嗚呼、インドネシア
81話 バタビアの狂暴 Geger Pacinan

以下の文章はhttps://id.wikipedia.org/wiki/Geger_Pacinanの筆者の和訳であり、誤訳などによるいかなる損害も利用者の責によるものとする。

 

 バタビアの狂暴、別名アンケの悲劇、華人大虐殺とは、現在のジャカルタであるオランダ領東インドのバタビア港と町で発生した華人に対する大虐殺であった。市内で発生したこの暴動は1740年の10月9日から22日まで続いた一方、小さな暴動は同年の11月末までいくつか発生したのであった。
 政府の抑圧と砂糖価格の下落の影響に関する誤解を引き金として発生した華人社会内部の不安がこの虐殺を導いたのであった。この不安を解決するために、インド議会とVereenigde Oostindische Compagnie (VOC)政府、総督Adriaan Valckenierの会合の席上、総督はいかなる暴動も補足して鎮圧すべしとの声明を発表した。その大多数が労務者であるか砂糖工場の作業員であった数百人の華人たちが50人のオランダ軍に殺された後に、この総督の声明は1740年10月7日に効力を発した。オランダ人実業家は、華人たちからすべての武器を取り上げるための夜間に追加の軍隊を送った。その二日後、華人の残酷さの噂話におびえたバタビアの他の人種がKali Besar沿いにある華人の住宅に放火し始めた。同時に、オランダ軍は大砲を持って華人の住宅を襲った。この強行はいち早くバタビア市全域に広がったためより多くの華人が殺されたのであった。10月11日に総督が華人を許すということを公式に発表したが、総督が虐殺をやめるように厳しく命令した10月22日までの間、軍隊は継続して華人を捜索して殺し続けた。町の境界外ではオランダ軍が暴動を引き起こした製糖工場の労務者たちと引き続き交戦をつづけていた。小さな戦闘が続いた数週間後に、オランダ軍はいくつかの製糖工場に設営された華人の本部を攻撃した。生き延びた華人はBekasiに避難したのだった。
 この事件で約一万人の華人が虐殺されたと思われる。生き延びた人たちの数は不明であるが600人から3000人であろうと推測される。翌年、ジャワ島全土でいくつもの虐殺が発生した。この件は華人とジャワ人連合軍と敵対するオランダ軍とのあいだの二年間にわたる戦争の引き金となった。このあと、総督Valckenierはオランダ本国に召還されてこの虐殺に手を貸したと追及された。Gustaaf Willem van Imhoffが彼の代わりに提督になった。現代にいたるまでこの虐殺はオランダ文学書の中で何度も反復されてきている。この虐殺はジャカルタの数か所の地名の語源になった可能性がある。


事件の背景

 オランダによる東インドの植民地時代の初期に多数の華人がジャワ島の北西海岸にあるバタビアの町の建設に従事する労務者となった。彼らも商人として、製糖工場の労務者と商店の店員として働いていた。東インドと中国間の交易はバタビアがその中心地であり、経済が強化されジャワ島への華人の移住が増加した。バタビアにおける華人人口は急速に増加し1740年には10,000人を超えていた。数千人は市街に居住していた。オランダ植民地政府はかれらに身分証明書の携帯を義務付け、証明書のないものは中国に送り返した。
 この国外放逐の通告は総督Dirk van Cloonを含む数千人が亡くなったマラリア禍のあと1730年代に強化された。インドネシアの歴史家Benny G. Setionoによると、この伝染病は、人口がますます増加し金持ちがますます増えた華人に対する疑惑と恨みを増加させることになった。その影響で、総督Valckenierの配下の原住民担当のRoy Ferdinandは1740年7月25日に、疑わしい華人をスリランカのZeylanに送致しシナモン農民にすることを決定した。金持ちの華人家族は彼らを国外追放すると脅すオランダ人実業家に抑圧された。英国出身の探検家でありジャワ島のれきしのせんもんかでもあるStanford Rafflesは、黒と青の服を着ている華人は貧民であるが故に全員を国外追放すべく、オランダが認めた中国人の指導者である中国商館長のNi Hoe Kongにオランダ人が伝えたと書いている。Zeylanに送られた人たちはそこまで到着したことがなく、海に捨てられるか船内で暴動を起こし多時に殺されるかであるという噂まであった。この国外追放への恐怖は華人たちを不安に落としいれ、多数の華人労務者が仕事を離れることになった。
 一方、ブタウィ人たちを含むバタビアの原住民は華人をさらに疑うようになった。経済問題がその役割をともにし、大部分の貧しい原住民とそして華人は有名で平和な地域に住むことに変わっていった。オランダの歴史家A.N. Paasmanは、本当はもっと困難なのであるが、華人が「アジアにおけるユダヤ人の桶」になったと述べている。バタビア周辺に住んでいる多数の貧困華人はオランダ人と華人の支配者たちにこき使われていると感じられる製糖工場の労務者を構成していた。裕福な華人は工場を所有し交易を通じてますます裕福になり、彼らは糖蜜や米から作った酒などのアルコールの製造と販売で大儲けした。砂糖の値段を決めたオランダ人実業家もまた不満の原因となった。ヨーロッパに輸出する量の増加に起因する世界市場における砂糖価格の低下の影響として、東インドの砂糖産業は損害を受けた、1740年までに砂糖の世界市場価格は1720年代の価格の半分にまで減少していた。砂糖は東インドからの最大輸出品の一つであったために、宗主国は金銭的に困っていたのであった。
 その初期、インド議会の議員の数人は華人はバタビアを襲わないだろうと考え、1738年にバタビアに戻ってきた前総督Zeylan Gustaaf Willem baron van Imhoffに率いられた会派に反対された華人をより厳しく統制することを考えた。しかしながら華人たちはあちこちの集落からバタビアの町境の外側に達し、9月26日にValckenierは危機に対処するために評議員を招集した。この会議でValckenierは華人が火をつけた暴動は虐殺をもって対処することを命令した。この通知はvan Imhoffの会派が反対し続けVermeulenは1938年にこの二つの政治会派の間の緊張が虐殺に関して役割を担ったという説を唱えた。
 10月1日の夜、数千人の華人がバタビアの町の門の外に集結しているという報告をValckenierは受けた。五日前の評議会での宣言が狂乱の引き金になったのだった。Valckenierと他のインド議会の議員たちはこのことを信じなかった。華人が町の外で町を警護していたバリ人の伍長を殺した後、議会は町の警護のための兵を増強し警護することを決定した。50人のヨーロッパ人と原住民の助手で構成される二つのグループがバタビアの南と東側にある砦に送られ、攻撃の計画も作成されたのだった。


虐殺

製糖工場の華人労務者のいくつかの集団が工場から略奪し放火するために自作の武器で武装し反乱を起こした後、中国商館長のNi Hoe Kongに引き入れたと思われる数百人の華人が、現在Jati NegaraになっているMeester CornelisとTanah Abangで10月7日にオランダ軍人を50人殺害した。この攻撃を迎え撃つためにオランダの司令官は新兵と兵役中の11大隊をともなう1800人の正規軍隊を反乱鎮圧のために送った。彼らは夜間に行動し、すでに計画された華人の祭りを中止させた。華人が夜間に陰謀を仕掛けることを恐れたため、町境の中に住んでいるものは蝋燭をつけることが禁じられ、最も小さなナイフまですべてを供出するように命令された。その翌日オランダ軍は、タンゲランとブカシからのグループを率いた華人約10,000人からの攻撃に町の城壁のところで反撃することに成功した。Rafflesはこの戦闘で1789人の華人が亡くなったと記録している。この攻撃に気付くためにValckenierは10月9日に再度議会を招集した。

 しばらくするとブギスとバリの兵隊を含めてバリとスラウェシ人を含め、華人以外の部族中で、華人が現地人を殺すか凌辱するか、あるいは彼らが奴隷にするかという噂話が広まった。これを抑止するために、このグループがKali Besar沿いの華人の住宅に放火し始めた。これがバタビアに居住する華人の住宅地に対するオランダの攻撃に続いた。反植民地主義者のオランダの政治家W.R. van Ho?vellは「妊婦、授乳期の母親、小児、老人たちがこの攻撃で倒れた。障害はロバのように殲滅させられた。

 Letnan Hermanus van Suchtelen dan Kapten Jan van Oostenに率いられた軍は、Tanah Abangの攻撃で助かった一人のオランダ軍兵士は、Pecinan地域で地位を占めた。Suchtelenと彼の部隊はPasar Burungに駐屯し、同時にOostenの部隊は運河に近い場所を占めることとなった。午後五時ごろ、オランダ軍の一兵卒が華人の住宅に向かって砲撃を始めたゆえに、この家は燃えてしまった。数人の華人が彼らの家で犠牲となったと同時に他の人たちは家から逃げようとした時に銃撃されたり自殺したのだった。運河までたどり着いた者は小舟で待ち構えていたオランダ軍に殺されたと同時に、他のオランダ軍は燃えている家々の間を行きつ戻りつして、まだ生きている華人たちを殺した。この行動は後日バタビアの町中に広がった。Vermeulenによると犯人たちの大部分は船員と「良いとは言えない」一部の大衆であった。この時期には多数の囚人と財産没収があった。


この虐殺で放火された華人の住宅
 

1740年10月10日に華人の囚人がオランダ軍に殺される図



その翌日、この暴力行為は広がり続け、入院していた華人の患者が外に連れ出されて殺された。Kali Besar地区の火事を消す尽力はいまだ効果が表れておらず、火災は夜になってますます大きくなり10月12日になって初めて鎮火した。同時にオランダ軍の800人と原住民2000人で構成されるグループがKampung Gading Melatiを襲い、Khe Panjangの式の下で隠れていた華人をそこここで捕まえた。華人をPaninggaran地区へ避難させるために、彼らはオランダ軍によってふたたび追い払われた。約450人のオランダ人と800人の華人がこの第二波の攻撃で犠牲となった。

結末
大部分の歴史家はバタビアに住んでいた10,000人の華人が殺され、500人が重傷を負ったと記録している。600から700軒の華人の住宅が強奪にあって放火された。Vermeulenは無事だった華人は600人であったと記録しており、同時にインドネシアの歴史家のA.R.T. Kemasangは無事だった華人は3,000人であつたと記録している。インドネシア中国の歴史家Benny G. Setionoは500人の囚人と入院患者が殺され、無事だったのは3,431であったと記録している。この虐殺は、1741年のスマランでの虐殺とスラバヤとグレシックでの他のいくつかの虐殺を含め、ジャワ全土にける華人に対する虐殺の悲劇の時代に続いた。
この暴力行為を終わらせるための条件として、バタビアの華人を全員バタビア市外のゲットー(Pecianan 現在のGlodok)に移住させることがあげられた。これはオランダ人が華人を監督するのにたやすい方法であった。ゲットーを出るためには華人は特別な切符が必要だった。しかしながら1743年に数百の華人商人がバタビアの町の中で場所を占めていた。Khe Panjangに率いられた他の華人は中部ジャワに移住し、そこで彼らはいくつかのオランダの交易点を襲撃し、Sultan Mataram Pakubuwana II率いる軍隊に入った。この戦いは1743年に終結したのだが、17年にわたるジャワの混乱が連続したのであった。

1740年12月6日にvan Imhoffと二人の議員が反動者というかどでValckenierの命令によって逮捕され、1741年1月13日に、異なった船でオランダに送還され、彼らは1741年9月19日にオランダに到着した。オランダで、van Imhoffは、バタビアの虐殺の引き金を引いたことと東インドの最新状況と評価と題した講演を11月24日に行い、Valckenier VOCの第一株主であるHeeren 17世を納得させた。この演説の影響としてvan Imhoffと二人の議員はすべての禁固刑から解放された。1742年10月27日にHersteller号で新総督としてvan Imhoffはバタビアに帰還した。彼がバタビアに着いたのは1743年5月26日であった。


一度オランダに帰国させられたが新総督となったVan Imhoff

Valckenierは1740年末で総督として交替を依頼され、1741年2月にvan Imhoffを交替者として昇進させることを命令する書簡を受け取った。他の資料では、1739年にコーヒーより多量の砂糖を輸出しVOCに大損害を与えたかどでHeeren18世がValckenierを交替させたともある。Valckenierがこの書簡を受け取った時、van Imhoffはオランダに向かう船の上であった。Valckenierはオランダ領インドを1741年11月6日に離れ、van Imhoffが戻ってくるまでの間Johannes Thedensを後任者として選んだ。1742年1月25に彼はケープタウンに上陸したが、Heern 17世の命令で逮捕されてHendrik Swellengrebel総督の厳しい取り調べを受けた。Valckenierは1742年8月にバタビアに送還され、バタビア城に幽閉され、三か月後に、バタビア狂暴に手を染めた県も含めていくつかの件で提訴された。1744年3月に彼は有罪であり死刑を宣告され、財産は没収された。1744年12月にValckenierは自己弁護のために長い釈明文を作ったあとこの事件の裁判が再度開かれた。Valckenierはより多くの証拠をオランダから取り寄せることを依頼したが、その取り調べ行われる前の1751年6月20日に獄死した。死刑は1755年に廃止された。VermeulenはValckenierの取り調べが公平に行われず、オランダ国民の怒りの引き金を引いたという説を唱えた。これは公式な表明であり、したがって1760年にValckenierのむすこであるAdriaan Isa?k Valckenierが725,000グルデンの補償を受け取ることになった。

以前はこの砂糖産業に従事していた華人が殺されたり行方不明になったりしたため、虐殺事件以降はバタビア地区の砂糖の生産が劇的に減少した。この産業が発展しはじめたのはvan Imhoff総督がタンゲランを植民地化した後からであった。その初期に彼はオランダ出身者にそこで農業をさせようという意図を持ち、既にバタビアにいるオランダ人はなまけものであるという意見を持っていた。しかしながら東インドの税金が極めて高かったため彼は新しい人たちを引っ張り込むことができなかったので、バタビアにあった土地をオランダ人に売らざるを得なかった。この土地の新しい所有者はこの土地で働くことを望まなかったので、華人のその土地を賃貸した。その後生産は上がったが1760年代の十年間になってようやく1740年と同じレベルに達したのであった。その後、生産量は再び減少した。製糖工場の総数も減少した。1710年には131か所あったが1750年にはその総計はたった66か所になってしまったのだった。



事件の影響

Vermeulenはこの虐殺を、18世紀に最も突出したオランダ植民地主義の中の事件の一つであると述べている。W. W. Dharmowijonoは、この虐殺がオランダ文学の中で大きな役割をしていると述べている。この文系作品は直ちに現れた。Dharmowijonoが記録しているのは、この虐殺を非難したWillem van Haren策の詩(1742年)であり、華人を非難している同時期の作者不明の詩である。Rafflesは1830年にオランダの歴史記録は「完璧さからほど遠く満足できるものではない」という注釈を書いている。
オランダ出身の歴史家Leonard Bluss?はバタビアの狂暴は間接的に大きく繁栄させたが、20世紀に至るまで感じさせる華人とプレブミとの間の抗争の火種を作ってしまったと書いている。同世紀にAbdur Rahmanがこの大量殺人事件をバンジャル語でHemopという詩にした。この虐殺はジャカルタのいくつかの地域の地名の下になっているかもしれない。Tanah Abang(赤い土の意味)という名の語源の一つとしてこの地域はここで殺された華人たちの地域にちなんだものであるということがあり、van Ho?vellはこの名前は、虐殺から生き延びた華人がいち早く恩赦を受けられるように提案されたものという説を唱えている。Rawa Bangkeの地名は多数の華人がそこで殺されたのでたぶんbangkai(死体)という語からきているのだろう。地名の語源は西ジャカルタ市のTambora町Angkeで提示したことがあるものと同じてある。 (終)


以下は注釈

スリランカ Zeylan
Zeylanはオランダ領のセイロンで、その首都はコロンボにあった。
確かにコロンボ市内にはSlave Islandという場所があり、昔そこは大きな湖に浮かぶ島であった。ここで、世界中から集めた奴隷を集積して送り出す施設であったようである。
奴隷島という駅名はあまりにひどいので、現在はKompanna Vidiyaという駅名になっている。

Slave Island 駅舎 (2013/12/08)

Slave Island 上り列車入線 (2013/12/08)

Slave Island 下り列車を待つ人たち (2013/12/08)

Slave Island駅前の景

参考資料
トーキング・マイノリティ バタヴィアの狂暴−華僑への虐殺
トーキング・マイノリティ 塗り込めた首-日本人が見た戦前のジャカルタ そのA

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2015-07-16 作成 

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