嗚呼、インドネシア
65話 インドネシアとスピリチュアル社会 

 
 最近、香山リカ著の「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」の題名に惹かれて、読んでみた。
 この本の著者である「香山リカ」はペンネームであり、本名は明かしていない。これから相当に怪しい人物であると疑うこともできるのである。
 日本人が科学的な思考法から神秘的な思考法に移行しつつあることを嘆いており、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏らに対して、やや「やっかみ」とも思える意見が豊富に述べられている。
 このページでは、上記の著書から引用して、インドネシアと比較しつつ筆者(度欲)の意見を述べたい。

 文中の青字部分は上記の著書からの抜書きである。

 序章 私の前世を見てください
 序章の主旨はこうである。
 精神科医である著者のもとに患者が訪れて「私の前世を見てください」とたびたび言われたことに関して、患者の言うことにも一理があると感じた。

 一理あると感じていても、著者はそれを理性で処理しきれず、その不満がこの著書に現れている。著者はアンチ・スピリチュアル派であると宣言もしている。また、このような社会問題に対し、日本国内だけを視野に入れているだけで、残念ながら世界的潮流を視野に入れた現状分析に欠けている。文化人類学的、あるいは民俗学的な考察が必要である。さらに著者自身が指摘した問題の解決策に関しては何ら提言を行っていないことから、スピリチュアリストに比べて自分の所得がはるかに低いことが不満になり、スピリチュアリストに対して攻撃的な態度をとることになったのだろうとも邪推できるのである。

 20世紀フランス哲学にかぶれていた筆者は東洋的、中世オカルト的なものに違和感がありユング心理学を追及するのをやめてしまった。

 哲学とは人間が感じ取ったものの真髄のみを積み重ねて構築されるものである。肉や皮はそぎ落としてしまい骨だけになった「鶏ガラ」を考えればよい。鳥ガラをいくら観察しても生きている鶏のことはわからない。養老猛司氏いわくの「スルメを見てイカがわかるか」なのである。

 著者は2005年に臨床心理士の試験を受けた。その時の試験問題にユング心理学に関する問題がたくさん出題された。

 リカちゃんは哲学にかぶれていたおかげで、生きている鶏に関するユング心理学には嫌悪感を持っているのだろう。

 第1章 人は死んでも生き返る
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 従来の霊媒師たちは一般社会からはどこか「特殊な人」という目で見られ、慕われたり畏れられたりはしながらも、「怪しい人」「いかがわしい人」として敬遠されたりしたはずだ。ところが現代のスピリチュアリストたちの多くは、そういうダークなイメージはほとんど持っていない。
 スピリチュアリズムはいまやいかがわしいものでも後ろ暗いものでもなく、(中略)プロ野球やヒットチャートの話題を語るように明るく語るものになっているのだ。


 近代の日本社会においてはこの傾向がしばらくは見られなかったが、古代から江戸時代に至るまでこのような「特殊な人」は珍重され、人々の尊敬を集めていた。
 一方、インドネシアでは現在でも、これらの特殊な人=超能力者は多数存在し民衆からの尊敬を集めている。もちろんその中にはこのビジネスで大儲けしたひともいるが、大多数は細々と片手間で人生相談や疾病の治療などを行っているのが現実である。
34   林(真理子)氏の分析を受け入れるならば、スピリチュアルを信じるのは「柔軟さ」や「心の広さ」の証拠であり、それは「こども」「若者」「女性」の順番で備わっている、ということになる。

これは事実である。ただ、スピリチュアルを信じるというような原始的な感性は教育が進むにつれて理性で抑圧されるという事実をリカちゃんが理解していないだけなのである。腐っている食べ物でも賞味期限前ならリカちゃんはそれを食べるのだろうか?もしそうなら、常に理性が感性を抑圧しているのであり、この状態が続くと精神的ストレスがたまるから精神科に行って治療を受けることをお勧めする。
37   「オカルト」は「神秘的、超自然的な現象、あるいはそれを信じること」と定義されており、そこで扱う現象の中には、UFOや宇宙人、超能力、錬金術など、霊魂や死後の世界とは直接、関係ないものも含まれている。つまり「スピリチュアル」は「オカルト」の一分野といっても良いだろう。

 という説が成り立つのなら、「科学とは社会的に認知されたオカルトの一部である」という先学(ポパーだったか)の言葉を考え合わせると、スピリチュアルも社会的に認知されてきたので、「科学の一部になりつつある」ということがいえる。
 そもそも、共産主義が崩壊したのは「自然科学の手法が社会科学にもそのまま適用できる」という認識の過ちであった。知識が社会科学に偏っているリカちゃんは適用手法の過ちについて気が付いていないのであろう。
39   霊と交信することじたいが、スピリチュアリズムの目的ではないということだ。あくまで、それを用いて、今の自分について考える。しかも、自分が「なぜ生まれたのか」「生きている意味とは何か」「本当の幸福を得るためにはどうすればいいのか」といったことについて考える。それがスピリチュアルの目的だ。つまりそこにあるのは、一見哲学的な思想のようだが、実は圧倒的な自分中心主義であり、しかも「現世」中心主義なのだ。

 「この主義のどこが悪い」と「庶民」に開き直られたらリカちゃんには反論する余地があるのだろうか。リカちゃんは大学の医学部を出た社会のエリートであり、勉学にも相当の時間をつぎ込んだのだろう。だから、色々と考える力が付いたのである。人口の大多数を占めるのは「庶民」であり、リカちゃんに相談をしに来る人たちの大部分は「庶民」だ。庶民とエリートとは「考える力」において格段の差がある。勉学に励み、脳のトレーニングを十分に行ったリカちゃん自身と庶民を同列に考えて行動の評価することじたい、リカちゃんの能力を疑りたくなる所以だ。
 いままで日本社会ではそれほど目立たなかった、「圧倒的な自分中心主義」がはびこり始めているという指摘には同感の意を表する。他方、外国に目を向けるとそのほとんどの国の人たちはやはり基本的に「圧倒的な自分中心主義」なのである。インドネシアでもこう言えるのである。それゆえに宗教では利他行為を勧めているのであろう。スローガンというものはその民族の慣習とは逆の方向に人々を動かそうとするメッセージなのである。リカちゃんはあまりにも素晴らしい日本社会の温室育ちだったのでこの事実には気が付かなかったのだろう。

第2章 スピリチュアルのカリスマたち 
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 佳川奈未氏のもうひとつの特徴は「お金もうけ」を否定していないということだ。
 佳川氏が言うには、お金は「魂」を持っているものなので、お金を持つということは心が豊かになることであり、収入の増加は「潜在意識の法則や、波動やエネルギーワークの働き」で起こる。収入が多い人というのは、「心の中で豊かさを常に育んでいたからこそ、目に見える現実生活の上でもその姿を現したということ」だというのがなみちゃんの主張だ。


 「お金というものは実体のあるものである」とリカちゃんは考えているのだろうか。お金とは人間社会での約束事であり、「科学的にその存在が立証されたもの」とはすこし違うのである。通貨はインフレによってその価値が大幅に上下して毎日の食糧調達にも困難することがあるが、金の延べ棒なら、物価が上下しても食料との交換にそれほどの困難は伴わない。それは金の延べ棒という「リアルな存在」と食料という「リアルな存在」を交換することであり、現実と現実との等価交換になるからである。しかし「お金」とは人間が決めた「約束事」であるから「バーチャルな存在」であり、発行した銀行の信用状態によってその価値が大幅に異なる。
 こういうバーチャルな存在という意味ではお金に「魂」が宿っているという考え方はスピリチュアリストには受け入れられやすい。なみちゃんの主張をそのまま受け入れられはしないが、度欲は部分的に賛同できるのである。というのは、いくら理論武装をして難しい専門用語や理屈をこねまわして科学的説明をしても、最終受益者はその内容をほとんど理解できないので、それがどの程度ありがたいものかはわからない。それより、自分の説を多数の他人である「庶民」にわからせようとするなら、科学的に正しくなくともアナロジーなどを使って意思の伝達を図るのがコミュニケーションの基本であることは言うまでもない。
 なみちゃんは専門家が読む学術論文を書いているのではない。専門知識を持ち合わせていないシロートの庶民にむけてメッセージを発信しているのである。政治家の演説の中身を詮索して「内容が非科学的だ」と非難する方が非常識なのである。
53   あくまで、「お金をもうけたい」といういまの流れに乗っている人たちを、「それでいいのですよ」と肯定し正当化するようなスピリチュアルでなくては、広く受け入れられないのだ。

ここまで書かれると、リカちゃんも「お金を儲けたい」という流れに乗っているが、儲けの額がスピリチュアリストに比べるとけた違いに少ないので、ヤキモチを焼いているのではないかとも疑いたくなる。
73   現代のスピリチュアルの祈りの文句は「世界や全ての人類が幸せになりますように」ではなく、「私がより快適に暮らせますように」なのではないだろうか。自分がより快適な状態になることで、相対的に他者が不幸になることも可能性としてはあるのだが、ほとんどのスピリチュアル本ではそのあたりのフォローはされていない。

 「他人が不幸になる可能性」という指摘は確かにあたっている。
 しかし、幸不幸は社会的に決まった尺度で計れるものではなく、その物差しはすべて自分にあるのだから、良いように考えればそれでよいし、庶民にとってはそれについて哲学的に深く悩むことは無縁である。だからリカちゃんのように「エリート」とは呼ばれず「庶民」と呼ばれているのである。こういう人たち向けの本だから「そのあたりのフォロー」をする必要はないのである。
91   一般の人たちにもスピリチュアルを知ってもらうためには、まずそれが決して世俗からかけ離れたものではないこと、「現世利益」「個人の幸福」を追求するものでもあることを強調しなければならない。
しかし、それはあくまでスピリチュアルの入り口でしかなく、本当はその先にある「魂を磨くこと」「自分のためではなく他人の幸せのために何かをすること」を目指さねばならないのに、人はなかなかそこにむかこうとせずに、いつまでも「私のオーラは何色?どうすればもっとお金がもうかるの?」としか言わない。自分を世に広めた「オーラ」によって、今では逆に活動を妨げられている。それが、最近の江原氏なのではないだろうか。

 そうかもしれない。
 「現世利益」「個人の幸福」を追求するものでなければ、このぎすぎすしたストレス社会にいる誰が受け入れるのだろうか。居るわけがない。
 だってかれらは余裕のない「庶民」だから。

第4章 スピリチュアルで癒されたい 
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 スピリチュアル本でも、お金や恋愛といった具体的で現実的な話のあとに、「生まれた意味」や「存在の奇跡」といった大きなテーマが突然、出てくる場合が少なくない。
 佐藤氏(は)「奇跡」はこれから起こすものではなく「すでに起きている」ものであること、さらにはその「奇跡」は偶然ではなく必然であったり、自らが選んで起こしたものであるものとして書かれる。
 佐藤裕弓氏(は)(中略)「私たちは誰もがみな、無限の知恵と力を持った光輝く存在」だと強調するのだ。
 佳川奈未氏の本では、その「奇跡」を起こすための「魔法の力」はすでに誰にでも備わっているものであり、あとはそれに気づくかどうかだけの問題だ、と繰り返されているのである。

 「奇跡」とはなんだろう。稀にしか起きない事象である。とある事象を「奇跡」と呼ぶかどうかは個人の判断に任されており、科学的に分析・定義できるものではない。難病治療などで「奇跡」を起こせる人にとっては病状の好転や快癒は「奇跡」ではなく、「常識」なのである。そうでなければ病人が彼らのもとを訪れるわけがないからである。
 我々は日常すでに起きていることをトレースしているような気がしてならないのである。これを中国人は温故知新と呼んだのではないだろうか。
「私たちは誰もがみな、無限の知恵と力を持った光輝く存在」という説には賛同する。各人各々の才能を有している。それを社会で上手に利用した人が「成功者」と呼ばれている。これは数年前からはやっているSMAPの「世界に一つの花」という歌の歌詞にも如実に表れており、たくさんの人たちがうたっているのを聞いてリカちゃんは慄然としているのに違いない。
 「奇跡」を起こすための「魔法の力」はすでに誰にでも備わっているのであり、それに気づくか気づかないか、それを上手に利用しているかどうかが第三者から見た評価基準になっているのである。スピリチュアル派の人たちは「他人の目」ばかりを気にしているから、自分らしさがない、など とほざくのであるが、自分の能力に気づいていないだけである。
 インドネシアでも自分探しの旅に出ようとしている若者が多いと聞く。
102   つまり、スピリチュアルでは「生んでくれてありがとう」と生命を授けてくれた親への感謝をすすめながら、実はその親を選んで生まれてきたのは自分の意志なのだ、という、ともすれば逆説的な主張もされているのである。

 これはリカちゃんが反スピリチュアル派だから牽強付会しているだけで、論旨が破綻している。
 親を選んで母親の胎内に飛び込んでそれから約7か月間(脳幹の細胞ができるのは妊娠四週間といわれている)養ってくれ、激しい陣痛と共に出産して、そのあとには自分を犠牲にしても自分を育ててくれた親に感謝しないバカ者はいるだろうか。いるとすれば、嫌がる子どもに国立の医大に入れと無理強いする親を持つ子どもだけかもしれない。そして自分の子どもを持っていない大人の一部なのかもしれない。
105   (江原氏の)著作を読んだ信田氏は「アダルトチルドレンの逆バージョン」と感じたという。「ACの逆バージョン」とはなにか。『江原啓之のスピリチュアル子育て』という本に関する信田氏の分析から引用しよう。
 子供が生まれたのは子供の選択によってであり、選択責任は子どもにある、と江原氏は述べる。しかも選ばれた責任が親に発生するとは書いていない。読者である親たちも自分の親を選んだことになるのだが、その点には触れていない。あくまでも育児書だから、その点は不問に付すことができる仕組みになっているのである。


 親が子どもに責任を持つのは数万年前からのホモサピエンスのDNAにすりこまれた本能であり、特に書く必要がないからである。
 親がその親を選んだことについて、育児書だから不問に付しているのではない。選択責任が子どもにあるという文章を肯定するならば、自分たちも自己責任でその親を選んだということが自動的にわかるからである。何度も言うがこれらのスピリチュアル本は学術論文ではない。学者先生たちよりはるかに知識が劣り知能指数も低い庶民向けであることを忘れてはならない。それを忘れて、リカちゃんたちは出刃包丁でシラスを三枚に下ろそうとしているようなのである。
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 飯田氏は、スピリチュアルなひとつの仮説を紹介したあと、それを実際の人生にどう応用するかを解説する。『生きがいの創造』
人生で直面する全ての事象には意味や価値があり、全ての体験は、予定通りに順調な学びの過程なのである(という)仮説を人生を前向きに生きるための道具として活用すれば、全ての責任を自分に求めることによって、(中略)「すべてのことは、自分のために起きている、順調な出来事なのだ」という、安堵感・納得感を得ることができます。

  読者が本当にこの通りに生きたとしたら、(中略)権力にとっては、何があっても異議申し立てしない御しやすい人になってしまうのではないだろうか、と心配したくもなる。


 「小さな親切、大きなお世話」である。科学という名の権力に盲従する賢い学者とは異なり、少々愚かで本能に従いやすい民衆はその行きすぎを止める本能も持ち合わせているのである。そんな心配をする暇があるなら学校教育の崩壊を止める手立てを学者たちで考えたらどうか、と詰め寄りたくなる。
 この文章で飯田氏が言いたかったのは「安堵感・納得感を得ることができる」ということだ。学者先生たちのように色々と深く考えを巡らせることのできない「庶民」にとって、これらの会得は平穏な日常生活を送る上で必要不可欠な精神状態を保つ一つの方法である。
 そもそも科学とは人間の生活を幸せにするものである。自然科学の発展は技術革新などを通じて人類の進化に大きく貢献してきたのである。しかし、ここ10年間に自然科学による人類の進化は行き詰まりを生じ、環境問題などを引き起こしてきた。頼りになるかならないかわからない理解困難な科学より、ひとことこう言われたほうがどれほど安堵感をもたらすだろうか。
109   江原氏はよく、「因果の法則」という自ら作った法則を引きながら、「すべての出来事は自己責任によって起こるということを認識しなさい」というが、これは「人の悪口を言えば、必ず自分も言われる」といった程度のことで、苦難の人生さえ自分の意思で選択したという意味での自己責任ではないことも付け加えておこう。

 わざわざこんなきついことを言うより、黙っていて相手に悟らせる方が有効であるし、厳しいことを言わないほうが人気取りには良いということが分かっているからだとおもう。
109  信田氏は、高学歴の働く女性の悩みは「自信をつける方法は?」「自己肯定感を高める方法は?」「前向き思考になれる方法は?」の三つに分類され、さらに言えばそれらは「すべて自分に跳ね返って来るように構成された内向きな問い」と集約されることが分かったそうだ。

 「高学歴の働く女性」と指摘しているが、中・低学歴の女性は相談に来ないのだろうか。
 働く女性の過半数は高学歴の持ち主である。信田氏はなぜわざわざ「高学歴の働く女性」と指摘したのだろうか。不思議である。
111  フェミニズム・カウンセリングと呼ばれる分野で(は)、女性が抱えている問題は、すべてその個人や内面に限定された問題ではなく、「女性であること」が生む社会的、政治的問題に還元されるのだ、という観点でカウンセリングを進めていく。女性が長い間(中略)「私が悪いからこんな目にあっているんだ」「ひどい仕打ちを受けるのは私がちゃんとしていないからだ」と思い込んできた問題が、実は女性全体の地位や処遇、あるいはその社会の価値観と直接、関係した問題であることも明らかになり、それで救われた女性も大勢いる。

 救われた女性がたくさんいたことは認めるが、それで救われなかった女性や軽度の症状の人も含み、大量に発生した患者がスピリチュアルに走るのではないだろうか。
 インドネシアではどの地域に行ってもスピリチュアリストが存在し、真面目にあるいは不真面目にカウンセリングに従事している。ただ、インドネシアの場合、スピリチュアリストは副業として行っている場合が多い。
 さらに下剋上や立身出世が一般的である日本とは異なり、階級社会で構成されているインドネシアでは、出世意欲がないため、いきおい「惚れ魔術」や「金集め」の呪術が多くなるのだろう。
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 ところが状況は再び変わりつつある。「あなたの悩みは、社会的、政治的な次元の問題ですよ」といわれるのを望まない、あるいはそう言われても解放されない人が、増えているようなのだ。
 ふた昔前なら彼女たちは、「悪いのは女性を取り巻く社会の仕組みだ」と自分の問題の責任を社会に求めようとしたかもしれない。ひと昔前には、「悪いのは母親で。機能不全家族に生まれた私は犠牲者です」と親に加害責任を求めたはずだ。それがいまでは、「問題は共存依存を起こしている私にあるのです」と自ら申告しようとする。ここに至れば彼女たちは、もう社会や政治に責任を追及しようとも、親に抗議を申し立てようともしない。「私さえ変われば」問題は解決する、と信じているのだ。信田氏の言う「非歴史的な内向き志向」がここにも認められる。

 命の危険がなくなった平和な時代になるとこのような問題が起きるのだろう。江戸時代の初期にも同じようなことが起こったはずだが、当時は宗教と伝統の力が強くてこのような問題は顕在化しなかったのかもしれない。人間はスパイラルを描いて進化していくと言われるから、振り子がこちらに振れたあとは反対に振りもどすことになるだろう。ここ十数年間の変化だけを見て全体の傾向を言うことは短期的視野での評価と言わざるを得ない。
114   (「努力しても報われない人」に関して)これから四十年も五十年も続くと思われる低生活水準の人生を「自己責任だ」と引き受けることなど多くの人には不可能なのではないか。
 江原氏の読者中心層と思われる二十代から四十代の女性たちは、とかく内向き志向で自責的になりがちだが、自己責任ですべてを引き受けるほどの強さはなく、どこかで「悪いのはあなたじゃない」「そのままでいい」と、許され、受け入れられることも望んでいるひとたち、とまとめることもできるだろう。

 何度も言うように「これらのひとたち」は庶民であるゆえに、考え果て、悩み、絶望し、最後の手段として、許され、受け入れられることを望むのである。賢い学者と愚かな庶民とを同列で比較してはならないのである。
118   精神分析学者のウィニコットは、大勢の乳幼児を観察する過程で、生後六カ月から一年の子供が、特定のタオル、毛布やぬいぐるみなど軟らかくふわふわした対象に執着するという現象を発見した。
 そしてウィニコットは、このぬいぐるみや毛布などは、自分と母親だけの閉じた関係、内的な世界から、第三者がある外的世界へ出ていく途中の中間領域に存在する特殊なものなのだ、と考えるようになり、それに「移行対象」という名前をつけた。


 リカちゃんは外形からこの「移行対象」の条件が江原氏にあてはまると考えたのだろう。本文ではこのあと江原氏が登場するまでの伏線があまりに長く、ところどころ脱線気味な部分があることからして、論文編集中に、伏線部を足したものと思われる。
 インドネシア人もしばしば同じように脱線気味の文章を書く。直前の文と論旨がつながらないことが多い。翻訳家はさぞかし大変だろうと思われる。筆者はインドネシア語の翻訳家だけにはなりたくないものである。
124  イヌやネコが突然、宙に向かって鳴いたり吠えたりするというのは、動物を飼ったことのある人ならだれでも経験したことがある現象のはずだ。「こういうときは霊が見えているんだって」と古くからよく言われてきたが、江原氏はそれが迷信ではなく事実だと認めているのだ。

 これは迷信ではなく、事実だと度欲も認める。インドネシアでもチチャ(cicak)がキキキキと大きな声で鳴く時は霊が近付いているといわれている。チチャが鳴いた瞬間に周辺を調べてみるとやはり強い霊が近くを漂っている場合がほとんどであった。浮遊霊が漂っているとその空中の部分だけに磁場などに異常が発生するようであり、それを動物は感知しているのだろう。また人間でも言葉で意思を伝えることができない幼少期には霊などに対して敏感であることがわかっている。また、空腹でもおしめが濡れていたり、発熱もしていないのに乳児が泣きわめくことがあることは子育てをした人なら知っている。こういう時にも霊が近付いているのである。
 ただし、霊を見つけるための社会的に認知された科学的センサーがないので、幼少期の敏感性を調べることはできないのが現状である。
 盲目の人に色の説明を的確にできるだろうか、というアナロジーで反対意見を締めくくることにしよう。
125   しかし、江原氏が持つ霊視という特殊な能力を、なぜどこにでもいるネコが自然に備えているのかについて詳しく語っているものは、見つけられなかった。

 これは動物や乳児には備わっている本能だが、言葉をしゃべれるようになると、教育などで人間はその能力を退化させてしまう。大体三歳くらいがその境であるように思われる。しかし、その能力は普通は潜在能力として残存しており、何かの機会に花開くことがある。江原氏のように大人になるまでその能力が継続しているケースは珍しい。だから筆者のようなエンジニアではなくスピリチュアルカウンセラーの道をとったのだろう。
 江原氏をテレビで見ていると、登場するたびに内臓諸器官に見える病巣の位置が移動していたり、消滅したりしているのがわかる。多分相談者からの病気の転移が行われたのであろう。
125   もちろん、「超越世界だと思っていたところは実は、外的世界より内側の中間領域で、守護霊、オーラ、前世、臨死体験などは現代人にとっての新しい移行対象である」などといえば、スピリチュアルを信奉する人は激しく抵抗するであろう。

 リカちゃんは常に「上から目線」でかれらを見ているからこう思うだけなのであろう。
 こんなことを学者がいくらまくしたてても、誰が救われるであろうか?庶民=大衆が求めているのは、理屈ではなくその理論を実践したうえでの「すくい」なのである。リカちゃんは理屈をあげつらってあーだこーだというだろうが、悩みというもの自体主観的なものであり、科学では処理しにくい材料であることはいうまでもない。絶対的な客観というものは存在しない。すべては主観なのである。「客観的」とはそれが客観的だと理解しているリカちゃんの脳が発している主観的見解にすぎない。少しは養老猛司氏の本でも読むことをお勧めする。
 筆者はどちらかといえばスピリチュアリストであるが、移行対象も江原氏も不要であるし、それ以上にリカちゃんのような下向き目線の精神科医はごめんこうむる。

第5章 スピリチュアルちょい批判 
135   生物学者の池田清彦氏著『科学とオカルト-際限なき「コントロール願望」のゆくえ』にはこうある。
オカルトで『かけがえのない私』を実現する方法は、大きく分けて二つある。一つは普通の人が持っていない「超能力」を獲得して特別な人になること。もうひとつは、普通の人にはできない特殊な経験をして特別な人になること。日本でオカルトを信じる人の多くは前者のタイプのようである。その典型はオウム真理教の信者であろう。

 「日本でオカルトを信じる人の多くは前者のタイプのようである」とあるが、インドネシアでも同じ傾向にある。ジャワ島の遺跡や聖地を訪ねてみると、その構内には必ずと言ってよいほど小さい小屋がしつらえてあり、そこで24時間断食をしつつ瞑想にふける。それを何回か繰り返すと超能力が授かると彼らは信じており、仏教徒、ヒンドゥー教徒はおろかキリスト教徒であれムスリムであれ、それを望む人はこの瞑想を行い超能力の獲得に挑戦している。彼らは超能力の獲得のみを目的にしているようで、獲得後の義務については無頓着のようだ。超能力を獲得したらそれを社会的に役に立てないと、その人の体に異常が生じたりすることが多く、自分の時間を割いてもやらなくてはならなくなることを忘れているようだ。
 日本とは異なり、インドネシアでは社会階層が固定していて、貧乏人の子供はやはり貧乏人というように生まれながら一生が決まっている場合がほとんどである。
 ただし、一旦、超能力を授かるとその人に対する人々の接遇が好転する。超能力者への尊敬の気持ちと、彼らが黒魔術をもちいて呪術をかけることに対する畏怖がその理由である。
 超能力者になりたいという願望が出てくるのは、社会が行き詰まりを見せて、「尋常な努力をしてもそれが報われない」と人々が考えるからだと思われる。日本でも1992年以来、経済発展が陰りを見せており、若い人たちの間に閉塞感が漂っているゆえに、スピリチュアルがはやっているということが言えるのである。
 オウム真理教でも殺傷は禁じられているが、彼らは大量殺人に走った。裁判では「尊師の指示に従った」と証言はしているものの、実際には弟子たちから麻原が持ち上げられ、瞑想のインストラクターから徐々に超能力者に祭り上げられ、ついにはその組織の「人口圧力シンドローム」であのような凶行に走ってしまったのではないだろうか。念のため、筆者はオウム真理教を嫌悪している、と追記しておく。
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 「私はこのために生まれた」という手ごたえがなければ、いくら豊かな生活を送っていても人生は無意味なものに思える。その答えを授けてもらえそう、となればどんなに優秀な人でもオウムのような"狂った集団"にもやすやすとはいってしまう。あの事件を通して私たちは"むなしさ病"を学習したはずだったのだ。
 私たちの選ぶべき道は、二つ。ひとつは、「私は何のために生まれたの?」と問う"むなしさ病"そのものが発病しないように手を打つこと。そしてもうひとつは、オウム真理教に代わる社会的に害のない受け皿を作ることだ。

 上に述べたように閉塞感が漂っている現在の日本社会では、いくら努力しても報われないという「むなしさ病」がはびこっている。インドネシアでも昔からほとんどの庶民がこの病気に「感染」している。
 著者が指摘しているように、日本ではオウム真理教に代わる社会的に害のない「受け皿」が存在しない。存在するのは既存の宗教のみであり、その主力の仏教は「受け皿」としてはほとんど活動していないと言ってよいだろう。一方、インドネシアでは既存の宗教、おもにイスラム、がしっかりと庶民の精神を制御していると言える。Kaum Eden (エデンの民)という新興宗教が育とうとした時に、権力はそれを抑え込むことに成功したのである。それはインドネシアの法律に則って行われたと聞く。開祖のLia Edenはイスラムとキリスト教の融合を図ろうとしたが、逮捕・有罪判決を受け現在服役中である
 インドネシアでは信仰の自由とはいいながらも新興宗教は受け入れられず、イスラム、カトリック、クリスチャン、仏教、ヒンドゥー教のどれかの信仰を持たなければならないことになっている。
 このように良かれ悪しかれインドネシアでは既存の宗教が庶民の精神的な糧になっているが、明治政府が実施した脱亜入欧政策により宗教離れが進んでしまった日本社会では、社会的に見て庶民を既存宗教に戻すことは困難である。
138   日本も世界を席巻する市場原理主義の波に呑み込まれ、オウム時代の「お金がいくらあっても幸せになれない」という価値観も、リアリティのないものになった。(中略)重要なことは、このように日本社会が変わったからといって、オウムの時に明るみに出た"むなしさ病"は決して消えたわけでも治癒したわけでもなかった、ということだ。(中略)「私って何のために生まれたの?」「私って"その他大勢"でしかないの?」という問いは、形を変えながら人々の中に根強く残った。

 貧乏で空腹にさいなまれていた時には、一日三度の食事が取れればそれで「幸せ」だったが、それが普通になると「さらなる幸せ」を求め続けることになった。
 オウム真理教が華やかりし時には日本は繁栄をつづけており、「飽食の時代」とまで言われていた。いくら贅沢しても幸せにはなれないことに気付いた日本人は、その価値観を物質から精神面、リアルからバーチャルに方向転換せざるを得なかった。このことは堺屋太一氏も指摘している。これこそ著者の言う「むなしさ病」であった。「むなしさ病」そのものは昔から存在したのだが、「うつむき加減の時代」になって「むなしさ病」が社会に蔓延するようになった。食べ物がなくて餓死するひとはいなくなったが、精神的に飢えている人たちが大量に発生した。かれらの飢えを満たすためにスピリチュアルが登場しそのビジネスが繁栄している。
●「私って何のために生まれたの?」という問いに対しては色々な答えがあるが、筆者の答えはこうである。
 人類の「種の保存」のために生まれてきたのだ、と。たとえ、その人に特技はなくともその人の何代か後に天才が生まれるかもしれない。そのために「種の保存」が必要なのだと。イヤな言い方をすれば、我々はDNAの乗り物にすぎないのであるから。
●「私ってその他大勢でしかないの?」にはこう答える。
 誰から見た「その他大勢なのか」と。自分は自分でしかなく、その自分を「その他大勢」と評価するのは第三者である。さらにはそう考えているのは「自分」である。だから、自分の考え方、価値観、を変えることでその人の人生観は全く変わるのである、と。この点において「上から目線」のリカちゃんとは大幅に立場が異なるのである。
139   そこに登場した救世主こそ、スピリチュアルであったのだ。「すべての出来事は偶然ではなくて必然」「あなたが生まれたのには意味がある」というそのメッセージは。実はオウム真理教の信者たちが尊師に言われたことと、何ら変わりはない。

 リカちゃんは相当に宗教音痴らしい。こんなことは数千年前から宗教が繰り返し説いてきたことである。あえて「尊師」の名前を持ち出すまでもない。リカちゃんは「私、宗教学者じゃないもん」と反論するかもしれないが、それなら、筆者だって「僕は技術者で、精神科の医者でも宗教学者でも、社会学者でもないもん!」と言ってあげよう。
141   自分で複雑な思考をするよりも、「白か黒か」と二者択一の選択肢を与えられて、そのどちらかを選びたい、という傾向は世界的なのかもしれない。

 「かもしれない」ではない。リカちゃんは海外生活の経験がないようだから、このようなあいまいな表現をしたのだろう。
 世界的傾向というよりも、世界の人たちのほとんどが自分で考えることより二者択一の方を選ぶだろう。だって簡単だから。特に中東の人たちにはこの傾向が強く、中東起源の宗教、特にイスラム、にその傾向が強く見られるのである。
 特にインドネシアでは「頭を使うより体を使う方が楽だ」という人たちが多い。庶民に考える時間を与えず自分の政策を進める方が政府にとっては楽であるし、庶民が考えようとする傾向を政府のもつ権威で抑圧することができるから、社会が停滞してしまうのだろう。
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 解離性障害とは、かつて多重人格と呼ばれた解離性同一性障害に代表されるように、本来は一つにまとまっているはずの心が、いくつにも小分けされてそれぞれが独立して機能しているような状態である。臨床的には、強い葛藤に直面して精神が崩壊する危機にさらされ、それを認めることが困難な場合に、その体験に関する意識の統合が失われ、知覚や記憶、自分が誰であり、どこにいるのかという認識などが、意識から切り離されることによって生じる場合が多い。
  90年代以降、この解離性障害を呈するケースが増えてきた。しかも、その原因となるような激しい葛藤や、それを引き起こす外傷体験と呼ばれるひどいできごとが見当たらない場合で、簡単に解離性障害を起こすケースも目立っている。

 「簡単に解離性障害を起こすケースも目立」つのは、脳の機能低下によるものではないだろうか。幼児期から、ある程度のストレスにさらされていれば、精神的にも強くなり、少々のストレスがかかってもびくともしない精神が構築されるはずであるが、このような症状を示す患者が急増したということは、日本人は精神的に弱くなっているということを意味しているのだろう。
144   この人たちは"イヤなできごと"に直面し、落ち込んだり腹を立てたり反省したりする手間よりも、それを心から切り離して、考えないようにしてしまうほうが、ずっと簡単でラクなのでそうしているのではないか、と思えるほどだ。すぐに起きる「解離」は、いまの世の中をあまり考えずにすいすいと泳いで開くための、ひとつの"生活の知恵"なのである。

 まさしく。同感である。
 インドネシアでも似たような兆候が数十年前から継続しており、日本社会よりも少なくとも10年は進んでいると思われる。勉強が嫌いで遊びまくっているから、嫌なことへの耐性が付かない。たとえば数学の点数が悪いから数学が嫌いになり勉強しない。ゆえに数学的な能力(概念を構築する力)が育たない。長じて、数学に限らず、数学的センスが必要な場面に出くわした時に解離性障害が出るのだろう。
 ただ、この「障害」の程度は絶対的な物差しによるものではなく、その社会で各々異なる。こう言っては根も葉もないが、インドネシアの人たちの過半数は「軽度な解離性障害」患者と認定してもよさそうである。だが彼らは社会でまともに生きている。それはインドネシアの社会がこのような「患者」に適応しているからである。この点で日本社会は世界的潮流に乗り遅れていると言っても良い。
148   大切なのは真偽ではなくて、それが「望ましい心理的影響」を与えるかどうか、なのだ。これをさらに発展させて考えれば、それがたとえ科学的には偽であっても、人の心を豊かにし、のぞましい影響を与えるならば、ある程度は大目に見ても良いではないか、という主張にもつながらないだろうか。

 もちろん、こういう主張につながることはいうまでもないが、それがどーした!である。
 このような主張は宗教が従来行ってきたものであり、科学がそれを否定しようとも、「人の心を豊かにし、のぞましい影響を与える」主張のほうに庶民はなびくことはいうまでもない。
 日本社会においては宗教が社会に及ぼす影響が極めて低い。スピリチュアリストは癒しを社会が求めている宗教に代る存在であるから、それはそれなりに存在価値はあるのである。
 リカちゃんがスピリチュアルを憎むのは、リカちゃんの商売敵という点に理由があるのだろう。
152  科学的正当性、科学的根拠に対するハードルの低下が、社会の中で起きている。つまり、完全なウソ、間違いと科学的証明されないかぎり、少なくとも科学者や科学にかかわった経験がある人が言ったことであれば、それは「ウソとは限らない」、さらには「正しいと考えてよい」ということだ。これは「目に見えないから、今の科学では実証できないから、といって、存在しないとは限らない」というスピリチュアルを正当化する考えと通じるものであろう。

 指摘されている「ハードルの低下」は確かに発生している。このようなバーチャル化はヨーロッパの中世に発生し、いまでも古文書にそれが散見できる。
 しかし、後半の文章はいささかいただけない。なぜなら、リカちゃんは科学の進歩は現在で止まっていると考えているからだ。「今の科学では実証できないから、といって、存在しないとは限らない」という表現はいたって正しいのである。将来、その現象が実証されるかもしれないからである。
 技術者の目から社会を見ていると、社会の変化は技術革新に負うところが多いという堺屋太一氏の主張に深く賛同できる。したがって、将来どのような技術革新でいままでわからなかったことが「科学の俎」に乗せられるようになるかはリカちゃんのみならず誰もわからないのである。
 卑近な例では、お化けを駆除するのに昔は祈祷に頼らざるを得なかったが、今では蛍光灯を点灯し続けることで、その磁力線でお化けを駆除できるようになったことも、蛍光灯の発明という一つの技術革新による成果とは言えないだろうか。
160  いまのところ、スピリチュアルなメッセージに代わる強烈なシンプルな救いを、規制の科学や哲学の中に求めるのは、かなりむずかしそうである。「だからスピリチュアルしかないのだ」と言い切ってよいのか。「いや、もうちょっとだけ待ってほしい」と言いたいところだが、「それしかない」と結論を出そうとする人は確実に増えている。

 いつまで「もうちょっとだけ待」てばいいのだろうか。具体的な提案もなしに「ちょっと待て」とはしょせん無理な話であり、リカちゃんの商売敵が栄えるばかりである。
 まあ、リカちゃんのヤキモチと焦燥は理解できるが、当分の間、態勢挽回は無理であろう。
 ストレスがたまったら、精神科医を訪れ、効果がなければスピリチュアリストのセラピーを受けることをお勧めする。
164   ジャーナリストのメアリー・ローチの『霊魂だけが知っている』では、「信じる」とはもはや、それが科学的に説明できるとか、できないとかには関係ない、半ば「気持ち」の問題になっている。

 「信じる」というのは科学ではなく信仰である。ただリカちゃんは「科学教の信徒」だから他の宗教に嫌悪感を持っているのだろう。たまには宗教の本でも読んだらどうかな。お勧めは、
(1) 「無 本当の強さ」本荘可宗著 ワニの本256
(2) 神とひとつになること」ニール・ドナルド・ウォルシュ著
(3) PHP研究所出版 ひろさちや著「仏教に学ぶ『がんばらない思想』」
 さらに「科学書」ではこんなものがお勧め。
(1) 視点を変える 複雑系の思考法 井上宏生+アーク・コミュニケーションズ著
(2) 「複雑系の知」田坂広志著 講談社
(3) カミとヒトとの解剖学 養老孟司著 法蔵館刊
(4) 「唯脳論」 養老孟司著 青土社刊
 一般教養として
(1) 風と炎と 堺屋太一著 産経新聞社刊
 リカちゃんは精神医学の本ばかり読んでいるから知識が偏っているのだろう。こういう異なる分野の本をたくさん読むことをお勧めする。

 第6章 あくなき内向き志向の果てに
174
  イスラム原理主義者といわれる彼らは、内向き志向、個人主義の現代日本のスピリチュアル派とは全く反対の存在、ということもできそうだ。

 とても興味ある指摘だ。確かに「イスラムの同志を救う」という点では指摘の通りだ。が、しかし、彼らの行動がイスラムのフィキ(行動規範書)にある条件に100%合致しているかどうかは極めて疑問なのである。
175   しかし、イスラム原理主義に限らず、宗教である以上、やはりどこかで「自分より他人」という利他主義的な教えを受け入れなければならない。あるいは、神の前ではすべての人は平等なので、ひとり自分だけが得をすることを戒め、手にした富を社会や弱者に再分配することを説く宗教も少なくない。「私」や「自分」にあくまでこだわるスピリチュアル派が、指導者たちが進める呪術的、宗教的な習慣はすんなり受け入れるのに、既成の宗教にはなかなか足を踏み入れない理由は、このあたりにあるのではないか。

 指摘の通りである。この部分には全面的に賛成できる。
 しかし、宗教上の教えの背景を考えてみなければ「教え」の本当の意味はわかってこないのである。リカちゃんはここいらへんも考えたのであろうか?たぶん"No"だろう。
 イスラムの聖典であるアル・クルアン(コーラン)を通読し内容を調査した結果、クルアンの内容は、食物禁い・入浴などの日々の生活上の教えに始まり、民法、商法、刑法、国際法などにも言及していることが分かった。内容もアラブ人の民族性や習慣を元に具体的に示されており、未開人を文明人に感化するためのすばらしい「マニュアル」である。さらには文芸作品のように音読すると素晴らしい詩にもなっていることが分かる。
 閑話休題。
 「教え」とは、人々がそれを日々実行していないから「教え」として実行させるものであることは自明の理である。すなわち、「他人より自分」だったり、富は偏在し、人間は不平等に生まれつくということが彼ら頭の中では前提になっているのである。だから、こういう考え方を少しでも払拭し社会を平和に安定化させるために「教え」が作られたといっても過言ではない。しかし、残念ながら、彼らはその教えを忠実に守っているとは到底思えない。
 既成の宗教に足を踏み入れない理由に、人間関係の希薄化がある。隣人や仲間と付き合っていかないと日々の生活にも困った時代は「自己」の範囲が仲間たちまで広がっていた。しかし、文明の都市化によって、人間間の協力関係が薄くなっても生きていける時代になった。いまや「自己」は自分と身近な人たちだけになってしまった。いわば、「『自己』の範囲の縮小化」が起こっているように思われる。しかし、それほど心配には及ばない。というのは、縮小化が極限まで進めば、あるいは今の文明が天災地変で破壊されれば、人間は仲間を必要とするゆえに「『自己』の範囲の拡大化」が起きるはずだからである。それが自然の摂理なのである。

 あとがき
190  「人間の心を精神病理学的に考察する」ということは、(中略)そういう症状や疾患が生じた背景や道筋を他の人と共有できる言葉で説明しようとする。それに比べて、スピリチュアルには「見える人には見える」「理屈はともかく、とにかく霊がそう告げているのだ」と言われれば、それ以上「ホント?」「なぜ?」と追及してはいけない雰囲気があるような気がして、そのあたりが苦手意識の原因の一つかもしれない。

 「他の人と共有できる言葉で説明しようとする」これが科学である。馬鹿でも飽きずにちゃんと勉強すればある程度はわかるようになるのが科学である。勉強して考える脳の機能のことを「理性」という。
 しかし、スピリチュアルは「感性」を重んじる。すなわち「芸術」のひとつなのかもしれない。考えてもみなさい。学者と芸術家が同じレベルで討論できるかを!脳の機能の特性が異なるから、同じ単語を聞いても両者は別な意味と理解するだろう。
 そもそも、精神医学者とスピリチュアリストを同列で比較すること自体が無理なのである。同列で比較するためには確定申告の課税額くらいしか指標にはならないだろう。

 「それ以上「ホント?」「なぜ?」と追及してはいけない雰囲気があるような気がして」とある。スピリチュアルを敵に回すなら、一旦スピリチュアリストになってみたらどうか。そうすれば、ハマる人とハマらない人の両方から考えることができるからだ。こういう方法もとらずに反スピリチュアル派を貫くなら、「メクラに色の説明はできない」と言わざるを得ない。ここでいうメクラとは「科学教」の信者のことである。

 最後にリカちゃんに念を押しておきたい。
 19〜20世紀に大きな発達を見せた自然科学の手法をそのまま社会科学に持ち込んだことが、共産主義の破綻を例とする社会科学の行き詰まりの大きな原因である。自然科学はリアル(現実)、社会科学はあくまでもバーチャルが主体であることをわすれて、大きな間違いをしでかし、数億人の人たちを貧困に追いやった。
 精神医の仕事は、そのほとんどが患者の悩みの解決につながるものだろう。それは「脳の機能の使い方」についてである、ひいてはバーチャル世界での「勝負」なのだ。それに自然科学の手法を適用してどうにか調理しようとする方がどうかしている。
 こういう人には「精神科医に行って相談してきなさい」といいたくなるのである。

(終)

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2010-03-23 作成
2015-03-06 修正
 

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