嗚呼、インドネシア
サルタン・デリ宮殿 (Palace of Sultan Deli Medan)

 2014年6月8日。忙しい出張の間の日曜日に北スマトラ州の州都メダンにあるサルタン・デリ宮殿を訪問してきた。
 北スマトラ州というとどうしても歌が上手で軍人が多いバタック人を想像してしまうが、歴史的に見るとこの地域はスマトラ東海岸沿いに住むマレー系の人たちも多い。彼らが話している言葉を聞くとインドネシア語をマレー語のアクセントがどうも気になってしまうのである。

 古代から中世にかけてマレー系の人達は交易民としてスマトラ島の東海岸の中部から北部にかけてと対岸のマレー半島で活躍しており、スリウィジャヤ王国がマジャパヒト王国に滅ぼされた後、ムラユ王国を復興して栄えていた。
10世紀頃には現在のアチェ州南部までその版図を広げていて、スマトラという名前の元になったサムドラ・パサイ王国も彼らの国であった。この中心地であったロクスマウェには有名なイスラム学校があり、インドネシアにイスラムを普及するための教育がなされていた。このサムドウラ・パサイの都の遺跡については近いうちに訪問してこのサイトに報告する。

 このページでは、メダン市内に位置し現在は博物館になっているサルタン・デリ宮殿を同地で購入したパンフレットを元に紹介する。

パンフレット表紙


入場券
ムラユデリ王国史短観
6世紀に現在のSungai Lalang Delitua地方に位置するARU王国と名付けられた王国が建国された。1612年にはアチェの王族の末裔であるHisyamuddin将軍とSulkarnaeni Bahasid Syekh Batraluddin Hidustanに率いられた軍隊ととShindi Hidustan国の連合軍に屈服させられた。
最終的に彼はSungai Lalang地方に拠点を置く東スマトラ地方の属国の王としてとしてアチェ王国のSultan Iskandar Mudaが昇進させ、Gocah Pahlawanの称号を与えられた。
1 Gocah Pahlawan候 (Tuanku Panglima Gocah Pahlawan)
時代と状況の変化に影響されて1632年にアチェ王国はDeli王国の建国を決定し、Gocah Pahlawan将軍をTuanku Panglima Gocah Pahlawanの称号と共にDeli一世として王に昇進させ、同王は1696年に崩御した。
2 Parunggit候 (Tuanku Panglima Parunggit)
Deli二世王は1669年に治世を開始し現在のメダン市の平地に遷都した。Parunggit候は1698年に崩御しMarhum Kesawanという称号を贈られた。
3 Padrar候 (Tuanku Panglima Padrar)
Deli三世王は1698年から1728年までに治世をしいた。記録しておく必要があるのは、この四人の息子を持つ王が現在のPulo Brayan地方に遷都したことである。
4 Pasutan候 (Tuanku Panglima Pasutan)
Deli四世王は1728年から1761年まで治世をしいた。かれはLabuahn Deliに遷都すると共にDeli王国の原住民から構成されるSibayak-sibanyak族の族長の地位を確固たるものにするためにDatuk(准爵)の称号を与えた。この地位は族長4准爵(Datuk 4 suku)という名で知れ渡っている。この族長が治めた地域は次のとおりである。
●Sepuluh dua Kuta: Hamparan Perakとその周辺地域
●Serbanyaman: Sunggalとその周辺地域
●Senembah: Patumbak, Tajung Morawaとその周辺地域
●Sukapiring: Kampung Baruとメダン市周辺地域
5Gandar Wahid候 (Tuanku Panglima Gandar Wahid)
Deli五世王は1761年から1805年まで治世をしいた。同王の下で、上記の族長4准爵は住民の代表としてその位置がますます確定した。
6 Sulthan Amaluddin Mengedar Alam
Gandar Wahid王の三男であるこの王は1805年から1850年まで治世をしいた。同時代にはアチェ王国より(リアウ州にあった)Siak王国の影響と同国との関係が深く、これはDeli王国にスルタナンの称号が与えられたことに象徴される。
7 Sulthan Osman Perkasa Alamsyah
このサルタンは1850年から1858年まで治世をしいた。この期間にアチェ王国からの認証を受け、Bawarの剣とSembilanの印章を与えられ、デリ・サルタン王国は実に独立地域となった。これは、このデリ・サルタン王国におけるSiak王国の影響を減少させるための目的を持っていた。
8 Sulthan Mahmudal Rasyid Perkasa Alamsyah
このサルタンは1858年から1873年まで治世をしいた。この間にオランダ政府との関係を結び、これはデリ王国地域でのたばこのプランテーションの共同開発に認められる。
9 Sulthan Ma'mun Al rasyid Perkasa Alamsyah
若くして王に即位したこのサルタンは1873年から1924年まで治世をしいた。同王の治世の間、たばこの生産はますます進み、デリ・スルタン王国は繁栄の頂点に達した。同王はMedanに遷都しMaimoon宮殿を建てた。この宮殿は1888年8月26日に起工し、1891年5月18日に落成した。Maimoon宮殿以外に、治世の間につぎの建築物を建てた。
●Raya Al Mashunモスク: 1906年に起工し、1909年9月10日に落成した。
●1906年には現在Deli Serdang県の県庁であった、Ma'mun Al Rasyid Alamsyah政府の裁判所として機能した事務所を建設し、これは1913年5月5日に落成した。
●さらに、同王は国民の発展のために公共施設を多数建設し、当時のSyiar Agama Islamにとって必要な地方に二軒のモスクを建設した。
10 Sulthan Amaluddin Al Sani Perkasa Alamsyah
治世は1924年から1945年までであった。同期間に外国やインドネシア国内の他の王国との交易関係が良くなった。これは海の港湾施設の発展に見られる。
1945年8月17日のインドネシア共和国の独立宣言をもって、インドネシア共和国の主権を認め、その後のサルタンはMelayu Deliの慣習と文化の最高守護者となった。
11 Suthan Osman Al Sani Perkasa Alam
Sulthan Amaluddin Al Sani Perkasa Alamsyahの長男で、1945年から1967年まで慣習の守護者であった。
12 Sulthan Azmi Perkasa Alam
Suthan Osman Al Sani Perkasa Alamの後継者で1967年から1998年まで慣習の最高守護者であった。
13 Sultan Otteman Mahmud Perkasa Alam (1998-2005)
14 Sultan Mahmud Lamantjiji Perkara Alam (2005-現在)

Maimoon周辺と建築物を含んだ考古学的調査
Maimoon 宮殿とその周辺
 Maimoon宮殿は、Polonia空港から約3km、Belwan港からは28kmで、メダン市メダンバル県のAur町に位置する生きた記念物である先祖からの文化遺産の一つである。この建物は217m x 200mの土地の上に建てられており、約1mの高さの鉄のフェンスで囲まれており、東向きに建てられている。この西側にはDeli川が流れ、一方南側には商店と住宅の建物が見られる。その北側はTajung Meriam通りが境となっており、その前はメダン市の大通りの一つであるBrigjen Katamsoに面している。
常にモスクとつながっている前時代のイスラム王国の建築と同様に、Maimoon宮殿の約100m前に王国のモスクとして機能していたMesjid Al Masunがある。
 このモスクはMesjid Raya Medan (メダン大モスク)として知られており、昔日におけるインドネシアのイスラム王国の最も美しいモスクの一つであり、中東、インドさらにはヨーロッパの建築様式が見られる。Mesjid Raya以外には、Sri Deli公園と現在はDeli Serdang県の県庁として機能している謁見場など、同時期に有力者によって建てられたMaimoon宮殿と歴史的な関係を有する数々の建物がある。
宮殿の広さは2772平方メートルであり、平面的に見ると、母屋と左翼と右翼の建物がある。
 母屋は前後に分かれており、全長75.3mで高さは14.4mである。船の竜骨をさかさまにしたような蹄鉄の様な形状の82本の石柱と43本の木柱でこの二階建ての建物は支えられている。屋根は尖ったピラミッド型とドームで形成されている一方、柾と銅板でできている。尖った屋根は母屋と左右の建物に見られる。三つのドームは入口に見られる。

Maimoon 宮殿全景 2014-06-08
 建築様式を全体的に見ると、屋根の形状は二層構造となっている。大理石でできている階段付の回廊を通って、左右にテラスを有する母屋に上がることができる。ヨーロッパ風な押し扉を通って、客間として機能している部屋に至る。昔はこの部屋でサルタンが公式な客と接見していたのである。客間の左右に小部屋がありここは以前サルタンの従者の作業場であった。竜骨のように曲がっている花模様と幾何学模様が一面に刻み込まれた扉を過ぎて、王の接見所として使われていた広さが412平方メートルを有する母屋の主室にはいる。この部屋は王の即位儀式やその他の慣習のために使われていた。この部屋の名前通り、サルタンの部下である支配者たちと接見する場であった。

以下、歴代サルタンの経歴が綿々とつづられているが、興味がないので割愛する。

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2002-04-28 作成
2015-02-27 修正
 

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