嗚呼、インドネシア
82話 インドネシア人と日本人に見る宗教観の違い

 外国で長く暮らすとその土地の人たちが持つものの考え方が伝染してくるようである。筆者もその例外ではなかった。
インドネシアをはじめ、ヨルダン、イランなどの中東諸国やベトナム、マレーシアなどの東南アジア諸国に滞在して、その国の人たちのものの考え方についていろいろと考えることができた。
 特に、インドネシアに約25年間の長きにわたり滞在していたため、仕事や生活を通じてインドネシア人たちの考え方を理解できるようになるとともに、その思考方法の基になっている風土や歴史を学んで「なるほど」と思うことが多くなった。彼我の違いは特に宗教感に表れている。
 
 日本人は生まれてくると神社に参詣し、結婚式は教会で、死んだら仏教式で葬式を行うのが一般的である。このやりかたに何の疑問も挟まない。
 わが子たちも一人は神式であったが残る二人は教会で結婚式を挙げた。しかしながら彼らのものの考え方は仏教の教えに従っているように見える。
 教会で結婚式を挙げるのはウエディングドレスを着たいからというのがその理由であると女房が言っていた。ということは宗教を衣服より軽んじているとインドネシア人たちに思われても仕方がないということになる。
 我が身を振り返ってみて、日本人は彼らのような宗教感を持っていないのか不思議に感じたのである。このページでは、この不思議に関して自分なりに考察したことを述べてみたい。

 以下は2015年7月にFacebookのタイムラインに掲載した文章に手を加えたものである。


日本人にはよく理解できないためだろうか、インドネシアでは何かの宗教を持っているのが普通で、無宗教はそれだけで国是に反する故に、無宗教者は逮捕される可能性があるということについて書かれている記事はあまり目につかない。
 インドネシア共和国の建国五原則はパンチャシラと呼ばれる五原則でその第一番目が「唯一神への信仰(KetuhananYangMahaEsa)」だ。バリのヒンドゥー教や仏教も道教も一神教ではないのだが、一応認められている。
 インドネシア人が宗教熱心であることは言うまでなく、仕事より宗教の方を常に優先している人が大多数である。インドネシア人の友人が私に投げかけた言葉の中で最も印象的だったのは「Orang  Jepang agmanya kerja (日本人は仕事が宗教なんだね)」だった。
 こういう考え方は一般的な日本人にはなかなか理解しがたいものであろう。かくいう私も一般的な日本人の思考方式に基づいて考えていたので、これを理解するのには文献の渉猟とかなりの時間を要した。

 インドネシア人が宗教熱心というよりも、日本人が宗教不熱心と言った方が正鵠を射ているであろう。この点について、内田樹氏は著書「日本辺境論」(P158〜)の中でこう言っている。

        「外部に上位文化がある」という信憑は私たちの「学び」を動機づけできています。それはまた私たちの宗教性をかたちづくってもいます。
 辺境人の宗教性は独特のしかたで構造化されています。(中略)私たちの外部、遠方のどこかに卓越した霊的センターがある。そこから「光」が同心円的に広がり、この夷蛮の地にまで波及してきている。けれども、その光はまだ十分に私たちを照らしてくれてはいない。
 この霊的コスモロジーは華夷秩序の地政学をそのまま宗教的に書き換えたものです。
 自らを霊的辺境であるとする態度から導かれる最良の美質は宗教的寛容です。異教徒を許容するという宗教的寛容をヨーロッパ世界は無数の屍骸を積み上げた後にしか達成できませんでしたが、日本では宗派間の対立で殺し合いを演じたという事例はほとんど存在しません。
 その反面、辺境的宗教性には固有の難点もあります。それは辺境人がおのれの霊的な未成熟を中心からの空間的隔絶として説明できてしまうせいで、未熟さのうちに安住してしまう傾向です。
 この辺境の距離感は私たちに余り深く血肉化しているせいで、それが今まさにこの場において霊的成熟が果たされねばならないという緊張感を私たちが持つことを妨げている。
 私たちはパフォーマンスを上げようとするとき、遠い彼方に我々の度量衡では推し量ることのできない卓絶した境位がある。それをめざすという構えを取ります。自分の「遅れ」を痛感するときに、私たちはすぐれた仕事をなし、自分が何かを達成したと思いあがるとたちまち不調になる。この特性を勘定に入れて、さまざまな人間的資質の開発プログラムを本邦では「道」として体系化している。
 「道」はまことにすぐれたプログラミングではあるのです。けれども、それは(誰も見たことのない)「目的地」を絶対化するあまり、「日暮れて道遠し」という述懐に託されるようなおのれの未熟、未完成を正当化してもいる。
この宗教的寛容さが日本人の宗教離れの原因の一つになっているのではないだろうか。
 2005年から2006年にわたる半年間に、スマトラの現場でバリ人のエンジニアと仕事をした。この方は私より5歳年上の公共事業省の水門の専門家であり、職務経験のみならず広い知識と教養を備えた人であった。かれは生粋のバリ人でヒンドゥー教の熱心な信者でもある。仕事が終わった後や休みの日には彼とインドネシアの文化の話や宗教の話をする機会を得た。また日常会話の中からいろいろな知識を得ることができた。
 彼との会話から、ひょっとするとジャワ人の心情はイスラムの教えに適していないのではないだろうか、という疑問が湧いて出てきた。
この疑問に自分なりの回答を出したものが「嗚呼、インドネシア第13話ジャワとイスラム」である。

この文章は2005年に書いたものであり、その後の十年間で私はもう少し知識が増えたように思えるのでそれをもとにして、続きを書いてみようと思ったのである。

 信仰とは各個人の胸の中にあるもので、教義を「信じること」によって、その信仰が与える安寧を得るものである。したがって、その教義を信じなければその宗教はその人にとって無意味なものである。このような主観的価値観の衝突が実害を及ぼすことが多々ある。それでイスラムの聖典アル・クルアーンの不信者の章には「あなたがたには,あなたがたの宗教があり,わたしには,わたしの宗教があるのである」と書いてある。すなわち、他人の価値観を認めよということでありwikipediaでも「他者の信仰を蔑視することの禁止を含意している」と言っている。
 「右手に剣、左手にコーラン」などという表現は、ヨーロッパ人の持つムスリムに対する偏見の表れでしかない。中東情報のほとんどはこういう偏見を持つ欧米を経由して日本にもたらされるので、この点を注意して中東情報を受け入れることが良い。中東の現地で暮らしてみると、欧米を経由して教えられたほど彼らは変わった人たちではないことがいえる。

 イスラムの布教がジャワ島で本格的に始まったのは16世紀であり、ジャワ島全土にイスラムが広まったのは約150年前のことである。したがって、ジャワ各地にはヒンドゥー・仏教の遺跡が参詣の場所となっていたりして保全されていたものも多い。今でも各地のヒンドゥー・仏教寺院遺跡には捧げものや線香などの参詣の跡がみられ、村人にとっての聖地となっている。
 このような仏教思想が支配してきた環境の下で発展してきたジャワ風イスラムは、スマトラなどのイスラム先進地域とは異なっているとインドネシア人たちの間からも指摘されている。この宗派がナフダトゥール・ウラマ(NahdlatulUlama=NU)であり、この宗派はあまりに多数のジャワの風習や迷信などを取り入れているので、「イスラーム本来に戻るべき」という近代イスラーム改革運動として1912年に設立された改革派としてムハマディア(Muhammadiyah)が二つの宗派だ。NUの方が仏教に近く日本人にはなじみやすいという利点がある一方、オカルチックな面があり理性的な人にはなじみにくいだろう。一方、ムハマディアはあまりに理性的であるがゆえに深みがないと感じる日本人もいるかもしれない。
 アル・クルアンを一読すればわかることは詳細にわたって戒律が成文化されているとともに、第三者の目から戒律を守っているかどうかがわかるようになっていることから、この教えがISO9000の考え方のもとになっているのではないかと私は疑っている。詳しくは「ISOlam800」に少し茶化して述べてある。
 とはいえ、アル・クルアンの内容は七世紀から十世紀のアラビア半島に住んでいた人たちにとっての最良の生活マニュアルであったことはいうまでもなく、その文芸な価値も高い。音読するとその音の美しさがよくわかる。

 神が預言者をインドネシアではなく中東に何度も遣わしたことを、インドネシア人たちは残念に思っているらしい。そこで悔し紛れの果てにいろいろなジョークが出てくる。
      「神は全知全能であるから必要な地域に預言者を遣わした。その必要な地域とは人種間の協調よりも自分の一族の栄華だけを考えている中東だったのだ」
 「神がインドネシアに預言者を遣わしても、協調を重んじるインドネシア人に適する教えは中東人には到底理解できないから」
などなどだ。
 一般的に言うと、その地域にイスラムが浸透した期間が長いほどイスラムの寛容さが大きくなる。すなわち、ここ二、三百年にイスラムが布教された地域ではイスラムの理念の浸透が不十分なゆえに、不寛容な信者が多いということになる。約千年に布教が開始されイスラムが深く浸透したスマトラのアチェやパダンにはたくさんのキリスト教会があるが、現地のムスリムたちはキリスト教徒を敵視していない。一方、ここ500年間に布教されたジャワでは、キリスト教会のみならずバリヒンドゥーの寺院を建設することに現地のイスラム勢力からの抵抗が大きい。憲法では信教の自由があるのだからどこに教会を建ててもよいはずなのであるが、特に西ジャワ州ではイスラムの現地人が地方政府と裁判所を脅してキリスト教会を建てさせないようにしているというニュースをしばしば耳にする。
 最近イスラムに入信した日本人と話していると「イスラムが最高」という自負があるせいか、宗教上の問題に関してこの不寛容さが目に付く。一方、パダンに住むミナン人の友人(複数)はとても寛容である。ということは、イスラムの思想が深くなっていると寛容性が広くなる、という結論に達するのである。

 誰でも、何かの宗教に入った直後は先輩や教師などから教えられたことを何も考えずにおうむ返しにそれを他人に話すのが一般的である。この発言は自分の脳でプロセスした結果ではなく、ただのコピーでしかない。すなわちその発言の理由などの背景を求められると答えに窮してしまうのが普通だ。
 一般的な日本人が見ている掲示板に書き込まれるこの手の「新しい信者」の発言が熱病にかかった患者のようでまるで理不尽で根拠がない故に、彼の持つ信仰に対する異教徒の評価を下げてしまうことになる。すなわち、彼の信仰の言葉を使うと「神への信仰を損なう者」と感じざるを得ない。また彼と同じ宗教を奉じている「熟達した信者」はこのような「新しい信者」の発言を聞いてそれをとがめることはしないのが普通だ。これは「ハシカのようにそのうち治るだろう」ということなのであろうか。それとも、この「新しい信者」の脳の働きに問題があり、何の問題にでも突っかかっていく性格を有しているからかかわりあわない方が身のためだと思っているのかもしれない。この手の問題は個人の問題であり、宗教自体の問題では全くない。
 インドネシア、特にジャワではヒンドゥー・仏教時代のことを「暗闇の時代」とか「無知蒙昧の時代」、「頑迷固陋の時代」と呼ぶ人がいる。イスラムに改宗したのならば、以前の宗教は唾棄されるべきものであるゆえにこのような表現が適切になるのであろうが、ヒンドゥー・仏教の時代は現代に比べていかなる点においても本当に無知蒙昧で頑迷固陋で暗黒時代であったかどうかはわからない。かなりの点において現代より優れていたのではないだろうか。
 ではなぜ、ジャワ人たちは千年以上も続いたヒンドゥー・仏教を捨ててイスラムに改宗したのであろうか?
インドネシアの友人が言うには、ヒンドゥー時代にはカーストがあったため、力をたくわえた下層の人たちがイスラムに入信することでカーストを脱し、下剋上を起こしたからだ、とのこと。インドのシーク教徒やイスラム教徒を見ればその可能性は高いが、本当はイスラムとヒンドゥーの呪術競争で進んだ技術を含んだイスラムの方が勝ったためではないかとも思うのである。また、イスラムが早くから入った北海岸には貿易港が多く、戦費も潤沢にあったのではなかろうか。ヒンドゥー王国が王権の継承に伴う内紛で揺れ、また火山噴火による農業収入の減少も起因したのかもしれない。

 ジャワのイスラム化の理由に関する疑問への答えはこれからあなたが徐々にひも解いてゆく次の本で得られるだろう。訳者としてもこの謎解きが楽しみである。
 Slamet Muljana著Runtuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-negara Islam di Nusantara「ジャワヒンドゥー王国の衰退とインドネシアにおけるイスラム諸国の勃興」
このSlamet Muljana著Runtuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-negara Islam di Nusantaraの序文に1971年に最高検察庁から発禁の処分を受けたとある。その理由とは、この本の中でワリソゴ(ジャワにイスラムを広めた9人の伝道師)の一部に中国人がいたのではないかと書いたことであった。この当時はスハルト政権下のオルデバル(新秩序体制)であった。そもそもスカルノが失脚したのは中国(中共)と懇意になり、インドネシアに共産主義革命が起きそうになり、外国(たぶん欧米)からの支持を受けてスハルトがその革命をつぶそうとした(9月30日事件)からである。歴史的にみると1740年に「バタビアの狂暴」事件が起きて暴動を起こした華僑が多数殺され、時のオランダ植民地政府はバタビア(今のジャカルタ北部)に住んでいる華人を治安維持のために数か所に集めたことがあった。これが今でもPintu BesarとPintu Kecilという名で残っている。この事件以来、現地人(プレブミ)には感情のしこりが残り、社会不安が募ると反華僑暴動が頻発した。

 最近では1998年に暴動があった。この暴動は5月13日の午後にジャカルタの国際空港のある地域のチェンカレンで勃発し直ちに空港付近には交通規制が行われた。そのためその晩のフライトで帰国する予定の私は数日間の足止めを食らうことになった。1998年のジャカルタ暴動発生の数か月前から暴動発生の予兆はあり、これらに関して東京におこなった状況報告のコピーと帰国時の顛末記をウエブにアップしてある。何かのご参考になれば幸いである。
 同年2月に東ジャワ州の海岸地帯を中心として、よく軍事訓練された黒服のよそ者がトラックで集落に入り込み、特に宗教上の指導者やドゥクンを殺害し、素早く姿を消すことが頻々と発生した。彼らは黒服で動きが敏捷なため「ニンジャ」と命名された地域の住民たちはおののいたのであった。ニンジャの襲撃の理由はいまだに不明ではあるが、1965年の9.30事件の際、宗教上の指導者たちの嘘の密告により無実の罪で殺された遺族たちの復讐が目的ではないかという噂も立ったほどであった。

 閑話休題。このようにインドネシアでは華人は二流市民の取り扱いを受けてきて、彼らの信仰する道教や孔子廟などへの信仰は憲法の言う「信仰」には入らないものとされてきたが最近になってこれらも「信仰」として認められるようになった。

 一概に華人と言っても、中国には漢民族以外にたくさんの種族がいて、漢民族が原住民であった中原以外ではその土地の原住民たちがいまだにたくさん暮らしている。特に雲南省の南と西部はビルマとの国境に接し、ビルマからの山岳交易ルートが通過していたためと、北側の四川省の先はシルクロードが通っている甘粛省であるから、古くから雲南人たちは交易を生業としていた。その結果、イスラムが古い時代からこの地に入り込み、いまでもイスラム教徒が多い地域であると思われる。世界史で習った鄭和も雲南省の出身でイスラム教徒であった。鄭和の祖父母は14世紀頃に雲南からメッカまでハッジ詣でに行ったこの三年間の往復中の冒険談を鄭和によく話してくれたので鄭和は若いころから外部の世界に深い興味を持っていたということである。鄭和とスマランの三保洞(Sam Poo Kong)についてはこちらをご覧ください。

 Slamet Muljanaはこの雲南人のムスリムがWali Songoに含まれている可能性を指摘したため、反華僑感情が高まっていたOrde Baru下での政権が出版禁止としたことは間違いない。この可能性に私はベトナムにいたチャンパ人も付け加えたいのである。というのはイスラムがジャワ入る数百年前からチャンパ・クメールとジャワとの間で交易が盛んであったという事実があるからなのである。ベトナムのチャンパ遺跡はジャワのマジャパヒト遺跡によく似ており、さらにジャワには「チャンパ姫墓所」がきちんと残されている。またクメールの初代王はJayavarman IIで、彼は幼少時にはジャワに住んでいたということも言われている。を。それゆえ、いまでもカンボジアにはカンポンチャム(kampong cham=インドネシア語では「チャム人の集落」という意味になる)がいまだに存在するのであろう。
 このチャム人は占城や扶南とも呼ばれた王国を作り、海のシルクロード沿いの海上交易で栄えた。以前はすべてヒンドゥー教徒であったが、彼らが得意とする海上交易が盛んになった故か、イスラムが入り込み、現在では元来のものとイスラムが混交したもの、イスラムなど数種類の宗教があるようである。このイスラム化したチャム人がWali Songoになっていたとしても何ら不思議はない。インドネシア・ポリネシア種の言語がわからない雲南人より、同じ語族にいるチャム人の方がジャワでははるかに受け入れられやすかったであろう。
 サイゴン(ホーチミン市)の中央に壮大なモスクがあったのに驚きいろいろと調べた結果、以上のようなことが判明したのだった。

 インドネシアは他のアジア諸国に比べると宗教遺跡が多いのが特徴である。それはなぜであろうか。まず、宗教遺跡が少ない国の歴史をたどってみよう。そこでは長い間その土地の宗教が入れ替わっていないことがわかる。中国では道教と仏教などなど、カンボジアではヒンドゥー教から仏教に、日本では神道に仏教が加わり平和共存している。ということは、昔の宗教施設がそのまま利用されているので遺跡にはなっていないということである。
 一方、インドネシアではこの状況が全く異なっている。ジャワではここ500年間にイスラムの布教が進み、ヒンドゥー教と仏教、ジャイナ教の大規模な寺院群が放棄されたゆえに宗教遺跡として残存することになった。ボロブドゥールやプランバナン寺院がそれである。これら以外にも各地方にチャンディと呼ばれる多数の宗教遺跡があるのはご存じの通りだ。
これらの遺跡はジャワだけではなくジャワ以前にイスラムが浸透したスマトラにも存在する。ムアラ・ジャンビムアラ・タクス、パダン・ラワスがその代表である。ジャワよりはるか昔にこの地域にイスラムが浸透したため、これらの宗教施設はその時点で放棄され、未開の原野に取り残されて開墾によって発見されるまで知られていなかったという遺跡もある。スマトラの遺跡の歴史に関する手がかりはほとんど失われており、遺跡周辺にも大規模集落が存在しないということは、何かの理由でこの地域が見捨てられて、長い間に住民が入れ替わってしまったことを意味しているのだろう。スマトラ島の南部では数百年に一度大噴火を繰り返すクラカタウ火山の活動がこの地域の人間の活動に大きな影響を与えているのだろう。この一つはランプンにある約50年前に発見されたプグンラハルジョ遺跡である。

 宗教の話から趣味の歴史の話になってしまったことをご容赦ください。

 インドネシアでは信仰に熱心であることはよいこととされているが、日本で同じことをすると胡散臭いと思われる。この差はどうして生まれてきたのだろうか。

 インドネシア人の友人の一人がヒントをくれた。
 「宗教は人間を束縛しすぎているから、僕は宗教というものが嫌いだ。真心を信じて生きていくのだ」「インドネシアでは宗教が自由な発想や行動を束縛しているから先進国になれない」というのが彼の主張だった。
彼自身は「ムスリムKTP」であるが奥さんは敬虔なカトリック信者である。奥さんは教会の友人たちを自宅に招いて聖書勉強会などを開いているが、彼はその会が終わる頃まで残業して帰宅するのが普通であった。一度だけこの勉強会に出たことがあった。
「なぜ我々は毎日お祈りをしなくてはならないのですか?」の神父の問いに出席者全員が一分以上黙っていたのでたまらず「神と交信するためです」と答えてしまった。その神父は会ったことのない私に「あなたは誰ですか?」と尋ねるので「ここのうちの居候です」と答えた。さらに交信の理由を尋ねるので「それは我々の体を動かしているソフトウエアをバージョンアップするためです」と答えた。神父からと同席者たちからは何の反応もなかったが、同席していた友人の息子は私の顔を見てニヤッとしていた。聖書勉強会でこんなことを言ってはいけなかったのかもしれない。

 閑話休題。そういわれてみて初めて、先進国では宗教的束縛が強くないのが普通であり、存在してもその束縛は目に見えない形であるということに気付いた。
 日本では明治以降の近代教育では宗教教育がほとんど行われてこなかった。その代わりとなったのが「修身」教育であり、戦後は「道徳」とその名を変えたものである。「道徳」教育には全く宗教色がないといって良いだろう。それは家庭教育の中において宗教教育の元となるものが行われていないから、宗教色の濃い授業をおこなったとしても日本の子供たちには受け入れられないからなのではないかとおもうのである。カトリック系の学校では宗教の時間があるようだが、子供たちが本当に内容を理解しているかどうか極めて疑わしい。解剖学者の養老孟司氏は幼少時に九段の暁星学園でキリスト教教育を受けたため、物事を批判するためのプラットフォームができたと言っていた。日本人にいわゆる宗教的な考え方のベースが存在しないことは新渡戸稲造や丸山眞男が指摘していた。少し長くてくどくなるが引用する。
       ++内田樹著「日本辺境論」++
新渡戸稲造にして、おのれの正邪善悪の観念を形成しているものを「体系」というかたちでは言うことができなかった。それは何となく決まっているものであり、「これは武士道にかなっている」「これはかなっていない」という判断には汎通性があるけれど、改めて「それは何を基準に定まるのか」と問われると。うまく答えることができない。「武士道」というのは「鼻腔に吹き込」まれるもの、まさに「空気以外の何物でもないからです。
++丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」++
「『大和魂』は遂に島帝国の民族精神(フォルクスガイスト)を表現するに至った。もし宗教なるものは、マシュー・アーノルドの定義したるごとく『情緒によって感動されたる道徳』に過ぎずとせば、武士道に勝りて宗教の列に加わるべき資格ある倫理体系は稀である。本居宣長が
  敷島の大和心を人問はば
  朝日に匂ふ山桜花
と詠じた時、彼は我が国民の無言の言を表現したのである」

 「日本辺境論」の抜粋

 21世紀に入って、ジャワではイスラムの影響が強まり女性の服装や挨拶などにその結果が表れている。現在から約30年前の1983 年にマルバグン・ハルジョウィログが書いた「ジャワ人の思考様式」にもその当時のジャワ人の宗教的態度が書かれている。この本の中で、ジャワのイスラム教徒は表面的なものに過ぎないとまで言っている。それは、ヒンドゥー・仏教文化の中で長年育成されてきたジャワ風な考え方がいまだにジャワ人の思考基盤となっているからだろう。人間は生まれてこの方教えられてきた価値観や判断基準をそう簡単に変えられるものではないからだ。
 すなわち、宗教はその地の文化の上に育つものであるから、その地の文化が宗教に色濃く出ることはやむを得ないのである。アラブにはアラブ風の、イランにはイラン風の、インドネシアにはインドネシア風のイスラムが存在することは当然の結果である。それを無理やりアラブ風に統一しようとしても、文化と教義がかい離するために根付きにくいのではないだろうかと考えてしまうのである。


 それが証拠には、イスラム教徒とはいえ迷信に近いNyai Roro Kidul (ニャイ・ロロ・キドゥル=南海冥府の女王)への、信仰とまではいかないがその廟に参詣する人が多い。またジョグジャカルタの南にあって「南海冥府の女王」が海から上がってくるといわれるパラントゥリティスやパランクスモにも参詣者が多いのはなぜだろう。大祭ともなれば数万人の人出になるようだ。

 もう一つ。中部ジャワと東部ジャワの州境にLawu山という山塊がある。この山塊も修験道のような修行場があちこちにあるのはあまり知られていない。何カ所かを訪問したが以下の二か所PringgondaniAlas Ketonggo が修行するにはおすすめ。ただし、Pringgondaniへはトレッキングの服装が必要。アクセス方法はページ中に示してある。
 ここで命を落としても病気になっても筆者は一切の責任を負わないことを予めご了解願いたい。

 ジャワ人がこのように難行苦行を好むのは、ヒンドゥー教のタパの影響が強く残っているからだろう。またこの難行苦行をやり終えるとある種の超能力を神から授かり、その超能力で他人から呪いを掛けられなくなると彼らは考えているようである。それ故、看板こそ出てはいないから外部の者にはわからないのだが、町の中あるいは集落の中には必ず呪術師がいて彼らは住民たちの依頼を受け、彼らの商売は繁盛している。彼らのほとんどが「ぶったくり」なので、こういう人たちに日本人はかかわらない方が良い。

 長年にわたりインドネシアに長い日本人やインドネシア人の行動などを見ていると、呪術などによって体調を崩すということがあることがわかる。それは呪術によって相手に静電気の塊を押し付けることにより自律神経を制御している電気信号をかく乱するからではないだろうか。ここでいう静電気の塊とは憑依霊のことである。相手の体にかける呪術には地域によって何種類かに分類される。呪術が有名な地域はバリ、バニュワギ、ブリタル、バンテンですべてBから始まっているのが何かを暗示しているのかもしれない。
 インドネシア人は一般的に、お化けを怖がる割にはお化けの話が大好きで、その手のテレビ番組がよく見られていたり、この手の雑誌(Libertyなど)が日本では考えられないほど売れているのがその証拠である。こちらにインドネシアの呪術師・魔術師に関する記事があるのでご希望の方はご覧ください。
 もしお化けの話が大好きでしたらぜひこちらもご覧ください。世界各地で調べたお化けに関する記録の集大成です。
 翻って日本社会を我々の目から見ると、このような宗教的熱心さを日本人は持ち合わせていないように見える。しかし、外国人の目から見るとそうでもないようである。というのは、日本人はお宮参りや正月には初詣、お彼岸には墓参りなどを行っているからである。これは日本人が無意識に行っている宗教行事なのではないだろうか。日本人が無宗教ならナントカ大師や帝釈天などの門前町がこんなに栄えているはずがない。この無意識の宗教と武士道などを合わせてイザヤベンダサンは「日本教」と呼んでいるようである。
 中韓に比べると、日本人には一神教の信者が少ないと言われている。ちなみに日本では人口の1%以下、中国では10%、韓国に至っては25%と言われている。中国ではthe Godにあたる天帝が太古から意識に存在したから一神教が受け入れられやすかったのであろうし、韓国は中国の文化的属国であったから中国と同様である。韓国人信者数が異常に多いのは、朝鮮戦争後に荒廃した国土に宣教師たちがやってきて食糧援助や病院などの福祉施設を建設したため、それに引かれて入信した人が多いという説と、「キリスト教は正しく、他の宗教は間違えている」という独善的な教義を強調する点が韓国人の性格にぴったり合致したためという説がある。

 一方、日本では昔から神様たちの合議制で何でも決めたと考えてきたものだから、日本人の意識に一神教の絶対神という概念がなくて当然なのである。

 一人のアメリカ人が神様と出会って本にした。ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」「神とひとつになること」(*8)である。これはまさしく仏教の教えである。この考え方は日本人の思考方法になじみやすく理解しやすい。一読をお勧めする。たぶんジャワ人たちにとっても受け入れやすい内容ではないかと思われる。本の抜粋はこちらにあるのでご覧ください。


 一神教の聖書の原典は旧約聖書であり、ユダヤ教、イスラム、キリスト教で経典として扱われている。私の注目を引いたのは旧約聖書の創世記である。現代科学を学んだ私、実は現役時代は技術コンサルタントだった、の目から見たら荒唐無稽なことがいろいろと書かれている。そのうち特に興味を引いた記事に関して「この記事が史実を表している」という前提に立って検証を試みた結果、興味ある結論を得た。
◇「アダムとイブは我々と異なる人種だが、実は我々の先祖だった
◇「エクソダスの嘘
◇「創世記に記されたアダムと子孫の年齢に隠されたとんでもない秘密 その1
◇「創世記に記されたアダムと子孫の年齢に隠されたとんでもない秘密 その2

 これらの記事にムカッと感じた方は、ぜひ科学的な根拠を示して反論してください。お互いの知の切磋琢磨のために!

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2015-07-23 作成
2016-08-30 修正
2022-12-27 修正

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