嗚呼、インドネシア
77話 インドネシア歴史散策

 この文章は元勤務先のOB会誌への投稿原稿だが、インドネシアに興味を持つ人たちにも参考として触れてほしいと思いここに掲示するものです。 ご意見ご指導などを一番下にあるメールアドレスに頂けたら幸いです。
 
 小学生の時分から歴史に興味を抱いていたが、仕事としては文系の歴史学より技術系の方がよさそうだと考え、技術コンサルタントの日本工営株式会社に入社したのは1972年であった。

 入社後五年目に初渡航でジャカルタ事務所に転勤し約二年間をそこで過ごした。この経験が人生観の基礎を成していると言ってよいだろう。薫陶を受けた諸先輩方に深い謝意を捧げる。
  インドネシアの地図を見ていて不思議に思うのは「〇〇カルタ(ジャワ語読みではクルト)」という地名が多いことだ。例えばジャヤカルタ(ジャカルタ)、プルワカルタ、プルウォクルト、スラカルタ、モジョクルトなどだ。カルタ(クルト)とはサンスクリット語で町を意味するジャヤカルタは「栄光の町」、プルウォクルトは「最初あるいは東の町」、スラカルタは「鮫の町」、モジョクルトは「マジャ(木の名前)の町」という意味だ。ちなみにスラバヤは「ワニと鮫」という意味だ。スラバヤ市のマークは左にあるようにワニとサメである。
 一方、クルトソノという町が東部ジャワにある。インドネシア語では修飾語が被修飾語の後に来るのが普通であり、クルトソノだけがこの文法に合致している。一方サンスクリット語はインドネシアの語とは反対に修飾語が被修飾語の前に立つ。即ち、ジャヤカルタなど、サンスクリット語の地名を使っていることから、インドとインドネシアは深い関係にあったのではないかとひそかに疑問を抱いていた。

最近読み終えたインドネシア語の歴史書でスラメット・ムルジャナ著「スリウィジャヤ」にはこうある。

 インドネシアの地名もサンスクリット語のみならずタミル語が語源のものが多い。古代インド人たちはその土地の名前を付けるのにそこの特産物の名前を使うのが一般的であった。ジャワ島の特産物が粟(サンスクリット語でyawa)であったので、彼らはジャワ島をYawaと名付けた。14世紀にyawaのyの音がjの音に変化し現在のJawaという名前になった。カリマンタン(Kalimantan)はKlemantanとも呼ばれていて、その語源はサンスクリット語のKalemanthana (kal[a]季節・時期、manthan[a]発火する)である。Kaleとmanthanaのaの音は発音の癖で無音になるから、KalemanthanaはKalmantanとなって現在の名前に落ち着いた。一方、マレーを意味するmalayaとmelayuの名前は同語源であり、これはサンスクリット語で丘を意味する。マラッカ海峡の北側ではもともとのmalayaという形を保持し、南側では発音が変化しmelayuとなった。インドのオリッサ州ではいまだMalayagiriという山があり、コモリン半島の近くにはMalayamという名前の山も存在する。この両者ともその原型はサンスクリット語のmalayaであることは明らかである。タミル語ではmalayaという語はmalaiと変わるが同じく「丘」を意味する。移住民たちが新しい土地の名前を呼ぶときには、かれらの元の居住地の名前を使うのは世界的な習慣である。さらに、新しい移住地と元の居住地の名前は似ている。このように、マレー半島は、インドからの移住者からは自然とMalayaと呼ばれるようになった。
 ジャワでも同様に仏教を持ち込んだ北インドからとヒンドゥー教を持ち込んだ南インドからの移住民がここで王国を建設したことは、上記のみならず碑文にはサンスクリット語とタミル語で書かれたものがあるので明らかである。

 2007年には東部ジャワ州のマランと中部ジャワ州のスラカルタ(ソロ)に連続出張し両方の町を鉄道で何度も往復した。

 両方の町のショッピングモールで現地の人たちを見比べると、マランの人の方が小柄で、かつ体つきも顔つきもインドシナの人達に似ており、スラカルタの人の方がインド系の顔立ちをしていて背が高い人が多いことに気付いた。後で知ったのだが、ジョグジャカルタの人もスラカルタと同じように背が高い人が多いのであった。このことからもジョグジャカルタ付近の人達はインドと深い関係があるのではないかと感じた。
 この年は主に東部ジャワ州にある22箇所のダム設備の劣化調査を行った。この六カ月間、調査のためにマランと現場との往復に東部ジャワ州の中を走り回っている時に、同年輩のインドネシア人の同僚からモジョクルトとジョンバンの中間に位置するマジャパヒトの遺跡を見学してくるように強く勧められ、マジャパヒトの都の遺跡であるトロウラン博物館を訪問した。その後も機会があるたびに数回この博物館と遺跡を訪問し、マジャパヒトの歴史に興味を抱くようになった。下はトロウラン遺跡の写真である。
 トロウラン遺跡と博物館に関しては詳しい報告がこちらにあります。

チャンディ・ブラフ Candi Brahu

バジャン・ラトゥ Bajang Ratu
 定年退職後、本屋でふと目に留まった「シュリヴィジャヤの謎」を読み、三十年来のシュリヴィジャヤ(インドネシア語ではスリウィジャヤ)研究家である著者の鈴木峻氏とも知りあいになった。同氏からスラメット・ムルジャナ著の「スリウィジャヤ」というインドネシア語で書かれた歴史書を勧められ、ここ三年間でようやく読み終えることができた。自分の興味を優先するならマジャパヒトの歴史書の読破が先であったが、なんの縁かスリウィジャヤについて先に勉強する羽目になってしまった。もちろんスリウィジャヤとジャワとは深くて長い関係があるので、この本が参考になることは言うまでもない。

 スリウィジャヤと聞けばすぐにパレンバンという地名を思い浮かべるだろう。いまだ、その都はフランスの歴史学者のジョルジュ・セデスが現在はパレンバン市内になってしまったサブキンキン付近であろうと述べていることが定説になっているが、パレンバンには上記のトロウランに匹敵するような大規模遺跡は見つかっていない。1930年にセデスの発表した論文Les inscriptions Malaises de Srivijaya「スリウィジャヤのマレー語碑文」では、物的証拠はないがスリウィジャヤの都はクドゥカンブキット碑文が発見された地域であろうとされている。
ところが、この説に反対する歴史学者も多々あり、ある学者はムアラ・ジャンビ、ある学者はムアラ・タクスであると主張している。これらは日本で言えば天平時代から室町時代の事であるから、文献が残っていそうなものであるが、インドネシアでは遠い過去の出来事を記録するものは石碑しか残っておらず、歴史情報は中国とアラブの歴史書や義浄が七世紀に書いた南海寄帰内法伝と大唐西域求法高僧伝などに頼るしかない。ちなみに、パレンバンは中国とインド間の航路からは離れすぎているので、スリウィジャヤの都はタイのチャイヤーあるいはマレーシアのケダーであろうと、上記の鈴木峻氏は主張している。
 中国の史書などでスリウィジャヤには「室利仏逝」と「三仏斉」と二通りの記載がある。室利仏逝はShih-li-fo-shiと読むからスリウィジャヤの直訳であることが分かる。一方、三仏斉はSan-fo-ts'iと読むのでその語源がはっきりしないが、スラメット・ムルジャナは、これはパレンバンもサンスクリット語のpalimbang(a)「端」が語源であるから、同様に「喜びに満ちた土地」という意味をもつサンスクリット語のSambhoginから変化してSan-fo-ts'iになったものであろうと述べている。

 ムアラ・タクスとムアラ・ジャンビはそれが建設された当時、大河の河口近くに位置していたが、現在までの約千年間に、河川が運搬した土砂の堆積により河口は約75km海側に伸びているという研究結果がある。この点を考慮すると、現在では河口から100km以上離れているパレンバンもその当時は海岸近くにあったのであろう。下の地図はパレンバン付近の標高を表した地図である。パレンバン市がある丘陵地帯を除けばほとんどが標高10m以下の海岸湿地であり、1000年前には浅い海であったことが容易に想像できる。

 ジャワ島にはボロブドゥールとプランバナン寺院遺跡があり、観光地となっている。この両寺院はジョグジャカルタ特別州の外に位置しており、前者は仏教寺院であり後者はヒンドゥー教寺院である。これらの寺院は付属寺院をともなった寺院群であり10世紀ころに完成したものと言われている。中部ジャワのテマングン(ウォノソボ町の近く)に王女プラモダワルダニが西暦824年に建立したジナラヤ廟もあることから、この当時は仏教とヒンドゥー教だけではなくジャイナ教もジャワに入り込んでいたらしい。
 ちなみに東部ジャワ州のカランカテスにあるガネッシャ像(下の写真)はその装飾に九つの頭蓋骨が多用されているので、今も続く仏教のカーラチャクラ派の仏像と思われる。このガネッシャ像に関してはこちらに詳しい説明があります。

 スマトラ島にも大規模な遺跡が三か所存在し、どれも仏教寺院の遺跡である。北スマトラ州にはパダン・ラワス、リアウ州にはムアラ・タクス、ジャンビ州にはムアラ・ジャンビがある。
 ジャワ島でも同様であるが、このどの遺跡もいつごろ建設されていつごろまで使われてきたかを確定できる資料が存在しない。それが歴史学者の妄想を掻き立ててきた理由になっている。

 ムアラ・タクスはリアウ州都のプカンバルの西約150kmにあるコタ・パンジャン貯水池の南岸の丘の上に位置しており、9世紀から11世紀頃に建設されたものと考えられている。ここはカンパルカナン川にタクス川が合流する地点であり、河川を主要交通路とした古代の町であったと考えられている。この遺跡は1860年に発見され、1880年に調査の手が入った。歴史家のモエンズは三仏斉の都はここに位置していたと主張した。下はムアラ・タクス遺跡の写真である。ムアラタクス訪問記はこちらにあります。

チャンディ・マハリガイ Candi Mahligai

チャンディ・トゥア Candi Tua
 この地点はマラッカ海峡に面するカンパル河口から約350km上流に位置し、寺院群がある丘の標高は約100mであり、川底は約60mであるので、河口からの垂直距離としては驚くほど高いというわけではない。現在でもカンパル河口は貿易港として栄えている。ちなみにカンパルとは「樟脳(カンファー)」の意味でこの地域の特産物で中国への朝貢品であった。
 このあたりは観光地化しておらず、ゴムのプランテーションが延々と続き、人家もほとんどなく、案内板も少ないので、旅行の際にはGPSを持参することをお勧めする。国道からの分岐点など詳しい緯度経度は上の訪問記をご覧ください。

 もう一つの大規模遺跡はジャンビ州のジャンビ市郊外に位置しているムアラ・ジャンビ遺跡である。この遺跡は9世紀から11世紀頃のムラユ王国の都と考えられており、バタンハリ (ハリ川)の下流域の自然堤防の上にある。バタンハリは西スマトラ州にその源を発しジャンビ州でマラッカ海峡に注ぐ大河で、日本工営が灌漑プロジェクトを行っていた地域の近くにダルマスラヤという古代都市があった。この河では現在でも砂金と翡翠を産出する。この遺跡は1823年に軍事測量を行っていた英国軍中尉がその発見の報告を行い、1975年に復元作業が開始された。下はムアラ・ジャンビ遺跡の写真である。

チャンディ・ティンギ Candi Tinggi

チャンディ・ケダトン Candi Kedaton
(パンフレットから拝借)
 バタンハリは古来より砂金を産し、それゆえこの地域のみならずスマトラ一帯もスヴァルナドゥィーパ(金の土地、義浄は「金洲」と述べている)とも呼ばれていた。その上流域の西スマトラ州内には砂金採取のために入り込んだアラブ人と中国人の文化がわずかに残っていると聞く。ここを都としたムラユ王国は砂金と貿易の中継港として長期間繁栄した。古代には河川が主要交通路であり、西スマトラ州でもタンジュン(岬)、プラウ(島)、ムアラ(港)という名がついた地名が多い。またスマトラでは結婚式には赤い衣装を身に着けることから中国文化の影響が残存していると思われる。
 西スマトラ州と聞くと敬虔なイスラム教徒をすぐに想起するが、千年以上前のこの地域の人達は大乗仏教徒であった。約千年前に回教がこの地域に入り、徐々にイスラム化していったのだが、現在でもイスラム化していない村落があると聞いている。


 このページに利用した図版はことわりのない限りすべて自作です。
上出のSlamet Muljana教授の歴史読本三部作の和訳はこちらに。
(1) Sriwijaya(スリヴィジャヤ王国史)
(2) Menuju Puncak Kemegahan (マジャパヒト王国史)
(3) Runtuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-negara Islam di Nusantara (マジャパヒト滅亡からオランダ支配まで)
 インドネシアに関しては「病膏肓」という言葉を思い出して苦笑せざるを得ない。

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2013-06-21作成
2015-03-23 修正
2016-08-30 追加修正
2016/09/10 修正
 

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