嗚呼、インドネシア
70話 インドネシアの島々の名前の由来

 今、Prof. Dr. Slamet Muljana著"Sriwijaya"を読んでいるところである。
 インドネシア語と歴史の専門家ではないから進み具合は遅々たるものであるが、毎日数ページを辞書を片手に精読して楽しんでいる。
この本の和訳はこちらに。
 

"Sriwijaya" by Prof. Dr. Slamet Muljana

 インドネシア語で書かれた本は一般的に言ってあまりまとまりがないのだが、この本は内容的にもきちんと整理されていて、誤解を防ぐように文章的にも工夫されている。インドネシア語の文章がこのように流麗に書ければ素晴らしいが、まずはお目にかからないのである。
 前置きはさてとして、本題に入ろう。
 カリマンタン・ボルネオ、ジャワ、マドゥラ島の名前の由来についてこの本の86ページ以降にこう記されている。

 ボルネオの名前は「ブルネイ」が源であることはすぐにわかるだろう。

 Bruneiの名は、G.T.M.Mc. Bryanの説によると、サンスクリット語のburni (行為・多忙)が語源だという。特にこれは「商業」と解釈するとある。著者はこの説には賛成できないので別な語源を調べてみたところ、Porunaiが変じてBruneiになったということが分かった。このPorunaiという呼び名はカリマンタンの西海岸地方ではいまだに使われている。

 このようにインドネシアの地名にはインドの諸言語で名付けられたものが多い。ちなみにマドゥラ(Madura)島の名前の由来はMathuraである。ブルネイ国の支配範囲は西海岸のサンバス(Sambas)からダト岬 (Tanjung Dato)まででその距離は700マイル(約1000km)に達し、東はサンダカン(Sandakan)川までであるとEast India GazetteerでHamiltonは述べている。T. Posewitzは著書の"Borneo: Its Geology and Mineral Resources (1892)"で、約50年前まではブルネイ国の支配がダト岬からシボチョ(Siboco)川まで及んでいたと記している。
 1812年までにラッフルズ卿にあてた報告書には、ボルネオ島はブルネイとスカダナ(Sukadana)、バンジャルマシン(Banjarmasin)の三つの王国に分割されていると書かれている。

 上記のようにブルネイ国は19世紀初頭広い地域を支配していた。ハミルトンによると、ブルネイはヨーロッパの白人が初めて訪問したカリマンタンの王国であったとのこと。それゆえ、白人たちの間にブルネイという名前が他の王国の名前より最初に広まり、のちにはこの島全体を示す言葉になってしまった。しかし、原住民はこの島をPulo Klemantanと呼んでいた。ブルネイという名はポルトガル人の耳を通してBorneoとなまって西洋諸国に伝わってしまったのである。
 独立宣言後、インドネシアでは反植民地政策から地名を元に戻す努力が行われ、その中でこの島をKalimantanと呼ぶようになったのである。
 地名の語源については歴史学者たちの興味の範疇になかったようで、語源はあてずっぽうのものが多い。Kalimantanを現地人たちはKlemantanと呼んでいる。これには諸説があるので紹介しよう。
  1. Descriptive Dictionary of the Indian Island (1856)でCrowfurdは、Kalimantan原住民によってボルネオ島と名付けられたと言っている。Kalimantanとは現地語でマンゴーの一種を指すという。Kalimantanとはマンゴーの島という意味になる。この説はただの伝承の匂いがするとともに行きわたっている説ではないとCrawfurdは追記している。
  2. 2.M.B.R.A.S. vol XV part 3 page 79に掲載されている文章の中で、Dr. B. Ch Chhabraは、その土地の特産物の名前を地名とすることは古代インド人が通常的に行っていたことであり、その例としてサンスクリット語でYawaと呼ぶ「粟(あわ)」という名前がジャワ島につけられたと言っている。この説を敷衍するならばマンゴーの島はサンスクリット語でAmra-dwipaになってしまう。
  3. 3.C. HoseとMac Dougallは、カリマンタンのPagan族は、@海ダヤクあるいはイバン、Aカヤン(Kayan)人、Bケニャ(Kenya)人、Cクレマンタン(Klemantan)、DMurut、Eプナン(Punan)の6支族から構成されていると言っている。Klemantanとは一支族の名前なのである。Natural Man, a Record from Borneo (1926)中で、Klemantanというのは新しい名前であり、マレー人たちが島全体を呼ぶのに使っていた言葉であると、C. Hoseは明言しているのである。
  4. 4.British Borneo journal M.B.R.A.S. (1889)でW.H. Treacherは、野生のマンゴーはカリマンタン北部では知られておらず、ボルネオ島はマンゴーの産地とはして知られたことがなかった、と述べている。同氏は次のように補足している。カリマンタンの語源はSago Islandではなかろうか。というのは、lamantahというのは現地語で、工場に持ち込む前の生のサゴでんぷんを意味するからだ。言いかえるなら、カリマンタンはマンゴーの島を意味せず、Crawfurdの説を否定することになってしまったのである。
 カリマンタンという語はマレー語を語源とするものではなかろう。MalayaやMelayuと同様に別な言語からの借用語でそれを地名としたものであろう。この名前はインド起源であることは明確である。たぶん、Kalimantanも同様である。
 著者は次のように推測するのである。
 Klementanという名前はサンスクリット語のKalamanthana、すなわち「火が燃えだすくらい暑い島」というのが語源であろう。kalamantanaの二番目と最後のaは発音しないのでKalmantanに変化したものだろう。原住民の間ではKlemantanあるいはQuallamontanと発音されている。それがKalimantanに変化したものである。
2016-08-28追記
Slamet Muljanaの本の二冊目のMenuju ke Puncak Kemegahan(マジャパヒト王国史)の和訳はこちら
イスラム王国の勃興の本「ジャワヒンドゥー王国の衰退とインドネシアにおけるイスラム王国の勃興」(Runtuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara2 Islam di Nusantara)は2015年9月29日に読み終えた。和訳の電子版はこちらから。

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2010-12-15 作成
2015-03-06 修正
2016-08-28 追加訂正
2016-09-06 追加訂正
 

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