼んでいて、その意味は「黄金の島」である。Acehになったのは「素晴らしい」という意味のAcehという呼び名からである。ナガラクレタガマではこのスマトラの名称はまだ知られていなかった。<139>ナガラクレタガマではスマトラ島の各部分を呼んでいるだけで島の名前としては呼んではいなかったのである。 ナガラクレタガマの大13節1-2項で、アチェ地域のいくつかの部分はマジャパヒトの支配下で守られている国と呼ばれている。ナガラクレタガマで呼ばれているスマトラ島の各部分とはJambi, Palembang, Toba, Darma?raya, Kandis, Khawas, Minangkabau, Syak, Reken, Kampar, Panai, Kampe, Haru, Mandailin, Tumihang, Parlak, Lwas, Samudera, Lamuri, Batan, Lampung, Barusである。これらがマジャパヒトに屈服したMelayu地域のすべてである。ナガラクレタガマによるとMelayuの名はスマトラ島と同じである。 Samuderaイスラム国へのマジャパヒト軍の攻撃に関する伝説は確かにアチェの民衆の間に流布している。この攻撃はSamudera国の発展の速さをマジャパヒト王国が懸念したのがその原因であった。 このSamuderaイスラム国へのマジャパヒト軍の攻撃についてはH.M. Zianudding著Tarikh Acehの第17章Ekspansi Majapahit 「マジャパヒトの拡大」という題の論文で読むことができる。ここで引用するのは重要と思われる数件だけとする。Perlak国境付近でのマジャパヒト軍の攻撃は、その地域でSamudera軍が防御を固めていたため失敗に終わった。しかしGajah Madaは攻撃を中止しなかった。彼は海に戻り、防御されていない東海岸の無人地帯を探した。Gajah MadaはGajah川で軍を上陸させた。ここで丘の上に砦を構築した。現在でもこの丘はBukit Meutan (Gajah Madaの丘)と呼ばれている。それからGajah Madaは陸と海からの二面作戦を実行した。海からの攻撃はLhoksumaweとDikuala Jambu Air海岸に対して敢行された。陸からの攻撃はPerlakとPedawaの中間に位置するPaya Gajahを経由して敢行された。陸からの攻撃は失敗に終わった。Samudera軍はPerlak川の西岸に陣幕を張りその砦はPaja gajah Alue Buであった。<140>川の東岸が戦場になった。川で逃げようとするマジャパヒトの船舶は焼かれた。マジャパヒト軍はやむを得ず海へと退却したがマジャパヒトに戻ろうとはしなかった。Gajah MadaはTamiang 国を攻略するつもりであった。マジャパヒト軍はLangsa地域に上陸し砦を建てた。この場所は今でもManyak Pahit と呼ばれている。Gajah Madaは商人を装った斥候をBenua (Tamiang)の都に送った。その後、Mega Gema姫を嫁によこすことと一緒にSamuderaを撃つという要求を持たせてTamiangの支配者であるMuda Sedia王に対して公式な使者をたてた。この二つの申し出は拒否された。その結果Gajah MadaはTamiangを攻撃してBenuaの都を殲滅する決定を下した。軍は宮殿に達した。Muda Sedia王の財宝は略奪にあい、宰相の娘とMega Gema姫は捕えられ下流に連れて行かれた。 この下流への連行中、Gajah MadaとMega Gema姫の乗った船が水漏れを起こし修理せざるを得なくなった。修理中、Gajah Madaと部下たちは幕屋に滞在し、Tuanku Ampon Tuanが売っている果物を買った。Gajah Madaと部下たちがこの果物を賞味している間Tuanku Ampon TuanはTamiang軍の攻撃の合図として大太鼓を打ち鳴らした。この時にTuanku Ampon Tuanが姫を奪い返して逃走した。このTaminang河畔のGajah Madaの幕屋の場所はBukit Slamatと呼ばれている。このようにして、マジャパヒト軍によるMega Gema姫の略取は失敗したのであった。 これが、ナガラクレタガマにも少し述べられているSamuderaとTamiang国に対するマジャパヒト軍の攻略に関する伝承である。マジャパヒト軍のSamuderaとTamiang国に対する攻略は、サカ歴1258年、西暦1336年以来のGajah Mada宰相の政策となった「列島の理想」の実行の一環であった。<141> |
写真集 (2018/05/20) |
P5200640 右側マリクル・サレー、左側がマリク・アッジャヒールの墓。後者の墓石の足元にかなり強い霊力を感じた。 |
P5200646 参列者諸君 |
P5200648 サムドゥラパサイ王国第二期のサルタン墓地群 |
P5200650 サムドゥラパサイ王国第二期のサルタン墓地群 |
P5200649 サムドゥラパサイ王国第二期のサルタン墓地群にあった王の系図 |
<>はサルタンの代 (点線で書いてある5代目と8代目との関係は不明) |
P5200651 サムドゥラパサイ歴史博物館(未開館) |
2018-06-13 作成
2018-06-15 写真追加