嗚呼、インドネシア
83話 インドネシアへの華人移住の背景

 この記事はProf. Dr. Slamet Muljana著Runtuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-Negara Islamdi Nusantara 「ヒンドゥー王国の衰退とインドネシアにおけるイスラム王国の勃興」という本を主な資料として作成したものである。この本は1968年に出版されたのだが、この本にはジャワにイスラムを広めたWali Songo (ワリソゴ)の一部が華人であったと書かれていたため、中国と国交断絶状態であった当時のOrde Baru (新体制)下の1971年に最高検察庁から発行禁止処分を受けた。この本はOrde Baru態勢が崩壊した後の2005年に再版され、筆者(度欲)が所有しているのは2011年の第12刷である。
 ジャワの歴史書として有名なものにはナガラクレタガマとパララトンがある。さらにBabad Tanah JawiとSerat Kandaという本も存在する。この後者の二冊の本は伝承をまとめたようなものであり、前者の二冊に比べると歴史的な正確さに欠けるようである。

 1928年にオランダ植民地政府の地方行政管理官であったPoortmanは植民地政府からRaden Patahが華人であったかどうかを調査する仕事を任された。Poortmanはスマランとチレボンのタラン(Talang)にある三保洞廟を家宅捜索し
所蔵されていた中国語の資料牛車三台分を押収した。この押収資料をもとに中国語に堪能なPoortmanは仕事を進め、その結果は極秘で帯出厳禁の報告書にまとめられて植民地政府に保存されていた。それまで秘匿されていたPoortmanの調査結果の一部が1964年発行のManggaraja Ongang Parlindungan著Tuanku Raoに掲載された。この調査結果をもとにProf. Dr. Slamet Muljanaは大胆な結論を出すに至ったのである。
 上述の本の第三章に華人移住の背景とワリソゴに関する興味深い記事があったのでこれを編集してここに転載するものである。


 中国の史書は、西暦399年から414年にかけた求法の旅の途中でジャワに立ち寄った最初の中国人は法顕であると述べている。その巡礼記録は「仏国記」にまとめられている。その約百年後の518年に宋雲と恵生もインドへ巡礼に出たがその記録は極めて簡素であった。さらにその百年後に玄奘法師がインドへ求法の旅に出て629年から645年までの17年間にもわたりインドを放浪しその記録は「大唐西域記」にまとめられている。有名な「西遊記」はこの本をネタとして作られた冒険小説です。671年に義浄はスリウィジャヤ経由でナランダに向けて広東を発った。彼は「南海寄帰内法伝」と「大唐西域求法高僧伝」の二冊の本に記録を克明に残している。義浄は25年にもわたる国外巡礼を終え695年の夏に50万頌の経典を携えて帰国した。この義浄の南海寄帰内法伝の内容のほとんどが仏教と仏道、修行などについて克明に書かれているが、それらの間にわずかではあるが旅行記が挟まっている。旅行記としては大唐西域求法高僧伝の方が興味ある内容です。現在この大唐西域求法高僧伝は絶版になっているようで、昭和七年に足立喜六が訳注をつけた岩波書店刊の復刻版を自作した。こちらからダウンロードできます。

 七世紀以降にスリウィジャヤを訪れたのはこれらの中国仏僧だけであった。すなわちスリウィジャヤ時代にはすでに中国の広東とスリウィジャヤスリウィジャヤのMelayuとの間に整備された航路があったことは確実である。このルートを使っていたのはその大部分がペルシャ船かインド船であり、中国船はまだなかった。義浄はMelayu港町に華人が住んでいたとは書いていない。当時の華人商人は海外貿易に消極的だったのであろう。

 八世紀以降になると華人商人の活動が活発になり、多数の華人がスリウィジャヤを訪れるようになった。資治通鑑は、中国語で書かれた南海の国にある一般外国通商副局長からの中国皇帝宛の親書を元豊五年(1082年)の10月17日に轉運副使兼提舉市舶司孫迥(Sun Chiang)が提出したと解説している。同親書は三仏斉の一部である・卑(Jambi)の王からのものであり、三仏斉の使節を警護する権利を与えられた同王の王女の親書もあった。

 十五世紀初頭、明の永楽帝の時代に鄭和が東南アジアを訪問した時には各地の港に多数の中国製品があるのを目撃している。1407年にスマトラのパレンバンの港を付近の島に巣食っていた福建出身の海賊から救った後、鄭和はその地にインドネシアで最初の華人イスラム社会を構築した。同年にカリマンタンのサンバスにも華人社会が構築された。ということは鄭和の遠征の前にすでに華人たちが住みついていたということになる。彼らの大部分は雲南と汕頭の出身であったから、同じ雲南出身の鄭和がこれらの人たちから事前に情報をとっていたことも考えられる。
 1405年の第一次遠征の時、鄭和はスマトラ島の現在のアチェ州ロクスマウェ郊外にあったサムドウラパサイ港に投錨した。中国とサムドウラパサイとの関係が改善されたことで多数の華人商人たちがパサイに来訪した。当時には華人ムスリムも多く現地の女性と結婚して子孫を残した。
 H.M.ザイヌディンは、19世紀以前の華人は男性のみが移住したと述べ、これはG.W. スキナーの研究結果と合致する。華人女性が中国から移住し始めたのは汽船が登場して運賃が安くなったからのことである(1)。汽船の登場にあいまって、太平天国の乱による国内混乱に起因する華人男女の移民が爆発的に増加した。


 ガン・エンチュという名のマニラの商館長はマニラの妻との間にできたニャイ・グデ・マニラという名の娘を帯同して東ジャワのトゥバンの商館長に転任した。そこでボン・スイホーという雲南出身の青年と出会いこの娘は1447年に結婚した。このボン・スイホーはチャンパの大企業家であったボン・タクケンの孫にあたる。ジャワではこの青年はラデン・ラフマット別名スナン・ガンペルと呼ばれている人である。スナン・ガンペルはこの女性との間に息子のスナン・ボナンを得た。
 またこのボン・スイホーの叔父がマウラナ・マリク・イブラヒムで、この叔父とジャワ島東端のブランパガン出身の女性との間にスナン・ギリが生まれた。
 またガン・エンチュの息子はラデン・サイドと呼ばれ長じてスナン・カリジャガと呼ばれるようになる。
 ボン・タクケンには何人かの子供がいて、そのうちの一人は「チャンパ姫」と呼ばれるDwarawatiでマジャパヒト駐在雲南大使のマ・ホンフの妻になった。マジャパヒト王の側室ではなかったようである。詳細はこちらの第三章 人物の特定と歴史の進行 「(2/3)」を見てください。


 マジャパヒトのウィクラワルダナ王はモジョクルトの華人女性との間に息子ができた。この息子はジャワでアルヤ・ダマルあるいはジョコ・ディラと呼ばれ、中国名はスワン・リョンであった。この人はスマランで火薬工場を運営していてその後1443年にパレンバンに中華商館長として転任したと三保洞廟の資料にあるが、その年は実際には1433年であった。
 スワン・リョンはブラウィジャヤ王の胤をやどした華人女性のバン・ホンの娘をブラウィジャヤ王から預かり出産させた。この子が後日ラデン・パタ、別名ジン・ブンと呼ばれる。またスワン・リョンとこの華人女性と間にラデン・クセンという名の息子を授かった。この二人がこの後のインドネシアの歴史をけん引していく重要人物になる。
 ジン・ブンにはトゥン・カロという息子がいて長じてスナン・クヌンジャティと呼ばれるようになる。

 上記のワリソゴについては、ワリソゴのページで詳しく説明することにする。

 上記のように15世紀頃の華人のジャワへの移住者は主に雲南と汕頭の出身のムスリムであったが、今でもいるリアウ州の海賊は福建出身の華人であった。華人ムスリムたちはジャワ社会へのイスラム伝播と共にジャワ社会に溶け込んでいってしまい、非イスラムが大多数を占める福建人が華人として今のインドネシアに存在しているのであろう。
ジャワ社会に溶け込んでいった華人たちの旧跡は現在のブミ・スルポン・ダメイの南部に広がるベンテン・チナと呼ばれる地域の地名に残存するだけになってしまったのではないだろうか。この当時の華人が現地社会に溶け込むことができて、その後に来訪した華人が閉鎖的な華人社会を構成していたのはなぜだろうか。前者は雲南や汕頭の非漢民族であり後者は漢民族だったからなのであろうか。

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註(1) 百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」には汽船の運賃は帆船の運賃の十分の一になったと記されている。

2015-09-03 作成
2016-08-30 修正
2016-09-07 追加修正
 

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