嗚呼、インドネシア
第87話 北スマトラの華人の歴史

19世紀におけるスマトラ東岸への華人移住者の到来

(農園の苦力から経済界の立役者に)
Tuanku Luckman Sinar Basarshah-II, SH
【訳者まえがき】

20161023日にメダン市内のTjong A Fie (チョン・アフィ=張阿輝)記念館を訪ねた。この記念館で求めたものがこの本であった。インドネシアの華人に興味を持っている訳者にとって、買い求めるに値するものであった。

張阿輝記念館はメダンの超富豪であった張阿輝氏の事務所兼邸宅をそのまま記念館にしているもので、現在も子孫がこの家の二階に居住している。左の写真は入場券。入場料が35,000ルピア(300)で少々高いように思えるのだが、維持管理費を自弁しているということなのでやむを得ないだろう。

張阿輝さんの1890年(明治23年頃の姿。辮髪にしているから、中華民国独立前の姿です。
着ている服も当時の清朝、満州人のモデルです。これは清朝政府から与えられた公式の衣装なのでしょう。あせもができそうですね。

記念館室内の景

記念館入口近景
訳者註
文中の<3>は原文の3ページ目を示す。
黄色着色部分は該当する漢字が見つからないもの。わかり次第追加します。

この本に書かれているのは日本でいうと江戸時代末期から明治時代にかけてのことである。聞くも涙、語るも涙の物語がこの栄華の歴史の裏に数万もあったことだろう。中国人に比べて日本人は昔からなんと平和な時代を過ごしてきたのだろうと感じたのである。
 
 まえがき
 

Tuanku Luckman Sinar Basarsah-II, SHによる東スマトラにおける華人グループの研究は、ジョグジャカルタのガジャマダ大学で行われた国家的セミナーにおいて「インドネシア華人」という論文を作るように依頼された1978年に開始された。

オランダのSillemhouve1978年に行われたインドネシア・オランダ歴史学会総会で、タバコのプランテーションの苦力から成功した商人に成長した東スマトラで1870年以来活躍してきた華人グループの役割について進言した。

この本の中では華人の流入と彼らの伝統、文化、東スマトラにおける役割と貢献に関して分かり安く示すことにする。この本の出版はFORKALA (Forum Komunikasi Antar Lembaga Adat=慣習保存連絡会?)がイニシアティブをとり、北スマトラ州政府の資金で行われた。2005年に州知事によって設立されたFORKALAを通じ、北スマトラ州の少数民族に関するこの本の出版は、事実に基づいた歴史、社会、技術、文化に関する正しい情報を与えると同時に、現地人の彼ら少数民族に対する北スマトラ州民としての自覚を想起させようとするものである。

ここに北スマトラ州政府、この本の英訳を担当してくださったProf. T. Silvana Sinar, MA, PhD、その他2005年にこの本の出版に際してご尽力をたまわった方々に深い感謝の念を捧げる。

 

第一章

19世紀における東スマトラへの華人移住者の到達

(農園のクーリー=苦力から経済界の大立者へ)

スマトラ東岸への華人移住者の到達は目を見張るような現象であったと考えられている。この強靭な民族出身の苦力たちは当初、連れてこられただけであったが、その40年後には自主的に渡航するようになり、20世紀初頭以降、この地域の経済を独占することに成功した。

19世紀中葉以前、華人は東スマトラではわずかな役割を担っただけであった。中国の艦隊が662年にKompai (Haru湾付近)を訪れた。その港はKien-piあるいはKam-pietと名付けられ[1]、中国語でAluあるいはYaluと呼ばれるHaru王国あるいは現在のDili王国は後日1282年にフビライハンに朝貢を行った[2]。八世紀の終わりに中国で内乱があり中国貿易に大きな影響があった。

Kota Cina (Labuhan Deli=Deli港市)Kompai島での発掘の結果、唐、宋、元、明時代の多数の埋蔵物を発見した。このKota Cinaは義浄が695年に示した[3]MohosinあるいはBokkasin(莫訶信)に相当するのではないだろうか。[4]<2>

スリウィジャヤ王国[5]の外港をいろいろな中国の貿易船が訪れていた特に12から13世紀の南宋時代にこのKota CinaがかつてHaruの港の華人の集落になっていた可能性がある。このKota Cinaは南宋時代末期に打ち捨てられたものであろう。

15世紀にはこの地域に中国艦隊が再訪した。明史の325[6]で、1407年の永楽帝の時代にHaruSultan Husinの訪問が確認される。当時の交易はジャングルからの産品と中国製の陶磁器や絹布、ガラス玉などとのバーターであった。1412年には鄭和提督がHaruに使節を送り、Sultan Alamsyahに引き継いだSultan Husin1419, 1421, 1423年に朝貢使節を中国に派遣した。1431年に鄭和がHaruを再訪した後、朝貢使節は派遣されなかった。Haruはマラッカ(Malacca)から四日四晩で到着することができ[7]Hoang Lien (coptis teeta=黄連(オウレン)という生薬)や他の香水を輸出している。Mao K’um(茅坤)の地図と馬歓の記録を照合するとHaruは現在のDeli[8]地政学的に一致する。Deliに至る中国商船の貿易ルートはWu-pei-shih=武備志(1433)に見られる。<3>

 1511年にポルトガルがマラッカを占領して以来、この地域と中国間の直接交易は衰亡した。1539年から1710年まで、スマトラ東岸は、中華帝国とマレー帝国(Johor-Riau)の争奪戦の舞台になり、18世紀中葉から19世紀中葉まではアチェとシアク(Siak)、その後は英蘭の間で争われたのである。人々には見向きもされず海賊の巣となっていたBatubaraDenaiのこの地域の肥沃な土壌は17世紀以来徐々にジョホール、リアウ、アチェ、ミナンカバウの人達の移住地となった。KaroSimelungunの人たちは海岸地域に、Mandailing[9]の人たちは南に移動して、その後マレー人と混血した結果イスラム教徒となり、Melayu Pesisir (海岸マレー)と呼ばれるようになった。
この地域の詳細な報告書は1823年に沿岸諸国との契約を取り付けるために、マラヤの英国商人によってここに派遣されたJohn Andersonの使節団が作成したものである。この報告書には華人は当時ほとんど住んでいなかったとある。諸島間の交易は高速帆船を持っていたBatubara Malay人かあるいはブギス人[10]に独占されている。かれは「Deliではほんの僅かな華人しかみかけなかった」と書いており、特記すべき点はないとしている。その後ペナンとシンガポールにいた英国の中継貿易者の介入が大きな変化をもたらした。マラッカ海峡の華人貿易商たちはマレー全土とスマトラ東岸、とTemiangの強力なリンクを構築し、これはこの地域にオランダの影響が拡大されるまで続いた。<4>アサハンでは輸出入関税や麻薬やとばくの専売が、王の一族の娘と結婚したペナンの商人Boon Kengにその許可が与えられた。オランダ軍がアサハンに侵入してきた時には、Boon Kengの影響とペナンで構築された支持が20年以上にわたるオランダに対するアサハンのサルタンの抵抗の大きな支えになったのであった。その大きな理由の一つはアサハンのオランダの永久統治は、以前にも増した華人商人が英国の影響とその土地利用の拡大を行おうとしたからであった[11]。東岸に徐々に浸透しつつあったオランダの浸食は事実華人企業により多くの機会を与えることになった。マレーの華人企業はアヘンをバタック人たちに供給し続け、この地域の諸国の大部分で酒と賭博の元締めを行うとともに、輸出入関税まで管轄するようになった。1876年までにオランダ植民地政府の県令(resient)は「この地域の貿易は華人の手に掌握されている」と報告しており、ほとんどすべての華人商人たちはSingaporePenangの企業と関係があった[12]

Riauのオランダ県令のNetscherが初めてDeli1862年に訪れた時、彼は20人の華人商人としか出会わなかったし、彼らのほとんどが金細工屋であった[13]<5>

さらなる衝突を防ぐべく英国とオランダはロンドン条約と呼ばれる条約を1824年に締結しした。英国はBencoolen[14]をオランダに、オランダはマラッカとシンガポールを含むマラヤ諸国を英国譲渡した。彼らは互いの影響地区に介入しないことを厳しく約束したが、これは公式とはいえ書面上だけのことであり、両国は以前と同じ行動を続けたのであった。シアクではオランダが、弱体化したSultan Ismail185821日に締結された条約で政治的圧力をかけた。この条約では、シアクから北はテミアンまでのスマトラ東岸地域のすべての国々はシアクの占領地域になっていると書かれており、オランダはその後、シアクの宗主国としてこの地域の平定者としての機会を得ることになった。事実、この地域へのシアクの強請は「Sultan Abdul Jail Syaifuddin (1791-1811)による一回だけの占領」[15]ということに基づいていた。

オランダは1862年にリアウの県令Netscherが指揮する艦隊を送り、スマトラ東岸の沿岸諸国への宗主権を実現したのであった。SerdangAsahan, Batubara, Temiangではオランダの浸透に抵抗したが、デリでオランダは最初の橋頭保を確保した。1863年、Deli王の親戚と印奇跡関係にあるSaid Abdullah bin Alsagafという名のアラブ人がDeli産のタバコのサンプルをスラバヤにいたオランダ人タバコ商人に送った[16]<6>186377日にオランダのタバコ会社Van Leeuwen en Mainz & Co.Falk, Kuyper, Elliot, J. NienhuysJosephine号でDeliを訪問した。彼らはサルタンから20年間の借地権を得た。Nienhuysは退職し、現地人からDeliさんのタバコを購入する会社を設立した。最初のサンプルは1864年にロッテルダムに送られ、「goede kwaliteit hoppig en goed branded dekblad = 飛びぬけて高級で素晴らしいブランドである」と称賛された。[17]その後NienhuysMartubung (Belawang[18]付近)で、ペナンから88名の華人苦力を輸入して彼自身でタバコの栽培を開始した。Deliの将来の繁栄を見越してオランダ東インド政府はスマトラ東海岸全域を支配することを急いだのであった。1865825日付の政令第一号でオランダ総督は以下からなる探検隊を送った。[19]

1.     左官一名、25名の砲手、二門の野砲、12インチ迫撃砲二門、二名の軍医とスタッフ、179名のオランダ人兵士と227名の現地人兵士で構成された大隊の半分と、

2.     1000名の海兵隊と49門の大砲と共に軍艦Djambi, Amsterdam, Sindoro, Montrado, Delfzijl, Dassoon他の艦船。

SerdangBatubaraは直ちに占領されたが、AsahanTemiangはその後20年にわたるゲリラ活動の拠点となった。

その後の平定作戦でDeli, Langkat, Serdangの治安が安定化した時、NetscherSultan DeliVan den Arends/Nienhuysタバコ会社に90年間の借地を186748日に許可した。

その直後、1869年にはSunggalで、Sungai BrasKlumpangでは1875年に多数のタバコ会社が他の農園を開墾した。1868年にはDeliタバコのヨーロッパでの売り上げによる儲けが巨額になり、それがさらなる外資の投下を招いた。Nienhuys, Jannsen, P.W. CremerN.H.M. (オランダ貿易協会/会社)と提携してDeli Maatschappij (Deli Mij)と呼ばれるタバコのシンジケートを1866年に作り上げた。Deliにおけるオランダの最初の支配人であったCats Baron de Raetは彼の日記にこう書いている。「Deliには華人居住者が徐々に増えてきており、現在は1000人を超える」と。
Nienhuysに続いてすべての会社がタバコ栽培のためにだけ華人を使用し始め、インド人も常に常雇いとして雇用された。このDeli Mijのみで、1869年の創業時にはペナンから900人の華人を持ち込んだ。1872年にはDeliの華人人口は4000人を超えた。この時オランダ軍は、Datuk Kecil率いるSunggal反乱軍をせん滅するのに奔走した。オランダ遠征軍には数百人の嗅華人苦力が、装備品の輸送などの後方支援に使われ、彼らの多数は小競り合いの中で殺された。1870-80年代には毎年何千人もの苦力がマラヤの植民地から東南アジアの驚異的な経済発展を支えるために持ち込まれたのであった。<8>

Deliにおけるタバコ会社はKongsi(公司)というシステムを使って華人苦力を雇用していた。この公司システムの長(社長)は処女地といくばくかの種苗を与えられ、生産されたタバコの葉は年末に社長から購入されることになっていた。

このシステムは、華人のCenteng (Tindals)、福建語ではKang thao、客家語ではKung Theeuと呼ばれる人たちに支えられたヨーロッパ人の支配人が農園労働者自身と直接取引するようになったため、1870年代に運用が停止された。農産物の品質によって算出される出来高を支払う農場主へ製品を納める年末までのあいだ、前払い金が半月ごとに支払われた。このようにしてDeliではヨーロッパ人農園主と華人苦力との関係が他の南洋諸国(東南アジア)に比べて近くなったのである。華人移住に関する1868年の英仏中会議に続いて、中国本土での華人苦力の募集とマラッカ海峡への輸送はより文明的に行わざるを得なくなった。海南島の帆船でシンガポールにやってくる少数を除いて、移住者たちは68日でシンガポールに到着する汽船を借り上げて使用した。港湾の会社は各々の船の出発日と到着日を公開し、移住希望者(Singkehs=新客)は同郷のKehtaus(元からいる移住者)によって持ち込まれた。<9> 新客たちは汽船の運賃を払った会社のために直ちに働いた。この信用ベースの料金は普通12米ドルであり、Kehtau58米ドルの利益を得た。<9>新客との間の書面上の契約はなかったが、新客たちは忠誠さと恐怖と暴力が混在したため少なくとも一年間はこの会社のために働かざるを得なかった[20]1876年のマラヤでの労働力展望では、他の地域、特にスマトラと比較すると、マラヤへの移住に関してはその乱用が少ないと言っている。確かに、スマトラへの雇用における乱用は事実上、中国人植民地の設立をもくろむ扇動がその裏で影響していた。自己利益の追求とたぶん博愛精神によって、この扇動はシンガポールとジョホールから始まった[21]

その主体は、潮州[22]出身の苦力たちが招かれたDeliの農園との競争によって人手不足に悩んだ潮州出身者が支配したGambier & Peppex Societyであった。彼らは、新客に対する強制拘留と配置と新客の誘拐業務をなくすべく1871年に政府に請願した<10>

1870年代初期、Deliでの需要のためにPenangで新客たちを誘拐するシステムがあった。

ペナンの大伯公協会のボスであった邱天コ=Khoo Tean Takはペナンのあらゆる苦力ブローカーを通じてDeliへの借金を背負った移民事業を実質上独占していた。Deliのタバコ農園の開始からほとんど、彼らは新客たちから極端に悪い評判を与えられていた。

「華人労働市場において、スマトラ全島の意味を包含するDeliという名前に対する憎悪が既に存在し、LangsatSerdangに移送され用としている華人たちはDeliという言葉を船上で聞いただけでパニックに陥った」[23]

新しく開墾された農園のように、Deliの初期は裁判も警察組織もなかったばかりか、文明的なルールも存在していなかった。従業員に対して完全に経済的に支配している使用主は法律的な権力を有していると考えられていた。Deliのサルタンは当初、重犯罪を除いて、使用人に対する大きな権限を農園主に与えていた。サルタン国の警察は非常に弱体であったため、罪を犯した苦力の問題を警察に訴え出ることや、長期間にわたる裁判の間この苦力を保護することに消極的であった。<11>

1874年から77年の間Deliは「暴力の街」の名で有名であった。農園主や商人に対する攻撃はすでに普通であり農園主たちに対する殺人もしばしば発生した。

農園主たちによる苦力たちへの悪行もその主なる原因の一つであった。バタック人とマレー人たち[24]がこの攻撃の主体であり、逃亡した苦力たちがますますそれに加担するようになったことが治安維持組織の不在によるものであることは明らかであった。

一般的に言うと、Deliに対する全ての不平不満は華人の生活の中心地のひとつであった特にシンガポールから遠距離に位置しているということであった。事実、Deliで契約した苦力たちは、長期間にわたる賦役から逃れるために農園から逃亡したのであった。

スマトラの農園に最も重要であったのは汕頭[25]であった。潮州人は農民として最適で、それに続くのはHailohong(海陸豊[26])人で最後が客家人であった。北スマトラでは全く異なる中国のいくつかの地方語が拡散していった。

一方、潮州人とそれに続く客家人の大部分は農園の苦力であり、福建人の大部分は商業に従事していた。Deliがオランダの東インド経済に徐々に組み込まれていった結果、福建人が最大で最古の人種グループとなり1930年にはスマトラ東岸地域の華人の24%を占めるに至った。広東人は主に職人として移住し1930年には21.1%、潮州人は21.8%を占めるに至った。客家人は小商いのみならず農園労働者として活躍した。彼らは華人たちの87%を代表しただけだったが、オランダ人の市長の下で中華商館長として北スマトラ全域で公式な地位を長期間独占した。<12>この伝統はオランダ侵略軍の業者としてアチェに行ったバタビア在住の客家のひとりであるChang Chen Hsun (別名Thio Tiau Siat)によって始められたようで1877年までにはスマトラ東岸でオランダ政府によって始められた独占事業を始めて以来金持ちになった。1889年にマラヤでの東スマトラでの華人労働者の保護以前、調印された労働契約は11,793件で中国での直接契約は5,176件に上った[27]Deliのたばこ産業は1877年から1890年までが最盛期であった。

Deli MijJ. T. Cremerは直接1975年に中国にわたりさらなる華人労働者を集めようとした。Deli Mijは信用できるLaukehs[28]を中国に戻して彼らの友人たちを契約なしに東スマトラに移住させるべきであるというのがCremerの結論であった。これは成功した。その後、他の五社のタバコ会社は1886年に中国から直接移民のために協力した。彼らはバタビアで公式な中国語通訳をしていたDr. J.J.M. de Grootを中国南部に派遣して、Deliタバコの大きなシェアを占めていた汕頭のドイツ商社とドイツ領事館から巧妙な作戦で中国政府に圧力をかけさせた。Dr. De Grootと汕頭のドイツ領事館はあらゆる手段を尽くして潮州の高官に圧力をかけるとともにその部下たちには18884月に東スマトラへの自由移民の許可が得られるまで贈賄を行った[29]<13>1875-6年のDeliの評判は最悪で、Deli行きを望まない新客をDeli行きの船に強制的に乗せたKehtausとマラヤのブローカーによる暴力行為が頻繁にあった。それゆえ、1875-77年のような状況で労働力を集めることができなくなった。この数年間彼らは中国から華人苦力を直接移送しようとしたとともに、あらゆる分野で大々的にジャワ人苦力を雇用し始めた。

1879年には華人苦力の移入は4,000人に達し、1888年には18,352人に達した。しかし1888-1890年にはアモイの中国官僚が態度を変えたためその数は減少した。中国国内ではDeliへの移民事業に対する風当たりが続いていた。苦力募集会社のHeng Thyeは、賄賂で黙らされた人たち以外は、家族が誘拐されたことに関してその支配人に対する脅迫が常に行われていた。

北京の中央政府自身もDeliへの移民に反対し、それがオランダ東インドに中国領事館を設置する原因となった。<14>

このように、農園主に対する多数の抵抗運動があったため、必要とされる華人労務者の募集を中止して、農園労務者の不足分を補うために新たな供給元を探し始めたのであった。インド人労務者はわずかであった。Deliでの労働契約をマレーで行ったそのわずかなインド人たちは英国インド政府の法律を犯すことであった。したがって、残された道はすでに準備が整っているジャワ人の苦力を雇い入れることだけであった。この人たちを使わない理由はなかった。

仕事なくてぶらぶらしているジャワ人苦力の集積所になっているジャワ島には多数の労働力供給会社があり彼らはジャワのオランダ人官僚と密接な協力関係にあった。ジャワ人苦力の移住は1890年代中ごろから開始され、その数は華人総数を越えますます増えた。これにより、ジャワ人苦力の悪名高いPoenale Sanctie(強制労働[30])が始まった。

華人苦力の数は減少したものの、スマトラ東岸地域における華人人口はますます増え、その結果、バランスが取れた地域社会が形成され、数は少なかったが商人、商店主、小農民、漁民、木こりなどから構成された。

Deli農園主協会(Deli Planters Vereeniging)の年次報告書によると、19154月から19163月までの間、華人のタバコ農園苦力は37,608名であり、1917年にはスマトラ東岸地域の華人人口が99,236名に達し、そのうち92,646名が男性であった。<15>

殆どの華人女性はTandilTandil頭あるいはLaukehの妻であり、新客の妻はごくわずかであった。ほとんどの新客は貧困のため中国で婚約金を払えないか、あるいは既婚者で親元に置いてきた家族に送金をしていた出稼者であった。Prof. Parkerはこう書いている[31]

華人移住者は彼らが滞在するところはどこでも、恒久的な墓地と滞在地での公正さと安全が確立されるまで、華人女性を連れてくるのに時間がかかった。

海南人(Hailams)はどんな環境でも彼らは外国に家族を連れて行くのを好まなかった。彼らはDeliで家庭の召使や料理人、旅館のオーナーなどになった。普通、かれらはジャワ人女性と暮らして、中国の家族へ送金していた。

 1870年代 Deliでの開墾地域の道路建設で働く華人苦力<16>
 1870年代 Deliのタバコ農園で働く華人苦力
 1875年、汕頭から到着した華人契約苦力たち
Batangkuis農園でたばこの葉を摘む華人苦力たち

 スマトラ東岸地域での最も重要な華人の部族は以下のとおりである。

1.     Punits(広東人)

彼らは広東省の現地人である。かれらは後日も金細工屋、指物師、仕立て屋、木綿の貿易商の職業に就いた。農園ではその数は少なかった。当時加人売春婦のほとんどが広東人であった。

2.         Hakka/Khek(客家人)

彼らは他の華人たちとはことなっていて纏足をしない。特にこの傾向は広東の客家に見られる。[32]<18> Deliでは彼らは製靴業、籐や錫製品の貿易商をしていた。PoloniaMariendal, Bekallaのタバコ農園は最初客家人苦力によって開かれた。オランダ人農園主はこう記している。

客家人はきちんと働くが、アヘンを吸引する弱点を持っている。

客家人は西カリマンタンでのオランダ軍に対する長期間にわたる反乱で知られていた。Deliの華人総代(Mayor Cina)の有名な百万長者であるChong A Fie(張阿輝)とその兄のChong Yong Hian(??=榕軒)は客家人であった。

3.         Hokklo(潮州人)

Deliにおける有名な華人グループは汕頭の原住民のThiochiu(潮州)人とHailhok Hong(海陸豊)人であり、かれらは主に農園の労働者であった。

4.         Hailam (海南人)

海南島の原住民で、後から移住してきておもに召使や料理人、旅館の従業員となった。

5.         Amoy(アモイ) Hokkian(福建人)

Siang Shou Fu出身で、DeliJawaで貿易商として活躍した。

6.         その他

その他の少数部族はLuitsiuKaotsiuの両半島出身で福建省のLuchiu, Caochiu, HockChiuと呼ばれている。<19>かれらのほとんどはBelawanBagan Siapi-apiの船主である。広東人と福建人の多くは薪を農園に売る木こりであった。野菜農家と豚の畜産家のほとんどは契約が終了した苦力で、その時点で村のマレー人から土地を借りた人たちであった。

1915年にDeli Mijの支配人Van Vollenhovenはタバコ栽培に適さない土地を華人たちに野菜と養豚用に与えた。土地を与えられた人たちの大部分は汕頭とTsau Tsu Fu出身者であった。Deliのサルタンは、タバコ農園以外での自由華人たちマレー人たちの競争相手になると考え、この行為に反対した。客家人たちはどこでも常に秘密結社を結成することが知られている。華人秘密結社はオランダ東インド会社に禁止されてはいたものの、ペナンでもシンガポールでも結成されていて、当地の農園の労働者の中にも確かに存在した。

1881-84年の間には、大多数が潮州人と客家人、海南人から構成されるGhee Hin(義興公司)と呼ばれる秘密結社と、福建人と福建省の客家人に代表されるHo Seng(和成公司)との間で暴力抗争がしばしば発生した。オランダ植民地政府は1884年にこれらの秘密結社の壊滅作戦を実施した。[33]<19>

大多数の抗争はカリマンタンとリアウ、スマトラ東海岸で発生した。オランダ植民地政府による裁判にその犠牲者が出頭しても、彼らのほとんどは指導者を知らないと言い張った。秘密結社に忠誠を誓った華人たちは、彼らの同志観から裁判所で彼らから真実を聞き出すことは極めて困難であった。元Riau知事のGraaflandは、リアウでの最初の秘密結社は義興であったが、その後にシンガポールから別なKundur島の秘密結社Ghee Hok(義福公司)がやって来たと書いている。[34]

1876年にはこの両秘密結社の衝突が始まった。

他の秘密結社にはHaisan (海山公司)[35]があり、この組員の大多数がTan一族であった。Deliではこの名前がいまだ恐怖と共に記憶に残っている。[36]

これらの秘密結社はきわめて強力でマフィアのように構成員の命を預かった代わりに、貿易や開店あるいは結婚式の資金の長期ローンを与えたのであった。また、この秘密結社は構成員がスマトラ東岸の経済を支配することも支援した。彼らはペナンやシンガポール、香港の支部とも関係があり、商工会議所を構成し必要な場合にはどこでも、遠隔地の商店でさえも、値上げをおこなうように仕向けた。<21>このような方法と実施は現在にいたるまで当地で行われているように見える。この秘密結社が「尊敬される商売」として深く浸透する前、19世紀末のDeliの華人苦力たちがおかれた状況は劣悪であった。1888年にDeliを訪れたProf. Parkerは、苦力たちの大部分は奴隷制度と同じ状況に置かれていたと書いている。第一段階で、彼らは固定給での最低五年間の労働契約に署名させられ、移住のための船賃や衣服住居費などの償還をさせられた上、契約期間を延長するように勧められ、さらには売春宿や賭博場をつくり、できるだけ彼らの稼ぎを使わせるようにした。彼らが購入する食物と吸引するアヘンもオランダ植民地政府と農園主の少なからぬ儲けとなった。借金は自由に与えられたが、その違反者への刑罰は重かった。1876年以前にもDeliのサルタンは、中華正月以外に賭博場を開くことを禁止したにも関わらず、その時からオランダ植民地政府が国庫への巨額の収入となるアヘンの販売と賭博場の権利を独占した。

LauhanからMedanに至る道路沿いに当時少なくとも7件の賭場があった。その結果、多数の華人苦力たちは極貧になったためマレー貴族に娘を売るようになった。<22>

19世紀末にはオランダ植民地政府の国民になった。元苦力の張阿輝(Tjong A Fie)Tan TekSeng Hapなどの所有するビジネスの大多数はペナンやシンガポール、香港の中国人の会社の系列会社であった。

19世紀末に彼らはメダンに最初の全寮制の中華学校を創立した当時、当地にはインドネシア人のためのオランダ植民地政府が建てた学校は一つもなかった。この学校はマレーの華人教師を招へいすることで英語と中国語を使用したことは当地への英国の影響を推し進めると考えられていた。[37]これに対抗して、オランダ植民地政府はHolland Chinesche School1917年に開校した。

Oei Beng Sengはマレー語の新聞”Andalas”と華字報の蘇門荅臘民報(Sumatra Bin Poh)をメダンで発刊した。

スマトラ東岸地域の地方裁判所(Landraad)にはかならず、華人グループ長と通訳を兼ねた副官(Leutenants)がいた。華人の最高地位は華人総代(Kapten China)であり後日、張阿輝[38]に代表されるような華人Majorであった。すべてのLeutenantKaptenMajorはオランダ政府から給料が支払われ、植民地政府を手助けするために華人社会で発生した何事も報告することがかれらの義務であり、華人などの出入りを報告するとともに華人社会からの徴税も含まれていた。<23>一人のアメリカ人旅行者は1920年に、メダンにおける商業の大部分は華人が掌握していると書いている。それは農園苦力だった華人たちがスマトラで金融力をつけたことを意味している。


[1] O.W. Wolters, “Early Indonesian Commerce….”P229-48 etc()しかしながら確定はされていないようである
[2]元史 cl.12, 11a
[3] “Fan Yih Ming-i-tsih(翻訳名義集)” Chapter III etc.(訳者註:引用元は南海寄帰内法伝である)
[4] (訳者註)他の歴史家はこうは考えていないようである
[5] E.E. McKinnon & T. Luckman Sinar , SH. “Kota Tjina ? A site with Tang and Sung period Associations, Some Preliminary Notes”, Sumatra Research Bulletin, Hull University, Vol. III NO. 1 October 1975
[6] “Pien-i-Tien” (1358-1643AD). See明史P7919 row2
[7]馬歓著「瀛涯勝覧」(1416-1631)
[8] “Wu-pei-Shih, tie r-pai-ssu-shih-shuan, hang-hai chien-hsun“。J.V. MillsJMBRAS XV, Part III, P42も参照のこと。()茅坤の孫の茅元儀(MaoYuanyiが武備志を1621年に著した。
[9] KaroSimelungunMandailingは原住民部族名
[10] () 南スラウェシの部族
[11] H. Hammerster, “Bijdrage tot de kennis v.d. Afd.Asahan”, Amsterdam 1926. P50
[12] Kol. Verslag 1876, p 18
[13] Prof. P.J. Veth, “Het Landschap Deli op Sumatra”, TAG. 1877, 2e deel, p155
[14] () 現在のベンク
[15] Anthony Reid, “The contest for North Sumatra”, p45.
[16] Willem Brandt, “De Aarde van Deli”
[17] A. Hoynck van Papenrecht, “Gedenkschrift v.d. Tabak Mij. Arendsburg”(ter gleldenheid van haar 50 jarig bestaan) 1877-1927
[18]メダン市の北部にある国際港
[19] Tuanku Luckman Sinar, S.H. “Sari Sedjarah Serdang”, I, P72
[20] Report on 1876 Chinese Labourers, 3rd Nov. 1876, Appendix 22 of SSICP., pp. xlii-iv
[21] E. Thio, “The Singapore Chinese Protectorats : Events and conditions leading to its establishment, 1823-1877”, JSS Society, XVI, 1960, P64
[22] ()広東省東部に位置する地級市
[23] W. Kanaggs to Lavino 25-8-1875 Buitenlandse Z. Dossier Atjech, A.R.A.
[24] ()Deli地域の原住民
[25]()広東省の東部で潮州に隣接する地域で古代からの港湾都市。
[26]()海陸豊地域とは、広東省東南沿海部に位置する海豊県、陸豊県の二県に跨る地域で、現在の行政区画では汕尾市(汕尾城区、海豊県、陸河県、陸豊市)に相当する。
[27] Annual Reports of Chinese Protetorate SSGG
[28] ()老客=新客に対する言葉か?
[29] Mr. H.J. Bool, “De Landouw concessive i.d. Residentie ter Oostkust van Sumatra” P6-10
[30] ()強制労働というより、雇用主の自由采配による苦力への処罰であろう。
[31] “The Chinaman in Hawaii”
[32] Mac Iver, “Hakka Dictionary”
[33] W.H. M. Schadee, “Geschiedenis van Sumatra’s Oostkust”, II P45. A.F. de Bruin, “hineezen ter Oostkust van Sumatra” P38-52も参照のこと。
[34] “Schets der Chineesch vestiging in de Afdeeling Karimon”, BKI. XXXVII, 1881. Koloniaal Verslag 1909-1910も参照のこと。
[35] () 「海山公司」はもともと中国南部で発生してペナンにその中心をおいた華人秘密結社であり、1820-1825年にLow Ah CongHoh Akow (Ho Ah Kow/hok Ah Keow)に率いられたもので、当時の中心はUjong Passir通にあった。(Wikipedia)
[36] “Nieuws van den Dag”, 2 March 1885参照のこと
[37] “Niewe Rotterdamsche Courant” 17-May-1909Sumatra Postからの引用記事。
[38]張阿輝に関しては、T. Luckman Sinar, “Sejarah Medan Tempo Doeloe”J. van den Brand: “Chineesche Hoofden ter hoofd plants Medan, v.d. Res. O.v.Sumatra” ? min.v. kol. 1900-1905. RA.

第二章

中国文化と陰暦正月

陰暦新年

陰暦の新年はいくつかの理由で1945年から49年まで祝うことができなかった。第一の理由は、1945年から1948年までのBersiapの時代[1]に何度か起きた事件によるものであった。スマトラ東岸のいくつかの地域では華人グループが日本軍を破った蒋介石の国民党軍が来訪することを夢見ていた。

二つ目の理由は、英国軍司令官がメダンに武装したPoh An Tui(保安隊)として知られるを創設したことによるさらにひどいものであった。1947年の中頃スマトラ島部にオランダ侵略軍を送った時、武装保安隊は各町の華人商人の所有する商店の保護にあたった。<24>もちろん、インドネシアの原住民と華人との間で、1946年に起きたBagan Siapi-api[2]やその他の衝突事件が発生し、この状態がインドネシアに対する華人の忠誠心への疑惑と社会的嫉妬心を生み出す元となった。[3]

レフォルマシの時代[4]以降、インドネシアで生まれて少なくとも三代住んでいる華人はインドネシア人の一部とみなすようになった

華人は多数の文化的儀式を祝う。子供が生まれて結婚するまでさらには死亡した時まで儀式が決まっている。彼らは肉親が亡くなってから三日間喪に服す。陰暦正月を祝う時にはCia-Gwee(正月)一日から始まる15日間を楽しく過ごす。華人社会での宗教の最大の休日はPeh-cun(端午節)で、竜の形をした船の競争をはじめた屈原をたたえて、どこでもいろいろな種類のピーナツのお菓子が提供される。他の祭日には孔子の誕生日がある。年賀状と共にこの陰暦正月休みの間だけの色々なお土産が売られている。

 陰暦正月の間における文化的禁忌は床や庭を掃いてはいけないことで、これは福が逃げないようにするものである。彼らの店は正月5日まで閉店する。<25>正月15日にCap Go Meh (十五暝)の祭りが竜の踊りをもって始まる。この時に彼らはKiong Hee Fat Chow(恭喜発財)のカードを送りあう。この時の特別料理が提供される。


[1] ()第二次大戦後のインドネシア独立運動の時の暴力と混とんの時代をオランダ人が呼んだもの。インドネシア語では「準備の時代」を意味する。19458月から46年にかけての期間である。この時代は日本軍の撤退とオランダ軍駐留までのイギリス軍の駐屯期間中の力の真空が増加した時代に起きたものである。Pemuda(共和国青年団)による誘拐のあとfスカルノが1945817日に独立を宣言した時期を意味している。この時代は英国軍が1946年に撤退しその時までにオランダ軍が軍事力を再構築した時期に終焉する。一方、インドネシア独立部隊は軍隊としての形を十分整えていた。最後の日本軍部隊は19467月に撤退した。(wikipedia)
[2]()1946312日に発生した華人とプレブミの抗争。プレブミ側12人死亡。こちら参照。
[3]日本軍政下での華人組織の歴史と国民党グループと1945年のAng Bin Hoeyの共産主義グループの行動、さらは保安隊に関しては、Tengku Luckman Sinar, S.H.”The growth of the Chinese Coolies in East Sumatra. From middlemen to Economic Magnates” Sillemhoeve Holland. Dutch-Indonesian Historical Congress 1978参照
[4]スハルト時代
誕生と結婚

一般的に、もっとも喜ばれるのは父親の姓を継ぐ男の子が生まれた時である。例えば、その迷信の中には生まれてくる赤ん坊が障害を持たないように妊娠中の母親には重いものを持たせないことなどがある。赤ん坊が生まれるとその家族は、その知らせのために赤く染めた卵を近隣に配ることをする。

子供が一歳になるとその両親は子供の前にいろいろなものを並べ、それをその子に選ばせる。大きな誕生会の祝いは誰かが80歳から90歳になった時に行われる。

結納の時、婿側の家族は着替え用の服一式を手渡す。花嫁と花婿は早朝に天と地に向かってcio-tao(祈祷)と呼ばれる礼拝をおこなう。花嫁はその真ん中に赤い丸い紙が敷いてある、大きな箕()の中に座らされる。

結婚式のあと、花嫁は花婿の家族と共に二日間過ごさなくてはならない。三日目に、花婿が花嫁の家族と親戚について知るために新婚夫婦は花嫁の家族の元に戻る。

華人は同じ姓の人同士結婚することがタブーになっている。昔は福建人と客家人との間の通婚は禁止されていたが、いまではこの制限が無くなっている。

<26>

19世紀におけるスマトラ東岸地区の華人の結婚

息子が大人になった時、その両親はその息子の伴侶となる人をみつけるために結婚の仲立ち人を探すのである。大病持ちでも障害者でもない娘が見つかると、結婚証明書、結納金、金銀製のブレスレット、ベール、色付けされた絹布、焼き豚、焼き羊、お菓子類、酒、蝋燭、檳榔樹の実やかんきつ類を贈答することで結婚の申し込みが行われる。この申し込みは良い日を選んで行われる。仲立ち人はこの人たちを先導する。花婿側から送られた贈答品の一部を花嫁側から返す時、花嫁側は花婿側の家族に、学習用品である紙、鉛筆、インクと男性用の公式な中華服、何属かの靴下と靴、お菓子、5種類の植物の種を追加する。結婚証明書は赤い紙に書かれ12折になっていて、その上には「この結婚で二つの家族が一つになった」と書かれている。

両家の間でのこの結婚証明書の交換は吉日を選んで行われる。この場合、占い師の意見が求められる。この結婚申し込みは一般的に10月から3月までの間に行われる。両家の合意の後、両家は共同して披露宴を行い、特に新郎新婦の寝室をきれいに見えるようにする。<27>

新しいベッドが搬入されと金属の飾り吊環で蚊帳が張られて、魔除けの刺繍布Pat Koaがその中心に置かれる。花嫁の服は通常レンタルで、新郎の貴族服も大部分がレンタルである。その後、家族と親戚に結婚式の招待状が配られる。楽隊が雇われ、家族の行列の最前列に陣取る。すべての用意が済むと予定日に花嫁を迎えに行く行列から儀式が始まる。この一団が新郎の家に着いたときに爆竹に火がつけられる。花婿が家に入り花嫁の父親から歓迎される。上席に通されお茶を出される。儀式の後、花婿は入室する花嫁の方を向き、椅子に座るように勧める。花嫁はベールで顔を隠している。新郎の家に向かい先頭を切って音楽と銅鑼が演奏される。選択された料理は子孫繁栄と富貴を象徴している。新郎新婦が寝室に着いた時、新郎は新婦のベールを持ち上げる。その後新郎だけが部屋から出て友人や親戚の男とだけ夜中まで座り続ける。新郎が部屋に戻る時には、少年に案内される。新婚夫婦は新郎家族の家に住み、花嫁は姑の手伝いをするのが一般的である。<28>

不妊、結婚時の宣誓違反、義父母に対する不服従、ゴシップ、窃盗、性格劣悪、不治の病という理由で夫は妻を離縁することが許されている

妻に対しては、金持ちか政府高官が妾として取り上げるのは、下層階級の家庭から女中として買い取ったむすめである。一般的に彼らは身分が低いにもかかわらず良い待遇を受けていた。正妻が生きている限り夫はこれらの妾とは結婚できなかったが、性的関係を持つことは可能であった。妾の子供たちは父親の姓を名乗ったが、嫡子より低い権利しか与えられなかった。父親の肩書や地位は長男が相続し、妾の子供たちは正妻に男子がいなかった場合にだけこの相続権を得た。

チャイナドレス Cheongsam (長衫=ちょうさん)[1]

歴史的に生き残っている典型的な中華服の一つはCheongsam(チャイナドレス)である。このドレスは体にぴったり合って着心地が良い。

このドレスは華人女性の体形にぴったりである。ボタンは服の左右についている。胸とドレスの下部のウエスト部分は体全体のシルエットが際立つようになっている。立ち襟と詰め襟、袖は短くてもよく、季節と機会に応じて丈の長さも選べる。すべてが女性の美しさを強調するようになっている。

チャイナドレスは簡易さと優雅さ、美、整えられた美しさを備えている。いうまでもなく、チャイナドレスは華人女性だけではなく世界中で愛されている。さらにチャイナドレスの縫製はそれほど難しくない。現在、チャイナドレスはは流行になり新しいデザインが組み合わせて広く使われている。チャイナドレスは世界的レベルで中華ファッション精神が成功したものといってよいだろう。

長衫(=ちょうさん)という語は広東語から英語になったものである。北京を含む他の地域では旗袍(=ちーぱお)と呼ばれている。この名はこのドレスの発祥を示している。歴史的にいうと満州族時代(清時代)の初期に彼らは「旗」と呼ばれて統一され、後日「旗人」と呼ばれるようになった。従って「旗人」が満州人の呼び名となった。当時満州人の女性は旗袍という名の服を着ていた。

長衫の名前で知られるようになる旗袍は足まである中国の男性の伝統的な服から発している。ちょうさんは広東語で長い服を意味する。確かにこの服はもともと長かったが、時代に連れのて膝丈に短くなった。当初は立ち襟が3から4cmであったが、後日7cmなった。ちょうさんは体にぴったりとしたものを着るものであり、これは左右に分かれる。

辛亥革命で満州人が支配者の地位から降りたが、満州人女性の服はそのまま残り、現在に至るまで華人女性の伝統服となったのである。今日この服は華人・中国人の主体性(アイデンティティ)の一つになった。[2]

()


[1] ()より詳しくはwikipediaでチャイナドレスを見てください。
[2] Harian Suara Penbaruan 2010/7/6の記事から引用


2016-11-25 作成

2021-04-03 修正

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