嗚呼、インドネシア
第86話 バガンシアピアピの虐殺

1946年3月12日の旗戦争
(Bagansiapiapi虐殺事件)
<http://www.kabarindonesia.com/berita.php?pil=26&jd=Perang+Bendera+12+Maret+1946&dn=20090621165437>
Andi Gunawan Riothallo著 | 21-Jun-2009, 17:30:01 WIB
 この緊張した事件は、Bagansiapiapiの華人たちが国民党の青天白日旗を掲揚した1946年3月12日に起こった。その日は中国の祝日(植樹節=孫文の命日)だった。彼らは紅白旗(インドネシアの国旗)を伴わずにその旗を掲揚したのだった。
 この行為はFPRI(Front Perjuangan Rakyat Indonesia=インドネシア大衆戦線)の若者たちの疑惑と怒りを買うことになり、TKR (Tentara Keamanan Rakyat=大衆治安軍)も怒った。その後、インドネシア共和国政府の危機に対する嫌がらせと理解され、この地域のKNI (Komite Nasional Indonesia=大統領の補佐組織)の長であるM. Yatim、Bagansiapiapi地区委員会(wedana)にこの報告が上がった。
Lu Cin Po大佐がwedana事務所に呼び出され、午前九時頃にKNIの事務所に赴いた。Buyung Ketobahを伴ったWedanaのスタッフによる台湾国旗掲揚についての事情聴取が続いた。
 一方、Bagansiapiapiの町ではTKRとFPRIの行動によりますます緊張がたかまり、かれらが露天商から華人の家の屋根裏部屋まで青天白日旗を降ろす主導権を握った。TKRの分子が命令違反をしているのを見てPT (Polisi Tentara=憲兵)のAmran Likiが警らを行い、違法行為取り締まりを命令され巡回しているTKRの構成員に交代し本部に戻った。
 TKRの構成員の一人とはいえ、Kahar YakinはTiu Nai Kuai理髪店の前にあった竹製の青天白日旗の竿を切り倒した。普通この理髪店に集まっている華人はこれを見て激怒し、口論になった。その後彼らはその旗竿を立て直し縄で縛りつけた。この大騒ぎの発生でAmran Likiがその場所に到着しKahar Yakiに本部に戻るように命令した。
 しかし、緊張は解けず、怒り狂った若者たちの感情に対して憲兵でもできることはなかった。Hizbullah軍出身のFPRI構成員Jamam Siraitがその部下に対して、FPRIの制服を脱ぎ捨てて個人として戦うようにと指示を与えた。
 この時Bagansiapiapiの町では自主的に旗を降ろした華人とそれ以前の合意に基づいて旗を掲揚した華人がいた。
 午前11時ちょうどにKNI地区本部でかれらは合意に達した。両者は、華人は紅白旗を右に青天白日旗を左に一緒に12時までに掲揚し、これが美しくない場合には青天白日旗を降ろさなくてはならないことで合意に達した。
 その後、Lu Cin Po大佐はReleighの自転車に乗ってKNI地方本部を後にし、Rumah sakis通りを通ってBank通りに向かい、その後Pasar通りに曲がった。この華人住宅地の通りで、悪者の格好をした人たちが華人の家から青天白日旗をおろそうとしていると通報を受けた。
 この混乱した状況を見てLu Cin Poはペダルを最初の通りに向けて戻った。KantorPos通りとBank通りの交差点で、Lu Cin Po大佐はRifa'i Abidin, Wan Saleh Tamin, Abdul HakimとDudinとみられるFPRIの人に遮られた。
 Lu Cin Po大佐の証言によると、急いでいたためSabat, sabat (落ち着け、落ち着け)としか言わなかった。このFPRIの人はすぐに同大佐をむちで打った。大佐は避けることはできたものの首に当たりそこに倒れた。この事件を見た数人の華人がLu Cin Po大佐を病院に搬送したが病院に着くまでにこと切れてしまった。
 Lu Cin Po大佐が犠牲になった知らせはBagansiapiapiの町中に広まった。最終的には多数の華人住宅の扉が自主的に閉められた。
 同時に、Parit TangkoからTukan Besiの交差点までは、Amat Miraに導かれたジャワ人集落からのFPRIと華人側との白兵戦になった。Amat Mirahは20人の部下と共にジャワ人集落から町を目指した。Parit Tangkoの交差点でAmat MirahはFPRIの司令官のMaswiryoriharjoからParit TangkoからTukang Besi交差点付近までの華人住宅に掲揚してある青天白日旗をおろすという指令を受けた。
 Amat MirahはSiakap通りとBagan Huluからの10人の支援者を得た。この部隊の合流は華人の住宅から国民党旗を引き下ろす命令を実行することになった。Amat Mirahはモリや山刀のような鋭利な武器で武装していた華人から激しい反抗を受けることになった。
 Amat Mirah側には犠牲者が多数出た。最終的にはこの地域は華人の支配となった。FPRIのMaswiryodiharjoとA. Karim Saidからの支援の到着が遅すぎたため彼らは退却しWater Leidingで持ちこたえた。
 そうしているうちに、遅れてジャワ人集落からのFPRIの支援が20名Mahyudin Ahmadに指揮されてやって来たが、かられはジャワ人集落に向かって逃げ回る住民の姿を目撃した。彼らは、華人側は多数であったため釣り合いが取れずにAmat Mirah側はすべて殺されたと言っていた。これを聞いて最終的にはMahyudin Ahmad側も退却したのであった。
 目撃者の話によると、Amat Mirah, Pawirorejo, Pairin, Kromosono, Ali, Amat Sairin, Sarman, Sarkam, Ngatimun, Parjan, Saimin, Fakih Saleh, Hakim bin Kimang, Husin, Khalifah Sidik, Khalifah Thalibの16名が犠牲になった。
 他の犠牲者には罠にかかって逃げることができなかった華人商店で働いていたプレブミもいた。彼らは復讐の鬼となった。彼らは容赦なく殺された。
 政府はこの暴動と敵対行為を修復しようとした。限定的な軍隊で政府はそれを停止させようとした。各々の側はその基本で惹かれた。最終的にBagansiapiapi町での暴動は、まだ緊張が続いているとはいえ鎮めることができたのであった。双方の側は互いに警戒しているのである。

出典: Sumber: Gema proklamasi kemerdekaan RI dalam Peristiwa Bagansiapiapi oleh Sudarno Mahyudin


2016-11-17 作成
2018-06-16 地図追加


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